TRPG総合研究室 LOG 094

TRPG総合研究室の2002年03月15日から2002年03月21日までのログです。


2002年03月21日:10時37分54秒
【制御層とゲーム分析】制御層、実装とゲーム性について / トモス
直前の僕の投稿で、制御層とゲーム性の関係について整理してみて、改めて感じたことが2つあります。

これまでは「別ゲームへの移行」を問題にしてそれが起こるとゲームではなくなるが、それが起こらなければゲームが成立していると言える、と考えてきた面があるのですが、それは正確ではない、ということです。

将棋なら将棋が成立するためにはその制御層が守られて、別ゲームへの移行が生じないことが必要ですが、それさえ守られていればよい、というわけではなくて、いわゆる実装面でも、審判がきちんとした運用をしないとゲームが成立しない、ということです。その一つが、「手によって結果が違ってくるようにする」ことだと思います。

またもうひとつ、「別ゲームへの移行」が生じてもそれはもともとのゲームのプレイではないかも知れないが、何か別の、ゲームAから始まってゲームBに途中で移行するような第3のゲームなのではないか、というmyrtさんが以前から考えている可能性ですが、これはTRPGについては認めてよいように思いました。

将棋が別ゲームに移行する場合には、そもそも自分が知っていた情報(将棋のルール)に基づいて立てた戦略が無駄になってしまう(それまでの自分の戦略ではなく、その変更が理由で、自分が一気に有利になったり不利になったりしてしまう)のでゲームが変更されることはその遊びをゲームでなくしてしまう可能性があります。ですが、TRPGではもともとプレイヤーが設定(シナリオ)の大部分を知らずに始めることになるので、それによって戦略の変更を迫られるという被害も必ずしも発生するとは限りません。

問題はむしろ、どのような追加・変更がされたか、その際のGM動機が何であったか、だろうと思います。これを後から検証することは非常に面倒でかつ困難でもあるので、ゲーム性を保証しようと思ったら制御層に手をつけてはいけない、とするのが便利だとは言えます。

将棋で「ちょっと今から桂馬が一マス前に進んでもいいことにしない?」と一方から提案があって、他方のプレイヤーも合意したとします。ここで将棋というゲームは崩壊しますが、この遊びがゲームであり続ける、とは言える気がします。また、審判が突然ルール変更を宣言する場合とは違って、双方のプレイヤーはそれがゲームに及ぼす影響を見積もって受理も拒否もすることができます。そこで、ここでも「別ゲームへの移行は生じたがゲーム性は損なわれなかった」と言える気がします。

この考え方は、「別ゲームへの移行がないこと」と「ゲーム性の成立」を切り離すものなので、これまでの議論の多くの前提を掘り崩す形になっていますが、どうやらそう考えるべきだ、という感じがしてきました。

逆にこうも言えます。TRPGでGMの判断による設定が変更されることを将棋にたとえるとゲーム中にルールが変更されたり駒の配置が変わることに相当するので、そういうことが起こるのはゲーム性を損なう、とこの議論の当初は考えていたと思うのですが、(ゲーム核についてであれ、制御層の議論の初期であれ)その考え方は将棋、囲碁、一部のシミュレーションゲームのようなボードゲーム(双方がルールや設定を知っており、それに基づいて戦略を立てる対戦型のゲーム)と、設定の多くを推測していくゲームであり、必ずしも対戦型でもないTRPGとの違いをうまく整理できていなかったために生じた誤解だと思います。

#もっともmyrtさんはGM対PLという対決型を考えているような気がしていたので、その路線を意図的に追求してみた、というのはあるのですが。
2002年03月21日:10時09分50秒
【制御層とゲーム分析】極小制御層TRPGのゲーム性 / トモス
(myrtさんの【制御層とゲーム分析】フェイズ間でリソースを持ち越さない理由,2002年03月20日:18時17分27秒 へのレスです。)

myrtさん、どうもありがとうございます。いろいろすっきりしました。

>>うーん、極小制御層TRPGは話を先に進め過ぎなのでしょうか?? <<

まあ、思考実験だと思えばこれでいいのではないかと思います。制御層という概念が持つ可能性や限界をはっきりさせるための。僕の理解がついていかないから先に進め過ぎ、という意味かも知れませんが、myrtさんが先に進んでいるのはよくあることのようなので個人的には余り気になりません。

何となく、極小制御層TRPGにあてはまる議論が限定型TRPGにあてはまらない場合があるような気がしていたのですが、どうもそれほどの違いがないようですので一旦は極小制御層型を扱って話をもう一歩進めてみることにします。

話の焦点は、「制御層を保てばゲーム性が確保できる」という命題についてよく理解することです。あるいは本当にそうなのか、もしそうだとするとどのような意味においてなのか、と考えてみることです。ひいては、TRPGをゲームとして遊ぶことの可能性と困難について、考えるということになっています。

==

極小制御層TRPGはルールと目的以外の全てをGMがアドリブで処理するものになっています。そうすると、「別ゲームへの移行」にあたるものは生じない可能性が高い(ルールの変更や目的の変更をしない限りは生じない)わけですが、にも関わらず次のような事態が起こりうるように思いました。
・「そもそもゲームにならない遊びになる可能性がある」
どのような手を選ぶかがどのような結果に至るかに関係がない遊び。(丁半博打など。)

・「悪いゲームになる可能性があある」
どのような手を選ぶかがどのような結果に至るかに余り関係がない遊びになり可能性がある。例えば、未公開の設定部分を推測するための手がかりもそういう手がかりを入手できる可能性も十分に与えられていないにも関わらず、そういう要素がプレイの結果を大きく左右するようなゲーム。これが余りにも激しい場合には、「ゲームでない遊び」になると思います。

・「ゲームっぽくない」とプレイヤーが感じる可能性がある。
個々の局面では、GMはプレイヤーの手が成功するように設定をしたり、あるいは逆に失敗するような設定をしたりすることが可能で、また長期的には、「プレイヤーが何をしようと100gpきっちりの収穫があるようにゲームを設定していくこと」などが可能です。GMがこういうことをする、と思っているプレイヤー(不信感を抱いているプレイヤー)は、GMが実際にはそういうことをしないとしても、プレイをゲームっぽいと感じないように思います。

以上から、極小制御層TRPGが「ゲームである」かつ「ゲームっぽい」ようなプレイとして成り立つのは、

・「プレイヤーの手の選択が異なる結果に結びつく」
・「何をすればよい結果が得られるかについて推測していくだけの手がかりを得られる可能性が保証されている。」(その可能性をプレイヤーが活かして、調査行動などをとらなければ手がかりが得られないようになっているのは構わない。)
・「GMがプレイヤーの勝敗に余りこだわらず、その架空世界で起きる物事のそれらしさや、展開の面白さなど、何か別のことに関心を寄せている。」
・「プレイ中、プレイ後などに、プレイヤーがそうしたことを感じとりゲームっぽい遊びだと考える。または、何か別の理由(誤解)によってゲームっぽい遊びだと考える。」
という全ての条件が満たされる時だと言えそうです。

限定型TRPGでは、最初にプレイヤーに対してもう少し多くの情報が与えられています。(これこれのフェーズがあって、勝利条件の達成は最終フェーズに辿り着くことだ、と。)

ここでも、「次のフェーズに行けるか」「失敗してゲームオーバーになるか」「特にどちらでもないか」という判定を行う場合の基準はGMが設定・変更できるわけですが、極小制御層についてと同じく、その設定が上に挙げた条件を満たさないと「ゲームではない遊び」または「悪いゲーム」または「ゲームっぽくない」ものになってしまう可能性があります。

と考えると一応整理できたような気がしました。
2002年03月20日:18時17分27秒
【制御層とゲーム分析】フェイズ間でリソースを持ち越さない理由 / myrt
(re:2002年03月18日:18時51分17秒【制御層とゲーム分析】限定型TRPGと極 小化制御層型TRPG / トモスさん)

 うーん、極小制御層TRPGは話を先に進め過ぎなのでしょうか??

 追加設定などでゲームが変わってしまうことがある点に ついては同意が得られていると思います。だから、ある手がゲーム的に 優れているかどうかを調べるためには、まずどんなゲームをプレイす る/していたかの定義が必要になります。

 だから、プレイ後にある手が「TRPGにおいて一般的に優れていた」なんてことは 理論的にありえなくて、あるのは限定局面での「今回GMが用意した姫君を助けるゲー ムの手としては優れていた」「ちまたによくある魔法使いを倒すゲーム の手としては劣っていた」などの「ゲームの定義と評価の無数の対」だけです。 後から「複数の可能性/結果がありえた」ゲームを定義することになるので、 これは単なる結果論とは異なります。

 後から好き勝手に定義するわけですから、各局面においてのとりえた戦略 と結果の集合も後付けで定義できます(というか定義しないと議論できません)。 その後付け定義に従ったプレイの集合であるゲームの中に限れば、それらの結論 が妥当であることが期待できます。

 ここで、TRPGは思いつきに左右される遊戯であり、基本的に参加者の想像 力の積を超えた展開は発生しません。だから反省会で これら後付け定義が参加者の思いつく限りなされたならば、次回のプレイでも それを超える思いつきはあまりないことが期待できます。また、思いついても プレイする気のないゲームについては議論されません(虐殺ゲームは嫌い、 ゲームっぽくないのは嫌いだとか)。

 よって少なくとも身内プレイでは、反省会で「このゲームの定義下でこの局面で は優れていた」とみなされた手は、良く似た発想をする参加者間では再び 優れた手とみなされることが期待できると思われます(似た局面で似たゲーム だともみなされなければならないが)。

 これでプレイ後の問題は片付きますが、プレイ中の問題は残っています。 どんなゲームをプレイしているかが定義されなければ良い手も定義できな いので、判断材料がなくなってしまいます。ところが、 各局面で定義可能なゲームもこれまた無数です。

 そこで「少なくともこのゲームであることは変更し ないでプレイしよう」という合意をしてから プレイを始めてみてはどうだろう、というのが極小制御層TRPGです。

>> 具体的にどういう形で次のフェーズへ進める条件が制御層に定義されてい るのか、を考えるのが少し困難です。<<

 以上のことから、具体的に決まっていない点こそがミソです。だから判定が

・笑点の大喜利のようにお題目に対してウケる返答ができたかで判定
・ミニシナリオを用意して各フェイズで通常のTRPGを行ない、その結果から判定
・風雲たけし城(東京フレンドパークのほうがメジャー??)のようにサブゲームを 用意して判定
・プレーヤーの介入する余地なくダイス目で判定
・GMに包丁をつきつけて無理矢理有利に判定させる

などどんなものであっても(わからなくても)、例え想像を絶するものであっても 判定ができれば運用可能です。

 これまでの議論では、「結局GMの胸先三寸だったり、プレーヤーがどんな手を 思いつくかはわからないから暫定的な結論しか出せない」レベルを越えることが できませんでした。それの打破を狙っています。

 この極小制御層TRPGでは、どんなプレーヤーが参加していてどんなGMがどんな 判定をしようとも、どんな新しい手が発案されようとも、どんなにマナーの悪い プレイをしようとも、最初に決めたゲームのルールを守り続ける限り保証される ものは一体何かを知る手がかりになると考えています。

>>何故フェーズが必要なのか、何故リソースの持ち越しがないような構造にし ておくのか、がもっとよくわかると、それで解決すると思うのですが。よろし くお願いします。 <<

 単純化のためです。フェイズとリソースをかけたものを一つの状態と し(リソースの状態も状態の一つだから)、判定結果を「成功」「失敗」以外 にも許した複雑なネットワークをもった制御層を定義することは簡単で、そ れは一般のゲーム(ただしルールで定義されたもの)を表現するために十分な 能力があります。

 しかしそんな複雑なモデルを分析しても、結局「各状態における判定と その後の遷移をどうするか」という問題に帰ってきます。よって極小制御層TRPG について解ければすべてのゲームについての判定問題が解決できるし(フェイズの 概念を一般の状態にまで拡大すればいいだけ)、とけなければ全く駄目であると思 います。だからあえて単純なモデルを考えています。

 というか発端では「成功」「失敗」「プレイ中」の三状態だけを持った 超極小制御層TRPGを考えていました。これならば、成功と失敗のありうるすべての TRPGのプレイをフォローすることができます(超極小制御層TRPGのプレイと みなせる)。しかしプレイ中の状態遷移が一切ないというのは議論に不便だと 思い、フェイズだけを状態(リソースともみなせる)として保つ 現在のモデルを考えました。
2002年03月18日:19時14分43秒
【制御層とゲーム分析】ゲームっぽさと信用、思い込み / トモス
何と言ったらよいのかわからないのですが、とりあえず「信用」「思い込み」と名づけることにしたものについて書きます。

ある遊びがゲームっぽいかどうかについて、大きく分けて2つの種類の感想があります。
ひとつはゲーム中に、その遊びがゲームっぽいと感じるかどうか。もうひとつはゲーム後に、あれこれ知らなかったことを知った後で、その遊びがゲームっぽかったと感じるかどうかです。
このどちらを重視するか、は人によって、立場によって違うだろうと思います。

もしもゲーム中に感じるゲームっぽさだけが問題だとしたら、例えばGMはTRPGのシナリオをプレイしていると思わせておいて、実は設定も運用もいい加減にやって、最後の最後になって、「いやあ、実は今日は何も用意してなかったからとにかくピンチと解決が交互に訪れるようにすることだけしか考えてなかったんだ」と内情を打ち明けたとしても、プレイヤー達は「でも遊んでいる間はゲームっぽいと感じたし、楽しかった。それが全てだ」と問題にしない可能性もあります。
もしも事後的なゲームっぽさにこだわる人がいると、「なあんだ、自分は一生懸命考え抜いてあれこれ工夫をしたけれども、獲得した財宝量は全然そんなこととは関係なくGMの気まぐれで決めたのか」とがっかりします。が、こういう人はいないものとします。
ですが同じメンバーでそれが何度も続くと、「今日もまた用意をしていないんじゃ」という可能性を考えるのではないかと思います。「だとすると、自分が何をやっても最後には適当な量の財宝が獲得できることになるんじゃ」などと。しかも、今回に限ってはGMは本当にしっかり設定を用意して、うまくゲームっぽいゲームを実現しようとしていて、その上別ゲームへの移行も起っていないのですが、プレイヤーの中には、「何だかゲームっぽくないな」と感じてしまいます。
これは、GMがきちんとしたゲームを用意・実装してくれるという信用が崩れたため、と考えます。

プレイヤーがGMに対する信用をなくしていても、「とにかくおれはゲームを遊びたいんだし、そのためには実際がどうであろうとこれをゲームだと思い込むしかないんだ」という形でプレイヤーが自分で自分を説得すると、途端にまた工夫をする気が湧いてきて、「やっぱりあんな風にした方がもっと財宝が獲得できるんじゃないだろうか」となどと考えるようになります。

信用が存在しているか、思い込みがあれば、事後的なゲームっぽさを問題にしないプレイヤーにとっては、ゲームっぽさを確保するためにはほとんど何もいらないことになります。

極端な例で言えば、この壁に向かって魔法の呪文を唱えると、秘密の扉が現れるかも知れない、と思い込んでその呪文を探り当てるための研究や工夫を楽しむことに明け暮れる人にとっては、壁に向かって話すことがゲームです。他の人から見たらそれは間違った思い込みに基づいた無駄な努力なわけですが。

以上の話は、極小化制御層型TRPGについて考えていて思い当たったものです。このタイプのTRPGがゲームとして成立するのかについては疑問の余地を感じる(それは上に挙げたGMのやっていることと紙一重なので)ですが、それをさておくとして、「ゲームっぽさ」について考えると、GMに対する信用かプレイヤーの思い込みが必要で、かつ、事後的なゲームっぽさを問題にしない態度が必要なのではないかと思います。
2002年03月18日:18時51分17秒
【制御層とゲーム分析】限定型TRPGと極小化制御層型TRPG / トモス
#myrtさんへ
いろいろ整理できない点があって困っているのですが、時間足りないので、質問をしてみます。たぶんmyrtさんに整理してもらった方が助かる部分だろうとも思うので

myrtさんが提案した限定型TRPGでは、複数のフェーズから成るTRPGを想定しています。また、フェーズ間のリソースの持ち越しはないけれども、ある種の情報などが持ち越されることがありうる、としています。

これがどうしてこういう風になっているのかをもう少し説明してもらえるでしょうか?
最近考えたのは、これはゲームブックやアドベンチャーゲームに非常に近い、ということです。GMがいるので、ゲームブックとは違って無限の手に対応できるわけですが、次のフェーズに進むためにはどういう選択をしなければいけないかは固定されていて、それ以外の手はゲームを有利にも不利にもしない(リソースが持ち越されないので)形でただそのフェーズ内を堂々巡りするだけ、というような形になっているように思います。ですが、具体的にどういう形で次のフェーズへ進める条件が制御層に定義されているのか、を考えるのが少し困難です。また、どうしてこのような形でTRPGをゲームとして遊べる、ということを考えるに至ったのかが感覚的にはわかりません。

これに対して、極小化制御層型TRPGはフェーズもなく、リソースの持ち越しについての規定もないものですが、単純明快です。(これがよいアイディアだとは思わないのですが。)GMは目的(財宝獲得など)を告げ、ルールブック以外は一切を裁量によって決める、とします。こうすることで、どのような設定や設定変更があっても、それが「別ゲームへの移行」を引き起こす心配はないということになります。制御層には目的とルールブックのルールだけしか含まれていないためです。

TRPGで別ゲームへの移行が起こらないようにするためには、この極小化制御層型TRPGをやればいい、という議論をもしmyrtさんがしていたとしたら、(余りいいアイディアだとは言えないとしても、)確かにそういう考えに行くのもわかる、と思うのですが、限定型TRPGはちょっと違います。そこがわかるようでわからないでいます。

何故フェーズが必要なのか、何故リソースの持ち越しがないような構造にしておくのか、がもっとよくわかると、それで解決すると思うのですが。
よろしくお願いします。
2002年03月18日:18時34分52秒
【比較ゲーム分析】Re:手の比較について / トモス
#Purpleさんへ。
(2002年03月18日:03時29分45秒、【比較ゲーム分析】手の比較について へのお返事です。)

投稿する段になって、自分の書いた文章の長さに気付いたので、改めて直接のお返事を書くことにしました。

まず、「全ての情報がわからないと手の優劣が決められないというのはおかしい」というPurpleさんの議論については同感です。それは前回の投稿でも既に配慮してあったつもりなのですが、僕の中でもあれこれ混乱があり、論の展開が余り明快でなかったのだろうと思います。

今回の投稿で「一般論」と呼んだものは、その点を改めて考慮した「全ての情報がわからない状況を想定しての手の比較」です。これは、マインスイーパーでどのマスにどんな風に地雷が埋まっているかがわからないまま、それでも手元にある情報から次の手を決めていくような状況を想定して、「こちらのマスをクリックするのと、あちらのマスをクリックするのとではどちらがいいか」と考えるものです。

ただ、TRPGには幾つか決定的な違いがあります。「マインスイーパーなら残りの地雷数がわかっているが、TRPGではどこにどういうリスク(やリソース)があるか、その可能性すら確定できない」というのが最も大きなものです。オークの群れだと思ったら魔法使いの罠だったというようなケースですね。Purpleさんの投稿から察するに、Purpleさんもこの可能性については感じとっておられると思います。

そして、この件に関しての僕の意見は、基本的には「シナリオが多種多様であり、プレイヤーには知られていないことから、その状況でどうしたらよいかについても、一般論が立てられない」というものです。言い換えると、「もしも何かの偶然で、全く同じパーティー、全く同じ装備、全く同じコンディション、全く同じ依頼で、全く同じダンジョンに到着し、全く同じ足音を聞いたとしたら、」と考えても、「シナリオが同じであると考えるのでない限り、その足音が何かは断言できないし、余りに多様な可能性が考えられるので一般論としてどの(/どちらの)手がよいとは言えない」ということになります。(もしもシナリオが同じであると考えるなら、一般論はある程度立てられそうです。特にGMの裁量権がなければ。ですがこれは今回の事例についてPurpleさんが考えていることと違っていると思うので省きます。)

Purpleさんは、オークについてどのような情報をどの程度得ているかによる、としていますが、仮にそのダンジョンがどのような場所であるか、オークがどのような戦闘能力で、どの程度好戦的な種族か、だいたいどの程度の財宝を持ち歩いているものか、などがわかっていたとしても、依然として比較できなさは残ると思います。「あれこれの情報を総合すると、たぶんあれはオークか、自分がオークの話を聞きすぎたから別の物音をオークのものだと思っているか、このダンジョンを支配している魔法使いの罠かだろうと思う」などとわかっていたとしても、そのいずれでもない可能性がありますし、戦わずに逃げた場合でも、一体どういう形でどの位の財宝を得るチャンスが他にあるのか、はわからないままです。(TRPGでダンジョンを冒険する時にはそういうことはざらだと思います。)従って、「戦うのと逃げるのとではどちらがよいか」を考えようにも、いろいろ前提条件を入れないと考えられないと思います。

ちなみに、そういう、手がかりが乏しい状況での意思決定が財宝の獲得量を大きく左右してしまったり、パーティーのメンバーの生死を大きく左右してしまうようなら、それはプレイヤーがうまく予測できないような未知の要素(なり乱数要素なり)が幅をきかせすぎた悪いゲームだ、ということになるという意見には同感です。

ただ、パーティーが獲得する最終的な財宝量の20%前後がそうした意思決定によって左右されるものだとしたら、そして、それらについての判断を誤って、(ワンダリングモンスターの全てに闘いを挑んで体力を無駄遣いしたり)ゲームの目的を達成できない場合もありうるという程度であれば、特に悪いゲームということにはならないと思います。そして、このような特に悪くないゲームであっても、やっぱり手の比較は(形式的論証の可能な形では)できないと思います。

別の形で言ってみます。以前、GMがプレイヤーの打った手の優劣を考慮して経験点を配布するシステムなどもあるから、手の優劣が判断できないはずはない、という指摘をされていましたが、ここでGMの判断は形式的に論証できるような判断ではなくて、プレイヤーが「自分の手の方がミッション達成にもっと重要な役割を果たしていたのではないか」などと抗議(場合によっては説得)できる性質のものだろうと思いませんか?

では、GMが手の評価をする時には何をやっているのか。あるいはセッションが終わってからその日のプレイについて話合っている時にはどうやって手の評価をしているのか、ということはまだうまく言葉にできないのですが。

例えば僕が考えているのはこんなことです。「TRPGには、ルールや世界観に基づいて形成される、ある程度曖昧な「その世界の常識」があり、それに通じていくに従って、よい手とそうでない手の区別がつくようになり、よい手が打てるようにもなって行く。」これは確率計算や場合分けの検討によって形式的に論証できるような厳密な思考をすることとは違う種類の思考のような気がするのですが、それに基づいてGMも他のプレイヤーも「あれはいい手だったよ」「ああいう時にはこういう可能性を考えないといい手とは言えないよ」「せっかくいい手を打ったのにこういうリスクがあるんだったらGMはもっとああいう情報をくれないと、いいゲームとは言えないな」などという会話が成立つかなと思います。

他のゲームについては「せっかく常識的に考えていい手を打ったのに、これで勝てないなんていいボードゲームとは言えないな」などと将棋を非難することは、何というか独特の不可能さがあると思います。何がよい手で何が悪い手かを決めるのはあくまでもゲームのルールや設定です。
それに対してTRPGでは、ある種の常識なり期待のようなものがあって、それに反するゲームをつくると、「それは悪いゲームだ。おれのこの手はよい手だったのだから、それがちゃんと効果を持つような仕組みがないといいゲームとは言えない」などと批判されるわけです。
TRPGと同じく、確率計算や場合分けのできないままに手を選んでいかなければならないゲームブックについても同じことが言えると思います。
例外的だとは思いますが、myrtさんが既に指摘しているスポーツの例もあります。(LOG093A/D変換と難易度の調整でのオリンピックの例)

(sf:依頼により途中で切れていたほうを重複削除しました)


2002年03月18日:17時33分21秒
【比較ゲーム分析】ゲームにおける手の比較(3):限定条件下での比較と複雑な判断 / トモス
(承前)

5)実際に行われている比較1:限定条件下での比較

これまでにも述べたことですが、TRPGでは手の比較が行われていない、というわけではなく、単に形式的な論証ができない形での比較をしているのだと思います。明確な根拠のない前提を導入して「常識的に考えてこの場面ではこちらの手の方がいいだろう」「具体的な数字としては出せないが、普通こういう場面ではこういうリスクが予想されるからそれを考慮した行動をとることが望ましい」などと判断する場合はその典型だと思います。

そして、他のゲームについても、多くの人は、上に述べたような形での形式的な論証が可能な比較をしていないと思います。例えば将棋について、どちらの手がよいかを形式的に論証するためには2つの手以降可能な展開のほぼ全てを検討する必要があるのですが、これはまずありえません。むしろ、「この局面で、飛車を取られず、かと言って守りのために一手を無駄にしないような手があるだろうかか」といった類の短期的な目的を設定して、その目的を一番よく満たす手を探す、といったことをしているのがせいぜいだと思います。そして、「この状況で飛車をとられるのはまずいし、ただ飛車を守るために一手費やすのもまずいだろ」という確かな根拠のない前提に基づいて「だからあの手は他の手よりもいい手だ」と結論します。(その前提が間違っているために、実は飛車をとらせておいて相手を不利にする妙手があるのだが、それに気がつかない、というようなことも起こります。)
テトリスのようなゲームでも、「今後出現するブロックの全ての可能な組み合わせを考えて一番有利なのは、このブロックをどこにどう置くことか」などと検討することはなく、せいぜい「特定のでこぼこのパターンにはまるとあとの展開が苦しいのでそれを避けたい」などと考える程度かと思います。あるいはマインスイーパーでも、「どの辺りから攻めるか」を考えることはあっても、それが本当にどのぐらい有利な手なのかをゲーム後に検証することはまずないだろうと思います。それでもあれこれの前提に基づいて、「この手はあの手よりもいい」と考えていたりします。

ある種のカードゲームやある種のすごろくなど、マルチプレイヤーゲームでは同盟や裏切りが可能です。このようなゲームには乱数要素(山札)も、未知の設定(他のプレイヤーの最初の手札)も、対戦要素もあるわけですが、一応、特定の局面において手の比較をすることは原理的に可能です。ですが、これは複雑な問題で、現実的にはほぼ誰にもやれません。実際にやれるのは、特定のシナリオをどう避けるかを考えたり、特に根拠があるわけではない前提を導入してそれに基づいて手を選んだりすることで、実際には前提が間違っていたために劣っていると思っていた手の方が有利だったという事態も生じます。

このように、考えてみると、何かの前提を導入して、限定された条件下で手の比較をすることは、プレイ中にも、場合によってはプレイ後にも、上に挙げた「結果論」や「一般論」よりもずっと多いように思えます。(他の比較のタイプもあると思うのですが。)そして、この比較について考えれば、TRPGも、他のゲームと若干似てきます。

TRPGでは、限定条件が「ここでオークを効率よく倒すには手Aと手Bのどちらがいいか」などといったゲームの短期的目的だけなら、やっぱり上に挙げたのと同じ理由で、「それはそれぞれの手の後にどういう手を打つかによって違うけれども、どういう手が打てるかを全部検討することができない」「未知の設定部分の内容や、GMの裁量によって違ってくるけれども、その部分がどういう形をとるかについて全て検討しつくすことができない」などといった不可能性がつきまといます。

ですが、こうした目的に加えて、「もしもGMがこちらの予想外の裁量権発動をせず、シナリオの内容がこちらの予想の範囲を決して外れないとしたら、かつ、もしもこちらの予想外のいい手が全く存在しないとしたら」という前提を更に追加すれば、形式的に論証可能な比較結果が出せます。但し、マインスイーパーと同じく「安全で効率が悪い手とリスクが高いが有効な手」をどう比べるかという「価値判断」の問題があります。また、将棋と同じく「考えられるGMの裁量権発動がどういう形をとるかが確率的にはわからないので、リスクの定量的な見積もりはできない」といった困難がつきまといます。

これに対して、他のゲームでは、マインスイーパーで「まずこのエリアを全部クリアーするためにはどの(/どちらの)マスをクリックするのがいいか」とか「こういうパターンがある場合にはどこを(/どちらを)クリックするといいか」などが、形式的に論証可能な形で検討できます。

#蛇足かも知れませんが、こうした各種の前提条件について、TRPGではそれらが妥当なものであるか形式的に論証することはできませんが、他のゲームでは原理的には可能です。「飛車をとらせないことが本当に得策だと言えるのか否か」などは、(価値判断が必要になる、リスクの定量的な見積もりができない、などの制約はつくものの)形式的に論証可能な課題だと言えると思います。

6)実際に行われている比較2:複雑な判断

最初に検討した「結果論」と「一般論」は、いわば「あるゲームにとって、ある局面で、2つの手のどちらがいいか」をゲームの諸要素を丸ごと考慮して結論を出すものです。当然ながら膨大な作業です。それに対して、限定された条件下での比較は、局所解とでも呼びたくなるような(あまり正確な比喩ではない気がしますが)手を探すもので、実行可能ですし、実際に広く行われていると思います。ただ、将棋や碁の「定石」などを考えると、「どうしてそういう手(の組み合わせ)を用いることがよいのかはとても説明しきれないが、今までの経験上どうやらよいことがわかっている」という類のものがあります。TRPGでも、これに近い思考があると僕は感じます。「うまく説明できないけれども、こういうダンジョンでは罠に気を付けるべきなんだ。」とプレイヤーの経験から察するような場合がそれです。TRPGは、他のゲームと違って架空世界を「それらしく」表現するルール・設定にこだわるところがあって、それと部分的に関わる気がします。ただこの辺りについてはまだどう整理したらよいのかがわからないので、何かがある気がする、と記すだけにとどめます。

今回もまた非常に長くなって申し訳ありませんが、とりあえずここで終わります。
2002年03月18日:17時27分09秒
【比較ゲーム分析】ゲームにおける手の比較(2):TRPGの場合 / トモス
(承前)

3)TRPGの場合

以前の投稿と一部繰り返しになりますが、以上の議論をTRPGにあてはめて考えてみます。

TRPGの場合は、全ての手を列挙することができないという性質があります。そこで、「結果論」としても、「あの時に奇襲していたらよかったのか、逃げていればよかったのか」が断言できないままに終わる、という面があります。
「結果論」の比較をするためにはシナリオやルールや設定資料やGMのアイディアなどを参照しつつ、2つの手がもたらす結果の連鎖を考えていくわけですが、「あれこれの設定から判断して、奇襲は有利だったと一度は思ったけれども、考えてみたら、一度逃亡してあそこにあった罠に仕掛けを施してからオークの一群を改めておびき寄せるという妙手があった」とプレイ終了3日後にGMとプレイヤーが合意するような可能性が残されています。
こうしたがあることから、「これまでわかっている限りのあれこれの展開の可能性を考慮した上で言えば、こちらの手の方が財宝の獲得総量が高くなる傾向にある。但し、全ての展開の可能性を考え尽くしたわけではない。」と言うのが限界だと思います。

また、財宝獲得総量のように「可能性」と「達成度(量)」の2つが関わる判断をすることになりますので、マインスイーパーについて指摘した問題と同じ「価値判断」の問題が発生します。「10%の確率で1,000gp獲得できる手と、20%の確率で500gp獲得できる手とではどちらがいいと考えるか、それによって手の優劣は違ってくる」というような事態が発生するわけです。

一方、「一般論」としての手の比較は、少し話が複雑になります。「一般論」としての比較は、「あるシステムでプレイをしていて、そのような状況になった場合の対処法一般として」考える場合(=シナリオを特定せずに考える場合)と、特定のシステムで特定のシナリオでプレイする場合を想定し「このシナリオで、この局面にさし掛かったら一般的にどの手がいいか」と考える場合と、それから、システムとシナリオは特定されているけれども、GMの裁量による追加・変更が考えられる場合に、それら追加・変更内容を特定しないままに、「このシナリオでこういう局面に差し掛かったら、どちらの手が最終的に有利か」を考えるものです。以下、順に書いてみます。

a)シナリオを特定しない場合

一般論での比較をTRPGにあてはめると、「もしも、あの状況と同じ状況にこの先遭遇することがあったら − 未知の部分が同じ、わかっている部分も同じ、キャラクターの装備や技能なども同じだが、未知の部分の実際の設定内容は違っているかも知れないし、その状況以降の乱数要素についても異なるものになる可能性が考えられるようなそういう状況に直面したら、一般的にこの手とあの手とどちらを選ぶのがよいだろうか?」 となると思うのですが、ここで一番厄介なのが、「未知の部分の設定内容がどうなっているかがわからない」という点です。

TRPGではプレイヤーが同じ「状況」に直面することがほぼありえないため、一般論の比較をした結果はほとんど意味を持ちませんが、あえて一般論を出そうとしても、「未知の部分の設定がどうであるかについて余りに限定が少ないために、一般的な議論ができない」ということになると思います。例のオークの足音の話で言えば、「もしも全く同じ形で依頼を受けて全く同じパーティーが全く同じコンディションや装備で全く同じように思えるダンジョンを訪れ、全く同じようなオークのものと思える足跡を耳にしたとしたら、一般的に、逃亡と奇襲、どちらの手が得策だろうか?」と考えてみても、そのダンジョンの全貌や財宝の量などはシナリオが違えば大きく異なるわけですし、オークの足音だと思ったものが実は魔法使いの仕掛けた罠である場合も、知らない内にPCにとりついた呪いの効果である場合も、ダンジョンの音響特性によって全く別の場所にいた1匹のオークの足音がそんな風に聞こえた場合も、その他にも非常に多様な可能性があります。

そうすると逃げることでパーティーがとれる手と、奇襲することでパーティーがとれる手との比較をしようにも手がかりが少なすぎる、ということになると思います。

だから、「次にこのような場面に遭遇した時にはどのようにすればいいか」は論証可能な形では言えないし、2つの手の間の比較も論証可能な形ではできない、と思います。


別の言い方をすると、変則的将棋で、相手がどういう手を打つことができるのかが全くわからない(未知の駒が登場するかも知れない、自分の駒に特殊効果が発生して動きがとれなくなるかも知れない、盤が変形するかも知れない)のに「この状況ではどちらの手をとればよいだろうか?」と考えても答えが出せないといった事態のようなものです。

b)シナリオを特定する場合


「ゲーム」を「ルールや舞台になる世界やシナリオが全て特定されていて、追加設定や設定変更が生じない」という程度まで特定したとしたら、「次にこのシナリオでこういう状況に遭遇したら、どちらの手をとるのがよいか」はある程度考えることができます。それは、ゲームブックの場合と同じく、あまり意味のない議論になりますが。(「次に同じシナリオをプレイして、同じ装備、同じパーティ、同じコンディションでまた同じイベントに遭遇したらどちらの手をとるのが得策か」というのが一般論の問いなので。)

ただ、仮にそういう検討に意味があると仮定しても、上の結果論の場合と同様、「どういう手がとりうるのか、全ての可能性を挙げられないため、暫定的な結論しか出せない」という限界がつきまとうことになると思います。

以上の2つの「一般論」としての手の比較を言い換えると、こういうことになります。もしも「シナリオを特定せずに、一般論として手の比較をしたいのなら、それはゲームブックの具体的作品を特定せずにゲームブック一般の手のよしあしを考えることに似て、形式的な論証がほぼ不可能」「もしも特定のシナリオについて一般論として手の比較をしたいのなら、それはある特定のゲームブックについて、どの項目にどういうコンディションで到達した時にどの選択肢を選ぶのがよいかを考える場合と同じく、意味がない。仮にそれを無視するとしても、とりうる手の全てを考えきることができないので、暫定的な結論しか出せない。」

c)シナリオを特定するが、追加・変更がありうる場合

シナリオが存在しているけれども、GMが裁量によって設定内容を追加・変更する場合は、「どのような手を打つと、どういう確率でどういう局面に到達するか」はある程度わかりますが、GMの裁量権がある分だけ不明確です。

もしかすると、GMはこの手を打ったらシナリオを変更していたかも知れないのだが、どういう変更をしていたかを考えようとしても余りに多くの可能性があり過ぎる、などということになると思います。特に、GMの思惑を外れる手はそうなる傾向が強いでしょうか。これは、シナリオを特定しないで考える場合とほぼ同じ事態です。多様な可能性を体系的に検討することができず、比較がほぼ不可能ということになります。(形式的論証が可能な形では、不可能、という意味ですが。)

ちなみに、結果論としても、将棋の場合と同じく、「もしこういう手を打っていたらGMはどうしていただろうか」について完全に調べることが難しいので、判断が困難になります。「もしも逃亡してからダンジョンの罠を利用できる可能性に気がついてこれこれの手を使ってオークの一団をおびき寄せて罠にかけてやろうとしたら、どういう判定でどういう展開がありえたと思う?」とGMに聞いても、オーク達がどう振る舞うかについて、PCの誘導についてどういう判定を用いるかについて、ファンブルをどう処理するかについて、などなど多くのことを考えなければならず、「それについてはこう処理していたはずだ」という答えがGM自身にもはっきり出せない場合が考えられるからです。

4)まとめ

以上をまとめようとしても、きれいにはまとまらないのですが、論旨をもういちど追い直してみます。

ほとんどのゲームでは、ゲームの展開に影響を与える要素が、
・事前に行われるルールや設定
・乱数
・事前に定義された他のプレイヤーの手
に限られているので、どのような手を用いるとどのような事態が発生する可能性があるか、確率計算によって、あるいは場合分けによって、考えていくことができます。
つまり、「乱数がどうであれ、これが(/こちらの方が)一般的によい手」「相手の手がどうであれ、これが(/こちらの方が)一般的によい手」と言うことができます。これは
・乱数のとりうる値の範囲や確率分布がわかっている
・相手のとりうる手の全ての可能性がわかっている
ためだと言えます。

また、固定されている設定内容が未知で、それを推測するための確率的情報などの手がかりもない場合(確率的情報があるのがマインスイーパーで、ないのはゲームブックです)には、一般的にそのゲームのある局面でどのような手が優れているかを考えることは、そのまま、ゲームの解法を検討することになるので、可能ですが、意味がありません。

TRPGについては、
・GMの裁量の影響の範囲がわからない
・設定内容が未知で、推測のための確率的手がかりなどがない

という特徴があります。
最低でも「確率は全然わからないが、この部分のは次の8通りのいずれかしかありえない」といった情報があれば、それを元に場合分けをして考えることができるわけですが、それも不可能です。

このような考察ができないために、手の比較は、「思いつく限りの可能性を全て検討した限りでは」といった暫定的な結論を出すことまでしかできない、ということになります。

スポーツと、以前議論したディプロマシーにも、よく似た特徴があると言えそうです。
2002年03月18日:17時23分45秒
【比較ゲーム分析】ゲームにおける手の比較(1):結果論と一般論 / トモス
手の比較について、更に考えてみました。「形式的論証の可能性」がおかしい、というのは僕もあれこれ感じるのですが、何というか、この部分を整理しないと先に進めない感じなのでまずはそれについて書きます。

TRPGに関しては、手の比較は形式的論証のできないものになるだろうと思います。いわゆる結果論としても、そうでない比較としてもです。Purpleさんは僕の論旨を誤解されているようでもあり、と同時に、結論としては「形式的論証」の話が何かを捉え損ねているという感覚は僕も持っていてどうしようかと思ったのですが、まずは細かい議論を展開してみます。今回は、他のゲームについて比較的踏み込んだ検討を加えて、他のゲームでも、必ずしも比較が可能ではないと思うようになりました。

1)結果論と一般論について

まず、手の比較の種類を、比較に用いる基準によって2種類に分けてみます。 ひとつは、結果論、もうひとつは一般論です。一般論は確率論という名称でもいいような気がします。

マインスイーパーや神経衰弱を念頭におくとわかりやすいと思います。これらのゲームでは、公開されていない設定部分があり、設定は、プレイの開始時点で、乱数によって決められます。それを推測することがゲームの考えどころの大部分を占めています。マインスイーパーは、推測のためのヒントが「このマスの周囲に幾つの地雷が埋まっているか」という形で示されているため特にそれが顕著だと思います。

このようなゲームでは、「結果論」の立場から言えば、つまり、全ての設定を知った後では、「あの場面でどのマスをどうクリックしたらよかったか」、が明白です。 手の比較をする際に、ある局面でとりうる2つの手をとりあげて、どちらの手の方がよいかを判断するためには、それぞれの手がどのような情報を明らかにするか、クリックしなかった他のマスを連鎖反応的にクリアーすることにつながるか、ひいては、それぞれの手をとった場合、その先最短何手で勝利状態に行けるか、などを算出できます。この「そこから何手かかるか」は常に算出可能なのでどのような2つの手をとってもそれを比較にした基準が可能です。

ですが、ゲームは同じ設定で行われるとは限らず、その結果論は次回のゲームには役に立ちません。役に立たない、というのは、「前回の設定ではこのパターンになったらこのマスをクリックするのが最適の手だったから今回もそれにしよう」という意思決定は、必ずしもいい意思決定になっていないということです。それは神経衰弱で、一番右端の2枚がたまたまAだったことを指して「前回このパターンの時にはあそこにJが2枚あったから今回もそこをあたってみよう」と決めるのと同じで、偶然性を考慮し損ねた思考です。

これに対して「一般論」は、「もしもこの状況と全く同じ状況に直面したとしたら、どのような手を打つのが一般的に得策か。残りの地雷数も同じだし、これまで調査したマスの位置やその結果得られた情報の組み合わせも全て同じ状況になったらどのマスをクリックするのが一般に得策だと言えるのか」という問いです。これは大部分確率計算の問題です。

確率計算でない部分は、「安全だがやや時間のかかる手」と、「リスクが高いが効果も大きいかも知れない手」の間でどういうウェイトでどういう優劣をつけるか、です。これは価値判断の問題、と言ったらいいでしょうか。この価値判断の基準を与えられれば、ある状況について、任意の2つの手に優劣をつけることも、ある状況における最適手も算出することができます。

#ここで、「状況」と形容したものが、いわゆる「局面」と少し違うことを一応記して置きます。
局面というのは、ゲームに関係する全情報によって定義されるもので、マインスイーパーのようなゲームではプレイヤーには部分的にしか明らかにされていません。「地雷がどう分布していて、どのマスが既に調査済みで、何秒時間が経過して、どこにフラッグが立ててあるか」などが局面を構成する情報です。それに対して状況というのはプレイヤーが直面している事態で、「どのマスが既に調査済みで、何秒時間が経過して、どこにフラッグが立ててあるか」だけで決まるもので、未調査の部分に地雷がどう分布していようとも、ともあれその部分はその時点では未知なので「状況」としては同じということになります。(局面としては違う局面におかれているわけですが。)
マインスイーパーでは、まだ調査していないマスのどこにどういう形で地雷が分布しているかについては様々な可能性があり、同じ状況に遭遇してから同じ手を使って調査を続けて行った結果、自分が直面しているのは全然違った局面だった、ということになる場合があります。(確率的にはそうなる可能性の方がずっと高い。)

2)他のタイプのゲームへの適用

以上は、乱数によって決められた未知の設定を推測することがゲームの考えどころの多くを占めるようなゲームについての議論ですが、他のゲームについて結果論や一般論を考えるとどうなるかも書いておきます。

a)乱数が展開を左右するゲーム 設定には未知の部分がないものの、乱数要素が含まれているようなゲームを考えることもできます。これはちょっとよい例が思い付かないのですが、ネット上のあちこちにあるカラーラインズ(Color Lines)などがこれに近い例です。(著作権関係がはっきりしないので一応リンクは控えておきますが、かなりあちこちにあります。)このゲームでも、ゲームのルールや設定と乱数要素が実際にどう出るかについての情報がわかった後になって、「こういう順番でこういう色のボールがこういう場所に出現するとわかっていたら、何が一番よい手か」という結果論の立場から、ある局面で可能な2つの手のどちらがよいかを比較できます。また、一般論として、乱数要素がどう出るかがわからなくても、その確率分布なり計算アルゴリズムなりがわかっていれば、ある局面で2つの手のどちらを選ぶのが得策か、を比較することができます。

b)対戦相手の手が展開を左右するゲーム

また、将棋のように、隠された設定やランダムな要素が全くないものの、相手の出方がわからないゲームもあります。このようなゲームでは、「相手の打ち方」(=どの局面でどのような手を打つか)が全てわかれば(それは対戦が終わっても実際には部分的にしかわからないわけですが)、ルールや設定を手がかりに、「あの局面でこちらの手を打っていたらどうなっていたか」と結果論を考えることができます。任意の局面について、任意の2つの手の比較が可能です。これは、(学習機能などのついていない)シンプルなコンピュータ将棋を考えたらわかりやすいと思います。その思考アルゴリズムがわかると、自分がどう指すと相手がどう指すか、が全てわかるので、手の比較ができるようになるわけです。将棋は勝ち負けがあるだけで、達成度が量として表現されるゲームではないので、「この手だと相手はこう反応するので自分は勝てない」「この手だと自分は勝てる」というどちらかの結論が出るだけですが。 こうした結果論は、通常、人間対人間については考えることができないと思います。「もしおれがこの手を打っていたらどうしてた?」と聞いていき、「ありえたかも知れないいろいろな展開」を検討していく内に、相手が「そういう局面になったらどう指していたかは、ちょっとその場にならないとわからない」と言う場合があるからです。

また、相手の打ち方を特定せずに、「自分がこの手を打った場合とあの手を打った場合とではどちらが有利か」を考える「一般論」としての比較もある程度は可能です。この場合には、「こちらの手なら、15手後に相手がある特定の手を打たない限り勝てるが、一方あちらの手なら23通りの負け方が考えられる」などという形での結論が出せます。但し、問題がひとつあり、「確かにそうなのだが、この手をとったら15手後に相手が唯一の勝ちパターンに気付く可能性と、あちらの手をとったら相手が23種類の勝ちパターンのどれかに気付く可能性と、どちらが高いのかがどうもよくわからない」という問題があるので、厳密には結論が出ません。これは上に挙げた「安全だが有効性が低い手とリスクの高いが有効な手との比較」の問題とはまた少し違った問題です。上のケースは「価値判断」ですが、こちらは「リスクがどの位であるかについての見積もり(事実判断)ができない」というものです。

c)全てが公開されているゲーム

未知の設定も、乱数要素も、対戦相手もないゲーム(これをゲームと考えるかどうかは意見が分かれている点ですが)も一応考えられます。数学の問題やルービックキューブなどパズルの類がこれにあたります。ここでは、何も隠された要素がないため、結果論は即一般論になります。言い換えると、「この局面でとることができる2つの手の内、どちらが優れているだろうか」と考えて出した結論は、未知の設定、乱数要素、相手の手などの影響を受けて「一般論としては正しかったがあのプレイには例外的にあてはまらなかった」などと言われることになる可能性がありません。

d)固定された設定内容を推測するゲーム

また、ゲームブックやアドベンチャーゲームなど、myrtさんが消費型ゲームと呼ぶものは、少し違った比較可能性を持っています。上に挙げたマインスイーパーとは違って、ゲームブックやアドベンチャーゲームは設定内容を乱数によって決めるのではなく、ある特定の設定が既に存在していて、設定が固定されている場合が主です。
このようなゲームでは、未知の設定内容がわかってみればどの手がよいかも比較的簡単にわかるので、結果論としては手の比較ができるのが普通です。
ところが、「一般論」というのは、結果論の場合に非常に近い、ほとんど意味のないものになります。「もしも次にこのゲームブックをやって、全く同じ体力や装備で、全く同じ項目に辿り着いたらどのどの選択肢を選ぶのがいいだろうか?」と考えることはできますが、それは結果論に乱数部分の確率計算を加えただけのものです。

一度ゲームの設定内容をわかってしまうと、推測すべき要素がほとんどなく、推測すべき要素がないと、各局面でどういう手をとったらよいか、考えて工夫する余地がなく、そのゲームは「消費されてしまう」ことになります。このようなゲームについては、結果論や一般論がわからない内、つまり設定内容がわかっておらず、それについてあれこれ推測をしている内が楽しみ、という風に言えると思います。

e)スポーツ

スポーツにはTRPGと似た特徴がある、ということはこれまでも議論しましたが、手の比較可能性についても同じことが言えるように思います。ただ、一般的に、スポーツの方が、それでもTRPGよりは比較がしやすい傾向があるような気がします。これはまだ考えがまとまらないのでまたの機会に回します。
2002年03月18日:03時29分45秒
【比較ゲーム分析】手の比較について / Purple
 #すでに、myrtさんに要点をおさえられていますが。
 
 トモスさんが述べている「形式的論証」というのは、「手の比較」としては、おかしいと思います。少なくとも私が想定していた「手の比較」とは異なります。
 
 >ここで、プレイヤーの視点からは、そもそもオークの集団がどの程度の大きさのものなのか、武装のレベルはどうなのか、そもそも本当にオークなのか、などが不明です。従って、奇襲に出るか、パーティから死者を出さないために逃げるか、を選択するための情報が足りず、どれが最適の手かがわかりません。
 
 ここの部分の考え方が私とは違います。
 
 トモスさんの考え方では、総ての情報が出揃ったときにのみ最適な手が決定できます。したがって、「オークについての情報があるときの最適の手」と「オークについての情報が無いときの最適の手」は同じなります。「同じであるが、情報が無いため最適な手がわからない。」ということになります。
 
 しかし、私の考え方では、「オークについての情報があるときの最適の手」と「オークについての情報が無いときの最適の手」は異なります。
 
 これ以上うまく説明できないので、具体例としてトモスさんの示した例題に対する私の思うところを書きます。
 
 実際のところ、この局面にいたる過程が定かではないのですが、例題のような状況(オークに関する情報が無く、情報を入手する時間もないという状況)では、どのような手を選んでも優劣はつけがたいです。(ファンタジーRPGのようなので、もしかしたらこの状況に最適な魔法とかがあるかもしれませんが、今回の書き込みではそういうことは考えないことします。)
 この状況での手の選択は一種の運試しであり、その状況で例えば奇襲をかけたことにより冒険失敗(「死者が出る」とか、「財宝が1つも入らない」)になったとしても、その時に選択した手が劣っているのではありません。(同様に、冒険成功になったとしても、その時に選択した手が優れているのではありません。)
 
 そして、この時に選択した手が原因で冒険が失敗し、そのことをセッション終了後に評価するとします。
 この評価では、この時選択した手は問題にはしません。むしろ、「この局面になる前の段階で、オークに関する情報を得ていない。」ことのほうを問題にするでしょう。
 そして、「なぜ、情報が得られなかったのか。」と言う観点からプレイヤーの手の評価を行い、優劣をつけるでしょう。
 そして、プレイヤー側に落ち度が無ければ、「なぜ、プレイヤーに落ち度が無いにもかかわらず、情報が得られないシナリオを作ってしまったのか。」という観点からマスターが作成したシナリオに対する評価を行うでしょう。
2002年03月15日:18時58分35秒
【比較ゲーム分析】Re:手の比較は可能だと思います。 / myrt
 まとまらないのでポイントだけ。

 「ある局面での手の評価」ですが、結果論と類似局面で取るべき手の論議を
分けるべきではないでしょうか。

 結果論は、丁半博打で「ああ、丁にかければよかった」というような論議です。

 類似局面--のほうは、全く同じ局面はありえないことから、「これと良く似た 局面に次回あたったときにもこの手は良い手だろうか」という論議です。 これはどう類似しているかによって結論が代わります。例えば「俺がGMだった らこう評価するね」とか。
2002年03月15日:18時13分57秒
【比較ゲーム分析】数は無限であるが制限された手 / myrt
>>4)TRPGの特徴:選択肢の完全な列挙ができないこと(手の総体の未定義性) <<

 手の数が無限で列挙ができるか否かと、手が制限されているか否かを分けて 考えるべきだと思います。まさにその制限を目的にしているの極小制御層TRPGで、 各フェイズでのプレーヤーの戦略を「次のフェイズに進むための戦略」だけに 制限しています(しかしとりうる数は無限)。

 だからこの場合、「次のフェイズに進むための戦略」以外のいい戦略を いくら思いついても無駄にであることが断言できます。同様に局面も無限であり ながら、ありうる局面はすべていずれかのフェイズに分類されます。 よってどのフェイズにも分類されない局面になることはありえないので、無駄な 準備や思考を省くことができます。良い戦略を探す際にはその中から選ぶしか ないわけですから、結果として「列挙する戦略の密度」が高まることが期待できます。 GMも判定が楽になるでしょう。

 欠点は利点そのもので、とりうる戦略、局面が制限されることで す。「なんでこれらフェイズにしか遷移できないの??」「今回はそういう 設定なんだ」となり、不満を覚えられる可能性があります(ゲームの選択 問題に帰着できる)。

 理論的には、「とりうる戦略を制限し、その中のどの戦略も失敗状態 に遷移させる」ことが可能です。そこまでしなくても、「プレーヤーが列挙した すべての戦略がGMにとって気に入らないもので、その中のどれを選んでもミッ ション失敗になる」ことは十分ありえます。しかしこれらのトラブルは一般の TRPGにありえるので、これらは極小制御層TRPG独特の問題ではないと考えられます。
2002年03月15日:18時12分24秒
【制御層とゲーム分析】ゲームっぽさと無保証性 / myrt
 ゲームは、望ましい状態にもっていくことが目的です。ところが簡単に持って いけては面白くありませんから、どう持っていけば良いか完全にはわからないが 工夫はできる程度に調整して「ゲームっぽいもの」を実現します。

 将棋やボードゲームでは、制御層上の状態遷移規則の複雑さによって 勝利状態への遷移を難しくし、「ゲームっぽいもの」を実現していま す。このゲームっぽさを楽しむためには、「駒を正確に置くことが難しい」な どの「どうすれば制御層上の状態を一段階遷移させられるかわからない」困 難さに頼る必要はありません(というか邪魔)。

 しかし経験上、TRPGではこの系列の「ゲームっぽさ」はほとんど戦闘でしか 楽しめません。システムの作りこみと参加者によるシステムへの理解(これは 主に同じゲームの繰り返しプレイによって育まれる)が必要であり、消費型ゲー ムとの相性が悪いからだと考えられます。 そこで極小制御層TRPGではこの系列の「ゲームっぽさ」を故意に削っています。

 100m走では、誰もが「計測される最少単位時間秒で走ればいい」こ とを知っています。しかしどうやったらそう走れるかがわからない困難さに よって「ゲームっぽいもの」を実現しています。しかし、 計測される最少単位時間秒で走ることが可能であるとは限りません。

 いきなり抽象的になりますが、あるサッカーの局面で「ここでフォーメーシ ョンAだ!!」と監督が指令して勝利を得たとします。そして再び同様の 局面に同監督が立たされたときに、また「フォーメーションAだ!!」と 指令すべきか否かを悩む、という「ゲームっぽさ」があります。これは ゲーム核における局面の類似性の看破の困難さによっています。しかし、 監督が入手できる情報から看破できる保証はありません。

 CRPGなどの消費型ゲームにおいて、「複数のコマンドを試して有効な コマンドを探して悩む」という「ゲームっぽさ」があります。 有効なコマンドがわかってしまえば単純作業になってしまいますし、 そのコマンドが他のゲームで有効である保証はありません。 それどころか有効なコマンドがある保証もありません。 それでも探している 間は工夫を重ねますし、「ゲームっぽさ」を感じることがあります。

 これら3つの「ゲームっぽさ」は、工夫を試みてもむくわれる保証はありませ ん。 ルーレットのように、戦略と結果の間に相関関係がない可能性もあるからです。 さらに一度むくわれても、「局面の類似性の判定問題」から次回のゲームに 生かせる保証もありません。しかしこれら3つのゲームっぽさこそTRPGを ゲーム的に楽しむ際の(戦闘以外の)醍醐味であり、戦略と結果の間に相関関 係がない可能性があることはゲームにとって本質的であると考えられます。
2002年03月15日:18時11分45秒
【制御層とゲーム分析】すべての局面はユニークである / myrt
 ルールの集合でゲームを定義した場合、将棋ですら「自分の限界に挑戦する ゲームっぽいもの」として成立するとは限りません。

 将棋において、駒を置いたらその駒の置き方は不正確だからとい って反則を取られた場合を考えてみます。どう不正確なのかがわかり(マス 目の中心からズレているとか)、正確に置こうと努力できる(どうやったら どう判定されるかがある程度わかる)なら「自分の限界に挑戦するゲー ムっぽいもの」として成立するかもしれませんが、わからなければ(実は審 判は音で判定していたのに気づかなかったとか)成立しません。

 つまり、ルールの集合によって定義されたゲームが「自分の限界に挑戦 するゲームっぽいもの」として成立するためには、いかなるゲームにおいても ルール以外の何らかの条件がいるわけです。極小制御層TRPGはわざとルールの 限界を設けているので、その「何らか」を探るため有用なモデルであると考え ています。そしてトモスさんはその「何らか」の欠如に よる問題点について述べられていると解釈してみて、それに補足する形で論 じてみます。

 上記の将棋の例では、盤面上の状態が同じでもある手がどのような効果を持つか を保証できない事例を示しました。いかなるゲームのいかなる局面も ユニークで(少なくとも時空的に)、全く同じ局面に再びまみえることはありえ ません。言えることは「似た局面で似た戦略を打つと似た効果が得られる」こ とであり、「どういう局面とどういう局面がどう似ているか」が重要になります。

 よってゲーム核で考えると以下のようになります。

「良く判定される戦略を取ればいいかわかっているときでも、 どうすればその戦略がとれるか(あるいはとることすら不可能なのか)が わかる保証がない」

「自分の取れる戦略がわかっている場合でも、それが良く判定される戦略なのか わかる保証がない」

「過去にある局面で良く判定された戦略とどうやってそれを取ったかがわかっている ときでも、現在の局面が過去のその局面がその意味で似ているという保証がない」

 いずれも保証がないだけで、実用レベルでは問題なくわかる場合もありま す(将棋やボードゲームなど)。 しかしスポーツ等においてはそのわからなさこそがゲームの醍醐味である場合も あると考えられます。

 ある局面で盤面上の状態から「歩のコマを前に1マス進めること ができる」とルールで保証されていたとしても、「歩のコマを前に1マス正し く進ませた」と審判に判定されることができるかどうかは保証されていません。 問題なく判定される場合とされない場合の違いは、局面の違いに帰結できます。

 ところがこのような違いを減少させる(根絶は不可能)ために「マス目の中心 から X mm 駒がずれ たら反則。これを誤差 Y mm 以内で計測できない会場での試合は認めない」と規定した 将棋の運用は困難です。だから実用上問題ないレベルで駒の置いた場所が 判定できるなら、完璧に判定できる保証がなくても運営できるゲームである と考えられます。
2002年03月15日:13時18分52秒
TRPG総合研究室 LOG 093 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 093として2002年03月08日から2002年03月15日までのログを切り出しました。

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