TRPG総合研究室 LOG 093

TRPG総合研究室の2002年03月08日から2002年03月15日までのログです。


2002年03月15日:01時30分31秒
【比較ゲーム分析】Re:手の比較は可能だと思います。 / トモス
Purpleさんの指摘を受けて更に考えてみました。

結論から言えば、TRPGであれ、他のゲームについてであれ、手や、特定のプレイや、プレイヤーの優劣の比較をやっている面はあると思います。ただ、優劣を形式的に整った形で論証できる場合と、そうではない比較とがあると思います。TRPGでは、この形式的論証が不可能な比較しかできないと思います。

ただ逆に、形式的論証が可能であるゲームでも、実際にはその論証が行われるわけではない(2つの手の間の優劣を厳密に検証しようという努力が行われるわけではない)とも言えると思います。「はっきりした結論はよく考えないと出せないけれども、どうやらこちらの方が優れた手のようだ」という程度で済ましている場合も多いように思います。それに対してTRPGでは、「はっきりした結論はよくよく考えたとしても出せないけれども、どうやらこちらの方が優れた手のようだ」という形で考えていると思います。この事態を指して、僕が前回論じたように「だからTRPGは他のゲームとは違って比較可能性がない」とすることもできますが、逆に「ゲームに比較可能性があろうとなかろうと、遊び手にはそれほど問題になっていない」とする方が常識的な考え方のような気がしてきました。

以下、「形式的論証」というのが何なのかの説明を中心に、考えたことを書いてみます。

1)事例

TRPGでの例として、「ダンジョンの中で足音などを聞いたが、どうやらオークの集団らしいので隠れてやり過ごすか、奇襲するか、逃げるか、あるいは何か別の行動をとるかを考えることになった」という場面を考えてみます。各オプションはそれぞれ「手」だとします。また、「手」の優劣を比較する尺度として、「その手を採用した場合にパーティーが獲得する財宝総量の多寡」を考えます。また、便宜上、死者が一人でも出た場合には財宝の量に関わらず冒険は失敗だったということになるものとします。

2)未知性

ここで、プレイヤーの視点からは、そもそもオークの集団がどの程度の大きさのものなのか、武装のレベルはどうなのか、そもそも本当にオークなのか、などが不明です。従って、奇襲に出るか、パーティから死者を出さないために逃げるか、を選択するための情報が足りず、どれが最適の手かがわかりません。また、最適の手をとるためには、「ここでオークに勝てることが確実だとしても、その戦闘で被るダメージや消耗する魔法を考えたら他の敵を倒すためにその資源を使った方がより効率的に財宝が得られるのではないか」という可能性が残っているために、判断が難しくなります。

TRPGや一部のコンピューター・ゲーム、アドベンチャー・ゲーム・ブックなどでは、このように先行きが不透明な中で決断を強いられるという状況があります。五目並べや将棋のようなゲームとは違って「この先に生じうるのは次のn通りの事態の内のどれかでしかありえない」といった類の情報を手がかりに「事態Aが生じると手1は非常においしい結果をもたらすことになるが事態Bなら大きな損失につながる」などと考えていくことができません。

このような状態で手の優劣が比較できないのは当然だと思うので、ゲーム中ではなく、ゲーム後のことを考えます。手の優劣を比較するために、(プレイが終了してから、)設定資料やルールをGMに公開してもらったり、それ以外にGMが考えていた事について教えてもらうことを想定します。これによって、ある程度は、「実はあの集団はオークとスケルトンの混成部隊だった」「物陰に隠れていてもオークは強力な明かりを持っていたから結局発見されることになっていた」などといったプレイ中にはわからないままになっていた部分がわかることになります。

3)検討に必要な作業量の多さ

設定資料やルールブックを手がかりに「もし奇襲していたら」「もし物陰に隠れていたら」「もしダンジョンの構造を利用して一人をおとりに使って誘導してから攻撃していたら」などと考えていくことができます。もちろん、戦闘の結果は非常にいろいろな場合が考えられ、どういう確率でどのような事態が起こるかを計算するのは非常に面倒ですが、ダイスの目の組み合わせを全て考えて場合分けをして考えていくことは原理的には可能です。また、「この集団から逃げて他の敵と戦っていた場合」についても、非常に多くの可能性が考えられるわけですが、もしも全ての場合が列挙可能であれば、「もしも逃げた先でトラップに引っかかった場合は」「もしも逃げた後でトロルのねぐらに行き着いて闘いを挑んだ場合は」「もしもお目当てのボス敵を真っ先に倒して、その帰り道に戦闘をした場合には」などとそれらを順番に検討していくことで、どのような確率でどの程度の財宝が獲得できるかが計算できることになります。そして、冒頭に挙げた「あの時にオークだと思ったあの集団と戦っていたら」「逃げていたら」「物陰に潜んでやり過ごそうとしていたら」という選択肢について、「この時に逃げて、その後にこういう戦略をとっていたら、確率的に財宝獲得効率が一番高い」といった結論を出せたり、「結局のところ、どの選択肢をとっても、せいぜい金貨3枚程度の差しかないし、運によって大きく左右されるのであの場面での意思決定はそれほど重要ではなかった」などと結論を出せたりします。こうした検討は作業としては気の遠くなるようなものですが、将棋でも「もしも今この飛車をこちらに持ってきたらどうだろうか、相手は角でこう応じるかも知れないし、あの歩を進めるかも知れないし。だとすると自分は飛車ではなくて桂馬を使うべきだろうか」などといった検討をすることが気の遠くなる位複雑で、往々にして結局はどれが一番優れた手なのかがわからない、ということと変わるところがありません。TRPGを特別視する理由にはならないと思います。

4)TRPGの特徴:選択肢の完全な列挙ができないこと(手の総体の未定義性)

ただ、TRPGは、将棋やコンピューター・ゲームやゲームブックとは違って、選択肢の完全な列挙が、ゲームが終わった後にルールや設定資料を見せてもらっても、GMにあれこれ質問をしても、不可能だという特徴があります。「プレイ中には思い付かなかったけれども、一週間経ってから、ふと、ダンジョンの地形と手持ちの油を利用して知能の低い敵を次々とピットに誘い込む方法を思い付いた」「ダンジョン内の権力構造から言って、実は自分がうまく立ち回って内乱を発生させることができた気がしてきた」などということも起こり得ます。もちろん、GMは「それは設定資料にはないけれど、こういう理由で失敗することになっていた」という場合もあるわけですが、GMも考えていなかったような手(なり手の組み合わせなり)を思い付く可能性がほぼ常にあります。

このように「全ての可能な手を列挙しきれない」という性質は、単にプレイヤーにだけあてはまるものではなくて、GMにもあてはまるものだと思います。つまり、「GMは自分がそれ以前に思い付かなかった、プレイヤーがとりうる手を、ある時点(プレイ中であれプレイ後であれ)に思い付くことがありうる」「プレイ前/中/後のある時点で、「これで全ての可能な手について考えきった」と断言できることがない」と言えると思います。将棋や五目並べでは、不注意から手を見落とすことは十分ありえますが、「ある局面でとりうる手の全てを列挙することができない」ということはありません。将棋であれば駒の数は40、それぞれの駒の動ける先は多くて18箇所です。持ち駒を打つ場合も、81マスの空いている場所のどこかに打つことになります。それらの可能性は明らかに有限で、それを全部列挙することは可能です。

ちなみに、このようなTRPGの性質は、以前「手の総体が未定義」「扱う架空世界が複雑で総体は誰にも把握し切れない」という言い方で議論したものです。Purpleさんには蛇足だとは思いますが。

5)未定義性の2つの帰結

ある局面でとりうる行動の全てを列挙することができないことから、常に「検討していない手」があり、そのために、まず、「ある局面で最適の手」というのがしばしば不明確だということが言えます。崖から落ちて、脇には仲間が支えているロープが垂れ下がっていて、咄嗟に「ロープをつかむか落ちるに任せるかしかない」という局面など、何が最適か明らかな場合もありますが。

更に、最適解を問題にせず、「この局面で奇襲と逃亡とどちらがいいのかを考えたい」といった限定された比較を行う場合でも「奇襲の後にどのような形で戦闘を展開するか、戦闘が終わった後にどのように死体の後始末をつけるか、誰かをわざと生かしておいて道案内をさせるかどうか」など後々の局面でどのような手をとるかによってやはり「奇襲と逃亡の優劣」自体も違ってきます。

つまり、全ての選択肢を列挙できない場合には、ある局面で一番よい手が何であるかも、ある局面で思い当たる2つの手のうちのどちらがよいかも、結論が出せない、ということになります。

6)TRPGと他のゲームの対比

以上から、TRPGではいくら慎重に検討を重ねても、手の優劣を厳密に比較することは不可能だと言えます。ある手が別の手と比べて「優れている」と考えられる時には、それを細かに説明することはできますが、「局面Bで行動Cをとったら話が全然違ってくると思うのだけれど、その選択肢を検討してないね」などと指摘される可能性が常に残ります。これに対して将棋では、原理的には、ある局面で可能な手の内2つをとりあげて、「自分が手1をとった場合には後に相手プレイヤーが手11か手12か手13を打った場合にはどうしても相手を先に詰めることができなくなる。それに対して自分が手2を選択した場合相手プレイヤーがどういう手を使っても、必ず自分の方が先に勝てることになる。」などと具体的な結論を出し、その根拠として、それぞれの手がとられた後に起こりうる局面の展開の全ての組み合わせを列挙することができます。あくまで原理的な可能性ですが。

ただ、将棋の場合には、「比較したい2つの手は、どちらも、相手が有効な手を打って反撃してくる可能性があり、勝利を保証しない」という形の結論が多いと思います。そして、この時「手1に対して有効な反撃である相手の手11、12、13、14、と手2に対して有効な反撃である相手の手21、22、23を念頭において、自分が手1をとった場合と、手2をとった場合とでは、相手が有効な反撃に気付かず自分の勝利を確実なものにする可能性はどちらが高いだろうか?」と考えてみても、それはゲームの構造からは答えが出ない、心理的な問題です。従って、多くの場合、「この2つの手は優劣がつけられない」という結論になると思います。但し、ここでは優劣がつけられないことがはっきりしており、「その後の展開により局面Cに到達することがあれば、そこから後は一切有効な反撃の余地がないので勝利が確定する」といったことも論証可能です。

対戦型でないゲームもひとつ例にとってみます。マインスイーパーで、「次にどのマスをクリックすると、一番有利か」は、ゲーム終了後に、地雷の位置がわかってから計算することができます。「このマスをクリックしていれば、周辺のマスも一気にクリアーされて後の展開が非常に楽になった」などと。こうした後からの知見は、プレイ中には余り役に立たないのですが、(次のプレイでの地雷の配置が異なるため)より一般化した最適な手を考えることも可能です。

たとえば「この特定の局面で、残っている地雷数を手がかりに、その分布の全ての可能性を考慮した場合、絶対に安全だとわかっているマスの内どれを最初にクリックすることが最も効率的だろうか」という検討を行い、答えを出すことができます。そこで出た答えは、確率計算の解として論証することができます。

こうした視点から、TRPGと同類だと思えるのは、各種のスポーツです。スポーツではプレイヤーがとれる手を全て列挙することが不可能です。そこで、手を比較しても、ある手が別の手よりも優れていることを厳密に論証することはできないと思います。

7)TRPGと他のゲームの類似性

以上のように、TRPGでは明確な根拠に基づいて、形式的に整った推論をした上で特定の手が最良であるとか、2つの手の内どちらが優秀であるとかいうことを断言することができません。それはTRPGでは、手の優秀さを判断する上で不可欠な「他の局面でとることができる手」が完全にはわかっていないことによります。マインスイーパーであればとりうる手は全てわかっていますし、将棋も相手がとりうる手や自分がとりうる手は全てわかっています。

とはいえ、実際に詳細な分析を施してマインスイーパーや将棋を「研究」する人はごく稀だろうということも感じます。論証する代わりに、「どうやらこちらの方がよい手のように思える」という厳密ではない形での評価をして済ませていると思います。

そこで、TRPGと他のゲームは、つくり(構造)は違っているように思えるけれども、遊ばれ方においては似ているようだ、ということになります。

冒頭にも書いたことですが、厳密に根拠や形式的推論を積み上げていくことが可能なゲームでも、そうではないTRPGでも、結局は厳密ではない形で手の優劣を比較することが多いと思います。

8)補足

以上の議論は、将棋や五目並べについて、いわゆる「ゲーム核」と「ゲームの周縁領域(実装領域)」とが区別でき、将棋なら「手」を構成するのは駒を盤上で動かしたり何かの駒を打ったりすることに限られる、という前提の上に成り立っています。

この前提条件を外して、「実はあの時に相手を睨み付けて恐怖感を植え付けるという手があった」などという次元まで考慮するとしたら、そしてそうした行動を「手」の一種かも知れないと認めるとしたら、将棋であっても、ある局面でプレイヤーがとりうる手を全て列挙することは不可能だということになると思います。

また、TRPGについては、GMが予めプレイヤーの選択可能な行動を制限し切っていない、ということを前提にしています。GMがゲームブックのようなものを用意して、そこから外れる選択肢を認めないか、認めても一切後に影響が出ないようなゲーム上無効な行動として処理するとしたら、そのゲームについては手の比較が可能だということになります。僕はこのようなゲームはTRPGらしくない、という方向で議論をしてきましたし、それを「架空の世界を複雑なままに扱おうとする傾向がある」というTRPGの特性だとも言ってきました。ですが、最近の制御層をめぐる議論の中で、あるいはゲームブックのようなTRPGもTRPGの一種として考えてよいのではないか、という方向の議論がmyrtさんから提出されています。半ば思考実験のための議論ですが、全く実用に適さないという保証もないので、あるいはゲームブックのようなTRPGもありだとする立場が可能かも知れないと考えるようになりました。
考え方によってはささいなことではありますが。
2002年03月14日:02時55分42秒
【比較ゲーム分析】手の比較は可能だと思います。 / Purple
 >また、TRPGで、ある手をとりあげて、「この手の代わりにあの手をとっていればもっとよい結果(より多い財宝の獲得)につながっていた確率が高かったはずだ」などと言えるでしょうか?
 
 言えると思います。
 言えないとしたら、どちらの手も、同じ程度の確率であったか。あるいは、そういった選択が無意味となるようにシナリオが組まれていたか。あるいは、そういう評価ができない、いいかげんな(できの悪い)シナリオだったか。いずれにしても、RPGだから言えないのではなく、別の原因のために言えないのだと思います。
 
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 ちょっと別の視点で考えて見ます。
 例えば、
 
 「セッション終了後に、その日のセッションについて評価したほうがよい。」
 
 と言う感じの意見は、少なからずあると思います。
 これは、セッション中に発生したプレイを分析し、次回以降のセッションで役立てていこうとするための試みです。
 
 あるいは、ある種のシステムでは、「優れたプレイ」に対しボーナス経験値を与えるようになっているものがあります。(私が確認できた例としては、メディアワークス版D&DとかソードワールドRPG完全版の経験値ルールがそうなっています。)
 
 こういった意見やシステムの存在は、「RPGにおいても、手の比較評価が可能である。」ということを前提にしていると考えねばならないと思います。
 プレイ中に選択された手が、凡庸なものか、優れているのか、(あるいは、劣っているのか)。手に対する評価が不可能ならば「優れたプレイ」が決まりませんから、「優れたプレイに対するボーナス経験値」を与えることができませんし、プレイ内容を評価することもできません。
2002年03月13日:20時09分53秒
【制御層とゲーム分析】制御層を極小化したTRPGの場合 / トモス
直前の投稿を一部繰り返すことになりますが、制御層を小さくとったTRPGの場合について、もう少し考えを進めてみます。

TRPGではプレイヤー間のプレイ結果を見てどちらのプレイが優れていたかを判断することは余り得策ではないと思います。myrtさんもその点では同意見のようです。また、TRPGは自分の限界に挑戦するようなゲームで、「実際に行われたあるプレイ」と「別の手を打っていたら起っていたであろう別のプレイ」とを比較することができる、それらのプレイの結末の違いを根拠に、どちらがよい手であるかを考えることはできる、ということを考えてきました。この点でもmyrtさんと僕は同意見だったと思います。この投稿の論旨は、極小制御層TRPGは、この、「自分の限界に挑戦するゲーム」としてすらも、成立していないかも知れない、という問題提起をするものです。




ある極小化された制御層に従う、「別ゲームへの移行が生じない」TRPGのプレイを考えます。そのゲームでは「ある手がある局面でどのような効果を持つか」についての同一性は保証されていません。制御層には手の処理についてのそれについての規定がほとんどないためです。戦闘ルールや技能判定などはありますが、それがどの場面でどのように適用されるかについては、やはり規定がないとします。

そこで、ある手がよい手であったかどうかについて、考えようとすると、何とも言えない状況に直面します。

プレイが終わって、ルールや設定資料(極小型なので実際には資料はルールブック以外にはありませんが)を見せてもらいます。また他のプレイヤーがどういうことを考えていたかも教えてもらいます。もしあの場面で自分のPCが作戦Bの方を強硬に主張したらついてきてくれただろうか? 実際には妥協して作戦Aにしたわけだけれども、などと聞いてみたりします。そうやって自分のプレイについて評価しようとするプレイヤーはこんなことを考えることになる可能性があります:

ある手はたまたま(制御層には規定されていないGMの裁量やダイスの目などの要素の影響で)ある特定の効果を持った。その効果のおかげで、プレイは結果として成功に終わったように感じた。ミッションを達成することができた。だから、あの手はよかった、と言えるだろうと思った。ところがルールブックを参照しても、それを検証することができず、GMも、「まあ別の処理方法も3通りぐらいあって、どれでもよかったわけだけど、違う方で処理していたら全然違う展開になっていたことは確かだね」などと言う。もしも他の手を選んでいたらどうなのかについて尋ねても、「それはまあ、その手をどう処理するかによるし、処理方法は幾つも考えられるから何とも言えないね」とGMは言う。これでは自分の手がよかったのかどうかがわからない。

ここで「何とも言えない」と感じる理由を完全に説明しきることはできない(できたら「何とも言えない」なんて言わなくて済むのですが)のですが、幾つか具体的に思い浮かぶ理由があります。

a)「手とプレイの結果が結びついていないために工夫の余地がない」とする明らかな根拠がなく、かと言って「結びついている」という根拠もないように思えます。そういうことは制御層には規定されていないし、たまたまある手がある効果を持った形になったようだけれども、それはたまたまであって、全然効果を持たないという形になっていても、別に制御層に反することにはならない、と言えるような気がします。

b)手とゲームの結果が結びついていないことが確かなら、それは「ゲームではない」のでしょうか? それとも「ゲームではあっても、ゲームっぽくない」のでしょうか? 一応前者のような気がするのですが少し迷いがあります。

これまで、ゲームっぽさの条件として、「プレイヤーが手とゲームの結果の結びつきを感じられることだ」というようなことを考えてきました。ここから「感じられる」という表現を省いて「手と結果の結びつきがあるのが、ゲームだ」と言えると思います。例えば純粋に偶然性だけが問題になるルーレットは、ゲームの一種には含まれないとする立場が可能です。

そこで、「制御層を極小化したTRPG」は別ゲームへの移行が起こらない場合でも、ゲームではない、ということを言いたくなります。

制御層の概念の定義には手や手とゲームの結果の結びつきがあることを保証するものは何もないので、そういうことが起こります。ちなみにゲーム核でも、「ゲーム核の構造が一定の条件を満たしていなければゲームとは呼べない」という議論はしていませんので、「ルーレットのゲーム核」なども一応考えることができます。そこではプレイヤーがどんな工夫をしようと、それによって勝率が上がることはないのですが、「ゲーム核に変動が起こらず、ゲーム核に未定義性もないので、別ゲームへの移行が起こらない」などと考えることはできますが、そうであっても、やっぱりゲームではない遊びであることには変わりがないように思います。

ただ、繰り返しますが、「極小化制御層型TRPGでは手とゲームの結果は関連がない」というのとは少し違うような気がする(関連がないという保証も、関連があるという保証もない)ので、そのTRPGがゲームなのかゲームでない遊びなのかは、何とも言えない感じがします。

c)手の有効性やある手と別の手の(特定の局面における)優劣を比較する際には、「このゲームでは」という条件で比較するのが普通だという感じがします。ところが、
「このゲーム」にあたる内容は極小化制御層型TRPGでは実に多種多様です。そこで、「確かにこの手は今回のプレイでは有効だったように思えるけれども、それがこのゲームのこの局面では必ず、他の手B、C、Dよりも優れた手になっている、とは言えない」ということになります。

これは制御層を基準にした場合に一般化して言えることのようにも思います。例えば比較的制御層の大きなTRPGで、あるNPCの国王がPCに暗殺された場合にPC達の運命がどうなるのか、については特に設定がないとします。そうすると、その暗殺を実行するための一連の手が、国王に平和に謁見を済ますだけの一連の手と比較して優れている、とは言えないということになりそうです。「それはゲームの必須部分とは関係がないから、どうとでもありうる」と。

ここでひとつ疑問に思うのは、「ある局面における2つの手の優劣の比較すらできないし、プレイヤー間の比較など他の比較もできない、何の比較可能性もないけれども、依然としてゲームであるような遊び」というのがあり得るのだろうか、ということです。




以上から、制御層を極小化したTRPGはゲームでないか、ゲームでない遊びと化す可能性のある妙なゲームだ、といったようなことが言えそうです。正直何と行ったらよいのかまだよくわからないのですが。とりあえず前回よりは多少明確にはなった気がしますが。
2002年03月13日:18時47分24秒
【比較ゲーム分析】TRPGにおける達成度の比較、手の比較について / トモス
1)話題:ゲームにおける比較可能性

TRPGでは異なるプレイヤーのプレイ結果をとりあげて、「このプレイヤーAはプレイヤーBよりも優れたプレイをした」と言えるでしょうか? 例えば財宝を少しでも多く獲得することが目的であるようなTRPGで、プレイヤーAがプレイヤーBよりも多く財宝を獲得したことから、プレイヤーAのプレイが優れていた、と言えるでしょうか? これを「達成度の比較」の問題と考えます。達成度の比較については、例えばテニスの試合で「勝った」プレイヤーのプレイについて、別のテニスの試合で「負けた」プレイヤーのプレイよりも優れているとは言えない、という論を以前出しましたが、今回の投稿はその展開です。

また、TRPGで、ある手をとりあげて、「この手の代わりにあの手をとっていればもっとよい結果(より多い財宝の獲得)につながっていた確率が高かったはずだ」などと言えるでしょうか? これは「手」の比較の問題で、「実際に行われたプレイ」と、「実際には行われなかったプレイ」を比較してどちらがよいかを考えるものです。

myrtさんとPurpleさんが議論されているTRPGのゲーム性の話は、TRPG(やゲーム一般)が、どのような形で比較可能なものか、という話にもなっていると思います。2人のプレイヤーのプレイ結果(経験値)をとりあげて、それを比較することが意味を持つだろうか、とか、2つのパーティー間の比較ならどうだろうか、とか、GMやPCの職業が違っても比較して構わないだろうか、とか、いろいろな比較の形が考えられます。プレイの結果(達成度)ではなくて、手を比較することができるだろうか、あるいはプレイヤーの技量の優劣自体を問題にできるだろうか、などといった疑問も思い浮かびます。

一般的には、比較は、非常に困難であっても憶測や仮定を交えて行われているし、そのために誤った結論や解決できない意見の相違が生まれたりもします。

例えば「優れたゲーマー」とか「戦略的思考に長けた人」 について話をすることがあります。これは複数プレイヤー間の、複数のゲームにわたる優秀さを比較した末に出てくる結論です。いろいろな憶測や仮定を許せばそういう思考も可能ですが、その思考の根拠を厳密に考えようとするとかなり曖昧です。これは例えばIQテストが何か意味のある知能を測定しているのかどうかをめぐって議論があることとよく似ていると思います。ただ、ゲームの話の方がもっと複雑だと思いますが。例えばあるチームでプレイしているサッカープレイヤーと、別のチームでプレイしているプレイヤーとを比べてどちらが優れたプレイヤーであるかを考えることがありますが、その際には、プレイヤーの資質だけを問題にするためにチームの他のメンバーの役割などを差し引かなければなりません。少なくとも2選手の戦績だけからは到底比較ができないような事柄です。

こうした問題についてもっと踏み込んだ考察を加えて、どういう条件の時にどういう比較ができるかを整理してみたかったのですが、少し考えてみたところ、僕の手には余る課題だという印象を持ちました。そこでそれをあきらめることにして、ごく限られた議論をしてみます。

この投稿で扱いたいのは、TRPGでどのような比較が可能かについて、特に「制御層」と「ゲーム核」の概念を手がかりに考察してみることです。

2)ゲームの同一性と比較可能性:ゲーム核の場合

「ゲーム核」が同じゲームを考えてみます。例えば将棋です。将棋では、他の対戦型のゲームがそうであるのと同じく、「3戦全勝」という達成度は対戦相手がまちまちであればさして意味を持たず、「3戦全勝」したプレイヤーと「3戦2勝1敗」のプレイヤーのプレイのどちらが優れていたか、技量はどちらが上であるか、などは詳しい情報がない限りは全く判断ができません。つまり、「ゲーム核」が同じであってもプレイヤーのゲームの難易度は違うわけで、それはゲーム核には対戦相手の打ち方などの要素が含まれていないからだ、と言えます。

ところが、ゲーム核は手と、手の効果についての情報を完全に含むものだとされていますので、プレイ中にとった手やとろうかどうか迷った手などについてそれがどの程度よい手であるかを検討することが原理的には可能です。
但し、将棋は複雑なゲームなので、普通の人間が普通に考えた程度であれば、2つの手を比べてどちらが真に良い手なのかは断言できないままに終わるケースが多いと思います。終盤の一部に限れば、明らかによい手や明らかに無駄な手があったりします。これを近似的に抽出したものが詰め将棋だと考えられます。

コンピュータの助けを借りると、いろいろな可能性を検討させてどちらがよい手であるか、についてある程度の結論が出そうです。情報は公開され、固定されているので。

マインスイーパーのように一人遊び用のゲームであれば、将棋のように対戦相手による違いが発生する余地がないので、手の検討は更に容易です。このゲームでは設定内容の一部はプレイヤーに公開されておらず、その未知の部分を的確に、かつ迅速に、推測することがゲームをプレイする上では重要になりますが、ある局面でどの部分を「掘る(?)」かを手だと考えれば、その手がどの程度危険であるかが計算可能です。

ちなみに、これまでも何度か考えてきたことですが、TRPGでゲーム核を固定することは不可能だろうと思います。そこでTRPGについての議論は、ゲーム核については省略します。

3)ゲームの同一性と比較可能性:制御層の場合

制御層についてはどうでしょうか。制御層が変動しないようなTRPGについてはこれまでの議論で扱ってきました。そこでは、手の効果が固定されているとは限りません。また、GMのマスタリングや他のプレイヤーの役割、遭遇する敵の強さ、入手することになるマジック・アイテムの効果なども、必ずしも固定されているとは限りません。それらは、その制御層がどうなっているかによります。

制御層の中に「GMのマスタリングの仕方」「遭遇する敵の設定データ」などを含めることにしてあれば、それらの要素は含まれているでしょうし、排除することにしてあれば、含まれていないということになります。制御層はゲーム核のように、ある種の要素を必ず含み、ある種の要素は決して含まれない、といった形で定義されているわけではないので、「全ての手と、その効果を含むような制御層」を考えることもできるし、「目的はPCに多くの金貨を獲得させること。あとは、ルールブックに書いてあること以外はプレイしながら決める。」といったかなり小さな制御層も考えられるわけです。

そこで、制御層が安定しているというだけの条件で考えると、そういうTRPGは必ずしも何かの比較を許すものではない、ということになります。同じ制御層のゲームをプレイした2人のプレイヤーの間の比較、2つのパーティの間の比較、などなど。

例えば、制御層が小さなTRPGであれば、プレイが終わった後で、設定資料やルールブックなどを参照し、ある局面で、「自分の実際にとった手」と「とろうかどうしようか迷った挙げ句にとらなかった手」との効果を比較しようとしても、「その手はたまたまその時にそういう効果を持つことになったけれども、同じゲーム(制御層が同じゲーム、です)をもう一度プレイしたとしてもそうなるという保証はなく、GMの判断により全然違う判定方法で処理することになるかも知れない。そういう、制御層にないことについて質問されても安定した答えは出せない」ということになります。比較対象である「迷った挙げ句にとらなかった手」の方についても「それについてはいろいろな可能性があって、同じゲームでも全然違う処理の仕方が幾通りもありうるので、実際にどういう効果を持つかは断言できない。」ということになります。つまり、制御層にない事柄に触れる場合には、「それは、このゲームがこのゲームであることの根拠とは関係がないので、ゲーム以外の要素がどうであるかによって全然違ってくる」ということになるわけです。別の言い方をすれば、制御層に手やその扱いをめぐる情報がほとんど含まれていない場合には、その制御層を持つゲームについては「優れた手」と「拙い手」といったことをほとんど考えることができない、ということになります。
逆に制御層に非常に多くの要素が含まれている場合、例えばPCはプレロールドで、具体的に誰がどのPCをどうプレイするべきか、シナリオはどのようなもので、GMは誰が、どのような点に注意しつつ行うか、などが詳細に決まっているゲームの場合には、「もしもあの時に自分のPCがこういう行動に出ていたらどうなっていただろうか」を「それなら他のPCは設定上こういう反応をしていたはずだし、GMも設定上こういう判定を用いていたはずだからx%の確率でAという結果を生んだだろう」というような判断が、制御層を教えてもらえばできることになります。

ただ、この場合にも、異なるPCを担当したプレイヤー間のプレイの優劣を比較する(例えば経験値を根拠に優劣を判断する)ということには余り意味がないように思います。

4)TRPGにおけるゲームの同一性と比較可能性:一般論

異なるプレイの結果だけ(ミッションを達成したか否か、経験点がどの程度稼げたか、など)を見て、比較が可能なのは、一般的に、「2つのプレイヤーなりプレイなりの諸条件が同じだと考えられること」にあると思います。これ、これまでゲーム核や制御層といった形で論じられてきたゲームの同一性の問題とほぼ同じ種類の話ですが、これまでゲームの同一性を考える上では必ずしも問題にされなかった事柄、例えば「一緒にプレイしている他のプレイヤーの行動」「対戦相手の行動」なども問題になる可能性があります。(問題になるかどうかは、どういう比較をしたいかにもよります。)

他の立場も考えられるのですが、これがかなり安直でわかりやすい気がするのでこの立場をもう少し展開してみます。「プレイの諸条件が同じであれば、結果を取り上げて比較することができるが、そうでなければ結果を比較することには意味がないか、不正確さが含まれる」というものです。「プレイの諸条件の同一性を重視する立場」、と少し長いですがこの立場を名づけておきます。何故プレイの諸条件が同じであることを重視するかについては、「同じ条件でプレイした場合には、プレイの結果がプレイヤーのプレイの優劣(工夫の優秀さ)を最もよく反映することになるからだ」という立場だとします。

TRPGの場合には、諸条件を同じにすることが非常に困難です。例えば経験点を多く稼ぐことを目的としたあるシナリオを、同じGMで、同じPCのセットで、別々の時にプレイした2つのグループが、一方は3000点の経験点を稼ぎ出し、他方は3500点の経験点を稼ぎ出したことをとりあげて、後者のグループの方が優れたプレイを行ったと言えるかどうかは、「同じマスタリング」が行われたかどうかによる、と考えるべきだろうと思います。

通常、そういうゲームでも「あるひとつのプレイについて、実際のプレイと、ありえたかも知れない別のプレイ(別の手をとった場合の展開や結末)」を比較することができる場合はあります。TRPGでは、GMが「そういう手で来たらどうするかについては考えていなかったし、今考えてもちょっとどうしていいかはわからない。」と考えるような手がありえます。

ただ、何から何まで条件が同じでなければならない、ということになると、ゲームが行われる部屋の気圧からダイスの擦り減り具合なども気にしなければならないということになり、比較は端的に絶対不可能ということになります。

現にスポーツではハーフタイムを挟んでコートを交代してコートのコンディションや日光の角度や風向きがどちらかのチームに有利にならないように、といった配慮をします。更にはスタジアムを変えて試合を行うことでスタジアムへの慣れや観客の応援などによる影響を緩和しようとしたりするプロスポーツもあります。もっと基本的なところでは、「どちらかが一点取ったら勝ち」とか「1回の表裏だけ」というゲームがなく、一定の時間やターン数をかけて試合をすることは、様々な偶然性の要素の影響を減らす傾向にあるから比較を可能にする、と言えそうです。

ただ、制御層が同じプレイなら結果を比較できる、とか、ゲーム核が同じゲームであれば比較できる、という意見は「プレイの諸条件の同一性を重視する立場」からは問題があります。むしろ、そうした比較には意味がない、ということになります。

この立場の他にも、幾つかの微妙に異なる立場が考えられます。例えば、乱数要素の扱いに関しては、意見が分かれるところだろうと思います。「プレイの結果を比較してプレイの優劣を判断するということは、プレイの優劣が、それだけが、プレイの結果に反映されているべきなので、偶然性がゲームに含まれている場合は比較は不可能になる」という意見が一方の立場です。この立場が問題にするのは、「運がよかっただけで実はよいプレイをしていないプレイヤーAが、運が悪かったけれどもよいプレイをしたプレイヤーBのプレイ結果よりも高い経験点を獲得することがある」という事態です。これに対してもう一方の立場は、「運も実力の内」と考えます。運の影響力が非常に強い場合を除けば、無視してよい、とします。

似たような理由で、プレイヤーの工夫を思い付く能力以外の能力、例えばスポーツにおける体力や、TRPGにおける言語操作能力などを問題にすることもできます。「ゲームの結果は本来、プレイヤーの工夫だけが反映されるべきだが、スポーツではプレイヤーの体格や筋力が結果を大きく左右し、体格に恵まれているだけで戦略的には稚拙なプレイヤーが戦略的に優れたプレイをしていると思えるプレイヤーよりも優れた成績をあげることができるというのはおかしい。だからスポーツでは意味のある比較は不可能だ」というのが一方の立場、もう一方の立場は「体格や筋力も実力の内」というものです。TRPGでは能弁で、自分のPCの行動をうまく伝達できたり、会話の際に相手を説得することがうまいプレイヤーは、得をする傾向にあると言えます。それが「工夫の優秀さ」だと考えるかどうかは人によるような気がしますが、「それは体格と同じく資質であって工夫の優秀さではない」ということで意見が一致する人の間でも、「だから言葉をうまく操れる人とそうでない人のプレイ結果を比較して優劣を判断することはできない」という人と「スポーツの体格やTRPGの言語操作能力のような資質も実力の内でいいじゃないか」という立場とがあると思います。

更に、「プレイの結果」が「工夫や資質や乱数要素」の反映ですらなく、「そのプレイヤーの技量」の反映であるべきだと考える立場も考えることができます。その立場からは、「プレイヤーのコンディションが最良で、実力を最大限に出し切ることができるようなプレイができるようになっていなければだめだ」という意見が出たりすると思います。あるいは最良の部分ではなくて平均的な部分を比べるとか、他の形での技量の比較も考えることはできますが。一回や二回のプレイの結果を比較してもだめで、30から50程度のプレイの結果を総合して(最良の部分をとるなり、平均をとるなりして)、それを比較するのでなければだめだ、という意見が出ることも考えられます。

更に、こうした「対等な条件」を問題にしないで比較することを肯定する立場もあるように思います。僕にはこの立場は直観的によくわからないのですが。対戦型のスポーツの試合では、2人の選手は、「倒さなければならない相手」が全然違う2つのゲームをしていると考えることができます。トランプの「ナポレオン」やオーガのようなゲームではそもそも対戦する2つの陣営がお互いにかなり異なる能力の下に勝敗を争うことになります。ここで、あるひとつの勝負(プレイ)をとりあげた時に、「勝った方のプレイの仕方」は「負けた方のプレイの仕方」よりも優れていた、と言えるでしょうか? 言えるとする立場があるような気がします。もし言えないとすると、「一方の陣営について、もっとよいプレイができたはずだ、とか、かなりよいプレイだった、ということが言え、他方の陣営についてもそれが言えるが、それは試合の結果には直接反映されない、」という妙な事態になります。

5)まとめ

どうも歯切れの悪い議論で申し訳ありませんが、とりあえずまとめます。
ゲーム一般について言えば、いろいろな条件が同じであれば比較が可能である、というのが一般原則になると思います。プレイヤー間のプレイ結果を比較してプレイの優劣を判断することができるのは、プレイの諸条件が2人のプレイヤーの間で(サイコロの目まで同じ、という可能性も含めて)同じになっており、その為に、「プレイの優劣」が直接プレイ結果に反映されることになる、というのが理想の形です。ただ、全条件が全く同じ、ということはありえないので、どこかで妥協して、「この要素は大した影響を与えていないだろうから無視する」ということになると思います。無視できない場合には、複数回のゲームを行うなどして何とか条件の同一性を確保しようとします。

TRPGについては、こうした同一性を確保するのはほぼ不可能、ということになると思います。他のゲームと比べて、GMのマスタリングや他のプレイヤーの貢献やパーティの構成など、無視しがたい要素が影響して来るので、プレイヤー間の比較は無理があります。と同時に、プレイをひとつ取り出してきて、そのプレイの実際のありようと、ありえたかも知れない別の展開を考えようとしても、GMが別の展開について十分考えていなかった場合などには、やはり確信を持って優劣を比較することができない、ということになります。容易に比較できる側面などももちろんあるとは思いますが、比較ができない部分があります(とらなかった手の効果がどんなものかが確信を持って言えない場合があります。)

制御層が安定したTRPGでも、そういうことになります。言い方を変えると、「制御層を基準にして、同じゲームと言えるような2つのプレイ」を比較したり(達成度の比較)、「ある制御層に基づくゲームのプレイと、そのゲームでありえたかも知れない別の手とそれが引き起こす展開や結末」を比較すること(手の比較)には無理があります。制御層がかなり大きくとってある場合だけは、「実際のプレイの結果と、ありえたかも知れない別のプレイの結果」を比較することが意味を持つ、と言えそうです。

但し、単純明白な比較の地平が成り立っていないような場合でも、人は比較をしていると思います。例えば上の議論に従えば、「あるプロサッカーチームに属するプロ選手A」と、「ある体育の授業でプレイしている小学生B」を比較することは、2人のプレイしている条件が大きく異なるために、絶望的に困難だということになりそうですが、実際にはどちらが優秀なプレイヤーであるか、結論は明白であるように思われます。その判断が余りに複雑なために、きちんと説明することが不可能で、いわば立証ができないわけですが。また、これほど明白ではない場合(異なるチームの2人のプロ選手の実力の優劣など)には、解消しようのない意見の対立が発生したり、誤った判断が下されることになる可能性があります。つまり、複雑で説明のできない判断の中には、誤ったものも正しいものもあるように思えます。
2002年03月13日:04時48分28秒
トモス / 【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム核はゲームの判別に役に立たない
#myrtさんへ
お返事ありがとうございます。
少し気になったので、一応明言しておきます。「制御層の概念はよくわからないけど、ゲーム核の概念の方は比較的よくわかるし、それなりに納得が行くような概念の定義の仕方をしているから、TRPGについてもゲーム核の概念を使って考えることにした方がいいかも知れない」という風には考えていません。ここで誤解されるとつまらない脇道に逸れそうなので、念のため。


「ゲーム核の概念ではうまく事態を把握できないようだから、何か別の道具立てを探しているけれども、制御層の概念でよいのかどうかがよくわからなくなった」、というのが投稿の基本的な方向です。

もう少し詳しく言えば、この概念は、TRPGには適用しづらいけれども、将棋についてはまあ適用することもできるかも知れない、でもそれもよくわからないところがある、という程度でしょうか。

将棋などのゲームについてゲーム核の概念を使って考えることができるか、という議論は、「ゲーム核と、それ以外のゲームの周縁領域(実装領域)の境界線について合意が成り立つ保証があるか」という問題(ゲーム核の未定義性と言ってきた問題)としてだいぶやったわけですが、そこから言えることは、「厳密には使えないかも知れないが、まあ場合によっては実用に耐える」という程度だろうと思います。

将棋のような一部のゲームについては、「手」と「プレイに影響を与えるが手ではない行為」を区別できる(何がゲーム核に属し、何が属さないかについての判断が一致する保証がある)はずだ、と考えることはまあできます。「香水を多量に身にまとうことで相手の香水アレルギーを誘発して相手の思考を妨害する」ようなことは「手」ではないはずだから、「ゲームの周縁部」に属す。ということは、対処法がルールに書かれていなくても、審判役の人は任意の方法でその効果を除去するような行動をとってよい。そういう行動は、将棋を何か他のゲームに変えてしまうわけではない、ということになります。

この議論についても問題を感じるところがないではないのですが、もう少し丁寧に議論しても結論としてはそれほど変わらないような気がするので、時間に余裕ができるか、必要に迫られるまで先送りしておくことにします。

いずれにせよ、TRPGについてはゲーム核は適用しづらいと思います。
2002年03月12日:18時33分51秒
【制御層とゲーム分析】ゲーム核はゲームの判別に役に立たない / myrt
(Re:2002年03月10日:20時56分46秒【制御層とゲーム分析】制御層と ゲーム核の比較から / トモスさん)

>>ゲーム核がやや不寛容な形で定義されているのは、「プレイヤーが直面す る戦略的な構造が同じであれば、またその時にのみ、ゲームは同一だと考え られる」という発想があるからです。<<

 「同じ局面に立っているプレーヤーが」だと思います。初期条 件が平等だとは限りませんから。逆説的に、同じゲーム内で同じ戦略を とったときに違う判定をされたならば、それは違う局面であった、という ことになると思います。

>>それでもなお「同じ制御層なので同じゲーム」と言うことに意味がある のか? というのがひとつの疑問になります。(少なくとも僕は漠然と何度 かそういう疑問を持ちました) <<

 ではどうやって「同じゲーム」を判別するんでしょうか。

 「ゲーム核」の概念では「とるべき戦略に影響を与える 要素が少しでも違えば違う局面である」となっており、その要素を すべて書き出すことは不可能です。よってゲーム核そのものも記述不可能であり、 任意のプレイをあるゲームのプレイであるか判別するためには利用できません。

 そこで特定の局面の特定の要素だけを切り出して判別する方法が考えられ ますが、任意のプレイに対しても判別できるように必要なだけ列挙したと すれば、それは全ルールの記述と等しいか、さらに大きくなります。

 だからゲームを判別するためには何かほかの、もっと役に立つ定義が 必要になります。その一つとして制御層(というかルール)だけによる定義 を利用しています。制御層の他には「同一の呼称で呼ばれていること」とい う民族学的な定義も可能で、これはこれで使い手があります。

...というかゲーム核の定義から、「ゲーム核が同じなら同じゲーム」と いうのは「同じゲームは同じゲーム」と言ってることになり、全く意味がない と思うのですが。ゲーム核は一部しか観測できないんだから(記述不可能性 から)、観測できた点が同じだろうと違おうと、ゲームが違うのか局面が違う のか判別できるとは限りません。判別できた場合、必ず何らか(ルールとか)の定 義を用いているはずです。その後なら「ゲームが違えばゲーム核も違う」の定義 から「ゲーム核が違う」と言えますね。

>>「制御層」はいかなる形で定義されていようともゲームの制御層である、 と言えるでしょうか? 極小でも?それはどういう意味で「ゲーム」なので しょうか? <<

 うーむ、断言できませんが今の意見として。

 プレーヤーが存在し、目的状態が存在するときにゲームの制御層 であるといえると考えています。TRPGの戦闘ルール単体では ゲームの制御層とは呼べません(例えば死亡状態があっても、そ れが良いことか悪いことかは戦闘ルールだけでは決まらない)。
2002年03月12日:18時31分16秒
【制御層とゲーム分析】Re:制御層を極小化したTRPGについて / myrt
(re: 2002年03月10日:20時37分50秒【制御層とゲー ム分析】制御層を極小化したTRPGについて / トモスさん)

>>e)別ゲームへの移行には反対だけれども、制御層を極小にとったTRPGに は賛成、というプレイヤーがいるとしたらどのようなプレイヤーだろうか? <<

 認識がズレている点があるように思えるので、私の立場を再度提示します。 極小に取られた制御層を逸脱しないTRPGの一つを「ゲームA」と定義した場 合、その定義から逸脱しない限り「ゲームA」からの逸脱はおこりえない、と いうのが私の主張です。

 だから「ゲームA」に賛成だという意見と、「ゲームA」からの逸脱に反 対だ、という意見は容易に両立します。そしてそれら意見を持ちなが ら、「ゲームA」より詳しい定義がなされた「ゲームB」のプ レイから逸脱しても良い、という意見を持つこともできます。

 スポーツに例えるなら、「いわゆるドッチボール(ゲームA)」を することを主張するが、「白線を踏んで(越えて)ボールを投げた場合 には反則とするドッチボール(ゲームB)」にはこだわらない、という立 場が可能です。これは参加者間のルール認識の一致が保証できないとき に、ゲームをプレイしながらなんとかするために実用的な立場です。

 ここで審判がえこひいきをしており、「判定方法についてモメたら常に相手 チーム有利な判定を採用するが、どの判定について判定方法の認識が一致してい ないかプレイ前には不明」とします。かなり辛いですが、それでも勝利を目指 して工夫することが可能です(効果があるかは別にして)。

 このとき審判がどの程度えこひいきするのかがわからないために、 ゲーム核においてどの局面にあるかがわからなくなります。しかし制御層の 概念では、「どこまで確定しているか」「どこから理不尽な判定をされうる か」を客観的に分析することが可能です。これが わかれば、これをゲーム核の概念でどこまで分析できるか(できないか)が わかります。
2002年03月12日:18時30分21秒
【制御層とゲーム分析】Re:「対戦」は必須要素とは思っていません / myrt
(Re:2002年03月11日:00時08分49秒【制御層とゲーム分析】「対戦」は必 須要素とは思っていません / Purpleさん)

 Purpleさんが(Re:2002年03月04日:01時01分59秒【制御層 とゲーム分析】「自分自身との戦い」だと一人遊びっぽく感じませ んか? / Purpleさん)を書かれたので、私は(2002年03月04日:17時51分50秒【制 御層とゲーム分析】「他プレーヤーとの戦い」とすると相手を 陥れるニュアンスが / myrt)を書きました。

 ここで主語を省いたのがマズかったようです。私(myrt)が「他プレーヤーとの戦 い」という言葉に相手を陥れるニュアンスを感じることから、どうして そう感じるのかを自己分析したのが件の書き込みでして、対戦ゲームに言及 したのは「ならばTRPGにおいて優劣を競う際には同時にプレイする必要は 全くないのか??」という疑問に対する自己つっこみのつもりでした。
2002年03月11日:00時08分49秒
【制御層とゲーム分析】「対戦」は必須要素とは思っていません / Purple
 #もう、過去LOGに分割されてしまいましたが、
 
 2002年03月04日:17時51分50秒のmyrtさんの書き込み
 >対戦ゲームであるなら同時にプレイする必要性が生まれますが、この場合は相手を劣勢に追い込むことが自分の利益に直結します。
 
 私が言っている「プレイヤー間の優劣を比べあうという要素」は、文字通り、どちらが優っていて、どちらが劣っているのかを比べあうことです。
 「自分が有利になること=別のプレイヤーを不利にすること」という関係が成り立つ対戦ゲームの要素を指しているつもりはありませんでした。
 
 やはり、うかつに「勝負性」と書いてしまったのがよくなかったようです。すみません。
2002年03月10日:20時56分46秒
【制御層とゲーム分析】制御層とゲーム核の比較から / トモス
もう一本、投稿できる文章が手元にあることに気がついたので続けて投稿します。
制御層の概念の定義にまつわるものです。制御層を小さくとって本当にいいのだろうか? という漠とした疑問を、ゲーム核との比較でもう少し明確な、限定された疑問に置き換えて、それに対する回答を出してみます。

1)疑問:ゲーム核との比較から

ゲーム核の概念の場合には、「手、局面、目的(勝利条件)」などといった一定の要素がそこに含まれることになると定義されています。将棋なら将棋について、何が手であり、どのような局面がありうるか、どのような状態でプレイヤーはゲームの目的を達成したことになる(または達成不可能とみなされる)か、を考えることで、何が将棋のゲーム核に属するかを考えることができます。

もちろん、制御層の場合も「みんなが「本将棋」と呼んでいるゲームの進行に不可欠なルールはどれだろうか」と考えることはできます。その点では同じだと思います。

但し、ゲーム核の概念を定義した際には、「手や局面や目的」がゲームに備わっているはず、という前提があったのに対して、制御層の概念の定義にはそのような前提はありません。ゲームによっては手も局面も目的も、審判の判断でプレイ中に設定されたり変更されたりするかも知れない、という発想を許容します。

ゲーム核がやや不寛容な形で定義されているのは、「プレイヤーが直面する戦略的な構造が同じであれば、またその時にのみ、ゲームは同一だと考えられる」という発想があるからです。例えば王手飛車とりを禁止してしまったらそれは本将棋とは似ているけれども違うゲームだ、何故ならプレイヤーが直面することになるゲームの戦略的構造(どのような手を打つとどういう展開が起こり、目的達成にどう近づいたり遠のいたりするか)が変動してしまうからだ、と。

もちろん、「手」などの概念の明確さや、合意が可能であるかを疑うところから、ゲーム核の概念の曖昧さを指摘することはできます。

制御層の概念の背後にはこういう発想はなく、「審判がゲームの進行管理上守るべきとされている事柄を守っていれば、他の要素がどうであろうと同じゲーム」ということになります。

ゲーム核が同じ場合には、例えば「手」の研究が可能です。ある局面でどの手を使うと、乱数要素や対戦相手などの内容によってどのように有利な/不利な局面へと展開していくことになるのか、については、実際にプレイしなくても、ゲーム核の情報があれば考えることができます。

これに対して、制御層がわかっていることは、そのような研究の手がかりになるとは限りません。そうなっている場合もありますが(制御層が手や局面の移行規則などについての情報を含んでいる場合)、その保証はなく、多くが審判の判定に任されている可能性もありえます。

もう一度言い換えると、ゲーム核は、「全ての手を含めること」といった類の規定があるためにどうしてもある程度以上小さくはならないわけですが、そのお陰で、「ゲーム核が同じなら、プレイヤーが直面するゲームの戦略的な構造は同じだろう」とある程度の確信を持って言うことができます。それに対して、制御層は非常に小さく、ゲームにいろいろな不確定さを残す形で用意することが可能です。そこで、制御層が同じ(変更されない)場合でも、他の部分があれこれ変更されるためにプレイヤーがとるべき戦略が変動することも、ありえます。

それでもなお「同じ制御層なので同じゲーム」と言うことに意味があるのか? というのがひとつの疑問になります。(少なくとも僕は漠然と何度かそういう疑問を持ちました)

2)制御層を小さくとってもよいという立場

制御層を小さくとることを認めることに意味があるとしたらこういうことだろうと思います:

ゲームは目的達成に向けての工夫を楽しむ遊びなので、そのための目的や工夫の余地があるように思えればそれでゲームっぽい遊びができる。
それらが厳密に設定されていなくても、プレイヤーの推測を要請するものになっていても、ゲームっぽい遊びはできる。そして、スポーツのように、対戦相手の戦略によって自分のとるべき戦略が大きく変動する遊びをゲームと呼び、アドベンチャーゲームブックや軍人将棋のように設定内容の一部が未知である遊びをゲームと呼ぶのなら、ある種のTRPGのように審判の裁量によるプレイ中の設定が多く、ミッションの内容が変動するようなプレイであってもそれをゲームと呼べる。

(ミッションの内容はゲームの目的とは限らないことが前提になっています。ゲームの目的が「アイテムAをNPC Bのところに持っていくこと。但し、ミッションの内容はGMが独断で変更することもあり、その場合には変更後の目的がゲームの目的になる」などとなっていれば、ミッションの内容が変更されても、ゲームはデザイン上許容された範囲内を外れていません。これは、これまでの議論の用語で言うと、ミッションの内容が制御層に含まれていない(=実装領域に属する)か、メタ・ゲームの制御層が存在していて、オブジェクト・レベルへの移行は実装に属す、ということになると思います。)

先ほどの投稿でも書いたことですが、これは審判がデザイナーと対戦者も兼ねているようなスポーツの試合と似ていると思います。

言い換えると、TRPGがボードゲームやスポーツなどと比べてもかなり特殊なゲームですが、プレイヤーの体験は、ゲームをプレイする体験の一種だと言えそうです。ゲームっぽさがあり得るので。

ただ、ゲームっぽさを確保するためには別に制御層を遵守する必要はなく、別ゲームへの移行が起っても構わないと思います。

また、プレイヤーの体験内容ではなくて、遊びを統御(?)しているルールなどについて、それがゲームを構成していると言えるかどうかについては、迷いがあります。
GMがプレイ前や最中に作成するものを指してそれがゲームを構成している、と言えるでしょうか。これについては迷っています。

「制御層」はいかなる形で定義されていようともゲームの制御層である、と言えるでしょうか? 極小でも? それはどういう意味で「ゲーム」なのでしょうか?

まとめっぽい締めくくりを付け加えるならこういうことになります:
ゲーム核はゲームがどういうものであるかについてのイメージがあり、それとの関連で定義されていたと思います。ゲーム観にはいろいろなものがあり、スポーツをゲーム核の概念でうまく扱いきれないことなどからも、他のゲーム観を検討することには意義があると思います。けれども、制御層の概念の定義がどういうゲーム観と結びついているか、どうもよくわからなくなってきました。単にスポーツ一般というわけではないようです。単に「ゲームっぽい遊び」ということであれば何も制御層で定義されるところのゲームの同一性にこだわる必要もない気がします。
2002年03月10日:20時37分50秒
【制御層とゲーム分析】制御層を極小化したTRPGについて / トモス
制御層を小さくとったTRPGをめぐって、まだ何をどう書いたらうまく整理できるのかもわからずにいます。とりあえずひとつだけ、myrtさんの意見があれば伺いたい事例について書いてみます。

1)事例

制御層を極小にしたTRPGを考えてみます。「ルールブックと世界設定は守る。あとはPCの出方を見てプレイしながら考える。目的はおれがプレイ中に設定するミッションをクリアすること。」というものです。これをプレイヤーに伝えて、実際に「ゲーム」としてプレイすることは可能です。

2)確保されるゲーム性

この「ゲーム」は、ソリテアやボードゲームやスポーツやゲームブックとは少し違った、けれどもそれらと共通点のあるものです。プレイヤー対GMという対戦型ではない点がソリテアと似ています。GMの行動次第でゲームの難易度が大きく変動する点はボードゲームやスポーツなど対戦型のゲームと似ています。そしてゲームの設定や処理ルールの一部がプレイヤーに知らされていない点はゲームブックと似ています。


「GMが審判兼デザイナー兼敵役を担当する」ような、スポーツともボードゲームとも違った、けれども目的(=「GMの設定するミッションを達成すること」。それ以上の具体的な設定は開始時点では存在しない)があって、それを目指してあれこれ調査や推測を含めて工夫が可能な遊びです。GMが妙なミッションを設定したり、設定内容を妙な形で隠したりすればゲームはつまらないものになりますが、それは事前に妙なミッションが設定されているゲームや事前に妙な形でミッションを隠すと決めてあるゲームでも同じことなので、この遊びがゲームか否かには関係がないと言えます。

前回の投稿ではこれを「熟練者に稽古をつけてもらう剣道の初心者」に喩えましたが、そうとも限らないとという風に思うようになりました。それに関連して、「勝敗を追求することが余り意味を持たない。全力で取り組むことに意味がある」ということも前回書きましたがそれも違う(意味を持つ場合がある)ように思います。

TRPGのように対戦相手が審判やデザイナーを兼ねているゲームでは、「対戦相手を負かすこと」は、審判が勝敗にこだわっている場合には意味を持ちません。つまり、審判が自分が負けないようにとか、プレイヤーを勝たせようという目的を持っているなら、プレイヤーはそれを食い止める手段が非常に限られていると思うので、意味がないわけです。そこで、お互いがお互いを負かすことを目指す、いわゆる対戦型の試合としてはプレイできないわけです。ですが、審判は勝たせることや負けさせることではなくて、何か別のことを追求している場合もいろいろ考えられるので、その場合にはプレイヤーは勝敗にこだわることができます。勝敗というのは誤解を招きやすい表現なのでもう少しTRPGに沿った言い方をすると、「PCがシナリオのミッションを達成するか否か」にGMがこだわって特定の結果(成功/失敗)を出そうとしているなら、プレイヤーはそれを食い止める力はほとんどありません。ですが、GMがそれにこだわっていない場合には、ミッション達成をゲームの目的として追求することができます。

3)考察

こうした極端な例を考えてみると感じるのは、次のような考え方です:
a)GMはできる限り全てを保留にしておくだけで、ゲーム性を守ることができる。プレイ中に何をどれだけ変更することがあっても、それが事前に「あとで変更するかも知れない」となっていた点であればゲーム性は損なわれない。

b)そこで、「ゲーム性重視」のプレイをする際にはできる限り各種設定を保留にしておけばいい。

c)もしもプレイヤーが「プレイ中に感じるゲームっぽさ」にだけ関心があって、「プレイ後に本当にゲームであったかどうかを検証すること」には関心がないならば、プレイヤーが知らない部分の設定については、どこが制御層でどこが保留中の箇所かを決めておく必要もない。必要に応じて変更して、「別ゲームへの移行」が生じたところで、プレイ中にはプレイヤーにはそれはわからない場合がほとんどなので。従って、制御層の遵守にこだわる必要もない。これまでの議論の用語で言えば、こうしたプレイヤーはそもそも「ゲーム」を遊びたいのではなくて「ゲームっぽい遊び」をしたいだけだと言える。(だからそうしたプレイヤーはニセモノのゲームプレイヤーだ、というわけではありません。)

d)制御層を事前に固定、公開することは、プレイヤーやGMの間でゲーム中に意見が対立し、ゲーム中に設定やルールの変更を余儀なくされるようなことがないようにするための、防止策だった。だが、プレイヤーがそうしたことに興味がない場合も考えられる。「ミッションの達成の成否は無視し、全力を尽くせたかどうかだけを考えるプレイヤー」や「プレイ中のゲームっぽさの感覚を重視し、プレイ後にそれを検証する必要性を感じないプレイヤー」は、そもそもゲームが別のゲームに移行することに対しても異存を挟まない可能性も考えられる。

e)別ゲームへの移行には反対だけれども、制御層を極小にとったTRPGには賛成、というプレイヤーがいるとしたらどのようなプレイヤーだろうか?

とりあえず今回は以上です。
2002年03月10日:18時03分04秒
【制御層とゲーム分析】A/D変換と難易度の調整 / myrt
(Re:2002年03月09日:17時36分44秒【制御層とゲーム分析】Re:手加減とゲームっぽさ / トモス さん)
>>2)匙加減で難易度が変わる遊びでも、「ゲームっぽい」こと<<

 もう一つ、A/D(アナログデジタル)変換器に例えることを思いつきました。 著しく限定的な場合なのですが、「怪物を打倒するための戦力を用意するゲー ム」を考えてみます。ただし、このゲームでどれだけ利得をかせいだか(ここ では戦力を整えたか)は経過から見当はつくものの、計測するためには実際に 戦闘してみるしかないとします。

 また打倒すべき怪物の種類は有限であり(組み合わせは考えない)、勝敗も強弱も 決定的であるとします。例えばLv1からLv100の怪物が用意されていて、 Lv50の怪物に勝てる戦力は必ずそれ以下のLvの怪物に勝て、Lv51の 怪物に負ける戦力は必ずそれ以上のLvの怪物には負けるとします。このとき Lv50の怪物に勝ちLv51の怪物に負ける戦力をLv50の戦力であるとしま す。つまり「戦力」というアナログ(??)な値を、Lvというデジタルな値に変換可能である というモデルです。

 このようなゲームをプレイした後、プレイによって得られた戦力を評価したいと します。プレイ経過から「だいたいLv50くらいの戦力が得られた」という見当 がついたならば、Lv50前後の怪物を順番にぶつけてみることにより正確な評価が 可能です(また2分探索も効く)。これはTRPGで「ゴブリンでは弱すぎたからホブゴブリン も出してやる」という過程に似ていると感じます。

 TRPGでは「戦力を用意するゲーム」と「用意した戦力で戦うゲーム」がシームレスに つながることが多いので状況が変わってしまいます。しかし、GMが どう手加減をしたか/するかを宣告するならば ゲームっぽさが保たれる場合の指針になるのではないかと考えます。

>>3)後から振り返った場合の「ゲームっぽさ」の感覚<<

 これまた極端な場合ですが、GMの身勝手でプレイの結末が左右されて 冒険は失敗したが、プレーヤーは「あの場面であの宣言をしたのは後から考えても 妥当な工夫だった。たまたまGMがそれを理解できなかっただけだ」と自己満足に ひたれる場合があるかもしれません。今回の冬季オリンピックの例では(しつ こいことは自覚しています)、失格と判定された韓国の選手が国内で真の 優勝(??)扱いされたことが印象に残っています。これは理論上そういう場合が考えられる んじゃないかという話であり、GMの身勝手やプレーヤーの独りよがりを推奨して いるわけではありません。

 いつも「妥当感が共有されていないとトラブルになる」という結論ばかり出ていたので ちょっと切り口を変えてみました。
2002年03月09日:17時36分44秒
【制御層とゲーム分析】Re:手加減とゲームっぽさ / トモス
myrtさんの【制御層とゲーム分析】手加減とゲームっぽさ,2002年03月08日:17時28分32秒,TRPGLABO LOG 092 へのレスです。

なるほどと思う点が幾つもあり、考えが前進した感触があります。どうもありがとうございます。>myrtさん

少しニュアンスが違ってしまう部分もありますが、僕なりに納得した点を書いてみます。

0)問題
前回の僕の投稿で提示された主な疑問は、「制御層を小さくとるTRPGでは、GMの匙加減でゲームの難易度が大きく変動してしまうが、それでゲームと呼べるのだろうか。」というものだったと思います。

これに対して、5つの回答を考えるに至りました。(myrtさんはその全てに言及しているわけではありませんが。)以下にそれを記してみて、最後に、「この、制御層を小さくとるTRPGというのはどういうゲームなのか」についてまとめを加えてみます。

1)GMは適切な行動が求められること
GMは非常に大きな裁量権を持ち、それ故に適切な行動が求められるわけですが、それは他のゲームでも多かれ少なかれあることなので、そこに依存することは必ずしも問題ではないはずだ、と考えられます。そこで、制御層を小さくとったTRPGでも、GMがきちんと匙加減をしてくれることを期待することにはそれほどの無理はありません。

2)匙加減で難易度が変わる遊びでも、「ゲームっぽい」こと
GMの匙加減次第でゲームの難易度が大きく変動する場合でも、そのプレイが必ずしも「ゲームっぽくない」というわけでもないのだ、という意見にも納得です。例えば、「剣道で、熟練者に練習試合の形で稽古をつけてもらっている」場合を考えれば、確かに「相手を倒すゲーム」にはなっていないし、どうあがいても勝敗は決っているとしても、「この人を相手にどこまでやれるか、自分の限界に挑戦するゲーム」にはなっているとは言えそうです。TRPGもGMの打倒が目的ではありませんから、GMに匙加減をうまく調節してもらって自分の限界に挑戦するゲームとして楽しむ、というのはありだと思います。

これをこれまでの議論に関連づけて言えば、この剣道の稽古は、普通の「剣道の試合」というゲームではない、と言えます。そこではあくまでも相手との実力の伯仲があってこそ工夫のしがいがあります。ですが、練習試合では、「自分の実力を出し切ること」「特定の動きを試合の中できちんと実践できること」、などが目的の中に含まれており、「試合に勝つこと」はそれに比べてずっと弱い目的になっていると考えられます。

3)後から振り返った場合の「ゲームっぽさ」の感覚
myrtさんの書かれている内容からは少し離れますが、「後から振り返って見ると自分がゲームだと思っていた遊びが実は相手の手の平の上で踊らされていただけだとわかっても、やっぱりそれはゲームだったと言える」という意見もありだな、と思います。

「プレイ中に感じるゲームっぽさ」と「プレイ後に感じるゲームっぽさ」を分けて考えると、前者を重視する立場も、後者を重視する立場もあると思います。前者を重視する場合、「このセッションは自分が考えていたよりもずっとGMの匙加減で結末が左右されるものだったけれども、ともあれそれを知らなかったプレイ中はこれをちゃんとしたゲームだと思ってプレイした。そのプレイ感覚はちゃんごしたゲームのプレイ感覚とほぼ同じだった。」という形でプレイ中に感じた「ゲームっぽさ」を拠り所にプレイを肯定的に捉えることがありうると思います。

4)反復困難だが、安定しているゲームであること
GMの匙加減は、プレイ毎、あるいはGM毎に違ってくる可能性が十分あるわけですが、そうだとすると、「同じ制御層でプレイしたとしても、GMが違えば、結果を比べることが意味がないようなプレイになる」ということを意味します。これでいいのだろうか、ということを考えていたのですが、いいのだと思うようになりました。これはちょうど、「おれ、昨日テニスで3戦3勝だったよ」と自慢する人がいても、その人の対戦相手がわからなければほとんど全くその人のプレイぶりがよかったのかどうかがわからない、というのと同じだと思いました。そうであるにも関わらず、「テニスはテニス」と呼ぶのが適切であるように、またその限りにおいて、「この制御層を小さくとったTRPGは、どのGMが担当しようと同じゲームではある」と言えます。myrtさんのゴルフ場の比喩とほぼ同じ話です。

5)ゲームの工夫のしどころが制御層に含まれていなくてもよいこと
もうひとつ、何となく気になっていた点は、制御層がこれだけ小さいと、どのような手を打ったらどういう局面へと展開していくのか、などといった点が全く特定されていない点です。(制御層を知っていても、ゲーム核部分がわからない。)プレイヤーの手の成否をGMが裁量によって決めてよいのか、と迷ったわけです。もしそれでよいとするなら、そのゲームは、GMを説得するゲームであって、制御層の構造とは余り関係がないものなのではないか、とも。

ですが、これもまあゲームの一形態としてありだろう、と思うようになりました。

6)まとめ
以上から考えたことなのですが、「制御層を小さくとったTRPG」は、上に挙げた「初心者が剣道で熟練者に練習試合という形で稽古をつけてもらう」という形に近いと思います。「あるいはゴルフ場の地形や天候をあれこれ操作できる超能力者が審判役をしているゴルフ場でゴルフをすること」に近い。あるいは、「審判から将棋の駒が与えられて、審判の指定した王を詰めるためにプレイして行く内に、審判の裁量によって将棋盤に変動が起きたり、駒の動き方についての規則を変動させるようなイベントが発生したりするゲームをプレイすること」に似ていると思います。

GMの行動を制限する規定などが少なく、裁量権が大きいことから、「ミッションを達成できた」という結果は実際にはそれほど意味がなく、GMがそういう裁量を下した結果だと考えられるわけですが、少なくともあれこれの困難を前にプレイヤーが工夫をこらしたことには変わりがないので、ゲームっぽい遊びになっているし、一定の制御層に従っているという意味でゲームになっているとも言えそうです。

ただ、上に挙げた、変則剣道、変則ゴルフ、変則将棋とは違って、TRPGには「架空の世界をそれらしく表現、処理する」という原則のようなものがあるので、それが尊重されるならば、プレイヤーも、「この局面で有効な手はこれだろう」「これまでの情報を総合すると恐らくこういう展開がありうるのでそれに備えておくべきだろう」などと工夫をすることがしやすいかも知れません。GMの裁量権が大きいTRPGは、スポーツやボードゲームで(対戦相手兼デザイナー兼)審判の裁量権が大きい場合と比べて、ゲームっぽい遊びとしてプレイしやすいような気がしました。
2002年03月08日:17時40分24秒
TRPG総合研究室 LOG 092 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 092として2002年02月27日から2002年03月08日までのログを切り出しました。

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