TRPG総合研究室 LOG 064

TRPG総合研究室の2000年12月30日から2001年01月01日までのログです。


2001年01月01日:15時29分01秒
[【TRPG論】ゲーム性]理不尽な状況はゲームでもありがち / myrt

(Re:2000年12月31日:20時36分57秒【TRPG論】 「開放系で は挑戦的要素は成立しない」という理論の意義 / SHiNさん)

 疑似体験のような話ですが、「PLがゲームをしているような気分になるような、PCにとっての ゲームが成立するか」に収束するのではないでしょうか。だって、「TRPGはゲームではない」の ですから。

>例えば、時として、プレイヤーは、まったく情報の無いまま、未知のモンスターに戦いを挑まねばな
>らない場合があります。 これは、はっきりいって、正気の沙汰ではありません。一撃目の反撃で、
>一刀両断にされる可能性さえあるのですから。

 PCの立場で見ればこれは単なる不完全情報に対する見込みの問題です。負けたら、ギャンブルに 負けただけのことです。「全く情報がない」ことはまずなく、大抵「見た目」や「冒険者の一般知 識」から ある程度の推測はできると思います(推測できない事項はそのこと自体が情報)。「ブ レス吹くかな??」と散開してみたりする、その種の意志決定が 重要になるでしょう。また必ず「戦いを挑ま ねばならない」とすれば、「戦闘に入れば敵の反撃でこちらが無条件に全滅する」クラスの心配はす るだけ無駄です。

 さて、相手がPLは知っている がPCは知らないドッペルゲンガー系の強力なモンスターで、PCのよく知っている貧弱なモンスター に化けていたとすれば、PLが戦闘を避ける宣言をすることは不自然であると言えます。 世の中には 屋外のランダムエン カウントで「ドラゴンがブレス一吹き、キャンプは全滅」するようなシステムがあり、roguelike ゲーム(CRPG)を見ればこのような状況でもゲームは成立することがわかります。

> プレイヤーは、TRPGをゲームだと信じるならば、この時点で、GMに激しく抵抗すべきです。
>「これはゲームとは呼べない」と。

 同意しません。PLはPCでなく、GM補助の立場から「このゲームのデザインは適切でな い(あるいは気に入らない)」と 抗議すべきでしょう。必死でキャラを作ったのに、GMのオリジナルルール「世界終末チェッ ク」のロールに失敗したために最初のPL宣言前にゲームが終了したとしても、それは「ゲームではな い」という理由で抗議するのは不適切だと主張します。

 優れたPLは、PCの立場を切り離すことによってうまく「騙される」ことができると思います。 なぜなら「隠蔽されていた要素」と「デザインされた要素」と「ランダマイザの はじき出した要素」をPCには識別できない ので、PCとしての疑似体験的な立場から見たTRPG内のゲームを成立させること は可能であるからです。GM補助、 つまりデザイナーとしてGMに文句をつけることはできますが、PCの立場から文句をつけることは 許されないでしょう。
#運命の仕打ちに対して神を呪うPCってのは格好いいと思いますが。
2001年01月01日:15時27分28秒
[【TRPG論】疑似体験]疑似体験要素のために軽視すべき疑似体験要素 / myrt

(Re:2000年12月31日:22時38分26秒【疑似体験】 疑似体験の範囲 / SHiNさん)

> その意味で、私の「疑似体験」に関する「TRPG理論」の適用範囲は、厳密には「プレイヤーの
>想像力」の範囲に限定されます。

 これは私の考えている「疑似体験」とほぼ同じ範囲を指すが、具体的例でどこまでを 指すかについてSHiNさん-myrt間で解釈の相違があるのではないかと思います。
 私の考える「疑似体験」は、「PLが想定し、理解している」範囲に適用できる、 だから想像力の及ばない範囲は含まず、「理解している」ならば相違(史実と違うとか、PL間ですら 違うとか)があってさえ適用できると考えています。

・集団自殺するレミングは可哀想だとPLが考えるならば、レミング自身にとってそれが大きなお世話 であっても「可哀想なレミング」に対する感情移入と、疑似体験が可能。
・中世ヨーロッパの騎士についてPLが深い知識を持っていても、それら騎士の行動原理について よくわからなければ感情移入と疑似体験は困難。(間違った理解でも、理解していれば「間違った騎士」 に対するそれが可能)。
・「典型的な可哀想な話を聞く」「残酷なイラストを見る」「気合いを入れてダイスを振る」「PL自 身が殴られる」ことなどは生理的反射(学習??)による体験を引き起こすが、これは「体が理解してい る」とみなすことができるために疑似体験の一種と言える。
・視覚的なバーチャルリアリティのための3DCGについて、中途半端にきれいなCGのよりも ワイヤーフレームのほうが、「嘘くささ」が少なくて想像力による補完 が容易なことから疑似体験の材料として有利な場合がある。

> 疑似体験の強度とは、どれだけ、PLの想像力を刺激し、明快なイメージを作成させるかという度
>合いのことです。よって、現実的な情報が常に有利に働くとは限らない。

 同意します。史実であっても「ミッドウェイ海戦」のような話を聞けば信じにくいと思いますし、 逆に三国志 演義のような荒唐無稽な話でもそのような話に対する「理解」が容易ならば疑似体験の 対象として優れていると思います。

> 現実では回避し得ない悲劇を、架空世界で解決する。これは一種の現実逃避ではありますが、エン
>ターテイメントとしては、是とされるべきじゃないかと思います。

 ここでエンターテイメントには「表現したいものに反するものはあえて 無視する」という立場があります。例えば「悲劇的な少女を救う」プレイを行うとき、 あえて「アイヒマン実験に示される立場に立たされたドイツ軍兵士」としての疑似体験性を無 視することによってエンターテイメント性、および「悲劇的な少女を救う」こと自体 に対する疑似体験性を強めることがあると思います。

 逆に悲劇をブラックジョークとする不謹慎な態度ですら、一つのエンターテイメントとして成立 すると思います。このときは「悲劇的な少女」自身としての疑似体験性はある程度押さえておくべき でしょう。史実の「収容所の子供にお菓子(チーズだったか??)をやるやさしさと、平然と虐殺を行う 冷酷さを併せ持つ兵士」としての疑似体験性を重視するときにもこの態度は有用かもしれません。

 大抵の人は、「アンネの日記」「シンドラーのリスト」「ニュルンベルク軍事裁判」「アイヒマン 実験」という4つもの異なった視点を理解しようとした時点で、何を信じていいかわからなくなると 思います(特にアイヒマン実験は、人類の倫理性そのものに対する信頼を揺るがしかねません)。また、ある一面の視 点しか持っていない人の立場を疑似体験する際には、他の面からの視点に関する知識や疑似体験要素 は邪魔になることさえあると思います。

 「アンネの日記」だけを読んだ少女担当のPLと「シンドラーのリスト」だけを読んだ 富豪担当のPLと「アイヒマン実験」だけを読んだドイツ兵担当のPLを参加させたプレイでお互い会話 させればものすごいリアリティが出るでしょう...危険ですが。RPG(無論TRPGも)はそれだけの危険性、教育 性を持っていると思います。
2001年01月01日:04時59分00秒
[用語]「開放系」について / アキト

 ども、アキトです。新年あけましておめでとうございます。本年もよろしく。
 さて今回は、「開放系」に関するやりとりについての簡単なコメント通し、「開放系」についての説明をしようかと。

 えーと、ボクは「開放系ルールとしての RPG──あるいは RPG は将棋ではないという話」において、「RPGがどのようなものであるか」を考える際に有用な思考ツールである『閉鎖系/開放系概念』を提唱しました。

 この概念というのは要するに、RPGでの「戦闘シーンにおけるルール運用がそれまでのセッション展開から影響を受けている」という状態に注目することで、RPGと他のゲームを区分する、というものです。
 もちろん、本来なら戦闘シーンに限定することなく「大抵のルール運用が」といきたいところなのですが、そうすると曖昧になってしまうので。

 ただ、ここでちょっとだけ注意しておいて欲しいのは次の二点です(これらは開放系が「ある与えられた環境の下にあり、その環境から影響を受ける」ものであることから導いたものです)。

 一つは、開放系が非閉鎖系なのではなく、閉鎖系(と見なされたもの)とは、環境を無視しても平気なきわめて特殊な開放系なのだという点です。

 もう一つは、「現実の世界」は開放系であるという点です。なぜなら、神様なら世界を閉鎖系として認識することも可能かもしれませんが、人間にとっては世界とは開放系なのです。もっとも人間はそんな世界を「理解/納得」するためなんとか閉鎖系として認識しようと努力してきましたし、ときにはそれが報われることもありますけれども。

 わかりやすくなるよう、少し例をあげてみましょう……例えば、太陽系の惑星の軌道について考えて見てください。我々はそれを計算することができますよね。それはつまり、太陽系の運行を閉鎖系として認識することができている、ってことを意味するわけです。
 もっとも、これだってあくまでも太陽系の外部環境(他の恒星系からの力など)が非常に小さいため、無視してもそれなりの精度で計算できる、ということにすぎないのですが。

#さらに蛇足として付け加えておきますが、ボクは「開放系はルールに穴があり、穴がつかれるとゲームが成立しない」および「開放系では挑戦的要素は成立しない」とは考えていません。

 そして次にボクは「付け足しなんかつまらない!──続・RPG は将棋ではないという話」(半完成)を出しました。ここでは『開放系/閉鎖系』という概念を用いて実際のセッションを考察してみた結果を示した、つもりです。
 よって、これも『開放系/閉鎖系』の関連話題に入ると思われます。

 ……さしあたってはこれぐらいでしょうか。


2000年12月31日:22時38分26秒
【疑似体験】 疑似体験の範囲 / SHiN
 
 (myrtさん)
 >もちろんTRPGは主に会話を用いるゲームですから、「言葉や文字で伝達できる疑似体験」に絞った視点も重要であると思います。
 
 しかし、それ以外の視点も重要であるとおっしゃるわけですね。もちろん、私もそれらを無視するつもりはありません。
 
 ただ、何度も言うように、理論を構築するベースとして、どちらがよりベターか、ってだけの話なのです。よりコンパクトで、より適用範囲が広い部分を基幹理論に位置付け、そこに肉付けをしていく方がいいでしょう?
 
 その意味で、私の「疑似体験」に関する「TRPG理論」の適用範囲は、厳密には「プレイヤーの想像力」の範囲に限定されます。(文章表現上、うまくいってない部分もあるかもしれませんけれど。つきつめると、そうなるはずだと思います。逆に、もしもそうならなければ、私自身の論理展開に欠陥がある可能性があります)
 
 その意味では、セッション現場で行われるキャラクター同士の会話さえも疑似体験の「材料」に過ぎないのです。
 補足や、説明、その他もろもろのものが組み合わさって、エフェクト効果が加わりますからね。

 疑似体験の強度とは、どれだけ、PLの想像力を刺激し、明快なイメージを作成させるかという度合いのことです。よって、現実的な情報が常に有利に働くとは限らない。醜悪な現実は、想像することを拒否させる場合もありますからね。
  
 で、私が参加させてもらったmyrtさんのゲーム中デザインの話は、私の「疑似体験を基幹としたTRPG理論」の中での位置付けでは、このPL個人の「想像力」によって形成された「擬似世界」を、他の参加者、とりわけ『GM』の「擬似世界」と互換性を持たせるための方法であるといえます。
 
 ゲームシステムも、その他もろもろの「具体的表現」による要素も、同様です。
 
 但し、知的挑戦要素については例外で、これは、より良い「疑似体験」をチップとして賭けた、現実的なゲームであり、現実的な体験です。そして、それに勝利した場合、現実的な勝利感とともに、より良い(ハッピーなものだけとは限りません)疑似体験が与えられるべきだと思います。
 (ちなみに、TRPGにおける知的挑戦要素は、多くの場合、挑戦的疑似体験要素と同時発生します。が、知的挑戦要素が単独で、発生するケースは少ない。ヒーローポイントなどを使用して、ゲームトークンを介さずに介入する場合などは、このケースに分類される場合もありますが、常にそうとは限りません。詳しい分析は、例の「開放系ゲームにおいて挑戦的要素は成立しない」って理論を適用すれば可能だと思います)

(myrtさん)
>#実現は難しいと思います。このプレイは重すぎ、GM--PL全員にとって手にあまるものとなるでしょう。

私は、それらの知識はあまりありませんが、おっしゃりたい事はわかります。確かにmyrtさんの言う通りかもしれませんね。が、例えば、アンネと同様の境遇にある少女を、幸福にする事が出来るようなシナリオであれば、その予備知識は、セッション全体の娯楽性においてもプラスになるかもしれません。要は使い用です。
 現実では回避し得ない悲劇を、架空世界で解決する。これは一種の現実逃避ではありますが、エンターテイメントとしては、是とされるべきじゃないかと思います。(もちろん、史実どおりというのも、ひとつのエンターテイメントです。ただ、それを演出するGMは、アンネの人生を、単なる「悲劇」として受け取ってはならないと思います。そういう視点は、彼女の人生に対する冒涜であるとさえ言えるでしょう。もっと、それらの、現代の私たちから見れば悲惨な時代、悲惨な境遇といえるような世界に生きた人達のさまざまな想いや希望に想像力でもってスポットを当てれば、単なる悲惨な事実を疑似体験するだけにとどまらず、エンターテイメントとして成立するはずなのじゃないかと思うのですが) 
2000年12月31日:21時30分04秒
〔用語〕 不完備情報ゲーム / SHiN
 
(Crescentaurさん)
>では、私の了解している「完備情報」を用いると、使用しうるリソースが全て判明していない時点で不完備情報ゲームとなりますが、SHiNさんは完備情報ゲームと書かれていますので。
 
 なるほど。
 難しいんですね。私は、その手の教育なんて、一切受けてないもんで。「一般的なゲーム論」なんてものがこの世に存在することさえしりませんでしたよ。
 出来ればCrescentaurさんか匿名希・望さんお奨めの「一般的なゲーム論」の書かれた簡単な参考書物を紹介してもらえるとありがたいのですが。(ただ、ここでの議論の門戸を狭めるような事はしたくないので、専門用語の濫用をするつもりはありませんが)
 
 で、私は、このTRPGLABOで最近使用されている範囲の用語を用いて、『リアルな株式投資』に挑戦的要素が発生する理由を書いただけです。他意はありません
  
 (私の投稿)
 > 閉鎖系ゲームとしては、「リアルな株式投資」は、完備情報ゲームに分類されるでしょう。ところが、そのシステムが人為的にデザインされたものではないため、使用しうるリソースが全て判明していないのです。
 
 太字部分が問題なわけですね。
 うーむ。
 
 ポーカーのような簡単なルールのトランプゲームも、電話帳一万冊にわたるルールを与えられるような複雑なルールのトランプゲームでも、種別としては同じ「完備情報ゲーム」ですよね?
 
 でも、もし、その電話帳一万冊分のルールを、プレイヤーの全てが完全には理解していないとすれば?(実際、理解できるわけはありませんよね?)
 
 私の言ってるのはこの状態の事です。この状態では、その、「一般的なゲーム論」では、どこに分類されるんでしょう? (ちなみに、ルール判定には、ルールを完全に理解しているコンピューターを用いるものとしましょう)
 
 私の言ってた「リアルな株式取引は、完備情報ゲームであるが、開放系ゲームの特性を持つ」と言ってたのは、こういう状況を指しての事です。
 で、前提として、人為的に構築されたシステムをしようしたものを「ゲーム」と呼ぶといったのは、人為的に構築される以上、人間が理解不可能な状況はありえないだろうという考え方のもとです。つまり、この「一万冊のルールブック」を使用するようなケースを、TRPG論を語る上で回避したかったわけです。
 
 私のゲーム理論は、最初からTRPGに特化されているので、TRPGとあまりにかけはなれた状態においては、亜光速でのニュートン理論、素粒子世界での相対性理論と同じく、適用範囲を超えてしまうからです。
2000年12月31日:20時36分57秒
【TRPG論】 「開放系では挑戦的要素は成立しない」という理論の意義 / SHiN

(YANさん)
>「開放系では挑戦的要素は成立しない」という定義、定義は定義として受け入れてもいいんですが、正直、この定義にどういう意味合いがあるのか分かりません(「挑戦的要素は”必ずしも”成立しない」という言い方なら分かるんですけど、どんな場合にでも成立しない、ってのはピンとこない)。

>おそらく、「挑戦的要素が発生した時点で(疑似)閉鎖系に変わる」という理論でフォローされているとは思うのですが、それなら「挑戦的要素を必ずしも要しない点が、TRPGの開放的なところ」みたいな言い方の方が分かりやすいのですけど。

>この定義をすることで、どういうメリットがあるのか。
>理由を教えて欲しいです。
 
 これらは、TRPGを考える上で比較的基本的な部分ですから、TRPGについて分析する際、あらゆる面でのメリットが見込まれます。
  といっても、なんですから、具体例を挙げてみます。
 とりあえず身近なところでは、ゲーム性の向上と、参加者間(PLとGM、PL同士など)の認識の違いによるトラブルの回避が見込めるという事です。
 
 一般的なTRPGにおける「重要な」ゲーム性は、やっかいなことに「2種類」あって、挑戦的疑似体験を楽しむためのゲーム性(すごろくのようなもの)と、知的挑戦要素を楽しむためのゲーム性(将棋など)があります。
 
 TRPGの特性として重要な点は、「挑戦的疑似体験」なるものの存在です。
 これは、いわば知的でない挑戦要素であるのですが、単に知的でない挑戦的要素なら、ランダム性を持つゲームには、たいてい存在しています。
  
 人がすごろくをする時、サイコロを振るという行為は「挑戦的要素」です。もちろん、「要素」に過ぎないですから、それを「挑戦的行為」と受け取るかどうかは、当のプレイヤー次第ですが、まあ、「すごろくを楽しんでいる」人ならば、たいてい、サイコロの目が念じればその目が出るかのような感じで、サイコロを振るはずです。(もしくは、念じないこと、無欲であることで良い目が出るかのごとく)
 良い目が出れば喜び、悪い目が出れば悔しい。
 そして、悪い目が続いた後とかには、特に張り切ったり、念を込めたり、力強くしたりして、サイコロを振る。これは、その人にとって、ダイスロールが「挑戦的行為」となっているかどうかを示す一つの目安になるでしょう。
 でも、たとえ、その場合に敗北したとしても、そのPLのプライドが傷ついたり、逆に向上心が芽生えたりする事はありません。所詮は、お遊びに過ぎないからです。
 
 そう、ダイスロールは結局は本当の意味での挑戦ではありません。(念力の存在でも信じているか、ダイスコントロールテクニックを用いたイカサマでもしない限り)
 そのため、多くのゲームにおいては、不確定要素を含む意思決定(知的挑戦)のための考慮材料・動的要素という位置付けにされて語られてしまう場合も多いのです。
 
 もちろん、それは、それで、かまわない場合もある。
 が、TRPGにおいては、違う。それではまずいってコトです。
 
 すごろくにおいて、サイコロを自分で振ることによって、「挑戦しているような気になる」というのは、挑戦的疑似体験とでも呼ぶ事が出来るものです。単純なすごろくの場合、個々の判定においては、この要素しか無いため、この要素を高める手法として自分でサイコロを振るという事が、非常に重要になってきます。
 が、戦略シミュレーションゲームなどにおいては、サイコロを振ることは、すごろくにおけるダイスロールに比べて重要性が格段に減少します。確率を計算した上での戦略的な意思決定の適用過程としての比重が大きく、むしろ、十数回にも及ぶ判定を、自分でサイコロを一回一回振るよりも、コンピューターが一瞬に処理してくれる事を望む人も多いんじゃないでしょうか。
 なぜなら、戦略シミュレーションゲームにおいて重要なのは、『意思決定』による、知的挑戦であり、それは本当の意味で挑戦なのです。それに比べれば、一種の錯覚ともいえる「ダイスロールによる挑戦の疑似体験」なんて、些細な要素、むしろプレイアビリティを低下させる要因となってしまうわけです。
 
 が、中には、そういう「挑戦的疑似体験」に高い価値を見出す人もいます。ダイスロール大好き、自分で振ってこそ価値がある、って人は、そう珍しくはありません。
 が、それでも戦略シミュレーションゲームなどでは、少数派でしょう。
 しかし、TRPGはそうではないのです。
 
 ほとんどのTRPGセッションでは、戦略SLGやその他の知的ゲームとして分類されるボードゲームなどと比べた場合、この「挑戦的疑似体験」と「知的挑戦」の価値が、逆転しているのです。
 
 とは言っても、TRPGにおけるダイスロールの話ではありません。TRPGにおける「別の」挑戦的疑似体験に関する話です。
 もちろん、たいていのTRPGにもダイスロールの要素はあります。が、TRPGには、ダイスロールなんかよりも、もっと大きな「挑戦的疑似体験要素」がありますよね。
 ご存知の通り、「プレイヤー・キャラクターが、挑戦を行っている過程を疑似体験する」という要素です。
 
 TRPGにおいては、この「挑戦的疑似体験」と、「知的挑戦」が、時に混同して語られたりします。実際のセッションにおいても、混合している状況が多いので、それは無理からぬことなのです。が、だからといって、これを見過ごすと、さまざまな問題の火種となり、このsfさんの掲示板群でも、(私が見たところ)これらが原因となっているトラブル例が報告されています。
 
 この問題を解決する第一歩として、それが「挑戦的疑似体験」なのか、「知的挑戦」なのかを、見極める必要があるのです。
 そのための理論が、「開放系ゲームにおいて挑戦的要素は成立しない」という法則なのです。
 
 TRPGにおけるトラブルで比較的多いのが、PLの自己責任の範囲に関する問題です。
 
 よくいわれる、『TRPGはゲームであり、意思決定の結果に関する責任はPLに帰する』という考えは決して間違いではありません。
 但し、それはTRPGが「本当に」ゲームであった場合にのみ有効な考えなのです。
 ここで言うゲームとは、当然、「知的挑戦要素」を含むゲームの事であり、その責任とは意思決定時に明確になりえていたリスクの範囲に限定されるのです。
 
 たとえば、ある遺跡で山のような宝物を発見した冒険者が、宝物を他の冒険者などに横取りされるまえに運び出そうと、ギルドを通じて人を雇ったとします。
 雇われ人達は、一人金100枚という法外に高額な報酬を要求してきましたが、高すぎると考えたプレイヤー=PCは、GM=NPCと交渉を行い、交渉判定の結果、金5枚までねぎることに成功しました。雇われ人達は、しぶしぶながらも、それを受諾しました。
 ところが、いざ、現場へ行くと彼らはPCを裏切り、宝物を横取りしようとしました。
 当然ながら腹を立てたPC(=PL)は、彼らに戦闘を挑もうとしました。ところが、彼らは、結構強く、多勢に無勢ということもありPLたちのPCは全滅してしまいました。
 おしまい。BAD・END。
 
 さて、セッション終了後、当然ながら不平を言うプレイヤーに対し、GMはシナリオの書かれた一枚の紙を見せました。シナリオです。その最後の方には、この展開を予測したGMの一文が書かれていました。
 『宝物を運び出す際、雇い人を雇おうとする場合、その雇い人達は少々、高額な報酬を要求してくる。これを半額以下に値切ろうとした場合、雇い人達は要求に応じるが、その場合、PC達を裏切る。雇い人達のデータは……』
 
 さて、このセッションが決して『成功』ではなかった、というのは、誰の目にも明らかですね。
 でも、いったい、その『失敗』の原因は何か?……というと、人によって意見が分かれるんじゃないでしょうか。
 
 PLとして自分に厳しい人ならば、雇い人が裏切る可能性を考慮にいれなかったPL自身のミスであると考えるんじゃないでしょうか。
 逆に、単純にGMのシナリオやマスタリングに問題があると考える人もいるでしょう。
 しかしシナリオの適切な解釈を持ってGMの公正さとする、って考えの人なら、このGMのマスタリングはあまり異論を挟む余地の無いものであると考えるでしょう。
 はたまたTRPGの目的は、「面白い話を作ることだ」と考える人なら、このようなバッドエンドを規定したシナリオ自体に欠陥がある、と思うかもしれません。もしくは、失敗なら失敗で、コミカルな演出を加えるとか、ご都合主義でも救出が来るとか、気絶程度に留めて逆転の可能性を与えるとか、なんなりとやりようがあったであろう、と。
 が、PLのゲーム的技量の向上を唱える人にしてみれば、失敗は失敗として精神的ダメージを与えるというのも、「次回こそはうまくやろう」という気持ち、向上心を持つためには必要だし、そういう失敗のリスクの存在への認識が、次回の成功をよりうれしいものにする、なんて話にまで少々飛躍する人もいるかもしれません。
 
 セッションの後で、反省会を開き、次回のセッションへの糧とせよ、って言ってもその失敗した点、反省すべき点が不明瞭なままであれば、反省のしようが無いでしょう。
 
 が、これに、「開放系ゲームでは挑戦的要素は成立しない」という理論をベースとした概念を適用すれば、問題点はかなり明確になるのです。
 
 まず、セッションの成否を決定づけた決定的な点は、結果論から言えば、PLの『報酬を値切る』という意思決定でした。この意思決定が、結果的には失敗であり、PLはその責任を負わされたという事になります。
 で、論点としては、このPLの意思決定が、本当に自己責任を負わねばならないものであったのか?という部分の検証になるでしょう。
 
 いついかなる時でも『TRPGはゲームであり、意思決定の責任はPLが負わねばならない』という話が成立しうるのならば、議論の余地なくPLの責任という事になります。
 PL=PCは、少しでも多くの利益を得るために、裏切りというリスクを負って、報酬を値切り、その報い(リスク)を受けた。そして、その過程をGMはシナリオに忠実かつ適切にマスタリングを行った。そう考える事は、比較的容易でしょう。
 
 が、その線でPLが「向上心」をもって技術を習得するならば、きっと、そのPLは、石橋を叩いても渡らない式のPLになってしまうでしょう。
 戦闘シーンのように閉鎖系のルールを持つ事象ならば、全力攻撃を行った場合の利点とリスクは、通常、明記されています。しかし、ゲームマスターのルールで規定されていない自由裁量がルール系に大きく影響する開放系のシーンでは、それらのリスクは、GMの頭の中に隠蔽されており、PLは、それを一つずつ叩き潰していかねばならないわけです。が、完全に叩き潰す事は不可能です。いくら、GMの発想力が無限とはいえないといっても、
 
 プレイヤーA:なあ、GM、そいつらは裏切る可能性はないのかい?
 GM:え?ああ、あるかもしれないね。そりゃ。(ああ、なるほど。そういう展開もアリだなあ)
 プレイヤーB:馬鹿!そんなこと聞かなけりゃ、裏切る可能性なんてなかったかもしれないのに!
  
 なんて、事も、ありますからね。
 第一、「知的挑戦要素を持つゲーム性」を求める人達にとって、こんなことを延々続けて時間を無駄にするのは馬鹿らしいはずです。
 
 なら、時間制限を設ければ良い?確かにセッション時間はその制限上限までは無駄にはならないですね。が、制限時間を1分にすれば、やはりその1分は無駄になります。なら、いっそ、ゼロにしてもいいじゃないか?という発想が生まれる。これをつきつめたのが、「無思考プレイ」、つまり、ノリと勢いだけのプレイであるって事なのです。
 
 制限時間を一分にするのは、それはそれでかまわない。が、その1分をいかに無駄のない1分にするかという話なのです。
 
 そのためには、この「開放系」の状況を、「閉鎖系」へと移行させる必要があるのです。これは、当然、GMの仕事です。TRPGセッションにおいて、ルール系を直接いじる権利があるのは、GMだけなのですから。(もちろん、PLがこの行程にGM補として参加するのはかまいませんが、越権行為は控えないと、話はややこしくなるでしょうね)
 
 上の例で言うと、GMは次のように説明せねばなりません。
 「報酬を値切るのはいいけど、交渉ロールに成功する必要がある。但し、たとえ成功しても○%報酬を値切る度に、相手が君達を裏切る可能性が△%生じるよ?もっとも、交渉ロールの成功がクリティカルであったなら、その裏切る確率は半分になる。ちなみに、他の人間を探してる余裕は無いものとする」
 こうすることによって、「閉鎖系ゲーム(完備情報ゲーム)」が成立するわけです。
 
 【イベント種別:完備情報ゲーム、目的:人を雇うこと、制限:値切る割合に応じて裏切られる確率が上昇する、運用すべき資産:キャラクターの交渉能力及び資金】
 
 もちろん、その場合、裏切られてしまったのであれば、それはPLの責任となるでしょう。
 但し、この場合、その責任は「裏切られる」という状況が生じるという範囲に留められるべきなのです。なぜなら、そこまでしか言及されていないからです。
 
 そして、裏切りが発生したならば、その状況を踏まえて、GMはイベントとして「裏切り者との戦闘」を行うなりなんなり、すれば良いのです。それはPLにとって愉快とは言えない状況ですが、それはPLの自己責任の範囲です。
 しかし、だからといって、バランスの悪い戦闘をGMはPLに強いる権利はありません。バランスの悪い状況で戦闘せねばならないというのは、PLの自己責任の範囲外の話だからです。 
 (但し、このケースでは、裏切られる可能性まで示唆されているのですから、それを無視してPLが油断していたとすれば、その範囲ではPLの責任と言えましょう。)
 
 で、PLの自己責任範囲が明確に出来るというのは、GMとPLが「本気」でゲームに挑めるという事でもあります。
 TRPGのゲーム性が平均的に低いのは、GMとPLの間にシナリオの継続が不可能な状況は発生させない、などの暗黙の了解があるからです。
 例えば、時として、プレイヤーは、まったく情報の無いまま、未知のモンスターに戦いを挑まねばならない場合があります。
 これは、はっきりいって、正気の沙汰ではありません。一撃目の反撃で、一刀両断にされる可能性さえあるのですから。
 プレイヤーは、TRPGをゲームだと信じるならば、この時点で、GMに激しく抵抗すべきです。「これはゲームとは呼べない」と。
 が、多くのPLは、結構、すんなりとこの状況を受け入れます。
 なぜか?
 それは、「GMは無茶なゲームバランスの敵を出してはこない」という信頼があるからです。これにより、敵の能力データの範囲が『戦っても大丈夫な範囲』に「特定」でき、一応、挑戦的要素が成立するのです。
 これが、『擬似閉鎖系』の実態です。
 
 で、それが何を意味するのかというと、プレイヤーは、「意思決定」しているようで、実は、まったく「意思決定」などしていないのです。
 GMへの、ある意味で盲目的な信頼に基づき、戦闘を行おうとしているわけですから、そこには何の考慮要素も、思考過程も存在していない。それは、意思決定とは「呼べない」のです。
 
 これでは、いざ、戦闘を行って「敗れた」時、意思決定の自己責任を取れといわれてもPLは納得できないでしょう。PLにしてみれば、信頼が裏切られたという事でしかないのですから。
 
 同様の事が、「シナリオに沿った意思決定を行うべし」という事にも言えます。
 プレイヤーは、シナリオに沿ってプレイしていれば、必ず、楽しめるという盲目的な信頼に基づいてプレイしている。で、つまらなければ、信頼を裏切られたと思う。
 本当に、こんな状況を、「ゲームである」と言えるのでしょうか?って事です。
 
 もちろん、「ゲーム」と言うことは出来ます。但し、それは、「知的挑戦要素」を主とするような類のゲームではない。「すごろく」です。「挑戦的疑似体験」に過ぎないのです。
 
 もちろん、すごろくに比べると、TRPGはずっと優れた「挑戦的疑似体験要素」を提供してくれるので、十分に楽しむ事が出来ます。私が問題視しているのは、あくまで、「挑戦的疑似体験」と「知的挑戦」の混同についてなのです。
 
 ここで、再び、「開放系においては挑戦的要素は成立しない」という事を思い出してもらいたいのです。
 
 これをきちんと理解していれば、PLは、たとえ敵のデータが全く不明であろうと、GMに、「ゲームのなんたるか」を訴える必要はありません。なぜなら、敵のデータが全く不明だという時点で、それは「知的挑戦を伴うゲームではない」のですから。よって、意思決定の自己責任を問われる事も無いでしょう。純粋に、「正体のわからぬ敵に、戦いを挑む冒険者」の疑似体験を楽しめば良いのです。
 
 GMも、それが「知的挑戦」ではない、「疑似体験」に過ぎないと認識する(認識される)ことで、マスタリングの自由度が増します。知的挑戦においては「アンフェア(手加減、もしくはインチキ)」とされるマスタリングも、この場合は「疑似体験」に過ぎないのですから、フェアもアンフェアもない。純粋にPLがより楽しめるような展開を起こしてやれば、それで良いのです。
 
 ただ、注意すべきは、PLにとっては「疑似体験」、つまり、「遊び」であってもGMにとっては、常に『挑戦』であるということです。
 これは、ゲーム的な挑戦ではなく、現実を舞台とした「真剣勝負」なのです。PLをいかに楽しませるか?という挑戦です。そのためにこそ、GMにはセッション内において神にも匹敵する権力が与えられているのですから。
 
 そこでは、ルール無用のあらゆる手段が目的達成のためには正当化されます。
 が、同時に、ルールを盾に自らの失策を正当化することも出来ないのです。
  
 さて、最後で少し、話がずれてきましたが、とりあえず、「開放系ゲームにおいて挑戦的要素は成立しない」という理論の利用の仕方の指針は、ある程度わかっていただけたかと思うので、これくらいで、一度、お話を終わらせておきます。
2000年12月31日:19時16分33秒
[疑似体験]疑似体験の中のリアルなもの(実例) / 紙魚砂
 TRPGのセッションの中で唯一“現実”そのものであるのは「会話している」という事実だけでしょうね。
 ということで、

>myrtさんwrote
>さて、第二次大戦ものTRPGのセッションで「絶体絶命の少女」に関する疑似体験を演出する場合を考えてみます。(以下略)

の場合、いちばんリアルに出来るのは会話する部分ではないかと思います。さらに、問題の核心部分を「会話する場面」にするとなおよい。
 上の例であれば、「絶体絶命の少女」と「ドイツ軍兵士」の両方をPCにして会話させるのがいちばん真に迫ると思います。面白いかどうかは別にして。
2000年12月31日:01時27分49秒
[【TRPG論】疑似体験]体験と疑似体験の境目はどこに?? / myrt

(Re:2000年12月29日:03時22分11秒【疑似体 験】 プラスになるってのは、セッションにプラスって意味じゃなく、疑似体験要素が強まるって意味です / SHiNさん)

 理論的に疑似体験度を高める方法について、とりあえずセッションにプラスになるかどうかは置いて おいて語ろうとされているのでしょうか。ならまず、最近はやりのヴァーチャルリアリティを念頭に おくべきでしょう。TRPGにおける疑似体験の範囲を特定するために、ヘッドマウントディスプレイ他の 五感に訴える他の「疑似体験」と比較することが重要であると思います。TRPGでは言葉だけでなく、 音楽やイラストを用いた「疑似体験」手法が存在しますので。

 次に、「どこまでが疑似体験か」という問題があります。YANさんが「戦場での臨場感は味わい たくても、実際に人殺しをしたいわけじゃない」と述べられておられるように、視点を疑似体験 か否かだけに絞れば、人殺しは戦場の疑似体験たりえます。

 もちろんTRPGは主に会話を用いるゲームですから、「言葉や文字で伝達できる疑似体験」に 絞った視点も重要であると思います。

 さて、第二次大戦ものTRPGのセッションで「絶体絶命の少女」に関する疑似体験を演出する 場合を考えてみます。このとき、PL達に予習として「アンネの日記」「シンドラーのリス ト」「ニュルンベルク軍事裁判」「アイヒマン実験」関連の本を読んでもらい、ドイツ軍兵士のPC を与えてプレイしてみましょう。いったいPLはどこまで疑似体験するといえるでしょうか。予習で 読む本はすべて真実の重みを持っており、彼らはそれを目の当たりにするのです。
#実現は難しいと思います。このプレイは重すぎ、GM--PL全員にとって手にあまるものとなる でしょう。
 
 疑似体験度を高める簡単な方法は、真実や事実を用いることです。それがどこまで疑似体験 であるかは定かではありませんが...

> よって、感情移入と疑似体験の話とは、直接関係ないってことです。感情移入そのものが純粋に高
>まる場合、必ず、疑似体験要素は強まるし、疑似体験要素が強まれば娯楽性を高める要素も強くなる
>はずです。

 SHiNさんの書き込みで、疑似体験とポジティブな用語を直接結びつけられることが 多いことが気になっています。TRPGの成功を無視して疑似体験だけをつきつめるなら、バーチャル リアリティの分野がすでにあります(SLGもここに入る--決して娯楽的なものばかりではない)。 媒体を言葉だけに限っても、「電話を通じた株式投資RPG」などは真に迫ったものを構築できる でしょう。SHiNさんのお考えでは、どこまでが「体験」でどこからが「疑似体験」なのでしょうか??
2000年12月30日:20時05分37秒
[用語]Re:完備情報 / Crescentaur
鍼原神無さんの書込[[用語]Re:完備情報](2000年12月30日:02時11分15秒)
> 「完備情報型」についてですけど、「ゲームのプレイヤーが互いに戦略集合と利得関数を知っている」のこととされているようですね。

> ですので、匿名希・望さんの紹介された「ゲーム中に全てが見える訳ではないが、ルール上許される行動や出てくるリソースの種類が有限で予測可能なもの(麻雀、カードゲームなど)」でもよいと思われます。

 そうですね。一点、気になるのは、匿名希・望さんが「共通の知識として」とか「互いに〜知っている」というのを含めていたか否かですが。
 疑問が生じたのは、匿名希・望さんの書込ではなく、最近の書込での「完備情報」という用語の使われ方です。最近の一連の書込を行われている方(特にSHiNさん、鍼原さん、myrtさんの3人)が「完備情報」(ひいては閉鎖系/開放系)をどのような意味に捕らえているのかが気になった次第です。

 例えば、
SHiNさんの書込[【疑似体験】 現実における目的のある行動と、ゲームにおける挑戦的要素の差](2000年12月29日:02時45分02秒)
> 閉鎖系ゲームとしては、「リアルな株式投資」は、完備情報ゲームに分類されるでしょう。ところが、そのシステムが人為的にデザインされたものではないため、使用しうるリソースが全て判明していないのです。

 では、私の了解している「完備情報」を用いると、使用しうるリソースが全て判明していない時点で不完備情報ゲームとなりますが、SHiNさんは完備情報ゲームと書かれていますので。


「完備情報」の紹介文
・匿名希・望さん
「完備情報」はゲーム中に全てが見える訳ではないが、ルール上許される行動や出てくるリソースの種類が有限で予測可能なもの(麻雀、カードゲームなど)。

・Crescentaur
全てのプレイヤーが、共通の知識としてルールを知っている
2000年12月30日:15時53分32秒
[【TRPG論】疑似体験]Re:現実における目的のある行動と、ゲームにおける挑戦的要素の差 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>SHiNさんへ
@SHiNさんWrote  (「【疑似体験】 現実における目的のある行動と、ゲームにおける挑戦的要素の差」,TRPG総合研究室 LOG 063,2000年12月29日:02時45分02秒)
>私の言ってるのは、TRPGのゲーム世界内での、挑戦的要素のことです。これなら、鍼原さんにも十分想像できるんじゃないですか?(そうでないなら、あらためておっしゃってもらえれば、事例を挙げて説明しますが)

 すみません。やはり、「『欲しければ作ればいい』では、どんなタイプのシナリオを創ることが想定されてのか、あるいはどんなマスタリングで提供されるのか」事例をお願いしたいと思います。

 困ったことに、アタシに想像できるものは、どうもSHiNさんの考えてられるものと食い違いが多いようなんです。関連の話題の論旨がすぐにわからなくなって混乱しています。
 
 
 話ができるだけ噛み合うようにしたいので、今時点でのこころもとない読解も書いておきます。
 
>TRPGにおいて、物語の生成を試みる場合、これは、現実を舞台とした行為となり、自動的に挑戦的要素が発生します。いいかえれば、私が「挑戦的要素なんかない、いらない」と言ったのは、このことではないって事です。 
>私の言ってるのは、TRPGのゲーム世界内での、挑戦的要素のことです。
 
 これは、「プレイヤーと分離されたPCの観点からは、プレイヤーにとって挑戦的な要素もPCにとっては挑戦的要素として認知されない・はずだ」、って意味でしょうか(?)。
 
 だから、プレイヤー=PCが、「欲しければ作ればいい」ってことでしょうか(?)。
 
 うえの読解は、どうも自分でも自信が持てないのですけど。
 
 それか、やはり自信がないのですが、もし、「TRPGセッションで生成される物語内で、キャラクター間には競技の要素は必ずしも発生しない(必要なら作ればよい)」と言うことならば、わかる気はします。
 
 なんかこんな感じで混乱しています。
 ですので、できたら事例を挙げての説明をお願いしたいと思います。
 
#以下は多少関連しても、枝葉の話題になると思います(別件とみなしていただいても構いません)、、、
>目標が存在しているにも関わらず、挑戦的要素が十分に成立しない『現実の事象』を挙げてみてください。さらに、開放系特性を持たない現実の事象を。絶対不可能なはずです。
 
 これについては、なにかアタシの投稿の文意が伝わっていないように思えます。(やはり「疑似閉鎖系」と「開放系/閉鎖系」の理解が違いがあるからでしょうか?)
 
 それから、「TRPGにおいて、物語の生成を試みる場合、これは、現実を舞台とした行為となり、自動的に挑戦的要素が発生します」、しかし「TRPGのゲーム世界内での、挑戦的要素〔には挑戦的要素は不要:(?)カンナ補記〕」。
 うえは、どうも、アタシが考えている[物語生成]とは別の論旨であるような気がします。
 どちらかと言うと、アタシが批判的な「ストーリー重視」に近いのかもしれません。
2000年12月30日:15時49分56秒
[【TRPG論】開放系/閉鎖系]Re:擬似閉鎖系との関連(長文) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕

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>SHiNさんへ
 チャットはよい考えと思います。
 ただ、今日には実家に戻りますので、具体的なご相談は年を超してからでお願いしたいです。
 ついでのようでアレですけどよいお年を。
 
◆これまでの主な関連話題経緯
@SHiNさんWrote (「【疑似体験】 現実における目的のある行動と、ゲームにおける挑戦的要素の差」,TRPG総合研究室 LOG 063,2000年12月29日:02時45分02秒)
>もし、開放系≠非閉鎖系でないとしたら、開放系でも閉鎖系でも無いなにか?(もしくは両方である何か)が存在することになる。が、これについて言及されてはいませんよね? 
 
 いえ、アタシは「開放系ゲーム≠閉鎖系ゲーム」でお話しているはずですが。
#確認ですが、以下は、SHiNさんの投稿の「開放系≠“非”閉鎖系」は、誤字と思って書きます。
#それでよいですよね?
 
 アタシは先の投稿では、「開放系でも閉鎖系でも無いなにか?(もしくは両方である何か)」である『ゲーム』がある」、とかは、とりあえず言ってないはずです。
#「[【TRPG論】疑似体験]『開放系/閉鎖系』についての質問」 (カンナ記,TRPG総合研究室 LOG 063,2000年12月27日:22時35分36秒)
 
 逆にアタシが、「SHiNさんはTRPGセッションを『開放系でも閉鎖系でも無いなにか?(もしくは両方である何か)』と考えているのですか?」的にお尋ねしているはずです。
 
 例えば、SHiNさんの【法則】は、おかしいです。
明確な目標を持つ「現実」の事象を「ゲーム」として持ち出す場合、それは常に「閉鎖系ゲーム」となるが、その特性は「開放系ゲーム」のそれをも合わせ持つ。
#「【疑似体験】 現実における目的のある行動と、ゲームにおける挑戦的要素の差」 (SHiNさん記,TRPG総合研究室 LOG 063,2000年12月29日:02時45分02秒)
 
 表現が「開放系ゲーム≠閉鎖系ゲーム」って定義に反しています。
 ですので、「SHiNさんはTRPGセッションを『開放系でも閉鎖系でも無いなにか?(もしくは両方である何か)』と考えているのですか?」、と尋ねざるを得なくなります。
 
 失礼ですけど、アタシなりにちょっと改変してみますね。
 明確な目標を持つ「現実」の事象を「ゲーム」として持ち出す場合、それは一見「閉鎖系ゲーム」にみえるが、みかえだけのことで、実は「開放系ゲーム」なのである。
 
 、、、ってことを言わんとしているのでしょうか?(違うかもしれませんが)
 もし・これならば、言わんとされていること、わかり易くなると思います。
 
 それから、「疑似閉鎖系@SHiNさん」の定義、「開放系を、ルール以外の影響で閉鎖系たらしめてる状態の事」も、やはり意味がよくわかりません。
 これは、「システム外要因によって、開放系になったり、閉鎖系になったり性質が変わることがある」のが「疑似閉鎖系@SHiNさん」ってことでしょうか? こっちも、アタシ、自信がありませんが、これなら「開放系ゲーム≠閉鎖系ゲーム」と矛盾しません。
 
◆「開放系/閉鎖系」と疑似閉鎖系
 アタシが言ってきたのは、わかりづらかったかもしれませんが、TRPGセッションの下位に含まれる「ゲーム(サブゲーム)」は、「疑似閉鎖系ゲーム@カンナ」で、「閉鎖系ゲーム」とは性質が異なるってことです。
 
 「閉鎖系ゲーム」ではないので、「閉鎖系にない性質を持つ」のもあたりまえと考えられます。例えば、「セッション中デザイン(総称)」ですが、これは「開放系」ゆえに生じる「閉鎖系には無い性質」なわけです。
 
 ただし、ここで「開放系/閉鎖系」の理解に食い違いがあったので、混乱が生じていたようです(SHiNさんに質問にお応えいただいて、やっとわかりました)
 
 アタシは、「開放系ゲーム環境の下位に含まれる『ゲーム』(サブゲーム)を、『疑似閉鎖系』」と理解しています。 
 うえは、アキトくんの整理にも即しています。
 また、「『TRPGセッション全体を“ゲーム”として捉える場合、開放系でしかあり得ない』=『TRPGセッションは閉鎖系ゲームではない』」ってこととも矛盾しません。
 
 「疑似閉鎖系ゲーム@カンナ」は、人為的にシステム化された部分ですし、「閉鎖系ゲーム」のように勝利条件を持つこともできます。
 
 アタシにわからなかったのは、「開放型ゲームには挑戦的要素がない」ってSHiNさんの定義が、どのような論理過程で導き出されるたものなのか、だったんです。
 
 アキトくんが整理した「『開放系ゲームは非閉鎖系ゲームである』という定義から表現が転じた」とは思われません。これも、質問にお応えいただいてわかったのですが、アタシとSHiNさんとで「開放系/閉鎖系」の内容理解が違っているようです。
 
>開放系ゲームは、非閉鎖系ゲームである。それゆえ、ルールに穴があり、その穴をつかれればゲームは成り立たない。
 
 いわゆる「ルールの穴」は、「開放系/閉鎖系」と直接関係ないです。
 例えば、ゲームソフトは閉鎖系ですけど。仕様ミス(「ルールに穴」)があるものもあります。
 
 それから、、、
>『リアルな株式投資』と言っている以上、そのリソース範囲(ルール系)は、リアル、つまり『現実世界』すべてを含みうるはずです現実世界は、『閉鎖系』です
 、、、これは、「開放系/閉鎖系」のコンセプトを勘違いされていると思います。
 
 「リアルなマネーゲーム」にとっての「リアルなワールド」の関わり方は、閉鎖系ではありません。
 「株式投資」のルールシステムも人為的に作られたものです。
 
 とても重要と思われますので、ちょっと詳しく検討します。
 
◆「リアルなマネーゲーム」は開放系ゲーム
 「疑似閉鎖系ゲーム@カンナ」=「開放系ゲーム環境の下位に含まれる『ゲーム』(サブゲーム)」、ってことでやらせてもらいます。
 
 「リアルなマネーゲーム」を株式投資とか先物買いとかの類とします。
 
 「リアルなマネーゲーム」は、「完全情報型」でも「完備情報型」でもありません。
 
 「リアルなマネーゲーム」は、ゲームのプレイヤーが不定ですし、不明です。通常、どのプレイヤーがいつどんな「手」でプレイしたか、の情報すら判明ではないので、「完全情報型」ゲームの定義からも「完備情報型ゲーム」の定義からもはずれます。
 ここが、極論をこねれば「ゲームではなくギャンブル」ってリクツもヒネリ出せる部分なわけです。実際、いわゆる“マネーゲーム”を「ギャンブル」のようにプレイする人もいるわけです。
 しかし一方、数学的な意思決定論の応用で、「マネーゲーム」も「ゲーム」とみなして対処する手法も考案されているわけです。
 が、そのゲーム性は閉鎖的なシステムのゲーム性とは性質が異なる。
 「開放系ゲーム」は、そうした数学的な考え方のひとつと言えます。
 
 「リアルなマネーゲーム」を「ギャンブル」ではなく「ゲーム」とみなすなら、まずは「non閉鎖系ゲーム(閉鎖系ゲームではない何か)」と認められます。
 
 次に、「マネーゲーム」には、「マネーゲーム」のルールシステムがあります。これは人為的に作られたものです。
 それから「取引市場」。これも、特に株式取引などの場合、市場関係者に資格が必要ですから「市場一般」と性質が違います。こちらも人為的に作られたものです。そうしたゲームシステムに則って「ゲーム」がおこなわれます。
 
 「インサイダー取引」とか「情報操作」などのルール違反ですが、これらがいわゆる「ルールの穴をつく」ことになる場合はあります。
 
 これらの「ルール違反」は、ある行為が、ルール(法規)に定義された「違反」かどうか、疑似閉鎖系としての「マネーゲーム」外部で争われることもあります。
 これらは下位ゲームである「マネーゲーム」そのものではありません。ゲームの性質が違う「システム外ゲーム」です。
 
 おおまかに、「TRPGセッションに含まれる下位ゲーム(疑似閉鎖系)」に対する「政治ゲーム」の関係性を「マネーゲーム」に対する「違反かどうかを争うゲーム」の関係性に類比してもよいでしょう。
 
 「マネーゲーム」の「ルールシステム」は人為的に作られたものですが、「リアルなマネーゲーム」にとって、「リアルなワールド」は、「ルールシステムの外部環境」になっています。
 「リアルなマネーゲーム」の場合、“外部環境”である、「リアルなワールド」は人為的に作られたリソースではない、って言うのは事実ですが。
 
 SHiNさんのご意見、ルールシステムと、ゲームリソースの供給源としてのリアルワールドがごっちゃに論じられてて混乱しているように思われます。
#例えば、「法の“ゲーム”」を、ゲームとみなすならば、開放系ゲームでしかあり得ないのですが。この場合も、「ゲームのルールシステム」は人為的に作られたものです。
#この観点では「基本的人権」なども、社会契約の一種(人為的に作られたもの)とみなされます。
 
 ルールの範囲内では、ゲームの予測もある程度成り立ち、意思決定の妥当性も理論的に判断されます。
 
 「マネーゲームのルールシステム」にとって、「リアルなワールド」の関与の仕方は論理システムとして定義しきれません。
 ですから「マネーゲームのシステム」にとって、リアルなワールドは閉鎖系ではあり得ません。論理的に定義しきれないものは「意思決定論的な『ゲーム』のルール系」にはなりませんので。
 
 例えば、ある時、戦争とか天災とかのイベントがおこって、ゲームに関わる予想の妥当性が大きく乱れてしまう。(言うまでもなく「ゲームに関わる予想」は、ゲームの意志決定の基盤です)
 
 予想自体は、ルールシステムの範囲内の妥当性で当たったりはずれたりするんですけど。その妥当性自体が乱れる。けれど、ルール系の構造は維持される。
 イベントの事後には、どんな影響がシステムに加わったので予想の妥当性が乱れたか、システムに即した論理的説明をある程度することもされます。
 
 これは、開放系ゲームの一つです。
 「リアルなマネーゲーム」は、「ある与えられた環境の下にあり、その環境から影響を受けるシステム」って、「開放系ゲーム」の定義に即しています。
 
◆開放系ゲームと「セッション中デザイン(総称)」
 ところで、大恐慌とか、革命とかが起きて、「マネーゲーム」のルール構造自体が破壊されたり廃棄されたりしたら、これは「全面的なゲームの中止(取引不能)」、とか「ゲームの変更」です。
 
 えーと、コスティキャン的な「ゲーム定義」との比較で言うと、――おおまかな話になりますが、「リアルなマネーゲーム」は次のように言うことができるはずです。
 
 「ゲームリソースの効用尺度」は、数値論理で定義されます。「ルールシステムの《構造》」も、数式と論理とで定義され・得ます。
 しかし、ゲームに使えるリソースに含まれる各項目の量は限定されていません。ここが、コスティキャン的な「ゲーム定義」と違うところとアタシは思います。
 
 ここから先は、さらにアバウトな話になりますが。
 革命などによる根本的ルールの変更とは違い、あるマネーゲームに関わる取引関係の法規などが改変されて、それでも「ルール系の構造」や「ゲームプレイ」に連続性が認められることがあるとします。これは、[疑似体験]の話題に転じる前に話し合われた、「ルール改変ゲーム(総称)」の事例と言えるでしょう。
 
 この事例の場合、「ルール改変(総称)」は、「マネーゲーム」のシステム外要因として影響を及ぼしてきます。そこは、TRPGでのリソースデザインとは性質が違うことが要注意です。
 
 が、「リソースデザインが、システム外要因の影響でおこなわれるなら、そのシステムは開放系」とはみなせます。
#自己形成型のシステムってコンセプトもあると思います。これには開放系であるものと別に、閉鎖型自己形成システムとしか呼びようがないものもあるかもしれません。が、そっちは、ここではおいておきます。
 
 TRPGセッションの下位に含まれる「サブゲーム(疑似閉鎖系@カンナ)」にとって、「言語コミュニケーション」や「政治ゲーム」は「システム外要因」として影響を及ぼします。
 
 「政治ゲーム」のことはとりあえず置いておいても、「言語コミュニケーション」は論理的に定義されるものではありません。ですから「TRPGセッションは、開放系だ」と言えるわけです。
 
 しかし、それだけでは、「TRPGセッションは開放系だから挑戦的要素がない」とは言えないはずです。
 
仕様ミス
 ここで「仕様ミス」って言ってるのは、アプリケーションソフトなんかで言われるのとはちょっとだけ違うと思います。
 
 ここで言っている「仕様ミス」はゲーム雑誌(ゲームソフト雑誌)などでよく言われるものです。
 ソフトが止まってしまうようなバグではなく、「ユーザーの観点からみても、あきらかにデザインコンセプトから違和感があり、(その意味での)プログラムミスとも思えるもの」で、「ソフトも止まらなければゲームプレイも継続できるもの」のことです。
 
 ひとつ事例を挙げてみます。ファミコン版の「三國志」シリーズのあるヴァージョンに、「自軍の兵糧に火をかけても、兵糧の量が減らない」って仕様が入っていたのがあります。敵軍の兵糧に火をかけるとターンごとに減っていきます。残存兵数との関与で兵糧の残量が減りすぎると軍勢は撤退しないとなりません。
 
 この場合、「敵軍の兵糧に火をかけると減る」のに「自軍の兵糧に火をかけても、量が減らない」のは不自然で違和感があります。しかし、「違和感はあってもそれはそうゆうもの」と割り切ると、システムを前提にした戦術が編み出せます。ゲームプレイも続けられます。
 
 これなどが、バグとは違う「仕様ミス」と、呼ばれるものの典型的事例のひとつです。
 この場合、「自軍の兵糧に火をかけても、兵糧が減らない」ことに気づかず、「『敵軍の兵糧に火をかける減る』のと同じ処理が自軍兵糧にも適用されるだろう」、と思ってるプレイヤーの観点からすると、「仕様ミス」を前提にした戦術は、「ルールの穴」をついたものであるように捉えられます。
#SHiNさんが考えている「ルールの穴」はこうした「仕様ミス」とはまた別種なのかもしれませんが。そこまではSHiNさんの文章から判断しきれませんでした。

「リソースデザインが、システム外要因の影響でおこなわれるなら、そのシステムは開放系」
 うえで言っている「システム外要因」は、「判定系ルール、外要因」の意味です。
 ご存知のようにTRPGジャンルでは、ゲームタイトルを「システム」と呼ぶ言語習慣があり、特に判定系システムの「システム」と呼ばれます。前者にはワールド設定も含まれるのですが、後者は、一端分節されたうえで、複合が考えられます。
 
 ここで言っておくと、TRPGセッションを開放系ゲームとしてみるとき、開放系の包含関係が多層階層をなしています。
 「多層の階層」とは、性質がことなる階層が複合していることを意味します。
 特に、「ゲーム」のシステムの場合、連続するシステムは一見「多層構造」にみえても、それは見かけだけのことにすぎません。性質が同じシステムが連続したらその部分は見かけ上「多層構造」にみえても、単なる閉鎖系(または疑似閉鎖系)にすぎない、ってことです。
 
 性質の異なる階層が混同されると、混乱する議論もあるので注意されるべきです。
 TRPGセッションの開放系に関わると思われる多層構造を上から記してみます(以下は、一応今段階の「仮の整理」です。もっと整理できるかもしれません)。
 
・言語環境
・セッション環境
・セッションでのコミュニケーション
・政治ゲーム
・疑似閉鎖系ゲーム
  
<階層関係の図式:(崩れないでうまく表示されるとよいのですが)>
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃言語環境            ┃
 ┃┏━━━━━━━━━━━━━━┓┃ 
 ┃┃セッション環境       ┃┃
 ┃┃┏━━━━━━━━━━━━┓┃┃ 
 ┃┃┃セッションでの     ┃┃┃
 ┃┃┃コミュニケーション   ┃┃┃
 ┃┃┃┏━━━━━━━━━━┓┃┃┃ 
 ┃┃┃┃政治ゲーム     ┃┃┃┃
 ┃┃┃┃┏━━━━━━━━┓┃┃┃┃ 
 ┃┃┃┃┃疑似閉鎖系ゲーム┃┃┃┃┃
 ┃┃┃┃┗━━━━━━━━┛┃┃┃┃ 
 ┃┃┃┗━━━━━━━━━━┛┃┃┃
 ┃┃┗━━━━━━━━━━━━┛┃┃
 ┃┗━━━━━━━━━━━━━━┛┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 
#「言語環境」は、通例は日本語のオーラル環境です。ここには例えば「コンベンションスタッフとのセッション外コミュニケーション(「コンベンション終了まで、後一時間です」など)」も含まれます。
#「セッションでのコミュニケーション→政治ゲーム」のあたりが一番整理が心もとないあたりです。
#でも、「開放系⊃疑似閉鎖系」の関係では、「疑似閉鎖系ゲーム」が一番下位に含まれる、って言うのは間違いないはずです。

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2000年12月30日:11時02分40秒
TRPG総合研究室 LOG 063 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 063として2000年12月24日から2000年12月29日までのログを切り出しました。


2000年12月30日:10時03分14秒
[まとめ(?)]YANさんのリクエストへのレスポンス / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>YANさんへ
 アタシの中間まとめですか。簡単です。
 
 まず、達成ですね。
 
 「[【TRPGの定義】セッション中デザイン]セッション中ゲームデザイン(総称)の諸相」 (カンナ記,TRPG総合研究室 LOG 061,2000年12月12日:11時23分16秒)、です。
 
 それと、
 もうひとつ、アタシの達成ではないですけど、アキトくんが整理した「開放系/閉鎖系」の概念は収穫でした。
 
#@アキトくんWrote「開放系ルールとしての RPG」 ──あるいは RPG は将棋ではないという話
#@アキトくんWrote「付け足しなんかつまらない!──続・RPG は将棋ではないという話」(半完成)

 「開放系ゲーム」のコンセプトは、「意思決定」のコンセプトと同じくらい、TRPGの理解に有益なんです。
 だって、TRPGが「完全情報型(チェスや将棋の類)」とも「完備情報型(ポーカーの類)」とも違うタイプの遊びだ、なんて言われたこと、これまでTRPG.NETではなかったのではないでしょうか?(断言はしませんけど)
  
 それから現在の目的、ですね。

 [疑似体験]の話題になって、急に論旨がわかりづらくなりました。
 
 で、丁度、SHiNさんに質問をはじめたところです。
 (ですのでアタシには[疑似体験]関連のまとめは、今のところできないです、悪しからず)
 
 アタシが思うにはどうも、アキトくんが紹介した「開放系ゲーム」の概念が誤解されているふしがあるようです。アタシにはそう思えます。

 「開放系/閉鎖系」については、誤解を少なくしたいと思っています。←これが現在の目的と言えば目的です。
 
 実用方面でのお話としては、SHiNさんが言ってられる「疑似体験の動機を整理するお話には興味があります。うまくいけば、有益なお話になると思っています。
 そのためにも「開放系/閉鎖系」についての誤解は減らした方がよいと思っています。

 えーと、それから、アタシの感じ方なんですけど。
 「実用的なお話」は、方向がみえてきたところで、「関連の掲示板に飛ばして、こちらの掲示板にはリンクを張る使い方」が向いているのではないかな、って思っています。
2000年12月30日:02時11分15秒
[用語]Re:完備情報 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>Crescentaurさん
 こんにちは。はじめまして。
 詳細は匿名希・望さんにお聞きした方がよいとは思いますが。
 「完備情報型」についてですけど、「ゲームのプレイヤーが互いに戦略集合と利得関数を知っている」のこととされているようですね。
 
 ですので、匿名希・望さんの紹介された「ゲーム中に全てが見える訳ではないが、ルール上許される行動や出てくるリソースの種類が有限で予測可能なもの(麻雀、カードゲームなど)」でもよいと思われます。
#「[用語]コスティキャン的ゲーム」 (匿名希・望さん記,TRPG総合研究室 LOG 0622000年12月16日:17時19分40秒)

 これは、匿名希さん、「完全情報:ゲーム内の全ての事象が明らかなもの」との対比で言われています。
 「完全情報型」「完備情報型」は「共通の知識としてルールを知っている」ことよりも、ゲームプレイでどんな行為をおこなったかの情報が公開されていて、相手の戦略が推測可能かどうかの方が重要なはずです。(相手プレイヤーの戦略を推測するためにはルールの理解も必要なのですが)

 そして「完全情報」では、どんなリソース活用の情報がすべてオープンにされる。
 けれど「完備情報」では、リソース活用の情報が部分的にしかオープンにされない。
 そこが違う、ってことが匿名希さんの投稿の主眼だと思われます。

 Crescentaurさんが「有限」のところにひっかかるのもわかるんですけど。

 私見ですが、匿名希さんの文章が言わんとしているのは、「ゲーム中に全てが見える訳ではないが、ルール上許される行動や出てくるリソースの種類が限定された範囲の確率論などで予測可能なもの」ってことかと思っています。
 
 投稿原の、「有限で予測可能なもの」とは、「戦略の有限さ」のことよりも、「確率論、他、などで予測可能な範囲」のことを意味しているのではないかと思います。
2000年12月30日:01時44分53秒
[要望] 中間まとめ欲しい/「開放系」の質問/実用的な話も交えて議論しません? / YAN
 
 ども、時々拝見させて頂いてますが、一連の議論は(期間的にも分量的にも)長いし、各人の定義不整合や脱線、未解決の問題など色々で、正直どういう展開なのか良く把握出来ていません。
 
 宜しければ、各人(特にSHiNさん、鍼原さん、myrtさんの3人)の、現在の目的、及び既に達成された目的(他人の同意はどうあれ、自分なりに結論/成果が得られたと思っている事柄)をまとめて戴けると有り難いです。
 
 
> SHiNさんへ
 
 「開放系では挑戦的要素は成立しない」という定義、定義は定義として受け入れてもいいんですが、正直、この定義にどういう意味合いがあるのか分かりません(「挑戦的要素は”必ずしも”成立しない」という言い方なら分かるんですけど、どんな場合にでも成立しない、ってのはピンとこない)。
 
 おそらく、「挑戦的要素が発生した時点で(疑似)閉鎖系に変わる」という理論でフォローされているとは思うのですが、それなら「挑戦的要素を必ずしも要しない点が、TRPGの開放的なところ」みたいな言い方の方が分かりやすいのですけど。
 
 この定義をすることで、どういうメリットがあるのか。
 理由を教えて欲しいです。
 
 
> B、臨場感により生まれる疑似体験
 
 これについては、概ねSHiNさんの言いたいこおは分かります。
 「臨場感を高める」為に、現実世界へ干渉するというのは、”疑似”体験の主旨からは外れると思うし。
 
# 戦場での臨場感は味わいたくても、実際に人殺しをしたいわけじゃない。
# ていうか、それって全然”疑似”体験じゃないし…。
 
 また、映画や漫画よりも小説のほうが臨場感/雰囲気が出る場合もありますし。
 TRPGに適した臨場感の出し方、って方法論もアリだと思います。
 
 
 で、まぁ、正直、理論ばかりで実際のプレイから離れた議論が続いているので、そろそろ具体的な方法論が読みたいなぁ、と思うのですけど…(ていうか、毎回、理論+その理論を適用することで得られるメリットの両方を併記して貰えると有り難いなー、とか思ったり)。
 
 正直、今の段階では、実際のプレイにどう役立つか(…ていうか、SHiNさん、鍼原さん、myrtさん3名以外の方にどういうメリットがあるかどうかすら)掴み兼ねているので、その点を考慮して貰えれば、読む側としても嬉しいし、いきおい他の方の発言も増えるんじゃ無いかなー、と思います。

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