TRPG総合研究室 LOG 096

TRPG総合研究室の2002年03月30日から2002年04月08日までのログです。


2002年04月08日:10時25分21秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】勝負(挑戦)とゲーム / トモス
(myrtさんの【乱数要素の比較ゲーム分析】実感と観測,2002年04月07日:17時41分52秒へのお返事です。)

7並べの例は非常に明快で、考察を進める助けになりました。全文引用したいぐらいなのですが、2つ前の投稿なのでやめておきます。

僕は、『「勝利が保証されている」「乱数ではなく手が結果を左右することが保証さている」などといった特性がないならそれはまっとうにデザインされたゲームとは呼べない』と提案したのに対して、myrtさんは、実際には市販のゲーム製品や伝承されている(販売されていない)トランプのゲームなどは僕の言うような特性を持っていない、という指摘をしています。

7並べはその例として出されたわけですが、この例についても、一般論としても、確かに僕の主張は間違っていると考えるようになりました。これについてはmyrtさんの指摘に感謝しつつ、前言を撤回したいと思います。

そして、それに代えて、

>>トランプゲームやダイスを用いる市販ゲームは、「自分が最善手を打ち、かつ相手がつたない手を打っていたとしても、相手が極めて幸運であれば敗北する」ものがほとんどであると思います。 <<

というmyrtさんの指摘に賛成です。ただ、それを踏まえたmyrtさんの意見

>> 「訪れる好機」をランダムにすることにより「この腕の差では勝利/敗北不能である」場合がありえることは、局面を多様化し、異なる腕を持つプレイヤー同士の対決にゲームっぽい面白さを提供することと表裏一体ではないかと考察します。<<

については少しだけ違った考え方を提案してみます。7ならべや、他の多くのゲーム作品(伝承されたものであれ、作者や発売者がいるものであれ)の多くは、ゲーム性ではなく、勝負性を重視した遊びになっていると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。

つまり、「目的を達成するべく工夫を重ねることを楽しむ遊び」であるゲームと、「目的を達成できるかどうか運を試す遊び」である運試しと2種類の遊びを混ぜ合わせることによって、勝負として楽しみやすい作品になっている、と考えられます。

楽しみやすい、というのは、多少の実力差があったところで勝敗が明らかにならない、ということです。myrtさんも指摘されている通り、「まだ勝てる可能性がある」と乱数要素に期待をかけてダイスを振る行為などは、プレイの終盤にまで楽しめるような可能性を与えます。工夫の余地がない部分でゲームとは区別して考えたいと思っていたのですが、確かに勝負を面白くする要素の一種ではあります。

そして、これが、「ゲーム」と「運試し」の要素、あるいは「戦略」と「乱数」とが頻繁に共存する理由にもなっているのではないかと思いました。つまり、TRPGでゲーマーが「作戦会議」よりも「ダイス」と関連づけて語られること(僕がそう思っているだけかも知れませんが)は、ゲーマーが実は勝負好きなのであって、ゲームも運試しも勝負を楽しくする要素として好んでいるのだ、と。

もちろん、「勝負」という言葉はあるプレイヤーと別のプレイヤーが対戦する、という構図を連想させるものでTRPGには必ずしもあてはまらないものですが、これを「挑戦」と言い換えてみればいいように思います。相手を打ち負かすことであれ、他の目的を達成することであれ、挑戦することが好きで、目的達成を阻む要素としての「工夫を強いるようなゲームの仕組み」も「制御し切れない乱数要素」も好きだ、と。
2002年04月08日:09時50分18秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】Re:実感と観測 / トモス
観測の件について。myrtさんの直前の投稿を受けての考察です。前回の僕の投稿に引き続き、myrtさんの立場と僕の立場の違いを大枠としてどう把握できるかをめぐる考察です。簡単に言うと、「myrtさんはゲームっぽさについて、僕はプレイの実態のゲーム性について、議論をしているので意見が対立していないかも知れない」という話です。

まず、僕の頭の中では、「ゲーム性重視のプレイで重視されるところのゲーム性」を考えていく上で手がかりになるのは3つの要素だ、ということになっていました。ゲームの制御層の安定性などから保証されるところのゲームの同一性がひとつ、プレイヤーの実感する「実感としてのゲームっぽさ」、それにプレイヤーのプレイの実態を分析してそこに、結果を手が左右するようにな仕組み・構造があることつまり「実態としてのゲーム性」です。

これは言わば、3つの互いに矛盾する公理系のようなものとして考えついたアイディアを統合して、それぞれが「プレイされているゲームの同一性」「プレイヤーの実感するゲームっぽさ」「プレイの実態のゲーム性」という3つの別々の事柄についての理論だと考えて整理した統合的な見方です。

この内、ゲームの同一性を確保することについては、それはゲーム性重視のプレイをする上では、便利な手段ではあるものの、同一性さえ保たれていればゲーム性重視のプレイができるという保証もないように思われ、かつ、十分ではないとしても、同一性が保たれることはゲーム性重視のプレイのために満たさなければならない条件の一つだ、ということでもないように思われる、という見解に行き着きました。これは一応、制御層にまつわる考察の結論だと言えると思います。(反駁可能かどうかを考え出すとまたいろいろ出てくるかも知れませんが。)

そこで、実感と実態についての比較的考え抜かれていないあれこれが関心の中心にあります。

myrtさんの提案している考え方は、「プレイヤーの実感を重んじる体験主義」とも、「プレイの実態をプレイ後に分析して得られる知見を重視する実態主義」とも違う立場として、「プレイを通じてプレイヤーが得られる知見に基づいた実感を重視する」ものだと言えるようです。これは「このプレイがゲームだと信じるかどうかが、ゲームっぽい楽しみを成立させるのに一番重要な問題」と考えるような体験(実感)主義とは両立しないものだと思います。

信じるかどうかではなくて、観測して考えてみるとある程度答えが出るので、それを重視してあるプレイがゲームっぽいかどうかを決めるべきだと考えるわけですから。あるいは、そうした「どうすべきか」にまつわる議論ではなくて、「どうなっているか」という事実判断の問題として、あるプレイがゲームっぽいかどうかの感覚は、多くの場合、プレイを通して観察された事柄によって決まるのだ、ということでしょうか。そういう面があるとしたら、myrtさんの立場の方が、体験主義よりも実情に沿ったものになっているとは思います。

ただ、これは「ゲームっぽさ」にまつわるものであって、僕が乱数要素について考えているのはそれとは別の「プレイの実態のゲーム性」だと言えるでしょうか?

つまり、myrtさんと僕の間の乱数要素をめぐる議論は、 トモス:「乱数要素が結果を左右し、プレイヤーの手は結果を余り左右しない仕組みになっていたら、それはゲームの仕組みとは呼べず、そのプレイの実態にはゲーム性は認められない。(ゲームっぽさを感じるかどうかについては言及していない)」

myrtさん:「乱数要素が結果を左右し、プレイヤーの手が結果を余り左右しない仕組みになっていても、繰り返し遊んで勝率を測ったり、勝利条件へどれだけ近づいたか(達成度)を参考にすることで、プレイヤーはゲームっぽい楽しみを得ることができる。(プレイの実態にゲームの仕組みを認めることができるかどうかについては言及していない)」

というように、対立しているというよりはすれ違っているのでしょうか。一般的に、ゲームっぽさと実態としてのゲーム性は、ある程度の相関はあるものの、どちらかに解消できない2つの概念だと言えると思います。

プレイの実態がゲームの仕組みを備えているからと言って(またその仕組みがプレイヤーにとって難し過ぎず、簡単過ぎないからと言って)プレイヤーがそのプレイをゲームっぽいと感じる保証はないし、逆にプレイヤーがゲームっぽいと感じるからと言って、そのプレイが実態としてゲームの仕組みを備えているとも限らない、と言えると思います。

だとすると、「乱数要素が含まれている場合、実感としてはゲームっぽさを感じることはあり得るが、実態としてはゲーム性を欠いている」と2つの立場を組み合わせることも出来るわけです。

但し、繰り返しゲームの理論上の扱いなど、他の点ではまだmyrtさんと僕の間に意見の相違はあるわけですが。



以上のような、僕とmyrtさんの議論の並存の可能性は、確かに感じる部分があるのですが、もうひとつ、逆の面も感じます。

つまるところ、「ゲーム性重視のプレイ」は何を問題にするのでしょうか? myrtさんは、それはプレイヤーがゲームっぽさを感じられることであり、(やや安直で乱暴な立場である)体験主義とは違って、思い込みではなく観測に基づいた判断がその「ゲームっぽい」という実感を支えるのだ、という考えを持っているのかな、とも思います。

これに対して僕が「実態主義」に興味を持っているのは、「ゲーム性重視のプレイ」について、「きちんとゲームになっている作品をきちんとゲームとして成立するような実装でプレイするのがゲーム性重視なんだ」と考えている節があるからだ、と言えると思います。

言い方を変えると、myrtさんは「ゲームっぽさを感じていれば、実態としてゲームの仕組みが不在でもそのプレイはゲームのプレイだ」と考え、僕は「ゲームっぽさを感じていなくても、実態としてゲームの仕組みがあって難易度が適当であれば、そのプレイはゲームのプレイだ」と考えていて対立している、と言えそうです。



あるいは、対立ではなくて、ここにも統合のきっかけを見るべきなのかも知れません。

ゲーム性重視のプレイは、プレイ中にゲームっぽさが感じられるようなプレイ体験(観測材料の提供)と、プレイ後に検証した際に実態としてゲームの仕組みを備えていることの両方を満たすべきだ、と。

参照:

3つの立場については、以下の投稿で書きました。
トモス、【比較ゲーム分析】ゲーム性をめぐる3つの立場、2002年04月01日:05時47分17秒、TRPGLABO LOG 096(投稿時点では切り出しされていません)
2002年04月07日:17時41分52秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】実感と観測 / myrt

(Re:2002年04月07日:00時18分22秒【乱数要素の比較ゲーム分析】「ゲーム理論のゲーム」と「デザインされたゲーム」 / トモスさん)

 私もプレイヤーの実感が「ゲームっぽい楽しみ」の有無を判断する基準になると考え、 どのようにゲームを実感するかは、ゲームの実態に対する一つの観測であると考えました。 そこでどのようなプレイを行えば、ゲームの実態をどのように観測できるかを考察してみました。 このように考察したのは、私も「勝率の著しく低いゲーム」を面白くないと感じる場合があるが、 必ずしも面白くないとは限らないので、その条件が一体何なのかを探るためです。

 プレイヤーの戦略にかかわらず勝率が固定であるようなゲーム(??)には、 勝率の高低に関係なくゲームっぽい面白さはないように感じられます。ならば、勝 率が固定であるように感じられる(観測される)ゲームもゲームっぽく感じないのではな いかと考えました。ここで勝率の著しく低い(または工夫による勝率の変化が小さい)実態 を持つゲームを数度だけプレイするような場合には、勝率が固定でない確信を得ることが 難しいので、ゲームっぽく感じない傾向があるのではないかと思います。

>>乏しい手がかりを頼りに知恵を絞って考え出した推測が全然間違っていて、その推測に 基づいたプログラムは惨敗、逆にろくに考えもせずに気まぐれに基づいて組んだプログラ ムがそれよりも高い勝率を上げる、というようなことになる可能性を感じるからです。 <<

 それに何か問題があるでしょうか??

 「猿にランダムにタイプライターを打たせてシェイクスピアの作品を書かせる(たまた ま一致することを期待する)」という 例えがあります。きまぐれに組んだプログラムが優れていない保証はできませんし、 資料をそろえて組んだプログラムに致命的なバグがないことも保証できません。

 ここで比べるべきは「十分な人数にきまぐれに打たせたプロ グラムの勝率平均」と「十分な人数に資料をそろえて打たせたプログラムの勝率平均」で はないでしょうか。もし後者の勝率平均のほうが低ければ(同じならともかく)、乱数のばらつきより もそろえた資料を疑うべきです。

>>これに対して、僕の発想は、市販のゲーム製品や伝承された遊び(トランプゲーム など)を念頭において、「勝利が保証されている」「乱数ではなく手が結果を左右する ことが保証さている」などといった特性がないならそれはまっとうにデザインされ たゲームとは呼べない、と考えることだと言ったらわかりやすいでしょうか。 <<

 トランプゲームやダイスを用いる市販ゲームは、「自分が最善手を打ち、かつ相手が つたない手を打っていたとしても、相手が極めて幸運であれば敗北する」もの がほとんどであると思います。

 例えばトランプの「7並べ」で、7から最も離れた札しか配布されなかった場合、 プレイ人数と許されたパスの回数によっては勝利不能であることが ありえます。それより少し手札がマシでも、相手がまともな手を打てば「理論的には ともかく、勝てるか!!」という場合がありえるでしょう。さらに手札がマシならば、上級者 がうまく立ち回ればそろそろ勝利が可能になるかもしれません。

 逆に、7周辺の手札しか配布されなかった場合を考えてみます。まず、 ルールを理解できずにパスを連呼しない限り勝利できる手札の組み合わ せがありえます。それより少し手札が悪くても、ルールを理解さえしていればまず 勝てる場合がありえます。しかしさらに手札が悪くなると、そろそろ初心者に勝利を保証することは難しくなってきます。

 「訪れる好機」をランダムにすることにより「この腕の差では勝利/敗北不能である」 場合がありえることは、局面を多様化し、異なる腕を持つプレイヤー同士の対決にゲー ムっぽい面白さを提供することと表裏一体ではないかと考察します。7並べでは最初に ランダム性が集中していますが、終盤までダイスを振るゲームにおいては常に「この後、 怒濤の幸運/不運が訪れて情勢がひっくり返る」可能性があり、上級者も初心者 も「どの程度の幸運/不運にまで対応できるか」を最大化しようと工夫することを 動機づけるのではないかと思います。
2002年04月07日:00時18分22秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】「ゲーム理論のゲーム」と「デザインされたゲーム」 / トモス
myrtさんの説と、僕が提案した説の関係をどう整理したらいいか、いろいろ断片的なアイディアがあるのですが一度に考えきれないのでまずはそれを並べてみます。

まず、僕はプレイヤーの実感が「ゲームっぽい楽しみ」の有無を判断する基準になると考え、プレイの実態(にゲームの仕組みが備わっているか、そしてまた、その仕組みがプレイヤーにとって適度な難易度になっているか)が、「ゲーム性」の有無を判断する基準になると考えるという枠組みが、どうもmyrtさんの議論にあてはめにくい気がしています。

これと関係しますが、myrtさんは「観測」の問題についてとりあげています。言い換えれば、ゲームを何度もプレイすることを通じてそのゲームの勝率を推定する、という作業について考えています。それに対して、僕はあくまでもゲームの実態がどうなっているかを考えています。ゲームの実態というのは、ディープブルーを相手に様々なポケコンのプログラムを戦わせるゲーム(勝率の高いプログラムを開発したプレイヤーが勝ち)では、ディープブルーのアルゴリズムと、ポケコンのプログラムのアルゴリズムと、乱数要素の3つの要素の組み合わせから、「乱数要素がこういうパターンで出た場合には勝ち」「こうだったら負け」などと考えていき、それらを総合して、勝率が何%かを判断するものです。myrtさんは、むしろディープブルーをブラックボックスと考えているようなところがありますが、僕はそうしていないわけです。(何とも非現実的な前提ですが。)

また、myrtさんの説を採用すると、もしかしたらディープブルーについて何も知らされていないまま(ブラックボックスで)プレイしてもそれはゲーム、ということになるのではないかという気がします。(余り確信はないのですが。)僕の場合は、まあディープブルーがゲームの仕組みとして複雑すぎて工夫の余地がなさそうだというところを無視しておくとすると、ディープブルーのプログラムのソースコードなりフローチャートなどのプログラミングの際の設計資料であれ、あるいは人間代表のチャンピオンとの対戦の記録(将棋の棋譜のような)であれを公開した上で競わせる、という方がゲームとしてずっとまともだろうと思います。そうでないと、推測しなければならない要素が余りにも多く、手がかりが余りに少なく、かつその推測の仕方によって余りにも勝率が左右されやすい、のでゲーム性に乏しいという気がします。乏しい手がかりを頼りに知恵を絞って考え出した推測が全然間違っていて、その推測に基づいたプログラムは惨敗、逆にろくに考えもせずに気まぐれに基づいて組んだプログラムがそれよりも高い勝率を上げる、というようなことになる可能性を感じるからです。

myrtさんは、プレイヤーの実感とも、プレイの実態とも別の、繰り返しプレイすること(観測すること)に基づいて、「ある遊びがゲームになっているかどうか」を判断する可能性を摸索しているということを感じます。乱数を巡る議論ではこれまでにもましてゲーム理論のことを(特にproblemを)念頭においているようなので、そうなるのはわかる気がします。ゲームとはプレイヤーが合理的な思考によって挑戦することのできるあらゆる課題だ、またはその課題に挑戦する行為だ、といった発想だと言えるでしょうか? これに対して、僕の発想は、市販のゲーム製品や伝承された遊び(トランプゲームなど)を念頭において、「勝利が保証されている」「乱数ではなく手が結果を左右することが保証されている」などといった特性がないならそれはまっとうにデザインされたゲームとは呼べない、と考えることだと言ったらわかりやすいでしょうか。

それから、「繰り返しゲーム」をめぐる違いがひとつ。繰り返しを通じて自分が挑戦すべき課題の性質について少しづつ理解を深めていくことはゲームをプレイすることの一貫である、というような印象を持ちます。それに対して僕は、市販のゲームの遊び方がしばしばそうであるように、ゲームは目的を達成できるかどうかにこだわって楽しむ遊びなので、失敗や敗北はその回のプレイがよくない結果に終わったことを意味します。人によってはそこから何かを学んで次のプレイに活かすだろうとは思います。ただ、それができたとしても失敗や敗北は取り消されるわけではない、という感じもします。この辺りは随分個人差がありそうなので余り自信がないですが、例えばこんなことは言えないでしょうか。繰り返しゲームをmyrtさんの立場からプレイする場合には、10回後の勝率を上げるために、一度実験的にわざと拙い手を採用し、それに対するゲームの仕組み(ディープブルー)の反応を観察し、それを将来のプレイに活かすことはまっとうな取り組みかたの一つです。僕はこれはゲームを遊んでいるのではなくて研究しているだけだという感じもします。

以上、「ゲーム理論を念頭に置いたゲーム」と「市販のゲームなどを念頭に置いたをゲーム」との対照で考えると、myrtさんと僕の発想や注目する点の違いはある程度整理できそうです。ですが、例えばCRPGなどproblemに非常に近いゲーム作品が存在していること、またゲーム理論を念頭においたゲーム全般というよりもproblemについてmyrtさんが書いているように思えるところ、などもあり、こうした整理の限界も感じます。
2002年04月05日:14時46分12秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】乱数要素と繰り返しゲーム / myrt
(re:2002年04月03日:15時24分31秒【乱数要 素の比較ゲーム分析】運試しとゲームを区別する立場 / トモスさん)
>> つまり「このゲームじゃまずミッション達成はできないし、いつもパーティー全滅に追い込まれるけど、今回はそれでもなかなか頑張った方 だな」という類の感想を持てる、というところでゲームとしての面白味がある のだと考えていいでしょうか。 <<

 いや、この場合はまさに「ミッション達成」を目的とするゲームでは ないでしょうか。勝ちへの近さが価値を持つのは、 勝ちへより近い結果を得た戦略を模倣すれば勝つ可能性がより高まることが 期待できるからであり、基本的には踏台としての価値しかありません。

 TRPGで「頻繁に全滅する」場合には、その日のうちにそのシナリオを クリアするパーティーが出る程度の難易度と頻度が理想でしょう(次回に まわすと冷めてしまうから)。その結果として、「俺達の2番目のパー ティーはここまで到達したんだ」と単独のプレイ結果を自慢することも ないと思われます。

 ダイス目を無視すれば、クリアしたパーティーの戦略が最も優れていた ことは明らかです。3番目に全滅したパーティーの戦略がいかに堅実で、 汎用性に富んでいたとしても、そのシナリオ(ゲーム)に対しては優れていなかっ たことになります。

 トムクランシーの小説「レッドストームライジング」にこんな説明がありま した。「最初は、生還率99%の作戦なら悪くないと考える。しかし、代わりゆく 仲間の顔ぶれから、69回出撃すれば50%を割ることにやがて気づく」。

 TRPGはパーティーが全滅したらそれまでですから、「順当にいけば クリアできる程度の難易度」にしようとするとそれぞれのイベントは「す さまじいポカと不運が重ならなければ死なない程度の難易度」に調整 する必要があります。頻繁に全滅するTRPGは、この不自然さに対する 一つの回答と言えます。

>>その意見は、「ゲームは目的達成に向けた工夫を楽しむ遊び」であっ て、運試しが入ると工夫の余地が減り、結果が乱数要素によって左右さ れる余地が増えるからだ、という風に表現できそうです。 <<

 ゲームに強くなるには、好機を生かし、危機を乗り切れる能力が重要である と思います。相手のミスや良いダイス目が出たらそれに乗じ、相手がキツい 手を打ってきたり、ファンブル気味の目を振ってしまったら耐え切る。 それが醍醐味であると思います。

 相手のほうが上手でかつダイスの出目が良くて追い詰められてしま ったとき、「1/36で勝てる 戦略」を展開し、最後の一投にすべてを賭ける。実にゲームっぽい展開 だと思います。逆に言えば「相手は上手だったにもかかわらず、勝率 を35/36以上には増やせなかった」ことを意味しています。目標を達成 する手段が偶然によって左右されるならば、その偶然さえも 総括したものに対して工夫するものではないでしょうか。

 そして一番気になっているのは、「勝てなかったら面白くないの か??」という点です。「負けなかったら面白くない」という視点が 出てこないので。そして実力差(工夫できる程度)が強く出るゲームであれ ばあるほど、結果は確定的になります(わずかな腕の差でも勝敗がほぼ決まる)。 ランダマイザは、ハンデとは違った形でその差を埋めるのではないでしょ うか。
2002年04月05日:14時42分13秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】1度きりのプレイこそ運まかせ / myrt
(Re:2002年04月03日:15時24分31秒【乱数要素の比較ゲーム分析】運試 しとゲームを区別する立場 / トモスさん)

 まず、利得の期待値の絶対的な低さと「ゲームの良さ」は関係ないと思います。 何故ならこれは相対的なものであり、「勝ったら利得を1億点」「負けたら10の マイナス10乗点」としても「勝ったら利得を1、負けたら0とする」とした場合 との差がないと感じられるからです。

 次に、結果が勝ちと負けしかない以下のゲームを考えます。 工夫がどれだけ有効であったかを知る術は勝ち負けの情報以外にないとします。 議論のために、そのゲームに有効な工夫をしたかどうかは わかるとします(実際にはそれができれば苦労はないんだが)。

1.工夫すれば勝率が0.51、しなければ0.50のゲーム
2.工夫すれば勝率が0.1、しなければ0のゲーム

 まず、1度しかプレイしなかった場合は、工夫した場合としなかった場合の 差を計測する自体が原理的に不可能です。またそのプレイで勝利(敗北)した としても、それは「それだけの工夫をしたときの勝率がx以下である確率がx である」という結論しか得られません。

 次に工夫した場合と工夫しなかった場合について、それぞれy回のプレイを したとします。しかし最善の場合でも、それぞれの勝率は1/yの誤差を持ちます。 このときゲーム2.よりもゲーム1.のほうが、「単なる運まかせだったかどうか」を知 ることは難しいでしょう。

 そしてそれがどれだけ難しいかと言うと、誤差1/yに納まるか否かだけである ように見えます。以上のことから、ここでは工夫の有無による勝率の差だけが 問題であり、値そのものの高低は関係がないように感じられます。

>>乱数要素は、具体的には、「ディープブルーのこともよく知らずに組んだ プログラムがたまたまディープブルーの弱点を突く形になっていただけで、 優れた戦略の結果ではない」ということを考えています。 <<

 挙げ足取りに近いのですが、この点の区別が重要だと思うので指摘させていただ きます。

 「ディープブルーの弱点を突くプログラム」は優れており、その プログラムを選ぶことは優れた戦略です。プレイヤーが偶然優れた戦略を 選んで勝利することと、平均的な戦略が幸運に恵まれて勝利することは区別 すべきだと思います(再現性の問題)。

 また、「宝くじは買わねば当たらない」という諺があります。 ディープブルーについての知識が不十分であるにもかかわらず「偶然優れた 戦略になる」ことを期待して、その期待を最大にするようにプログラムを 組むことは、最初から諦めるよりも真摯な態度であると感じます。

 もしディープブルーについての知識が十分であるプログラマが真剣に 組んだプログラムが、知識が不十分だが万一の可能性にかけて組んだ プログラムに負けたとしたら、それは知識が十分であるプログラマの 敗北であるとみなすのはゲーム的に何ら問題ないと思います。もし 彼らの間に勝率の差がなければ、それは「ディープブルーについての 知識が十分」という仮定が間違っていることになるでしょう(不必要な 知識しかなかったことになる)。

>>ちなみに、この手のゲームでは、サブゲームを950回プレイした時点 で残り50回全て勝たなければ達成不可能、などという事態が発生しやす いので、そうなると最後の方は運試し以外に楽しみがない、ということになりそ うです。 <<

 もしサブゲーム間にプログラムの差し替えが許されていないならば、 1回目にプログラムを投入した時点で後は祈るしかなくなります。 許されているならば、勝利の可能性がある限り、その時点からの勝利の確率を 増やすプログラムに差し替えることを常に考えるべきです。例え ば「サブゲームでの50連勝を狙うために、疑似乱数の起点を固定だ!!」とか。

 勝率の高いゲームでも、不運による没落のありえるゲームならばやはり 祈るしかない面を抱えています。終了寸前まで、稀なダイスの出目が 重なれば逆転が可能であるように調整されたゲームは多々あります。

 以上の考察から、工夫の有無によって期待利得および勝率の有意差が どれだけあるか、それがどれだけ観測できるかが問題であるという説を 提唱します。

 この説によると、勝率を0から0.1に上げる工夫と、0.5から0.6に上げる 工夫は同じだけの価値があることになります。ところが個人的には前者のほうが 価値がある工夫であるように感じられ、その点に不整合を感じます。

 またこの説によると、いかなる時の勝率を上げることを怠たらないことに よりどんな微々たる勝率の上昇のための努力もゲームっぽい楽しみのために 有用であるように感じられます。しかし実際にTRPGをプレイしていて、 技能チェックの成功率を0.01上昇させるために1時間も議論されて はたまりません。1回のプレイの容易さと、工夫による勝率(または分散に対する 期待利得)の上下には関わりがあるように感じられます。
2002年04月03日:15時24分31秒
【乱数要素の比較ゲーム分析】運試しとゲームを区別する立場 / トモス
期待値の低いゲームは悪いゲームといえるかどうか、について、myrtさんの直前の投稿(2002年04月02日:18時15分08秒,【制御層とゲーム分析】勝率でなく期待値を)を受けて更に検討してみます。制御層の概念とは別の話になって来た感じがするので、識別子も変えてみました。

乱数要素が期待値を非常に低くする場合には、それは悪いゲームだ、それはゲームではなく運試しの要素が強くなるからだ、という立場を再び展開してみます。それを考えるにあたって、「繰り返しゲーム」についての考え方を整理することが重要だと感じたのでそれを中心に書いてみます。

1)ディープブルーにポケコンで挑戦するゲームの例

>>「ポケコンでプログラムを組んでディープブルー(世界一チェス専用コンピュータ)に挑戦するゲーム」を考えてみます。それぞれのプログラムに対して10000 回プレイを行ない勝率の差が出せるならば、それが2-3%での争いであったとしても挑戦しがいのあるゲームになるでしょう。 <<

この例はなるほど、と思いました。ひとつ前のmyrtさんの投稿で「技術者はしのぎを削る」という表現をされていた点についての例示になってもいるようです。

ですが、僕ならこの同じゲームについて、こんなことも感じます。「結局このゲームを、1000回ではなく1回の勝負だけでプログラムを競うゲームとしてプレイするなら誰がやっても引き分けになる確率が非常に高く、面白いゲームにならないだろう。」(引き分けというのは挑戦した技術者がみなディープブルーに負けるプログラムしか作れず、結果としてゲームが引き分けに終わる、というものです。)「1000回戦の戦績比較のような別のゲームとしてなら、面白いかも知れない。それは、技術者の間で差がつく確率が高くなっていて、かつ、その差を乱数要素に帰着させられない気がしてくるからだ。もしそうではなく、1000回やってもポケコンのプログラムが一度もディープブルーに勝てない確率が非常に高ければ、これはゲームというよりも運試しになってくる。その場合には100000回分の戦績を比較する、など別のゲームを考える必要がある。」

乱数要素は、具体的には、「ディープブルーのこともよく知らずに組んだプログラムがたまたまディープブルーの弱点を突く形になっていただけで、優れた戦略の結果ではない」ということを考えています。

限られた性能のコンピュータをどう活用するか、プログラムを工夫して組むことを楽しむのがこのゲームだと思うので、そのプログラム開発段階での「まぐれ」は乱数要素にあたると考えてよいだろうと思います。

2)マインスイーパーの乱数要素について


(トモス)>>例えば「絶対に地雷の埋まっていないマス」が決っていて、そこから始めると必ず運試しなしでも解けるような地雷の配置になっているバージョンがあったら、そちらの方がゲームとしてはよいゲームだと言えそうな気がします。 <<
(myrtさん)>>パズル雑誌を買えば、その条件を満たした「ゲーム」がたくさん掲載されています。それはそれで面白いと思いますが、それでもマインスイーパ愛好家がいる点は無視できないと思います。<<

この点は同意します。TRPGでもゲーマーはダイスを振るのが好きだ、ということになってる気がするのですが、それも同じような含みがあるかも知れません。

ゲームの楽しみを工夫による目的達成の楽しみだと考えると、運試しに成功することによる目的達成の楽しみとは別のものであるはずで、ゲーマーはダイスを振るよりも作戦会議を開く方が好き、といった形になっているはずなのに、実際にはそういう話は耳にしません。

そこで、「ゲーム性が好き」と「運試しが好き」という2つの好みが同居する傾向にあるのではないか、ということは僕も考えます。ただ、この両者は異質なものだと感じる部分があるので、2つまとめてゲーム性と括ることにはやや抵抗を感じるわけですが。

つまり、僕の定義するところの「運試しとは区別されるところのゲーム性」が「ゲーム性重視のプレイヤーが重視するゲーム性」とは少し違っている可能性はあるかも知れない、と感じます。

当面の議論の課題は、実際にゲーム性重視のプレイヤーが重視するゲーム性がどのようなものであるかを、ゲーム核、制御層、プレイの実感としてのゲームっぽさ、プレイの実態のゲーム性、などあれこれの比較的単純な概念との関係で検討してみることだと思うので、何が運試しと工夫の遊びとを同居させるのか、は気になるところです。

3)勝率は低いが工夫の余地があるゲームと、勝率は高いが工夫の余地のないゲーム

(トモス)>>そこで改めて乱数要素の影響に限って考えてみると、自分の努力によっても勝率が低いのであれば、悪いゲームだと言えると思います。そのようなゲームでは勝つために工夫をしても、結局勝つか負けるかは運次第です。 <<
(myrtさん)>>全く同意できません。プレイヤーの工夫次第で勝率が5-10%の間で変動するゲームと、工夫とは無関係に勝率が50%であるゲームでは、後者のほうが運次第であると言えると思います。同様に、工夫とは無関係に勝率が99%であるゲームも運次第だと思いますし、それよりは工夫次第で勝率が90-95%の間で変動するゲームのほうが工夫のしがいがあると思います。<<

myrtさんの意見には賛成なのですが、これは「ゲームではない、運試しの遊び」と「ゲームではあるが悪いゲーム」との比較になっている、という風に感じます。工夫が引き起こす勝率の変動幅が少ないなら、それは悪いゲームだ、ということは依然として感じます。

全く勝率が変動しないならばそこには端的工夫の余地がない(でたらめな手を打っても、考え抜いた手を打っても、期待値が同じ)ので、それはゲームではなくて運試しだと感じます。これは勝率が高いか低いかには関係がないです。例えば4面体で1が出たら自分の勝ち、という遊びも、6面体で1が出たら自分の勝ち、という遊びも、運試しには変わりないと思います。これはまあ特に異論もないところだろうと思いますが。

これに対して、勝率が微妙に変動するけれどもあくまで低いゲーム、というのは「どれだけ工夫しても全然工夫しなくても、結局は運試しの要素が強い」と思います。そこで、「工夫によって勝てる余地が少ない遊びだ」と言え、ゲームが「工夫によって目的達成を目指すことを楽しむ遊び」であると考える限りにおいて、「この遊びはゲームの楽しみが少ない、悪いゲームだ」と言えるように思います。

ただ、少し別のゲームに変えて、上のゲームをサブゲームとして、そのサブゲームを1000回プレイした場合の通算勝率が5%を超えたら最終的な勝利条件達成と考える、というような仕組みにした場合には、個々のサブゲームの勝率が低くていいように思います。メインゲームのレベルではこれは必ずしも悪いゲームではありません。プレイヤーの工夫によっても、1000回の通算勝率が4%から6%までの変動域を持っているだけかも知れませんが、それはこのゲームの最終目的である5%突破、という基準に照らせば、「ほぼ確実に達成不可能」から「ほぼ確実に達成可能」までの範囲に渡るもの、つまり100ポイントに近い変動幅を持つゲームになっています。(正確には、サブゲーム勝率4%の戦略で1000回プレイし続けた場合に、実際にぴったり4%の通算戦績になるのか、それとも運良く5.1%になる可能性もあるのか、などによる、つまり分布のばらつき具合によると思うのですが。)

ちなみに、この手のゲームでは、サブゲームを950回プレイした時点で残り50回全て勝たなければ達成不可能、などという事態が発生しやすいので、そうなると最後の方は運試し以外に楽しみがない、ということになりそうです。

4)マルチプレイヤーゲームについて

(トモス)>>5人でプレイしている上のゲームでは「他のプレイヤーの戦略」が自分の勝敗に影響し、それについてはあきらめることもできるのですが、<<
(myrtさん)>>相手が強過ぎて勝ち目がないときにはゲーム性がないとする、という定義ではありませんでしたっけ(他にも共謀されたり)。自分の工夫次第で勝てたかどうか否かだけに問題を絞っているのだと思っているのですが... <<

そのように考えています。ただ、ゲームとして成り立たない、というのは、相手が強すぎて、相手が手加減をするとか何かの偶然が起こるとか以外に勝てる要因が考えられないような実態になっている場合です。つまり、工夫による勝率変動はなく、勝率は0%に近いです。
5人プレイ用ゲームで実力が伯仲している時のゲームというのは、自分が非常にうまくプレイできれば、20%程度の勝率になるのだと思います。手を抜いたら0%近くになります。そこで、ここにはゲームの仕組みがある、とは言えると思います。

ただ、これがマインスイーパーで、乱数要素によって20%以上の勝率が期待できないのであれば少々問題を感じるのですが、マルチプレイヤーゲームであればそれほど問題ではないような気がします。どちらも工夫の余地が20%ポイントなので、同じだと感じてもよさそうなものだと自分でも思うのですが。僕はどちらかをプレイするとしたら明らかにマルチプレイヤーを選ぶと思います。そちらの方がゲームとして面白いと感じるような気がします。また、もしも5人プレイのゲームを、実力が伯仲しているために勝率が最大20%程であるようなメンツで遊ぶことと、自分だけが強いために勝率が最大80%程であるようなメンツで遊ぶことを考えたら、前者にひかれると思います。これはつまり、乱数要素について僕が言っていること(勝率が低いのは悪いゲーム)とはかなり明確に矛盾するので、乱数要素の影響と他のプレイヤーの手の影響とはやっぱり区別した方がいい、と思います。

ひとつ考えられる説明は、「実力が伯仲している」という状態が、例の実態主義の議論*1 でとりあげた付帯条件を最もうまく満たすものになっている、という説明のつけ方です。付帯条件は、プレイの実態にゲーム性があるのは、ゲームの仕組みが簡単過ぎも難し過ぎもしない場合に限られる、という条件でした。つまり、工夫なしで勝てることも、工夫しても勝てないということもない、という場合にゲーム性があると言える、と。実力が伯仲している場合は、ゲームの難易度が最も適当で、相手が強すぎも弱すぎもしないために勝敗が非常に不確定だ、という風に説明したら、確かに何かを言い当てているような感じがします。

ただ、仮にそういう線で説明をつけようとしても、「ではマルチプレイヤーゲームでも勝率50%の場合が一番勝敗が分からないのだからそれが最適だと考えるべきではないか」という反論が浮かんできます。実際こういう感覚も僕はないではないのですが。。もうひとつ、「ではマインスイーパーのようなゲームでも乱数要素の働きによって勝率が50%ならもっとも難易度が適切だということになるのではないか」という反論も思い浮かびます。

マルチプレイヤーゲームで、ゼロサムになっていないような場合(個々のプレイヤーがそれぞれ別の目的を持っていて、かつ、互いの手が互いの結果を左右する形になっている場合)はどうなのか、と考えてみると何か手がかりが得られるかも知れませんが、今はまだよくわかりません。

5)死亡率の高いTRPGについて

(トモス)>>ただ、TRPGでも一部の作品ではやたら死亡率が高く、キャラクターを何度も作り直さなければならないという類の話はちらほら耳にします。そういう作品がゲームとしてどう楽しいかはちょっと説明できないです。<<
(myrtさん)>>繰り返しプレイをすることにより、わずかでも生存率を上げる戦略を工夫することが楽しいのだと考えられます(スラップスティックな楽しみは別にして)。この観点からいけば、十分な死亡サンプルの数なしに「ここで良い戦略をとったから生き残る可能性が上がった」と語ることのほうがおかしいとさえ言えます<<

つまり「このゲームじゃまずミッション達成はできないし、いつもパーティー全滅に追い込まれるけど、今回はそれでもなかなか頑張った方だな」という類の感想を持てる、というところでゲームとしての面白味があるのだと考えていいでしょうか。

これは、「ミッション達成」とは別の目的ですよね? 非常によくあるタイプの目的ですが。

以前、剣道で初心者が熟練者に挑む場合についても考えたことですが、「ベストを尽くして少しでも高い達成度を目指すゲーム」というのは、「勝つか負けるかだけが達成度の尺度になっているゲーム」とは厳密には別のゲームだと思います。

勝率が低いゲームでも、どれだけ勝ちに近づけたかを測定できるなら、また努力次第でその「勝ちへの距離」が変動するなら、それは確かに「少しでも勝ちに近づこうとするゲーム」として遊べそうです。これは繰り返しプレイして通算勝率を測ることとよく似ていますが、少し別の遊びのように思います。例えばシューティングゲームでどうしてもあるステージから先に進めない、というレベルのプレイをしている場合、何度プレイしても勝率は0%なわけですが、次のステージまで生き残ることを目的とするゲームは「勝ちへの近さ」を基準としたゲームとして成立っていると言えそうです。

6)まとめ

あるゲームにおいて、工夫によって勝率が変動するものの勝率が低いままである場合、それは悪いゲームだという立場の展開をしました。

その意見は、「ゲームは目的達成に向けた工夫を楽しむ遊び」であって、運試しが入ると工夫の余地が減り、結果が乱数要素によって左右される余地が増えるからだ、という風に表現できそうです。

このような悪いゲームでも、その本来のゲームにおける勝敗とは別の基準を導入して、別の、よいゲームとして遊ぶことができるようです。ひとつの方法は、その本来のゲームを繰り返しプレイして、通算勝率を基準に別の勝ち負けなり達成度なりを評価するものです。もうひとつの方法は、その本来のゲームの勝利条件達成にどれだけ近づいたかを基準に達成度を評価するものです。こうしたゲームであれば、工夫によって達成度に変化がでる上、勝率も低くない(目的である通算勝率5%に、工夫によって達成できる、少しでも高い達成度に、工夫によって達成できる)可能性があるためです。

また、運試しの要素が工夫の楽しみと同居する傾向にあることはこの立場からはうまく説明できていないので、それはこの立場の弱点ということになりそうです。

乱数要素ではなく対戦相手の手が結果を大きく左右するようなゲームであればどうなのか、というのも今回は「何か違う要素がある気がする」という以上の議論をできずに終わりました。

参照:
*1 「付帯条件」については以下の投稿で提案されました。【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み/ トモス,2002年03月29日:15時08分03秒, TRPGLABO LOG 095
2002年04月02日:18時15分08秒
【制御層とゲーム分析】勝率でなく期待値を / myrt
(Re: 2002年04月01日:05時45分20秒【制御層とゲーム分析】Re:ランダマイザと期待値 / トモスさん)
>>これは確率分布がわからないので「場合分け」で考えるという考え方に ついてはどう思いますか?<<

 単純な場合分けは「この結果になる確率を100%とした場合」という、確 率的な分析の特殊な場合になります。どちらにせよ確率分布がどうなるかの 仮定だと思います。

>> 将棋の場合などは場合分けでやっていることが多いと思います。<<

 将棋はゼロサムゲームなので、相手が取る手はこちらにとって最も 都合の悪い手だと考えて損はありません(そうでなければラッキー)。
#実際にはやぶ蛇や紛れ狙いの問題があるが。

>>3)勝率が低いゲームは悪いゲームか <<

 まず、勝率だけでなく利得を考えるべきだと思います。麻雀で大物狙いで プレイする場合はそれぞれの局での勝率は低くなりますが、勝ったときの見返りは大きくなります。

>>5人でプレイしている上のゲームでは「他のプレイヤーの戦略」が自分の勝 敗に影響し、それについてはあきらめることもできるのですが、<<

 相手が強過ぎて勝ち目がないときにはゲーム性がないとする、という定 義ではありませんでしたっけ(他にも共謀されたり)。自分の工夫次第で勝 てたかどうか否かだけに問題を絞っているのだと思っているのですが...

>>そこで改めて乱数要素の影響に限って考えてみると、自分の努力によ っても勝率が低いのであれば、悪いゲームだと言えると思います。その ようなゲームでは勝つために工夫をしても、結局勝つか負けるかは運次第で す。 <<

 全く同意できません。プレイヤーの工夫次第で勝率が5-10%の間で変動するゲームと、工夫とは無関係に勝率が50%であるゲームでは、後 者のほうが運次第であると言えると思います。同様に、 工夫とは無関係に勝率が99%であるゲームも運次第だと思いますし、 それよりは工夫次第で勝率が90-95%の間で変動するゲームのほうが 工夫のしがいがあると思います。


 「勝率が低いゲームは悪いゲーム」という感覚は、期待利得の推定問題 によるものではないでしょうか。

 「ポケコンでプログラムを組んでディープブルー(世界一チェス専用コンピュータ)に挑戦するゲーム」を考えてみます。それぞれのプログラムに対して10000 回プレイを行ない勝率の差が出せるならば、それが2-3%での争いであったとしても 挑戦しがいのあるゲームになるでしょう。

 ところが1プレイのためのコストが大きいゲームでは、数回のプレイから 期待利得を推定せねばなりません。初心者が最初に採用した戦略の真の勝率が2%であり、 二回目のプレイで採用した戦略の真の勝率が工夫の結果3%に上がっていても、 両方の結果が無惨な敗北であれば真の勝率の推定は困難です。その結果、 期待利得の推定も困難になるでしょう。

 真の期待利得の推定が困難で、かつ1プレイのためのコストが大きくても、 期待利得の増減が推定できれば十分であるかもしれません。例えば「手加減 なしの上級者に将棋で挑むゲーム」を考えたとき、数度プレイして全く 勝てなかったとしても、負けるまでの手数などの要素は期待利得の増減の参 考になります。

>>例えば「絶対に地雷の埋まっていないマス」が決っていて、そこから始める と必ず運試しなしでも解けるような地雷の配置になっているバージョンがあっ たら、そちらの方がゲームとしてはよいゲームだと言えそうな気がします。 <<

 パズル雑誌を買えば、その条件を満たした「ゲーム」がたくさん掲載されて います。それはそれで面白いと思いますが、それでもマインスイーパ愛好家が いる点は無視できないと思います。

>>ただ、TRPGでも一部の作品ではやたら死亡率が高く、キャラクターを何度も 作り直さなければならないという類の話はちらほら耳にします。そういう作品 がゲームとしてどう楽しいかはちょっと説明できないです。<<

 繰り返しプレイをすることにより、わずかでも生存率を上げる戦略を工夫 することが楽しいのだと考えられます(スラップスティックな楽しみは別に して)。この観点からいけば、十分な死亡サンプルの数なしに「ここで良い戦 略をとったから生き残る可能性が上がった」と語ることのほうがおかしい とさえ言えます。

 以上の考察から勝率の低いゲームは繰り返しプレイが容易である傾向が 見えますが、バトルロイヤルゲームも考慮するとやはり「少ないプレイ回 数で期待利得の推定の難しいゲームは、繰り返しプレイが容易なほうが好ま しい」のではないかと思います。

>>つまり、乱数要素自体が悪いのではなく、それがゲームにどう組み込まれて いるかが問題なのだ、と言える面があるでしょうか? <<

 あると思います。これが、工夫すれば98.4%の確率で突破できる障害100個の 組合せからなるゲームであったとすれば、どう頑張っても勝率が20%を 超えないとしても面白いゲームだと評価されうると思います。 例えばローグライクゲーム。

 ランダム性が明確に取り入れられたゲームとして「アメ リカ横断ウルトラクイズ」がありました(古過ぎ??)。どれだけクイズ能 力が優れていても、じゃんけんで負ければ失格です。しかし、「じゃんけんする ぐらいなら最初から予選で減らしておけばいいのに」とは誰も言わないと思います。

 あるゲームに真に強いというには、そのゲームで到達しうるすべての 局面において強い、ということでしょう。マズい局面に到達さ せないことも強さの一基準になります。

 しかしランダム性を導入すると、マズい局面や良い局面がある程度 ランダムに与えられます。コンピューターゲーム「Age of Empire」は 初期配置が重要なゲームであり、これをランダムに与えることが可能です。 ランダム初期配置の「Age of Empire」に強いプレイヤーとは、均等な 配置から勝てるだけなく、悪い配置を覆し、好機を生かせるプレイヤーに 与えられる称号となるでしょう。弱いプレイヤーについても同様です。
2002年04月01日:05時47分17秒
【比較ゲーム分析】ゲーム性をめぐる3つの立場 / トモス
>>こうなると「ゲーム性を持つことと特定のゲームであることはイコールではない」という結論が出るので「ゲーム性の成立」と「ゲームの成立」がきっぱり切り離せると思うのですが、トモスさんはこれらを同一視することにこだわっておられるように感じます。「ゲーム性を持つ」という用語だけで十分なのでその必要はないと思うのですが... <<(myrtさん*1)

指摘の点、その通りだと思いました。

これまでの議論を、「ゲーム性重視のプレイ」が追求したいところの「ゲーム性」は何なのだろうか? という疑問について、幾つかの異なる立場から答えを出したものだと考えることができます。異なる立場から、同一の用語について異なる定義を与えて使うことがあり、少々ややこしい面があるのですが、そのややこしさを解消すべく整理してみます。

立場は大きく分けて3つあると思います。

(a)プレイされているゲームの同一性の確保が、「ゲーム性」にあたる。

(b)プレイの実態が(何らかの)ゲームとして成立することが、「ゲーム性」にあたる

(c)プレイヤーがゲームっぽさを感じることが、「ゲーム性」にあたる

(更に(a)については、「類似の別のゲームではなくある特定のゲームがプレイされている、と判断する際の基準は何か?」を考えて「ゲーム核」「制御層」などの概念、その定義の検討などをしてきました。ルールや設定データ、プレイヤーや対戦相手の技能や資質、とりうる手の総体とその効果、などといったあれこれの要素の内、何がゲームの同一性を判断する時に参照されるべきか、されないべきかについていろいろな意見が出ています。対戦型スポーツで相手が違ったらそれは違うゲームか、新しい手が発案されたらどうか、追加設定が起きたらどうか、などなど。)

(a)(b)(c)3つの立場で重視されている「プレイされているゲームの同一性」「プレイの実態」「プレイヤーの実感」は相互に独立の性質で、互いに無関係ではないものの、いずれかを他のいずれかに還元しきることができないものです。

では「ゲーム性重視のプレイ」で重視されているところの「ゲーム性」が何か、ということを考えてみると、とりあえず上のどれか1つということではなさそうです。

「プレイされているゲームの同一性」は問題にされることはあります(ルールや設定の追加は望ましいか否か、など)が、その理由を更に追求すると、「プレイヤーの手の影響をGMの望む方向に調整すべく追加をするのはよくないのではないか」という類の話になっていそうです。


「プレイの実態がゲームとして成立しているか」はプレイ終了後にGMに尋ねないとわからないわけですが、最終結果に対するGMの影響力とプレイヤーの手の影響力とを検討する作業は煩雑で時間もかかるものになる可能性もあり、実際に頻繁に行われていないような気がします。


「プレイヤーの実感」は無視できない要素ではあるものの、myrtさんが既に示唆している通り、とにかく実感を得ることを重視し、プレイがゲームだと思い込もうという努力をすることは、行われていないように思います。

少なくとも、「プレイの実態がゲームとして成立していると実感できる」という実感の方が、「このプレイはゲームである、と思い込めばそういう実感が湧いてくる」という実感よりも重視されることが多そうです。

参照:
*1 myrtさん【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み2002年03月30日:01時02分57秒, TRPGLABO LOG 095
2002年04月01日:05時45分20秒
【制御層とゲーム分析】Re:ランダマイザと期待値 / トモス
前回投稿した際には、「この話は簡単そうだからまずはこれを先に片づけておこう」ぐらいに思って投稿したのですが、思ったよりもいろいろな要素が絡んでいる話だと気付かされました。
勝率/期待値の低いゲームが悪いゲームであるかどうかについては最終的には議論が平行線を辿ることになるのかも知れませんが、それも含めて、再考の結果思ったことを書いてみます。
1)「運命」をめぐって

>>有名な実例として「詰めエムブレム」があります。<<
原理的にはありうると思ってはいましたが、余りにそのものズバリで驚きました。

2)他のプレイヤーやGMを確率的に考えること

>>プレイヤーの手に対する他プレイヤーやGMのリアクションも、確率的に考えてみてはどうでしょうか。<<

これは確率分布がわからないので「場合分け」で考えるという考え方についてはどう思いますか? 将棋の場合などは場合分けでやっていることが多いと思います。「相手があの手を打ってくれたら自分はこういう手を打てる。でも相手はこういう手で来るかも知れない。そしたら自分に何ができるだろうか。」などと。あとは、非常におおざっぱな確率の推測をして「まさかこの手に気付くことはないだろう」「このはめ手は気付かれる可能性がありそうだ」などと判断を付けていく部分もありそうですが。

myrtさんはもしかしたらそういう事態を想定しているのかも知れませんが、もしも僕がある(マルチプレイヤー)ゲームの戦略決定アルゴリズムを開発しなければならないとしたら、場合分けだけでは解が出せないことがあるので他のプレイヤーの行動について確率的なモデルをつくってそれを参照するようなアルゴリズムをつくると思います。

3)勝率が低いゲームは悪いゲームか

(トモス)>>手によって勝率が変動するとしても勝率が低ければ悪いゲームだということになります。<<

(myrtさん)>>この意見には賛成できません。マルコフゲームに対する戦略の評価手法の一つとして、「最悪の相手に当たった場合の勝率」を計る方法があります。 <<(以下略)

まず、乱数要素によって勝敗が左右される場合と、それ以外の要素によって勝敗が左右される場合を分ける方がよいように思います。

将棋で実力が伯仲して「いい試合」をする時の勝率は50%前後ですが、低いという感じがしません。では5人で同じく乱数要素の介在しないゲームをして、やはり実力が伯仲していて勝率が20%だと低いか、と考えるとそうとも言えません。「いいゲームだった」と勝っても負けても考えるわけで、「勝率が低くて悪いゲームだ」とは考えないだろうと思います。

ところが、あるシナリオで、プレイヤー達が非常に工夫に工夫を重ねると、非常に強い最後の敵を20%の確率で倒せることになっていて、もしも工夫が少しでも足りなければ10%、15%の勝率だということであれば、「そこまでダイスの目によって勝敗が左右されるのはちょっと」と考える人がいてもおかしくないように思います。(便宜上、勝ちと負けの2種類しかないものとします。)

5人でプレイしている上のゲームでは「他のプレイヤーの戦略」が自分の勝敗に影響し、それについてはあきらめることもできるのですが、「ダイス運」が自分の勝敗に同じだけの影響を与えるとなると余りいい気がしない、と思います。あるいはそう感じない人もいるかも知れませんが。



実力が伯仲している場合には、自分が勝てるか相手が勝てるか、なかなか見極めがつかないままにゲームが進展します。将棋で「5回指すと1回勝てる相手」というのはかなり自分よりも強い相手だと感じるだろうと思います。中盤からは押される一方でそのまま負ける、などという展開も多そうです。(曖昧な言い方ですが。)そういう相手と将棋をやるよりは、5人用の乱数要素のないゲームで20%程度の勝率の勝負をする方が楽しいだろうと思います。一番つまらないのは20%の勝率でしか勝てないTRPGの敵の親玉、という感じもします。



そこで改めて乱数要素の影響に限って考えてみると、自分の努力によっても勝率が低いのであれば、悪いゲームだと言えると思います。そのようなゲームでは勝つために工夫をしても、結局勝つか負けるかは運次第です。

TRPGは時間をかけて準備・プレイするため、短時間で終わるゲームとは一回の勝ち負けの重みが違ってきます。それを考慮して、例えばトランプやコンピューターゲームで考えてみても、勝つために最善を尽くして20%の勝率しかないなら、勝つために何度も繰り返しゲームをプレイするのは運だけを遊ぶギャンブルに似てくると思います。(ギャンブルの全てがそうだというわけではないのでややこしいですが。)そのようなゲームを、勝つことを目的にしてプレイすることは難しく、それよりもむしろ「最善を尽くすこと」を目的にする別のゲームとして遊ぶ方がゲームとしては遊びやすい気がします。

例えばマインスイーパーはそのようなゲームの好例だと思います。神経衰弱と同様、初期設定が乱数要素によって決められ、プレイヤーはそれを推測するためにいろいろな工夫をします。運次第では「この2マスの内どちらかに地雷が埋まっているけれどもどちらかについては手がかりが得られないことがはっきりしている」という状況に1度のプレイ中に2度3度と遭遇します。勝率はそれだけで25%になってしまうわけですが、一度のプレイ時間が短かいので、「運が悪くない初期設定にあたった場合には自分のタイムはどの程度まで短縮できるのか」を試すべく何度も遊ぶことができます。このゲームは乱数要素がなければ面白味はないわけですが、例えば「絶対に地雷の埋まっていないマス」が決っていて、そこから始めると必ず運試しなしでも解けるような地雷の配置になっているバージョンがあったら、そちらの方がゲームとしてはよいゲームだと言えそうな気がします。

また、一般に、乱数要素があって勝率が低いために、勝利を目指す代わりに最善を尽くすことを目的にするプレイヤーにとっては、乱数要素は余計な要素であって、だからこそ「最善を尽くしたらそれで目的達成というゲーム」、という乱数要素のないゲームとしてプレイするのだと言えそうです。TRPGについて言えば乱数要素がないとリアルさが感じられなくなるのでそれはそれで物足りない、と思うことはよくありますが。

ただ、TRPGでも一部の作品ではやたら死亡率が高く、キャラクターを何度も作り直さなければならないという類の話はちらほら耳にします。そういう作品がゲームとしてどう楽しいかはちょっと説明できないです。ゲームとしてではなくシミュレーションなり運試しなりとして楽しさとのバランスの結果だと考えてよいのでしょうか?



倉庫番のようなパズルゲームで、パズルを解いたら80%の確率でゲームオーバー、20%の確率で次の面に進める、という風になっていたらかなり不評を買うと思います。パズルを解けなければ勝率0%、解ける人には20%の勝率が保証されているゲームです。これは悪いゲームだと言えそうです。ここで、「悪い」のはもしかしたらゲームの最後にとってつけたように乱数要素が組み込まれているからでしょうか? つまり、乱数要素自体が悪いのではなく、それがゲームにどう組み込まれているかが問題なのだ、と言える面があるでしょうか?
2002年03月31日:13時01分14秒
【制御層とゲーム分析】ランダマイザと期待値 / myrt
(Re:2002年03月30日:15時51分23秒【制御層とゲーム分析】Re:ゲ
ーム性とランダマイザ / トモスさん)

>>2)「運命」を仮定することによる解決 << >BR?
 有名な実例として「詰めエムブレム」がありま す。コンピュータゲーム「ファイヤーエムブレム聖戦の系譜」は固定された疑似乱数 列を利用しており、疑似乱数を使用しているにもかかわらず プレイ展開の再現性があります。(実際には疑似乱数列のどこが 最初に使用されるかと電源投入タイミングの間に微妙な関係があるらしい)。

>>もうひとつ、こういう考え方もありかな、思うのは、「いろいろな手が結果をどう 左右する仕組みになっているかを、乱数部分の確率分布を参考にして考える」という ようなものです。 <<

 プレイヤーの手に対する他プレイヤーやGMのリアクションも、 確率的に考えてみてはどうでしょうか。一人の人間のリアクションも定常的に 語れるとは限りませんし、逆にある人間の集合の中でリアクションが確率的に
分類できるならば、「GMが我々のサークル内の誰かであるとき、この手は良い手か どうか」が分析できると考えられます。

>>手によって勝率が変動するとしても勝率が低ければ悪いゲームだとい うことになります。<<

 この意見には賛成できません。マルコフゲームに対する戦略の評価手法の一つと して、「最悪の相手に当たった場合の勝率」を計る方法があります。

 「じゃんけんで最良の手は何か」という質問には答えられなくても、「じゃんけんで グーに最も勝てる手はなにか」という質問に答えることは容易です。同じくマルコフゲームで も、「ある戦略に対して、その戦略だけを打倒する戦略」を考えることが容易 なゲームがあります。そんなゲームに対してはこの評価法が適しています。

 彼我の条件が同じであれば、全く同じ戦略をぶつければ勝率は50%になります(引き分けが ないとき)。 だから通常、「最悪の相手に当たった場合の勝率」は50%を超えません。実際、かなり 低い勝率での争いになりがちです。しかし、わずかに勝率を上げられるか否かで 技術者はしのぎを削ります。このようなゲームは、悪いゲームであるとは思いません。

 また勝率よりも、各最終状態の達成度にそれらに到達できる確率を乗じた「達成度の期待値」で 計るほうが一般的だと思います。勝率が欲しいときには「勝ち:達成度1、負け:達成 度-1」とすればいいだけですので。
2002年03月30日:15時51分23秒
【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性とランダマイザ / トモス
(Re:2002年03月30日:01時05分06秒,【制御層とゲーム分析】ゲーム性とランダマイザmyrtさん)

乱数要素について更に考えてみました。

1)myrtさんのアイディアと考えられる問題点

myrtさんのアイディアは、言い換えると「ゲーム中に使われることになる乱数要素が具体的にどういう値の組み合わせになって、どういう効果を与えるか」ということだと思います。これはひとつの考え方としてありかな、と僕も思っていました。

ただ、乱数要素がどういう処理・設定にどういう風に使われるかはプレイヤーがどういう手をどういう風に打つかによって変ってくるので、詰めて考えようとするとちょっと厄介なものを感じます。「自分がどういう手を打つかが結果を左右する仕組みになっているか」を考えたい時には、「他の手を打っていたら違う結果になる/なっていただろうか」を検討したいわけです。それを検討し始めると、「こちらの手を採用する場合に限っては、この局面から後は10面体ダイスを振ることがないという特徴がある。ダイスを振る回数自体は少し多い」などという形で使用する乱数データのセットも違ってきます。「でも自分が振らなかったダイスの目はゲームの後になって考えてもわからないままだ」と。

2)「運命」を仮定することによる解決

これを解決するためには、例えば2進数の乱数の数列を用意してその行列をとにかく必要に応じて端から使っていく、という形で全ての乱数要素を一度抽象化、統一化して、それを言わば「乱数要素に関してプレイヤーが負う運命」のように考えて、「もしこの運命を負っていたら、プレイには手が結果を左右する仕組みがあると言えるだろうか、それとも何をしても結局結果が負けに(勝ちに)なるような運命を背負っているだろうか」と検討をすることが可能です。原理的には。

例えば、実際にあるプレイがゲームであったか否か、を(実態主義的な立場から)検討するために、「あの手を選んでいたらあの局面以降は10面体を振らない展開になっていたけれども、2進数に変換したら結局同じ数列になるような形でダイスの目が出るような運命だと前提したら、その手は結局違う結果に結びついていただろうか?」と考えることができます。

myrtさんはそこまで考えて書いているようにも思いましたが、一応詳述してみました。

3)別の考え方

もうひとつ、こういう考え方もありかな、思うのは、「いろいろな手が結果をどう左右する仕組みになっているかを、乱数部分の確率分布を参考にして考える」というようなものです。


「この遊びではどの手を選んでも目的達成確率が変わらない」という場合や「この遊びではどんな手でも100%の確率で目的が達成できる(/目的の達成に失敗する)」という場合には、そのプレイにはゲームの仕組みがない、と言えそうです。手が結果を左右しないので。

また、「どんなに手を尽くしても勝率は30%、でも手が拙いと勝率が3%」、というような仕組みになっている場合には、「そのプレイでは結局、手の効果と比べて乱数要素の影響力が非常に強い」ということになると思います。つまりゲームの仕組みがない、あるいは無いとは言わないまでも、弱い。これは「ゲームではあるが、悪いゲームである」と形容するのがいいかな、と思います。

つまり、結果に対する手の影響が全くないプレイについては、「ゲームではない」と形容し、結果に対する手の影響が弱いプレイは「悪いゲーム」だとするとよいのではないか、と思います。「どこからが悪いゲームで、どこからが普通ないしよいゲームか」というのは、もちろん意見が統一できないところだろうと思います。

#そうではなく、「工夫の楽しみ」と「偶然性の楽しみ」とがひとつのプレイの中に混在している、と考えることもできるような気がすることもあるのですが、うまく言葉に定着しません。「ゲームに乱数要素が入るのはそもそも邪道だ」というような立場があるような気がするのですが…。

また、確率分布は常に与えられているとは限らず、単に乱数要素のとりうる値だけがわかっている場合もあるかと思います。その場合には、単に場合分けをして、「もしもここで乱数要素がこちらの値だったらこういう展開になり、あちらの値だったらああいう展開になり、…」ということを考えることだけが可能です。

そのような場合分けの検討の結果、「手がどうなろうとも、結局この乱数要素がどうでるかだけが勝率を左右する」
「手がどうであろうとも、この乱数要素が勝敗を決める」
「手がどうであろうとも、必ず勝つ/負ける」というような仕組みになっていることがわかれば、そのプレイはゲームではないと言えそうです。

ただ、確率分布がわかっていない乱数要素が多数あると、「手によって違う局面で乱数要素に直面することになるが、どちらがどの程度有利なのかは見当がつかない」という結論になることが多いような気がします。だとしたら、これは「手が結果をどの程度左右する仕組みになっているかがわからない」ので「悪いゲームかどうかがわからない」ということになるかと思います。あるいは「そもそもゲームになっているのかどうかがわからない」こともあると思います。

場合分けをして考えると、少なくとも一連の手が目的達成に結び着き、別の一連の手が目的達成に結び着かない場合があることがわかるのですが、「勝率は結局どの手をとっても同じかも知れない」ということであればそのプレイはゲームではないかも知れないわけです。また、「手によって勝率がどの程度変動するかも見積もりができない」ために悪いゲームかどうかも判断ができません。

以上、この2つめの考え方をまとめると、乱数部分の確率分布や、とりうる値の範囲などを参考に、手がどの程度勝率を左右する仕組みになっているかを考え、乱数部分の具体的な値がどのようなものになるかは不確定なままにしておいてゲーム性の有無、および、悪いゲームであるかどうか、を考えることができると思います。手によって勝率が変わらないとしたらゲームではなく、手によって勝率が変動するとしても勝率が低ければ悪いゲームだということになります。(ここで、どの程度の勝率が「低い」かは人によって意見が違うだろうと思います。)

勝率、という言葉をもう少し丁寧な言い方に言い直してみると、目的の達成/不達成が問題になる場合であれば、その達成確率のことです。達成度が問題になる場合には、各達成度に到達できる確率のことです。
2002年03月30日:05時12分23秒
TRPG総合研究室 LOG 095 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 095として2002年03月21日から2002年03月30日までのログを切り出しました。

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