TRPG総合研究室 LOG 097

TRPG総合研究室の2002年04月08日から2002年04月15日までのログです。


2002年04月15日:18時57分53秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:ゲームの楽しさへの運の影響 / トモス
04月14日付け、Purpleさんの【乱数要素の比較ゲーム分析】ゲームの楽しさへの運の影響へのお返事です。

>>なんだか、私の書き込みを読み間違えられているような気がしますので、念をこめる意味で。<<

お察しの通り誤解していたようです。

(トモス)>・実力差だけでなく運も勝敗を左右することが楽しい
 
(Purpleさん)>> 私は、先の書き込みでこのような事を書いたつもりはありません。

この意見はゲームとしての楽しさとは別物だと思います。「まったく必要ない。」といっても過言ではないとも思います。<<

という点、だとすると僕と同意見という感じがします。 ただ、ゲームの楽しさではないとしても、純粋なゲームではなくて運試しとゲームの混合のような遊び(勝負の遊び)として遊ぶ場合にはそういう楽しみもあってもいいかな、とは思います。Purpleさんもそういう意見だ、ということでしょうか。

それ以前の投稿(04月13日、【乱数要素の比較ゲーム分析】ランダマイザの役割)で、
>>例えば対戦ゲームで運の要素がなく、プレイヤー間に技量差があると五分五分の勝負にならず、面白くない。と言う話は、すでに書き込まれてますね。<<

という記述があったので、Purpleさんも、運の要素によって勝敗が左右されることも楽しみの内だ、と考えているのかと思っていたのですが。これは楽しみの一種だけれどもゲームの楽しみではないということでしょうか?
それとも、ランダマイザによっていろいろな局面が生み出されるからこそ、ある程度先行きが不透明になって、全体としては技量が上であるプレイヤーにとって苦手な局面が訪れたりして勝敗が多少不確定になる、という点で、つまりあくまでゲームとして、面白いということでしょうか?


2002年04月15日:17時24分20秒
【比較ゲーム分析】観測と工夫の余地 / myrt
(Re:2002年04月13日:17時33分3 3秒【比較ゲーム分析】結果重視のゲー ムプレイヤー、工夫重視のゲームプレイヤー / トモスさん)

 説明ありがとうございました。「結果重視のプレイ/ゲームプレイ ヤー」についてはある程度理解できたように考えています。

 「工夫の量ってどうやって計るんだ??」という疑問も感じますが、 それは「努力した量だけ結果でむくわれるべきだ」という考え方に対して 努力の量を計るのと同じだけの困難があると思います。

>>ここはmyrtさんの立場との対照性が感じられて一番面白い点だと思いました。<<
:
>>ある種の飢えというか、積極さも感じます。工夫の余地があれば必ず工 夫してみる、という態度なので。 <<

 しかし、「工夫の余地があることがわからねばならない」「どの戦略を 選べば良いかが自明であればそれを選ぶことは工夫とは言えない」「それ ぞれの戦略を選んだときの勝率が違うことがわかっていても、どの戦略を 選べば良いかの手がかりが全くなければ、工夫の余地はない(すでに ダイスが振られた丁半博打など)」という条件がつくので、「工夫の余 地がある」と言った時点でかなり条件は良くなっています。

 ここから「じゃあ工夫の余地があるとはどういう状態なのか」を考えると かなり深そうですが、脇道なので(それに考えていてドツボにはまったの で)やめておきます。

 また結果重視の立場は、「工夫が足りなかったのに、幸運で乗り切 るのは許せない」という逆の厳しさも感じます。飢えという意味で は、「むくわれる工夫の余地があるのにそれを試みなければ結果が悪くなって 当然である」との考えかもしれません。

>>myrtさんの中では「体験主義」と「工夫重視」は結びついているでしょうか?<<

 結び付いていません。 いくら良い実態があっても体験できなければプレイヤーにとって意味が ありませんし、いくら良い体験をもたらすシステムがあっても、そのシス テムの実態を想定できなければ議論することができません。これらの立場は 表裏一体であると思います。

 体験主義では観測を、実態にアクセスするためのプレイヤーの 知覚であるとして扱います。検証も「正しく検証できるか」の 問題が残り、例外ではありません。

>>「結果重視」の「体験主義者」というのも有り得るでしょうか? <<

 体験主義「者」という点が気になりますが...体験主義的に 言えば、いかなる結果重視主義者であれ、工夫が結果によって むくわれたと感じれば「良いゲームだった」と感想を持ちます。

 また、不運に直面した時点で文句を言う結果重視主義者の問題は、 観測力の問題であると思います。彼らの「私のこの工夫はこの程度むくわれるべ きだ」という考えの根拠は、ゲームに対する観測からの推測です。実態 を正確に把握していれば、どの工夫がどの程度むくわれるかはわ かっているはずであり、プレイ中にそんな文句が出るはずがないからです(覚悟するか、 最初からプレイしない)。

 ところが、どの戦略がどの程度むくわれるかはわかっていれば工夫 の余地はありません。そのゲームの実態を完全に把握していたら、 全く工夫の余地はないわけです。だから、プレイヤーが観測し 把握するものが何かは、工夫を論ずるために極めて重要です。

 後から検証すればいい?? それは丁半博打で「賭ける前からダイス目は 決定されていた」話と何か違うでしょうか。

 ただしこれは結果重視主義者だけの問題ではありません。ゲームへの観測から ある「良いゲーム」を想定し、それとのギャップを発見した時点で文句を つけるのはゲーマー一般の問題です。「CRPGを買ってきてプレイしたら、 雑誌記事で予想してた内容と全然違うぞ!!」という場合、プレイヤー、 デザイナー、雑誌記者の誰が悪いかは一概に言えません。
2002年04月14日:01時39分46秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】ゲームの楽しさへの運の影響 / Purple
 なんだか、私の書き込みを読み間違えられているような気がしますので、念をこめる意味で。
 
 >・実力差だけでなく運も勝敗を左右することが楽しい
 
 私は、先の書き込みでこのような事を書いたつもりはありません。
 この意見はゲームとしての楽しさとは別物だと思います。「まったく必要ない。」といっても過言ではないとも思います。
 
 >・運によって違ってくる局面の展開に対応して適切な戦略をとることも工夫の内(そのような能力も実力の内)
 
 これは先の書き込みの1つ目の話ですね。
 この意見はゲームとしての楽しさそのものだと思います。
 
 >・世界をそれらしく表現するためにランダマイザが便利
 
 これは先の書き込みの2つ目の話ですね。
 この「世界をそれらしく表現する」というのは、実は「工夫を楽しむ」という点ではゲームではないと思います。しかしゲームの楽しさとしては、背景世界とか雰囲気といった要素も重要だと思いますので、ゲームの楽しさを生む構成要素の1つに入れておきたいです。
 
 ---
 
 >僕が気になっているのは、「運によって勝敗が左右されることも楽しい」というのが「ゲームは目的達成に向けた工夫を楽しむ遊びである」という定義と相容れない可能性です。
 
 運がゲームとしての楽しさに与える影響については、
 (A)目的達成が運に影響されるなら、相対的に工夫の影響は減る。つまり、工夫をする意味が減る。その点では、ゲームとしての楽しさが減る。
 (B)「運の影響を考慮して、次の一手を考える。」ということが工夫の難易度を上げる。難易度の低い目標を達成したときよりも、難易度の高い目標を達成したときのほうがプレイヤーが得られる満足感は高くなりやすいので、その点では、ゲームとしての楽しさが増える。
 という考え方があると思います。そして、
・運の影響が高すぎれば、(A)のマイナスのほうが大きくなり、ゲームとしての楽しさが増える。
・運の影響が適度であれば、(A)のマイナスよりも(B)のプラスのほうが大きくなり、ゲームとしての楽しさが増える。
 
 と考えればよいのではないでしょうか?
 
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 マインスイーパーについてですが、「単にクリアするだけ」と言う遊び方をしているうちは、「運試し付きパズル」であって、ゲーム性は0だと思っています。
 (例えば、「所定時間内に何回マインスイーパーをクリアできるかを競う遊び」になると、ゲーム性のようなものが現れるような気もしますが。」)
2002年04月13日:17時33分33秒
【比較ゲーム分析】結果重視のゲームプレイヤー、工夫重視のゲームプレイヤー / トモス
myrtさんの【比較ゲーム分析】Re:「悪いゲーム」とローグライクゲーム(4月13日)へのお返事です。

今回のmyrtさんの投稿で疑問に思っていた点がまたいくつか氷解したのですが、僕がとっている方の立場にも分があり、myrtさんに通じないはずがない、と思うので、myrtさんの提起した論点について、僕の立場からも筋の通った見解が出せる、ということを説明してみます。最終的にはmyrtさんの立場と矛盾する別の公理系のような形になるかも知れませんが、どこに異なる公理があるのかをうまく突き止めることはもう少しやれそうだと思うので。

僕が説明、擁護してみたい立場を「結果重視のプレイ/ゲームプレイヤー」と呼んでみます。「ゲーム性重視」「物語性重視」などこれまで議論してきたTRPGのプレイスタイルの一種ではなくて、今度は、ゲーム一般のプレイスタイルの一種です。

結果重視のゲーム・プレイヤーは、自分のプレイするゲームの結果が、自分の工夫の量によって左右することを強く望んでいます。

結果重視、と書くと、とにかく何が何でもいい結果を求める、易しいゲームでもいいからとにかく勝ちたい、いい結果が出せれば運でも実力でも相手の手加減でも構わないという人も思い浮かびますが、こういう人は含まれません。ここは重要な点です。そういうプレイヤーは、「結果重視のゲームプレイヤー」に言わせれば、単に「結果重視」なだけで、ゲームにこだわりがないプレイヤーだ、ということになります。つまり「結果重視」の「ゲームプレイヤー」にはなっていない、と。


・乱数要素が結果を左右する仕組みになっているために、どんなに工夫しても勝率が低いゲーム
・乱数要素が結果を左右する仕組みになっているために、 どんなにでたらめにプレイしても勝率が高いゲーム
・乱数要素が結果を左右する仕組みになっているために、プレイヤーの工夫の量が勝率に少ししか反映しない、勝率の変動幅の小さいゲーム

この3つは「悪いゲーム」であると、結果重視のゲームプレイヤーは考えます。

より強硬な立場としては、

・乱数要素は皆無で、工夫の多寡によって勝率が0%から100%までの間を変動するようなゲームが一番「よいゲーム」であり、そこから離れているほど「悪いゲーム」である

という意見も一応考えられます。これは擁護できる自信はないので言及するだけに留めますが。

これが「実態主義」の立場からの意見だ、という点については再度詳述する必要がない気がするので、省略します。どのような仕組みがプレイに備わっているか、を考えて、それがゲームの仕組みになっているかどうか、その仕組みが「よい」か「悪い」かを考えています。

>>運が悪くて麻雀に負けた人に「所詮そっちが勝ったのは運が良かったせいだ。そちらは適当に打って、こっちは真剣に工夫したのに負けた。これは運の要素が強すぎる悪いゲームだ」と言われているのと同じような感覚を受けています。<<

僕は麻雀はおぼろげにしか思い出せないのですが、このいちゃもんには分がある、と「結果重視のゲームプレイヤー」の立場からは考えます。
実際、麻雀には「運試し」と「ゲーム」が混ざっています。そして麻雀に勝ったことを持ってある人が「自分の方が戦略的な工夫の能力が上だ」と主張するなら、そこには反論の余地があると思います。その人が適当に打って運で勝ったと自覚しているなら、尚更反論の余地がありそうです。

ただ、麻雀で「勝負」することに決めたのだとしたら、それはそもそも「運試し」と「ゲーム」との両方が混ざった形での「勝負」をすることに決めたということなわけで、「半荘であれ、自分は勝った。勝ちは勝ちだ」と勝った方が主張することには何の問題もありません。

>>途中までは賛成なのですが、最後の「悪いゲームだ」にどうしてもつながらないんです。「それも含めてこその麻雀で、そうでないと別ゲームになってしまうだろ??」という感じで。半荘だけでは実力が反映されない、通算成績で勝負だ、と思うならそうすればいいだけで。半荘しかする余裕がなかったのならば、もはや運用上の問題だと思います。<<

勝負の手段、勝敗を争う遊びの一種としては、別に麻雀のように運試しの要素が含まれているものも、チェスや将棋のように乱数要素がほぼ皆無のものも(将棋でも先手後手をどう決めるかの問題がありますが)、どちらかが「悪い遊び」だという訳ではないと思います。

ただ、戦略的工夫の能力を争いたいのであれば、麻雀のように運試しの要素が多く含まれている遊びを選ぶよりは将棋やチェスにした方がいい、とは言えそうです。あるいは、麻雀であれば乱数要素が特定のプレイヤーに有利になる可能性を排除すべく、繰り返しプレイする方がよい、と。

従って、勝敗にこだわってゲームを楽しみたい「結果重視のゲームプレイヤー」にとっては、「勝敗が工夫だけではなく運によっても左右されるゲーム」は「悪いゲーム」だと言えます。

どんなに工夫を重ねても勝てないゲームや、どんなにいい加減にプレイしても勝てるゲームでは、勝敗にこだわってプレイすることはできません。そこで、そうしたゲームは、勝敗にこだわるプレイヤーにとっては、「悪いゲーム」だということになります。

>>以前トモスさんが挙げられた、「倉庫番ゲームの変形ゲームで、倉庫に荷物が詰まったらランダムで20%の割合で勝利とする(少なくとも80%は敗北する)」というゲームを考えてみます。なるほど、工夫によって左右できる勝率の割合いは、通常の倉庫番ゲームに比べると小さいです。しかし勝利にむけてプレイヤーがどんな工夫ができるか、つまり工夫の余地は何一つ変わっていないのではないでしょうか。ならば、工夫すること自体の面白さは変わっていないはずです。<<

最後の一文を除いては同感です。でも、「結果重視のゲームプレイヤー」の立場からは、最後の一文は「工夫すること自体の面白さは、勝敗に以前ほどこだわれなくなったために、減ってしまった」と言い換えるのがよさそうです。

>>変わっているのは、特定の工夫の結果が報われる可能性です。確かに、工夫が報われれば嬉しいし、その嬉しさは報われた度合いに依存します。「少なくない」変化とは、「この程度の工夫はこの程度報われるべきだ」という発想の産物ではないでしょうか?? <<

これは同感です。勝敗、結果にこだわれるためには、工夫の量が勝敗という形で「報われる」ようになっているべきだ、と「結果重視のゲームプレイヤー」は考えます。

>>「勝率が1%から2%に上がっても、どちらにせよ98%以上負けるならほとんど運じゃないか。なら工夫する意味がない」というのは典型的なその手の意見なので... ゲームに真摯な態度であれば、上昇する勝率がわずかであることはその機会を見逃す(工夫する楽しみを放棄する)理由にはなりません。見逃すのは上昇する確信がもてないか(観測の問題に依存)、そのためのゲーム外のコストが高すぎる(長考すると他プレイヤーに迷惑がかかるとか)場合だと思います(ゲーム内のコストなら勝率に換算されている)。<<

ここはmyrtさんの立場との対照性が感じられて一番面白い点だと思いました。
myrtさんの立場からは、ゲームに真摯だというのは「とにかく工夫によって目的を達成しようとする態度」のようなものだと思います。この態度は、極端な場合、「達成できるかどうかわからない課題に挑戦しつづけてみる」「勝算は無視してとにかく挑戦することに意義がある」などというプレイの仕方にもつながるものだと思います。このようなプレイヤーにとっては、ゲームとして遊べるような課題は、文字通りどこにでもあるだろうと思います。myrtさんが折りに触れて言及するゲーム理論では分析対象として扱われる「ゲーム」「problem」が広い範囲の事象に渡っていることとのつながりを感じる所以です。

ある種の飢えというか、積極さも感じます。工夫の余地があれば必ず工夫してみる、という態度なので。

名前をつけるとしたら「工夫重視のゲームプレイヤー」と言えそうです。

それに対して、僕の考えている「結果重視」の方は「ちゃんと工夫に応じて達成できるようになっているんじゃなきゃゲームとして楽しめないじゃないか」と少々好みがうるさいわけです。温室育ちというか、ある種の「純粋なゲーム」を遊ぶことを楽しみとしていて、それ以外の、ゲーム作品として誰かにデザインされたものでもないような課題を見つけ出してそれをゲームとしてプレイしてしまうほどの積極性を持っていません。そればかりか、一部の「強硬派」に言わせれば麻雀や7ならべ、コンピューターゲームなど、多くのゲームについても、「ゲームと呼ばれているがあれはゲームとしては不満が残るものだ」などということになっています。その理由は、工夫することを、そして工夫することだけを楽しみたいからで、そういう楽しみのためにきちんとした「ゲームの仕組み」(ゲームデザイナーによってデザインされたルールや設定だけではなくてプレイヤーやGMも含む、いわゆる実装部分まで配慮が行き届いた、プレイの実態に存在する仕組みです)が必要だからです。


「強硬派」でなければ、多少の乱数要素は他の理由で歓迎したり、余り気にしないでプレイし、勝率の変動幅が小さかったり上限が低い、下限が高い、などの場合を除いては乱数要素を含むゲームも楽しみます。

工夫以外のことを楽しみたければギャンブルなり小説を読むなり、他のことをすればいい、そういうことが楽しくないとは言わないまでも、それはゲームの楽しみではなく、ゲームの最大の楽しみは乱数要素などの影響が排除されて工夫だけが勝敗を左右するようになっている「ゲームの仕組み」で遊ぶことだ、とも言い換えられます。



また、ディープブルーの例などを通じて議論された「勝率の上限が低く、変動幅も小さいゲームでも繰り返しプレイすることで楽しめる」という意見には基本的には賛成です。

これは、例えば「一度だけプレイして勝つこと」の代わりに「100回プレイして通算勝率2.0%を超えること」を目的にすれば、その目的を達成できるかどうかにこだわることができるから、つまり「結果重視」のゲームプレイが成立つからです。

ちなみにここで、1回だけのゲームと100回プレイするゲームとでは、別のゲームだと、考えていいように僕は思います。これは「結果重視」の話とは別件ですが。一番有力と思われる根拠は、100回プレイするなら数回はわざと負けるようなプレイの仕方をしてみてゲームの仕組みを学び、それ以降のプレイに役立てる、というようなことが可能だからです。つまり1回1回の勝敗にこだわるプレイではありえない工夫が有効性を発揮します。

心理的な説明には少し覚束ない部分もあるかも知れませんが、以上で概要は伝わるのではないかと期待しています。



また、実態主義、結果重視のゲームプレイ、「工夫を楽しむ遊びとしてのゲーム」というのは、僕の中ではかなり強く結びついているらしく、同時発生的に思い浮かんできたものなのですが、myrtさんにとってはそうでもないような感じがする点は興味深く思います。「結果重視」の「体験主義者」というのも有り得るでしょうか?

myrtさんの中では「体験主義」と「工夫重視」は結びついているでしょうか?
例えば、「少しでも優れた手を開発すべく試行錯誤し、それを実際にゲーム後に検証する(ゲーム中の観測ではなく)」というような「実態主義」と「工夫重視」の組み合わせは可能なのではないかと思います。

最後に、【未公開要素の比較ゲーム分析】GMはプレイヤーから何を隠してよいか(04月13日)も、この「結果重視」の立場からの考察になっているようです。「工夫重視」からは違う意見が出せる気がします。僕はあの投稿を書いた時点では「ゲームの定義には運試しや展開の意外性を楽しむことについての規定が含まれていないので、実態主義とゲームの定義からのかなり必然的な帰結なのではないか」と考えていたのですが、どうやらそうでもないようです。
2002年04月13日:12時01分16秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】体験主義と、彼らに体験させる「何か」 / myrt
(Re:2002年04月11日:14時53分38秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:観測とゲーム性 / トモスさん)

 体験主義では、実態をブラックボックスとみなします。そしてブラックボックスの 中身がどうであれ、同じ観測結果が得られるものは同じものであるとみなす点がミソで す。「見た目が全然違っても、同じ音響特性を示すものであれば、それらは同じ音響特性 を示す共通の何かであるとみなせる」というように、観測に制限がかかることもあります。 制御層での「どう実装されようと、制御層が同じであれば同じものであるみなす」の ちょうど逆にあたるわけですね。

 これは分析の上の立場であり、実際に「体験主義者」というような人種がいるわけではあ りません。誰しも、プレイしているゲームが信じているゲームと違う反応を返せば、 プレイしているゲームか自分の認識のどちらか(あるいは両方)を疑うもので す。あるゲームをやっていて、予想外だが納得できる展開になり、そのゲー ムに対する認識を改めることは良くあります。

 そして「信じる体験主義者」には適当に、「実証主義的体験主義者」には彼が「その ブラックボックス内にそのゲームの仕組みがあれば返すであろう観測結果」を、「懐疑 的な体験主義者」には「彼がそのゲームである揺るがぬ証拠だとみなす観測結果」を返せ るような「何か」を、「そのゲーム」であるとみなすわけです。

 しかし実際には、プレイの参加者全員が納得できる程度の「何か」を用意すれば 十分です。さらメタ的に「そのブラックボックス内にゲームの仕組みがあれば返 すであろう観測結果を返せるような何か」を考えてみます。これは、TRPGの「実際に 内部でファンタジー世界をPCが冒険しているようなブラックボックスから得られる観 測結果を返すような何か」に対応するように思えます。これが、TRPGを通じて 行うゲームの正体ではないでしょうか。

 実際に重度の「信じる体験主義者」がいれば、彼が細かいルールに無頓着であることか ら、「実証主義的体験主義者」とプレイすることは難しいと思いま す。「実証主義的体験主義者」がルールについて頻繁に注意したあげく、愛想を つかしてしまうと思います。相手がいなくなってもプレイしていると信じられるほど 重度であれば、本人は困らないかもしれませんが。盲信することと、プレイしていると 信じるゲームの切り替えが柔軟であることは違います。

>>僕は勝敗のあるゲームで達成度を問題にしたプレイを行うと、それは別のゲーム、 という立場がとれるような気がするのですが、<<

 ゲームが変化しない話は「勝敗だけしかないゲームも、勝ちを1、負けを-1 の達成度であるとみなすゲームに変換すれば表現できる。だから達成度の概念は より一般的である」ということであり、「勝敗があるゲームを、どこまで勝利に近か ったかを評価するゲームに変換する」と確かにゲームが変化すると思います。

 なぜそんなことをするかというと、勝率を100分率で表現すると見えてこないものが 見えてくるかもしれないからです。このとき勝率を50%から51%に増やすことと、期待 利得を0から0.02に増やすことは同義なのですが、かなり見た目が違います。また、 勝敗だけで結果を評価するゲームがいかに特殊であるかがよくわかります。
2002年04月13日:11時59分18秒
【比較ゲーム分析】「悪いゲーム」とローグライクゲーム / myrt
オフラインで書いてたので話題に遅れています...
(Re:2002年04月11日:15時17分08秒【比較ゲーム分析】「悪いゲーム」 / トモスさん) >>以上の見解は、実態主義だけから出てくるものです。つまり、ゲームが 終了した後にプレイを統べていたルールや設定などを調べてみてプレイ に「ゲームの仕組み」があったかを「検証」してみて、「ゲームの仕組みは あったが勝率は自分の工夫によって変動する余地が非常に少なかった」とわ かれば、それで悪いゲーム、ということになります。これは基本的には観測 に依存しない判断です。 <<

 私がこだわってるのは何を基準に「非常に少ない」か、ということで す。「少なくない」量がどの程度であるかの基準が必要です。

 運が悪くて麻雀に負けた人に「所詮そっちが勝ったのは運が良かった せいだ。そちらは適当に打って、こっちは真剣に工夫したのに負けた。 これは運の要素が強すぎる悪いゲームだ」と言われているのと同じよう な感覚を受けています。

 途中までは賛成なのですが、最後の「悪いゲームだ」にどうしてもつ ながらないんです。「それも含めてこその麻雀で、そうでないと別ゲームに なってしまうだろ??」という感じで。 半荘だけでは実力が反映されない、通算成績で勝負だ、と思うなら そうすればいいだけで。半荘しかする余裕がなかったのならば、 もはや運用上の問題だと思います。

 以前トモスさんが挙げられた、「倉庫番ゲームの変形ゲームで、倉庫に荷物が詰まった らランダムで20%の割合で勝利とする(少なくとも80%は敗北する)」というゲームを 考えてみます。なるほど、工夫によって左右できる勝率の割合いは、通常の倉庫番ゲーム に比べると小さいです。しかし勝利にむけてプレイヤーがどんな工夫ができるか、つまり 工夫の余地は何一つ変わっていないのではないでしょうか。ならば、工夫すること自体の 面白さは変わっていないはずです。

 変わっているのは、特定の工夫の結果が報われる可能性です。確かに、工夫が報われれば 嬉しいし、その嬉しさは報われた度合いに依存します。「少なくない」変化とは、「こ の程度の工夫はこの程度報われるべきだ」という発想の産物ではないでしょうか??

 CRPGにおいて手塩にかけて育てたキャラがウィザードリィで言うところの ロストしたとき、自分に手落ちがなければ「ゲームが悪い」という人がいま す。彼らは「このキャラは何故死ななければならなかったのか」の納得のい く理由を欲しがります。

 現実世界ならともかく、手落ちがあったときだけ、しかし致命的な 手落ちがあれば必ずキャラが死ぬ(もしくは窮地に陥る)ようなゲームは作 れますし、TRPGでもありがちです。

 ところが、例えばローグライクゲームでは、ランダムな死をいかに潜り抜けるかが腕 の見せどころです。だから死ぬときは死ぬし、死なないときは死にません。 すると彼らは「じゃあ努力するのは馬鹿らしいや」と思ってしまうらしいです。

 「勝率が1%から2%に上がっても、どちらにせよ98%以上負けるならほとんど運じ ゃないか。なら工夫する意味がない」というのは典型的なその手の意見なので... ゲームに真摯な態度であれば、上昇する勝率がわずかであることはその機会を 見逃す(工夫する楽しみを放棄する)理由にはなりません。見逃すのは上昇する確 信がもてないか(観測の問題に依存)、そのためのゲーム外のコストが高すぎ る(長考すると他プレイヤーに迷惑がかかるとか)場合だ と思います(ゲーム内のコストなら勝率に換算されている)。
2002年04月13日:07時55分27秒
【未公開要素の比較ゲーム分析】GMはプレイヤーから何を隠してよいか / トモス
これまで通りの立場をもう少し敷延して、TRPGにおけるシナリオなどゲームの未公開部分についての考え方をまとめ直してみます。

「ゲーム」とは「目的を達成するべく工夫を重ねることを楽しむ遊び」のことだとします。

また、単にそうした楽しみが感じられるということだけではなくて、プレイに実際に用いられている設定資料、ルール、アドリブなどの総体に、そういう楽しみを生み出すような仕組みがあることも重要だ、とします。これは「実態主義」として最近の議論されてきたもので、「プレイがゲームになっていること」=「プレイヤーの工夫が目的の達成の可否を左右するような仕組みになっていること」だとするものです。

ここで考えたい「未公開部分」は乱数要素と非常によく似ているのですが、「未公開なだけで設定自体は既に終わっている」のが未公開要素であり「幾つかの可能性について想定されているが、最終的には設定内容が確定していない」のが乱数要素、と考えることにします。つまりここでの議論は乱数要素とは別の要素についての議論です。

TRPGについては、こんな風になるかと思います。

0)未公開の要素がゲーム中に含まれていること自体は問題ではない。それらの要素について推測したり、推測の手がかりになるような情報収集をすることが、工夫のしどころになる。
1)未公開部分が、PCの手持ちの情報から推測できる内容ではなく、かと言って推測するのに必要な情報を入手できる可能性もない、としたら、その部分は「推測不可能」な意外な要素である。TRPGでは、ドラマ上の効果などを狙って、GMがこうした要素を意図的に用意することもありうる。
1a)「推測不可能な要素」はプレイヤーが工夫によって対処できるような要素ではない。従って、それが勝敗を大きく左右する場合、そのゲームは「悪いゲーム」だと言える。
1b)また、プレイヤーの工夫に全く関わりがなく、そうした推測不可能な、意外な要素だけが勝敗を左右する仕組みになっている場合には、それはゲームではない、と言える。

2)非常に多くの可能性が考えられ、実態がどうなっているかを知る手がかりが少ない場合には、「推測不可能」な要素は何もないけれども、具体的に可能性を絞り込むことが全然できない、という事態もあり得る。「絞り込み不可能」な要素と呼ぶことにする。絞り込み不可能な要素に直面したプレイヤーは、それでも何らかの決断を迫られて特定の仮定を導入したりして行動をとることが十分ありうる。
2a)「絞り込み不可能」な要素について下した判断が、ゲームの勝敗を大きく左右するとしたら、それは「悪いゲーム」である。例えばそれは、「決断する時には十分な判断材料がないままに決断しなければならなかった。自分が想定していた可能性の内、自分の下した決断に都合が悪い方が真実だと後から明らかになったが、その時には既に手後れで、最終目的を達成するために自分にできることは非常に限られていた」というような事態にあたる。
手がかりのない事柄についての判断が正しいかどうかが勝敗を左右するとしたら、その分だけ、その遊びは「運試し」だと言える。
2b)「絞り込み不可能」な要素について下した決断だけが、ゲームの勝敗を決めるとしたら、それは「ゲーム」ではなく「運試し」である。但し、TRPGでは通常、少なくともその決断に至るプロセスにはゲーム性があり、工夫が足りないとそこまで行き着くこともできないなどという仕組みになっている。つまり、純粋な運試しになっていることはない。むしろ、しかるべき工夫を重ねても、それだけでは最終目的が達成できず、運試しにも成功しなければならないという2aのケースが多い。

3)言い換えると、GMは、ゲームの勝敗を大きく左右するような要素を、全く「推測不可能」な要素として(手がかりも、手がかりを得られる可能性もなく)おくことは望ましくない。また、GMは、ゲームの勝敗を大きく左右するような決断を、絞り込み不可能な要素について行わせることは望ましくない。こうしたことは、「ゲーム」の楽しみである工夫によって目的を達成することを減らし、代わりに事前の筋書きや運によって目的の達成が左右される、ゲームでない遊びの度合いを増やす。

例1:意外な出来事に不意打ちされた形になって、非常な苦境に追い込まれるけれども、それでもPC達が何とか工夫を重ね、体勢を立て直して最終目的を達成できる余地が残されている、としたらそれは問題ない。(目的達成の可否はあくまでも工夫に左右されるので。)(但し、乱数要素についての議論を考慮に入れると、PC達を苦境に立たせて勝率を低くしてしまうようなイベントが予測不可能であるのは「悪いゲーム」ということになる。)

例2:逆に思わぬ幸運に恵まれて、PC達の工夫が皆無でも目的が達成されてしまう運びになっていたら、それはゲームではない。

例3:ダンジョンのトラップ、敵の待ち伏せ、などのリスクをプレイヤーが知っていたが、十分準備をしておかなかった場合、その被害によって最終目的達成を阻まれることになっても、それは「自分はあのトラップを推測できる可能性がなかった、だからこれは悪いゲームだ」とは言えない。但し、プレイに適用されている不文律、暗黙の了解の中に、「犬死にはありえない」「GMは危険がある時には丁寧にそれをプレイヤーに事前に教える」などの約束が含まれているかどうかにもよるし、それが実際にGMとプレイヤーの間できちんと共有されているかどうかにもよる。それらの約束に反する場合は「悪いゲーム」。プレイヤーが共有されていると思い込んでいた不文律が実際にはGMに共有されていなかった場合には、よい悪いを判断する基準が統一されていないので何とも言えない。

例4:敵襲に備えるために防御を固めようと思うのだけれども、敵がどのような形で攻めてくるかについて余りに多くの可能性があり、かつ、それを調査してから決断することもできないとする。また手持ちの時間や資金、人員、物資も限られており、全ての可能性に備えるような守り方はできない。そこでプレイヤー達は賭けに出る。この賭けが裏目に出て、「ありうるとはわかっていたけれども備えておかなかった攻め方」で敵が攻めてきた場合、それがプレイヤーの敗北を決定的にするとしたら、それは悪いゲームである。但し、「明らかにましな守り方」が存在していて、その守り方をとっていれば防げた被害を防げなかったためにプレイヤーが敗北したとしたら、それは単なる戦略ミスであり、ゲームの善し悪しとは関係がない。

以上です。
2002年04月13日:06時53分08秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:ランダマイザの役割 / トモス
Purpleさんお久しぶりです。


・実力差だけでなく運も勝敗を左右することが楽しい

・運によって違ってくる局面の展開に対応して適切な戦略をとることも工夫の内(そのような能力も実力の内)

・世界をそれらしく表現するためにランダマイザが便利
と言い換えてみれば、基本的には賛成です。

僕が気になっているのは、「運によって勝敗が左右されることも楽しい」というのが「ゲームは目的達成に向けた工夫を楽しむ遊びである」という定義と相容れない可能性です。相容れなくても楽しいことには変わりが無いのですが、それは「ゲームの楽しみ」(工夫の楽しみ)ではなくて、「運試しの楽しみ」だと言った方がうまく整理できる気がしています。

#一般にゲームと称されている遊びの中にはこの運試しの楽しみが含まれているものが非常に多いために、乱数要素が結果を左右してはいけない、という発想は妙な感じがすることは確かですが。(これは、ゲームの定義の仕方を変えて対処すべきことのように思えます。)

それを言い換えると、「どれだけ努力しても運がよくないと絶対に勝てない」とか「どれだけでたらめにプレイしても、運が悪くない限り絶対に負けない」というゲームは悪いゲームだ、というようなことです。工夫が結果を左右する度合いが低く、運が結果を左右する度合いが高いので、ゲームよりも運試しになっている、と。

マインスイーパーについて考えると特に感じることなのですが、あのゲームには乱数要素のせいで「運がよくないと勝てない」という状況に追い込まれることもあれば、推理を働かせることでどこに地雷が埋まっているか/いないか、を推測できる場合もあります。

後者のような乱数要素はゲームの面白さのひとつで、マインスイーパーではそうした推論能力はまさに「実力の内」なのですが、前者については、ゲームの楽しみを減らして運試しの楽しみを持ち込むものだ、と考えるのが筋が通っている感じがします。

参考:

マインスイーパーについてのもう少し細かな議論は、以下の投稿にあります。(古い方から順に)

【制御層とゲーム分析】Re:ランダマイザと期待値トモス,04月01日
最後から4つ目のパラグラフ
【制御層とゲーム分析】勝率でなく期待値をmyrtさん,04月02日
中ほど
【乱数要素の比較ゲーム分析】運試しとゲームを区別する立場,トモス,04月03日
2)マインスイーパーの乱数要素について
【乱数要素の比較ゲーム分析】勝負(挑戦)とゲーム,トモス,04月08日
一般論
2002年04月13日:04時04分50秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】ランダマイザの役割 / Purple
 どうも、久しぶりに書き込みます。Purpleです。
 議論の流れとはズレているような気もしますが、ランダマイザについて思うことを書いてみたいと思います。
 
 ゲームとしての観点から、ランダマイザの存在理由・必要性(あるいは役割と言っても良いかも)は、2つあるように思います。
 1つ目は、myrtさんが述べていた、「ハンディとは違った形で、プレイヤーの実力差を埋める。」という役割があると思います。
 例えば対戦ゲームで運の要素がなく、プレイヤー間に技量差があると五分五分の勝負にならず、面白くない。と言う話は、すでに書き込まれてますね。(それと、運によってもたらされる危機を乗り越えたり、好機を逃さずに戦果を拡大することも、また実力のうちと言う話も書き込まれてますよね。)
 
 運の要素が入ることで、プレイヤーは、「対戦プレイヤー」と「運」を相手に「試行錯誤」を楽しむことができるようになり、ゲームとしての楽しさが増す。これがランダマイザの役割の1つ目だと思います。
 
 2つ目は、シミュレーション性の問題です。
 ゲーム(特にシミュレーションゲーム)では、ゲームが取り扱っているテーマを再現(シミュレーション)できるように、ルールを作るはずです。
 そのときに、ゲームが扱っているテーマにおいて、「本来なら勝てるはずのものが、運悪く負けてしまう。」とか、「駒Aと駒Bが闘うと、駒Aが70%の確立で勝利する。」といった現象が存在するなら、その現象をシミュレーションするためにはランダマイザが必須になるでしょう。(もしもランダムにではなく、駒の戦闘力などから一意的に勝敗が決定してしまうというルールにしてしまえば、そのゲームはその分だけ再現性を失うと言うことになります。)
 
 つまり、シミュレーション性を増すためのランダマイザという役割があると思います。
 
 RPGの戦闘ルールにおけるランダマイザや、ワンダリングモンスターのランダムエンカウンターなども、上記の2つの役割を持っていると言えるでしょう。
2002年04月11日:16時43分55秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】誤解の訂正 / トモス
myrtさんの4月9日の投稿、「観測とゲーム性」について、もう1つ思い出した点があるので、手短に。

>> ...良く読むと、すでに「結果の違いがよくわからない(観測が難しい)から」という理由が挙げられています。それを受けて、私(myrt)が勝率が低くても観測できる例としてディープブルーに挑戦ゲームの例を挙げたわけです。 <<

この部分は、myrtさんの誤解だと思います。どこで誤解が生じたのかはわからない上、結局のところmyrtさんの立場はそれはそれで筋が通っているようなので大した問題ではないかも知れませんが。

乱数要素について考えたのは、ほぼ全て、実態主義の立場からです。実態主義の立場からは、「事後検証しようと思ってもできない」(他の手をとっていたらどうなっていたかがわかりにくい)ようなゲームはある、とは考えていたのですが、myrtさんが持ち出すまで観測のことも、観測の難しさのことも、思いつきませんでした。

「事後検証」はイメージとしては、TRPGをプレイし終わった後に「GM、今のは本当にゲームになっていたの?」と尋ねてみるようなことが検証です。TRPGや対戦型ゲームなど、多くのゲームでは不完全な形でしか検証ができないので、実態主義者にはいろいろ不都合があるわけですが。

事後検証が可能な場合(マインスイーパーなどの一人用ゲームでゲーム核が明確に描ける場合にほぼ重複します)、どこに乱数要素が介入し、ゲームのその後の展開をどう変動させるのか、を考えることができ、その乱数部分の分布を元にして「どう頑張っても1/6の確率で敗北することになる」などと結論を出せます。

それだけです。
2002年04月11日:15時17分08秒
【比較ゲーム分析】「悪いゲーム」 / トモス
myrtさんの4月9日の投稿、「観測とゲーム性」への2通めのお返事です。

>>以上のことから、「どの程度左右できないと駄目か」の問題は観測問題に帰結できると考察します。実態だけを問題にするならば、左右の度合がある限り、それがどんなに小さくても「ゲーム性は存在する」と言えるのではないでしょうか?? <<

これについては簡単にここでお返事を。どんなに小さくても、観測不可能でも、工夫によって勝率が変動するのであれば、そのプレイにはゲームの仕組みがある(実態としてゲーム性を備えている)と言えます。この点については賛成です。

ただ、変動幅が小さい場合や、勝率が常に低い場合(や常に高い場合)には、ゲームではあるけれども「悪いゲーム」であると言えると思います。これは「ゲームでない遊び」(運試しはその一種だという立場をこれまでの議論ではとっています。)ではなくて、あくまでもゲームの一種なわけですが、単にゲーム性が低い、(代わりに運試しなどゲームでない性質が強い遊びだ)と。

以上の見解は、実態主義だけから出てくるものです。つまり、ゲームが終了した後にプレイを統べていたルールや設定などを調べてみてプレイに「ゲームの仕組み」があったかを「検証」してみて、「ゲームの仕組みはあったが勝率は自分の工夫によって変動する余地が非常に少なかった」とわかれば、それで悪いゲーム、ということになります。これは基本的には観測に依存しない判断です。

但し、検証不可能なゲームというのもあります。TRPGもそのようなゲームの一種だと思います。例えば将棋のようなゲームでは、「もし自分があの手を打っていたら相手はどうしていただろうか」という可能性をしらみつぶしに調べることは事実上(たぶん原理上も)不可能です。相手の心理状態や集中力、それまでの試合運びなどが違っていればそれだけで相手がどのような手に気づきどのような手にきづかないか、どのような読みをするか、が違ってくるからです。そこで、将棋に負けた後で「自分にはそもそも工夫によってこの相手に勝てる可能性が少しでもあったのか?」と疑問に思っても(=今終了したそのプレイに「ゲームの仕組み」があったのかと疑問に思っても)検証ができないわけです。

その場合、繰り返しプレイによって、工夫が違えば勝率が違うようなゲームの仕組みがあるかどうかを観測してみる、ということができる場合もあるかも知れません。(TRPGや将棋は勝率を測定するための繰り返しプレイには向いていませんが。将棋だと繰り返しプレイしている間に相手も強くなってしまいそうなので。学習機能などのついていないコンピュータ相手の将棋ならよさそうです。)

以上、実態主義の立場からは、「基本的には検証によって、場合によっては観測によって、悪いゲームであるかどうかを判断することができる。勝率の変動幅が小さければ悪いゲームだとする。」という意見が出せます。



ところが、myrtさんの意見はもう少し違う射程というか問題意識を持っているような気がしました。僕の読み込み過ぎかも知れませんが。

myrtさんの意見は、「プレイが実態としてゲーム性を持っていて、かつ、ゲームっぽく感じられるのでなければいいゲームとは言えない」という意見のようにも見えます。「ゲームであるかどうかは実態主義によって」「よいゲームであるかどうかはゲームっぽさによって」決まる、と。

そうすると、実態としてはゲームの仕組みを備えていないにも関わらずゲームっぽいと観測された場合にはどうするのか、が気になるところです。ゲームではないが、よいゲーム、ということでしょうか? (そういう立場は確かにありですが。)ともあれ、勝率の変動幅を観測することができないとしたら、それはたとえ実態としてゲーム性があっても、ゲームっぽくはないから、悪いゲームだ、という考えには直観的には納得できるものがあります。

但し、実態主義者ならばゲーム中に観測できること、つまり「プレイのゲームっぽさ」を問題にすること自体を拒否して、「プレイ中に得られる情報は限られているのだから考えるだけ無駄」などとプレイ後の検証を待つ方に傾くように思います。

体験主義者と実態主義者は、「よいゲームと悪いゲーム」についてそれぞれ別の意見を持っていると考えられるのですが、myrtさんの考え方はそのどちらとも違う、と言えそうです。
2002年04月11日:14時53分38秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:観測とゲーム性 / トモス
直前のmyrtさんの投稿へのお返事です。

>>・勝率をプレイヤーが全く左右できないとすればゲーム性はない。

・勝率をプレイヤーが全く左右できる度合を観測できなければ、プレイヤーはゲーム性を観測できない。左右できる度合と試行回数が少なければ、観測は難しくなる傾向がある。

・勝率が低くて左右できる度合も小さくなり、多回数の試行が難しいゲームは、ゲーム性の観測が難しくなる傾向があり、(他に利点がなければ)「より悪いゲーム」と言えるかもしれない。<<

>>以上のことから、「どの程度左右できないと駄目か」の問題は観測問題に帰結できると考察します。実態だけを問題にするならば、左右の度合がある限り、それがどんなに小さくても「ゲーム性は存在する」と言えるのではないでしょうか?? <<

この問題については考える度に違う結論に辿り着くのですが、まず僕なりの解釈(言い換え)を施した上で、条件付きの賛成、という回答を出してみます。

1)解釈

myrtさんは「ゲームの実態」ではなく「ゲームっぽさ」について、つまりプレイヤーの実感について議論していて、あるプレイがゲームっぽいと感じられるかどうかは、プレイヤーの手がどれだけ結果に影響したかを「観測できる」ということによって決まる、としていると解釈します。

つまり、ゲームの実態に「ゲームの仕組み(ゲーム性)」があるかどうかを観測して、それを元にゲームっぽさを感じたり感じなかったりするのだ、と。

僕は実態の方に興味があったのですが、観測問題はそれはそれで興味深い問題だとは思っていましたのでとりあえずそれについての考えを書いてみます。乱数要素をめぐって、これまでmyrtさんと僕の意見が違っていたわけですが、僕は実態としてゲームの仕組みがあるかどうかを考えていたので、あれは対立になっていない、と考えるのがいいようですね。今回の投稿は、改めて「ゲームっぽさ」についての考察です。

また引用部分の最後では「悪いゲーム」と「実態」に触れている部分がありますが、今回は思い切ってその点は省略し、「ゲームっぽさは観測とどのように関わるのか」についての議論に絞って考えてみます。

2)回答/意見

観測を通じて、プレイにゲームの仕組みが備わっていることを感じた時にのみ、「このプレイはゲームっぽい」と感じ、従って「ゲーム性重視のプレイ」としてそのプレイを感じることができる、というmyrtさんの意見にはとりあえず、条件付きの賛成といったところです。以下はその条件についての説明という形をとります。

a)条件1:「信じる体験主義者」や「懐疑的体験主義者」ではないこと

体験主義者を3つの立場に分類してみます。2つ目の立場だけがmyrtさんの議論にあてはまる立場だと思います。

極端な体験主義者(やっぱりこれは実感主義者という名称の方がいいような気もします…。)の場合には「観測できなければ単にゲームだと信じ込む」という選択も一応あるとは思います。実際にどの位そういう人がいるかどうかはよくわかりませんが。(TRPGであればこういう信じ込みはある程度は不可欠のような気もします。)

プレイヤーがプレイ中に「このプレイにはゲームの仕組みがないはずだ」という決定的な証拠を手にする可能性は非常に低いように思います。対戦型ゲームでどういう攻めかたをしても相手に軽く返される、などが考えられる位でしょうか。そこで、「信じ込む」という選択肢は、プレイヤーが望むなら、ほとんどの場面で選択可能だと思います。

もちろん、どんなに信じ込みたいと思っている体験主義者であっても「信仰を試される」ような、猜疑心を抱かせるような体験をする可能性はあります。どんな風に攻めても効かない強敵を相手に対戦する場合は、その好例だろうと思います。だから、選択可能なはずの「信じ込む」という選択肢も、実際には選択可能ではない場合、「どうしてもこのプレイがゲームになっていると信じ込むことができない」という場合もあるとは思います。

ともあれ、プレイヤーが体験主義者であるならば、信じ込めればそれでプレイはゲームっぽいのであり、かつ、ゲームっぽいことだけが重要なので、実態としてプレイがゲームの仕組みを備えているかどうかを心配することはありません。観測にもさして興味を持たないと思います。これを「信じる体験主義者」ととりあえず呼んでおきます。信仰の問題とかなり似ているので「敬虔な」「原理主義者」などの呼び方も考えたのですが、真剣な宗教的信仰を持っている方には失礼のような気がしたのでやめておきます。

ところが、もう少し欲張りな(?)体験主義者は自分の実感がいわゆる「正しい」ものであることを望むだろうと思います。あるプレイが「ゲームっぽい」と感じるのは「自分がそのプレイをゲームであると信じ込めるかどうか」ではなくて「批判的に検討してもゲームっぽいと感じるかどうか」なのだと。こうしたプレイヤーは「批判的に考えなければゲームっぽいが批判的に考えると必ずしもゲームっぽくないようなプレイ」を「ゲーム性重視のプレイ」としてはプレイできないことになります。もう少し確かな確証が欲しい、と思うわけです。そして、ここで「確証」にあたるのが、「プレイの実態にゲームの仕組みがあること」だとします。(ゲームの仕組みがなくてもいいから「きちんとしたゲーム核」があればいい、などという意見を持つ胃人もいそうですが、それについては省略します。)自分の実感に自身がないので、プレイの実態に根拠を求めるわけです。このような体験主義者は観測に興味があり、ゲーム中に体験したことを吟味して自分のプレイがゲームのプレイなのかそうでないのかを考えようとします。但し、徹底的な究明をしようというわけではなくて、ある程度、自分の期待や予想の範囲内で設定された諸条件をクリアすると、「ここまでゲームと似た体験データを与えてくるのだからきっとゲームなのだろう。実際にどうなっているか断言はできないけれども、少なくともゲームっぽいとは感じる」といった実感を持つに至り、そのプレイをゲームっぽいプレイとして楽しむことになります。これを「実証主義的体験主義者」と呼ぶことにします。

この問題について、上述の「信じる体験主義者」は、「自分が実感できるならその実感は十分明確だし、明確な実感が間違っているということはない」という意見を持つだろうと思います。これはちょうど、「痛いと実感したのだったらどこにも傷がなくても痛いことには代わりがない。傷がないことをもって痛みを批判しても痛みが消え去ることはない。」というのと同じことです。「ゲームっぽいと感じたのだったら、どこにもそれに対応する「実態としてのゲームの仕組み」などなくてもゲームっぽいのであり、そうである以上は、そのプレイをゲームとして楽しめるわけで、「批判的に考える」ことには何の意義もない」と。

更にもう一種類、「懐疑的」な体験主義者を考えることができます。この体験主義者は「ゲームっぽいと感じるプレイこそがゲーム性重視のプレイの目指すものだ」と考えている点では他の体験主義者と変わりが無いのですが、「このプレイはゲームになっていないに決っている。おれは確たる証拠が出てくるまでは信じないぞ」と思っているので、「信じ込む」ようなことは決してありません。そしてここで「確たる証拠」というのは、実証主義的体験主義者の場合と同じくそのプレイに実態としてゲームの仕組みが備わっているかどうか、だとしてみます。(対戦相手の強さなどを排除して、ゲーム核だけを問題にするような懐疑的体験主義者がいそうだ、という点でも実証主義と同じです。詳細は省略しますが。)

つまり、この体験主義者は、「自分はこのプレイにゲームの仕組みがあるという揺るがぬ証拠を手に入れれば、このプレイをゲームっぽいと感じることができる」という人なので、実際には「実態主義者」と紙一重です。唯一の違いは、実態主義者であればプレイ中の実感は無視して、プレイが終わった後に検証をしてみてから「あのプレイはゲームだった」などと結論を出すのですが、体験主義者はそうした事後的な見解には興味がなく、プレイ中に何を感じるかが全て、と考えている点です。つまり、懐疑的体験主義者にとっては事後検証の可能性はありません。

例えば、ゲームブックをプレイした後に、実態主義者は検証作業を行います。「実際には選ばなかった選択肢を選んでいたらどうなっていたか先を読んでみる」「実際には失敗した運試しに成功していたらどうなっていたか、先を読んでみる」といった作業によって、そもそも勝率の幅が何%から何%の間にあるのかを計算します。

これに対して懐疑的体験主義者は、プレイ中にこのゲームブックは勝率が100%や0%でないのか、自分の手によって勝率が変動するのか、を常に疑いながらプレイし、結局のところ、プレイ中の観測を通じては十分な証拠が得られないままプレイを終わることになります。「自分は勝利条件を達成できなかったけれども、そもそも勝てる可能性があったのかは遂にわからず仕舞いだった」「自分は勝利条件を達成できたけれども、そもそも負ける可能性があったかどうかは遂にわからず仕舞いだった」「そもそも他の手を選んでいたら勝率が違っていたのかはわからず仕舞いだった」などとなります。

つまり、「懐疑的体験主義者」は、ゲームを一度プレイしただけでは、プレイ中の体験=観測から十分な確証を得られる可能性が原理的に皆無です。

ある種のゲームは、事前に公開されたゲーム内容(将棋のルール)や、ゲームについての間接的な情報(数学の参考書に問題が掲載されていて、巻末に解法が載っていると一応知っているがまだ確かめていない場合や、ある種のソリテアが数十通りの解法を持ったパズルだと知っているけれども実際には解法を一つも知らない場合など)を通じて、ゲームであると考えるに十分な証拠を得ることができます。(間接的な証拠を十分と考えるかどうかは懐疑主義者の中でも意見が分かれるかも知れません。)但し、これは、プレイ中の観測によってプレイがゲームになっていることを実感するに至るわけではなくて、ゲーム開始前に得た情報によって実感するに十分な証拠を得るわけですが。また、同様にプレイ外の情報によってゲームであるかどうかを知る手段に「事後検証」があります。これが何であるかは既に上に述べたので繰り返しませんが、プレイが終わった後になってそれがゲームであったことを実証できても、プレイ中にそれを実感できなかったことには代わりがないので、体験主義者としては「あのプレイはゲームっぽいとは感じなかった」という結論を変えることができません。もう一度同じゲームをプレイする場合は別ですが。

また、同じゲームを繰り返しプレイして、過去の経験を頼りにプレイがゲームになっていると信じられる場合にも、懐疑主義者は「ゲームっぽさ」を感じることができます。これをもうひとつの条件にすることより、ひとつのゲームを繰り返しプレイして勝率を観測することは、同一ゲームのプレイを一回プレイすることとみなしてよい、ということになっています。そこで、これは「観測」なのだと言ってよさそうです。

但し、観測と事後検証(や事前の情報からの考察)を考えた場合、観測はあくまで実験を繰り返して帰納的に結論を得るという作業であるのに対して、検証はプレイを統べているルールや設定を調べることによってそれがゲームになっているかどうか、勝率は何%の変動幅があるか、などを演繹的に結論する作業になっていると言えます。懐疑主義者の中には、この演繹が可能な場合にはそちらを求める者もいそうです。

b)条件2:繰り返しプレイが可能であり、かつ、繰り返しプレイすることを同一のゲームだと考えること

すぐ上に書いたように、myrtさんの意見のひとつに、勝率の低いゲームを何度もプレイして勝率によって達成度を測っても、一回しかプレイせず、勝敗だけを問題にしない場合と同じゲームをプレイしているとみなす、というものがあります。

これに同意するとしたら、上の懐疑的体験主義者についても、繰り返しプレイする中で「観測」される内容を元に懐疑が解ける場合があると思います。そこでこれが第2の条件になります。これが成立たない場合であっても、「実証主義的体験主義者」についてはmyrtさんの議論があてはまる点が少々ややこしい点ですが。

もうひとつ、myrtさんがかつて提案し、(それを汲み取り損ねて)僕が再度提案したアイディアに、勝敗のあるゲームにおける「達成度」を問題にする、というものがあります。これは上のmyrtさんの議論には含まれていませんが、この投稿の一番最後に検討してみます。

3)まとめ

「信じる体験主義者」は「このプレイはゲームっぽい」という自分の実感を信じ、また何かの「観測」によってだけではなく信じることによって実感を獲得・維持することも辞さないような体験主義者です。ゲームっぽいプレイを楽しむ手段としては、信じること、が観測して考えてみること、よりもしばしば優先します。

「実証主義的体験主義者」は、観測によって自分の実感を支えるような材料を得ようとします。但し、「このプレイはゲームになっているという証明」をするべく徹底的な究明に乗り出すわけではなく、あくまで「ゲームっぽい」かどうかを自分のプレイ体験を批判的に吟味して決める、といった程度に留まります。どういう場合にゲームっぽいと感じるかは、実証主義者の中でも様々だろうと思います。

「懐疑的体験主義者」は、プレイがゲームではないはずだ、という思い込み、あるいはゲームではないのではないかという非常に強い疑いを抱いています。そこで、決定的な証拠を手に入れるまではプレイにゲームっぽさを感じられません。これはプレイ中の観測によってはほぼ不可能で、事前の情報、事後検証、繰り返しプレイ、などを通じて実感を育てていくことになると思います。

つまり、以上の3つの立場の内、ほぼ実証主義者だけが、「観測」を問題にするのだと言えます。但し、一部の懐疑主義者の中には、繰り返しプレイを通じて手によって勝率が変動することを「観測」する者もいるので、彼らもmyrtさんの立場に当てはまります。

これをもう少し普通の言葉に言い換えると、
あるプレイが「ゲーム」であるかどうかが、プレイ中にプレイヤーがそのプレイをゲームっぽいと感じるかどうかによって決まる、と考える立場(体験主義者)の内、「とにかくゲームっぽいと信じ込む」という人や「決定的な証拠がないとゲームっぽさを実感できない」という人は、観測によってゲームっぽさを感じるということにはそれほど興味がないだろう、と思います。

これをもう一度言い換えてみると、myrtさんの提案された議論は、僕が提案した体験主義への反論になっていると思います。「体験主義者は自分のプレイしているのがゲームだと信じればそれでゲームをプレイできることになるから、信じようとする」という粗っぽい議論を僕は立てたわけですが、それに対して、「盲信しない体験主義者」を考え、彼らがどういう風にゲームっぽさを感じたり感じなかったりするかを考察してみたのだ、と。

その2つの対立する見解を改めてひとつの体系のようなものとして組み立て直してみたのが今回の投稿、ということになります。

4)TRPGの議論への含意

以上の議論をTRPGに適用すると、まず、「実証主義的体験主義者」は比較的多そうな気がします。また、myrtさんは以前から、「ゲームっぽさ」を重視していて、ゲームの同一性(プレイを通じた制御層の同一性)が確保されていなくてもゲームっぽさがあれば、それで「ゲーム性重視のプレイ」は成立つし、ゲーム性重視派はゲームっぽさを追求しているのではないか、という立場をとっていたことと通じるものを感じます。それはひいてはゲーム理論を手がかりにゲームを考えて「何かの困難に挑戦していれば、成功の可能性に関わりなくゲームだと言ってよい」とする立場になっているのかな、と思います。

僕はそうではなくてもう少し確かな根拠が必要なのではないか、ゲームデザイナーやGMにはもう少ししっかりした「仕組み」を用意してもらうことを前提にしてもいいのではないか、という気もして「実態主義」についても考えている、というところでしょうか。

また、懐疑主義者が繰り返しプレイを採用する可能性は、TRPGの「ゲーム性重視のプレイ」場合は低い、という議論を一応提出しておきます。理由は、勝率を測定するために同じシナリオを何度もプレイする(戦略1で10回、戦略2で10回、などと)ことがほぼありえないからです。これは一回のプレイに時間がかかる、ということの他に、「消費型ゲームである」という点も関わっていると思います。

消費型ゲーム、というのは、「隠された部分の設定を正しく推測することが主な戦略的思考になっていて、かつ、一度その設定を知ってしまうと2回目以降のプレイの際には工夫を必要とするような挑戦が非常に乏しい遊びになってしまうようなゲーム」、と言い換えられると思います。このようなゲームは繰り返しプレイして勝利条件の達成や達成度の上昇を目指すことには不向きです。

但し、印象深い物語をつくるためのゲームとしてプレイをする場合には、あらすじがある程度固定されていても、繰り返し楽しむことができるかも知れないなど、例外を考えることはできます。

最後に、myrtさんの投稿からの引用部分では取り上げられていなかった「勝敗のあるゲームで達成度を問題にする場合」を考えます。僕は勝敗のあるゲームで達成度を問題にしたプレイを行うと、それは別のゲーム、という立場がとれるような気がするのですが、仮にその立場をとらないとすると、「実証主義者」の一部は、「戦闘ルールに従ってプレイしているし、オープンダイスでプレイしているから、戦い方によってはPCが死ぬ可能性もあるだろう」「つまり、達成度は自分の工夫によって左右されると考えていいだろう」とプレイ中にかなり簡単に「確証」を得ることができそうです。もちろん、プレイ後にGMに話を聞いてみたら、実はPCの行方を見守っていた「守護神」がいて、いつでもPC達をピンチから救う用意があったとか、予想とちがった実態が明らかになる可能性もあるわけですが、実証主義的体験主義者はそれを気にしません。また、実際にはどう工夫しても非常に運がよくない限りはゲームの最終目的は達成できないようになっていたかも知れないのですが、プレイヤーは達成度について観測した結果「達成度は自分の工夫によって変化するようだ」と感じたので、ゲームっぽさを感じ、「ゲーム性重視のプレイ」もできたことになります。

以上、いろいろ論点を詰め込んだ長文投稿になってしまいましたが、わかりにくい点などありましたら質問をお願いします。

参考:

今回の投稿は、以前、「体験主義」という立場を摸索している最中に考えた【制御層とゲーム分析】ゲームっぽさと信用、思い込みという投稿を展開したものになっています。(TRPG LABO LOG 094、2002年03月18日:19時14分43秒)

また、「体験主義」については、以下の投稿にまとめて説明されています。その前後には「実態主義」の定式化の試みもあります。

【制御層とゲーム分析】ゲーム性の成立条件としてのプレイヤーの実感トモス、TRPG LABO LOG 095、2002年03月29日:15時20分00秒
2002年04月09日:15時38分27秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】観測とゲーム性 / myrt
(Re:2002年04月08日:09時50分18秒【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:実感と観測 / トモスさん)
>>あるいは、そうした「どうすべきか」にまつわる議論ではなくて、「ど うなっているか」という事実判断の問題として、あるプレイがゲームっぽ いかどうかの感覚は、多くの場合、プレイを通して観察された事柄によっ て決まるのだ、ということでしょうか。<<

 体験主義では、体験しているプレイが何らかのゲームのプレイである ことを信じる必要があります。ところが、その信じているゲームと観測結 果(体験する事象)が矛盾した場合、その間の整合性を取ることが必要にな ります。

 整合性を取るには「どんなゲームであると信じるかを変更する」「矛盾 しない説明を見つけ出す(見つけ出せることにして保留する)」「現実のほ うを変更する(相手のルール違反を咎める など)」「観測結果を、観測が不適切として無視する」などがあります。いず れにせよ、どう観測するとどんな観測結果が得られるかは、体験主義にとっ て極めて重要な要素であると思います。

 そしてある観測と体験から来る直観(勝率の低いゲームに対するも の)が一致したので、「この体験からくる感想は理論的にも説明できる」と いう意図で前投稿を行ないました。

>>つまり、myrtさんと僕の間の乱数要素をめぐる議論は、 トモス:「乱数 要素が結果を左右し、プレイヤーの手は結果を余り左右しない仕組みになっ ていたら、それはゲームの仕組みとは呼べず、そのプレイの実態にはゲーム 性は認められない。(ゲームっぽさを感じるかどうかについては言及して いない)」 <<

 確かこの話は、(TRPGLABO LOG096 2002年03月30日:15時51分23秒【制御層と ゲーム分析】Re:ゲーム性とランダマイザ / トモスさん) において「勝率をプレイヤーが全く左右できないとすれば、それはゲーム(myrt注:ゲーム性を持つものの意味)ではない。勝率が低いゲーム 悪いゲームと言えるのではないか」と提唱されたことが発端である と思います。

 ...良く読むと、すでに「結果の違いがよくわからない(観測が難しい)か ら」という理由が挙げられています。それを受けて、私(myrt)が勝率が 低くても観測できる例としてディープブルーに挑戦ゲームの例を挙げた わけです。

 ここから以下の結論を得ることが自然であると思います。

・勝率をプレイヤーが全く左右できないとすればゲーム性はない。
・勝率をプレイヤーが全く左右できる度合を観測できなければ、 プレイヤーはゲーム性を観測できない。左右できる度合と試行回数が 少なければ、観測は難しくなる傾向がある。
・勝率が低くて左右できる度合も小さくなり、多回数の 試行が難しいゲームは、ゲーム性の観測が難しくなる傾向があり、(他に利点 がなければ)「より悪いゲーム」と言えるかもしれない。

 以上のことから、「どの程度左右できないと駄目か」の問題は観測問 題に帰結できると考察します。実態だけを問題にするならば、左右の度合 がある限り、それがどんなに小さくても「ゲーム性は存在する」と言えるのでは ないでしょうか??
2002年04月08日:19時41分09秒
TRPG総合研究室 LOG 096 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 096として2002年03月30日から2002年04月08日までのログを切り出しました。

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