TRPG総合研究室 LOG 057

TRPG総合研究室の2000年11月13日から2000年11月20日までのログです。


2000年11月20日:09時32分55秒
【TRPGの定義】ここのところの議論の要点(?) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#ここのところの議論の要点、アタシ的観点から整理してみます。
#あくまでアタシなりの観点による、ひとつの整理にすぎません。

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範囲:
 まず、「ここのところ」の範囲。
 この整理では、次の範囲の議論でアタシに大筋と思える部分の要点をまとめてみます。
 
 「【RPGの定義】ゲーム中デザイン」 (Myrtさん記,TRPG総合研究室 LOG 053,2000年10月18日:11時09分11秒)、 以降今日までの「TRPG総合研究室」の関連議論を範囲とします。
 
 それ以前からも「【RPGの定義】序文:先験的に正統なものはない」  (匿名希・望さん記,TRPG総合研究室 LOG 052,2000年10月13日:16時15分03秒) 、の辺からの投稿が参考になると思います。(けれど整理の都合で今回の範囲からは外してます)
 
観点:
 このアタシ的整理は、アタシ的関心である「TRPGジャンルの一般的定義の詳細化」を中心にした「TRPGの定義」関連の整理です。
 この観点だと「ゲーム中デザイン」や「ルール改変的ゲーム」の議論は、「TRPGの定義」の各論と位置づけることもできます。それぞれに興味深い議論もあると思えるのですが、とりあえず今回の要点整理では重視されていません。

要点:「TRPGのセッション実態は、はコスティキャン定義の『ゲーム』だけでは構成されていない」
 TRPGのセッションで遊ばれる“ゲーム”は「コスティキャン定義のゲーム」だけではない、ってことがそれぞれの観点から検討されています。
 
 実はTRPG.NET、特に「総合研究室」では「TRPGのプレイにはキチンとした意味での最適解はない」ってことが随分前から言われています。「キチンとした最適解がない」ってことは、セッションでの“ゲーム”は、トータルでは「コスティキャン定義のゲーム」でもない、ってことです。(「ゲームの理論のゲーム」は、「非・情報完全公開型ゲーム」で「キチンとした最適解」があり得ないものについても扱おうとします)
 要するに「TRPGセッションでは『コスティキャン定義のゲーム』と他の性質の行為が複合してる」だから「トータルでは『コスティキャン定義のゲーム』にはならない」ってことなんですけど。
 
 そーゆーわけなので、「TRPGのセッション実態は、はコスティキャン定義の『ゲーム』だけでは構成されていない」は、だいぶ前からわかってたことではあるのですが。今回、では「コスティキャン定義以外のどんな要素がプレイに複合してるのか」の検討の糸口がついたのは、めでたいことと思われます。
 
 ここのところの議論を大別すると、TRPGのセッションで遊ばれる“ゲーム”は、「ゲームの性質が異なる複数種類の“ゲーム”が複合している」って意見と、「ゲームの性質が異なる複数種類の“ゲーム”だけでなくて、さらに“ゲーム”とも呼び難いやりとり・も・複合している」って意見とが混じって議論されれています。
 
要点(細目1):「TRPGの“ゲーム”はコスティキャン定義の『ゲーム』だけでは構成されていないない」
 このことを明瞭に示したのは、アキトくんの「開かれたシステム」です。しかし、アキトくんは「コスティキャン定義のゲーム以外にどんな性質の要素がTRPGセッションに複合しているか」について、今のところ関連議論では明瞭な意見は述べていません。
 
 アキトくんの「開かれたシステム」同様、明瞭に整理されてるのがSHiNさんの「【ゲーム中リソースデザイン】リソースデザインが行われる過程で存在する二つのタスク」 (SHiNさん記,TRPG総合研究室 LOG 055,2000年11月07日:16時13分08秒) 、です。
 ここでは、SHiNさんは「TRPGセッションには(少なくとも)『コスティキャン定義のゲーム』と“政治ゲーム”が混在していること」をそのメカニズムを整理して説明しています。
 
 もうひとつの見解は、匿名希・望さんの見解で、「TRPGセッションの目的は話をおもしろくするって“ゲーム”と『コステイキャン的ゲーム』が複合してる」って見解です。
 関連で匿名希さんは「フィギュアスケートや新体操の競技を“ゲーム”とみなせるなら『話をおもしろくするって』ことも“ゲーム”とみなせる」って見解も述べてます。この“ゲーム”は、「もちろん『コスティキャン的定義のゲーム』ではないが」と読んでよいはずです。
#「【TRPGの定義】コスティキャンとルール改変ゲーム」 (匿名希・望さん記,TRPG総合研究室 LOG 054,2000年11月01日:20時18分10秒) 
 
 Myrtさんは「コスティキャン的ゲーム」以外の要素を「馴れ合い」と呼んでいます。各論の方でいろいろ疑念が出されているようですが。
 Myrtさんの観点では「ゲーム」は、「コスティキャン的ゲーム」であるだけでなく同時に「PCをトークンとして扱い勝利に導く」ものでもありますので。そうした観点から観れば、TRPGセッションに含まれる、いろいろなコスティキャンゲーム以外の要素は「馴れ合い」に思えるものが多いでしょう。これはある意味当然と思われます。
 もちろんアタシは、別の観点でTRPGを捉えているので、Myrtさんが馴れ合いとみなすものでもそうは思わない事例にたくさん思いあたりますが。観点の相違とはそうしたものでしょう。
 別にMyrtさんはMyrtさん観点以外のTRPGの遊びかたを全否定してるわけではないと思えますので。これはMyrtさんが好きなTRPGの遊びかたタイプ中心の観点からのお話として理解されます。
#ついでに触れとくと、ゲームの理論の意思決定でも、コスティキャンの意思決定でも、「馬場講座」的な多層的意志決定では、「プレイヤー間で勝利目的が違う場合のゲーム」も扱えます。ですので、必ずしも勝敗を競わない「PCをトークンとして扱う政治ゲーム」も扱えます。(これは関連でSHiNさんが言ってる「政治ゲーム」とは別レベルでの「ゲーム」ですが)
 
要点(細目2):「TRPGセッションは“ゲーム”だけで構成されてるわけではないのではないか?」
 TRPGセッションには「あらゆる意味でのゲーム的意思決定とは、性質の違う行為選択・も・混在してる」って指摘もあります。(明瞭に指摘してるのはアタシだったりしますが)
 例えば「意思決定の種類(Re:言葉の定義等の確認)」 (アキトくん記,TRPG総合研究室 LOG 053,2000年10月23日:15時15分10秒)、で示唆されていると思われます。
 
 アキトくんは「『シナリオを進展させる意思決定』だけではなく、『物語をより良いものにする意思決定』といったものがあるかと思う」と指摘しています。
#アキトくんは「コスティキャン定義のゲーム以外にどんな性質の要素がTRPGセッションに複合しているか」について、今のところ関連議論では明瞭な意見は述べていません。
#とりあえず「『物語をより良いものにする』を(アキトくんは)は“ゲーム”とはみなしてはいない」、と解釈しました。この件、ご本人から異論が出れば修正します。
 
 ちなみにアタシは、後者(「物語をより良いものにする意思決定」)を「意思決定」ではなく「行為選択」と言い換えたほうがよい、と提案しています。(この件は、別に今の議論参加者の間で、特に合意が成り立ってるわけでもないようです)
#「[未定義のリソース【コメント】]意思決定・意志決定と行為選択」 (カンナ記,TRPG総合研究室 LOG 055,2000年11月02日:12時12分01秒)
 
 それから関連議論へのアタシのコメントも、概ねこの「TRPGセッションにはゲーム的意思決定と性質の違う行為選択も混在してる」の観点からのものです。
 
 アタシの見解を書いておくと「TRPGセッションには、1『コスティキャン定義のゲーム』、2『ゲームの理論のゲーム(でコスティキャン的ゲームで扱えないもの)』、3『法思想的なルール改変的ゲーム(でゲームの理論のゲームでも扱いきれないもの)』が混在し得る(場合によって、して構わない)」。
 それだけでなく、4「今のとこ“ゲーム”とは呼び難い性質のやりとり(物語内容を印象深くする行為選択)も混在し得る」、と思ってます。

 ただ混在してるだけではなく、開放系としての「ゲーム」(コスティキャン的ゲーム)に影響を及ぼすこと・も・あるとも思っています。アタシ的にはこの「開放系の『ゲーム』に影響を及ぼすこと」を「複合」と呼びたいと思います。
#「ルール改変」の概念、普通TRPGでゲーム中に許容されるのは、文字どおりの「改変」ではなく、補完や調整だろー。今のところそれも「改変」に含まれてて詳細検討は手付かず、とゆー点は要注意でしょう。
#「【ゲーム中デザイン】Re:Re:上位ルールの拘束」 (カンナ記,TRPG総合研究室 LOG 056,2000年11月13日:10時15分11秒) 、他。
 
補足:補足としてアタシ的意見(うえの整理方針を補足する意図で)
 アタシ的には、匿名希さん的な「話をおもしろくすること」は、“ゲーム”と言っても比ゆ的以上に扱うのは、ちょっとムリがあるのではないかな、と思ってます。
 匿名希さんの言う「フィギュアスケートや新体操の競技を“ゲーム”とみなせるなら『話をおもしろくするって』ことも“ゲーム”とみなせる」って観点も、アタシなりに理解してるつもりですけど。 
 
 では、「話をおもしろくすること」や「物語内容を印象深くする」ことが、「どうゆう性質のゲームか?」と考え様としてみます。評価尺度・判断基準・メカニズム(コミュニケーションメカニズム)などを考えると、“ゲーム”としては説明しづらい(どんな性質の“ゲーム”なのか整理しづらい)、ってゆーのが、今のところのアタシ的意見です。(フィギュアスケートの件にも意見があるのですが、ここでは触れません)
 
 アタシが思うに、それを“ゲーム”と呼ぶと、痴話げんかでもなんでも“ゲーム”と呼べてしまいかねない。
 第三者がいて「痴話げんかでどっちが、より悪かったか」を評価すれば、それ・も・“ゲーム”と言って言えないことはないです。
#匿名希さんも、「最初から意識してデザインされたもの」を“ゲーム”のルールとしてるようです。が「痴話げんか」の前提になる当事者間の人間関係のルールを「意識して作り出された開放系でルール改変的なゲームシステム」と理論上は言うこともできます(極論ですけど)。

 「『話をおもしろくするって』ことを“ゲーム”とみなす」観点は、それはそれで有効な話題もあると思うんです(実は「恋愛」に典型的な「誘惑のコミュニケーション」を「ルール改変ゲーム」の応用で整理しようとしてる言語学者は実在したり:笑)。けど、「TRPGのジャンル定義」の場合は、ちょっとマズいかもしれないな~(?)。ってゆーのが、今のアタシ的意見です。(匿名希さん的には深読みしすぎでしょうから、それはすいませんけど)
 
 ですのでアタシ的には「TRPGセッションにはいろいろな“ゲーム”だけでなく物語内容を印象深くするための表現・行為選択も混在している(開放系のゲームに複合すること・も・ある)」を前提にしています。
#この件は、匿名希さん的路線で「話をおもしろくすること“ゲーム”」の内容が明確化されたり、何かの限定が加えられればクリアされるかもしれません。(今はアタシは判断保留です)
#アタシ的には、「物語内容」の方向性や妥当性は、ワールドコンセプトとシステムコンセプトの解釈妥当性で評価される(論理的判断・だけ・では決定されない)。だから“ゲーム”とは呼び難い、と考えています。
#例えばテクストの「意味の決定不能状態」までは、文章論理で読解してくこともできますが。決定不能な項目の妥当性は最終的に解釈されるしかありません。これは言語を使った論理パズルですらありません(コスティキャンの小論には「あらゆるゲームはパズルの要素を含んでいる」と書かれていますが)

#TRPG.NETでも、「フォーセリア研究室」とか、「深淵雑談所」でよく「ワールドな妥当な解釈」と「解釈を妥当に運用するためのシナリオ発想法」みたいな話題が検討されてますよね。あーゆーのもTRPGならではの楽しみに含まれるし。そーゆーのを活用したシナリオやセッションも、TRPGらしさの内に含まれる、って見解なわけです。
#えーと、ここで言ってるのは、「ワールド的に意未決定不能なリソースをシナリオ上でゲーム前に定義しておくこと」ではありません。「PCにとって意味決定不能な条件が関わる状況で・にもかかわらず・PCが行為選択をしなくてはならないシナリオ」を考えています。
#もちろんそうしたシナリオでは、セッション中に解釈妥当性が検討追認されて、決定不能だった意味が仮に“定義”されても構いません(向いたシステム・シナリオと向いていないシステム・シナリオなどが条件になるはずなのですが)。それもTRPGならではの楽しみの内ですって意見なわけです。
 
まとめ(?): とりあえず、仮のまとめ
 ここのところの一連の議論では「コスティキャンのゲーム論」で提示されてる「ゲームの概念」が批判的検討対象として前提にされています。
 アタシ的観点では、大筋「コスティキャンのゲーム概念」をどこまでTRPGセッションの分析や評価に適用してよいか? って議論がされているのだと思えます。
 
 この件に関しては、アタシは個人的にはSHiNさんの示唆が妥当と判断しています。
>コスティキャンのゲーム論は、ゲームシステムの評価・分析を行うためのものである〔後略〕
 #「【TRPGの定義】ゲームとは人為的にシステム化されたものである」 (TRPG総合研究室 LOG 055,2000年11月07日:15時48分27秒)
 
 だから、セッションの実態、プレイングやマスタリングに含まれる「コスティキャン定義のゲーム」とは違う要素の性質が、あれこれ検討されることには意味があると思います。
 この要点整理は、その辺に重点を置いての整理でした。
 
これからの展望(?):展望とゆーか期待とゆーか
 まったくアタシ的期待にすぎませんが。

 TRPGジャンルのセッションの基本型に「コスティキャン定義以外の“ゲーム”」が混在していることは明白と思います。(もちろん、TRPG用のシステムを使って、メンバーが合意すればWSLG的な閉鎖系をしつらえて遊んだって、それは好き好きで構わないと思います)
 ですので、まず、どんな性質の“ゲーム”が混在しているのか、それぞれの「目的」、「目的達成の評価尺度」、「行為選択の判断基準」、「プレイ実態のメカニズム」が詳細化されるとよいように思います。
 ポイントは「どこがコスティキャン定義のゲームと違う性質か」でしょう。
 
 次いで、それぞれのゲームが相互に複合・影響しあうメカニズムも検討することができれば、なおよいように期待します。この辺では、非TRPGのゲーム性とどこが違うかも念頭におかれると「TRPGのジャンル定義の詳細化」としてはよいように思われます。
 「物語内容を印象深くする行為選択」については、ここでは意見保留にしておきます。とりあえず、関与が理論的に確認されればよいなぁ、とは個人的に期待してますが。

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2000年11月20日:09時13分36秒
【ゲーム中デザイン】Re:attachゲームと一本道 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@MyrtさんWrote (「【ゲーム中デザイン】attachゲームと一本道」,当掲示板,2000年11月16日:15時13分22秒)
>「開放と閉鎖のベストなバランス」を求めてさまよっております。
 
>Myrtさんへ
 実践論の話として意見を書きます。
 それは、システムに応じて「ゲーム前に」デザインしてしまえばよいのだと思いますよ。
 「ベストなバランス」は個別システムによって違って当然ですので。

 MyrtさんがGMされる、またはシナリオをつくられる場合は、使うシステムを評価して「ベストなバランス」をとればよいはずです。
 もしアレなら、それを事前に断わって、プレイヤーを集めればよいだけのことではないでしょうか(実践論としては、です)。
 
#いくつか極端例を挙げると分かり易いでしょうか。
例1)例えば、「深淵」では、「開放と閉鎖のベストなバランス」は、実際問題としては望めないと思います。
 なぜなら、それでは「夢歩き」ルールをまったく活用しないくらいにしないと万全ではないからです。(ほかにも「深淵」独特のワールド記述手法も理由に挙げられるのですが、ここではそちらにはふれません)
 「夢歩き」ルールは、多義的なリソースの解釈って意味でのゲーム中リソースデザインに、シンボル解釈を活用することで傾向制を与える言語システムです。象徴的な詩句の解釈を交わすでど、極めて<相互了解コミュニケーション>性が高くなるようにデザインされています。これにシンボル解釈以上の制限を加えることはシステムコンセプトに反すると判断されます。
#「夢歩き」を「GMによるシナリオの都合の暗示」に限定して使う方法もあるのですが。これはMyrtさん的観点からは「馴れ合い」になるはずです。
 
 それをするくらいならば、別のシステムで遊んだ方がよいはずです。
 
例2)多分「D&D」では(アタシは詳しくないですが、高レベルでのお話?)、セッション前にアラインメントの解釈内容をGMが宣言してプレイヤーの解釈を限定すべく、「セッション前に」メンバー間で意思統一するとか、そーゆー工夫をすれば、うまく「コスティキャン的」にも遊べるのではないでしょうか(?)。(大ザッパに言ってます、シナリオによってはアラインメントだけではなく、重要NPCの立場なども解釈限定する必要もあるのかもしれません)
 
例3)これが「央華封神」になると、アラインメントにあたる「洞統五戒」の解釈制限は事実上不可能ってくらい困難と思います。
 プレイヤーは五つの内から三つを選びPCに与えます。戒律自体が短文の型で物語内(ここで「物語内」とゆーのは「PC-NPC間で」くらいの意味です)でも知られています。ですので、ルール通りにキャラメイクした場合、三つの文章を複合させた場合の解釈をセッション中PCレベルで、プレイヤーに禁じようがありません。
 
 上の意見は、「ゲーム中リソースデザインをするに際して禁じようがない」の意味ですが。「央華封神」での洞統解釈はPC間での行為選択優先順位のズレ、や、敵役NPCと言える邪仙の行為の評価を左右する機能や、さらには物語中に登場する師匠によるPCの言動の評価指針にもなります。ですので、これの解釈をコスティキャン的に制限してくことは、ワールドコンセプトに著しく反する、と言えます。PC-PC間のやりとりや、PC-NPC間のやりとりで状況に応じた妥当な解釈を策定・追認していった方がシステムに即している、と判断されます。
#もし、7つの洞統各5から3つを選ぶコンビネーションの解釈限定を用意するのならば、シナリオに応じて、PCの洞統の部分はレディメイドにしたうえで、解釈限定をした方が実際的でしょうし。
#しかし、そこまでするくらいなら別のシステムで遊んだ方がよいはずです。言うまでもなく普通にキャラメイクするときプレイヤーは、能力値などを検討しながらイマジネーションを駆使しつつ、洞統も選択してくからです。
 
例4)「ウォー・ハンマーFRPG」でしたら、「PCは混沌と戦うべく運命付けられている」旨ルールのどっかにあったはずですので、それをキチンと使えれば、種族の性向についてのプレイヤー度解釈にある程度の幅があっても「コスティキャン的ゲーム」に近似のゲーム性に収束させて遊ぶマスタリング・も・できそうな気がします。
 
 もっと極端ではない例は、といえば、いくつもあるはずなので、いちいち挙げません。
 
 一般にTRPGセッションには「『コスティキャン定義のゲーム』以外の性質の“ゲーム”・も・混在する・だけ・とも言えますので。そちら(「以外の性質」の行為選択)を制限してけば「コスティキャン定義のゲーム」として遊べる(少なくともメインにして遊べる)はずです。その制限は一般論としては、「セッション前」にされるべきとは思われますが。

「ジョンとメリーが殺されました」的に、「セッション中での質問はYes/Noで応えられる形式に限る」を追加ルールにする。これは、実践で考えてもプレイアブルですし「TRPGを・より・ゲーム的に遊ぶ」にはよい工夫と思います。メンバー集めの段階で「こーゆールールを加味して遊ぶ」とすればよいと思います。
 さもなければ、セッション中の<相互了解コミュニケーション>を活用して、セッション中にリソースの再定義や追認をかさねてゆくしかないと思います。

 ただ「深淵」ですとこの追加ルールは「夢歩き」を機能不全になるでようからアタシはお勧めしません。

 「央華封神」ですと「今のPC行為はこのキャラの戒律に反するか?」「Yes/No」で処理してゆけるかもしれません。こっちはシナリオによるでしょう。「反するとは言い切れないけど抵触する(戒律が意味するものに対照的な意味に近い行為)」とか「A・Bの戒律、各単体には反しないけど、両戒律を複合させて読んだ時は疑問が生じる」とかいった場合には、「Yes/No」だけでは応えきれないことになります。
 これは、そうした事態が生じないよう限定したシナリオで遊ばれなくてはいけません。かつ、そうした事態が生じたら直ちにその行為選択はキャンセルです。そうすれば、「ジョンとメリーが殺されました」的に遊べます。
 またプレイヤーもGMも「今のPCの行動は戒律Aに反したか?」「No」、「では、戒律Aの対照意味は実現しているか?」「Yes」、といった独特のノウハウを開発してゆく必要もあるはずです。
 
 「開放系をあえて閉鎖するバランス」の見極め、一般化して言うと、ワールドコンセプトの妥当な解釈を持った方が、無理なく説得力のあるポイントをみつけられるはずとは家ます。システムの解析だけで「バランスポイント」を考えるのは危険と思います。
 また、もともとワールドに解釈の余地が少ないシステムは、「開放系をあえて閉鎖するバランスポイント」見出し易い、とも言えるでしょう。

追記・私信:
「【TRPGの定義】ボードゲームの定義」(当掲示板,myrtさん記,2000年11月13日:12時38分53秒)、でお話のあった「巨大な誤解」は了解しました。 アタシの方には言い訳(笑)とか、だったら誤解を了解したうえで、その先では(苦笑)、とかもあるんですけど。また、今度にします。
2000年11月20日:03時30分07秒
【ゲーム中デザイン】RPGに独特な信頼(なれあい) / Purple
 --- 2000年11月16日:15時40分17秒のmyrtさんの書き込み
 「上の話」とは、TRPGでのデザインには慣れあいが必要である、という話です。
 > そうだとして、上の話は、プレイ前にデザインしていようが、プレイ中に
 >デザインしていようが関係なく付きまとう話でしょう。
 「プレイ中にデザインしているときに慣れあいがつきまとう」ことには納得していただけますでしょうか??
 #例が不適切だったので、誤解の余地が生じている。
 --- 引用ここまで

 え〜とですねえ。
 「マスターは自分たちを楽しませようと思ってシナリオを作っている(デザインしている)はずだ。少なくとも自分たちを不快にするつもりで作ってはいないはずだ」とか、「「マスターは間違った知識(ルール、世界設定)で判定をおこなっていないはずだ。」という信頼はプレイヤーは持っていると思います。
 ただ、それらは決してRPGに特有の信頼ではないと思っています。その理由は 例えば、コンピューターゲームを買うときに「○○のメーカーが作ったものだから、面白いはずだ。」という信頼をするときと違わない信頼だと思うからです。

 以前にmyrtさんが次のような書き込みをしていました。
 --- 2000年11月09日:11時39分48秒のmyrtさんの書き込み
 すでに一度主張しましたが、これはTRPG独特です。なぜなら、一般の(特に記号記述可能な)「ゲーム」ではルールを守っている限り無茶をしてもゲーム内のバランスが保たれるようにデザインされているからです(ゲーム外の人間関係バランスが壊れる人はいる)。無茶されがちなオリンピック競技などは、偏執狂気味なまでにルールが設定されていることは広く知られています。
 --- 引用ここまで

 上の理由から「RPGにおける信頼が独特なものだ」と判断すること自体が間違っていると思います。

 例をあげましょう。将棋をしているとします。プレイヤーは2人とも全てのルールを遵守します。ただし、片方のプレイヤーは相手の王を取ろうとせずに駒を動かしてください。あるいは、サイコロなどを使ってランダムに選んだ駒をランダムな方向に動かしてください。
 上のようなことをすれば、ルールをどんなに守っていても、決してバランスは取れません。(将棋という遊び自体が成立していません。)

 さらにもう一例を示します。7人(A氏、B氏、・・・、G氏)でマルチプレイヤーゲームを遊んでいたとします。ルールは遵守します。ただゲーム開始時にA氏が次のように宣言したとします。
 「私は最近、最下位が続いているので、今日だけは最下位になりたくない。そこで、前回1位だったG氏を皆で攻撃し、G氏の最下位が決定したあと、残った6人で1位をめぐる戦いをしましょう。」
 この宣言を残りのプレイヤー(B〜F氏)が聞きいれた途端、バランスはとれなくなり、ゲームが成立しなくなります。(7人で遊ぶマルチゲームではなく、6人で遊ぶマルチゲームに変わってしまうというべきかな。)

 「○○を遊ぼうとする人は、○○を楽しもうとしているはずだ。」とか、「○○を楽しむためには、××を行なわないはずだ。」という信頼があることに、私は同意します。そしてmyrtさんのこれまでの例示がすべてこのレベルの信頼で片付いてしまう(と、私には思える)ため、「RPGに独特な信頼」と思えないのです。
2000年11月18日:04時44分49秒
【GMの主観的判断のもたらす影響】PLとPCの行動の自由を保つために / SHiN
 
(これは、一つ前の私の書き込み「公正と平等〜GMの公正さの限界〜 の続きですが、これ単独でもお読みいただけると思います。なんせ、前文が長文なため……)
 
 さて、GMが「公正さ」の名の元、その主観的判断を濫用する可能性や、それに対するPLの疑惑や懸念をなるべくセッションから排除したい、そうすることが本当の意味での「公正さ」につながると私が考えていることは前の投稿で既にお話しました。
 そして、この投稿では、結果としてそれが、「公正さ」より重要なものをセッションにもたらすことになるという事について説明します。
 
 この「公正さ」より重要なものとは何か?
 
 それは、PLとPCの行動の『自由』です。
 
 今回、「ゲーム中デザイン」「TRPGと他のゲームの差異」「GMのプレイヤー的側面」などについての一連の議論に積極的に参加されてた方の多くは「PLは、シナリオに沿った意思決定をせねばならない」という通念に疑問を感じてる人達だと思います。この通念が成立している遠因として、GMによるPLの行動に対する主観的評価、というものが存在すると思うのです。
 
 この通念を信じて疑わない人達は、時に、「シナリオに反した意思決定」を行う人達を「困ったちゃんプレイヤー」などという侮蔑をこめた表現で呼ぶ場合があります。それは、それらの行為がシナリオの進行を妨げたりするからだそうです。
 が、同じ人達が、シナリオの一本道的な展開に対し、批判を加えたりします。
 
 これは明らかな矛盾です。シナリオに反する展開を否定するくせにシナリオ通りに展開することも否定する。
 
 結局、かれらの言う「シナリオ」とは、明確な「ストーリー」の事ではなく、GMの想定内の展開、という曖昧なものなのです。
 ですから、彼らが「シナリオに沿った意思決定」を行うためには、GMがどの程度の「想定」を行っているかを推し量る必要があります。
 その基準となるのが、『GMによるプレイヤーの行動に対する主観的評価』、なわけです。
 もちろん、その評価は行動に対する「結果」で表現されます。だから逆に、有る行動に対し「良い結果」が得られなければ、それはシナリオに反した行為であったとPLは考えるわけです。(実際、GMの多くはこのPLの習性を利用してシナリオの「誘導」などを行うわけです)
 
 これが繰り返されていくと、プレイヤーは自らのキャラクターをロールプレイすることよりも、ゲームマスターの顔色を見ながらゲームを進めようとするようになります。また、その逆に、強引にGMの想定を広げて、自らの望む展開に持ち込もうとするプレイヤーも出始めます。私が以前否定的な見解を示した「最強のプレイヤーとはGMを味方につけたプレイヤーだ」という考え方は、こういう事を意味しているのです。
 
 確かに、そういう遊び方(プレイヤーとGM間の駆け引きを中心とした遊び方)もTRPGの遊び方の一つの形かもしれません。が、現在のTRPGシステムはそういう遊び方を前提としていないような気がします。逆にデメリットの方が多い、というのが私の見解です。
 
 で、こういうデメリットの多いプレイスタイルを是正するには、その原因である「GMの主観的評価」を排除すれば良い、というのが私の考えなのです。
 GMが主観的評価を行わなければ、PLにはGMがいかなる「想定」をしているのか判らなくなります。
 そうすれば、PLは自分自身の判断に集中せざるを得ません。そして、その判断の根幹に位置付けられるのは、当然、「自分のキャラクターの立場ならどうするか?」「自分のキャラクターをどのように行動させたいか?」という部分になるでしょう。そうすればプレや−は、ロールプレイとそれを通じた「意思決定」にもっと専念できるようになる、というのが、私の論理なのです。
 
 プレイヤーにGMのシナリオに設定された真の目標を悟られないこと……これがプレイヤーをロールプレイに集中させる最も良い方法であり、TRPGの特性や魅力を最も効率良く楽しむための手段なのではないだろうか、と言うのが、私の「経験論」による仮説です。
 
 そして、シナリオに設定された真の目標を達成するために努力するのはプレイヤーでなくGMであるべきだ、ということも。
 (プレイヤーには、PCのロールプレイを通じてプレイヤー自身の目標に向かって頑張ってもらえればそれで良い。キャラクターの立場や個性、それに対するプレイヤーの解釈が違えば目標も異なってくるのが当たり前であり、こうなるのは、マルチプレイヤーゲームで良く見られる単なる職業(クラス)を演じる<役割演技>でなく、TRPGならではの、立場や職業、そして性格などを含めた「人間の個性」そのものをロールプレイするという要素を導入した時点で決定づけられていたことだと言えます)
 
 そして、これらの裏付けを取って証明し、より効率的なマスタリングを行えるように再分析することが現在の私の「TRPG理論」の目標の一つでもあります。
 
 さらに遠謀としては、いつか私がどこかのセッションに参加する場合、私のマスタリングにプレイヤーがとまどったり、私自身が「困ったちゃんプレイヤー」呼ばわりされることなく、十分にTRPGを楽しめるように……です。
 
2000年11月18日:04時38分42秒
引用先の間違い / SHiN
私の2000年11月18日:04時30分28秒の投稿、
『【GMの主観的判断のもたらす影響】公正と平等〜GMの公正さの限界〜 / SHiN』における鍼原神無さんの発言の引用先を間違っていました。過去ログ56ではなく、TRPG総合研究室 LOG 055の、『2000年11月08日:01時26分15秒【ゲーム中リソースデザイン】Re:リソースデザインが行われる過程で存在する二つのタスク / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕』でした。
 
 出来れば修正お願いできますでしょうか?>sfさん
2000年11月18日:04時30分28秒
【GMの主観的判断のもたらす影響】公正と平等〜GMの公正さの限界〜 / SHiN

(鍼原神無さん:TRPG総合研究室 LOG 056,2000年11月13日:10時18分47秒の書き込みから引用)

>プレイヤーがマスタリングに期待するのは、「平等(equality)」ではなく「公正(fairness)」であると思います。プレイヤーはGMに平等さを期待すべきでない、と言うべきかもしれません。
>SHiNさんは「ゲームの平等を損ねることはフェアでない」って判断を含めて主張されているのですが。もし・ここに含意があるならお聞かせ願いたいです。(もちろん急ぎません)

 ご指摘の点に関しては、あまり意識してませんでした。「ゲーム的に平等」というのは、「機会均等」と同様の意味です。
 もちろん、たまに勘違いされる「能力の異なる者を同様に扱う」という事ではなく、本来の、「能力に応じたチャンスを平等に与える」という意味の方です。
 で、「リターン」の格差については、結果を出すのは「ゲームシステム」でありGMじゃないって前提から、これについてもまったく考慮してませんでした。
  
 ただ、鍼原さんの書き込みを読んでると、逆に、鍼原さんの方に主張したい事があったみたいですね。
 で、それについては残念ながら私は全面賛成ってわけじゃあ、ないです。
 PLがGMに期待すべきが「公正」か「平等」かという話で、鍼原さんがPLは「平等」では無く「公正」を期待すべきという具合におっしゃいましたが、これは一概にそうだとは言えないのではないかと思うのです。
 
 まず、結論からお話しますと、GMが「主観」によって判断せねばならないケースでは「平等」を。GMが「主観」を用いずに判断できるケースでは「公正」が、より、求められるような気がします。例えば「ゲームのルールを守る」というのは後者でしょう。前者については……簡単には説明できません。あらためて最初から詳しくお話しさせて下さい。
  
 まず、鍼原さんは「期待すべきは公正さだ」とおっしゃいますけど、それってそう簡単な事じゃないと思うのですよ。
 平等かどうかは比較的簡単に判断できますが、公正かどうかは……一般には、その手順が完全に公開され、なおかつそこに個人的主観が加わってないということが条件とされるはずです。(こういった「公正さ」に関する議論は、競泳の千葉すず選手のオリンピック選考問題なんかで、最近話題になりましたね)
 単に「公正な気持ちで判断すればいい」ってだけなら簡単なんですが……それはGMの自己満足にすぎないということです。
 
 さて、TRPGの状況処理にはいくつかのパターンがありますよね。
 
 1、GMが主観において判断せねばならないケース
 2、ルールを適用し、それに従って処理するケース
 
 ルールをきちんと適用するというのは、「機会均等」を意味する事ですから鍼原さんの定義によれば、「平等」とも「公正」とも言えることですね。また私と鍼原さんの間では「ゲーム派」に対し「キャラクターロールプレイ」の重要性を説いていた時代から「ルールは守る」というのを前提として議論していたはずですので、今更、この点においてどうこう言うこともありますまい。
 
 だから、論点は「1」のパターンをいかに処理するか?という事になります。
 で、私には「1」のパターンを十分に公正に判断する事は難しいように思えるのです。
 
 人が人の行為を主観によって判断せねばならない場合、通常、個人の主観に頼って偏りが生じるのを防ぐために、さまざまなシステムが用いられています。裁判にしても、体操やシンクロナイズドスイミングの採点にしても。物事の重要性に比例して、手間や時間がかけられるのが普通です。これは、逆に言うと、どれだけ頑張っても人の主観に頼る以上、完全な公正さは期待できないということになります。公正さとは、「公正か否か」を語るものというよりもむしろ、「十分かどうか」で語るべきものと言うことです。
 
 で、パターン1のように、GMが自らの主観で判断することによる「公正さ」が果たして十分かどうか?という問題になるわけですが、これはいわば『ケースバイケース』でしょう。
 一般に、「ノリ重視」と言われるようなプレイスタイルでは、公正さよりも、迅速な処理、展開を盛り上げる処理が重視されるので、その内容がGMの主観と独断によるものであってもかまわない場合もあると思います。
 
 が、鍼原さんの話は、当然、そのようなケースの話ではなく、「公正さ」が重要視されるケースのことを語ってるはずだと思います。
 
 で、それに対し十分な「公正さ」をGMがその主観による判断によって保つ事は出来ないだろうというのが私の見解です。
 
 これには鍼原さんも同意してもらえるはずです。鍼原さん自身、「公正さの範囲でPL自身がGMへ影響を与える事を認める」とおっしゃってますよね。これは、結局、GMが十分には公正足り得ないから、それに対しPLが影響を与えるチャンスを持つことで、より公正な形にする事を是とすべしという意味でもあるはずですから。(裁判における弁護の権利と同等のものと言えましょう。但し、TRPGには三審制は無いのです)
 
 つまり、このパターン1は次のように言いかえる事が出来るわけです。
 
 1、GMが不十分な公正さの元に判断せねばならないケース
 
 です。
 
 さて、この問題に対し、さらに私達は二つの姿勢で対応することが出来ます。
 一つは、
 
 『無いものねだりはやめて、GMが可能な限りの公正さを発揮するということで妥協する』
 ……という事です。
 
 鍼原さんの「プレイヤーはGMに対し平等を期待すべきではない(公正さを期待すべき)」というのは、いわば、この姿勢に基づいた発言であると思います。また、実際に多くのTRPGファンが、この姿勢を取っている事でしょう。ですから、この事自体は間違ってはいないと思います。公正さとは、参加者のためにあるものであり、その参加者が納得してれば、それは「十分な公正さである」と言えるからです。
 
 が、私が好むのはもう一つの手段です。
 
 それは、GMの主観だけに頼った判断を極力さける。また、不十分な公正さの元でPLの行動を処理した場合は、その結果(リターン)に明確な格差をつけない、と言う事です。
 
 具体的には、GMの主観による判断を極力さけるというのは、例の「ゲーム中デザイン」の事です。
 これはどのGMも日常的に行っている処理です。プレイヤーの意思決定の結果をGMの主観的判断だけでは決定し難い場合、サイコロをふらせて「成功判定」求めますよね?これが「GMの主観による判断を避ける」という事です。(TRPGにおいて「未定義リソース」が使用された場合のダイスロールは、単にゲームにランダム性を持たせるだけのためのものでは無いのです)
 
 そしてこの場合、判定方法が複雑になればなるほどGMの主観の影響は薄くなる……言いかえればより「公正」かつ「平等」になるのです。なぜなら、処理の複雑化に伴い無作為性が生じ、結果に対するGMのコントロール能力が薄らぐからです。
 しかし、それだけではまだ、GMの主観が最大影響を持ってることに違いはありません。
 そこで、これらの複雑な処理にPLが「意思決定」や「運試し」を行える余地を設けるわけです。こうすれば、GMの主観よりPL自身の意思決定などの影響の方が大きくなり、「ゲーム的平等」が保たれるわけです。
 
 たとえば、「戦闘の結果」がGMの主観に基づいたものであるとは誰も考えません。敵のデータを定めているのが「GM」であるにもかかわらずです。これは、その判定手順が複雑でPL自身の意思決定やダイス運に左右される割合が多いからです。
 (しかし、敵が圧倒的に強い場合などはGMの「存在」をPLは意識せずにはいられません。その場合、「バランスが悪い」とか、「敵を強くしすぎだ」とかいろんな不満が飛び出るわけです。このことからもPLがGMの主観的判断に不満を持ち得る事が多いというのが判ります)
 
 もっと具体的な例を挙げましょう。
 たとえば「川を渡る」方法として、プレイヤーがいくつも手段を考えたりしますよね。発言主旨はちょっと違うのですが、myrtさんの別議論の書き込みにちょうどいいのがあったので、拝借させていただきます。
 
 (2000年11月06日:13時19分22秒【ゲーム中デザイン】PLが川についての情報を尋ねた場合 / myrtさんの書き込みから借用)
>・ブリザードの呪文で表面は凍るか
>・まわりに船を作れる木があるか
>・同様に橋をかけることはできるか
>・同様に竹馬もどきをつくれるか
>・バリスタの矢にロープをつけて対岸に打ち込めないか
  
 という具合に。これもよく見かけるケースです。こうやって、より「有利」な方法を探しだそうというのはPL側としてはまあ当然でしょう。
 これらのアイデアが一人のプレイヤーから提出されるか、もしくはパーティの総意として提出された場合、別段GMの主観によって判断してもかまいません。そこには比較すべき対象がなく格差も生じないので、PLに対し「公正」だ「平等」だと気にする必要があまり無いからです。
 
 が、問題は、これらが別々の状況において、別々のプレイヤーから個別に提出された場合です。(逆に言えば、なんらかの格差が生じ得る場合、たとえ比較すべき対象がなくとも主観的判断だけで解決するのはまずいという事です)
 
 これらをいかにすればGMは「公正」に判断し得るでしょうか?
 
 結論から言えば常に十分な公正さを持って判定するのは不可能です。先にも述べたように、その公正さが十分かどうかという基準の高さは、その判定の重要性に比例します。よって、セッション中で重要度が低いのならば、別にGMが主観で「できるだけ公正に」判断してもかまいません。が、重要度が高い場合、もっと別のテクニックを必要とするはずです。
 
 それが、GMの主観的判断による結果(リターン)に明確な格差をつけない…という事です。
 
 ここで重要なのは、PCの行動結果というのは単にPLの望みが達せられたかどうかだけでは「無い」と言う事です。
 
 たとえば、myrtさんの書き込みから引用させてもらったさまざまな川を渡る方法のうち、一番上からその「結果」の可能性を、私の「GM的主観」で書き出していくと……
 
 ・川を凍らせる事で溺れる心配は無いが、急いで渡る場合転倒の可能性がある。なおかつ、呪文を使用するため、(ゲームによっては)MPを代償とせねばならない
 ・船を作ることは可能だが、うまく作るには工作系技能、あやつるには操船技術が必要。それらが無い場合はリスクが上昇する。また、作成に時間がかかる
 ・橋をかけるというのはもっとも確実に渡る方法だが、適当な長さを持った木切れを探すのには1時間につき発見確率10%という時間がかかる
 ・竹馬は比較的簡単につくれるが、転倒する可能性が高く、リスクは大きい。
 ・矢にロープをつけて対岸に打ち込む事は可能。が、あまり振動を与えると外れる可能性がある。器用度判定に失敗するたびにロープの耐久力にダメージがある。その耐久力は矢を打ち込んだ場合の成功度に比例する。成功度はシークレットダイスで求める。
 
 という具合に、それらの行為の結果生じる、MP消費などの副次的な結果や成功確率とリスクに「一長一短」をつければ、明確な格差はつかない…ということです。
 結局、それらは、将棋やボードゲームなどの「コスティキャン的ゲーム」と同様の、「意思決定の意義」を提供するという事なのです。
 こうすると、それらから得られた最終結果(うまく川を渡れたかどうか。その代償として何を払ったか)は「GMの主観によるもの」ではなく、「PLの意思決定の結果」と言う事になり、不公平感は薄れるはずです。
 
 これを「公正な処理」と呼ぶか、「ゲーム的平等(機会均等)」と呼ぶかは人それぞれの自由ですが、私は後者の呼び方を好みます。それは「ルールを明確に適用する」などの直接的な公正さ(実質的にGMが処理行為を行ってないもの)と区別したいからです。
 
 この例は「結果に格差」というよりも、「セッション中の即席ゲームデザイン」というものについて語った事になるかもしれません。TRPGセッションとは、前後に影響を持つ連続したイベントの連鎖ですからこのようになるのは仕方ないのですが、話としてはわかりにくかったかもしれません。
 
 ですから、次に最終的な結果(リターン)、つまり「成果」や「報酬」に対し明確な格差をつけないというのはどういう事かについて説明します。
 
 例えばシナリオにおいて最終的な褒賞を与える場合など、ミッションにおける各プレイヤーの功績をGMの主観によってしか判断できず、なおかつ格差をつけたい場合は、やはり明確な比較が出来ないようにするべきだと思うのです。
 
 冒険の成果として、あるキャラクターには「名誉」を、あるキャラクターには「マジックアイテム」、そしてあるキャラクターには「少女の信頼」をあたえた場合、GMが誰の行為をもっとも評価したのか?なんて事は判別つかないですよね。比較不可能という事は、平等であるという事と実質同じ事のはずだと思うわけです。
 
 まあ、こういった意味で私にとっては「公正さ」とは「平等に扱う」という事とほぼイコールであるという考えと、「GMの主観による公正さ」への疑問があるので、鍼原さんの指摘を素直に受け入れる事は出来なかったということです。
 
 私は、GMが「公正な判断」の元、その主観を濫用する可能性や、それに対するPLの疑惑や懸念をなるべくセッションから排除したいと考えているのです。
 そして、結果としてそれは、「公正さ」より重要なものをセッションにもたらすことになります。これはタイトルを変えて改めて書き込むことにしましょう。
2000年11月16日:15時40分17秒
【ゲーム中デザイン】プレイ中リソースデザインとなれあい / myrt
(Re:2000年11月16日:01時26分50秒【ゲーム中デザイン】プレイ中リソースデザインとなれ あいに特別な関係は必要ありません / Purpleさん)

「上の話」とは、TRPGでのデザインには慣れあいが必要である、という話です。

> そうだとして、上の話は、プレイ前にデザインしていようが、プレイ中に
>デザインしていようが関係なく付きまとう話でしょう。

「プレイ中にデザインしているときに慣れあいがつきまとう」ことには納得 していただけますでしょうか??
#例が不適切だったので、誤解の余地が生じている。

だとすれば、全然問題ありません。これは

(2000年11月09日:01時31分55秒【ゲーム中デザイン】Re:ゲーム中デザインと慣れあい / Purpleさん)
> 「信頼」とか「慣れあい」とかを持ち出すまでも無く、マスターがRPG
>を楽しみたいと思っているのなら、意味のない虐殺などしないと思います。

の反論に延々時間がかかってただけですから。この「意味のない」が癖者で して、「ベアダンジョン(T&Amp;T名物虐殺シナリオ)」などの存在から単純に 反論できなかったのです。

あとは簡単です。SHiNさんが

(Re:2000年11月07日:16時13分08秒【ゲーム中リソースデザイン】リソースデザイ ンが行われる過程で存在する二つのタスク / SHiN)

で述べられたように、PLはGMの「ゲーム中リソースデザイン」を補佐します。この補佐自体がTRPG独特(PLがリアルタイムで能動的に 介入できる!!)なので、このときに発生する慣れあいはTRPG独特です。

...というか、私は「TRPGのゲーム中リソースデザインに慣れあいが必要」 とは書きましたが、「TRPGのシナリオ作成時に慣れあいは必要ない」と書いた 覚えはないのですが...書いてたらすみません。
2000年11月16日:15時13分22秒
【ゲーム中デザイン】attachゲームと一本道 / myrt
Webページ勝手に引用して申し訳ありません > LISTさん

(Re:2000年11月16日:09時27分41秒 【ゲーム中デザイン】reRe: ゲーム中 デザインと慣れあい / LISTさん)
>結局、「マスターが全てを用意してしまい、プレイヤーがマスターの
>想定内で行動しただけだとRPGではない。」というmyrtさん流RP
>G観が、myrtさんの書き込みの全ての源流となっているように見えます。

私は「GMの想定内で終始行動するようなプレイが理論的にありうる」こ とに納得し、「私はそれをTRPGと感じない。」と述べています。そして purpleさんは「それでもTRPGだと感じる」ということなので、表層だけ 見ればそれで解決しています。

しかし、どうも私は「myrtとpurpleさんの考える、GMの想定内という範 囲には差異があるんじゃないか」と感じており、私の考える「GMの想定内 で話が進むケース、進まないケース」の分岐点を挙げました。それがわかり にくい、というところで話が座礁しているのではないでしょうか。 私の考える「GMの想定内」というのは「attachゲーム(※1)に おさまる場合」に匹敵するレベルのものです。

(※1)単語入力式のコンピュータアドベンチャーゲームのこと。アイテムを「はめる」ことが正解だとすぐわかるのに、「put」でも「insert」でも駄目で 正解が「attach」のみであり、「そんなのわかるか!!」と大騒ぎされた、という 故事に由来しているとか。

この話と、後の話は基本的に別の話です(それで、 話の焦点はどこ??とか言われるわけです)。 ここからは、「TRPGをゲーム的に遊ぶ場合について」の話です。

>後の辺りの、「RPGにはプレイ中リソースデザインが必須である」という考え
>に至り、→「そんな遊びはゲームではない。」

ところが、これだけでは困るわけです(必須ならもちろん、十分おこりえる だけで問題が発生します)。だって、TRPGを「ゲーム的に楽し む」ことは、少なくとも私にとっては楽しいのですから。そして「ゲーム的に楽 しむ」要素には、コスティキャン的なゲーム理論がよく当てはまるように 感じられます。そこで2重構造、「ゲーム部分」と「GMの補佐部分」の出番と なるわけです。これが成り立てば、「ゲーム部分」をゲームとして扱う ことができます。

じゃあ、「GMの補佐部分」と「GMの行為全般」は何やってもいいんだろうか?? ということになります。 ここは「ゲーム中リソースデザイン」も扱うわけですから、好き放題すると大変 なことになります。そこで「上位ルール」や「信頼、慣れあい」の概念を持ちだし、 完全に好き勝手できるわけではないと縛りを入れています。ここは非常に抽象的 な話であり、匿名希・望さんの「全体をゲームとして扱う」とか「ルール改変 ゲーム」とかもこのレベルの話になると思います。

>一本道マスターと呼ばれる、人のハナシを受け入れない系のマスタリングや、
>お地蔵さんと言われる、人のハナシを受け入れるだけのプレイングは否定さ
>れていますよね?

これは最初の話題でして、「私はTRPGっぽく感じない」系の話です。それも、「一本道」 自体が嫌いなわけではなく、attachゲーム的(一本道とは限らない)なマスタリング、 コマンド選択式なプレイングがTRPGっぽくないと考えています。

>ただ、一本道やお地蔵さんによってたやすく閉鎖系になってしまう。開放系とし
>て使われない事がある。こーゆー事ではないでしょうか。

ここで話が交錯してさらにわかりにくい度が高まっております。「開放 的なほうがTRPGっぽい」が、「閉鎖的なほうがゲームとして問題がおこり にくい」。これが、「TRPGをゲーム的に楽しみたい」私としては都合が 悪い。そこで、「開放と閉鎖のベストなバランス」を求めてさまよっております。
2000年11月16日:09時27分41秒
【ゲーム中デザイン】reRe: ゲーム中デザインと慣れあい / LIST
どもです。

ええと、まずPurpleさんのまとめた部分を引用します。

結局、「マスターが全てを用意してしまい、プレイヤーがマスターの想定内で行動しただけだとRPGではない。」というmyrtさん流RPG観が、myrtさんの書き込みの全ての源流となっているように見えます。
プレイヤーはマスターの手の中から出るべきだ。
→つまり、マスターは必ずプレイ前に用意してできなかったリソースをプレイ中にデザインする羽目になる。

という思考になっているように見えます。さらに、
プレイ中リソースデザインが発生したときも、マスター一人が考えたことを鵜呑みしてはならない。(そうでないと、結局はマスターの手のひらから飛び出せない。) →プレイヤーは必ずマスターにいろいろな意見を言ってマスターの考えに影響を与えなければならない。

という思考になっているように見えます。そして、マスターもプレイヤーもプレイ中にリソースデザインにかかわることになるため「RPGにはプレイ中リソースデザインが必須である」という考えに至り、→「そんな遊びはゲームではない。」→「RPGはサブゲームと、そうでない何かの遊びで構成された二重構造である」という考えに至っているということでしょうか?

引用ここまで。改行がずれちゃいました。

最後の辺りの、「RPGにはプレイ中リソースデザインが必須である」という考えに至り、→「そんな遊びはゲームではない。」 ここともう一つ以外はおかしくないのではないでしょうか?

もう一つは、ええと、リソースデザイン? っていいましたっけ? それともゲーム中デザインなのかな? とにかく、追加だの修正だのがルールなどの面でしか考慮されていない事でしょう。

はてさて。
一本道マスターと呼ばれる、人のハナシを受け入れない系のマスタリングや、お地蔵さんと言われる、人のハナシを受け入れるだけのプレイングは否定されていますよね?
つまり、myrtさんの言ってる事はそういう事なんじゃないんですか?
ただ、そこからなぜか馴れ合いってハナシに移ってる。これが謎です。
また、上記のように一本道を否定する系の意見が出ながらも、PC(PL)がシナリオやその目的を変える/作るには否定的である。少なくとも「良く分からないのでパスします」との発言があった。なんでだろうか?

アキトさんの意見にあるように、テーブルトークは開放系の遊びだとおもいます。つまり、内容が変化することが自然だと思います。
ただ、一本道やお地蔵さんによってたやすく閉鎖系になってしまう。開放系として使われない事がある。こーゆー事ではないでしょうか。
2000年11月16日:06時05分20秒
【TRPGの魅力】バランスの悪いTRPG内WSLGの意義 / SHiN

(アキトさん)
>確かに。すでにこの先の話になっていると思います。
 
 いや、そういう意味で言ったんじゃないですよ。
 別に、再スタートもいいと思います。新しいラインも増やしていかないと、新規参加とかしにくいでしょう?(むやみに増やすのもどうかとは思いますが…)
 スタート地点が変われば同じ話でもまた違ってきますしね。
  
 で、例の「バランスが悪いのに何で〜」って話ですが、私としては結局、TRPGのプレイヤーはWSLGをそのものを楽しみたいわけじゃないからじゃないかなあって思ってます。WSLG風の戦闘を通じて、成長したキャラの強さを実感したり、暴れまくる爽快感を味わったり。もしかすると、TRPGってのは大きな意味では戦略シミュレーションで、戦術レベルのWSLGというのは、それまでに立てた「戦略」の効果の確認作業としての意義しかないのかなあとか。
 
 で、ここらへん、体系化してもらえたらなあと(笑)
2000年11月16日:02時04分38秒
【ゲーム中デザイン】Re: ゲーム中デザインと慣れあい / Purple
 --- 2000年11月13日:12時24分18秒のmyrtさんの書き込みより
 (Re:2000年11月12日:01時39分10秒【TRPGの定義】マスターの手のひらで踊ってしまうことに何の問題があるのでしょう? / Purpleさん)
 なぜ私が「GMの手のひらで踊っているとTRPGらしくない」と思っているかというと、趣味であり、直観だからです。私は「GMの用意した舞台で踊るべきだが、PLの思うように踊るべきである」と思っています。
 --- 引用ここまで

 結局、「マスターが全てを用意してしまい、プレイヤーがマスターの想定内で行動しただけだとRPGではない。」というmyrtさん流RPG観が、myrtさんの書き込みの全ての源流となっているように見えます。
 プレイヤーはマスターの手の中から出るべきだ。
→つまり、マスターは必ずプレイ前に用意してできなかったリソースをプレイ中にデザインする羽目になる。

 という思考になっているように見えます。さらに、

 プレイ中リソースデザインが発生したときも、マスター一人が考えたことを鵜呑みしてはならない。(そうでないと、結局はマスターの手のひらから飛び出せない。)
→プレイヤーは必ずマスターにいろいろな意見を言ってマスターの考えに影響を与えなければならない。

 という思考になっているように見えます。そして、マスターもプレイヤーもプレイ中にリソースデザインにかかわることになるため「RPGにはプレイ中リソースデザインが必須である」という考えに至り、→「そんな遊びはゲームではない。」→「RPGはサブゲームと、そうでない何かの遊びで構成された二重構造である」という考えに至っているということでしょうか?
2000年11月16日:01時26分50秒
【ゲーム中デザイン】プレイ中リソースデザインとなれあいに特別な関係は必要ありません / Purple
--- 2000年11月13日:12時24分18秒のmyrtさんの書き込みより
 >「マスターによる無意味なPC虐殺」や「プレイヤーが依頼シナリオを断
 >らない」という話が出てきたのか理解できていません。
 ・TRPGにおける信頼(悪く言えば慣れあい)の必要性:TRPGの主要なパターンのひとつが信頼関係に依存していることを示した。
 「マスターによる無意味なPC虐殺」や「プレイヤーが依頼シナリオを断らない」という話です。
 ・「プレイ中リソースデザイン(未定義リソースの話)」を行なう際にも例外でない:前述のシチュエーションにおいて「プレイ中リソースデザイン」の必要性が発生しても、同様に信頼関係に依存していることを示した。
 記事(2000年11月08日:12時49分06秒【ゲーム中リソースデザイン】TRPGとサブゲーム / myrt)で詳しく書きました。<タスク2>のGM補助行為がすべて信頼関係に基づくと考えています(PLはGMのデザインに影響を与えうる)。
 --- 引用ここまで

 うーん。「これまで書かれてきた文章からは読み取れていないので」と書いているのに、過去の書き込みを参照しろというのですね。
 仕方が無いので、がんばって読み直して、熟考してみたした。(なので、的外れなことを書いているかもしれません。)

 つまり、myrtさんがおっしゃりたいことは、「マスター・プレイヤー間に信頼関係が無ければマスターが用意したシナリオ(そして、前もってデザイン済みのリソース)が信用できなくて、ゲームが成り立たない。」ということでしょうか?
 そうだとして、上の話は、プレイ前にデザインしていようが、プレイ中にデザインしていようが関係なく付きまとう話でしょう。
 すくなくとも、myrtさんのこれまでの書き込みからは、「プレイ中リソースデザイン」と「なれあい(信頼)」に特別な関係があるとは読み取れません。
 「(プレイ前/プレイ中を問わない)マスターのリソースデザイン(含むシナリオ作成)」と「なれあい(信頼)」には関係があるという話なら理解できるのですけど。
2000年11月15日:20時19分08秒
【TRPGの定義】Re:GM=プレイヤー論〜定義の必要性〜 / 匿名希・望
>なぜなら、どこまでいってもGMはやはりGM以外の何物でもなく、「プレイヤー」じゃないのですから……。

一応「ゲームプレイヤー」として「対等」だと主張はしましたが、GMがTRPGの「プレイヤー」と「同じ」であるとは言ってませんよ。
ただし、その違いは(TRPGの大きい枠の中では)ディプロマシーで担当国が違うというのと本質的に変わりはないということです。

>殴り合いの喧嘩、というのにもちゃんとルールがあります。
>それはどういう状況で行われてるか、というケースで変化しますが、とにかくルールがあるのです。
>少なくともTRPGのGMにルールと目標と障害があるというレベルでは。

でもそのルールは物理法則と状況から自動的に生まれたもので最初から意識してデザインされたものじゃないですよね。
まあ、殴り合いが実際ゲームかどうかは別として、仮にゲームとしても別のゲームである以上は一緒くたにするのは問題があるということです。

>だから、その論法を匿名希・望さんが使う事に納得は出来ないんです。
>どうしてGMはプレイヤーとイコールになるのに、GMはデザイナーとはイコールになれないのか?って事です。
>もちろん、その原因は匿名希・望さんの「俺の定義」なのでしょうが、その「俺の定義」を用いる必然性があるとは、私には思えないのです。

え〜と俺にはそれなりの必然性があって用いてるんですが。
要は「GMって何が楽しいの?」って聞かれた時に「ゲームデザインが楽しい」って言うより「お話が面白くなるかどうかのゲームをやってる」って言う方が説明し易いし、GMがゲームそのものじゃない何かを楽しんでて、PLがゲームを楽しんでるという構図が何となくGMとPLに溝を掘ってるようで嫌いだからですよ。

あと、「俺はGMなんだからPLはシナリオに従うべきだ」なんて無条件で思ってる奴が嫌いってこともあります。
PLがシナリオに従うのはそれが話を面白くする目的に適うときだけです。
#明らかにつまらない、不合理な方向でもシナリオに従わなきゃいけないなんて馬鹿げてると思います

とりあえずここまでにしておきます。
2000年11月15日:11時26分06秒
【TRPGの定義】「ゲーム」は面白いのか?? / myrt
私は、今までコスティキャン的なゲーム要素は面白さを生むものだと思っていました。 だから負けても、勝ったときに実利的な報酬がなくても面白い。面白さの 程度の低い場合や敗北の悲しみに埋もれてしまう場合 もありますが、少なくとも全くないわけではないと。

ところが、そうでないものが出てきました。例えば、匿名希・望さんの 挙げられている「プレイを面白くするゲーム」は、負けても面白いと パラドックスを生みます。

実際には「プレイを面白くするゲーム」は「より面白い」 ことを目指すゲームなので、全く面白くないことはまずないでしょう。 しかし「意思決定」が面白さのキモだとするならば、「プレイを面白 くするゲーム」でもたびたび行なわれているはずであり、それがうまく行なわれる 度に「面白い」とするならば...循環してなんだかよくわからなくなります。

「ゲーム」自体は面白いものではないのでしょうか??
2000年11月15日:02時53分30秒
RPGとWSGの続き / アキト

>OTEさん
どーもありがとうございます。

>SHiNさん
確かに。すでにこの先の話になっていると思います。
ボクがこの文章を出したのは、RPGというのはコスティキャンの言うような「ゲーム」ではありえない、という考えを、わかりやすい形で示しておきたかったためです。

#あとは、はやく出さないとインパクトが無くなってしまうのではないかと危惧したため。

> 「戦闘」がTRPGの中でも「華」だってのは確かなことで。なのにその戦闘はバランスが悪くてもTRPGは面白い。なんでかな?っていう続きの部分が読みたいです。(どちらかというと、ここで発言してくれた方が嬉しいですが)

えーっと、善処します(汗)。そのためにまずは過去ログをじっくり読もうかと思います。


2000年11月15日:00時54分27秒
RE:RPGとWSG / SHiN
 
 >アキトさん
 
 以前、原罪さんとこで言ってたやつですね。
 で、この違いをはっきりさせた上で、どうするか?って話を私はしたいと思ってます。(というか、もうしてますが)
 
 たとえば、これだけじゃRPGの戦闘はバランスの悪いWSGだって話で終わっちゃってると思うんです。
 
 「戦闘」がTRPGの中でも「華」だってのは確かなことで。なのにその戦闘はバランスが悪くてもTRPGは面白い。なんでかな?っていう続きの部分が読みたいです。(どちらかというと、ここで発言してくれた方が嬉しいですが)
2000年11月15日:00時39分17秒
【TRPGの定義】GM=プレイヤー論〜定義の必要性〜 / SHiN
(匿名希・望さん)
>いってみれば、「GMはゲームデザインに類する行為を行っているが、TRPGの枠(俺の定義するところで、ですよ)の中でゲームデザイナーである訳ではない」ということです。
>ゲームデザイン行為をしていないというわけではありませんよ。
>ただその「ゲーム」は「TRPG」というゲームそのものではなく「TRPG内ゲーム」であるという事です。
 
 納得かつ同意します。私が(そして、おそらくは他のTRPGファンの方が)、『GMはゲームデザイナーである』という場合は、全て、「GMがゲームデザインに類する行為を行っている」という指摘にすぎないはずです。GMはあくまでGMであり、それ以外の何者でも無いというのは自明の話ですから。
 そこらへんを、匿名希・望さんにも判っていただけるなら、以後の議論はスムーズなものになると思います。
 
 逆の言い方をすれば、GMは「プレイヤーに類する」行為を行っているが、プレイヤーではない、って言い方もできるでしょう。
 もちろん、匿名希・望さんが以前語られた論理を用いるとGMを「ゲームプレイヤー」そのものとして解釈することは可能ですが、そこらへんの差異はあまり意味が無いと思います。なぜなら、どこまでいってもGMはやはりGM以外の何物でもなく、「プレイヤー」じゃないのですから……。
 
 (匿名希・望さん)
 >え〜と、こういう比喩でわかって頂けるどうかわかりませんが、「ボクシングと殴り合いの喧嘩は違う」というレベルでの「違い」です。
 
 いいたいことはわかりますが、それを受容することは出来ません。…というか、匿名希・望さんのこれまでの論理を用いると、両者の違いが消し飛ぶのです。
 
 殴り合いの喧嘩、というのにもちゃんとルールがあります。それはどういう状況で行われてるか、というケースで変化しますが、とにかくルールがあるのです。少なくともTRPGのGMにルールと目標と障害があるというレベルでは。
 だから、その論法を匿名希・望さんが使う事に納得は出来ないんです。どうしてGMはプレイヤーとイコールになるのに、GMはデザイナーとはイコールになれないのか?って事です。もちろん、その原因は匿名希・望さんの「俺の定義」なのでしょうが、その「俺の定義」を用いる必然性があるとは、私には思えないのです。
 
 で、わたしが言いたいのは、「分けなくても良い事を無理に分けない」「分ける必要があるものを、無理に同一化しない」という事です。
 
 GMとプレイヤーは、「分ける必要がある」ものです。立場が違い、その作法がことなるのですから。
 国家の運営というものに対し、政治家と市民運動家では、同じ次元で行動していてもアプローチ法や受ける制限が異なるように。
 
 一方、『ゲームデザインに類する行為を行っているゲームプレイヤーとしてのGM』と、『ゲームプレイヤーに類する行為を行っているゲームデザイナーとしてのGM』とは、分ける必要がありません。どちらも同じ事だからです。
 
 GMのプレイヤーとの類似性を説明する中で「GMはプレイヤーだ」と比喩的に主張するのは全然かまわないと思うんですが、それを他の議論の中でも使用できるようにするには無理があるといわざるを得ません。
 
 匿名希・望さんの主張は、「GMはプレイヤーに類する行為を行っており、また、プレイヤーに類する制限を受けている。この場合の目標はセッションを面白い物として成立させることであり、その制限は新規リソースの作成(及び未定義リソースの設定)をシステムコンセプトの枠内で行う事と、既定のリソースを変更しないことである」という風に言えるはずです。どこにも匿名希・望さん独自の定義を持ち出す必要は無いと思うわけです。
 
 匿名希・望さんに、これらの事をわかってもらいたいという事に私が拘るのは、私が匿名希・望さんと基本的な部分では意見を同じくしていると思うからです。そして、その部分は汎用的なTRPG論として使用できるとも考えているからです。
 
 しかし、「俺的定義」によって語ってしまうと、それは、いちプレイスタイル論にしかならない。
 馬場講座が、いくら人心を集めても、結局は「いちプレイスタイル論に過ぎない」という評価を下されてしまうのは、馬場さんが「TRPGはゲームである」という「俺的定義」に頼ってしまったからです。
 
 できれば、それは避けたいな、と私は思うのです。
2000年11月13日:21時49分27秒
RE:RPGとWSG / OTE
>アキトさん
 開かれたシステム、読ませてもらいました。
 面白い観点であると思います。読者に優しい視点で書かれているし、例示は豊富だし。
2000年11月13日:16時16分16秒
RPGとWSG / アキト
はじめまして&おひさしぶりです。 一連の書き込みは楽しく読ませていただいています。
本日は、もしかしたら現在の流れに塩漬けにしていた自分の文章が関連するかもしれないと思いまして、リンクさせていただきます。 開かれたシステム
2000年11月13日:16時06分01秒
TRPG総合研究室 LOG 056 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 056として2000年11月08日から2000年11月13日までのログを切り出しました。


2000年11月13日:13時36分12秒
【ゲーム中デザイン】私の論の目的 / myrt
「TRPGを『より』ゲーム的に楽しむ為の実践的な工夫を検討」がしたいのですが、 私は「TRPGはゲーム的でない要素を含んでいる」と考えており、その要素が何か、 一般の、およびゲーム的なTRPGにおいてその要素をそれぞれどう扱うべきであるかに ついて興味があります。

そしてTRPGのゲーム的でない要素(ゲーム中デザイン、及び上位ルールの存在)に 至ったわけですが、purpleさんがそれらのTRPG特有性や必要性に関して疑問を 提示されたので、それに答えようとしているうちに迷走して現在に至ります。

(Re:2000年11月09日:11時39分48秒 【ゲーム中デザイン】Re:ゲーム中デザインと慣れ あい/ myrt)
>PLの発言を構文解析にかけて意味を抽出できると仮定したとき(最近では
>結構いいところまで来ているようです)、それに対応した反応がたまたま
>用意されており、それが最後まで続かなければならないのです。

確かに我ながらマズい表現でした。この部分はもとより「PLがGMの手のひらで 踊っていた場合はTRPGっぽくない」の説明であり、人によって意見が違うことを 認めているので詳しく書く必要性はなかったのです。ただpurpleさんが どこまでを「ゲーム中デザイン」で、どこからが「もとよりGMが用意したリソース を利用しただけ」と解釈されているのかについて疑問を感じたので、 実際にコンピュータ的に処理する場合について考えて提示してみたものです。
2000年11月13日:12時38分53秒
【TRPGの定義】ボードゲームの定義 / myrt
(Re:2000年11月13日:10時11分04秒【TRPGの 定義】Re:TRPGと自然言語の関わり / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕さん)

>えーっと。話が噛み合っるような噛み合ってないような、妙な感じと思います。

巨大な誤解があると思います。

ここでの私の主張は、「鍼原神無さんはディプロマシーを例外扱いして いるが、それはただのボードゲームであって例外扱いする必要はないのでは??」 だけです。それに付随 して、「TRPGとボードゲームはもっと明解に分けられるんじゃないか」と いう気はしていますが、TRPGへの自然言語の役割にいちゃもんをつける気は ありません...
2000年11月13日:12時24分18秒
【ゲーム中デザイン】Re: ゲーム中デザインと慣れあい / myrt
(Re:000年11月12日:02時44分38秒【ゲーム中デザイン】Re: ゲーム中デザインと慣れあい / Purpleさん)
>「マスターによる無意味なPC虐殺」や「プレイヤーが依頼シナリオを断
>らない」という話が出てきたのか理解できていません。

・TRPGにおける信頼(悪く言えば慣れあい)の必要性:TRPGの主要なパターン のひとつが信頼関係に依存していることを示した。

「マスターによる無意味なPC虐殺」や「プレイヤーが依頼シナリオを 断らない」という話です。

・「プレイ中リソースデザイン(未定義リソースの話)」を行なう際にも例 外でない:前述のシチュエーションにおいて「プレイ中リソースデザイ ン」の必要性が発生しても、同様に信頼関係に依存していることを示した。

記事(2000年11月08日:12時49分06秒【ゲー ム中リソースデザイン】TRPGとサブゲーム / myrt)で詳しく書きました。<タスク2> のGM補助行為がすべて信頼関係に基づくと考えています(PLはGMのデザインに影響を 与えうる)。

・GMとPLの信頼関係が、お互いが人間的な社交性を持っていたとしても必ずし も存在するものではない:「GMがどのくらいをPLの過失とみなすか」の例を 示した。

Purpleさんと私の意見の相違は、「TRPGをゲーム的に遊ぶか」という点にあるので はないでしょうか。「ゲーム」は、勝負です。だから、「PCをトークンとして 扱い勝利に導く」にしてはおかしなPLの行動は全部慣れあいなのです(私はTRPGと サブゲームによる二重構造を主張しています)。

(Re:2000年11月12日:01時39分10秒【TRPGの定義】マスターの手の ひらで踊ってしまうことに何の問題があるのでしょう? / Purpleさん)

なぜ私が「GMの手のひらで踊っているとTRPGらしくない」と 思っているかというと、趣味であり、直観だからです。私は「GMの用意した舞台で踊るべきだが、PLの思うように踊るべきである」と 思っています。

そしてGMとPLは違う人間ですし、何よりPLはGMより人数が多い ですから「GMが思いもつかなかったが、見れば感心するようなプレ イ(選択でも、戦術でも、名セリフでもかまわない)」が、そこそこの頻度 で発生するし、させるべきだと考えています。

GMの思うツボである場合もたまにはいいと思いますが、終始そうなのは 私のTRPG感にあいません。 しかしそう考えていない人がいることも知っていますので、これについては 結論を保留しています。

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