TRPG総合研究室 LOG 098

TRPG総合研究室の2002年04月15日から2002年04月23日までのログです。


2002年04月23日:16時27分17秒
【比較ゲーム分析】ゲームと工夫の楽しさ / トモス
myrtさんの4月21日づけの「【比較ゲーム分析】ゲームと工夫の楽しさ」へのお返事です。

myrtさんの議論では、ゲームの楽しみは工夫の楽しみだけだ、ということでしょうか。

いずれにせよ、僕も工夫の楽しみをめぐる議論をもう少しやってみたいことには変わりがないのですが、それが「ゲームについての議論である」と言えるかどうかについては若干自信がなくなりつつあるので、「ゲームを特徴づける楽しみには、工夫以外の楽しみもある」という議論を立ててみます。

各種の「○○重視」をめぐるこれまでの議論をもう一度おさらいしてみると、次のような諸立場が話題になりました。


・工夫の余地がある状況で少しでも優れた手や戦略を開発しようと工夫することを楽しむ(工夫重視)
・工夫によって勝敗が左右されるような状況で、工夫によって勝利を目指すことを楽しむ(純粋ゲーム志向の結果重視)
・自分の行動(工夫であれ運試しであれ)が結果を左右するような状況で、自ら行動し、勝利を目指すことを楽しむ(結果重視の一種)
・一定の要素(自分の行動であれ、他の要素であれ)が結果を左右するような状況で、そのインタラクティビティを楽しむ
・一定の要素(自分の行動であれ、他の要素であれ)が結果(事前に固定されたものであれ、遊び手の行動や乱数によって変動するものであれ、)を導き出すような状況で、その結果が生じる過程を楽しむ。(左右重視)

これらの議論をやってみて感じるのは、人がゲームに見出す(かも知れない)楽しみの多様性です。

もちろん、「このゲームは駒の色がいい。」という人がいるからと言って、それで即「ゲームの楽しみには色の楽しさが含まれる」という議論をできるわけではなく、「ゲーム」と「ゲームでない遊び/活動」を分ける特徴が何かを考えることが重要なのだと思います。

例えば「左右重視」の特徴は、ゲーム愛好者に見られるものだとしても、ゲームとそうでないものを分ける手がかりにはならないだろうと思います。(少し自信がないですが。)

そう考えてくると特に気になるのは「運試し」と「競争」の要素です。これが「ゲームの楽しみ」の不可欠な一部だ、という議論を立ててみます。

世間で「ゲーム」とされるものの多くは、運試しの要素を含みます。カードゲーム、ボードゲームのほとんどがそうです。

もちろん、ゲームに乱数要素を加えることは、起こりうる局面を多様化させたり、ゲームの複雑さを増加させ、結果として工夫を多く要求するようなことにもなります。ですが、「運試しが含まれるならそれは工夫によって勝敗が左右される度合いを減らすことになるから、ゲームとしては不純だ」という風に全てのゲーム愛好家が考えるわけでなく、ゲームには運試しの要素も、工夫の余地も、両方必要であることが望ましい、と考える人もいるのではないでしょうか。

つまり、従来は「勝負」として「ゲーム」とは区別していた遊び、運試しと工夫との両方を積極的に楽しみつつ、勝敗を争う遊びは、実は「ゲーム」なのであって、従来の「ゲーム=工夫の遊び」という考え方はせいぜいゲームの一種を重視した立場でしかない、ということになるのではないでしょうか。

この「運試しもゲームの不可欠な一部」という立場からは、将棋、チェスなどがゲームではないということになってしまうのが難点です。

もうひとつの議論、「競争」がゲームに不可欠だという立場からの立論もやってみます。これまでの議論でPurpleさんが折りに触れて示唆して来たように、クイズ、パズル、数学の問題などは競争がないためにどこかゲームらしくありません(乱数要素が介在しないせいもあるかも知れませんが)。実際、パズルをゲームの一種と考えない人は少なくないだろうと思います。

そこで、将棋のように直接の対戦の形になっていないとしても、他人と比べる、あるいは自分の過去の達成と比べる、といったプレイヤー間の比較の可能性がないと、ゲームらしくないとは言えない、とする立場が可能だと思います。

繰り返しプレイすることの不可能な数学の問題は、「問題を解くこと」だけを目的に工夫を楽しんでいるのであればゲームかどうか怪しい感じがしますが、誰かと正解に辿り着くまでの時間を競う場合にはゲームだろうという感じがします。

この立場の難点は、TRPGがゲームであるかどうかが怪しくなる点です。プレイヤー間の比較(競争)の為には、繰り返しプレイが可能であるか、同じ条件の下で異なるプレイヤーが同じゲームをプレイすることが可能か、対戦が可能か、である必要があるように思うのですが、TRPGでは、せいぜいのところ「もしもこういう行動をあの場面でとっていたら、もっと早く決着がつけられたのではないか」などと後から推測することができる程度です。これは、数学の問題を解きおわった後に「この時点であの計算法を使ってこの部分の計算を済ませておけばもっと早く解法に辿り着けたのではないか」ということを考えることができるにも関わらず数学の問題を楽しく解くことがゲームと呼びがたいことにひきつけて考えると、TRPGがゲームであることを保証しないような気がします。しかもTRPGの場合には、数学の問題の場合とは違って、本当にあの時にあの手を使っていたらもっと効率が良かったのだろうか、それとも、GMが別のことを思いついて実はもっとややこしい事態に巻き込まれていた可能性があるだろうか、などと考え出すと明確な答えが出ない点が違っています。
2002年04月21日:14時37分34秒
【比較ゲーム分析】ゲームと工夫の楽しさ / myrt
(Re:2002年04月20日:16時10分56秒【比較ゲーム分析】ゲーム性再考 / トモスさん)
>>これまでのゲームの定義「目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊 び」が「実際のプレイヤー」の遊んでいる「ゲーム」と完全には一致しないという点です。<<

 それは「工夫を重ねたら目的が達成できる遊び」であると限らないので、 そのままでもいいと思います。不運に見舞われようと、幸運に恵まれようとも、 難敵に巡り会おうとも、機会がある限り目的達成のために工夫することを楽しめ ば良いのではないでしょうか。

 いかなる理由であれ、 工夫の余地が感じられなかったり、工夫することに楽しみを見いだせなかった りしたならば、それがどんなに良くできたシステムでも「私にとって、これは ゲームとしては面白くない」と言えると思います。
2002年04月21日:14時36分59秒
比較ゲーム分析】re:「左右重視」について / myrt
(Re:2002年04月20日:15時25分08秒【比較ゲーム分析】「左右重視」について / トモスさん)
>>だとすると、「左右重視」の人は、ゲームの勝敗が変動することを望む。つまり、ゲ
ームにある種のインタラクティビティが含まれていることを望む、と言った方がいいで しょうか? <<

 あるシステムにおける結果に対する手段の影響の与え方について一家言 持っている、ということだと考えています。推理小説の場合、「なんでこの 程度のトリックでなんで全員騙されるんだよ!ありえない!」などの文句を つけるように。結果に対する手段の影響の与え方が納得のいくものであれば、 結末が決まっている小説でも満足できると思います。

 逆に、影響を与えすぎて嘘臭いと感じる場合も考えられます。 戦争に一兵士として参加するゲームをした場合、プレイヤーは 自陣営を勝利させる目的を持ちます(生き残る目的よりも優先順位は 低いかもしれないが)。しかし、担当兵士一人の活躍が工夫次第で戦局を劇的に
変えられる仕組みになっていると、リアルでないと感じる左右重視プレイ ヤーもいるかもしれません。
2002年04月20日:16時10分56秒
【比較ゲーム分析】ゲーム性再考 / トモス
乱数要素についての直前の自分の投稿から更に考えてみました。

myrtさんは4月17日の投稿「【比較ゲーム分析】結果重視と左右重視」でこんな風に書かれています。

>>実際のプレイヤーは左右重視性と工夫重視性を合わせ持ち、工夫を楽しんでかつ結果次第で一喜一憂するものであると考察します。<<

左右重視性をどう特徴づけたらいいか、まだmyrtさんとの間で詰めができていませんが、今の時点で明らかなことがひとつあります。

これまでのゲームの定義「目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊び」が「実際のプレイヤー」の遊んでいる「ゲーム」と完全には一致しないという点です。

例えば、「勝負」にこだわる人の中には、工夫だけではなくて運試しの要素が勝負に含まれる方が面白い、と考える人がいそうです。そして多くのゲームが、工夫の楽しみだけを純粋に追求するのではなくて、工夫と運試しとを組み合わせてこの勝負の楽しみを追求するためのルールを提供しているように思えます。僕はこれまで、この事態を指して、「多くのゲームが純粋ではない」とか「勝負を楽しむ人と、ゲームを楽しむ人は別だ」とかいう形で考えて来ましたが、逆に、「今までの議論で前提してきた工夫中心のゲームの捉え方に問題がある」と考えることもできるような気がしました。

そう考えてみるとガジェットの楽しさ、扱っている題材のゲームルールを通じた再現性、などこれまで余り議論して来なかった要素を大事にする人もいるだろう、と思いあたります。世間一般に「ゲーム愛好家」と称される人の中にも、です。
そこから、

「だからこれまでの「工夫」中心のゲームの定義では不十分だ。別の定義が必要だ」
と考えるか、そうでなければ

「だが世間一般に用いられるゲームという語の用法はきちんと考察・定義された概念ではないので、自分達がこれまで論じて来たように、運試しなどとは区別して工夫を重視するのがゲーム重視のプレイヤーだと考えるべきだ」 と考えるか、について若干迷いを感じます。

また、「世間一般ではゲーム性とかゲームの楽しみというのは戦略的な工夫に限られないけれども、TRPGについてはどう考えるべきだろうか。キャラクタープレイやノリ重視のプレイや物語重視のプレイも、それが工夫の遊びになっていないとしても、何か別の意味でゲームだと呼べるのだろうか」という問題の立て方もありなのかも知れません。

いずれにせよ、個人的にはは、「工夫の遊び」とTRPGとの関係を考えていきたいということには変わりが無いのですが。それをゲームと呼ぶのであれ、ゲームの一種と位置づけるのであれ。

つまり、

「TRPGは工夫を楽しむ遊びとして成立つだろうか」
「TRPGのいろいろなプレイスタイルの内、どれが、どのような形で、どの程度、工夫を楽しむ遊びになっているだろうか」
「いわゆるゲーム性重視のプレイスタイルは、どのような形で、どの程度、工夫を楽しむ遊びになっているだろうか」
といったことを考えてきた従来の議論を踏襲してもう少し見通しのいい認識を得たい、という気持ちがあります。
2002年04月20日:15時45分23秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】ゲーム性と乱数要素 / トモス
ゲーム性を重視するゲームプレイヤーは乱数を嫌うか、という問題について。

結局、myrtさんが追求した工夫重視の立場もPurpleさんも僕が追求した純粋ゲーム志向の結果重視の立場も、運試しを積極的に楽しむことがない、ということが言えます。

乱数要素はあってもいいし、場合によってはゲームを楽しくするものだ、と考えるわけですが、そのゲームの楽しさはあくまでも工夫の楽しさであって運試しの楽しさではない、という形になっていると思います。



もう少し詳しく言えば、これまでの考察では、僕は、「ゲームを楽しむという観点からは乱数要素が勝敗に影響を与えるのはゲームに運試しを持ち込むことに相当するので、ゲームの観点からは純粋さが失われることになる」という意見を追求してきました。

当初は乱数要素は全て運試しをもたらす、というような気もしていたのですが、今ではそれは誤りだとわかります。

結果に影響を与えずにただゲームの難易度を上げるような乱数要素もあり得るので、全ての乱数要素が悪いというわけではないと言えます。(マインスイーパーから乱数要素を取り除いて、地雷の配置が毎回同じということになっていたら退屈だろうと思います。)

また、乱数要素を導入することが、ゲームの難易度を望ましいレベルに引き上げ、ほんの少しだけ運試しも導入してしまう、というような場合にも、乱数要素を受け入れるプレイヤーはいそうです。

ただ、ここでも運試しの要素は楽しいから導入されるのではなくて、戦略的な要素を複雑にすることとセットになっているから受け入れるという消極的な形ではないかと思います。

つまり、「ゲーム性重視のプレイヤー」という観点からは、「運試しを楽しむ」ということはないのではないかということを感じます。

また、myrtさんが追求した「工夫重視」の立場からは、乱数要素が勝敗にどう影響するかには関係なく、とにかく工夫の余地があるなら工夫をしてみることに楽しみを見出すようなゲームの遊び方になっているわけですが、運試しを積極的に楽しむものではありません。乱数要素の影響で勝率が低いようなゲーム(工夫によっても勝率がそれほど高くならないゲーム)について議論をしましたが、そこでは繰り返しプレイすることで、運試しの要素に非常に大きく左右されるような「勝敗」に変えて、工夫の度合いによって左右される(と期待できる)ような「何度もプレイしてみた場合の通算勝率」に注目してプレイするわけです。



運試しが積極的な評価を受けていないことは、3人共がゲームを工夫の遊び(または工夫の活動)として位置づけていて、かつ、運試しは工夫ではないと考えていることを考えれば納得が行きます。

繰り返しになりますが、この定義は、一般にゲームと呼ばれる遊びの中に「工夫と運試しの両方によって勝敗を決めることを楽しむ遊び」がかなり多く含まれていることとやや緊張関係にある感じがします。

もし運試しがゲームの楽しみの一種だ、ということであれば、「目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊び」というゲームの定義を見直すことが必要になりそうです。

乱数要素の議論から派生して来た左右重視、結果重視、といった話はその見直しの手がかりのような形になっています。「工夫以外の要素をゲーム楽しみとして受け入れる立場には、どのような感覚に基づいた立場があるだろうか」と考えているので。
2002年04月20日:15時25分08秒
【比較ゲーム分析】「左右重視」について / トモス
「左右重視」について、僕は「自分の手が勝敗を左右することを重視する立場(但し何が「手」であるかについてはいろいろ意見が分かれる)」という風に思っていたのですが、どうもそうとも限らないようですね。

だとすると、「左右重視」の人は、ゲームの勝敗が変動することを望む。つまり、ゲームにある種のインタラクティビティが含まれていることを望む、と言った方がいいでしょうか? 勝敗を変動させる要因は、人によってはただ戦略的な工夫だけが要因であるべきという場合もあり、そうではなく天候や対戦相手の手や乱数要素やその他いろいろな要因を認め、そうした諸要因によって結果が変わってくる仕組みになっていることを望む、という人もいる。この後者の場合、変動要因について寛容な左右重視の立場の場合は、「初めから結末が決まっているような遊びは嫌だ」ということで例えば小説や映画のような遊びは駄目だけれども、他の遊びについてはそれほど文句は言わない、と。勝率が非常に低いゲームや非常に高いゲームについても同じ理由で受け付けない場合わけです。(結果が常に負けのままだったり勝ちのままだったりするので)

但し、勝率は常に98%と99%の間に留まるけれども、毎回「勝ち方」が違っているならそれで納得する、というような人も「左右重視」の中に含めていいような気「も」しますがどうでしょうか?

あるいは、常に同じ結末を迎えるのだけれども、そこに至る展開が毎回違っていればそれで納得する、というような人も「左右重視」の一部でしょうか?

そうした新しい疑問も思い浮かびますが、とりあえずは、myrtさんが工夫重視と左右重視を対比させたことがよくわかる気がしました。

左右重視は、何かの要因ゲームの結果が変動するようになっていることを望む。要因がどのようなものであるべきか、については人によって違う。

工夫重視は、ほぼ確実に負けることがわかっているゲームであっても、途中経過(展開のパターンや勝利条件達成への近さ)や繰り返しプレイした場合の勝率などを参考に工夫を重ねることにも楽しみを見出せる。

前回僕が考え付いた(左右重視の立場として想像した)のは、「自分の行動が結果に影響を与えるようになっているべきだ」というもので、つまり自分が中心になっている遊びを遊ぶことに対するこだわりがあり、「自分の工夫」「自分の運」などが勝敗を左右することを望む、というものです。これに対して、今回考えた方の左右主義は、「いろいろな物事が起こりうる(勝敗が固定されていない)ような世界で遊ぶ」ことに重点が置かれていて、そこに自分が活躍する余地が少なくても気にしない、という点が特徴的です。

そこで、
>>勝敗にこだわる(結果重視)か工夫すること自体にこだわる(工夫重視)かと大きく分けて、結果重視の中に「工夫だけで勝敗が決まるべきだと考える純粋ゲーム志向」という特殊な立場がある、と考えるのがわかりやすいような気がしますがどうでしょうか。 <<
とmyrtさんが引用した僕の記述を更に書き換えて、

今回提示した左右重視が一番包括的なもので、「勝敗の固定されていない仕組み」に則って遊ぶことを重視する立場です。その中に「他の諸要素ではなく自分の行動」だけが結果を左右することを望む結果重視の立場が、その更に一部分として、「運試しのダイス振りや工夫のないプレイなどの諸行動ではなく、自分の工夫」だけが勝敗を左右することを重視する純粋ゲーム志向の結果重視(当初の結果重視)の立場がある、ということになるでしょうか。
2002年04月19日:17時47分52秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】ブラフにおける乱数と戦略 / myrt
(Re:2002年04月17日:14時18分53秒【乱数要素の比較ゲーム分析】乱数要 素と「運試し」の関係 / トモスさん)

 ボードゲーム「ブラフ」について失念していました。ブラフはダイスを 大量に使うゲームです。Web上で、いくつか わかりやすい紹介文が見つかります。

 ブラフは負け抜けゲームです。宣言によって勝負が発生すると、負けた ほうが失点します(例外あり)。

 勝負を仕掛ける側の勝率が仕掛けられる側よりも高くても、勝負を仕掛 けなければ失点の可能性そのものがありません。よって勝負の機会 が「たらいまわし」されるのですが、そのたびに状況が変化し、その うち誰かが勝負をせざるをえない状況に追い込まれます。 このバランスが絶妙です。あまり安全策を取ると、一周回って帰ってきてしま います。

 このようなゲームの工夫の余地は、乱数要素の上にだけ 存在するものだと思います。
2002年04月19日:17時45分22秒
【比較ゲーム分析】工夫重視と結果参照 / myrt
(Re:2002年04月18日:15時25分22秒【比較ゲーム分析】工夫 重視、結果重視、左右重視 / トモスさん)
>>そして左右重視というのは、「運試しなら自分でサイコロを振りたいし、 ゲームなら自分で工夫を考えたい」という「自分の行動によって結果が決ま ることへのこだわりを持った人の立場」だということでよいでしょうか。 <<

 相手の行動によって結果が決まってしまうことも立場によっては認めると 思います。また、自分の行動に関係がない場合もあるかもしれません。

・自分の戦略が関係ない例:プロ野球を観戦していて、雨天による中 断勝ちを狙う戦略を「手」と認めず、それは卑怯だと感じる。

・自分の戦略があるにもかかわらずそれを「手」と認めず、相手の戦 略だけを「手」と認める場合:初心者に対して熟練者が稽古をつけてやるとき。 相手の戦略が良いと感じれば負けてやり、悪いと感じれば勝つ。

>>勝敗にこだわる(結果重視)か工夫すること自体にこだわる(工夫重視)か と大きく分けて、結果重視の中に「工夫だけで勝敗が決まるべきだと考える純 粋ゲーム志向」という特殊な立場がある、と考えるのがわかりやすいような気 がしますがどうでしょうか。 <<

 賛成します。
--工夫重視プレイヤーについて--
>>少なくとも何が工夫足り得ているかを知るために、結果を参照しなけれ ばならない、そういう情報源としての結果に興味がある、ということにな りませんか? <<

 なるほど、そのとおりだと思います。結果と戦略の関係が明らかで、 結果に情報源としての価値がない場合にだけ参照する必要がないのでしょう。

 例えば、「倉庫番をクリアしたら20%の確率で勝利」というゲーム においては、その20%の法則がわからなければ結果に興味があるかも しれません。しかしそれがルールに明記されていたとしたら、 倉庫番をクリアした(あるいはその目処が立った)時点で満足すると思います。

 もしその面で勝利しなければ次の面に進めないとしたら、倉庫番としてのク リア手順を見つけるまでを楽しみ、その後は作業として手順のメモを見ながら プレイすると思います。それは次の面に進むための作業であり、工夫の 楽しみはないと考えられます。
2002年04月18日:15時25分22秒
【比較ゲーム分析】工夫重視、結果重視、左右重視 / トモス
昨日づけのmyrtさんの投稿「【比較ゲーム分析】結果重視と左右重視 」「【比較ゲーム分析】工夫重視と左右重視 」へのお返事です。

myrtさん、簡潔な説明ありがとうございした。

>>結果重視とは、「左右重視の中で、工夫を「手」とし、ダイス目を「手」とみなさない立場」ではないでしょうか。そして他プレイヤーの戦略を「手」とみなすか否かによって、結果主義内での立場が割れているように思います。<<

賛成です。

ここでmyrtさんが「手」と(常に括弧付きで)しているのはつまり、従来考えてきたような「戦略的な工夫」のことだけではなくて、ゲーム中にプレイヤーがとる他の行動も含みうる広い概念ですね。

そして左右重視というのは、「運試しなら自分でサイコロを振りたいし、ゲームなら自分で工夫を考えたい」という「自分の行動によって結果が決まることへのこだわりを持った人の立場」だということでよいでしょうか。



用語が少し紛らわしい形になってしまいましたが、

結果重視のゲームプレイヤー=勝つことにこだわり、そのために全力で工夫することを楽しみとする。(工夫はあくまでも勝つための手段、でも他の手段によって勝つことには興味がない。工夫なしても勝てるゲームや乱数要素が結果を大きく左右する遊びは、この立場からは敬遠する。)

左右重視の(ゲーム)プレイヤー=勝つことにこだわり、その勝敗が自分の行動の帰結であることを楽しみとする。(運試しも工夫も勝つための手段に含まれてよい)

工夫重視のゲームプレイヤー=少しでも優れた戦略を探り当てることを楽しみとする。(工夫自体が楽しみで、勝っても負けてもいい)

ということなので、
勝敗にこだわる(結果重視)か工夫すること自体にこだわる(工夫重視)かと大きく分けて、結果重視の中に「工夫だけで勝敗が決まるべきだと考える純粋ゲーム志向」という特殊な立場がある、と考えるのがわかりやすいような気がしますがどうでしょうか。

>>左右重視でなく工夫重視のプレイヤーは結果を見る必要がないかもしれません。<<

結果にこだわる度合いは当然、「結果重視」よりも低いと思います。ただ、「工夫」というのは常に優れた戦略のことで、それは「結果」との関係だけで決まると言えませんか? 結果自体に対するこだわりは少ない(か全くない)としても、少なくとも何が工夫足り得ているかを知るために、結果を参照しなければならない、そういう情報源としての結果に興味がある、ということになりませんか?
2002年04月17日:18時23分22秒
【比較ゲーム分析】工夫重視と左右重視 / myrt
 左右重視でなく工夫重視のプレイヤーは結果を見る 必要がないかもしれません。

 選ぶ戦略によって勝率が変わらないが、勝率が変わらないことを 確信することが難しいゲームがあったとします。ならば 勝率が変わらない(それ以上優れた戦略がない)こと証明する ことに面白みを感じ、安心して最適戦略を選べることに満足 するかもしれません。

 そして最後の戦略を選んでしまった後は工夫の余地がありません。 ならば、結果を見る必要がないかもしれません。結果を見る必要がなけれ ば、「工夫が無駄になる」ことはないですし、低い勝率も問題ありません。 これは、工夫すること自体が面白いという仮定と一致します。

 必要なのは、次の工夫のための情報です。繰り返しゲームを 行なう場合には、さらなる工夫のために結果のデータが欲しくなるかも しれません。

 実際のプレイヤーは左右重視性と工夫重視性を合わせ持ち、 工夫を楽しんでかつ結果次第で一喜一憂するものであると考察します。
2002年04月17日:17時58分17秒
【比較ゲーム分析】結果重視と左右重視 / myrt
 私が結果重視について考えてたどり着いた新しい立場を、「左右重視」と 名付けてみます。左右重視のプレイヤーは、「手」が結果を左右すること を望んでいます。何を「手」と見なすかには、左右重視の中でも意見がわ かれるとします。

 左右重視のプレイヤーは、自分の「手」が「手」以外の要素によって結 果を左右しなくなることを嫌います。強固な左右重視のプレイヤーは、 他のプレイヤーによるものは「手」と認めないかもしれません。

 左右重視の中で、純戦略を「手」と見なす立場を考 えます。丁半博打は、どちらの戦略を選ぶかによって結果が決定的に変わると見れば満足すべきゲームです。ここで「00に賭けることができない ルーレット」は、00が出たときにはどこに賭けていても勝てない(結果が変わらない)ことから「00に賭けることができるルーレット」より悪いゲー ムであるとみなします(払い戻しの期待値は変わらなくても)。

 しかしダイス目を「手」以外の要素 であると見なす場合には、「丁にかけて半が出た時と半に賭けて丁が出たと きの結果が同じである(賭けが当たった場合も同様)。戦略によって結果を左 右できなくなる悪いゲーム」と言うかもしれません。

 また将棋のようなゲームでも、相手の純戦略の選択を「手」と見なさな いならば、「こちらがいくら良い手を打っても、相手がそれ以上の戦略を 練ってきたら勝てない(結果が同じ)。これは悪いゲームだ」と言うかもしれません。

 さて、ダイスの出目も「手」とみなす場合を考えてみます。 すると、「GMの独断ならともかく、ダイス目が極端に悪かったならばPCが死 亡しても仕方ない」という立場になります。逆にダイス目の善し悪しが結果を左右 しないことが我慢ならず、ソードワールドでコボルト相手に 3回もクリティカルしたら「ダイス目が無駄になった」と悲しみます。

 プレイヤーのダイス目は「手」とみなすが、GMのダイス目を「手」とみ なさない場合を考えてみます。この場合の対抗ロールにおいて、GMが非常に 高い目を振った場合には「何を振ってもほとんど結果は同じじゃないか」と 考えます。

 最後に、工夫を「手」とみなす立場を考えてみます。工夫の程度によって 結果が変わることを期待し、結果的に過剰であった工夫を、また足りなかった 場合にはその工夫すべてを無駄とみなします。また、ダイス目を「手」とみなさ ないならば、良い工夫がダイス目のために失敗に終ると「工夫が無駄になっ た」と感じます。

 結果重視とは、「左右重視の中で、工夫を「手」とし、ダイス目 を「手」とみなさない立場」ではないでしょうか。そして他プレイヤーの 戦略を「手」とみなすか否かによって、結果主義内での立場が割れてい るように思います。
2002年04月17日:14時18分53秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】乱数要素と「運試し」の関係 / トモス
昨日づけの
Purpleさんの【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:ゲームの楽しさへの運の影響

myrtさんの【乱数要素の比較ゲーム分析】ハンデとランダム性
へのお返事です。

まずはPurpleさん、説明どうもありがとうございました。この件については僕はPurpleさんとかなり近い考え方をしているようだとわかりました。例のB項の記述については僕はまだ消化し切れていない点があるように思いますが、 myrtさんが挙げられたランダムにゴルフのハンディを決めるという話を読んで、いろいろ具体的に疑問や回答案が思い浮かんだのでそれらを書いてみます。

1)一般論

一般に、乱数要素について「推測する手がかり」が十分与えられていれば運試しを持ち込まない、と思います。
マインスイーパーの地雷の分布パターンは乱数で決められていますが、手がかりが与えられているために、その点については「運試し」をすることなくゲームを終了できる場合があります。)

また、推測する手がかりがなくても、「対処・準備する機会」が十分に与えられていれば乱数の値が何であれ、運試しを伴わない、とも言えそうだと思います。

2)ゴルフのハンディの乱数化のケース

myrtさんの挙げられたゴルフのハンディを乱数で(プレイ終了後に)決めるケースは、1人でゴルフをプレイする場合と、競争としてプレイする場合とに分けて、1人でプレイする場合については、ゲーム性を強化する可能性があると思います。プレイヤーは最悪のケースに備えてプレイする機会があるので、またある場合にのみ、それによって「運試し」が持ち込まれないと言えます。まあゴルフから運試しの要素を排除することはできないだろうと思いますが。

実際にはゴルフをする人が「ゲーム性重視のプレイ」をするとは限らない上、ゲームの場合でもそれが「競争」型であって、自分で設定した目的を達成することではない、などの理由で、myrtさんの指摘した例は生じないのだろうと思います。実力差がある状況では、通常のハンディに加えて、1d6の値を誰かに(これもランダムに決めます)ボーナスとして与える、というような形なら勝敗を不確定にします。(単に各人のハンディを乱数で決めるだけだと、実力のある人もない人も似たようなハンディをもらうことになり、結局は実力のある人が有利です。)

このようにボーナスをランダムに与える場合、他の相手がボーナスを獲得する可能性に備えて各プレイヤーが7点差を確保しようと工夫を凝らすようになりそうです。Purpleさんの議論通りです。
ただ、明らかに運が勝者を決める面があるので、「結果重視」の一部の人は反対するだろうと思います。そういう人はそもそもゴルフのように乱数要素を排除できないゲームをプレイしたくない、と思うかも知れませんが。

3)将棋にランダムなハンディを導入するケース

もう少しわかりやすい例で考えようと思って将棋に置き換えてみました。

将棋で、70手(か71手)プレイしたところで、実力が低い方のプレイヤーがダイスを振って偶数なら歩をひとつ、1の目なら香車をひとつ持ち駒として獲得する、3か5なら何も獲得しない、というルールを導入してプレイするとします。このルールは事前に知られており、両者合意の上で試合に臨みます。

これは例えば55手目の時点で、「もしもあと15手後に相手が香車を獲得したら」「歩だったら」と実力の高い方のプレイヤーにプレッシャーをかけることになります。実際どうなるかはサイコロを振るまでわかりません(=予測の手がかりがない)が、プレイヤーは準備する機会を与えられていると言えそうです。

そこで、実力の高い方のプレイヤーが負けた場合にも、「運が悪かったから負けたのではなくて、準備する機会を十分に与えられていたにも関わらず、十分対処するだけの実力がなかったから負けたのだ」と考えることができそうです。(本当にそう言っていいのかどうも少し自信がないのですが。)理由は、プレイヤーの指し方によっては、「例え相手が歩を獲得しても香車を獲得しても絶対に勝てるような局面に持ち込めるから」です。つまり、運抜きで勝てる試合をしているわけです。

それとも逆でしょうか? 弱い方の相手が、たまたま運良く香車を手に入れて、強い方のプレイヤーは実力不足からその可能性に準備せず歩の可能せいにだけ準備した試合運びをしていたために結局負けてしまう、ということも考えられます。この場合に「結果重視のゲームプレイヤー」は、「この勝負は運に左右された」と言ってボヤくのでしょうか。

ちょっと自分でもよくわからないのですが、もうひとつこの例についてわからないのは、そもそもこれが「対処・準備が可能な乱数要素」でないから迷いが生じているのか、それとも「対処・準備が可能な乱数要素は運試しを持ち込まない」という命題が間違いなのか、あるいはこれまで比較的単純明快な立場だと思っていた「結果重視のゲームプレイヤー」が実は単純ではないことが明らかになりつつあるのか、です。

4)確実に対処可能な乱数要素

更に単純な例を考えてみます。対戦要素も排除して、一人遊びにします。(これも多くのウィンドウズOSに付属しているゲームですが、)フリーセルを例にとります。ランダムに与えられたカードの配列を、ある特定の制約内で移動させることを繰り返し、最終的にある特定の規則に従った配列を作り上げる、という典型的な一人遊びです。初期設定はランダムに行われますが、マインスイーパーとは違って全面的に公開されています。つまり、対戦要素も、未公開要素もないわけです。乱数要素も初期設定以外にはありません。(もしかすると解のない初期配列があるかも知れないのですが、僕はよく知らないので一応それは起こらないものと仮定します。)

ここで、追加ルールとして、「10ターンに1回、そのターンだけ、ランダムに選定されたカードが1枚動かせなくなる」というものを導入します。
このルールだけだと、「運悪く勝利条件が達成できない」ということが起こりそうです。「この初期配列だと、どうしても10ターン目にこのカードを動かすか、それを避けるとしたら20ターン目にこのカードを動かすことになるのだが、それらのカードがたまたま選定されてしまったら絶対に勝利条件を達成できないことになってしまう」というような初期配列に遭遇することがありうるからです。

これは「乱数要素が運試しを導入する」という例です。ですが、そういうことが生じる可能性が非常に小さければ、「このルールがあるために運試しの要素がゲームに加わるけれども、同時に、10ターン後に動かせるカードを最低2枚確保しておくという追加的なタスクが発生したので、前よりも工夫を強いられるようになって楽しい」というプレイヤーはいそうです。

では、更にもうひとつ追加ルールがあって、「カードの選定はプレイヤーに与える効果を慎重に計算して行われるために、『このターンでこのカードを選定されてゲームオーバーになることを避ける為には他のnx10ターンの時点で他のカードを選定されてゲームオーバーになる危険を冒さなければならない』という条件が成立つ時には、そのカードが選定されることは決してない(コンピューターの方で判断してそのカードを避ける)」という仕組みがあるとします。
これによって、運試しの要素は皆無になり、かつ、この乱数要素は確実に対処・準備が可能な要素になります。これは結果重視のゲームプレイヤーも歓迎するであろう追加ルールだと言えます。もちろん、フリーセルに慣れていない人は駄目ですが。

少しややこしいかも知れませんが、「20ターン目でこのカードを選定されたらゲームオーバーだと気が付いたけれども気が付いたのが17ターン目で、その時点ではもう避けようがなかった。そして実際そのカードが選定されてしまった。」ということは起こり得ます。その場合にはそもそもその17手目までの間の読みが足りなかっただけで運試しの問題ではない、ということになります。そこで、運試しの要素はないのですが、単に難易度が増したためにゲームを敬遠する人もいそうです。

そういうプレイヤーの為に「3手前の時点で避けられないリスクが実現してゲームオーバーになるような選定は起こらない」というルールを追加することにしてもいいかも知れません。ちょっと話がずれますが。

以上のように考えると、先に挙げた2つの一般論、推測できる乱数要素と準備・対処ができる乱数要素は運試しを持ち込まずに難易度だけを上昇させることができる、という命題はどうやら正しいと言えそうです。将棋の件はまだ迷いがありますが。

以上です。
2002年04月17日:11時38分10秒
【比較ゲーム分析】Re:結果主義と工夫の余地は無関係?? / トモス
昨日付けmyrtさんの【比較ゲーム分析】結果主義と工夫の余地は無関係?? へのお返事です。

myrtさんの例、面白そうなのですがまだよくわからないので同じ題材について僕の解釈を書いてみます。

丁半博打については、「実際の値がどうなっているか(未公開要素が何であるか)推測する手がかりがまったくなく、工夫によって勝率が50%以上になったり以下になったりする可能性がない」という風に考えられるように思います。(確かに0%から100%までの変動域を持つ、ともとれるわけですが。)どのような戦略であれ、繰り返しプレイすると勝率は50%になるゲームなので、工夫重視のプレイヤーも、それをゲームではない、そこには工夫の余地がない、と考えるのではないかと思います。

もしもゲームのルールを知っているなら、観測の必要はなく、そのゲームの初期設定がランダムに行われることと、手がかりが何もないことを知った途端にわかるものという気がします、ちなみに。(そう考えないこともできますが。例えば初期設定がランダムに決まることを無視して、値が1の場合、2の場合、それぞれを別々のシナリオに基づいた別々のゲーム、とTRPGに倣って考えることで。)

仮に何かの理由でプレイ後に検証するに及んだとしても、「結局のところあの時点で正解を選べる手がかりはなく、どう頑張っても勝率を変動させる可能性はなかった、つまり工夫の余地がなく、運試しでしかなかった」と結論すると思います。

こうした理由から、結果重視のゲームプレイヤーにとっては、丁半博打は工夫の余地がない、勝利条件の達成を目指して努力する甲斐のない遊びだ、ということになります。もちろん、結果重視のゲームプレイヤーが同時にギャンブラーでもある、ということもありうるわけで、丁半博打をゲームではなく運試しとして楽しむという可能性は残されていますが。

一般的に、未公開要素について推測するための十分な手がかりがないにも関わらずそれについての選択が勝敗を左右する場合には、運試しの要素が入り込む、と言えます。 丁半の場合も、候補を十分絞り込めないにもかかわらず、それについて選択を迫られ、勝敗がその選択で勝敗が決まるところが運試しになっている、と感じます。

#これは工夫の余地についての僕の投稿の3−3で扱ったものですが、そこでは「絞り込めない」要素というのは丁半のような二者択一ではなくて多くの選択肢が想定できる場合を想定していました。その意味であの部分の議論は不徹底だった、ということに気付かされました。myrtさんはそれを指摘しているわけではないようですが。




myrtさんの挙げられた10面ダイスを用いた2つのゲームの場合には、手によって勝率が変動します。ですが、どちらの手が有利であるかがわかっており、かつ、実際にダイスの値が何であるかについては何の手がかりも無いとしたら、常に有利な方をとるだけのゲームなので、2つの戦略がありうることを知っていて、それぞれの勝率を比べられる人にとってはゲームになりえません。(つまり簡単過ぎるので工夫の余地がない)

そこで、もしも何かの理由で戦略AとBをとった場合の勝率がそれほど明らかではなく、あれこれの計算や論理的な思考をしなければならない、としたら、という仮定つきで考えると、このゲームはプレイヤーが工夫によって20%ほど勝率の高い手に気付く可能性があるので、ゲームになっている、と言えます。この分だけは、工夫のしがいがあります。

ですが、2つのゲームいずれにおいても、勝率の上限が60%なので、一部の結果重視のプレイヤーはそれに対して不満を持つと思います。(下限が40%であることにも)

いずれのゲームでも、工夫によってできることに限界があり、戦略Aに気付いた場合(工夫によって気付いた場合)でも依然として運がよくなければ勝利条件を達成できません。また、いずれのゲームでも、何の工夫をしなくても運さえよければ勝てる点も問題です。「こんなゲームじゃ勝つために頭をひねる甲斐がないなあ」と結果重視の人はボヤきそうです。(工夫重視の人も一度戦略Aに気付いてしまったら後は為す術がなく、60%以上の勝率を期待することができないのでボヤきそうですが。)




以上の議論から考えられるのは「勝率」という概念の適用の仕方の違いが誤解なり、2つの異なる立場なりを生み出しいているらしい、ということです。

でももうひとつ、myrtさんは「結果重視のゲームプレイヤー」について僕が提案したのとは別の定義の仕方に思い当たったという状況なのかも知れない、とも思います。

僕が思い描いているところの結果重視のプレイヤーは「自分の工夫が勝敗を左右する度合いが低くては、最良の結果を目指して努力する動機が得られないではないか。だからゲームの勝敗は工夫の量によって左右されるようになっているのがいい。」と考えるような、ゲームの勝敗にこだわってプレイをする人たちです。

ともあれ何かまた僕の思いつかなかったアイディアが出てきているようなので理解できることを楽しみにしつつ今回はこれで。
2002年04月16日:18時00分05秒
【比較ゲーム分析】結果主義と工夫の余地は無関係?? / myrt
(Re:2002年04月15日:23時28分16秒【比較ゲーム分析】「工夫の余地」とは何か / トモスさん)
 唐突に何か見えたような気がします。結果主義と工夫の 余地の間には関係はないのではないでしょうか。ただし、プレイヤーが 結果重視と工夫重視をある程度の割合で合わせ持つことはできるとして。

>>2)「手が結果を左右する仕組み」
・手が結果を変動させるような仕組みを予めデザインしておく こと、(デザイン上の配慮)
・強すぎる相手との対戦などが生じないこと(運用上の配慮) など がそれにあたると思い当たります。 <<

 観測の問題を無視すると、丁半博打がこの2条件をクリアしてしまいます。

・丁半いずれの手を選んだかによって結果を変動させるような仕組みが あらかじめデザインされている(ダイスはすでに振られていて、手を 選んだ後で検証することができる)。
・どの手を選ぶかにより、勝率が0から100%の間で変動する。

 さらに注意すべきなのは、このような仕組みは制御層において 本質的ですから、ゲームの実態においてもそれなりに本質的であると考えら れることです。これを確かめるために、一つの例を考えてみます。

 勝率60%の戦略Aと、勝率40%の戦略Bのどちらかを選ぶことができる ゲームの、2つのバリエーションを考えます。あらかじめGMが10面ダイスを 振っておき、それを選択の後で公開するとします。

・戦略Aを選んでダイス目が1-6だったとき、あるいは戦略Bを選んでダイス目が 1-4だったときに勝ちとする。
・戦略Aを選んでダイス目が1-6だったとき、あるいは戦略Bを選んでダイス目が 7-0だったときに勝ちとする。

 工夫重視の観点からは、これら2つのゲームの間に差はありません。 しかし結果重視の観点からは、前者を「GMが7-0を振っていたら勝利が 不可能である悪いゲーム」「プレイヤーが戦略を選ぶことによって勝率を変化 させられる度合は20%しかない」とみなす、ということではないでしょうか??
#これが正しい認識だとすれば、えらく遠回りをしてしまった...

 そして徹底的に結果重視でかつ工夫重視であるとき、「究極のゲームはパズル雑誌の パズルだ」となるのかもしれません。
2002年04月16日:17時57分26秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】ハンデとランダム性 / myrt
(Re:2002年04月16日:02時28分09秒【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:ゲームの楽しさへの運の影響 / Purpleさん)

 「勝敗を不確定にしたらゲームとしての楽しさが増える」論に ついて、勝敗を不確定にするために直接ランダム性を導入したら どうなるかを考察してみました。

 単に勝利を不確定にするだけなら、ゴルフにおいては「ハンデは2d20で、 プレイ終了後に決定する」とすれば良いです。しかしそんなハンデの付け方 は聞いたことがありません。

 逆に、麻雀などのランダム性をわざと導入したゲームにおいては、「彼の 今までの成績を鑑みて、6000点のハンデをあげよう」というようなハンデを つけることも見たことがありません。

 だからどうだという結論はないのですが、ここからもランダム性は勝利 を不確定にする以上の役割を担っているように感じられます。
2002年04月16日:03時45分37秒
TRPG総合研究室 LOG 097 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 097として2002年04月08日から2002年04月15日までのログを切り出しました。


2002年04月16日:02時28分09秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:ゲームの楽しさへの運の影響 / Purple
 >ただ、ゲームの楽しさではないとしても、純粋なゲームではなくて運試しとゲームの混合のような遊び(勝負の遊び)として遊ぶ場合にはそういう楽しみもあってもいいかな、とは思います。Purpleさんもそういう意見だ、ということでしょうか。
 
 はい、そうです。
 ある遊びがあって、それがゲームを名のるからと言って、一から十までゲームとしての楽しさが無ければならないと言うのは、無理と言うものです。ゲーム以外の要素の楽しさがあったっていいはずです。(もっとも、私自身は「運試し」を楽しいとは感じませんが。)
 
 ---
 
 >Purpleさんも、運の要素によって勝敗が左右されることも楽しみの内だ、と考えているのかと思っていたのですが。これは楽しみの一種だけれどもゲームの楽しみではないということでしょうか?
 >それとも、ランダマイザによっていろいろな局面が生み出されるからこそ、ある程度先行きが不透明になって、全体としては技量が上であるプレイヤーにとって苦手な局面が訪れたりして勝敗が多少不確定になる、という点で、つまりあくまでゲームとして、面白いということでしょうか?
 
 いちおう、後者のほうだと思います。トモスさんが上で述べていることに加えて、次のようなことが言えると思います。
 
 技量差があるプレイヤー間の対戦ゲームで運の影響が無い場合、技量の高いプレイヤーは、たいして苦労せずに(悩んだり考え込んだりすること無く)勝ててしまうために、ゲームとしての楽しさを感じられません。技量の低いプレイヤーは、勝てないまでもいろいろと悩み考えるはずなので、楽しめるでしょう。
 
 運の影響があれば、技量の高いプレイヤーは「運悪く負ける」事が起きないように、考えなければならなくなるでしょう。つまり、ゲームとしての楽しさが増えます。技量の低いプレイヤーも、同じ用に考えなければならないことが増えるので楽しさが増えます。
 
 結局のところ、1つまえの書き込みで述べた、
 ---
 (B)「運の影響を考慮して、次の一手を考える。」ということが工夫の難易度を上げる。難易度の低い目標を達成したときよりも、難易度の高い目標を達成したときのほうがプレイヤーが得られる満足感は高くなりやすいので、その点では、ゲームとしての楽しさが増える。
 ---
 ということが運の影響としてもたらされ、それが間接的にゲームとしての楽しさを増やす、ということが言いたいのです。
2002年04月15日:23時28分16秒
【比較ゲーム分析】「工夫の余地」とは何か / トモス
本日付け、myrtさんの【比較ゲーム分析】観測と工夫の余地 へのお返事です。

>>説明ありがとうございました。「結果重視のプレイ/ゲームプレイヤー」についてはある程度理解できたように考えています。<<

僕は自分の考えている立場以外の立場がなかなか思い当たらなかったので、myrtさんの立場が一貫した立場として成立つのを実感できたことがちょっとした収穫でした。

とりあえず、ゲームの勝率をめぐるあれこれが「悪いゲーム」の特徴たりえるかどうかについては、2つの立場がある、ということでよいでしょうか。どちらの立場がよいか、優劣にもう少しこだわって考えると何か出てきそうな気もしますが、今回はその議論とは少し離れた形で、myrtさんの挙げられた「工夫の余地」をめぐる疑問点についての考えを書きます。

1)「工夫の余地」について
ゲーム性重視のプレイをするにあたって、「工夫の余地」があるとプレイ中に感じることは、ある種の体験主義者(実証主義的、懐疑的、の両者)にとっては重要です。また、実態主義者にとっては、事後検証を通じて「あのプレイにはきちんと工夫の余地があったのだ(だから、プレイ中には疑問を持ったこともあったけれども、やっぱり自分はゲームをプレイしたのだ)」ということを感じられることが重要です。以下、基本的にはこの2種(一部の体験主義者と実態主義者)を扱うことにします。*1

#実際に「ゲーム性重視のTRPGプレイヤー」がどの立場に近いのかについてはとりあえずここでは考えないことにします。

myrtさんの投稿を読んで思い至ったのですが、「工夫の余地」には2つの意味があるように思います。ひとつは「自分が違う手を打つと違う結果に至る」という構造的な性質です。もうひとつは、「ゲームの仕組みが簡単過ぎず、難し過ぎない」という難易度に関する性質です。(と書いてみてこれは「実態主義」の主要条件と付帯条件の2つと一致していることに気が付きました。だからどうなのかはちょっとわかりませんが…。)以下に順に説明してみます。

2)「手が結果を左右する仕組み」

まず、構造的性質については、

・手が結果を変動させるような仕組みを予めデザインしておくこと、(デザイン上の配慮)
・強すぎる相手との対戦などが生じないこと(運用上の配慮) などがそれにあたると思い当たります。

またTRPGについては、GMによる設定変更があるので、それがプレイヤーの手が結果に及ぼす影響を打ち消してしまうことが考えられますが、それを避けるためにどうすればよいかについてもいくつかアイディアが出ています。「独立性、中立性、難易度適正化」などといった諸原則に従う設定変更をすること、というのがそれです。これも運用上の配慮の一種と言えます。*2

ある種の体験主義者は、これらが多かれ少なかれプレイ中に観測でき、プレイがゲームの仕組みを備えていると実感できることを望みます。また、実態主義者であれば、観測とは関係なく、プレイ後に検証してみて、プレイに実際そういう構造的性質があったことを確かめたいと考えます。

この構造的な性質については、工夫重視のプレイヤーと結果重視のプレイヤーの間で意見が分かれることになります。工夫の余地があると感じられれば(体験主義)/検証できれば(実態主義)難易度を余り気にしないのが前者の立場です。後者の立場は、勝率の上限が低すぎず、下限が高すぎず、変動幅が小さ過ぎないことを求める(プレイ中の実感としてであれ、プレイ後の検証結果としてであれ)ものだと言えます。
#工夫重視、結果重視いずれも、体験主義、実態主義それぞれの立場と組み合わせ可能だ、と考えてよさそうです。以前はこの点で迷っていたわけですが。

3)「難易度」

ここで問題にしたい難易度は、勝率ではなく、ゲームの仕組みがどの程度理解し易いか、です。例えば非常に複雑なルールに基づいているけれどもどんなに拙い手を打っても95%の確率で目的達成できるようなゲームは、「難易度が高い」とこの投稿では扱います。ちょっとややこしいですが、ゲームの理解・把握が難しいことと、ゲームの勝利が難しいことの違いで、前者の方の難易度を問題にしたいわけです。

難易度は観測の問題と2重の形で結びついています。体験主義者にとっては、プレイ中に、このゲームは易しすぎる、とか、何がどうなっているのか全然わからず、どう戦略を立てていいかがわからない、などと感じないことが重要です。また、実態主義者であれば、「あの時点で、これだけの手持ちの情報を元に、妥当な手を思いつく余地があったか」と考えてみて、それが余りにも難しければ、あるいは簡単であれば、ゲームではないということになります。事後検証の際に、プレイ中のプレイヤーが行った観測が問題になる、という風に言えます。

手の優劣の比較可能性、乱数要素や未公開要素についての考察など既に手がかりがいろいろあるので、この、第2の条件についてまとめてみます。

3−1)乱数要素も未公開要素もない一人遊びの場合

数学の問題やパズル、詰め将棋などであれば、隠されている情報は何もありません。ですが、多くのプレイヤーにとって工夫の余地はあると思います。プレイの実態がわかっていても、工夫の余地がないとは限らない、という好例だと思います。

どういうプレイヤーにとって工夫の余地があるか、というと、以前書いたことですが、 a)「最適手」や「必勝手」を知らない b)簡単過ぎることがない c)複雑過ぎることがない

という3点でいいように思います。1と2はもしかすると一緒にしてもいいかも知れません。(以下の議論では一緒にして扱うことにします。)

プレイの実態(このタイプのゲームではゲーム核と一致すると言えそうです)が隠されていなくても、結局、それを完全に見通すだけの思考能力がない限りは先が読めないわけで、先を読もうとする努力は、そのまま解を探すような行為になります。その努力ができるなら、工夫の余地があると言えそうです。努力もなしにできたり、努力の仕方もわからず途方に暮れるようなら、工夫の余地はないと言えます。但し、実態主義者に限っては、「プレイ中には思いつかなかったけれども、あのテクニックを使うだけでよかったんだ」などと気付くことで、プレイ中には工夫の余地がないと感じた問題について実は工夫の余地があった(だから実はあれはちゃんとゲームになっていた)と考える場合があるように思います。(そう考えない実態主義者もいるかも知れませんが。)

3−2)確率分布と場合分け

では、対戦型ゲームや、乱数要素のあるゲームについてはどうか、とトランプの一人用ゲームや対戦型のゲームを念頭に考えてみます。ここには乱数要素や対戦相手の手など、プレイヤーがプレイ中に把握できない要素がプレイの実態に含まれています。

ところが乱数の確率分布や、起こりうる事態の総体(全ての場合)などがわかっており(未知の部分について、推測する手がかりがある)、かつ、通常乱数や事態がどのような展開をもたらすかについてもわかっている(局面の展開規則を知っている)という特徴があります。*3
つまり、全ての情報が公開されている上のようなゲームとかなり近いと考えることができます。

原理的には、どんな局面についても、複数の手の内いずれが優れているか、をかなり形式的に厳密に比較することが可能です。役によって得点が決っている(チップを使った賭けのプロセスなどがない)ポーカーであれば、どの札を捨てるとどのような確率でどのような役ができるのか、それを期待値に換算すると何点であるか、を可能な札の捨て方全てについて検討することが、原理的には可能です。(これは現実的にもそう難しくありません。)また、自分の後に誰かが札を捨てて山札からとる場合には、自分がどの札を捨てるとそのプレイヤーにどのような情報を与えることになるのかについて考えることができ、相手の可能な手札の組み合わせ全ての場合について検討して、自分の捨て札がどうであれば一番参考にならないかを検討することができます。但し、この場合は、相手が捨て札からどういう情報をどのように読み取るかについて仮定を立てなければならず、「こういう読み方をする人の場合」「ああいう読み方をする人だった場合」などそれぞれの場合についての検討ができるだけです。この、相手の情報解読アルゴリズムを特定のものに仮定すれば、自分の捨て札が何であれば相手の期待値が一番変動しにくいかを決めることができ、自分の得点の期待値とあわせて、自分の最適手が何であるかを、原理的には、導出することができます。現実問題としてはこれは煩雑過ぎてほぼ不可能ですが。

将棋やチェスや五目ならべの場合には、乱数要素はほぼ皆無です。確率分布について考察できるような要素もない、と言ってよいと思います。その代わりに、「相手がもしもこういう手を打ってきたらどうか」「そうではなくああいう手で来たらどうか」という様々な「場合」について考えるわけです。原理的には、全ての局面について、自分や相手がとりうる全ての手がわかっているので、全ての起こりうる展開を調べることが可能です。従って、何か必勝手があればそれを特定することが(原理的には)可能で、そうでない場合にも、どの局面における相手のどの手が自分の勝利を脅かすものであるかを特定できます。もしも相手の思考回路について仮定を導入することができれば、最適手が何であるかを導出することも、原理的には可能です。

このような原理的な可能性がある、ということ自体は、「ゲームの仕組みがある」ということの確証の一部で、これは観測の必要がありません。ポーカー(なり他のゲームなり)を知っていて、確率計算や場合分けを通じて何が推論可能かを考えることができる人であれば、プレイ開始時点で既に知っていることです。プレイ中にそのルールが守られているかどうか疑問の余地がある(イカサマの可能性がある)などといった部分を除いては。

また、現実的には上のような論理的な形で手を評価することは、プレイ中にはほぼ不可能なので、その代わりにあれこれの限定された部分をとりだして、(当面は相手のこの飛車とあの銀が問題だ、などと)その部分を何とかする手段を考えたりします。もしもその必要がなく、最適手がたちどころにわかってしまうとか、逆に何をどう考えていったらいいかがわからないとかいう場合には、(ある種の)体験主義者は「このプレイはゲームっぽくない」実態主義者は「このプレイはゲームになっていない」と考えることになると思います。

対戦相手が強すぎたり弱すぎたりするという可能性については、事後検証が厳密には不可能です。現実的にもほぼ不可能なので、観測された手がかりにかなり頼って判断することになると思います。

3−3)未公開要素と推測

これは、先日の投稿で書いたばかりなのでそこから簡単に引用します。*4

>>GMは、ゲームの勝敗を大きく左右するような要素を、全く「推測不可能」な要素として(手がかりも、手がかりを得られる可能性もなく)おくことは望ましくない。また、GMは、ゲームの勝敗を大きく左右するような決断を、絞り込み不可能な要素について行わせることは望ましくない。こうしたことは、「ゲーム」の楽しみである工夫によって目的を達成することを減らし、代わりに事前の筋書きや運によって目的の達成が左右される、ゲームでない遊びの度合いを増やす。<<(トモス)

「絞り込み不可能な要素」というのは多くの可能性を想定できるような未知の要素です。(あるNPCが嫌っている食べ物があるらしいが、それが何かが全くわからない、など。)

そして、この未公開要素については、今回のmyrtさんの指摘、
>>ところが、どの戦略がどの程度むくわれるかはわかっていれば工夫の余地はありません。そのゲームの実態を完全に把握していたら、全く工夫の余地はないわけです。だから、プレイヤーが観測し把握するものが何かは、工夫を論ずるために極めて重要です。<<
が特によくあてはまると思います。あるプレイヤーが何を知っており、何を推測できるか、は工夫の余地があるかどうかを決める要素です。

体験主義者にとっては、「手持ちの情報が目的達成のための戦略を決めるのに役に立つと感じるかどうか」が重要です。実態主義者にとっては、事後検証をした際に、「あの時のあの情報量から、目的達成に不可欠なこの手に思い至る可能性があっただろうか?」「この罠を避ける可能性があっただろうか」などと考えることが重要です。それが非常に難しかったら、「あのプレイは工夫の余地がなく、ゲームではなかった」ということになります。

myrtさんは事後検証は無意味、ということを書いていますが、このように考えると僕には事後検証は意味があると思います。あくまで、「あの時あれだけの手がかりで想定可能な手の中によい手が含まれていたかどうか」「あの時点で既に最終目的達成の可能性が非常に限られていたのだとしたら、それ以前にもっと調査行動をすべきだったということが、それ以前の時点で手にしていた情報をよく吟味していたら明らかだったかどうか」といった類の検証であって、「これらの設定に気付いてさえいればちゃんと結果に結びつく手が打てたのに!」などと非現実的な仮定に基づいた議論をする検証ではないです。どうでしょうか?

ただ、「何が明白な事柄か」については非常に意見が分かれるところだろうと思います。確率や対戦相手の手の問題とは違って、未公開要素の中には「常識」のようなものを多量に推論に要求するような要素があるからです。(アドベンチャーゲームの犯人探しであれ、TRPGにおける交渉であれ)TRPGは複雑な物事を複雑なままに、それらしく扱おうとする傾向があるので、とりわけそれが多いように思います。そうすると、「明白過ぎて工夫の余地がない」場合と「ある種の発想を持っていない人は逆立ちしても気付かない」場合とが紙一重になり、参加したプレイヤーの誰からもゲームだったと認められることが難しいのではないか、とすら思います。前の2項目で扱ったゲームがどちらかと言えば複雑な事象を扱う計算に近い作業を要求する、形式論理的な思考を要求するものであったことと対照的です。

4)まとめ

「工夫の余地」が何なのか、についての以上の議論をまとめると、ゲームの目的達成の可否や達成度(結果)が手によって左右されるような仕組みと、その仕組みを把握することの困難さの2つだと言えます。
更に、仕組みを把握することの困難さは、
a)「最適手」や「必勝手」を知らない
b)簡単過ぎることがない
c)複雑過ぎることがない
の3つの条件として考えられます。単に複雑なルールはそれをしっかりと把握しようとすることが、、確率分布がわかっている乱数ならそれを手がかりに期待値を考えることが、対戦相手の手は場合分けで考えることが、未公開部分については常識を手がかりに推測することが、それぞれ「工夫」にあたる、と考えてみました。その工夫が工夫でないほど簡単だったり困難だったりしない限りは、ですが。

体験主義者はそれらをプレイ中に実感したいと思い、実態主義者はプレイ中に実感できなくてもよいからプレイ後に検証してその存在を確かめたい、と思うことになると言えます。

長文で失礼しました。

参考:

この投稿の内容は、以下の投稿にその後の議論からの結論を付け加えたもの、と言えそうです。
【比較ゲーム分析】ゲームっぽい楽しみが成立する条件,トモス,2002年03月03日:20時17分15秒,TRPG LABO LOG 092

*1
体験主義の3つの分類(信じ込む者、実証主義的、懐疑的)は
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:観測とゲーム性,トモス,2002年04月11日:14時53分38秒, TRPG LABO LOG 097

で提案したものです。

実態主義と体験主義自体は以下の投稿とその前後に議論があります。
【制御層とゲーム分析】ゲーム性の成立条件としてのプレイヤーの実感 トモス,2002年03月29日:15時20分00秒,TRPG LABO LOG 095

*2
TRPGにおける設定変更の「原則」は、独立性と中立性については
【制御層とゲーム分析】別ゲームへの移行、独立性と中立性の原則、擬似ゲーム,トモス,2002年02月26日:11時44分08秒,TRPGLABO LOG 091

難易度適正化については、
【比較ゲーム分析】追加設定の際の「難易度適正化」の原則,トモス,2002年03月05日:11時03分49秒,TRPG LABO LOG 092

*3
以下、乱数要素と対戦相手の含まれるゲームの難易度についての考察の大半は、
【比較ゲーム分析】ゲームにおける手の比較(1):結果論と一般論,トモス, 2002年03月18日:17時23分45秒, TRPG LABO LOG 094
とそれに続く投稿の繰り返しになっていると思います。

*4
以下、未公開要素の含まれるゲームの難易度についての考察の大半は、
【未公開要素の比較ゲーム分析】GMはプレイヤーから何を隠してよいか,トモス,2002年04月13日:07時55分27秒, TRPG LABO LOG 097
の繰り返しになっていると思います。
2002年04月15日:20時00分00秒
TRPG総合研究室 LOG 097 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 097として2002年04月08日から2002年04月15日までのログを切り出しました。



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