TRPG総合研究室 LOG 095

TRPG総合研究室の2002年03月21日から2002年03月30日までのログです。


2002年03月30日:01時05分06秒
【制御層とゲーム分析】ゲーム性とランダマイザ / myrt
(Re:2002年03月29日:15時08分03秒
【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み / トモスさん)
>>ゲーム性は「実際にプレイヤーの手が結果を左右する仕組みになっているかどうか、その 仕組みがプレイヤーに工夫を要請・許容するような適度な難易度を持っているか」<<

 ランダマイザについてはどう解釈すべきでしょうか。「プレイヤーの手が良ければ 成功率が上がるが、ダイス目でピンゾロを振ればいずれにせよ失敗」であるような 場合です。制御層の場合は混合戦略(それぞれの手を選ぶ確率を指定する戦略)と期待 値を用いて解釈できましたが(利得の期待値が高ければ良い戦略だと見なせる)、GMや他プレ イヤーまでを「ゲームの仕組み」に組み込んでしまう以上、ダイス目の羅列さえも組 み込んでしまうべきかもしれません。

 例えば、「最初 から最後までピンゾロを振った。こんな出目で勝てるか!!」というプレイもありえます。 プレイヤーが自身のダイス目で勝敗を決定づけてしまったり、 ビギナーズラックに恵まれた相手プレイヤーがダイス目だけで こちらの最善手をうち砕いてしまうこともありえます。

 組み込まないとこのような場合が説明できず、組み込むと「ここで4の目を振ったから、 難易度を4に下げる戦略だけに意味があった」というような分析になるように思えます。

>>GMがプレイヤーの勝ち負けを決めてしまおうとしている場合には、プレイヤーの手は 結果を左右することがありません。<<

 「プレイヤーの手を判定して(依存して)GMが勝ち負けを決める」のは普通で すから、「プレイヤーの手に 関係なくGMがプレイヤーの勝ち負けを決めてしまうとき」だけが問題になり、結 局「プレイヤーの手が結果を左右しないとき」に含まれると思います。

 この立場では「プレイヤーがいい手を打ったのに、GMが設定を追加して阻止した」場合 は、「プレイヤーの手がGMが設定を追加するかどうかを左右した」と見なすことができると 思います。「阻止されるかどうかを左右することが可能であったか」は定かではありませんが。

 また最後に、実態主義は「その実態をどれだけ認識できるのか」の問題に帰結できます。 ちょうど体感主義の「体感するからには、体感するに足る何らかの実態があるんじゃ ないのか」という問題と表裏一体をなすように思えます。「子供が物語の矛盾に気づくので、 設定資料を作ってから語り聞かせることにした」というトールキンの話を思い出しました。
2002年03月30日:01時02分57秒
【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み / myrt
(Re:2002年03月29日:15時08分03秒
【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み / トモスさん)
>>つまり、「別ゲームへの移行が生じると、またその時にのみ、厳密な意味でのゲーム性がなくなる」という、これまでの議論の基礎のようになっていた考え方について、疑問が湧いたわけです。 <<

これは私も感じていました。

>>では一体、どういう時にあるプレイがゲームなのか、ゲームでないのか、ということを考えて、制御層の安定性とは別の基準に辿り着いた結果が今回の議論です。 <<

 ここが問題です。私は「自称ゲーム派プレイヤーがプレイに対して求めている性質は、別ゲームへの移行が生じない性質とイコールではないことがわかった。ならば、彼らがプレイに対して 求めている性質は何だろうか」という点の追求になるのではないかと思います。トモスさ んの「ゲーム性」に関する議論はこれを狙っておられるように感じられ、これはまさしく今議論すべ き性質であるように思います。

 こうなると「ゲーム性を持つことと特定のゲームであることはイコールではない」という結論が 出るので「ゲーム性の成立」と「ゲームの成立」がきっぱり切り離せると思うのですが、 トモスさんはこれらを同一視することにこだわっておられるように感じます。「ゲーム性を持つ」 という用語だけで十分なのでその必要はないと思うのですが...

>>直観を頼りに別の公理系を探してみた、と思ってもらえれば納得してもらえるのではな いかと思って(願って)います。その場合でも、ゲーム性やゲームっぽさなど、従来の公 理系で使っていた用語を再定義して使うのではなく、別の用語を使えばいいのではないか、 という疑問は残るかも知れませんが。 <<

 まさにその疑問を持っています。別の公理系を考えたとき、従来の 公理系との関係を示せないと従来の議論が無駄になってしまいます(一から 始めるならそれも良いのですが)。ところが それが示せれば、その両者を統一してより広い(足りない点をカバーしあった)公理系 として利用できます。「ゲーム性」という言葉は、今 まで「ゲームっぽさ」と「ゲームの同一性」の間で浮いていましたから 定義を与えることは問題ないと思います。
2002年03月29日:16時23分03秒
【制御層とゲーム分析】制御層を固定することの意義 / トモス
制御層の意義について疑問を投げかける議論をしたので、逆にその意義を探してみました。

疑問を投げかける議論、というのは、直前の投稿2本に記したものです。

プレイの実態を重視して、「プレイヤーの手が目的の達成の可否や程度を左右する仕組みになっているかどうか」と、「プレイヤーに工夫を要請・許容するような適度な難易度になっているか」を基準にしてゲーム性の有無を考える実態主義
や、
プレイヤーの実感を重視して、「プレイヤーが自分の手によって目的の達成の可否や程度が左右されると感じるかどうか」と、「工夫を要請・許容するような適度難易度になっていると感じるかどうか」を基準にしてゲーム性の有無を考える体験主義
の立場からは、

「ゲーム性重視のプレイに必要なものは、制御層の固定ではないし、制御層の固定はゲーム性の確保に役に立つ場合も立たない場合もある」ということになります。

では制御層は用済みの概念なのでしょうか。

ひとつ、制御層が明らかに重要だと思われるのは、(以前にも書いたことですが)対戦型のゲームをする場合です。プレイヤーの間で「これからこういうルールでプレイしよう」という合意を形成する必要があり、もしもそれができなければ、ゲーム中に、
A:「こういう場合はこう処理するのがルールじゃないか。」
B:「いや、違う。」
とか
A:「今のは反則だ。」
B:「そんなルールはない」

といった事態が発生する可能性があります。こうしたことが引き金で、どちらかが「今プレイしているゲームの制御層が何か」についての認識を改めなければならない事態が発生したとしたら、それは実質的には「別ゲームへの移行」であり、対戦型のゲームで不本意な別ゲームへの移行が生じる場合にはゲーム性がなくなることが十分ありえると思います。

これを避けるために、制御層を公開、共有しておくことが必要です。契約のようなものだと言えます。

また、単にどのような制御層でもいいから共有しておく、ということではなく、想定される局面の全てについて、どういう判定・処理がされるべきかについて確定済の、(「完結した」という表現をmyrtさんが使ったのはこれを指してのことだったと思います)制御層を共有しておくことが、プレイ中のいざこざをなくすために有効です。



ではTRPGにとっては制御層は何でしょうか?
TRPGは必ずしも対戦型(GM対PLの)のゲームではないわけですが、だとすると、むしろ上のゲームの実態やプレイヤーの実感を重視する方が「ゲーム性重視のプレイ」に役に立つでしょうか?

言い方を換えると、事前にあれこれの設定をしておいて、それを変更しないようなプレイをする意義は何か、ということです。

以前述べたことの一部繰り返しになりますが、2つの意義があると思います。

ひとつは、GMがプレイヤーをわざと勝たせたり負かせたりするようなマスタリングをする可能性がある場合には、事前にしっかり設定を作り込んでもらってそれに従ってマスタリングをしてもらう、ということで「GMの裁量ではなく自分の手が目的の達成度を左右する」ようなプレイを確保できる可能性が増すと思います。

もうひとつ、GM自身にはそういう動機がない場合でも、プレイヤーの中にGMに対する不信感のようなものを持っている人がいて、そのプレイヤーが、自分の戦略が思い通りに通用しなかったことを指して「こんなのゲームになってない」「GMの横暴だ」とボヤいたり、少しでも有利な展開を実現すべくGMにプレッシャーをかける場合には、GMは自分が設定資料を用意してあり、それに従ったマスタリングをしていると主張することで、プレイヤーの非難をある程度和らげることができます。プレイ後に、「この場面でこういうところを調査していたらこういう手がかりが得られて、もっとうまく行っていたはずだ」「この場面であの手がかりを利用しなかったのがミスで、もししていたらこういう展開が待っていたのに」などと釈明して、横暴などではないことを示せます。

もちろん、ここでも、横暴な設定になっていたら設定されていようがいまいが無駄で、また制御層が完結しておらず、あちこちに裁量の余地が残されているとすると、釈明はうまくいかない可能性があります。

これらを言い換えると、対戦型ではないことを前提にしたTRPGでも、それをあたかも対戦型であるかのように扱ってGMの裁量権をあるていど制約しておくことができたら、やっぱりそれでゲーム性重視のプレイには役立つ可能性があると思います。

「実態主義」を貫こうにもプレイ終了後にプレイの実態調査をする手間は膨大で、「あの追加設定は自分達の手が結果を左右することを妨げ、結局のところGMの追加設定が結果を左右してしまっただろうか」といった類の検討を多くやらなければならない可能性があります。更に、「追加設定が結果を左右することになったとしても、それが世界観などから必然的に導き出される設定であればそれでいい」とか、「難易度を調整するための設定であれば認めてもいい」など、どのような追加設定をどういう理由で認めるかについては意見の分かれるところだろうとも思います。ここで、「とりあえず別ゲームへの移行はない」とわかっていれば、余り意見の対立の余地もなさそうですし、プレイ後に設定資料を見せてもらうことで実態調査の多くが済ませられるので便利だろうと思います。

「体験主義」も、極端な人を除けば、「とにかくゲームだと信じればそれでゲームなのだ」、という態度はとりづらく、「とりあえず別ゲームへの移行はない」と約束があれば、それを拠り所にして、プレイ中に自分のプレイがゲームのプレイになっていると信じることができます。「でたらめな設定などは作らない」という約束があると更に信じやすいわけですが、こちらの約束は更に容易だろうと思います。

つまり、「別ゲームへの移行が起こらない」ということにしてあると、「そうじゃなくてもゲーム性は確保できるし、それだけでゲーム性が確保できるわけではないのだけれども、とりあえずゲーム性を確保するのに便利」ということにはなりそうです。(本当は自身のないところもあるのですが、一応、そうまとめておきます。)

制御層の概念は、TRPGのゲーム性を「考える」上では他にもいろいろと示唆するところが多いのですが、ゲーム性重視のプレイに「使う」ということになると、とりあえず思いつくのはこの2点です。
2002年03月29日:15時20分00秒
【制御層とゲーム分析】ゲーム性の成立条件としてのプレイヤーの実感 / トモス
何がゲームであるか、ゲームっぽさは何であるか、などをめぐる諸問題について答を与えるもうひとつの立場を提示してみます。これがとりわけ気に入っているというわけではなく、単にこういう立場もあり得るだろう、という議論です。ただ、筋の通った立場がしばしばそうであるように、こういう考えを持っている人はいてもおかしくなさそうだと思います。また、他の立場を考える時の手がかりにもなるだろうと思います。

この立場を思いつくに至った経緯は直前に投稿した実態主義を思いつくに至った経緯とほぼ同じです。「別ゲームへの移行の有無をゲーム性の有無の判断基準として来たけれども、それでいいのだろうか?」という疑問から来ています。「いや、それではいけない」という結論を出したというよりも「別の基準でゲーム性を論じることもできるようだ」とこの立場を思いついた形になっています。

この立場では、何がゲームであるかを判断するにあたって、プレイヤーがプレイ中に経験する事柄、感じる内容に重きを置きます。そこで、体験主義という風に名前をつけておきます。経験主義とか主観主義という名前も思い浮かぶのですが、これらの用語は含みが多すぎる気がするのでやめました。実感主義、という名前でもいいような気もするのですが、先に上げた実態主義と字面が似すぎていて紛らわしいかと思いやめました。

ゲームはこれまで通り、目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊びだと考えてみます。これ以外の定義を採用することも、体験主義の立場からは可能ですが。

1)要点

特徴的なのは、先の投稿で「実態主義」と仮に名前をつけた立場が重視する「ゲームの仕組み」がゲーム性と関係がないとする点です。

極端な例は、極小制御層TRPGをめぐって考えたものです。GMがプレイヤーの目的の達成度(財宝獲得量)をプレイの最後に6面ダイスを1つ振って出た目を100倍して決めることに最初から決めてあり、実際その通りに処理するのですが、プレイヤーにはそれは告げられておらず、プレイヤーの行動は全てアドリブで適当に処理されます。プレイヤーがプレイ後に自分がプレイしていたゲームの実態を知ったらたぶん驚くだろうと思います。このゲームには、プレイヤーの手が目的の達成度を左右する仕組みが全くなく、プレイヤーがあれこれ工夫を凝らしたとしても一切が無駄になる以外にない、という仕組みになっているからです。

もしも実態主義者だったら、ここにはゲーム性がない、と言うケースです。

ところがもしもプレイヤーが体験主義者だったら、それは自分がプレイを通じて直接体験できない要素にこだわり過ぎた考え方だ、ということになります。プレイ中はGMがどういう設定をしてあるかは知ることができないのだから、それを持って自分のプレイがゲームであるかどうかを決める(そのためにはプレイ終了後にGMに設定内容を教えてもらう必要があるでしょう)というのはおかしい、と。仮に目的が絶対に達成できないものであっても、自分が達成できると信じていろいろな工夫をしていたら、その間はゲームをしていると信じていた訳で、それで十分ゲームのプレイになっている、と体験主義者は考えます。

ただ、プレイ中に感じることが全てなので、逆に、プレイ中に、「このゲームの目的は達成不可能だ」と感じたとしたら、後から実は自分の考えが足りなかっただけでちゃんと目的を達成する方法があったのだ、と気がついたとしても、それを根拠に「あのプレイはゲームだったのだ」と考えることはありません。体験主義者としては、プレイ中にゲームをしていると感じられなかったらそれを後から「実態がどうであったか」によって訂正できる可能性はないわけです。

そこで、これまでの議論で登場した「ゲームっぽさ」と「ゲーム性」の違いは、だから、体験主義の立場からは余り意味のない議論だということになります。ある遊びがゲームのようだと感じたとしたら、それだけでもうその遊びはゲームです。

2)思いこみや信用をめぐる問題

体験主義の弱点として、「でも、本当のところこの目的は達成できるのだろうか?」「本当にこれはゲームなのだろうか?」とプレイ中に考え込んでしまう人を受け入れられない点が挙げられます。「ゲーム性重視のプレイをしたかったら、そういうことを疑問に思って詮索しても仕方がないので、要は達成できると信じてあれこれ工夫をしてみて、ゲームとして遊ぶか、そうでなければ信じることをやめてゲームとして遊ぶこともやめてしまうか、という選択しかないのだ」ということになると思います。つまり、ゲームを遊ぶ上では、信じ込む能力が非常に重要なものになります。

信じ込むことを助けてくれる要素については、ルールや設定などの公開されている情報(それを手がかりに、ある目的が達成可能だと信じる根拠ができる)であれ、ルールや設定などの未知性であれ、ごまかしであれ、活用します。例えば体験主義者が上の極小制御層TRPGをプレイしているとします。「目的は財宝獲得量だが、それは最後に自分が6面ダイスを1つ振って、その目を100倍して決める。他の要素にはいっさい関係ないとする」という設定があります。体験主義者のプレイヤーは、この設定についてGMがゲーム中にほのめかすよりも、欺いてくれることを希望します。うまく欺いてさえくれれば、自分の手が100GP多く獲得することにつながるだろうと信じて工夫をしたりできるし、最後まで騙し通してくれれば信じたままプレイを終われます。そうしてもらえるなら、実際にGMがそういう設定を持っていようがもっとシナリオらしいシナリオを用意していようが、体験主義者には関係ありません。シナリオらしいシナリオを用意してもらったところで、結局はそこで提示される目的が達成できないと感じてしまったらゲームは成立しないので、正直にであれ偽りによってであれ、プレイヤーを信じ込ませてくれるのが、ゲーム性重視のプレイをするのにいいGMということになります。

TRPGでGMが行うアドリブ、設定の追加や変更なども、この立場からは必ずしも問題でも利点でもありません、そうした要素が原因でプレイヤーが目的を達成できたりできなかったりすることになった場合にはそれを隠して、それらしい説明をプレイヤーに与えてくれればいい、ということになります。プレイヤーはゲームを楽しみたいのであればそれを信じようとします。

スポーツや将棋など、対戦型のゲームについても同じことが言えます。相手に勝てない、と思ったら、それはゲームではなくなってしまいます。

「でもそれは将棋として成立しているからゲームのはずだ」という意見もありますが、体験主義者の立場からは、そうした意見は、「ゲームシステム」を基準に判断しているもので、ゲームをプレイする際の実感に即していません。
実感の方が重要だ、と考えるのが体験主義者です。
2002年03月29日:15時08分03秒
【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み / トモス
かなり混乱させてしまったようで、申し訳ありません。>myrtさん
改めて要点をまとめてみます。

1)経緯

ゲームっぽさの議論をした辺りから、特に独立性の原則について思い当たった辺りから、そもそも、制御層の同一性を確保しておかなければいけない理由は何なのだろうか、ということを改めて考えるようになりました。投稿としてはこちらになります。【制御層とゲーム分析】別ゲームへの移行、独立性と中立性の原則、擬似ゲーム02月26日,LOG 091

GMがプレイヤーの行動を成功させたり失敗させたりするためではなく、単に世界観などから導き出される設定内容を制御層に追加したとしても、やっぱりゲーム性がなくなる、という立場(別ゲームへの移行が起こったらゲーム性がなくなるという立場)が、正しいのかどうかと考えるようになりました。

また、極小制御層TRPGについて考える中から、そもそも制御層さえ変更されなければゲーム性が確保できるというわけではない、ということを考えるようになりました。これは長い間考えてまとまって来たのは最近ですが、【制御層とゲーム分析】制御層、実装とゲーム性について (LOG 094)に書いてあります。

つまり、「別ゲームへの移行が生じると、またその時にのみ、厳密な意味でのゲーム性がなくなる」という、これまでの議論の基礎のようになっていた考え方について、疑問が湧いたわけです。

では一体、どういう時にあるプレイがゲームなのか、ゲームでないのか、ということを考えて、制御層の安定性とは別の基準に辿り着いた結果が今回の議論です。

実際にこれまでも同様の議論をしてきたわけで、例えばmyrtさんの【制御層とゲーム分析】ゲームっぽさと真にゲームであること02月26日,LOG 091 とその前後の議論はずばり同じ話題を扱うものです。この時点では制御層の安定性をもって真にゲームであること(ゲーム性があること)の条件としていました。

ちなみに、ゲーム性がある/ない、成立する/損なわれる、ゲームである/ない、というのは言い回しが違うだけで全て同じことを指しています。これからはゲーム性がある/ないと(何かの手段によって)確保できる/できないという表現にします。

#myrtさんは折りに触れて形式主義的なアプローチをとるので、「ゲーム性を別ゲームへの移行が生じないこととして定義したのは、公理みたいなものだからその根拠を問うても仕方がない面もある」と感じるかも知れませんが、直観を頼りに別の公理系を探してみた、と思ってもらえれば納得してもらえるのではないかと思って(願って)います。その場合でも、ゲーム性やゲームっぽさなど、従来の公理系で使っていた用語を再定義して使うのではなく、別の用語を使えばいいのではないか、という疑問は残るかも知れませんが。

2)要点

一応ここで改めて説明したい立場を「実態主義」(的な観点からのゲーム性の議論)、と仮に名前を付けておきます。名前の説明は後に書きます。

実態主義の立場からは、ゲーム性は、「ある遊び(プレイ)が、目的達成に向けた工夫を楽しめる遊びになっているという状態・性質」と定義されます。

制御層が定義されており、別ゲームへの移行が生じない場合でもこの条件が満たされていない場合にはそのプレイがゲームのプレイだとは言いにくいし、この条件が満たされていれば、制御層が変更されてもゲームのプレイは成立つのではないか、と考えます。

また、これまで「ゲームっぽさ」と「ゲーム性」をどう区別するかについてあれこれ迷いがあったのですが、この立場からは、ゲームっぽさは「プレイヤーが自分の手が結果を左右すると思っているかどうか、難易度が適正だと感じられるか」であるのに対して、ゲーム性は「実際にプレイヤーの手が結果を左右する仕組みになっているかどうか、その仕組みがプレイヤーに工夫を要請・許容するような適度な難易度を持っているか」だと整理でき、比較的すっきりします。

言い換えると、「ゲームっぽさ」はプレイヤーの感じることが基準になって決まるものであるのに対して「ゲーム性」はその感じ方に何かの根拠があるかどうかをプレイの実態、あるいはプレイを統御している仕組みのようなものを参照して決めるものだ、とします。

制御層の同一性に注目してゲーム性を定義する立場よりもより包括的に(=実装領域も含めて)プレイの実態を見る点で従来の視点と異なります。
また、プレイヤーがどう感じるかが全てだ、とプレイヤーの体験内容を重視する立場から、ゲームっぽさとゲーム性を同一視する議論が可能だという気がするのですが、この立場とは違ってプレイの実態はどうなっているのか、(それについてプレイヤーがどう感じるかではなく)を見る点が実態主義的、と言えるように思いました。

客観主義という言葉の方が馴染みがありますが、これはいろいろ他の意味がくっついている感じがしたのであえて見慣れない方を使っています。

言い方を変えると、「プレイヤーAはこのプレイをゲームっぽいと感じた、つまり自分の手が結果を左右するものだと感じた。ところが、それは実際にはゲーム性のないプレイだった、つまり、プレイヤーの手が結果を左右する仕組みになっていなかった。」ということがありうる、という立場になっています。

同様に、プレイヤーがゲームっぽくないと感じたにも関わらず、実際にはゲームになっている場合も考えられます。

3)補足説明

ゲーム性のあるプレイは2つの条件を満たしていると考えられます。
A)手によって結果が違ってくる仕組みになっていること。
B)プレイヤーの能力が高すぎも低すぎもしないこと。

A)は、もう少し長く書くと、「その遊びに達成すべき目的があり、プレイヤーの手によって目的の達成度(/達成の可否)が違ってくる仕組みになっていること」。これはつまりゲームの仕組み、と呼べるものがあることだと言えます。

手と結果の関連を決めるものは具体的には何なのか、と考えると、すぐに思い浮かぶのはTRPGのルールや設定です。これは人間(主にGM)が使用して、他の遊び手がGMに従うことで仕組みとして作用するものです。ある種の契約に似ています。「この遊びのルールに従って考えれば、そういう行動をこういう局面でとった場合にはこの局面に辿り着くことになるね」とGMがルールに従って考え、プレイヤーがそれを受け入れる。ゴルフの場合には、そんな風に人間を介して実現しなくても、ボールは物理法則とコースの形状や天候によって自動的に処理されます。myrtさんが挙げられたトイレを探すゲームで言えば、「駅」もコースにあたります。こうした実在物が、「プレイヤーが何をするとどういう局面に行き着くことになるか」を規定しているわけです。

同じ理由で、対戦相手やGMの反応も、「自分が何をしたらどういう結果に行くか」を左右します。対戦相手が強すぎたり、GMがプレイヤーの勝ち負けを決めてしまおうとしている場合には、プレイヤーの手は結果を左右することがありません。対戦相手がどれだけ手加減するか、GMが何をするか、どういう偶然が起こるか、などが結果を左右する仕組みになっています。そこで、ここにはゲームの仕組みがない、と言えます。

つまり、従来「ゲーム核」概念では取り扱わなかったものも含めて考えています。

以上は、「手が結果を左右する仕組みになっていること」という単一の条件の説明です。これはゲーム性が成立する第一条件だとしました。

B)もうひとつ付帯条件として、(ゲームの仕組みがあるだけではなく)ゲームの仕組みが簡単すぎも、難し過ぎもしないこと、が必要だと思います。これは仕組みそのものについての要請ではなく、「仕組みと、その仕組みにのっとって遊ぶプレイヤーの能力の関係」についての要請なので別の条件だと考えています。例えば五目並べのルールはゲームの仕組みとして使える可能性があるわけですが、それも必勝手を知っているほどの熟練者でもなく、かと言ってルールを飲み込めない程の素人でもない人がプレイする場合に限ってだ、と思います。必勝手を知っている人やルールを飲み込めない人は、プレイすることはできますが、自分の工夫によって目的を達成することを楽しめない、と考えます。つまり、ゲーム性のあるプレイをしてない、と言いたくなるわけです。

以上をまとめると、こんな風に言えます。

「ゲームは、目的を達成すべく工夫をする遊びである」
「ゲームが成立するためには、A)目的を達成できるかどうかがプレイヤーの行動に左右されるような仕組みがあり、かつ、B)その「仕組み」の難易度がプレイヤーにとって適当な範囲に収まっているために、プレイヤーは工夫をこらすことができる、という2つの条件が満たされている必要がある。」

条件が整っていても、プレイヤーが「これはゲームになっていないはずだ」と思い込んでいれば、「今のプレイはゲームっぽくなかった」という感想が出るかも知れません。また逆に、上の条件が整っていなくてもプレイヤーが「これはゲームになっているはずだ」と思い込んでいたら、「今のプレイはゲームっぽかった」という感想が出るかも知れません。(この後者のケースは、極小制御層TRPGでGMがサイコロで目的達成度=財宝獲得量 を決めてしまう場合として何度かとりあげました。)これらは、実態主義では、「ゲームっぽさ」の話だと考えます。

こうしたプレイヤーの感想とは別に、実際にその遊びにゲームとしての仕組みがあったか、プレイヤーにとっての難易度が適当だったか、を考えることができる、というのがこの実態主義の立場になっています。



最後になりますが、myrtさんの挙げた個別の疑問点について、一応簡単に説明します。

1.付帯条件は上のB)に付帯条件として書いたものです。
2.相手の能力が異なると、ゲームの仕組みが異なる、というのは例えば弱い相手には通じる手が強い相手には通じない、というような事情を想定した考えです。これは従来のゲーム核では無視したわけですが、この立場では無視しない形になっています。
3.「ゲーム性が損なわれる」、と「ゲーム性がない」、は僕の中では区別はありませんので表現を統一すべきでした。すみません。
4.以下はmyrtさんの書かれている通りです。

myrtさんの指摘された問題点はなるほど、と気付かされるものがありました。これから考えてみます。
2002年03月28日:17時55分35秒
【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み / myrt
(2002年03月28日:07時08分55秒【制御層とゲーム分析】ゲーム性の成立条件 としてのゲームの仕組み / トモスさん)についてですが、今ひとつ 解釈しきれた自信がありません。私の解釈を整理してみます。

1.「ゲームが成立する」の定義:「ゲームの仕組み(後に定義)」を持ち、かつ「ゲーム性がない(後に定義)」わけではなく、かつ後述の付帯条件を満たすこと(そのもの ずばりは発見できず)。

2.「ゲームの仕組み」の定義:ゲームのルールから物理法則、対戦相手の 能力にいたるまで、プレイヤー以外のすべての仕組み(プレイヤー自身の 能力をどこまで換算するかは不明)。対戦相手の能力が異なれば「ゲーム の仕組み」も異なる(どういう場合に異なるとみなすかの定義は、 他に与える??)。

3.「ゲーム性がない」の定義:「ゲームの仕組み」の構造上、目的を達成 できるか否かがプレイヤーの手によって左右できないこと。また以下で 述べる「ゲーム性が損なわれる」条件を満たしたときも「ゲーム性がない」と する。

4.対戦相手などが不定であるルールなどの構造は、「遊ばれるゲーム作品」と 呼称して、対戦相手などを確定した後の実際のプレイである「それを遊ぶプレイ」を 区別する。

5.プレイ中に「遊ばれているゲーム作品」が変化したとき、 プレイヤーが変動しないと考えていたルールが変動し、かつ、そのルー ルがプレイヤーの中・長期的な戦略と関わっていたためにプレイヤーの それまでの手の効果までもが変更されてしまう場合 は「ゲーム性が損なわれる」とみなす。

6.未知性のあるゲーム作品の場合、ルールが変更されても「ゲーム性が損 なわれる」ことはない。ただし「プレイヤーの手ではなくGMや審判が結 果を左右する」ときには「ゲームとしての仕組み」は消える(ゲームが 成立しないとの意味??)。

7.必勝手を常に見つけられたり、あるいは相手が弱くて十分に勝てる手を常に 見つけられるならば、「ゲーム性が成り立たない」。

8.ゲームの仕組みが複雑すぎてプレイヤーにとって理解できないと き、「ゲーム性は成立しない」。

 「ゲーム性がある」という用語を、日常用語に近く、かつ議論に便利な 形で定義してみようという試みだと思うのですが、いくつか疑問点があります。

 まず6.がよくわかりませんでしたが、これは「ゲームの仕組みが変化 したとき、結果をプレイヤーの手ではなくその変化によって左右する ならばゲーム性がないとみなす」という意味だと考えればしっくりきます。

 2.の項目から、この「ゲーム性」という概念はproblemに限定 して(gameは対戦プレイヤーをproblemの一部とみなして)扱うものであると 思われます。このことから、日常用語からかなり離れた概念になってしまうの ではないかと危惧します。

 そして5.6.7.8.が曲者であるように思われます。その理由は以下のとおり。

・「長期的見込みが複雑すぎておぼろげにしかわからないから、短期的 見込みの積み重ねで勝利を狙う。その結果長期的見込みが大幅に間違い であることに気づいたりする」というのはゲームっぽい面白さの醍醐味の一つ

・TRPGのような遊戯の場合、追加設定がなされる前には正確な長期的見込み が定義すらできない場合がある(追加設定がなされる可能性を示した時点で 不可能かも)。このとき「追加設定によってプレイヤーの予測が裏切られた か、単なる予測違いか」は判別不可能。実際、思い通りにいかないだけで ゴネるプレイヤーがいる。

・そもそも対戦相手を「ゲームの仕組み」に組み込んだ時点で審判(GM)も それに組み込むべきであり、そうすると「途中の追加設定」は存在しなくなる。 ならば5.6.項は不要ではないだろうか。

・GMを組み込む場合と組み込まない場合を区別する定義を 考えると、折角「同じゲームとは何か」という問題を避けて一般的に定義した利点が なくなる。

 「何ごともほどほどがいい」という結論になるようにも思えますが(実際 そう思いますし)、「ほどほどでなければゲーム性は成立しないと定義す る」とすると「ほどほど」の定義問題に帰結されてしまいます。

 最後のまとめが奇麗なので、「プレイヤーの打つ手によって目的達成の可否・程 度が左右されるような仕組みがあり、かつ、その仕組みに対してプレイヤー の熟練度が高すぎも低すぎもしないときにゲーム性があるとする」 と定義してそこから「仕組みとは」「プレイヤーの打つ手とは」と発展 させる手もあるかもしれません。
2002年03月28日:17時52分59秒
【制御層とゲーム分析】先に定義ありき / myrt
(Re:2002年03月27日:10時34分31秒【制御層とゲーム分析】Re:反 復可能だが勝利の可能性は保証はされないゲーム / トモスさん)

>>myrtさんは上達が可能ということを持って「同じゲーム」ということを 考えようとしているのだと思うのですが、<<

 私の考えは逆です。私の場合、まずゲームを定義、つまり「どこからどこ までを同じゲームとみなすか」を定義しています。よって「なぜこれらが 同じゲームのプレイとみなせるのか」という質問には「定義より」としか 答えられません。

 ところが、そうすると「同じゲームのプレイなのに、同じ手が通用する とは限らない」という問題が発生します。そこで、同じ手が通用するとは 限らなくても、何かプレイ間で通じるものが(少なくとも実用的な範囲内 で)あるんじゃないかと考えたのが件の「駅での便所探索ゲーム」の考察です。

 「同じ局面で同じ手が通じれば同じゲームだ」という主張は、たしかに 正しいんですが、結局「同じ局面とは」「同じ手とは」の定義問題に 帰結されてしまいます。それらの定義は、結局ゲームの定義と同義である と考えています。

>>制御層はゴルフならゴルフに共通の部分と、コースを合わせたものとし て考える人もいるだろう、どちらかが正当だとは言えない、ということになる でしょうか。 <<

 どちらの定義も可能で、正当か正当でないかの問題ではありません。 異なる定義を区別したり、どちらを利用すると便利かは議論の対象に なりますが。

>>ここは最近僕も迷った点なのですが、myrtさんの示唆するような立 場(目的達成が不可能でも…ゲーム)をとると、「ゲームっぽさ」と「ゲー ム性」はどう区別がつくでしょうか? <<

 「ゲームであれば目的を達成できるか否かからの楽しみが得られるとは 限らない」という結論が出てしまったが、そういう楽しみを与える性質は重要である。 それを従来どおり「ゲーム性」と表現すると混乱しそう なので新たに「ゲームっぽさ」という概念を提案されたのではありません でしたっけ?? 非常に良い用語だと思っているのですが...

 そのためごく最近まで「ゲーム性」という用語の使用は注意深く避けら れていたのだと思っていましたし、私もそう心がけていまし た(つい2002年03月25日:17時41分13秒【架空世界とゲーム】妄想と 信念 / myrtで使ってしまっていますが)。以上のことから「ゲームっぽ さ=従来言われてたところのゲーム性」であると考えており、そのように 読み変えを行なっていました(私が安易に使ってしまったのはそのため)。

>>結局、「ゲームっぽい遊びであればそれはゲームだ」ということになりま せんか? <<

 ゲームの定義はすでに与えられていますので、それに反していればゲームでは ないでしょう。ただし「ゲームっぽい面白さを与える遊びであれば、 それがゲームの定義から外れていてもプレイに値するものであるし、 日常用語としてのゲームにはそのような遊びを指す用法がある(しかし その用法は議論には不便である)」と考えています。
2002年03月28日:07時08分55秒
【制御層とゲーム分析】ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み / トモス
最近の投稿で書いた通り、僕は、あるゲームが事前に完成していて、そのゲームを遊ぶ(そのゲームで遊ぶ、そのゲームにのっとって遊ぶ)という図式をイメージしていたのですが、それに当てはまらないゲームもあると考えるようになりました。「GMを遊ぶ」ゲームがその例になります。 そこで、その図式に多少修正を施して、「ゲーム性はゲームと呼べる何かをプレイする時だけに成立する性質である」という立場を考えてみました。

この立場の要点は、次のようなものだと考えています。

「ある遊び(活動、営み)がゲームとして成立するのは、その遊びにおいて目的を達成できるか否か(または目的の達成度)がプレイヤーの手によって左右されるようになっている場合、そういう仕掛け、仕組みになっている場合に限られる」
「もしも手が結果に影響を与える仕組みが不在であれば、それはゲームっぽい遊びではありうるかも知れないけれどもゲームとは呼べない、と考えてはどうか。」

言い方を変えると、ゲームのプレイが成り立っているところには、必ずゲームの仕組みが在る、ということです。

但し、ゲームの仕組みさえあれば、その遊びは必ずゲームになっているか、と考えるとそうは言えない気がします。これは最後に補足します。

以上はあくまで、とりうる立場の内のひとつだと思いますが、前回の投稿で指摘した疑問や考えどころについてこの立場からの回答を出しつつ、もう少し展開してみます。

1)仕組み

「仕組み」というのは、ゲームの目的が何か、プレイヤーに何ができ、何ができないか(とりうる手)それらが結果ととして目的達成の可否・程度をどう左右するかについての法則、関連です。ルールによって定められているものでもいいし、ゴルフコースのように物理法則を利用したものでもいいし、コンピュータプログラムのようなもの(これも物理法則ですが)でもいいと思います。これまで「ゲーム核」として議論したものとやや似ていますが、ゲーム核が対戦相手、審判やGMなどから独立したものであるのに対して、「仕組み」はそれらも含む、より多くの要素を含む概念だと考えています。ルールや設定データなどがこの仕組みの中に含まれるのは明らかなのですが、例えばボクシングの試合で、相手の能力もこの仕組みの中に含まれます。

2)「ゲームの仕組み」がないプレイ

そうすると、同じルールに則ったボクシングをプレイする場合でも、対戦相手が違うと自分の手がどのように結果を左右するかは異なるので、「違う仕組みになっている」ということになります。

もしも相手が非常に強い選手で、自分の手が相手を負かすことにつながる見込みがない、偶然に助けられるとか、相手が試合を放棄するといった形でしか勝利がありえない、という状況があれば、そのプレイには「手が結果を左右する仕組み」がない、と考え、そのプレイにはゲーム性はない、とします。

言い方を変えると、制御層やゲーム核といった側面を見て、「このスポーツ/ボードゲーム/カードゲームをプレイしたらそのプレイはゲーム性のあるプレイになるだろうか」と考えてみても、結論が出せない、ということになります。理由は、誰がプレイするか、他に誰がプレイするか、によるからです。ゲーム性のあるプレイが成立するためには、必勝手を知っているプレイヤーがプレイしたり、実力差があり過ぎるプレイヤーの間で対戦が行われたりしないことが条件になります。これは、制御層をめぐる議論で「実装上の配慮」にあたるものだと思います。制御層がゲーム性を保証するように見えても、実装上の配慮が拙ければ、ゲームは成立しない、ということになります。これは少しも新しい命題ではありませんが。

混乱を避けるために、遊ばれるゲーム作品と、それを遊ぶプレイ、という風に区別すると、ゲーム作品のデザインは、プレイのゲーム性を保証しません。

3)プレイのゲームっぽさ

ですが、プレイヤーは自分のプレイにゲームの仕組みが備わっているかどうか知っているとは限りません。プレイヤーが「自分の戦法次第ではこの試合は勝てる」と考えている限りは、それは「ゲームっぽい」プレイです。実際はどうあれ。また、プレイヤーが「自分が何をしても勝ち負けを左右できる見込みはない」と思っていたら、実際にはどうであれ、それは「ゲームっぽくない」プレイです。
あるプレイがゲームっぽいかどうかと、あるプレイがゲームであるかどうかとは、必ずしも一致しない、ということになります。

また、「あの対局では自分の手によって勝つ可能性があったのだろうか?」と後から考えてもわからない場合は多く考えられますので、将棋のような対戦型のゲームでは、あるプレイがゲームとしての仕組みを備えていたかは不明確なままに留まります。多くの場合、あるプレイがゲームっぽいかどうかは語ることができるのですが、それがゲームであるかどうかは判断が出来る場合も、できない場合もあります。

4)別ゲームへの移行

プレイ中にルールや設定が変更される場合、「遊ばれているゲーム作品」がひとつのものから別のものへと取り換えられている、と考えることができます。別ゲームへの移行としてこれまで議論してきた事態です。

別ゲームへの移行は、「手によって目的の達成の可否・程度が違ってくる」という性質をなくしてしまうのでなければ、プレイのゲーム性を損なうものではない、とします。

具体的にゲーム性が損なわれるのは、プレイヤーが変動しないと考えていたルールが変動し、かつ、そのルールがプレイヤーの中・長期的な戦略と関わっていたためにプレイヤーのそれまでの手の効果までもが変更されてしまう場合です。

これは、手と結果の関連を変動させるその変動要因の方が、手よりも強い影響を結果(目的達成の可否・程度)に及ぼすことになってしまうので、変動以前のプレイを無駄だった、ゲームではなかった、ということにしてしまいます。

5)未知性のあるゲーム作品

ルールや設定がプレイヤーに公開され切っていないゲーム作品の場合には、プレイヤーはルールに基づいた戦略を立てることができません。そこで、プレイ中にルールが変更されても、プレイのゲーム性が損なわれることはない、と考えていいと思います。但し、GMや審判がプレイヤーの目的達成を意図的に阻止しようとしたり、実現しようとしたりして変更が行われる場合には、「プレイヤーの手ではなくGMや審判が結果を左右する」のでゲームとしての仕組みは消えてしまいます。

6)ゲームの仕組みはあるが、ゲーム性がないプレイ

最後に、ゲームの仕組みがあっても、ゲーム性がないプレイについて補足します。これも従来からある論点の繰り返しですが。

自分が最適の手(勝てるとは限らないけれども、最善を尽くすことになる手)や、必勝手(最も効率がよいとは限らないとしても、必ず勝てる手)を常に(どんな局面でも)見つけ出せるのであれば、そしてそのような手だけを打つのであれば、その遊びはゲームではなくなります。こうした最適手や必勝手は、対戦相手や乱数要素などを無視して、そうした要素以外の固定要素(ルールや設定データ)を手がかりに考えていくことができます。ここでは、プレイ中に常に最適手、必勝手以外の手を選ぶ可能性は残されており、それらの手がゲームの結果を左右する、というゲームの仕組みもしっかり存在しているのですが、プレイヤーにはそうした仕組みを活かす動機がなく、ゲーム性は成り立ちません。(特定の手を自分に禁じて遊ぶ、など別のルールを作って別のゲーム作品として遊ぶなら話は違ってきますが。)

また、対戦型のゲーム作品で相手が弱過ぎる場合にも、プレイヤーは負けるような手を打つことはできるわけですが、その動機がなく、実質的にはゲーム性が成り立ちません。

同様に、非常に複雑でプレイヤーが実感できないような形で手と目的の達成の可否・程度が結び付けられており、プレイヤーが「このゲームは何がどうなっているかわからない」と感じることがあるとしたら、そこにもゲーム性は成立しないことになります。

つまり、存在しているゲームの仕組みに対してプレイヤーの熟練度が低すぎたり高すぎたりする場合には、ゲーム性は成立しないと考えてよいように思います。

7)まとめ

以上から、ゲーム性のあるプレイは、プレイヤーの打つ手によって目的達成の可否・程度が左右されるような仕組みがあり、かつ、その仕組みに対してプレイヤーの熟練度が高すぎも低すぎもしない場合に成立するもの、と考えます。

このような考え方は、あるプレイがゲームであるか否かを、プレイヤーの感想ではなく、プレイヤーの置かれている状況のようなものを基準に判断しようとするものです。 プレイヤーの感想は「プレイのゲームっぽさ」として、ゲーム性の有無とは区別されます。

TRPGについて言えば、「GMを遊ぶ」ようなプレイでもゲームとして成立つ場合がある、とこの立場からは(も)言えることになります。
2002年03月27日:10時34分31秒
【制御層とゲーム分析】Re:反復可能だが勝利の可能性は保証はされないゲーム / トモス
(2002年03月25日:17時38分51秒、【制御層とゲーム分析】反復可能だが勝利の可能性は保証はされないゲーム / myrtさんへのお返事です。)

いろいろと意見の相違が感じられて、興味深く読ませていただきました。同じような点をめぐって考えて、違う結論に行きつつあるような気がしたのですが、僕の方は自分の考えがまとまるのに時間がかかっているので、幾つか質問してみます。myrtさんの考えなり、より広く、どういう立場がありうるかについての整理・展望なりがありましたら教えてもらえると助かります。

>>すると同様な考えから、脈略のない発言をするGMに当たる可能性を踏まえた上で、「(例えば日本の)任意のGMに対してTRPGをプレイしてPCの勝利を得る能力」を鍛えることも可能であると考えられます。「近鉄の任意の駅での便所探索ゲーム」に対する能力が鍛えられるように、「身内の任意のGM に対してTRPGをプレイしてPCの勝利を得る能力」を鍛えることもできそうです。 <<

これは、できると思います。ただ、それを持ってゲームの同一性があるとしてよいのかどうかは迷うところです。同じように「トランプを使ったカードゲームに広く通用するような戦略的思考」を鍛えることもできるように思いませんか? 山札の推測の仕方、手札の切り方、他のプレイヤーの手からの手札の読み方、などなど。 同様に、人生ゲームやモノポリーなどすごろく系のゲームに広く通用する技能も鍛えることができそうです。もちろん、いずれの場合にも、「次にプレイするゲームにはその技能が通用しないかも知れないけれども」という保留つきです。それから、myrtさんが意識していると思われる例ですが、ゴルフですね。コースや気象条件が違う中でプレイを重ねると、上達する。まだプレイしたことのないコース・天候に対して自分がそれまで培った技能が通用するかどうかは不明確、という点も同じです。比較ということで言えば、じゃあスポーツや将棋などで対戦相手が違う場合はどう考えるか、ということも一応考えたくなります。対戦相手が違っても共通の戦略的な要素(ゲーム核)をとりだして、それがゲームの同一性を左右していると考えることにすれば将棋は解決できそうですが、スポーツについてはむしろ対戦相手が違えば違うゲームだと考える方がよいという意見もあります。現に、将棋であれば誰にでも通用する指し方を身につけることがたぶん可能で、それとは別に、特定の相手にしか通用しないさし方というのがあります。

myrtさんは上達が可能ということを持って「同じゲーム」ということを考えようとしているのだと思うのですが、そしてゴルフに関しては「コースが違っても同じゴルフ」と考える慣用例があるわけですが、それをそのまま拡張するとそれはそれで厄介なことになるような気がします。

(トモス)>>冒頭の話に戻りますが、このゲームは、同じGMを相手にしたところで、将棋のような意味で「同じゲーム」としてプレイすることはたぶんできないと思います。<<

(myrtさん)>>以上の考察から、同じゲームの違う局面として、TRPGを利用したゲームを反復して遊ぶことは可能であると思います。<<

同じゲームの違う局面、と考える場合には、例えば2つの異なるゴルフコースの諸局面に重複がない、というのも気になります。ひとつのゲームについて、複数の局面群があり、お互いにつながりがない、という場合にはそれをよく似た別のゲームと考えるということもできるような気がします。制御層が同じで実装(初期設定)が違う、という言い方がかなりしっくりくるのですが、TRPGのケースについて、あるいはゴルフについて、「共通の部分が制御層で、プレイ毎に異なるコースや天候やシナリオの部分は実装だ」と考える根拠があるでしょうか? それとも、せいぜい、そう考えることもできるし、制御層はゴルフならゴルフに共通の部分と、コースを合わせたものとして考える人もいるだろう、どちらかが正当だとは言えない、ということになるでしょうか。

(トモス)>>目的達成の可能性があったのかどうかはわからずじまいです。ということは、その遊びがゲームだったかどうかもわからずじまいです。<<

(myrtさん)>> 目的達成が不可能であっても、ゲームの定義を満たす限りゲームだと思います。ただくだらないゲームであるだけで。<<

ここは最近僕も迷った点なのですが、myrtさんの示唆するような立場(目的達成が不可能でも…ゲーム)をとると、「ゲームっぽさ」と「ゲーム性」はどう区別がつくでしょうか? 結局、「ゲームっぽい遊びであればそれはゲームだ」ということになりませんか?

>>例えば五目並べは必勝手が発見されており、それを知っていて従う限りはくだらないゲームです。しかし依然としてゲームであるし、必勝手を知らず「くだらなかったかどうかわからずじまい」であればゲームっぽさを楽しむことも可能だと思います。<<
五目並べの話については3つの考えどころがあるように思います。必勝手を知っている人がそれに従ってプレイしている時にはそれがゲームなのか、ゲームっぽいのか、というのが一つの問題です。これをゲームではない、としてしまうと、例えばボクシングで子供とヘビー級チャンピオンが闘った場合にはそれはヘビー級チャンピオンにとってはゲームではない、とする立場になります。僕はこれでもいいような気がしてきています。実装の仕方によってはゲームが成立しない、と。

2つ目は、勝てる可能性がゼロであることを知らずにプレイしている対戦相手(ボクシングをする子供であれ、必勝手を知っているプレイヤーの対戦相手であれ)は果たしてゲームをしているのか、です。僕はこれをゲームっぽいと誤解により考えるかも知れないがゲームではないプレイだ、と考えるとよいように感じる部分があります。

ちなみに、ゲームの目的が「勝つこと」ではなく「勝利に向けて全力を尽くすこと」であれば、絶対に(あるいは偶然によってしか)勝てない強い相手でもゲームとして成立つ可能性がある、と思います。そのようなボクシングは対戦型のスポーツではないということになります。双方のプレイヤーが全力を出し切ることを目的にし、双方とも目的を達成したり、達成できなかったりするので。こういうゲームはありだと思うのですが、これがいわゆるボクシングとして知られているゲームの実態だ、とは考えにくいわけです。TRPGについては対戦型でないと考えれば済むのでそれでいいのですが、対戦型のスポーツなどであれば、実力差があり過ぎる場合には、ゲームっぽくないし、ゲームではないのではないか、と考えることの妥当性も感じます。

3つめ。必勝手がある五目並べは、いわゆるゲームシステムだと言えるのか、という問題も少し気になります。ゲームシステム、というのはトイや、純粋な偶然性だけを遊ぶギャンブルの一種のための制御層などと区別されるところの、「ゲーム作品」のような意味です。五目並べはゲーム作品とは呼べない、何故なら必勝手があるから、という立場は維持できないと思うのですが、(将棋にも必勝手があるかも知れませんし。)ではゲーム作品でも実装の仕方によって(必勝手を知っているプレイヤーと対戦させる)

以上、いろいろな問題が関わって来ていて複雑ではありますが、考えどころを洗い出してみました。課題はこれらの諸問題について答えを出せるような立場を摸索することですが、ひとつの立場だけが妥当だ、ということではなく、どの立場をとってもそれぞれの立場に固有の問題点が残る、とか、複数の立場が可能で、特にどれかひとつに絞れない、といったことになるような気もします。
2002年03月25日:17時41分13秒
【架空世界とゲーム】妄想と信念 / myrt
話がそれたのでサブジェクトを変えてみました。
(Re:2002年03月24日:15時35分36秒【制御層とゲーム分析】「GMを遊ぶ」ようなTRPG / トモスさん)
>>「この人の想像する世界で冒険して、その世界にある遺跡から秘宝を持ち帰ろう」というのは、面白みがありそうだという感じがします。<<

 同じ事象を違う側面から見ているだけなのですが、「プレーヤー自身の 想像する世界で冒険して、その世界にある遺跡から秘宝を持ち帰ろう」と試みる ゲームを考えてみます。なぜGMの想像する世界ではないかというと、結局 プレーヤーが認識するのはGMの宣言に従ってプレーヤーが想像する世界ではない かな、と思うからです。

 さて、この世界はプレーヤー自身が納得できる程度にはもっともなもので なければなりませんし、この試みが簡単でも面白くなさそうです。ここで この世界にはプレーヤーの試みを阻む障害が存在し、プレーヤーから隠された 情報をも持つならば、現実の世界っぽくてもっともらしいです。しかしこれら をプレーヤー自身の想像力で補うのはかなり困難です。

 これらの要素を外部からGMが補ってくれるといい感じです。 しかし一方通行だとその運用は制限されます。それはTRPGの敵データを 次々に吹き込まれて「俺サマキャラクター」の活躍を妄想して悦に入るか、 小説を読み上げられて「俺だったらこうする。ならばこう展開するはず だ」と想像するが、想像する展開とGMから吹き込まれる展開の相違から それ以上の想像を阻まれる程度が限界でしょう。

 そこで「自分の想像する世界で冒険したいが思わぬ展開もほしい」という ワガママな要求に答えるために 受け答えが必要になるわけです。この受け答えはGMの想像する 世界にアクセスするために必要なものですが、プレーヤーが納得できる自分 自身の想像のためにも必要であると言えます。

 さて、プレーヤーの想像の世界の中でPCは困難に打ち勝ったとします。 その勝利が価値のあるものであることを確信するために、自分自身の妄想 力だけで足る人はあまりいません(主体性のない日本人だけ??)。しかし そう想像の世界を展開させるためのGMの発言を引き出すために苦労したり、 他の参加者がその勝利が価値のあるものだと認めてくれたり(もちろん 認めてもらうことも困難でなければならない)したならば、なんとか確信 できそうです。

 まとまらないのでここまで。これはゲーム性についてというより、 自分の妄想を押しつけて勝利を得ようとするプレーヤーについての分析 のような気がしてきました。
2002年03月25日:17時38分51秒
【制御層とゲーム分析】反復可能だが勝利の可能性は保証はされないゲーム / myrt
(Re:2002年03月24日:15時35分36秒【制御層とゲー ム分析】「GMを遊ぶ」ようなTRPG / トモスさん)
 「駅での便所探索ゲーム」というものを定義してみます。はた迷惑かつ下品 ですが思考実験なので。

・プレーヤーが電車に乗っているところからスタート。
・舞台となる駅に電車が停車してから、駅構内のどこかにある便所に たどりつくまでのタイムが最も短いプレーヤーが勝ち。タイムは自己申告。
・便所が構内にない、あるいは30分以内に誰もたどりつけなければノーゲーム。

 さらに、「近鉄京都駅での便所探索ゲーム」というものを定義してみます。 地元の方、勝手に地名をつかって申し訳ありません。

・「駅での便所探索ゲーム」の舞台を近鉄京都駅に限定したもの。

 さて、「近鉄京都駅での便所探索ゲーム」を同じ参加者で反復してプレイ することを考えてみます。初回プレイでは案内板をいかに効率良く探し 解読するかが焦点となり、慣れてこれば最適なコース取りと体力が焦点となる でしょう。

 今度は、「駅での便所探索ゲーム」を同じ参加者で反復してプレイ するが、その舞台として毎回参加者にとって馴染みのない駅を選ぶことを 考えてみます。すると、馴染みのない駅がある限り「案内板をいかに効率良く探し 解読するか」を焦点とすることができるように思われます。

 さて、「駅での便所探索ゲーム」はノーゲームになることがありえます。 プレーヤーのそれまでの知識が役に立たない駅の構造に直面することもあ りえますし、走り回ると駅員さんにつかまるかもしれません。普通は駅の便所は利便性を考えてわかりやすく配置されるものですが、 すべての駅においてそうだとは限りません。

 しかし、ノーゲームになる可能性や新しい駅の構造への直面の可能性を 踏まえた上で、「(例えば日本の)任意の馴染みのない駅において便所を素 早く探索する能力」というものを鍛えることができるのではないでしょうか。

 すると同様な考えから、脈略のない発言をするGMに当たる可能性を踏まえ た上で、「(例えば日本の)任意のGMに対してTRPGをプレイしてPCの勝利を得 る能力」を鍛えることも可能であると考えられます。「近鉄の任意の駅で の便所探索ゲーム」に対する能力が鍛えられるように、「身内の任意のGM に対してTRPGをプレイしてPCの勝利を得る能力」を鍛えることもできそうです。

>>冒頭の話に戻りますが、このゲームは、同じGMを相手にしたところで、将 棋のような意味で「同じゲーム」としてプレイすることはたぶんできないと 思います。<<

 以上の考察から、同じゲームの違う局面として、TRPGを利用したゲームを 反復して遊ぶことは可能であると思います。

>>目的達成の可能性があったのかどうかはわからずじまいです。というこ とは、その遊びがゲームだったかどうかもわからずじまいです。<<

 目的達成が不可能であっても、ゲームの定義を満たす限りゲームだと思います。 ただくだらないゲームであるだけで。例えば五目並べは必勝手が発見されており、 それを知っていて従う限りはくだらないゲームです。しかし依然としてゲーム であるし、必勝手を知らず「くだらなかったかどうかわからずじまい」であれば ゲームっぽさを楽しむことも可能だと思います。 j
2002年03月24日:15時35分36秒
【制御層とゲーム分析】「GMを遊ぶ」ようなTRPG / トモス
ゲーム性を重視するプレイがどんなものであるかについて、僕は、「ゲームシステムがしっかり事前に出来上がっており、それを遊ぶもの」というイメージがあります。

将棋やボードゲームやコンピューター・ゲームのように、ゲームが作品としてかなり完成されていて、「同じゲーム」を全然違う時と場所で、全然違う人たちが遊ぶことができる(反復可能)ものだというイメージもありました。言い換えると、作品として完成しているゲームという遊び道具があり、その遊び方に従って遊ぶのがゲームだ、というものです。妥当であるかどうかはともかくとしても、ゲームが商品であることも多いことから考えて、奇抜と言うよりは凡庸な発想だと思います。

myrtさんが最近提案している「GMをゲームの局面の一部と考える」という発想や、以前提案した「スポーツの対戦相手もゲーム核の一部として考える」という発想は、こうしたイメージとは違う形でTRPGのゲーム性を考えるものだと思いました。
それは、「GMを遊ぶ」ようなゲームで、「どういう働きかけをするとGMはどういう反応を返すか」自体がゲームを構成していて、それを調査、推測しながら目的達成(GMから特定の反応を引き出すこと、と言えます)を目指すのだということになります。

人間自体がゲームを構成する、というのは、人間の心が気まぐれで、でたらめなものだったらそもそもゲームとして成り立たない(偶然性が結果を左右し過ぎる)し、どういう振る舞いを示すかについてわかるようになるためにはある程度その人の個性なり発想のパターンについて理解しなければならず、それに時間がかかり過ぎたり、その作業が困難過ぎたりすると、未知の設定部分が結果を左右し過ぎるのでゲームとして成り立たないということになると思います。また、GMが勝敗にこだわっていて勝たせてやろうとか負かせてやろうとか思っている場合には、ゲームとして成り立たないと感じる人がいると思います。GMの裁量権が結果を左右し過ぎるので自分の戦略の立ち入る余地がない、と。

ですが、そうでなければ、ゲームとして成り立つ可能性があるように思います。



比較のために、まず、一人の人間の反応だけを扱うゲームを考えてみます。
例えば「今日はここ5年の間におれが散財した話を引き出すことが目的だ。1時間質疑応答をやって15万円分になったらまあそこそこ、30万円分になったらかなりの達成度だ。」とゲーム役の人がルールを告げ、プレイします。プレイヤーは協力して、旅行に行ったか、パソコンを買ったか、ステレオに金をかけたか、高いスポーツ用品を買ったか、などと質問をして行きます。ゲーム役の人は、「いや、その話は思い出したくないからパス」とか「ああそういえばあの時にも大金を使ったんだった」とか、話したいように話していいのですが、わざと勝たせたりわざと負けさせるとゲームが成立しなくなるのでそれはやらないということにしておきます。

それから、「その話はいいから、次行こうか」などとプレイヤーが先を急ぐと不機嫌になって「聞く気がないなら別にいいよ」とすねてしまうのもありです。

また、TRPGからは遠くなりますが、ゲームとしては、「目的や禁じ手を決めるゲームデザイナー役」の人と、「ゲームを構成する人(質問を受けてあれこれ話をする人)」が別々になっている方が面白いだろうと思います。「国の名前をいう言葉を1時間で20以上言わせられるかやってみよう。ただし、本人に10分に一度づつゲームの目的をあてさせて、正しく当てられてしまったら失敗ということにしよう」などと、デザイナー役の人が決めて、会話を始めます。

デザイナー役とゲーム役の人が同じ場合には、ゲームがどの程度の難易度なのかがある程度わかっているし、達成方法が存在していることもほぼ保証できます。作った本人が、「どうやったら実現するかわからないけど、書道をめぐる話をしつつ50音と濁音、半濁音を全て言わせたら勝ちにしよう」などと特に考えもなく始めたところ「実は「ぽ」の音はほとんど書道を話題にした会話ではほとんど全く登場しない」などということがゲームも半ばになってわかってくる、などというケースはありえますが、とりあえずゲームをデザインする際に、明らかに達成可能な目的を設定することにする、ということが可能です。

これに対して、デザイナー役とゲーム役を別々の人が担当する場合には、ゲーム役の人が勝ち負けの基準を知らないために、ある程度はゲーム性が損なわれる心配をしなくて済みます。ですが、デザイナーの方は、必ずしもそのゲームの難易度を調整することができず、やってみたら非常に難しかった、などということもありえます。

辞書から単語をランダムに拾い出して行き、それを幾つ言わせることができるかを試す、という方法もあります。ここでもゲームの難易度の調整は難しくなりますが、ゲームのルール自体は遊び手全員が知っていて、ただその単語をゲーム役の人は知らないのでゲームとして機能します。

いずれにせよ、会話の流れや思考回路や言葉づかいなどに通じている人ほどいろいろな戦略を立てて目的を達成するのに役立てることができる、ということになると思います。そうした戦略的思考を楽しむための遊び、つまりゲームっぽい遊びとして、十分成立しそうです。それが実際にゲームになっているかどうかは時として確かめようがないかも知れませんが。(目的を達成できずに時間切れになってから、「生け花の話しでポを発音させるにはどうすればよかったと思う?」とゲーム役の人に聞いても正確な答が返ってくるとは限らず、目的達成の可能性があったのかどうかはわからずじまいです。ということは、その遊びがゲームだったかどうかもわからずじまいです。)



以上のようなゲーム(っぽい遊び)と比較した場合、TRPGには明かな特徴がひとつあると思います。架空世界を扱うことです。

GMがゲーム(の一部)を構成する場合でも、GMの行動を束縛する要因があり、「この世界なら魔法使いが町を歩いていたって別に怪しまれたりはしないだろう」などとプレイヤーも推測することができます。これは、GMが巧みに振る舞うことでプレイヤーをわざと勝たせたり負けさせたりする可能性を制限します。GMがそのつもりになれば、以前として簡単だろうとは思いますが、「マスター、その判定はおかしいよ。こっちの判定表を使う方がいいよ」などと主張する際の手がかりがある、などと言えます。また、GMの心の気まぐれやでたらめを防ぐこともできるように思います。(それは上に例として挙げた他のゲームでも防げるので、余り大した問題ではないかも知れませんが。)

また、GMの個人的な話を聞くとか、思考回路を調べるというよりも、GMの想像力に触れる、という面が強くなります。GMがどういう人であるかにもよりますが、これは遊びとしては確かにより面白そうです。面白そう、というのは、つまり、「この人のここ5年の行動の中から何とかしてお金を使った話を堀り出そう」といった遊びと比べて、「この人の想像する世界で冒険して、その世界にある遺跡から秘宝を持ち帰ろう」というのは、面白みがありそうだという感じがします。そちらの方がよくできたゲーム(またはゲームっぽい遊び)だ、とは限りませんが。



以上のように、TRPGは「GMを遊ぶ」ゲームだと考えることはできるように思います。GMがプレイヤーを勝たせる・負けさせるということを始めたらゲームとしては成り立たないですが。

冒頭の話に戻りますが、このゲームは、同じGMを相手にしたところで、将棋のような意味で「同じゲーム」としてプレイすることはたぶんできないと思います。作品として何か完成されたものがある、とも言えなさそうです。ですが、どうやらゲームとして遊ぶことはできそうです。
このように理解すると、極小制御層TRPG(極小化制御層型TRPGとも)がどんな風に遊べるのかがわかる気がします。もちろん極小化されていない、制御層がもっと大きなものであってもよいのですが。
2002年03月22日:21時36分03秒
【比較ゲーム分析】プレイスタイルとゲーム性 / トモス
制御層絡みの話の大枠が片付く気配があるので、思考が少し大きな文脈に戻って行きつつあるのですが、これまで議論の中心を占めてきた「ゲーム」について、何となく、自分のバイアスのようなものがあることに気がつきました。バイアスという程の大袈裟なものではなく、テストしてみたいアイディアといった程度のものかも知れません。

ゲーム重視のプレイと、そうでない、たとえばノリ重視のプレイなりを対置するような文章を読んでいると、時折、「TRPGのゲームというのはそれほどかっちりしたゲームじゃないんじゃないのか」ということや「ゲームというのはそんなにかっちりした遊びじゃないんじゃないか」ということを感じます。その一方で、ノリであれ、お笑いであれ、物語の印象深さであれを追求するプレイの方も、でたらめや気まぐれとは程遠い遊びであって、目的があるし、それに向けた努力があるし、達成できるかどうかがその努力にかかっている部分がある、(つまり、最近の議論の言葉で言えば「ゲーム性がある」)ということを感じることがあります。

#「かっちりした」というのをもう少し説明的な表現に言い換えると、「目的のために工夫(戦略的意思決定)を重ねる遊びで、それを統べるルールがある」というものです。「でたらめ」や「気まぐれ」は「目的がなく、特に工夫もない遊びで、それを統べるルールも曖昧」と言い換えられると思います。

まあ僕はノリ重視のプレイというのは経験したことがないので何とも言えない部分はありますが、そういう門外漢の立場からいろいろな意見を読むと、「ゲーム性を重視するプレイヤーの中にもルールの細部にこだわったり、少しでも自分に有利な展開を実現させようとしたりして場を興ざめさせる人はいるし、にも関わらずプレイスタイルとしてのゲーム重視が悪いわけではないように、ノリを重視するプレイヤーの中にもはた迷惑なプレイヤーはいるだろうけれども、それはノリ重視のプレイスタイルが悪いということにはならないのではないか」ということを感じます。

僕はノリ重視のプレイは経験もないし特に興味があるわけでもないので、擁護するにも批判するにもあまり材料を持っていない上、「ノリ重視もゲーム性がある」と言ったところでそれが擁護なのかどうかもよくわからないですし、こういう話は「TRPG市場の活性化」とか「TRPGの普及」の話と絡んでいるので上のようにプレイスタイルの是非だけを切り離して考える考え方の持つ射程はたかが知れているわけですが、ともあれそういうことがきっかけで、ゲームとそれ以外の遊びがどれだけ違うのか、ゲーム性重視のプレイと他のプレイがどれだけ違うのか、について興味を持ったのだと思います。

経験も興味もある「物語重視」については、多少議論をする機会がありましたが、「ゲーム性重視」との差は微妙だ、と感じます。確かに物語重視はでたらめでも気まぐれでもないのですが、「工夫自体は楽しみの内に含まれず、成果の方が楽しみ」であったり、「制御不可能な未知の要因に左右され過ぎるのでゲームとしてどう遊べるかがわかりづらい」というような場合があることを感じます。ゲーム性重視の典型例としてこれまで検討してきた「ミッション達成型」もやっぱり目的に未定義性が残っていたり、別ゲームへの移行が生じ得たり、いろいろ「かっちり」していないところがあるわけですが、それでもこちらの方が少しゲームっぽいような気がします。漠然とした印象の域を出ませんが。

それから、バイアスとは言ったものの、これまでの議論では、「ゲーム性重視はかっちりしたゲームをやろうとするものではない」とか「TRPGではかっちりしたゲームはやりづらい」とかいう方向に議論を進めたのは必ずしも僕だけではないですし、僕に多少のバイアスがあったところでmyrtさんや他の方々がそれにひきずられて議論の流れが大きく違ってくる、という風にも思えませんが。
2002年03月22日:18時45分23秒
【制御層とゲーム分析】審判とGMは局面の一要素 / myrt
(Re:2002年03月21日:10時37分54秒【制御層 とゲーム分析】制御層、実装とゲーム性について / トモスさん)

>>いわゆる実装面でも、審判がきちんとした運用をしないとゲームが成立し ない、ということです。その一つが、「手によって結果が違ってくるように する」ことだと思います。 <<

 どう判定する審判がいるかというのは局面の一要素ではないでしょうか。

 例えば、ラフプレイに厳格な審判と、寛容な審判がいたとします。 プレイヤーは各審判の特性を知っており、どちらの審判に判定権がある ときにも「ラフプレイによる反則を取られない範囲のプレイ」をしよ うと試みることができます。「前の審判はこの程度で反則を取らなかっ たのに」という抗議がどのような意味を持つかは難しい問題です。 必要なのはどの程度でどう判定されるかの知識であり、審判間の(ルールの字面以上の)判定の統一ではありません(例:すべての審判が大気中のノイズに大きく 依存して判定していたら、依存の仕方が一定であっても困る)。

 ゴルフにおけるコースは、違うことによる面白さの違いがあります。 では審判の違いによる面白さの違いはあるだろうかと考えると--まさに TRPGは、GMの違いによって面白さの違いがある遊戯ではないでしょうか。「正しいゴルフのコース」がないように「正しいマスタリング」もない と。しかし「ほとんどの人が面白くないゴルフコース」があるなら、「ほとんど の人が面白くないマスタリング」も存在するでしょう。
#コースをシナリオになぞらえるのが順当でしょうが、同じシナリオで もGMによって違った面白さがあると思われるので。

>>問題はむしろ、どのような追加・変更がされたか、その際のGM動機が 何であったか、だろうと思います。これを後から検証することは非常に 面倒でかつ困難でもあるので、ゲーム性を保証しようと思ったら制御層に手 をつけてはいけない、とするのが便利だとは言えます。 <<

 極小制御層TRPGはその検証のために便利であると考えています。 この制御層を守る限り保証されるものと制限されるものが明らかに なるならば、その保証の必要がなく制限だけが邪魔になるときには何の 懸念もなく逸脱することができますし、逆に制限が邪魔でなくさらなる保証が必要ならば、より細かい制御層をデザインしてもいいわけです(各 フェイズの中でミニ遷移規則を作るとか)。

 だからこそ、この制御層を守る限り保証されるものと制限されるも の、そしてどのような場合に保証と制限が必要/不必要なのかを明らか にする必要があると考えています。それについて 誤解する人はいらない設定を増やしたり必要な変更を加えなかったり し、良く理解している人はいくら変更を加えてもプレーヤーに納得 されるんじゃないでしょうか。

(Re:2002年03月21日:10時09分50秒【制御層と ゲーム分析】極小制御層TRPGのゲーム性 / トモスさん

>>以上から、極小制御層TRPGが「ゲームである」かつ「ゲームっ ぽい」ようなプレイとして成り立つのは、<<

 ここでトモスさんの挙げられた条件は、すべてその まま「TRPGのプレイがゲームっぽいプレイとして成り立 つために必要な条件」ではないでしょうか。

 通常のTRPGでは 必要に応じてGMが設定に手を加えることを認めてますから、保証の 観点からは何の設定も保証されていることになりません。一方 極小制御層TRPGでは、GMが判定のためにミニシナリオを用意する ことを禁止してはいません。義務づけてもいませんが。

 極小制御層TRPGはその定義からはずれないでプレイをする限り ゲームのプレイである定義からも外れないのに、「ゲームっぽくない」プレイに なりえます。よって「ゲームっぽくないプレイの原因はゲームか ら逸脱することだから、ゲームのプレイから外れなければいいんだ」という命題が 否定できます。
2002年03月21日:19時44分10秒
TRPG総合研究室 LOG 094 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 094として2002年03月15日から2002年03月21日までのログを切り出しました。

 TRPG.NETよりCM : オンライン書店ビーケーワン(7000円以上の注文は国内送料無料)、洋書販売のスカイソフト(7000円以上の注文or書店受取は国内送料無料)、ソフトウェアやDVD・CDも扱っているアマゾンコム(1500円以上の注文は国内送料無料)による購入リンクを整備しております。TRPG関連/有用書籍リストともども、機会がありましたら、ご活用くださいませ。



TRPG総合研究室ログ / TRPG論考掲示板ログ / TRPG論考
TRPG.NETホームページ / Web管理者連絡先