TRPG総合研究室 LOG 081

TRPG総合研究室の2001年12月20日から2001年12月24日までのログです。


2001年12月24日:19時12分35秒
【多目的ゲーム】やたらと目的の増える多目的ゲーム / myrt
 目的の達成度を一意に1次元関数に落とせるなら、もはや単一目的ゲームです。 しかし実際には全く相関関係のない目的ばかりが並ぶことはむしろ希であり、 だから厳密に多目的ゲームとして扱うためには、独立した目的を抽出することが必要です。 独立ベクトルと従属ベクトルの区別や、直交ベクトルや単位ベクトルの抽出の話のように。

 ところが多目的ゲームでは「ある目的に対する価値観が人によって違う」と か「あることを達成すると良いこともあるが、悪いこともある」なんてことがあると マズいです。前者は「プレーヤーAの目的」「プレーヤーBの目的」と、 後者は「あることを達成すること」「あることを達成しないこと」と併記することによって解決できます--むやみに目的が増えます。その後で直交目的を 抽出することは、プレイ中にやってられないことだけは事実でしょう。

トモスさん>>「魔王を倒せないとしたら、姫君を助けられようとも、賞金や爵位をもらおう とも、目的は果たせないことになる。姫君を無傷で助けられないとしたら、 魔王を倒せてもと結局は同じことだ」

 一応つっこんでおきます。それだと「姫君が無傷でかつ魔王を倒したとき だけ100点。それ以外はすべて0点」という1次元関数です。結果は同じではな いが優劣がつけられないのが多目的問題です。

 多目的ゲームでも「他の目的の達成度が悪くならないならばある目的をよ り達成することはより良いことである」という法則があります。これは条件付 き1次元関数として働きますから、ゲーム性を持ちえます。一意に多目的問題を1次元関数に 落とせなくても、厳密でないが妥当と思われる変換尺度をすべてカバーする関数群の中の どの関数でもより良いと判断される戦略はより良い戦略であると言えます(たぶんトモスさんの 多目的ゲームのゲーム性の言い換え)。

 多目的ゲームは、パレート最適解が自明とは限らない(見つけだす必要 があるかもしれない)のでイコールトイではないと思います。しかしパレート最適解が見つかったあと、その中のどの解を 選ぶかはトイでありうると思います。目的を持っていたらトイではないと思いますので。
2001年12月24日:19時10分22秒
【比較ゲーム分析】無視できるように実装すること / myrt

 1時間制限将棋と3時間制限将棋、持ち時間無制限将棋はそれぞれ制限が異なり、 違うゲームです。しかし、将棋と1時間制限将棋は違うゲームでしょうか。

 将棋のルールそのものでは、持ち時間は未定義です。同様に「試合は1気圧程度の大気中 で行われるか」はもちろん、「1手打つごとにわんこそばを1杯食わねばなら ないか」すら未定義です。実際のプレイでは、 これらは(暗黙であれ)決められます。

 さて、ガミラス人(アニメ宇宙戦艦ヤマトに出てき異星人、地球の大気中では生きられな い)と地球人が将棋で勝負したいとします。地球上/ガミラス星上の大気中で対戦すると ハンディキャップマッチになってしまいますので、この場合はお互いを隔離してそれぞれの 大気中でプレイしてもらう実装が良いでしょう。

 特定の人々用に実装した あと、その実装では他の人々にとってゲームが変わってしまう というのは--将棋盤よりカードのほうがわかりやすい人がいた ときにカード実装をすればいいわけで、カード実装をして普通の人にやら せようというのは「地球人にガミラス星の大気の中で プレイをしろ」と言ってるようなものだと思います。ある実装が気に入らなければ 他の実装をすればいいだけで、それが許されないときに初めて違うゲームであると思います。
#同様に有利になる実装も好ましくない。

 どのようなルール上で許される(ただし有利にならない)実装をしてさえある プレーヤーがそのゲームに弱いならば、 そのプレーヤーはそのゲームに対して弱いと言い切れると思います。この考え方では 実装に対する慣れとゲーム核に対する慣れが分離できます(実際はいかなる実装と いう時点で不可能なんだが)。

 だから将棋そのものについて語るならば、大気やわんこそばや持ち時間がすべて未定義 でも通じる話だけを語るべきだと考えます。私が「実装を無視すべきだ」と述べるのはそ の考えからです。逆にあるゲームにおいて特定の実装しか許されないのならば、それはす でに実装ではなくルールであり、公式のスポーツルールの細則は、「実際に はルールだったんだけど暗黙すぎて特に書いてなかった(存在すら気づいてなかった)がも はや無視できなくなった」ものだと思います。
2001年12月24日:19時09分02秒
TRPG戦闘のサブゲーム性】時間軸だけでない区分 / myrt
 オフラインでせっせと書いて、さあ書き込むぞ!!と思ったら鍼原神無さんの 長文記事が...読み直してるとまた長引きそうなので、踏ん切りのために 全く読まずに書き込ませていただきます。重複してたら申し訳あり ません。

 戦闘をTRPGのサブゲームととらえるときに、その部分性を時間軸の要素だけから見るから問題 になるのだと思います。開放部分からなされる入力が制限されれば、ゲームとして成り立ちうる と思います。

 例えばゴルフは風という要素を持つゲームです。プレイ時の風に影響を与えたのが地軸 の回転であれ、寒暖差であれ、近場の空港であれ、影響が風に収束するならばゲームは成 り立ちます(あまりきついと中止になりますが)。プレ イ中の任意の風はそれ以前の風の影 響のすべての累積の結果で、プレイが始まった瞬間に外界の影響が断たれるわけではあり ません。

 極端な例を挙げるならば、ゲーム内天候を設定できるコンピュータゴルフゲームがあ ったとして、その天候をランダム で決めようとも、プレイ中の実天候で決めようともそのゲームは成り立つと言えるでしょう。

 同様に、TRPGの戦闘は外的要因により様々な影響を受けます。しかし体力点がゼロになれば 死ぬというルールが変化しなかったならば、「体力点がゼロになったら死ぬゲーム」は変化しない でしょう。外部でどんなイベントが発生しようとも、このゲームへ入力されるデータは体力点の 増減だけに制限されます。例え同時並行して「姫君を救出するゲーム」が行われていて それがが変化したとしてもそれは変わらないと言えますが、体力点が1から減ったときに「瀕死」 とか違うパラメータを導入してしまったらゲームが変わったと言えます。

 ゴルフ中に人間が天候を操作するのは困難ですが、TRPGで戦闘中に宣言を通じて戦闘以外の リソースに影響を与えることは可能です。その戦闘以外のリソースが再び戦闘に影響を与える フィードバック効果には議論の余地があると思いますが、かなり深くなりそうなのでいったん 止めます。

 以上のことから、定義されていないイベントでも外部入力として一定の制限に納められ るならばサブゲームを成立させることは可能で、その可能性は決して低くないと考えます。 それでもサブゲームが必ず成立する保証はないのですが、サブゲームを変更する理由が メインゲーム(あるいはよりメインに近いサブゲーム)を成立させるためであるならば、 サブゲームを変更する妥当性を与えられると考えます(ただし未整理で、根拠は私の直感だけ)。
2001年12月24日:18時50分58秒
[比較ゲーム分析]Re: Re:多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】Re: Re:多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない」,当掲示板,2001年12月21日:23時37分54秒)
>多目的ゲームにおいては、だから、myrtさんの言うように複数の目的を1つの尺度に変換しないままに扱う場合もあるのですが、そうではなく、厳密な変換比率を決定しないままに、あれこれの比較をしている場合は多いと思います。この場合でも、ゲームは依然としてゲームらしい面白さを備えているような気もします。つまり、少しでも高い達成度を目指した工夫の楽しさです。myrtさんの意見を聞きたいところですが。
 
 アタシもMyrtさんのご意見お聞きしたいところです。
 が、「少しでも高い達成度を目指した工夫の楽しさ」は共感する人が多いと思います。
 例えばListさんとか。ほかにも具体的に思い浮かぶ人がいます。
 
 一方、
>目的が多数ある場合には、それが遊び手の間で完全に共有されているとは限らない。そうすると、一人一人が自分なりに違った目的(群)を持って違うゲームをしている、というようなことになるかと思います。
 
 この辺が「TRPGでの自由」のような議論が繰り返し起きる深源で、
 同時に、
>多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない、という命題には、myrtさんのとは全然違う意味でですが、説得力を感じます。
 
 この辺に説得力を感じられない人から「TRPGはプレイヤーが、最適解を探求するゲーム」、あるいは「優れた意志決定を工夫する、競い合う、又は披露しあうゲーム」といった偏った説が主張されるのだと思います。
 
 トモスさんには言うまでもないことのはずですが、一応アタシなりに要約してみました。
 
 経験値といった一貫した数値系に収斂させて評価されることを根拠にした論が多いと思います。
 が、この説で言われる「意志決定」は「重度のアイテムコレクション」(@Myrtさん)の例示、だけでも混乱するわけで、「央華封神」の徳値を典型とするような、物語解釈のかかわるアライメント変動の解釈などはもちろん説明できない。
 
@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】多目的性について」,当掲示板,2001年12月21日:06時20分45秒)
>TRPGは様々な目的を同時並行的に、焦点を変動させつつ扱うゲームなので、ゲームに要求される戦略的思考も常に変動する
 
 上はセッション共時態でのゲーム性の流動性についての説明、または描写と捉えているのですが。これと「多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない、という命題」とがどのように関連付けて、論じらるかがミソかなぁ、と勝手に期待してしまいます。
 
>一人一人が自分なりに違った目的(群)を持って違うゲームをしている、というようなことになるかと思います。
>これはコスティキャンのゲーム論の用語ではトイ(玩具)になるのではないかと思います。トイの例としてシム・シティが挙げられていたと記憶するのですが、TRPGはかなりそれに近いものを感じます。グラディウスはだいぶ違いますが、それでもこの違いは程度の差であって質の差ではない、というような感触を持ちます。
 
 個人的には「程度の差であって質の差ではない」という感触についてのトモスさんのお考えを聞けたら嬉しいと思います。
 決して催促などするつもりではありません。
 こうした話題は急いでも仕方ないと思いますので。
2001年12月24日:18時44分57秒
[比較ゲーム分析]Re:スポーツ、ディベート、TRPG / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】スポーツ、ディベート、TRPG」,当掲示板,2001年12月21日:22時58分29秒)
>スポーツの例を使わない方が論としては説得力があるような気がします。
 
 なるほど。
 
 ディベートというか、模擬国連のようなゲーミングですね。
 
 それとか、大分まえこのTRPG総合研究室でも話題になったんですけど。
 ディプロマシーはどこまでTRPGの一般型と同質で、どこが違うか、同時にWar Simulation Gameの理念型とどこか違うか、みたいな話題は[比較ゲーム分析]の題材としてよいような気がします。
 
 アタシは、どうもここんとこずっと貧乏性で、まとっまった時間が採れないのが悩みの種なんです。
 ですから自分ではちょっと考えられないと思うんですけど。
 
 後、アタシ、ゲーム全般のことは疎いものですから。
 トモスさんやMyrtさんのように詳しい方に、もし論じていただけたら参考になるだろうな、と思うのは、WSG(War Simulation Game)、Tactical Role Playing Geme、ミニュチュア・ゲーム、TRPGそれぞれのゲーム性はどこが同質でどこが異質か、の[比較ゲーム分析]といった類の話題です。
 
 特にミニチュア・ゲームについては関心だけはあって。
 一般にWSGから派生したと言われることが多いTRPGですけど。
 数年前のJGCのときに、たまたま面識のあるプロ・デザイナーの方に「TRPGはミニチュア・ゲームから派生した」って説をお聞きしたことがあって。そのとき以来興味だけは持ってるんです。
 ミニチュア・ゲームはプレイしたこともないんですけどゲーム核と実装・インターフェイスの関連が大きそうな遊びですよね。
#ジャンル間の関係もも通時的変化ととらえることはできるので、WSGから派生しようが、ミニチュアゲームから派生しようが、だから何? って感じもあることはあるのですが(苦笑)。
2001年12月24日:18時39分19秒
[比較ゲーム分析]Re:戦闘とサブゲーム / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】戦闘とサブゲーム」,当掲示板,2001年12月22日:01時28分11秒)
>鍼原さんの議論の進展を期待したいところです。期待するだけでは失礼だろうと思いとりあえずひとつ話題を提供してみます。
 
 恐縮です。
 ここ数年、貧乏暇無し状態で(苦笑)。まとまった時間をひねり出せないのが悩みなんです。 アタシの議論の進展も、ご期待に添えるかどうか(困)。
 「TRPGでの物語」の概念を規定できないままにいたずらに時間が過ぎています。
 多分、言語行為の一種として「物語ること」の概念を整理するのがTRPGの原理的考察に役立つと思ってるんですけど。
 言語行為論の本とか、細切れな時間でパラパラ読んでても、ダメで。腰を据えてじっくり読む時間が本当にほしいです。
 
 さて、
>戦闘をサブゲームと考えることの妥当性についてです。
 〔中略〕
>戦闘を通時態上のサブゲームと捉えることは、可能な場合も不可能な場合もあると思います。
 
 そうですねぇ……。えーっと。
 
 アキトくんの「付け足しなんかつまらない!」は、「半完成」状態で公開されているわけで。その辺は彼も思考を詰めてる途上なんだろうと思います。
 
 ですから、現状でのアタシなりの解釈、ということになりますけど、
 TRPGのルール系の内で典型的にルールが緊密であることが多い、「戦闘システム@トモスさん」ですら、セッション実態では疑似閉鎖系にしかならない、といった筋と解した方がよいように思っています。(一種の背理法かな?)
 
>アキトさんのエッセイで示されたような「カタイトコ」として戦闘シーンがあり、「ヤワラカイトコ」がその前後を挟む、という図が成立するかどうかは場合によると思います。
 
 えぇ「場合による」のは確かで。やはり現状でのアタシの解釈になりますが、次のような考えがよみとれると思っています。
 TRPGシステムを用い、一貫したゲーム核をしつらえて遊んでも構わない。
 ただその遊び方はTRPGらしくない、と思われる。
 この場合、システムに含まれるワールドがルール系に対する「付与」扱いされることになるから。実際のシステム記述で、あらゆるワールド設定が、ルール系に対してや「付与」に留まるシステムがあったなら、それはTRPGシステムとしては完成度が疑われる。

 
 あくまでアキトくんの論考から、現状でアタシが読み取ってる解釈で、アキトくんはまた別のことを考えてる最中かもしれませんが。
 
>TRPGの戦闘部分は「ルールに必要最低限のものが定義され整備されているので閉鎖性の高いゲームとして遊ぶことができる」と同時に「戦闘ルール内に記載されていない行動をとること、イベントが発生すること、などによって自己完結性が損なわれる可能性は常にある」ということも言える。
 
 特に異論はありません。
 セッションの通時態断続で考えると、次のようにいえると考えています。(こっちは、「アキトくん論考についての解釈」ではなく、「アキトくん論考を踏まえたアタシの考え」になります)
 
 あるTRPGセッションで、ある戦闘シーンを遊ぶことになった。
 戦闘システムのプレイを左右する初期状態は、「それまでのセッション経過の物語的状況の了解」(ヤワラカイ)を、「ワールド設定⊃ルール系」の総体から「解釈」し、必要な部分は数値的に「評価」(←この「評価」はスポーツ・ゲームの「判定」と異なり「曖昧性を拭えない評価が、一貫した数値尺度に適用される」)も含めてセットされる(もちろん「判定」行為も含まれるが、TRPGでは「判定」だけで解釈が完了することは一般的とは言えない)。
 
 さて、この戦闘システム運用の途中で、「戦闘ルール内に記載されていない行動をとること」が生じた場合、サブゲームは“中断”される。
 中断されたサブゲームに通時的に断続するのは「“ルール改変”の言語ゲーム(設定変更や追加設定が処理される)」であり、これはヤワラカイ。
 
 「“ルール改変”の言語ゲーム」に断続して、戦闘シーンが“再開”されるのだが。
 ここで言う“再開”は、経験主義的な表現(別にそれはそれで悪くない)で、“ルール改変”が行われる前とは、別種のゲーム核(疑似閉鎖系)である。
 
 経験主義的に「戦闘シーンの“中断”“再開”」と表現されるセッション実態を、通時態で分析すると、「カタイトコロ(戦闘システム運用)→“ルール改変”の言語ゲーム→改変された別ゲーム」の断続と整理される。

 
 ――「戦闘ルール内に記載されていない行動」がとれれた場合は、うえのように整理できると考えます。アタシとしてはこれが、「セッションに複数含まれるゲーム核の性質変動」メカニズムのモデルで、ある程度一般性のあるものだろう、と考えています。
 
 「イベントが発生する」場合は、TRPGシステムのルール系/ワールド設定にどれくらい準拠して処理し得るイベントなのか? (「付与」か「関与」か「複合」か?)によって、ヤワラカイトコロがいわば“挿入”される型になるのか、それともカタイトコロ(論理的に一貫した疑似閉鎖系)が継続処理されるのか、が異なると整理できるだろう、と予想しています。
 
【用語参照】
通時態、断続≫「[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性」 (カンナ記,当掲示板,2001年12月20日:23時40分59秒)
ルールが緊密、カタイ(トコロ)/ヤワラカイ(トコロ)、付与/関与/複合≫アキトくん「付け足しなんかつまらない!」
戦闘システム≫「【比較ゲーム分析】戦闘とサブゲーム」 (トモスさん記,当掲示板,2001年12月22日:01時28分11秒)
疑似閉鎖系≫前出,「[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性」
物語的状況の了解、“ルール改変”の言語ゲーム≫前出,「[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性」
「判定」≫「【比較ゲーム分析】Re:多目的性について」 (カンナ記,当掲示板,2001年12月21日:19時34分35秒)
経験主義≫「【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装の区別:インターフェース問題」 (トモスさん記,当掲示板,2001年12月23日:15時53分46秒)
ゲーム核≫「【TRPGの自由】整理:比較ゲーム分析として(1)」 (トモスさん記,当掲示板,2001年12月20日:20時12分59秒)

2001年12月23日:15時53分46秒
【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装の区別:インターフェース問題 / トモス
>>論理システムだけではなくそのインターフェースのレベルでもある程度の同一性が保持されていないと「同じゲーム」とは呼べない。<<(トモス、12/21、08:08)

>>そうじゃなくって、適切なインターフェースを実装しないと参加できないのだと思います。<<(myrtさん、12/21,18:45)

>>この件は、Myrtさんの「【比較ゲーム分析】多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない」 (当掲示板,2001年12月21日:18時55分00秒)、での指摘の方がまっとうな気もします。が、今のアタシには判断がつきません。<<(鍼原さん、12/21、19:38)

と展開してきたインターフェースをめぐる議論ですが、少し考えてみて、僕もmyrtさんと同じ結論に至りました。ただ、誤解があるといけないので一応自分の言葉で言い換えてみます。

myrtさんの意見を言い換えてみると、「ゲーム核を保存しておけば別ゲームへの移行は生じないというのはあっているけれども、ゲーム核さえ保存しておけばそのゲームをプレイ可能だと考えるのは間違い」ということだと思います。

ゲーム核と実装領域の分離派の立場としては納得のいく議論だと思いました。そうするとインターフェースの問題はあくまでも実装領域の問題であって、トークンの問題はゲーム核の内には含まれない、ということにできます。

#僕は不可分派の擁護もしたいと思っているのですが、難行中です。

このインターフェース(論理システムの表現形式)という概念はちょっと曖昧なような気もしたので、蛇足かも知れませんが一応もう少し言葉にしてみます。

ゲーム核は、ゲームの構造を、そして恐らくはそれだけを定義するものです。どのような局面がありうるか、それぞれの局面でプレイヤーは何ができるか(手)、どのような手がどのような効果を持つのか、勝利条件が達成されるのはどのような局面か、それらの定義の総体です。

これはゲーム中に起こりうる全ての局面を点とし、その間を移動できるかどうか(手やその他の要因によってひとつの局面から別の局面への移行が起こりうるか)を3種の線(自分の手、他のプレイヤーの手、偶然性、それぞれによる変動)で結ぶようなネットワークを考えた時の、そのネットワークの構造です。ちなみに線は矢印(方向付き)です。

例えばマルバツのゲーム核を保存したままインターフェースをカードにするとこんな感じです:
「ハート、スペード、ダイヤの2、3、4の9枚の札を2セット用意し、各プレイヤーの手札とする」「一度に一枚づつ、交代で札を場に出していく。」「相手が出した札と同じ札を出すことはできない」「どちらか一方が、自分が場に出した札を組み合わせて勝利条件を満たすと終了」「場に出せる札がなくなったら札を回収して再び始める」「勝利条件:場札の内3枚が次の3つの条件の内どれかひとつを満たす 1)同じ数字の札が3枚ある、2)同じスートの札が3枚ある、3)3種のスート、3種の数字の札でかつスペードの2を含む3枚がある」

ちなみに将棋をカードゲームにできる、という話は原理的に可能なはず、と考えているだけで鍼原さん同様、僕もそれを具体的に思い描くことはできないです。

以上を踏まえて、習熟度が違うとまるで違うゲームをしているような感じになる、という問題も、同じ「ゲームバランス」(論理システム=ゲーム核 の構造)を扱っているが、把握の度合いが違う、という風に考えればいいと思いました。(将棋で先を読む時の思考作業や、アクションゲームでのボタン・レバー操作、スポーツにおける身体動作など、構造を把握しているだけでは必ずしもうまく行かない側面も習熟度にはあると思います。)


とここまで書いてきてやっぱり少しだけ疑問が残っているのでそれも書いておきます。ゲームバランスの同一性を保証するネットワークの構造は、そのトポロジカルな特性を保存したままで、いろいろな形で記述することができます。それはマルバツを紙と鉛筆でも、カードを使っても、プレイできるのとよく似ています。ゲームをするプレイヤーの戦略的な思考の内容は、インターフェースによって非常に違ってくると思うのですが、それにも関わらず「同じ構造を扱っているのだから同じゲームだ」とするのは少し居心地が悪い議論です。ルールや設定データなどによって構成される「ゲーム核」の同一性を根拠にゲームの同一性を判断するのがいわば「構造論的アプローチ」だとしたら、それでは汲み取れない「プレイヤーに経験されたゲーム」に注目するような「経験論的アプローチ」があってもいいような気がしました。経験論の立場からは「将棋のゲーム核の構造」などは誰にもその全貌が把握できない(「イデア」のような)ものだ、ということになると思います。初心者と熟練者、使用言語の異なる者同士、使用できる感覚器官の違う者同士、などの間の対戦可能性を保証するべく実装面での工夫をしたければ、ゲームの経験がどの程度似ているかを元に「同じゲームをプレイしていると言えるか」を考える必要が出てくる、実装面での問題を解決するためには構造的アプローチではなく経験的なアプローチを使っていると思います。

2001年12月22日:01時28分11秒
【比較ゲーム分析】戦闘とサブゲーム / トモス
鍼原さんの指摘*1 とは違って僕は未定義性と開放システムの問題を考える際にはアキトさんのエッセイ*2 にはそれほど触発されなかったのですが、通時態/共時態という整理*3 を見て少しアキトさんのエッセイを鍼原さんが画期的と評した理由がわかる気がしました。

僕の関心はどちらかと言えば共時態寄りですが、
>>前提:「比較ゲーム分析」は、「TRPGでの自由にまつわる『規範的な問題』」、及び、「TRPGでの自由を実現するための『実践論』」を整理し根拠づけるための「原理の考察」の1種。 <<*4
という鍼原さんの整理にも同感で、実践論には通時態分析の方が役に立つ部分があるような気もします。鍼原さんの議論の進展を期待したいところです。期待するだけでは失礼だろうと思いとりあえずひとつ話題を提供してみます。戦闘をサブゲームと考えることの妥当性についてです。

戦闘を通時態上のサブゲームと捉えることは、可能な場合も不可能な場合もあると思います。ただ、僕はサブゲームを鍼原さんと違う形で理解しているような気がしているので、言い換えると、アキトさんのエッセイで示されたような「カタイトコ」として戦闘シーンがあり、「ヤワラカイトコ」がその前後を挟む、という図が成立するかどうかは場合によると思います。成立の可否を決定づけるのは、「戦闘システム内で定義されていない手」をPCがとるか否か、「戦闘システム内で定義されていないイベント」が発生するか否か、などによると思います。そういう手やイベントの発生は、戦闘システムにない処理を要請し、戦闘部分とそうでない部分が通時的に混合することになると思います。混合の度合いが高ければそれを「サブゲーム」と括ることに無理があるだろうと思います。
#「戦闘システム」は変数、設定データ、処理ルールの総称として、「戦闘ルール」と紛らわしくなるのを避けるために使ってみました。
#どこからどこまでを戦闘システムにするかは実際には判断が難しいと思うのですが、どう工夫しても上の「定義されていない手やイベント」がありうる点が重要だと思います。

ルールや設定データに注目すると、戦闘はかなりの部分自己完結的に見えます。(戦闘ルールやデータの定義をでたらめにやってしまうと自己完結性は失われますが。)手が比較的よく定義され切っており、手の処理方法についてのルールや参照すべきデータがしっかり整備されている、という意味で。これはゲームの共時態構造上の特性です。(寺田さんのエッセイ*5はプレイの共時態構造なのでまた少し違う話になりますが。)この共時態上の完結性があるので、遊び手が望むなら、これをかなり閉鎖性の高いサブゲームとして遊ぶこと・も・できる場合があります。ここでの閉鎖性は「未定義な要因が定義されることを通じてゲームのバランスが変動するという事態が発生しない度合い」という意味です。共時態としては依然として開放系なのですが、その開放部分からの出入りが何もなかった場合には通時態として一時的に閉鎖系が成り立ちます。アキトさんが想定しているように戦闘の始まりと終わりにだけそうした開放性が見られる場合も、「擬似閉鎖系」という呼び方にふさわしいような閉鎖性が一時的に成立します。

まとめます。TRPGの戦闘部分は「ルールに必要最低限のものが定義され整備されているので閉鎖性の高いゲームとして遊ぶことができる」と同時に「戦闘ルール内に記載されていない行動をとること、イベントが発生すること、などによって自己完結性が損なわれる可能性は常にある」ということも言えると思います。未定義要素であれ、戦闘ルール外の既定義要素であれ、外部の要素が入り込んで来た場合には通時態としても戦闘処理と非戦闘処理が交錯し、それを「サブゲーム」と呼ぶだけの持続性は持ち得ないし、「カタイトコ」「ヤワラカイトコ」の交代モデルも不適切なものになる、と思います。


以前(例によって2000年末)、ゲームブックをシナリオ代わりに使ってプレイしてプレイヤーが偶然ゲームブックに記載されている選択肢だけを(強要されるわけではなく)選びつづけたらそれをTRPGと呼べるか、という議論がありましたが*6、こういうことが生じる可能性がある(プレイが自己完結的でありうる)ことは、そのゲームが閉鎖システムである(未定義性がない)ということとは違うと思います。開放システムの開放部分から何も出入りがなかっただけ、と言うか。


言及した投稿・エッセイ(敬称略)
*1【TRPGの自由】 RE:ゲーム間の移行の自由 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕,2001年12月19日:20時11分48秒
*2 「開放系ルールとしての RPG ──あるいは RPG は将棋ではないという話」アキト
「付け足しなんかつまらない!」アキト
*3 [比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕,2001年12月20日:23時40分59秒
*4 同上
*5 「プレイスタイルの違いを踏まえて求める先」寺田大典
*6 【ゲーム中デザイン】必要条件か??/myrt, 2000年10月24日 LOG 053とそれに続く議論
2001年12月21日:23時37分54秒
【比較ゲーム分析】Re:多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない / トモス
>>しかし重度のアイテムコレクションとか、グラディウスの残機とかになると一次元におさまらない場合がある<<(myrtさん)

僕が想定していたのはそういう性質です。そういうケースがありうるという点では同意してもらえると思います。 その次の2段落

>>ゲームが面白いのは、この一次元性のためだと思います。良し悪しを計る尺度があるので、良い戦略を取ろうとするモチベーションが生まれます。<<
>>ところが多目的ゲームではそうはいきません。複数のパレート最適解は、特性がはっきりと違います。ところがその間の優劣が決められないために、複数のパレート最適解からの選択は本質的にゲームたりえません(多目的最適化問題の解はパレート最適解の集合)。 <<

この部分のmyrtさんの考えがよくわかっているわけではないのですが、ここは僕も気になっていたところなので少し違った見解を出しておきます。

myrtさん*1 の「姫君の救出と魔王の妥当」という例で考えます。ここでは2つの目的を1つの共通尺度に変換することなく2つばらばらなままで議論しているように思いました。ところが、実際のプレイでは「姫君を傷つけずに救出できるなら魔王なんか倒せなくてもいいに決ってる」などと考える人もいる場合があります。人間は、1つの共通尺度に変換できないように見える諸目的にウェイトや優先順位を与え、意思決定の際に参照することができる。もちろん、迷いがあったり、他人に反論されるとなびいたりすることもあると思いますが。2つの目的の間に完全な共約不可能性(比較不可能性、共通尺度への変換不可能性)を見出す人がいるとしたら、こんな風に考えなければならないはずです。「魔王を倒せないとしたら、姫君を助けられようとも、賞金や爵位をもらおうとも、目的は果たせないことになる。姫君を無傷で助けられないとしたら、魔王を倒せてもと結局は同じことだ」それぞれの目的を達成することにはかけがえのない重要性があり、それは他の何物によっても補うことができない。人はそんな思考をすることもありますが(「かけがえのない人」のことを考える場合など)、そうでない場合も非常に多いと思います。「自分でも自信はないが、姫君に重傷を負わせることになるなら魔王をあきらめる。心理的な苦痛については後々まで残らないようなら姫君に我慢してもらう。姫君の軽傷と引き換えに魔王を倒せるならそっちを選ぶ。」というのが例えばそのような思考の例です。

経済学でもパレート最適の概念は全てを効用なり社会的厚生なりの一元的尺度に変換して、「この産業が成長する過程で大量の公害が発生するが成長から見込める税収入の増加でそれをまかなってもお釣が来るから成長させる方がいいのだ」という類の判断をしますよね。ここでは恐らく、「人の健康や余命をお金に換算している」か、そうでなくとも「ある人の健康を犠牲にしても他の人の健康を増進できるからよしとしている」ようなところがあるわけで、経済学一般にはそういう問題があると言えるとは思うのですが。

多目的ゲームにおいては、だから、myrtさんの言うように複数の目的を1つの尺度に変換しないままに扱う場合もあるのですが、そうではなく、厳密な変換比率を決定しないままに、あれこれの比較をしている場合は多いと思います。この場合でも、ゲームは依然としてゲームらしい面白さを備えているような気もします。つまり、少しでも高い達成度を目指した工夫の楽しさです。myrtさんの意見を聞きたいところですが。

==

多目的性の話はTRPGに関してはPCにとっての多目的性でやってきましたが、プレイヤーレベルにも同じような多目的性がありますね。

しかも、グラディウスの例でもそうだと思うのですが、目的が多数ある場合には、それが遊び手の間で完全に共有されているとは限らない。そうすると、一人一人が自分なりに違った目的(群)を持って違うゲームをしている、というようなことになるかと思います。
これはコスティキャンのゲーム論の用語ではトイ(玩具)になるのではないかと思います。トイの例としてシム・シティが挙げられていたと記憶するのですが、TRPGはかなりそれに近いものを感じます。グラディウスはだいぶ違いますが、それでもこの違いは程度の差であって質の差ではない、というような感触を持ちます。多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない、という命題には、myrtさんのとは全然違う意味でですが、説得力を感じます。

*1 [TRPGの自由]複数目的ゲーム\ / myrt、2001年12月20日:15時25分43秒
2001年12月21日:22時58分29秒
【比較ゲーム分析】スポーツ、ディベート、TRPG / トモス
>>例えば、プレイヤーの身体能力を使用して競技されるスポーツ・ゲームでは、 ルール系が論理システムであっても(実際ルール系は論理システムであるスポーツ・ゲームは多い)、実装による影響を無視することには無理が感じられる。 <<(鍼原さん)

同感なのですが、ここでスポーツの例を使わない方が論としては説得力があるような気がします。

前にも書いたことで、myrtさんからも指摘があったことですが、スポーツはTRPGと似ていると思います。
手の総体が定義され切っていない点で似ています。
ビリヤードのようなゲームでも、どうやって玉を打つかについては単に「選択」するだけではなく「発案」する余地があり、誰も手の総体を知らない。極端な話、ものすごく身体の柔らかい人が画期的かつ誰も真似できないような打ち方を編み出して、それが余りに有効な為に論議を巻き起こす、ということも考えられます。
TRPGの手は自然言語を使う必要があり、これもその総体が明らかになっていない。

あと、「模擬国連」とか各種ディベートの類。自然言語を使って架空世界なり現実世界を扱うため、TRPGと非常に似ています。これをゲームと考えるかどうか、勝利条件を目指した工夫を楽しむ遊びの一種と考えるかどうか、は意見が分かれるかも知れませんが。
2001年12月21日:19時38分09秒
【比較ゲーム分析】Re:実装領域とゲーム核の区別 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】実装領域とゲーム核の区別」,当掲示板,2001年12月21日:08時08分32秒)
>論理システムの構造が同じでも表現形式が違うと要求される思考も違ってくるから表現形式のレベルもゲーム核の構成要素だろう、と書きましたが、同じような形で、習熟の度合いによっても非常に異なる戦略的思考を行うので、同じ論理システムとトークンであても習熟の度合いもゲーム核の構成要素の一部、と書くと明らかに妙な感じがします。
 
 「妙な感じ」は、論理システムたるゲームを「プレイ環境に対して疑似閉鎖系」と規定すれば解消されます。
 抽象的には、将棋の場合、プレイは、「ゲームに関するルールに従った操作」と考えればよいので。
 
 厳密には、
 将棋のゲームとは、「トークンは完全に」、「ルールはほぼ」、プレイ環境に対して閉鎖系として構築される論理システムで、操作に関してはプレイ環境に対して開放系、とでも規定すればよいと思います。
 
>論理システムを完全に保存したままで、将棋をカードゲームに変えてしまうことができると思います。
 
 これは、アタシの想像力がおいつかないのですが。
 判断不能ながらも、トモスさんの言われるようなことは可能だ、と仮定します。 そうすると、
 
>人間の思考は上に書いたような論理システムを直に扱うわけではなく、その表現(インターフェース)が駒と盤なのか、カードなのか、数字の羅列なのかによって全然感触が違って来ると思います。
 
 とは言えると思います。
 
 けれど、
>論理システムだけではなくそのインターフェースのレベルでもある程度の同一性が保持されていないと「同じゲーム」とは呼べない。

 こちらは、微妙な論点ですね。
 [比較ゲーム分析]では、課題として整理されるべきなのかもしれません。
 が、どのように整理されるべきか、わかりません。

 この件は、Myrtさんの「【比較ゲーム分析】多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない」 (当掲示板,2001年12月21日:18時55分00秒)、での指摘の方がまっとうな気もします。が、今のアタシには判断がつきません。
 
 とりあえず、思うところで、前提の整理を試みてみます。
 一般にゲームについて理論的に考察されるときは、実装による影響がある場合でも無視される。
 この場合、論理システムたるゲームは、プレイ環境に対してほぼ閉鎖系であり、操作(プレイ)に関しては「プレイ環境⊃プレイヤー」に対して開放系、と整理される。
 
 が、これは、実装/論理システムの2分節で比較的綺麗に整理される「ごく一部のゲーム」には適した整理方法ではないのか? と疑われる。
 
 例えば、プレイヤーの身体能力を使用して競技されるスポーツ・ゲームでは、 ルール系が論理システムであっても(実際ルール系は論理システムであるスポーツ・ゲームは多い)、実装による影響を無視することには無理が感じられる。
 一例、ボーリングでピンの大きさや、ボールの大きさ、レーンの長さなどなどを規定を無視して変更したら、それは別の競技とみなされるはず。
#この件についてはMyrtさんの「車椅子バスケット・ボール」についての考察は説得力があると思います。
 
 これは、プレイヤーの身体能力を使用して競技されるスポーツ・ゲームでは、トークンを論理システムの要素として抽象化することに無理があるからではないだろうか?

 
 ともあれ、実装/論理システムの2分節で比較的綺麗に整理される「ごく一部のゲーム」を規範モデルにして、TRPGの一般的特徴について考察することが、歪みを生むことは明白なので。

 [比較ゲーム分析]では、「プレイヤーの身体能力を使用して競技されるスポーツ・ゲーム」で「ルール系と実装とを無理に分節するとどのような弊害が生じるのか」とか「では、スポーツ・ゲームと将棋の類とを同等に比較検討する理論的な土俵はどのようなものが考えられるのか?」を検討してみることは、一見遠回りに見えて実は以外と有益なのかもしれません。
 
【用語参照】
閉鎖系/開放系≫「[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性」(カンナ記,当掲示板,2001年12月20日:23時40分59秒)
比較ゲーム分析≫「【TRPGの自由】整理:比較ゲーム分析として(1)」 (トモスさん記,当掲示板,2001年12月20日:20時12分59秒)
「[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性」 (カンナ記,当掲示板,2001年12月20日:23時40分59秒)

2001年12月21日:19時34分35秒
【比較ゲーム分析】Re:多目的性について / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】多目的性について」,当掲示板,2001年12月21日:06時20分45秒)
>TRPGは様々な目的を同時並行的に、焦点を変動させつつ扱うゲームなので、ゲームに要求される戦略的思考も常に変動する
 
 うえは、TRPGセッション実態のかなり適確な要約説明、または描写だと思います。
 
>但しこれは必ずしも独特ではない。独特ではないにも関わらず、TRPGの独自性であると思われる「流動性」とよく似た現象を引き起こす点は興味深いと思います。実質的には、TRPGをプレイしなくても流動性の楽しみは得られるのではないか、という発想が成り立つからです。
 
 多目的性と流動性についてなのですが。
 例えばComputer War Simulation Gameの理念型で、典型的キャンペーンゲームをモデルに考えてみます。
 そうですね、少し旧いのかもしれないですけど(アタシ、ゲーム全般についてはあまり詳しくないもので)システムソフトのCWSG(Computer War Simulation Game)でのキャンペーンプレイが典型だと思います。
#システムソフトのラインの内ではやや変格かもしれませんが、個人的には「マスターオブモンスター」のシリーズに愛着があったので念頭に置いています(後にコンシューマー化された商品は除外、単にプレイしてないからとの理由)
 
 次のように言えるだろうと考えます。
 CWSGの理念型で典型的なキャンペーンでは、サブゲームとサブゲームの間に「ヤワラカイところ@アキトくん」が入らないか、入ったとしても完全に「付与@アキトくん」となる。
 この場合、サブゲームとサブゲームは、断続ではなく連続している、と言える。
 
 連続するサブゲームの個々がが論理システムであるなら、メインゲームも論理システムとして一貫すると言える。
 
 これに対して、TRPGでは「カタイところ」と「カタイところ」の間に「ヤワラカイところ」がはさまるのが一般型であり。サブゲームとサブゲームは断続すると言える。
 
 「CWSGの理念型で典型的なキャンペーン」での多目的性は、一貫してはいるが膨大な論理システムでのパレート最適解の問題として対処(プレイ)され得る。少なくとも理想的プレイは、そのようなものだ、と言える。
 
 が、TRPGセッションでの多目的性は、ヤワラカイところが、サブゲームたるカタイところに関与・複合する限りにおいて、一貫した論理システムでのパレート最適解問題とは別の性質のものにならざるを得ない。
#多分、Myrtさんの「【比較ゲーム分析】多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない」 (当掲示板,2001年12月21日:18時55分00秒)、での指摘と複合させて検討されると興味深いのではないか、と思うのですが。少し自信がありません。

 
>見解・見積もりなどの相違、つまり解釈の多様性があるのは、オリンピックの競技やカラオケ大会での審査員など、人間が勝利判定に介在する場合には常につきまとうものかと思います。
 
 大変細かいですが重要なポイントに関ります。
 「カラオケ大会での審査員」はさておき、「人間が勝利判定に介在する場合」「オリンピックの競技」ではあっても、「フィギュア・スケートの場合」と「柔道の場合」とではかなり性質が異なります。 
 「フィギュア・スケートの場合」、「カラオケ大会での審査員」同様、あきらかに審査員の採点に「解釈」の要素が関与、または複合される。
 が「柔道の場合」は、理想的規範として、「解釈」ではなく「判定」の問題。
 例えば投げ技が一本/有効/効果と「判定」されるとき、背中から落ちた、体側から落ちたなどの、判定基準は明確に定まっている。
 「背中」、体側」、と言っても、日常語彙のような曖昧な用法はされず、柔道なら柔道で専門化されたキッチリした基準があるはず。
 ここには解釈の問題は生じない。
 
 これに対して、フィギュア・スケートの芸術点の場合、まず、曲想そして曲想を踏まえた演技表現、これらは理論的には、曲と演技という全体から部分(局面局面)の表現・効果が「解釈」される、と整理せされる。
 体操競技ではないので、高く跳んだ、回数スピンした、といってもそれは芸術点ではなく技術点になる。
 キッチリした基準に即して部分(局面)の評価が下されると期待される「判定」と、
 前後の演技の文脈から表現される表現効果が、全体の構成(全体的文脈)と関連付けて評価が下されるのが「解釈」。
 抽象的な整理だが、対照させるとこのような相違点が認められる。

 「判定」に曖昧さが付きまとうとしても、それは判定技術の問題であり、多様な解釈が並立して複数解釈の間で妥当性が検討される事態とは、性質が異なる。

 
 TRPGの場合、仮に一般的なセッションの規範型を、キャラクター・メイクからはじまり、経験点配布を含む講評会、または反省会(呼称はなんでもよいです)、で終了すると規定すれば。TRPGセッションの一般型は、「ややカタイところ」からはじまり、「ややヤワラカイところ」で終わると言えるでしょう。
 
 キャラクター・メイクは、β)「物語状況が相互了解される自然言語のコミュニケーション」=世界設定などの説明、とδ)「ルールが〔かなり〕緊密なゲーム核」の複合ですし。経験点配布を含む講評会も、β)「物語状況が相互了解される自然言語のコミュニケーション」とδ)「ルールが緊密なゲーム核」との複合だからです。
  
【用語参照】
カタイところ/ヤワラカイところ、付与/関与/複合≫アキトくん「開放系ルールとしての RPG」「付け足しなんかつまらない!」
断続/連続≫「[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性」 (カンナ記,当掲示板,2001年12月20日:23時40分59秒)
パレート最適解≫「[TRPGの自由]複数目的ゲーム\」 (Myrtさん記,当掲示板,2001年12月20日:15時25分43秒)

2001年12月21日:18時55分00秒
【比較ゲーム分析】多目的ゲームは(従来の意味での)ゲームではない / myrt
時間の都合で思い立った点だけ二撃離脱します。詳しく読んでないことによる 誤解があったら申し訳ありません。

 従来のゲーム理論で語られるところのいわゆるゲーム(ゲーム核)はすべて 単一目的です。麻雀なんかが良い例です。戦略と得点源はたくさんある ものの(ウマとかヤキトリとか)、その利得はすべて一次元値であ る得点に帰結されます。ただし相手がある上に確率のからむゲームなので、 最適戦略は混合戦略(確率的な戦略)の話になります。

 トモスさんがCRPGで「生存できるなら経験値やアイテムを欲 張る」例を出されました。ところがここでも「経験値やアイテムが たくさんあると大ボスを倒すために役立つ」と、メインのゲーム核における 利得の一次元性を保持しています(しかし重度のアイテムコレクションとか、 グラディウスの残機とかになると一次元におさまらない場合がある)。

 ゲームが面白いのは、この一次元性のためだと思います。 良し悪しを計る尺度があるので、良い戦略を取ろうとするモチベーションが生まれます。

 ところが多目的ゲームではそうはいきません。複数のパレート最適 解は、特性がはっきりと違います。ところがその間の優劣が決められ ないために、複数のパレート最適解からの選択は本質的にゲームたり えません(多目的最適化問題の解はパレート最適解の集合)。

 そこでそれをゲームにするために、目的を一次元化する手法がありま す(これもトモスさんが例を挙げられました)。ゲーム的なシナリオというのは、 この一次元化手法がGMによって与えられるものとだと思います。
2001年12月21日:18時45分25秒
【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装 / myrt
トモスさん>> 論理システムだけではなくそのインターフェースのレベルでも ある程度の同一性が保持されていないと「同じゲーム」とは呼べない。

 そうじゃなくって、適切なインターフェースを実装しないと参加できないのだと 思います。典型的な例が「盲目の人と健常者の将棋対決」です。盲 目の人用、健常者用どちらのインターフェースだけでも競技になりませんが、 両方を仲介するシステムがあれば競技が可能になります。 打った手(実質2ケタの数字)だけを手紙(インターフェース)でやりとりする メール将棋は古来から行なわれています。

 違う実装をしたものが同じゲームであるか は、対戦可能か(または再現可能か)どうかが参考になります。盲目の人と健常 者の将棋は仲介があれば対戦できます。 メール将棋のデータから盤面を起こすことは簡単ですが、この実装 での「1時間制限将棋」の実現は難しいです。 盲目の短距離走選手(コースからはずれると無線で指 示してもらう)も健常者と対戦できます(ただし手助け禁止にひっかかる 恐れがあり、対戦前に確認が必要)。しかし健常者と車椅子の人でバスケット ボールをするには、新たなゲーム核を定義せねばならないでしょう。このことから 車椅子バスケットボールと普通のバスケットボールは違うゲームであると 言ってよいと思います。

 車椅子バスケットボールが何故できたのかを考えてみました。やはり 最初は「車椅子でもバスケットボールがしたい」という理念があったの だと思います。ところが、どう実装を工夫してもそのままのルールでは 無理だ。そこで、より 概念的な「バスケットボールがバスケットボールらしい理念」を想定し、 それをできるだけ実現したゲーム核を新たに作った。こんな顛末じゃないかと 想像します。これは実装によってゲームが変わったのではなく、実装できなか ったから似た違うゲームを考えたと見るべきだと思います。
2001年12月21日:08時08分32秒
【比較ゲーム分析】実装領域とゲーム核の区別 / トモス
将棋におけるゲーム核は何か。結論は出せませんが幾つか疑問や例を出してみます。
モノポリーの様々なバージョンでは様々なトークン(駒や小道具)のデザインがあるにも関わらず全てが「モノポリー」らしさを備えているかと思います。基本的には「要求される戦略的思考が同じ」「手の総体、起こりうる事態の総体などが同じ」という2つの理由によって。
将棋で、歩を無くしてしまって足りない時に1円玉で代用してもそれは将棋のままだ、と同様の理由により主張できます。盤上でプレイしようと、画面上でプレイしようと将棋なのだ、とも。

分離派の立場に立つとしたら、トークンのデザインは将棋のゲーム核の内には含まれない、と僕は主張すると思います。


デザインはゲーム核に含まれないけれども、「駒に相当する何か」を使うことには変わりないので、その「駒に相当する何か」はゲーム核の中に含まれる。僕の中の分離派の部分はそう考えているのですが、その根拠は他の人と同じなのかわからないので書いてみます。

将棋を音声だけでプレイする人が、もしも将棋盤を思い描くことがなかったらどうでしょうか? つまり「駒に相当する何か」がないゲームをプレイしている。

あるいは、もしも将棋の構造を完全に保存したままで「一切の入力は4桁の数値で行い、2人のプレイヤーが交互に行う入力に対して数十桁の数値からなる結果がその都度返される」というゲームにしたとします。盤も駒もないゲームです。入力によって生じる変動には特定のパターン(ルール)があります。勝利条件は、そのパターンを理解した上で返される数十桁の数値を特定の値にすることです。

「論理システム」という呼び方で連想するのは、こうした抽象的な変換を経ても尚残ることになる手と状態の関係の構造(それを決めるのがルール)、そして勝利条件です。

論理システムを完全に保存したままで、将棋をカードゲームに変えてしまうことができると思います。盤も駒もないゲームに。こうした形でトークンを変えてしまうと、「元のゲーム」とは全然違うゲームになってしまう。人間の思考は上に書いたような論理システムを直に扱うわけではなく、その表現(インターフェース)が駒と盤なのか、カードなのか、数字の羅列なのかによって全然感触が違って来ると思います。ということは、論理システムだけではなくそのインターフェースのレベルでもある程度の同一性が保持されていないと「同じゲーム」とは呼べない。将棋のゲーム核の構成要素には盤と駒があってしかるべき、とそれ故に思います。

上達する前と後で、同じ将棋をプレイすると、あたかも違ったゲームをするかのように感じるのではないかと思います。ゲームの論理システムとその表現形式は特定の思考形式を要求して来ますが、その要求に従う者もそうでない者もプレイはできます。間違った戦略的思考回路を採用している人でも将棋は指せるし、間違ったままで勝ってしまう場合もあります。
上で、論理システムの構造が同じでも表現形式が違うと要求される思考も違ってくるから表現形式のレベルもゲーム核の構成要素だろう、と書きましたが、同じような形で、習熟の度合いによっても非常に異なる戦略的思考を行うので、同じ論理システムとトークンであても習熟の度合いもゲーム核の構成要素の一部、と書くと明らかに妙な感じがします。
2001年12月21日:06時20分45秒
【比較ゲーム分析】多目的性について / トモス
>>トモスさんも賛成してくれると思いますが。多目的性自体は、TRPGに独特とも言えなくとも、TRPGでの多目的性の生成メカニズム、その様態、処理手法などには独特なものがみられるわけです<<(鍼原さん)

賛成です。この投稿では様態をもう少し具体的に記述しようと試みてみます。鍼原さんの追求する路線にどれだけ参考になるかは余り自信がありませんが。

>>ゲームに一慣性があり、しっかり定義されていてさえ目先の目的が変わる例を示してみました。 <<(myrtさん)

という論点の含意にさっき気が付いたのでまずここから。一つの勝利条件に対して一つのゲームがある、と(便宜上一時的に)考えれば、ひとつのプレイは複数のゲームを同時にプレイしていることになり、その内の幾つかは目標が早期に達成されたり、達成不可能な局面に到達したりして他のゲームより早く終了してしまう。一つの手を打つ時も複数のゲームの文脈を考慮しながら打っているけれども、ある時点では「目的1にだけ関わる正念場」が続いて別ゲームないしサブゲーム的な様相を呈する。あるいはある時点以降は、「目的3だけが課題として残されている」のでそれに即した手の選択をすることになる。しかもこのような変化は、設定やルールの変動が一切なくても起こりうる。つまり別ゲームへの移行によく似た現象が、未定義性とは関係なく起こる。これはメインゲームとサブゲームといった階層的カテゴリーでは十分には把握できない現象で、複数のサブゲームの間のウェイトの変動、といった形で把握するのがいいでしょうか。

未定義性とは関係なくこのゲームの焦点の変化(従ってゲームをプレイする際に要求される戦略的思考の変化)が生じることから、TRPG以外のゲームでもこれがあると考えられます。コンピュータゲームで、多量のザコを相手に戦う場合は「生存」が保証されているので「アイテムの獲得」や「得点稼ぎ」が重要になってくるのに対して、ボスキャラと戦う場合にはそうした目標以前に「生存」が脅かされるのでその点に集中した戦略を立てる、といった変化はこの例になるかと思います。CRPGの場合は、そもそも戦闘が発生し得るモードと情報収集モードとが分離されている場合も少なくなく、これを相互に影響しあう2つ(以上)のサブゲームが交互にプレイされる、と言えると思います。


TRPGの場合、「達成度を誰が測るのか」という問題があります。あるPCにとっては敵を倒すことの方が姫君を無傷で救うよりも圧倒的に大事なのに、別のPCにとっては優先順位が全く逆、というような。GMが意見を持っている場合もあります。PC達の間の交渉や相互作用の結果、敵に重傷を負わせて、姫君は非常に肝を冷やしたけれど結果として無傷で救出、ということになった場合それがどの程度上出来の結果なのかについては、PCの間で意見が一致しなくても当たり前のような気がします。目的がひとつで、成功と失敗の境界がはっきりしている場合や、複数の目的の達成度が数値で表現されている場合などと違い、「架空現実を自然言語を使って表現する」ので何が最適解になるかについて意見が分かれる。

また、TRPGではそもそも「達成できる結果は以下の3つ」と断言できないところが僕には気になります。「これが最適だろうと思っていたけれど実は別の戦略をとっていればもっといい結果が達成できていたかも知れない」などと。

誰にも事態の全貌が見えない・把握し切れないTRPGでは、そもそも意思決定をする時点で何が最適解かがわからない(各種の未知性や不確定性がある)上、意思決定をした後、結果が出た後でも、「もしあの時別の戦略をとっていたらどうなっていたのだろうか」ということを精確に知ることはできない場合がかなり多いと思います。非常に達成困難な目標を追求することは、努力に見合った達成が得られない可能性があり、そもそもよい目標ではない、ということになってしまう場合があると思います。目標がPC達に選ばれ・発案されるものである限りにおいて、見積もり上の不一致は目的の不一致になり得ます。

もちろん、PCの間で目的が完全に異なっていたり、対立を招く形になっている場合もありえます。対立はマルチプレイヤーゲームではむしろありふれていますが。

まとめると、TRPGの架空世界内における多目的性は、 a)PC一人にとっても勝利条件が複数存在し、状況に応じて焦点が変動する。
b)PC間で勝利条件が異なる。
c)PC間で諸勝利条件間の重要度の比率についての見解が異なる。
d)PC間で、勝利条件の内容と重要性について一致を見ている(「とにかく金を稼ぐことだけが問題だ」などの)場合でも、どのような戦略が最適であるか(/あったか)についての見積もりが異なる。
e)PC間で、特定の結果がどれだけ特定の勝利条件を満たしたかについて見解が異なる。

見解・見積もりなどの相違、つまり解釈の多様性があるのは、オリンピックの競技やカラオケ大会での審査員など、人間が勝利判定に介在する場合には常につきまとうものかと思います。TRPGは異なる立場の審査員が、数値での判定でも可/否判定でもなく、各々いろいろ複雑な感想を持つことになるので、足しあわせるなどして総合評価を出すことも難しい。ここは完全にではないとしてもかなり独特かと思います。
TRPGは様々な目的を同時並行的に、焦点を変動させつつ扱うゲームなので、ゲームに要求される戦略的思考も常に変動する、と言えるかと思います。但しこれは必ずしも独特ではない。独特ではないにも関わらず、TRPGの独自性であると思われる「流動性」とよく似た現象を引き起こす点は興味深いと思います。実質的には、TRPGをプレイしなくても流動性の楽しみは得られるのではないか、という発想が成り立つからです。
但し、TRPGには「説得や魅力的な演出などがPCの見解、見積もりなどを変動させる可能性がある」=固定されていない分自由がある、ということにもなるかと思います。この自由を扱い出すと「別ゲームへの移行」が起こり得ることになりますが、これはTRPG独特かと。
2001年12月20日:23時40分59秒
[比較ゲーム分析]サブゲームの開放関係とセッションでのコミュニケーションの多層性 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕

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#>トモスさんへ>本文が長いので、ご挨拶等省略させていただきます。
#トモスさんの今の議論の足しにはならないかもしれません。その場合は捨て置いていただきたく思います。
 
前提:「比較ゲーム分析」は、「TRPGでの自由にまつわる『規範的な問題』」、及び、「TRPGでの自由を実現するための『実践論』」を整理し根拠づけるための「原理の考察」の1種。
 
 「比較ゲーム分析」の方向は「〔ジャンルとしてのTPRGに特徴的な〕ゲームの諸性質(例えば手や勝利条件の未定義性)があるのではないか」を基本的な視座に「他にどのようなゲームの性質が〔ジャンルとしての〕TRPGにはあるのか、それはどの程度〔ジャンルとしての〕TRPGに独特なのか、そうした諸性質の結果、TRPGは遊び手の行為の自由をどのように制限・処理することができ、またできないゲームであるのか」の考察。
 
アタシのパースペクティヴ(視座):(厳密に詰めきれていないけど、アタシは、こんな視座で考えたいと思っています)
1.実装/論理ステムや、ゲーム/ゲーム核の分節
 実装/論理システムや、ゲーム/ゲーム核の分節は、「将棋やコンピュータゲームなどの人工言語で記述しきることができるごく一部のゲームだけ」に適合性の高いモデルだろう、と思います。
1-1.TRPGの比較ゲーム分析の場合は、論理システムであるゲーム核と、性質が異なる幾つかの“ゲーム”が層を成している、との整理を考えてみたい、と思います。
 アタシとしては、ゲーム核=論理システムと規定した場合、論理システムと異なる“ゲーム”の内に、性質が異なる幾つかの層が認められると思います(あるいは性質のことなる層の内には「ゲーム」としては捉え切れないものもあるかもしれない←これは検討課題とします)。

1-2.MyrtさんWrote>理論的に語るときは、実装による影響がある場合でも無視します。
 うえでMyrtさんが書いていることは事実ですが。これは、実装/論理システムの2分節で比較的綺麗に整理される「ごく一部のゲーム」には適した整理方法ではないでしょうか(?)。
#「[TRPGの自由]ゲームと実装」 (Myrtさん記,当掲示板,2001年12月20日:15時23分41秒)

 
2.開放系/閉鎖系ゲーム概念の曖昧さ
 開放系/閉鎖系ゲーム概念の曖昧さは、何が・何に関して・何に対して開放系/閉鎖系であるのかが明示されない場合に生じるだけと思われます。
2-1.アタシとしては、寺田大典さんの「TRPGセッションの構造モデル〔呼称カンナ〕」をベースに、議論の必要に応じた調整を加えたモデルを検討するのが有望ではないか、と思っています。
 寺田さんのモデルは、基本的に実践論の整理に適したモデルなのですが。
 寺田さんモデルから派生する型で、原理的考察に適したモデルを整理できそうな気がしています。
#寺田大典さんの「プレイスタイルの違いを踏まえて求める先」
#寺田大典さんのHP≫「TRPG BOX」
 
2-2.寺田さんのモデルは、セッションプレイ/ゲームプレイ/ロールプレイ/キャラクタープレイの成層を整理し。より左の層が、より右の層に対して基層になる、との整理です。

2-3.また、寺田さんのモデルは、基本的にセッションを一つの共時態としてみた場合の整理です。セッションを通じてのプレイの性質変動は、時系列でアナログに変動するとのイメージが提出されています。
#共時態=寺田さんのモデルでは、時系列にアナログな変化があっても構造的に同型とみなされているので、共時態と呼んで構いません。

 
3.セッション共時態構造モデルのアレンヂ
 寺田さんのモデルをベースに原理的考察に適したようにアレンジする場合、アタシは、時系列に応じたアナログな性質変動を、観念的に、あえて複数の共時態の断続変動(通時変化)、と整理するとよいように思っています。
3-1.この場合、いわゆるサブ・ゲームは、「ゲームプレイ」の断続と整理されます。またこの場合の「ゲームプレイ」には、「ゲーム核」と近似なものが含まれます。別の性質のものも、サブ・ゲームとみなせるかどうかは、検討課題です(←この検討にアキトくんの論考が有益と思われます)。
#一つのセッションに「ゲーム『核』」が複数断続する、ということになりますので、語感がちょっと嫌なんですけど、この辺は必要に応じて調整されるとよいでしょう。
#通時態=構造が異なる、複数の共時態が断続的に変化する様相が一般に通事態と呼ばれます。
#共時態/通事態≫鍼原神無「“構造”の諸概念」
#「“構造”の諸概念」の主題は表記の通りですので、必要に応じてサマリーと共時態/通事態の前後だけ参照していただければよいと思います。

 
>僕はサブゲームはメインゲームに包括された一部分という印象を受けるのですが、それを更に「戦闘部分は閉鎖系」「他の部分は開放系」と考えて、サブ・メインの関係を想定するというのが鍼原さんの議論になるでしょうか?
 
 いえ、違います。
 アキトくんの論考「付け足しなんかつまらない!」に関しても、あそこでは「戦闘シーン」は、「ルールが緊密であることが多いサブゲーム」の典型例として挙げられてるだけで。
 また、「戦闘シーンのサブゲーム」が閉鎖系か開放系か? という議論でもないです。
 
 強いて言えば、次のようなものがアキトくんの論考の論点になります。
a)よくあるTRPGにおいては「ルールが緊密であることが多い戦闘シーンのサブゲームですら、リソースや初期条件が、『ゲーム核(≒緊密なルールで処理されるサブゲーム)以外の部分』に対して開放系」である。
 「戦闘シーンのサブゲーム」がセッション内で閉鎖系として断続することは、TRPGらしくない。
b)「戦闘シーンのサブゲーム」が、セッション総体に対して開放関係である関係様態は、複合/関与/付与の3類型の整理が考えられる
c)戦闘シーンのサブゲームが、複合/関与/付与の内どのように処理されるべきかは、基本的には「TRPGシステム(ルール系+ワールド)」によって規定され、セッション展開に応じて処理される。
d)戦闘シーン以外のサブゲームがゲーム核として確立するかどうかは、「TRPGシステム(ルール系+ワールド)」に含まれるルールの緊密さに規定される。
e)戦闘シーン以外のサブゲームが、複合/関与/付与の内どのように処理されるべきかは、基本的には「TRPGシステム(ルール系+ワールド)」によって規定され、セッション展開に応じて処理される。

 
>解釈してみると、開放系であるTRPGのメインゲームは流動性が高く、一部のサブゲームだけが固定性を獲得し得る、言えるかと思います。馬場講座はメインゲームのレベルで固定性を確保しようとした点が問題、と。
 
 えーと、アタシとしてはトモスさんが今「メインゲーム⊃サブゲーム」と整理されているセッション共時態を、もう少し細かく分節したいんです。
 TRPGセッションの一般型の共時態には、次のような類型のコミュニケーションが含まれるように思います。
 
α)“ルール改変”の言語ゲーム(設定変更や追加設定が処理される)
β)物語状況が相互了解される自然言語のコミュニケーション
γ)PCの行為選択が問われる自然言語のコミュニケーション(“疑似ゲーム”)
δ)ルールが緊密なゲーム核
※それぞれのコミュニケーション類型は、コミュニケーションの性質自体が異なります。
※この類型をアキトくんの「カタイところ/ヤワラカイところ」や、寺田さんのセッション共時態構造のモデルの成層と、どう関連付けて整理するかは課題になっています。
※次はアタシの推定になりますが、アキトくんの整理では、上のβとγが主に「TRPGセッションでのヤワラカイところ」と把握されていると思います。もちろんδが「カタイところ」です。

 
 「メインゲームの流動性」とトモスさんが呼んでいるものは、アタシは「複数ゲーム核の断続的変化」と考えたいんです。
 また、「ヤワラカイところ@アキトくん」がメインゲームで「カタイところ@アキトくん」がサブゲームってわけでもありません。
 アキトくんの整理を踏まえたアタシの考えでは、「『ヤワラカイところ』と『カタイところ』が断続したセッションの通時変化」が、トモスさんの言われる「メインゲーム」に相当するんだと思います。
 
>この議論によると、戦闘部分、あるいは何であれ閉鎖系サブゲームとして成立する部分については、自由をある程度制御できる可能性があり、それ以外の部分についてはTRPGの独自性であるゲーム核部分での流動性、開放性、即ち自由の制御不可能性=活用可能性、があると思います。
 
 そうですね。上の小結論は概括として妥当ですし有用だと思います。
 理論的には「疑似閉鎖系のサブゲーム部分でも制御不可能性=活用可能性はゼロにならない」のですが。
 セッション内通時変化の比較としては、「疑似閉鎖系閉鎖系サブゲームとして成立する部分については、自由をある程度制御」されるわけです。「カタイところ」以外と比較すると、「かなり制御される」、と言ってもよいかもしれません。
 
>馬場講座はメインゲームのレベルで固定性を確保しようとした点が問題、と。
 
 えーと、それももちろん問題なんですけど。
 これまでの論旨からみると馬場講座の問題としては次のようなことが言えます。 
イ)馬場講座では、本来コスティキャン的なゲームとしては整理され得ないβ)「物語状況が相互了解される自然言語のコミュニケーション」⇔γ)「PCの行為選択が問われる自然言語のコミュニケーション(“疑似ゲーム”)」の性質と相互関連がまったく理解されていない。
 またアキトくんの論考で整理された「カタイところ」と「ヤワラカイところ」の複合/関与/付与の関連や性質の違いも未整理。
 このため馬場講座はTRPGの「特殊解」になっている。
 これは馬場講座がTRPGセッションに特有の自然言語コミュニケーションの性質について考慮していないことに起因する必然的帰結である。
ロ)馬場講座では本来コスティキャン的なゲームとしては処理され得ない、α)「“ルール改変”の言語ゲーム」(設定変更や追加設定が処理される)の性質がまったく考慮されていない。
 これは馬場講座が「実装/論理システムの2分節で比較的綺麗に整理されるごく一部のゲーム」のモデルを強引に理論の基礎に据えていることに起因する必然的帰結である。
ハ)イ)、ロ)が複合した結果、馬場講座で言われている「多層的意思決定」は何の層と何の層の多重であるのかが未整理になりジャーゴンに堕している。多層といいつつ、性質が異なる層など想定されてはいないので、論じられているのは実は単層にすぎない。
 馬場講座で言われる『多層』」はたかだか、γ層とδ層を複合されたものを「ごく一部のゲーム」モデルから強引に整理したものにすぎない。TRPGセッションにおける「パレート最適解」問題をもっともらしい理論で用語化しただけのもの、というのが真相。
 TRPGにおいて重要かつ特徴的な多層性は、本来的に性質自体が異なる層の関連に起因する。「馬場講座」の視野にはこの点も入っていない。これも「馬場講座」が「特殊解」にすぎないことの現れの一部。

 
>12/20のmyrtさんの投稿にある多目的ゲームの概念。これも架空世界内での話です。勝利条件が流動的であることと、目的が多数あることは非常に密接に関係があると思います。そして、自然言語を用いて架空世界を記述・描写するというゲームの性質上、これは不可避であるとも言えます。
 
 同感です。

>逆にこうした多目的性がTRPG独特かと言うとそうではなく、勝利条件が複数の尺度で測られるゲームはいくらでも考えられるとは思います。
 
 トモスさんも賛成してくれると思いますが。多目的性自体は、TRPGに独特とも言えなくとも、TRPGでの多目的性の生成メカニズム、その様態、処理手法などには独特なものがみられるわけです。
 
>TRPGの特徴があるとすれば、そうした勝利条件が一部しか明示されていない点でしょうか。僕は「誰も勝利条件の全貌を知らない」という未定義性について今まで使った形容がここに当てはまる気がします。勝利条件は必ずしも唐突に、あるいはご都合主義的なプレイヤーの意思決定によって現れる(成立する)わけではない。でも全てが必然的に決められていたのではなく、状況に応じて発案・発見されるという側面がある。myrtさんの立場とは少し異なるような気もしますが。
 
 そうですね。
 アタシは特に「勝利条件は必ずしも唐突に、あるいはご都合主義的なプレイヤーの意思決定によって現れる(成立する)わけではない。でも全てが必然的に決められていたのではなく、状況に応じて発案・発見される」を、β)「物語状況が相互了解される自然言語のコミュニケーション」を中心に考えたいと思っています。
 これはMyrtさんともトモスさんとも異なる視座だろうと思っています。
 
 最後に補足しますと、アタシは多分、プレイヤーとしても、GMとしても、セッションにおいて、TRPGの流動性を、システム(ルール系+ワールド)の限界の内で最大限効果的に活用したい、って立場なんだと(自分では)思っています。
 ただ、TRPGの流動性の評価・判定の基準に「ワールド解釈の妥当性」と「物語的納得力」も導入していますので。それで、いまだに、例の「一連の議論」「ルールとワールドに許容される限り自由」の議論がいつまでも気になって仕方ないんだろう、と思っています。

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