TRPG総合研究室 LOG 084

TRPG総合研究室の2002年01月05日から2002年01月09日までのログです。


2002年01月09日:11時51分11秒
【比較ゲーム分析】スポーツとゲーム / トモス
Purpleさんこんにちは。

スポーツを例に使わないで欲しい、というリクエスト、了解しました。他の例でも議論はできる気がするので、それでPurpleさんにわかりやすくなる、ということでしたらやってみようと思います。他のリクエストや別の事情が発生たら、またその時考えますが。あと、紛らわしそうな場合には、「頭脳中心ゲームである/ない」というような言い方をしてみようと思います。

フィードバックありがとうございました。

ちなみに、これまでの僕の説明が足りなかったのだと思うのですが、走行フォームやトレーニングの仕方がゲーム性を帯びているのは、どういう走行フォームにしたら空気抵抗が少ないかとか、速く走れるかとか、どういうトレーニングメニューを組んだら競技に合った身体が作れるか、といったことを考える部分があるからです。真剣に上達を目指す人ほど、そういうことを研究したり試行錯誤したりしますよね。それはPurpleさんの考えているゲームとそう遠くないと思います。(但し、プロ選手の中には勝つことだけを楽しみにして、勝つための工夫を楽しまない人もいると思うので、そういう場合は僕の定義でもゲーム性は失われます。これはPupleさんと意見が一致するところですが。)

ただ、スポーツに顕著なのは、「頭を使って抽象概念で考えるのではなく、身体感覚を使って考える」という類の工夫が多いことでしょうか。Purpleさんはだぶんここにひっかかるんじゃないかと思うので、「頭脳中心ゲーム」という用語を考えてみました。

これと類似して、画家が自分の視覚的な感覚を頼りに「より美しい絵の具の分布パターン」を探すのも、料理人が味覚や歯ごたえや匂いや見栄えについての記憶や感覚を頼りに料理のレシピを摸索する場合なども、僕にとっては「工夫」の一種で、それを楽しんでいればそれもゲームの一種になりうるのですが、あるいはPurpleさんの考えるゲームには決してなりえないものかも知れません。

映画監督が特定の心理効果を狙ってフィルムの編集をする場合だとか、TRPGで遊び手が面白い物語の生成を狙ってプレイする場合、これも感覚を頼りに考える部分がありますよね。ここをこう編集したら観客は感じるだろうか? とか、ここでPCがこちらの選択肢を選んだらどんな物語になるだろうか、といった形で考えて、目的達成のためにどちらかを選んでいく行為ではあるので、これも僕にとっては工夫の一種です。主に鍼原さんとやりとりしてきた「物語生成重視のプレイ」をめぐる話は、Purpleさんには理解し難いものかも知れませんが、それもやめてくれ、という話ではないと思うので機会があればまた続けます。どうか悪しからず。
2002年01月09日:02時22分14秒
【比較ゲーム分析】スポーツとゲームを同じ土俵で語るのは、わかりにくいです。 / Purple
 どうも、水を差すようですみませんが。
 私としては、「頭を使って『考える』ことに楽しさや面白さの主点を置いている遊び」のことだけを「ゲーム」と呼びたいと思っています。(例えば、将棋でも、ディプロマシーでも、「勝つ」ことが楽しいのではなく、「勝つための方策を考える」ことが楽しい。という遊びなのです。)
 
 なので、100m走をゲームに見立てて論じられても、判りにくいです。
 わかりにくいので、話している内容が正しいのか、誤っているのか、判断がつきません。もう少し、RPGに近い分野の遊びで、比較分析していただけるとうれしいです。
 
 これだけはつまらない書き込みなので、わからないなりに感じたことを書きますが。たしかに、長距離走における「駆け引き」とか、野球における「監督の采配」、「投手の投球の采配」には、ゲーム性はあると思いますけど、トレーニングの仕方とか、走行フォームという部分には、ゲーム性は無いような気がします。
 後者をゲームに分類してしまうと、ありとあらゆる遊びは、すべてゲームに分類できるので、ゲームというジャンル分け自体がまったく意味を持たないことになり、分析のしようがないように思えます。
2002年01月09日:01時15分08秒
【比較ゲーム分析】開放系と実装領域 / トモス
実装について考える上で僕が抱えている混乱を少しだけ整理します。繰り返しになる部分も多いですが、見通しがよくなるだろうと思うので。

開放系ゲームというのは僕の定義だと、未定義性があるゲームです。手、手の影響、勝利条件、設定データ、ルール、などについての未定義性です。未定義部分が定義されると、ゲームバランスが変動します。ゲームの構造が変動する、別ゲームへの移行が起こる、ゲーム核が変わる、とも言い換えられます。TRPGはこういうゲームです。他にスポーツとディベートが考えられます。ディプロマシーは開放系が閉鎖系を包み込んでいるゲームだと考えられます。(他の解釈モデルもありえますが)

スポーツでは身体動作が「手」になっていて、未定義性があります。新しい泳法や呼吸法が発案された為にこれまで考えられなかったような記録が出せるようになる、というのがその一例です。

実装領域というのは、ゲーム核部分以外の、暗黙のルールやマナー、その他いろいろな配慮の対象となる領域です。

もしもゲーム核と実装領域を区別できる保証がないとしたら、あるゲームで何が有効な手であり何が反則であるかについての判断が一致しないことになります。ということは、全てのゲームが未定義性を含む(=開放系)だということになるわけです。将棋で「香水をつけてきて対戦相手の香水アレルギーを誘発する」という手が反則だと意見が一致するのでなければ、将棋もまた、遊び手の発案した手によってゲームの構造が変動することになります。こうした反則行為はもちろんルールでは明示的に定義されていないわけで、だから「全てのゲームは未定義性を含む」とするのが不可分派です。(不可分派=ゲーム核と実装領域の区別が不可能だと考える立場)TRPGにゲームとしての独自性があるとすると、それは単なる開放性、未定義性ではありえない、ということにもなります。

もしもゲーム核と実装領域が区別できるのであれば、香水をつけてくるという行為はゲーム内の「手」を構成するものではなく「実装領域での出来事」である、と考えることができるということにもなると思います。ゲームの構造の変動とほぼ同じことが実装領域の変動によって生じ得るわけですが、実装の作業というのはそれをできるだけ排除する作業だ、ということで一応意見が一致しているような気がします。事前に定義されていない行動や出来事を含めて、ゲーム前やゲーム中に追加設定などの対処をしていく作業、未定義部分を定義していく作業が実装のプロセスになるわけです。で、実装領域での判断については意見が分かれても構わないのだ、と考えるならば、「ともあれゲームは閉鎖系だ」と言うことができます。

ついさっき気が付いたのですが、ゲーム核と実装領域は「手」と「それ以外の行為」がそれぞれ所属する行為の分類カテゴリーだと考えることもできます。ゲーム核とはゲームの構造のことだ、という定義を以前やったわけですが、その構造の記述に含まれている諸行為が手であり、実装領域はそこに含まれない行為の所属する領域だ、と。

では、ゲーム核と実装領域の区別はできるのか。ある勝利条件を与えられた時に、それを達成する手段を「手」と「実装領域の出来事」とにわけることができるか。原理的には保証がないものの将棋のようなゲームでは区別が比較的容易、というところでも意見が一致しているようです。その理由が何かについてはいろいろ説があるようです。

手が離散的であること、ルールに従っているかどうかの判断がしやすいこと、などmyrtさんが挙げた基準です。何故将棋では「手が離散的だ」とわかるのか(=どうしてそこの部分をその形でゲーム核として取り出せるのか)を考えると混乱します。同様に、ルールに従っているかどうかの判断がしやすいのは何故なのか、を考えるとわからなくなります。「ゲーム核と実装領域を区別しやすいゲームについてはゲーム核と実装領域が区別しやすい」という話になっているような気もします。(本当にそうだと確証が持てたらそれを明示できるはずなのですが、それができないのは、混乱しているからです。何か誤解しているような気もします。)

ゲームの目的が与えられるとそこから論理的に判断できる、という説を鍼原さんは出しましたが、これも決定打という感じはしません。王将を詰める手段の内、正当な手とそうでない行為を区別する際には、常識的な感覚とか、その社会に特有の知識のようなものを使っているような気もします。

僕は「社会的な次元がある」ということを言ってみたのですが、これも、「では社会変動にも関わらず将棋が同じような実装でプレイされるように思われるのは何故か」ということに関して説明できないのが気になります。そこには、何かゲームの性質にまつわる原因、非社会的次元を考えることもできるのではないか、と。
2002年01月08日:23時58分50秒
【比較ゲーム分析】マルコフゲームと状態遷移図 / トモス
100m走と将棋の実装をどう考えるか、という議論をやっているわけですが、将棋の件についてはどうやら特に意見の相違がないようですね。

100m走の例をmyrtさんがどのような意図で出したのかが僕にはまだわかっていないのですが、「100m走では取りうる戦略はただ全力疾走のみなのでマルコフゲーム」という論旨だったようにもとれます。「選手Aの全力疾走と選手Bの全力疾走は同じ手だとは見なせない」と考えるとまた違ってきますが。混乱の原因は、僕がmyrtさんの議論を把握できていない点だけではなくて、100m走をゲームとしてどう解釈するかについて迷いがあるためでもあるようです。myrtさんの投稿内容について更に解説が欲しいです。

マルコフゲームと状態遷移図については門外漢ですが、これまでの議論とつなげるためにとりあえず僕の考えたことを書いておきます。簡単に言えばマルコフゲームは閉鎖系ゲームの別称、状態遷移図はゲームの構造の別称、というのが僕の印象です。もし間違っているようなら指摘して下さい。
マルコフゲームについては「『ある状態に対して取りうる戦略が一意に決まる』ようなゲーム」というmyrtさんの定義を前提にしてみます。

これは最適解が計算できるゲームだ、ということでいいでしょうか? それも、普通のプレイヤーが最適解を計算できるかどうかではなくて、「計算能力が無限に高いプレイヤーにとって最適解が計算可能なゲーム」かどうかの問題で、もしそうだとしたらそれはマルコフゲームである、と。とすると、myrtさんの議論は「閉鎖系のゲームでは実装が容易だが開放系では実装が困難」ということでしょうか??


閉鎖系ゲームでは、選択可能な手と、その効果が定義され切っているので、計算能力さえ十分にあれば最適解を求めることが可能です。最適解を求められるゲームは、閉鎖系の他にはほぼ皆無だ、とも言えます。敢えて言えば最適解の定義の仕方によっては「人間心理への洞察に基づいた前提を導入することで最適解が求まるゲーム」というのを考えることはできますが。

また、未定義性があるゲームについて、それを近似的に閉鎖系ゲームと見なすようなことを僕が見たウェブ上の論文などではやっていましたが、もしその可能性にmyrtさんが注目しているのだとしたらまたちょっと話は違ってくるかも知れません。

状態遷移図は適当な定義が見つからなかったのですが、見たところ僕が以前定義したゲームの構造のことだと言っていいようなのでそっちの定義を再録します。

>>ゲーム核は、ゲームの構造を、そして恐らくはそれだけを定義するものです。どのような局面がありうるか、それぞれの局面でプレイヤーは何ができるか(手)、どのような手がどのような効果を持つのか、勝利条件が達成されるのはどのような局面か、それらの定義の総体です。<<
>>これはゲーム中に起こりうる全ての局面を点とし、その間を移動できるかどうか(手やその他の要因によってひとつの局面から別の局面への移行が起こりうるか)を3種の線(自分の手、他のプレイヤーの手、偶然性、それぞれによる変動)で結ぶようなネットワークを考えた時の、そのネットワークの構造です。ちなみに線は矢印(方向付き)です。<<*1

オートマタの状態遷移図=ゲームの構造は、将棋のように、「どのような入力(手)がどのように状態を遷移させるかが明確に定義されているシステム」については描けます。myrtさんが指摘されているように、ゲームの得点数が無限である場合には描けないと考えることもできますが、この場合でも、有限な時間内に描いたゲームの状態遷移図は、未完成だが、描かれた部分に関しては正確で取り落としがない、という特徴があります。これが未定義性のあるゲームになると、そもそも不正確・取りこぼしがある、という可能性を原理的に排除できません。遂行可能なはずの手が描かれていなかったり、状態遷移に影響する一部の要因がそもそも図に含まれていなかったりします。


サッカーのケースですが、これはメインゲームとサブゲームという概念で考えるといいように思いました。(2つのサブゲーム、と考えてもいいです。)「試合中断」中に行われることの内容も、「試合(継続)」中に行われることの内容も、それぞれ未定義性を含むゲームなのでゲームの構造を明確にすることができません(=状態遷移図が描けない)。ところが一方のゲームからもう一方のゲームにどのような要素を持ち込むのか、については比較的明確な規定があります(判定の為に中断したら判定結果を出して試合再開に至るなど)。中断と再開についても比較的はっきりしていて、これはこの2領域がそれぞれ自己完結性の高いサブゲーム領域だと考える根拠になります。

中断の合図があったその時にゴールが決ってそれが有効かどうかについてモメる可能性はあります。更に、悪天候が迫っており、劣勢なチームが少しでも中断時間を稼いで試合中止、無効に持ち込もうとする場合なども考えられます。もしかすると「試合」「中断」の間の関係が定義され切っているとは言えないような気もします。これは何を実装部分とし、何をゲーム核にするか、にもよる気もしますが。
サブゲームについては、それを「副次目的を追求するためのゲーム」を指す場合と「閉鎖性の高いゲームの一部分」を指す場合とがありましたが、*2 ここでは「互いに対して閉鎖性の高いゲームの一部分」を指しています。
参照:
*1【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装の区別:インターフェース問題,トモス,2001年12月23日:15時53分46秒,TRPGLABO 081
TRPGLABO 081
*2【比較ゲーム分析】用語法をめぐる註記,トモス,2001年12月27日:10時31分46秒,TRPGLABO 082
2002年01月08日:11時54分43秒
【比較ゲーム分析】re:実装領域とゲーム核 / myrt
(re:2002年01月06日:22時10分48秒【比較ゲーム分析】実装領域とゲーム核 / トモスさん)

>>ここで「プレイヤーの熟練度などにより一定の手の意義を見落とす可能性 が高い」という状況があるにも関わらず、という条件をつけて構わないのなら。

その条件は正しいと思います。しかしそれはゲームそのものに対する熟練度であり、 実装に対する適性や熟練度と分けて議論すべきだと思います。 将棋の達人に対して不慣れな実装を強いて苦戦させることは簡単ですから。

 将棋そのものには、例えば2人以上が一緒に考えてはいいけないというルー ルはありません。初心者2人対熟練者1人でもゲームは成立します。

 「初心者にコンピュータ補助をつけた場合はどうなるんだ」という問題に対し ては、「それは初心者だけがプレイしているのではなく、初心者+コンピュータ というプレーヤーがプレイしているのだ」として把握すれば解決すると思います。 事実、コンピュータ補助付きチェスという分野があります(凡ミスが減ってス ピード化するそうです)。

>> あと、1m単位の選手の位置を、ゲームの状態(局面と言い換えてもよさそ うですね)と同一視している点がちょっと気になります。走者の姿勢や加速度 や体格なども、「ここでどのような動作を選べるか」に影響するので状態の中に 含めたいような気がします。

 マルコフゲームの考察から、箱根駅伝でそう管理されていたのは たぶんそれが「離散的に定義できて、定義して運営(区間賞の 発行とか)のために有益だと思われた状態」だ からではないかと思います。姿勢などはあまり離散的に定義できませんし、 他の要素も離散的に定義して運営のために有益とは思えません。 姿勢で明確に定義されるものとしては野球の「セットポジション」とかがあ ります(あれは別にルールでは決まってない??)。
2002年01月08日:11時51分28秒
【比較ゲーム分析】ゲーム核とマルコフゲーム / myrt
 そのまんまのものを失念してました。「将棋のようなゲームは マルコフゲームであり、マルコフゲームは完結したゲームである」 で片付くように思えます。マルコフゲームがまさに「ある状態に 対して取りうる戦略が一意に決まる」ようなゲームです(たぶん定義は マルコフ過程の上で戦うゲーム)。ただしどの状態に遷移するかは、元の状態と戦略 だけでなく確率にも依存します(将棋のようなゲームは確率が1であり、たまたま 決定的である)。

 ところが人間の100m走のようなゲームはマルコフゲームとして定義しても 適切な定義にはなりません。「ある状態と戦略に対しての確率的状態 遷移」というルールの集合を定義できない、もしくはその定義が適切な 現実のシミュレーションにならないからです。

 ただし、そのようなゲームにおいても 制御用の情報をマルコフ過程で表現していることが多いです(というか全 て??)。例えばサッカーでは得点や プレイ時間、プレイ中か中断中かなどの状態があり、「プレイ状態で、反則が 発生したとき(審判が 反則を宣言したとき)に中断状態に移る」などの状態遷移ルールが規定されて います。状態遷移の遷移規則(発動トリガーみたいなもの)に引っかかるか の判断は開放的(審判の判断な ど)ですが、遷移規則に引っかかった後の処理は 完結性を持ちます(私はこの完結性とゲーム自体の完結性を混同していた)。 これはマルコフ過程であり、たぶん状態遷移図も書けます。
#しかし得点は有限じゃないから有限状態数では書けないかも...

 TRPGの場合、遷移規則に引っかかるかの判断どころか遷移規則や 状態そのものを未定義のまま扱い、プレイ中に定義していく点に特色が あるように思えます。ソードワールドのルールブックに戦闘処理用の 状態遷移図がありますがあんな形で戦闘を記述したとき、例外処理を どんどん書き加えていく様を想定しています。

 一般的でない用語を山のように使ってしまいました。マルコフゲーム、マル コフ過程、状態遷移、状態遷移図あたりがマズいでしょうか。googleで「有限 オートマトン 状態遷移図」で引くといくつか状態遷移図がひっかかりますの で、興味のある方は調べてみていただけると幸いです。図を見たらなんだ、 と思う程度のものですので。状態遷移図はつまり流れ図で、そういう図が書 けるものがマルコフ過程です(我ながら投げやりな上に不正確...)。
2002年01月06日:22時10分48秒
【比較ゲーム分析】実装領域とゲーム核 / トモス
まず鍼原さんへのお返事を。ちなみにタイミング、逸してないです。

>>「あるゲームの実装領域とゲーム核の境界線について合意できる」のではなくて、「あるゲームのゲーム核を理解しているもの同士では、何が実装領域の問題かは『ゲーム核に規定されていない諸問題』って型で共通理解が可能」<< と指摘されていますが、これは文章表現上の問題ではなくて問題の切り口の差だと思いました。この切り口がいろいろあって整理できずに僕はかなり困っていたのですが、鍼原さんので行けそうなので試してみます。

問題は、ゲーム核と実装領域が常に判別可能で、あるゲームのプレイされる様子を見たらその中で何がゲーム核で何が実装にあたるかを誰もが同じ仕方で区別できるかどうか、ではない。
問題は、TRPGなり将棋なりのルールを見た時に「これに沿って遊ぶようなゲームは、何をゲーム核と考え、どう実装するのがいいだろうか」という問いに対して誰もが同じような答えを出せるかどうか、だ。

もし誰もが同じような答えを出せるのであれば、そのゲームは「暗黙のルール」についての了解が達成しやすいゲームであり、ということはゲーム核=ゲームバランスが安定しているとも言えます。別ゲームへの移行が生じない。もしTRPG以外のゲームがこうした「合意しやすさ」を備えているとしたら、遊び方についてこれほど多様な論争が成立しうるTRPGは他のゲームとはかなり違った特性を持っていると考えることができる。

自分でもちょっと混乱した点なので一応書いておきますが、「ゲーム核」はインターフェースにすら関係のないゲームの構造部分の論理的な記述だと僕は考えていますので、将棋のルールが駒と盤に言及しつつ語られているとするとルール=ゲーム核というのとはちょっと違ってきます。ルールを読んで、そこからゲーム核を汲み取る作業が必要になります。*1 鍼原さんの「ルール核」という用語はそれを意識してのことかも知れませんが、あるいは僕と違ったゲーム核の定義を想定しているのかも知れないですが、ともあれ念のために。

で、続いてmyrtさんに。
僕は実装/ゲーム核問題についてはいろいろ混乱を抱えています。100m走と将棋の例を今回の投稿では挙げられていますが、それもやっぱりよく考えるとあれこれわからなくなってきたのでそう明言してみることにしました。

将棋については、同じ状況で同じ戦略群を選択できることがゲームの同一性を保証している、というmyrtさんの見解に賛成です。たぶん。ここで「プレイヤーの熟練度などにより一定の手の意義を見落とす可能性が高い」という状況があるにも関わらず、という条件をつけて構わないのなら。つまり、熟練プレイヤーも初心者も同じゲームの構造(=ゲームバランス*1)に直面しているわけで、だから同一のゲームをプレイしていると言えます。

100m走の場合にはこれを一人遊び用ゲームと見る(少しでも早いゴールインを目指してプレイするもの)か、順位を競うものと見るか、で少し話が違って来るかも知れません。その上、将棋における「熟練度」とよく似た脚力などの要素があり、それとは区別して考えたい「フォームの選択」などの戦略的要素(=工夫の余地)があります。実際にこの両者が結びついているところが100m走の厄介なところですが、自分の体格などに合わせてフォームを選ぶ、呼吸法を選ぶ、などの工夫の余地があるので100m走もゲームと言えると思います。

もちろん、事前のトレーニングや資質などによってタイムが大方決ってしまう面があり、ゲームとして余り面白くないと考えることはできると思います。実力差のあるプレイヤーと順位を競うならなおさら。でもそれは100m走のプレイがゲーム性を持たない営みである傾向が高いとは言えても、100m走のルールシステムがゲームのシステムとは呼べない、ということではないだろうと思います。

また、スタートの姿勢、走行フォームや呼吸法(は100m走にはないことが確実かな?)はどのようなバリエーションがあるのか定義され切っていないのでそうした面での手の発案の仕方によってはゲームバランス(ゲームの構造)を変更できます。これは他のスポーツ同様未定義性を帯びたゲームだということです。

離散モデルによる分析は手法はわかるのですが、結論部分がちょっとわからないです。完結していないゲーム、という用語は未定義性のある開放系ゲームと言い換えていいでしょうか? あと、とれる戦略群が同じとは限らないのは、脚力の問題だとすれば、将棋の熟練度の違い同様、問題にならないと考えるのはどうでしょうか? そうではなく発想の違いからとれる手が違ってくるのだ、という論旨であれば賛成です。たぶんどちらでもないケースをmyrtさんは想定しているように思うのですが。

あと、1m単位の選手の位置を、ゲームの状態(局面と言い換えてもよさそうですね)と同一視している点がちょっと気になります。走者の姿勢や加速度や体格なども、「ここでどのような動作を選べるか」に影響するので状態の中に含めたいような気がします。

基本的な問題は、「インターフェースを換えても、熟練度が違っても、直面しているゲームの構造が同じであれば、それは同じゲームだ、」としてしまうと、インターフェースやその他の実装上の要因によってあるプレイヤーが非常に強くも、弱くもなってしまう、という点でしょうか。少なくとも僕はそこで詰まっている感じです。

と考えている内に「100m競争は実装できるのか 」*2 についてのmyrtさんの意図はふと腑に落ちました。その後の「社会的次元」の僕の解釈はだいぶ的を外している感じがします*3 どこが的外れなのかを明らかにしようとやってみたことなのでまあそれはそれでいいのですが。。

参照(敬称略):
*1 【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装の区別:インターフェース問題,トモス,2001年12月23日:15時53分46秒,TRPGLABO 081
*2 【比較ゲーム分析】100m競争は実装できるのか,myrt,2001年12月27日:18時25分47秒,TRPGLABO 083
*3 【比較ゲーム分析】実装とゲーム核の区別:社会的次元,トモス,2002年01月04日:19時36分17秒,TRPGLABO083
2002年01月06日:19時26分12秒
[比較ゲーム分析]実装とゲーム核の区別 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 トモスさんの考える「物語内容重視」のプレイは、アタシの考える「物語生成過程重視」のプレイと、少し重なっているものの、ズレがあると思うのですが。
 この件は少し考え中です。どこから切り込んで考えていくと一番違いがはっきりするか、整理の戦術を考えたいと思っています。
 
 その代わり、というわけではありませんけど。実装領域とゲーム核について。(少しタイミングを逸したかな?)
 
トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】実装とゲーム核の区別:社会的次元」,TRPG総合研究室 LOG 083,2002年01月04日:19時36分17秒)
>「どうして人は、あるゲームの実装領域とゲーム核の境界線について合意できるのか」
  
 えーと、まず命題の文章表現的なもんだいですけど。
 「あるゲームの実装領域とゲーム核の境界線について合意できる」のではなくて、「あるゲームのゲーム核を理解しているもの同士では、何が実装領域の問題かは『ゲーム核に規定されていない諸問題』って型で共通理解が可能」ってことだと思います。
 
 ゲーム核の論理性を明確に抽出できて、ゲームの目的も明確に定義できる場合、ゲームの目的を追求するシステムの内でのサブ・システムの意義も明確に理解されるんだと思います。
 
 アタシが思うには上のような条件が整う場合(大抵のゲームでは整うわけですが)、実際の実装が妥当かどうかは、「(明確に定義された)ゲームの目的を追求するシステムの内でのサブ・システムの意義」から判断が下されると思います。
 
 例えば、トモスさんが挙げられた例、
>〔将棋で〕持ち駒を相手から隠してしまうとか、隠さないまでも常に複数の持ち駒を動かし続けて相手の思考に負荷をかけようとすること
 
 ――は、「将棋の勝利条件追求」に関連する「持ち駒をリソースとして再利用するサブルール」の意義から、どのような実装がより妥当か、判断がつくのだと思います。
 
 将棋のようにルール核が、論理的に記述され固定されたゲームでは、長い年月の間に「持ち駒の扱いについての実装」も、伝統的な方法が定まるんだと思います。そして、そこにはトモスさんが言われる社会的次元ってのが関与しているとは思います。
 が、ある実装が別の実装より妥当かどうかの判断がつくのは、論理システムたるルール核が有限の文字列で記述され得ること。ゲームの目的が明確に定義されていることが根拠にあってのことと思います。社会的次元は福次過程にすぎないと思います。
 
 この例と違い、社会的次元と言わざるを得ないのは、例えば、プロスポーツをエキサイティングにするためのルールの改変で。一説によるとプロ野球のルールは1900年前後のアメリカで、得点競争が起こり易くするという商業的目的でとても増やされたそうです。(もっともこの事例は、ルールと実装のもんだいではなく、ルール自体の改変のもんだいのようですが)
(平野裕一「スポーツの作戦」,『ゲーム 駆け引きの世界』東京大学出版会,ISBN 4-13-003099-X)
 
 この場合でも、ルール核が閉鎖系として論理性を持ちゲームの目的が明確に定義されている(単一尺度で判定可能)な場合、ルール改変の妥当性は目的の細部調整の必要性が合意されれば、明確に判断がつく、と予想されます。
 
 一方、TRPGの場合は一部の例外を除いて、「ゲームの目的」はシナリオごとに未定です(不定ではありません、方向性は「システムの主旨」として示されていても具体化されていないということです)。
 また一般的に言って、「ゲームの目的」がメンバー間で事前に明示されることもマレです。ですので、将棋と異なって、実装の妥当性を検討する根拠は例外的にしか成り立たないい、と言えます。
 
 例えば、セッション内の疑似閉鎖系サブゲームに関して、実装を含めた関連ルールを、サブゲーム開始前に明確化することはできます。
 疑似閉鎖系サブゲームについての明確化は、アタシは自分がGMのときに使うこともあります。条件さえ整うなら推奨されてよいように思います。(条件が整うかどうかはシナリオとセッション展開によります)
2002年01月06日:18時54分53秒
【比較ゲーム分析】実装とゲーム核、理念 / トモス
何というか、本題に戻ります。

>>トモスさんの説に異論を。TRPG以外の開放形のゲームにおいて追加設定がなされたときにゲームバランスが変わる、というのこれは同じゲームの定義が変わったのでなく、企画者が試しにあるゲームを実装して実際に運用してみて、不具合がわかった点で違うゲームを運用するものだと見るべきだと思います(定義が変わればもはや違うゲームであるから)。<<*1

というmyrtさんの意見、賛成です。ゲームバランスが変更されたらそれは別ゲーム、というのがこれまでのゲームの同一性についての定義でしたので、僕でもそう書くだろう、と思いました。どうしてそれが僕の説への異論なのかしばし考えたのですが、前回の投稿で、僕が書いた

>>実装とゲーム核の区別ができなければ、あるゲームで遂行可能な手が厳密に定義されていないということになります。(略)つまり、ルールや選択可能な手が定義され切っておらず、ゲーム中に追加設定がなされる可能性があるゲームです。このようなゲームではゲームバランスが流動的だという特徴があります。 <<*2

という部分への異論だと気づきました。この点についてはmyrtさんの言い方を取り入れて、
「ゲームバランスが流動的なため、次々と別ゲームへの移行が生じてしまう」
と言い換えてもいいように考えています。というか、TRPGでも他のゲームでも、ゲームバランスが変動すれば別ゲーム、と考えることにしていいと思いますがどうでしょうか? 未定義部分が定義された場合に常にゲームバランスが変動するか、と考えてみるとPLが発案した手をGMが却下した場合はゲームバランスが変動しない、と考えることもできる(そうでない考え方もありますが)ので、追加設定が必ず別ゲームへの移行を発生させる、とはとりあえずは言わないでおきます。

ともあれ、この点に関してはそれほど深いすれ違いはないようです。バスケットボールの例はよくつかめていなかったのですが今回の話でよくわかりました。異論もないです。

参照(敬称略):
*1 【比較ゲーム分析】実装とゲーム核の区別:それと理念 / myrt,2002年01月06日:12時02分45秒
*2 【比較ゲーム分析】実装とゲーム核の区別:社会的次元,トモス,2002年01月04日:19時36分17秒,TRPGLABO083
2002年01月06日:18時27分19秒
Re:myrtさんの立場について。 補足 / トモス
>>僕はプレイしたことがないのですが、Genich! さんが紹介されている*1 Harpoonは、未定義性が(たぶん)なく、キャラクターの立場からの行動が可能、という印象があるのですが、TRPGの独自の楽しみ(手を発案できる点とか)を考えると、それも未定義性に結びついていてもいいような気がします。 <<

と書きましたが、余りにわかりづらい文章だと気づいたので補足します。
Harpoonは海戦ミニチュアゲームとされていて、戦術級ウォーゲームの特徴についての議論の例として出されています。だから未定義性のない閉鎖系ゲームだろうと推測しています。でも戦術級なので、PCのような個人がトークンになっている。シナリオもあり、GMがそれを作ったりする点までTRPGに似ています。(SLGとTRPGを相互に排他的なカテゴリーだと考えないとしたら両者の重複部分に入りそうなゲームだと感じました。)仮にHarpoonが僕の考えているようなゲームでないとしても、そういうゲームをデザインすることは可能です。

こうしたゲームと比べてバランスがはっきりしない(未定義性があり、かつ流動的)TRPGには、単にゲームとして劣っているのでないとすると、何があるのでしょうか?手をプレイヤーが発案できる点など、未定義性と結びついた何か独特の楽しみがあるのかも知れない、とふと思って書いたのが上の部分です。

失礼しました。
2002年01月06日:18時04分11秒
Re:myrtさんの立場について。 / トモス
myrtさんの立場について、例によって憶測を重ねてみます。

両陣営ともルールは遵守、フェアプレイに徹する、という原則を立てるとすると、GMのシナリオやアドリブはPCに極端に不利なものであってはならず、あくまでも目的達成が可能であったことを後からPLが確認できるべきです。逆に、PLの側もGMの癖やルールについての知識をPCに反映させてはならない。むしろPCの設定から行動を導き出せるべきです。こうした、双方ある意味ストイックな姿勢でのプレイをするのであれば、GM対PLの真剣勝負はある程度実現可能だと思います。
myrtさんの好みはそんなプレイでしょうか。少しズレているような気もしますが。

上のような場合、架空世界に未定義性と複雑性があることは、GMがPLからはわかりにくい手段でPLの負けの確率を高めることを可能にするものだと思います。

僕はプレイしたことがないのですが、Genich! さんが紹介されている*1 Harpoonは、未定義性が(たぶん)なく、キャラクターの立場からの行動が可能、という印象があるのですが、TRPGの独自の楽しみ(手を発案できる点とか)を考えると、それも未定義性に結びついていてもいいような気がします。

未定義性のあるTRPGで真剣勝負をするとしたら、GMに対する監査をプレイの後に行う(GMはそのために情報を記録しておかなければならない)、といった仕掛けを思い付いたりします。あるいはGMのデザイナー役とジャッジ役を分割してみるとか。どちらも簡単に導入できる案ではありませんが。


#僕はある種の物語重視のプレイに興味があるのですが、一応それは脇に置いておいて議論しているつもりです。今の所議論の対象にすべき理由も見つからないので。自分の立場を擁護ないし布教すべく論陣を張る予定もないです−というのはまあこれまでの議論で明らかだろうとは思いますが。

でたらめや気まぐれや混沌に支配された遊びではなく、全てが明確に定義されて安定しているゲームでもない、ある意味中途半端とも言えるゲーム(かそれによく似た何か)としてTRPGを理解することには興味があり、これは僕の議論の方向を規定しているような気はします。ゲームとしてTRPGを捉える枠組みは比較的しっかり存在しているのでその問題点を探る、という形の議論が多くなってしまいますが。
ポスト構造主義を意識して考えることが多いです。これも直接/無理矢理持ち込むつもりはありませんが。

ラベルを貼ることよりもその際の基準や判断に迷う点を明らかにしたい、特定の結論を出すよりもそこに至るプロセスを明らかにしたい、立場を決めるよりも争点を洗い出したい、というような方針を持っているみたいです(自分でもよくわかっていないのですが)。これは何を議論して何を避けるか、についての決定にかなり影響していると思います。

参照(敬称略):
*1シナリオ作成原器としてのルールGenich!,2000年04月23日:16時04分46秒,LABO046
2002年01月06日:16時25分57秒
【比較ゲーム分析】ストーリー限定型システム / トモス
#福田さんはじめまして。難しい議論で済みません。。

非常におおざっぱな印象として、なるほど、と思った点があります。僕はこれまで、物語重視のプレイはゲームとしてプレイすることがかなり困難だけれど、たぶん可能ではあるし、現に自分はそんなことをやって来た、とも思っていたので、それがどの程度ゲームらしくどの程度ゲームらしくないかを具体的に言葉にすることを目標として意識していました。結論としてそれをゲームと呼ぶかどうかはまあ論争の種だろうな、と思いつつ。ゲームとして遊ぶのが困難な理由は、目的(=勝利条件)の未定義性が高かったり、複雑だったり、抽象度が高かったり、その他あれこれの理由で適切な目的を設定しづらく、設定した目的を達成するための戦略を立てにくく、結果を評価しにくく、他のプレイヤーの同種の目的との調整が困難、ということを意識していました。

ところが、そもそも型にはまったストーリーを再現することにずっと近いプレイを、そのストーリーが好きな人たちの間でやれば、かなりの未定義性、複雑さ、抽象性が排除できて、ゲームとして楽しめる。しかも目的にしている「物語の面白さ」(ストーリーの面白さではない)が得られる可能性も高い。天羅や熱血はプレイしたことがないのですが、そういうシステムがあり得るだろうというのはどうして思い付かなかったのだろうと福田さんの投稿を読んだ後では思います。(と言いつつもしかすると誤解して的外れなことに納得しているだけだったら済みません。)

で、熱血や天羅など、プレイを通じて生成されるストーリーに限定がつけやすい、あるいは場合によっては初めからかなり限定された特定のストーリーを再現するためにデザインされているシステムを、ストーリー限定型システム、と呼んでおくことにします(この投稿のタイトルです)。

ちなみに、ストーリーに限定をつけていないシステムで遊ぶ場合でも、セッションを行う前に参加者が相談の上、「船乗りシンドバットの航海」のエピソードみたいなのにしようという類の合意を確立することで「ストーリー限定型セッション/プレイ」を行うことも可能だろうと思います。キャラクターのテンプレート、技能などをめぐる仕掛けが限定型システム程には整備されていないため、そのストーリーを扱いやすいように設定を追加・変更する手間がかかる可能性はありますが。

#「熱血」などは「はた迷惑な自己陶酔型プレイヤーのノリノリ遊び用おもちゃ」という類の批判も見たことがある気がするのですが、個人的にはそれをめぐる論争を今ここで始めたいとは思っていないので、各システムについての判断は保留します。というか、僕はプレイの経験もないのでいずれにせよそうせざるを得ないのですが。そもそも、ここでの議論の文脈で注目すべきは問題は実際にどう遊ばれているかよりも、「どういう遊び方に適した作りになっているか」という点だと思うので。まあ、熱血も天羅もそうした物語重視のゲームプレイには全然向いていない、というなら「未だ前例がないが想像可能なTRPG」を扱っている可能性が出てきますが、そうであっても多少考察してみる意味はあるだろうと思います。あるいは、「確かに幾つかのゲームはそれを目指したのだが、現実には物語内容を目的とするゲームをデザインすることには本質的な困難・不可能性があり、それに直面した結果、失敗したり路線変更を余儀なくされたりした」ということであれば議論に意味がないか、その困難を扱うべきだということになると思うので、どなたかに是非指摘して頂きたいところですが。

ところで、福田さんの投稿は「物語内容の面白さ」を目的としたゲームをする場合の諸困難として僕が挙げたものの内の一部をとりあげています。これまで挙がっているもの全てに敷延したらどうなるのかが気になるところです。上述の通り僕は熱血も天羅もプレイしたことはないのですが、想像で補って展開してみます。僕がやるとまた難しくなってしまうのかも知れませんが。。

まず、「面白い物語が生成されること」を目的とする場合の困難としておおざっぱに以下の4種類があると僕は思いました。*1

1)目的が非常に複雑なため、達成度の判断が困難
2)目的が非常に抽象的なため、具体化が必要になる。
3)目的の設定と達成度の判断が個人の裁量に任されている部分が大きく、バランスの保証に乏しい。
4)複雑・未定義・未知であるため他人との調整が困難。

この内の2)を更に4つに細かく分類しました。*2
2-1「物語の面白さ」をより具体的な、物語内容についての目的に限定することの困難
2-2物語内容についてよく限定された目的をストーリーにまつわる副次目的に関連づけることの困難
2-3副次目的が細か過ぎるために達成しにくくなる困難
2-4副次目的が柔軟過ぎるために行動の指針にならない困難


#長くなるのでこれらの内容についておさらいするのはよします。

以上の諸困難については鍼原さんからの対処法の提案もあり、僕も少し考えが変ってきている面もあるのですが、それを展開するとややこしくなるのでこれも省略します。

ただ、例えば「このセッションでは水戸黄門のエピソードの再現を目指す」ということがわかっていて、それを前提にしてプレイする場合には、物語がどういう面白さを備えたものであるかについていろいろ具体的な想像がしやすく、それを実現するためにはどのような見せ場やどのような決めせりふやどのような対立の構図が必要か、といったストーリー上の要請についても想像が容易です。つまり、2−1と2−2がある程度解消されます。更に、福田さんが指摘しているように、そうした目的や副次目的について他の遊び手と意志疎通を図って、どういうイベントが起って欲しいか、どういう性格のキャラクターを演じて欲しいか、などについて互いの要望を調整しあうことも容易になると考えられます。つまり、4の困難がかなり緩和される。以上がストーリー限定型システム(/セッション、プレイ)の主要なメリットかと思います。

第1の困難である達成度の判断の困難さについては、ちょっとした変化が起こり、解消されますが、これをよいとするかどうかは人によるかと思います。ストーリーが決っている場合には、目指すべき面白さについても発想が限定されるだろうと思います。ドラえもんのストーリー(を再現したい人がいるかどうかはさておき)であれば、のび太がひみつ道具を発明して自立への一歩を踏み出す、ということは余り考えられないし、隣国からの侵略により国内情勢が不安定になる、といった要素がストーリーに絡んでくる可能性も考えにくいです。そこで、「あの時ああしていたらもう少し面白い物語になったな」という評価をする際にも発想が限られ、反省する点や評価する点も絞られてきます。
それから第3の困難であるバランスの保証についても、物語の面白さを自分だけで評価する余地が減り、ある程度は他人と共有の枠組み・尺度で評価することになるので「自分に言いきかせ、強弁してでもプレイが成功だったことにする」という妙な事態が起こる可能性は減ります。また、自分はあくまで自分のプレイがよかったと主張する側に回り、他人の解釈による裁定に最終評価を任せることである程度「勝つことに専念する」ような思考も保てます。目的設定についても、何が可能で何が困難かについての見積もりは多少やさしくなっているように思います。

という風に、一連の困難への対処法としてストーリー限定型というのは比較的有望なもののように思えます。

最後に、ストーリー限定型がどのようなものかを補足しておきます。

まずひとつ、それはジャンルの固定とは違う、と言えます。刑事モノ、と限定してもなおそのストーリー展開にはかなりのバリエーションがありまず。ジャンルの限定はストーリーの構成要素や表現方法、物語の面白さについての限定なので、「汎用ファンタジー」よりも「ハイファンタジー」などと限定があった方が確かに便利ではありますが、僕が挙げた諸困難はそうした限定だけでは解消されないように思っていました。(異論の余地がないとは言えませんが。)「ファファード&グレイマウザー」シリーズの世界を目指そうとか、ミドルアースを舞台にしよう、という作品レベルまで絞り込んだ場合でも、実際にストーリーの展開がどうなるかは限定が緩く、上記の困難の一部はつきまといます。

それから、物語内容の面白さの内、「ストーリー展開の意外性」とでも呼ぶべきものは失われる可能性がある、ということも重要かと思います。完全に失われるわけではなく、従来の「おきまりのパターン」からほんの少しずらすことで意外性を持ち込みつつも全体としてのテイストを保つ、といったことは可能だと思います。

もっと極端な場合、既製の戯曲などをひとつとりあげ「今回はこれをやる」、という合意の下にそれをいかに味付け・演出するかが焦点になるようなプレイも考えられます。具体的には、情景やPCの言動の詳細、プレイヤー、マスターとして説明の際の口調や語彙や声色、PCやNPCの演技、などです。(そしてここでも、物語内容の面白さを損なうことなくシナリオ外の要素を誰かが導入することは可能です。)

よく似たものとして、同じシナリオを同じメンバーで複数回プレイするというのも考えられます。この場合はその物語の面白さがどこであるかについての意見が遊び手の間でまちまちである可能性が高く(あくまで程度の差ですが)、調整の困難(=困難4)が多少予想されますが。

*1 【比較ゲーム分析】勝利条件としての「物語の面白さ」トモス,2001年12月29日:14時28分35秒
*2 【比較ゲーム分析】勝利条件としての「物語の面白さ」 トモス,2002年01月05日:17時19分57秒
2002年01月06日:12時04分20秒
[比較ゲーム分析]TRPGの非ゲーム性の重視について / myrt

 私も自分の立場を再確認してみます。

 私はおそらくTRPGプレーヤー間では極度の「TRPGをゲームとして楽しむ派」です。 しかしボードゲームやコンピュータゲームと比べると、自分の好むTRPGのスタイルが ゲームではないと言われても仕方がない、またさらに極端なゲーム派プレーヤー から「お前はキャラクタープレイに偏りすぎている。もっとゲーム的に行動しろ」と 言われても不思議ではないと感じています。

 以上のことから、単に「ゲーム派」とか「キャラクタープレイ派」というのは好みの程度 の問題であると考え、私のようなゲーム派がさらにTRPGをゲームに近づけてみて、 これ以上近づけられない一線を見つけることが重要であると考えています。今までの 議論でそれは「TRPGの未定義性」であることが浮かび上がってきました。未定義部分を プレイ中にどう料理するかの主義の相違が派閥間の相違を生んでいるように感じています。

(Re:2002年01月05日:09時10分46秒[比較ゲーム分析]TRPGでの物 語生成過程重視について / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕さん)
>> アタシが思うにTRPGの場合は、プレイヤーにせよ、GMにせよ、誰か特定個人の「思った通りの 展開(というか結末)にすることが目的」とされることはTRPGらしくないように思っています。

 私も確たる論拠はないのですが同意見です。しかしそのようなゲームがあるとすれば、として 思い当たったのがくだんのゲームです。

 昔話生成ゲームである「ワン ス・アポン・ア・タイム」 では、全員 が「自分の結末に物語を導きたい」と考えて いますが、プレイ中には主導権を握っている話者以外は沈黙を強いられます。ところが全員には 割り込み用のカードが割り当てられており、それにはキーワードが書かれています。 話者がキーワードを物語に織り込んでしまったとき、そのカードをもっている 参加者が割り込んで主導権を奪い、新たな話者としてその後の物語をつづる権利を得ます。 割り込み用のカードを使い切らないと結末を導く権利が得られないのですが、話者は自分の 割り込み用のカードの単語を物語に組み込むことによってカードを消費することが認められて います(うろ覚え...)。

 このゲームの最適戦略を考えれば、話者になったらなるべく少ない語数で自分のカードを消費 する、一応成り立つ程度の面白くない物語を生成するべきでしょう。しかしそれでは面白くない ことは請け合いです。このゲームを楽しむには、割り込まれる危険を犯しつつ、いかにも ありそうな昔話を生成するべきでしょう。ところが普通に昔話を生成すると全く勝てない。 このあたりのバランスはTRPGに似たものであると感じられます。

 また、「勝ちに近づく話をす るために主導権を握ろうとする」という動機がTRPGで「自分の思い通りの話、展開、活躍の演出 のために主導権を握ろうと画策する」という動機に似ていて興味深いです。しかし「ワン ス・アポン・ア・タイム」では割り込みの権利を有限のカードによって制限しており、その ような制限を課さないTRPGで同様の競争が起きたときには泥沼の戦いになるおそれも感じます。

 以上のことから、「ワン ス・アポン・ア・タイム」は「自分の結末に物語を導きたい」 プレイングを仮定した場合には参考になる事例だと思います。 結局「TRPGらしくないなぁ」という気は私もしてます...
2002年01月06日:12時03分22秒
Re:戦争の勝敗とTRPGの勝敗 / myrt

 この話を持ち出したのは、ディプロマシーというゲームは 投了したり(PLの都合)降伏したり(実際の国ならそうするかも)するといろいろマズく、 そのあたりが(シミュレーション性を失うという意味で)ゲーム的だな、と思いまして。 そして実際の国ならどうするだろうという一つの教科書が「戦争論」だったわけです。

 私はゲームに楽しみが必須とは思いません。例えば一回きり囚人のジレンマゲームその ものは面白くありません。確かにゲームなんだが、面白くも研究の価値もシミュレーション 性もないので見向きもされないゲームが山のように存在すると考えています。ゲームではないのに 娯楽用だという理由でゲームという名で店頭に並んでいるコンピュータソフトがあるように。

 TRPGではプレイしていて、GMとPLが対戦状態になることがあります。PLが意外な手や「三人 よれば文殊の知恵攻撃」で攻め、GMが追加設定で対抗したり、PLの宣言を認めつつ 落とし穴に誘い込むような。このときの勝敗はPCの結末ではなく、「こいつは参った!!」と 降伏宣言をしたときに決まると感じられます。相手を叩きのめすのではなく、相手が認めざるを えない敗北に追い込む。戦争論に通じるものがあると感じます。

 そうでなくてもTRPGがゲーム的に楽しまれるならば、勝ち負けもしくは達成度の高低が あるはずです。勝ちや高い達成度の価値は、負けや低い達成度であることがありうるからこそ
保証されます。従って負けや低い達成度に終わったことをPLに納得させることができるかどうか が、ゲーム的に楽しめるかどうかを分けると考えます。全滅したあとPLに「GMの横暴だー」と 抗議されるのはうまくないと。
2002年01月06日:12時02分45秒
【比較ゲーム分析】実装とゲーム核の区別:それと理念 / myrt
 またオフライン病が。新たな書き込みは反映されてません...

 時間を1秒単位、選手の位置を1m単位と離散的に区切って 完全に状態を定義した100m競争ゲームを考えてみます。箱根駅伝では 実際に秒単位、m単位で管理し、区間賞タイ記録まで出してました(1秒以下の 単位は切り捨てていた)からありえない話ではありません。

 このゲームで、0秒目から1秒目の間に0m地点から100mより向こうの地点 まで選手の位置を遷移する戦略が選択可能であるなら、最適戦略はそれです。 巡航速度に乗った人工衛星が出場できるなら選択可能です。 彼ら(??)にとっては、簡単に最適戦略が選べるくだらないゲームであると言えるでしょう。

 そこで、人間が走る100m走を考えてみます。トモスさんが指摘されるとおり、 どの戦略が選択可能であるかは定義にありません。実際には各状態においてどの戦略が選 べるか、選べるようにするかがゲームの争点となり、後は「選べる中から最善の手を常に 選ぶ」だけです。400m走を超えると戦略性が出てくるらしいですが(ペース配分を考える 必要がでてくるんだとか)。このように、同じ状態(ここでは1m単位の選手の位置)におい ても常にとれる戦略群が同じとは限らないゲームは完結していないゲーム であると考えられます。

 将棋そのものでは、同じ状態なら常にとれる戦略群が同じであることが保証されています。 典型的なプレイがどうだろうと、とれる戦略群が同じであることが保証されている限りそれは将棋で、 そうでなければ将棋ではないのだと考えます。この観点では、同じ状況なのに相手の打てる手を制限 する(違うものにする)こと を試みる戦略はすべて「将棋の戦略ではない」として切って捨てて良いと考えます。 ゲーム核さえ保存されていれば、櫓や穴熊の好まれる 形態が変わったとしても、根気よく遊べば現在と同じような将棋を再現できると思います。
#もっとも必勝手が発見されたりして、現在よりも進んだ手が発見される可能性を無視した場合。

 トモスさんの説に異論を。TRPG以外の開放形のゲームにおいて追加設定がなされたときに ゲームバランスが変わる、というのこれは同じゲームの定義が変わったのでなく、企画者が試しにあるゲームを 実装して実際に運用してみて、不具合がわかった点で違うゲームを運用するものだと見るべきだと 思います(定義が変わればもはや違うゲームであるから)。 では企画者がゲームを選択する基準は何だろうというと、「なんとなく こんなゲームがしたい」という理念とでもいうべきものであり、それはゲーム核とは区別される べきだと考えます。実装上の問題からあるゲームの運用が適切でないとき、 この理念に基づいて完全に定義が違うゲームを運用する例は車椅子バスケットボールの例で 示しました(なんか話がループしてきた気がする。何か通じてないんだろうか??)。
2002年01月06日:07時06分26秒
Re:勝利条件としての「物語の面白さ」 / 福田
 自分がここに書けるだけの資格と能力があるのかわかりませんが、少しだけ参加させて下さい。
 といいますか、内容が難しい〜(汗)。
 ※えぇと、ことばの定義はトモスさんの前記事を参考にします。
 
 勝利条件:「参加者全員が、セッション中に創作された物語内容を面白いと感じること」
 
 ならば、こうしましょう。
 1.多くの人(もしくは特定の人々)に面白いと思われるストーリーと表現(ただし台詞まで)を、最初からセットにして用意しておく。
 
 例えば、「娘が金さんなら全て知っていますと叫び、悪徳商人、金さんはどこだ、ここに出せと言えば、おぅおぅ、悪人ども(以下略)」
 
 2.セッションに参加するプレイヤーは、そのストーリー&表現セットを「面白い」と感じられる人間に限定する。(主観性の排除,共通認識構築の簡素化)
 
 3.プレイヤーは、手持ちのセットを「ここだ」と思うタイミングでストーリーライン上に置く。また、セットが置けるように(逆算して)ストーリーを作り上げていく。
 
 これなら、セットを上手に置ければ、面白い物語が生成されますし、置き方が下手だったり、セットを置くタイミングを逸したりすると、面白い物語は生成されません。 
(例で言うと、金さんが悪人と一戦交えていなかったり、先に裁きを言い終わってしまったりしたら、桜吹雪を吹かせられない。)
 
 表現の問題は依然残りますが、ある程度「勝利条件をいかに達成するかの手段」(いかに桜吹雪をふかすか)は、具体化されるのではないかと考えます。
 
 このような実装を備えたシステムとして、「熱血専用!」や「天羅万象」などがあげられます。
 
 これらのシステムは、キャラクタアーキタイプにより、そのPCが何をするべきか、キャラクタ作成時点で指針が与えられており、導入をある程度聞けば、自らが何をやるべきか、セッション当初にして分かってしまうよう作られています(トモスさんの挙げた4つの問題のうち、4に対する回答)。
 
 あまり論理的じゃなくってすみません>all。 
2002年01月05日:22時06分56秒
TRPG総合研究室 LOG 082 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 083として2001年12月27日から2002年01月05日までのログを切り出しました。

 TRPG.NETよりCM : ガープス書籍情報には、オンライン書店ビーケーワン(7000円以上の注文は国内送料無料)とアマゾンコム本のストア(国内送料無料)による購入リンクを整備しております。TRPG関連/有用書籍リストともども、機会がありましたら、ご活用くださいませ。


2002年01月05日:17時19分57秒
【比較ゲーム分析】勝利条件としての「物語の面白さ」 / トモス
#鍼原さん、コメントありがとうございます。
鍼原さんの個人的な経緯、言葉にして頂いたことで何かと参考になります。改めて考えてみると僕の投げかけた議題は少し的外れのような気もしますが、とりあえず一点だけフォローしたいのでこれを投稿します。
#ちなみに僕の基本的な問題意識は、物語重視のプレイがゲーム性重視のプレイと比べて、あるいはゲーム一般と比べてどの程度ゲームらしく、どの程度ゲームとして変則的か、を考える点にあります。
僕は個人的な経験から物語重視のプレイもゲームたりえると思っている(つまり目的達成に向けた工夫を楽しむ遊びたりえる)と感じているのですが、改めて細かく考えてみようかとふと思い立ちました。ゲームかゲームでないかについての最終判断を下すことよりも検討することの方に興味があります。

前回の僕の投稿で余り明瞭でなかったために鍼原さんの誤解を招いたような気がする箇所があります。「物語の面白さ」がどのようなものか、についてです。僕が抱いているイメージというか考えもそれほど確固としたものではなく、これ自体が議論・検討の対象になり得るものかと思います。

これまでの議論と同様に、物語内容は、プレイヤーに受け取られ、感じ取られた内容で感想や印象を含むものとします。反対に、ストーリーは話の中でどのような出来事がどのような順序で生じたかについてのみから構成されるものとします。
また、前回の僕の投稿から再録しますが、
>>物語内容は、「話の中での出来事」と「その表現(語る順序や声色などを含む)」と「受け手の感受性」の組み合わせで決まるもので、受け手が違えば物語内容は違う、表現が違えば同じ出来事でも違って感じられる、出来事が違っていれば表現や受け手が同じでも(当然)違って感じられる、としておきます。また、出来事の内何を描写し何を描写しないかといった選択は表現上の選択と不可分なため、出来事と表現は厳密には区別できないもの、としておきます。<<

物語内容のレベルに目的がある場合は、特定のストーリーが実現されること(魔王を倒す事、姫君を無傷で救出すること)が目的なのではなく、そうしたストーリーがどう表現され、どう感じられたかが問題になります。

面白い物語が生成された場合の感想としては、例えば次のようなものが考えられます。
「魔王を倒せたのだが、倒せた時のPC1の疲れ切った物の言い方が、何か魔族との長い戦乱の時代の幕開けを感じさせてゾクゾクしてよかった」
「魔王を倒せなかったのだが、勝てないことを悟った時のPC1の覚悟の決め方が、これまでの冒険を引っ張ってきた彼の勢いがふつっと途切れた虚無感を感じさせてリアルだった。それが撤退後のパーティーのムードを支配して、前半の快進撃と対照的な展開になったのも味わい深かった。」

ここで「ゾクゾクした」「リアルだった」「味わい深かった」辺りが受け手の感受性に一番左右される部分です。そして、物語内容の面白さを目的とするプレイは、この受け手の感受性に左右される点での達成を目指すので、独特の達成しづらさがあると思います。「しっかりとしたキャラクタープレイが行われている場合の方が達成されやすい」「自分のPCの行動によって自分が面白いと感じるように物語を生成させることは、他人のPCの行動によって生成させるより容易」という傾向はあるかも知れませんが。

鍼原さんのコメントからは、「キャラクタープレイをうまく行うことで面白い物語が生成される」という意見を感じたのですが、これは僕の採用している枠ではうまく捉え切れない感じです。
#そういう前提が成り立つ場合に限定して議論を進めることに必ずしも反対というわけではありません。何かすれ違っている感じがして気になっているだけです。

もうひとつ気になる点は、抽象的な目的が具体化されるプロセスです。前の投稿より細かく議論してみます。

「面白い物語内容」という非常に抽象的な目的が、上の例のように「魔王を倒した後にゾクゾクする感覚」にまで具体化されるプロセスは、かなり行き当たりばったりのような気もします。これが第1点。
仮に、何らかの手がかり(システムやシナリオ)や自分の好みによって「ゾクゾクしたい」と物語内容の面白さが多少具体化、特定化されたとしても、それをストーリーとどう結び付けるかは必ずしも明確ではないと思います。これが2点目。

場合によっては、「ここで出来事1が起きてくれたら面白さ1が非常に満足できるレベルにまで達するだろう」と予測できることがあります。つまり、ストーリーレベルの副次的目的が成立する。

ですが、面白さを大きく左右するのが例えば魔王を倒せるかどうかではなく、その魔王をどのように倒せるかが問題だったり、あるいはそれよりも細かく魔王をどのように倒してその後にPCがどのような言動をとるかだったりする場合があります。副次目的が成立しているのですが、非常に細かい点についての目的であるため達成が困難なケースです。これが3点目。もちろん、その副次目的が達成されなくても、別の形で面白い物語ができる可能性は残されているだろうと思いますが。

また逆に副次目的が絞り込めない困難もあります。副次目的が成立するのはストーリーがかなり明らかになって来てからだと言えるように思います。面白い物語を成立させるためにPCが何をすべきで何をすべきでないかはプレイが始まって少しした時点ではわかりにくい。(必ずそうだとは言えないかも知れませんが。)初期段階でPCがどう行動しようとも、後期での行動の仕方次第で物語は面白くも、つまらなくもなる。4点目。

#でも、この点に限って言えば、その場合にはプレイの他の目的を優先的に扱えばいいだけのことではありますが。

抽象的な目的の具体化をめぐる困難は、
1「物語の面白さ」をより具体的な、物語内容についての目的に限定することの困難
2物語内容についてよく限定された目的(「ゾクゾクしたい」)をストーリーにまつわる副次目的に関連づけることの困難
3副次目的が細か過ぎるために達成しにくくなる困難
4副次目的が柔軟過ぎるために行動の指針にならない困難
の4つとしました。(もう少し踏み込んでストーリーとその表現との関係を考えたいのですが、それは長くなるのでまたの機会にでも)
これらが問題、あるいは困難だと僕が考えるのが何故かがわかりづらいような気もするので言い換えてみます。
「将棋なら勝利条件や自分のとれる手やその効果についての知識を頼りに自分の戦略を練ることができるが、物語重視のプレイングでは物語の面白さを達成するための戦略が立てにくい。」というのが僕の感想です。

採用している前提を変更すればいいのかも知れません。あるいは、面白い物語の生成という目的を、他の、PCレベルの目的や、(キャラクタープレイの実現などの)プレイヤーレベルの目的との組み合わせで用いればそれで問題はないようにも思います。

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