“構造”の諸概念


鍼原神無〔はりはら・かんな〕 2000/03/21

この投稿の末尾へジャンプ


 この文章は、日常語で言われる「構造」とは少し違う、“構造”の諸概念(または諸観念)について概説したジャーナル文です。
 筆者の意図としては、専門課程カリキュラムに進む前の大学生くらい、の読者を想定して書いています。

 内容は、“構造”の諸概念にどんなトレンドとヴァリエーションがあるか、についての説明です。大まかには20世紀思潮の内のトレンドのひとつを、少し細かく整理してみるといったトピックです。
 話題が話題なので、最初に要点だけをまとめて「サマリー」として記しました。
 本論は、サマリー内容の詳細な説明ですので、興味のある方だけお読みください。
 
サマリー(“構造”の諸概念)
日常語彙の「構造」
 日常語的には、まず第一に、建造物とか自動車とか、実体のある単一の構造物が連想される。
 次に「『構造』汚職」など、「システム」とゆう概念に関連する用法も一般的にある。
 
抽象度が高い《構造》
科学認識論の《構造》
 科学認識論の《構造》では、「全体が部分の機能(意味)を決定」し、「全体の性質さえ損なわれなければ部分の要素は変更可能」なものが、《構造》とされる。
 これは実体概念ではない。
 「システム」の概念に事実上等しい。
 
 科学認識論の《構造》に、日常語でイメージされるような「実体を持つ単一の《構造》物」的なイメージを抱くのはナンセンス。
 《構造》的に同型なものは、すべてある《構造》態の異体〔ヴァリアント〕と考えられる。
 ここで、重要なのは、なにかが、本来の在り方であって、他がそのヴァリエーションであるわけではない、こと。
 同型の《構造》態はすべてがヴァリアントとしては同等、とみなされる。
 
数学での《構造》
 群論や写像幾何学の《構造》では、変換操作がおこなわれても、維持される同一の特性が《構造》とされる。
 例えば、三角形はどれだけ形が違ったものも《構造》的に同型とみることができる。
 ある観点からは、三角形と四角形は別の《構造》とみなされる。
 しかし、さらに《構造》の基準を変えると、三角形も四角形も五角形も、「閉じた図形」とゆう同型の《構造》とみなすこともできるれる。
 
 ここでも、《構造》は「実体のある単一のもの」を意味しない。
 また、「三角形とゆう《構造》態」では、正三角形が「本来の」三角形で、他がそのヴァリエーションに過ぎない、といった考え方もナンセンス。
 あらゆる三角形は、三角形とゆう《構造》のヴァリアントとしては同等とされる。
 
示差的<構造>
 示差的な<構造>でも、「部分の意味は全体から決定される」。
 ただし、より厳密に言うと、「要素の意味が、要素間の差違の全体的な関係で決定される」のが示差的<構造>の特性。
 これは、「全体の維持に必要な機能が部分の意味」である、とゆう「システム」の考え方とは異なる。
 
 《ラング》や文化記号の示差的<構造>が、要素の意味を決定するメカニズムは、「示差的なメカニズム」とか、「差違の体系」とか言われる。
 また、示差的<構造>は、「恣意的」(無根拠)であるとされる。
 
 ここで言う「恣意的」とは、ある<構造>態内部の示差的関係性「だけ」が要素の意味を確定してゆく事を意味する。
 ある<構造>態の外部に根拠付けられる意味の説明は、必ず何かを隠蔽、または否曲したイデオロギーである、とゆう考え方も含まれる。
 
 また、示差的<構造>は基本的に共時態として考えられる。<構造>の性質が変異すること、変異の在りかたは、通時態で考えられる。
 通時性(通時態)と、歴史(歴史過程)は異なる観点である。
 ちなみに、通時的に<構造>が変異する際の構成要素や関係性の変化が「揺らぎ」と規定される。
 
 以上の示差的<構造>の考え方は、ソシュールの言語学に起源を持つ。それは、20世紀の文科系の研究、社会関係の学問に全面的な影響を与えた。
 
 例えば、自然言語(《ラング》)の構造様態(構造の在り方)が、示差的<構造>とされる。
 
 示差的<構造>が持つ恣意性は、記号論・記号学として体系化が追及されている。この記号論・記号学が、ソシュール的な<構造>論に共通の理論的基盤、または前提になっている。批判的に検討される場合ですら前提とされるのが、示差的<構造>が持つ恣意性の考え方である。
 
“構造”諸概念の共通性質
 抽象度が高い《構造》や、ソシュール的な<構造>の考え方には、日常語彙の「構造」とは違う意味付けが共通している。
・実体について論じているのではないので、構造が単一であるとかないとかゆうのはナンセンス。
・何かが正当な構造様態(構造の在り方)で他がそのヴァリエーションとゆうのもナンセンス。
・部分(要素)の意味は全体の在り方から決定される。
・要素が入れ替わっても、全体の在り方は変わらない。

示差的<構造>に特有の性質
 また、ソシュール的な言語記号の<構造>には、特に次のような内容が含まれる。
・記号<構造>では、要素の意味は、要素間の示差的関係性で定まる。
 全体の内で担う部分の「機能」から個々の要素の意味が確定されるタイプのシステムとは、性質が違う。
・示差的な意味付けは恣意的である。
 要素間の差違の関係性だけが意味を限定してゆく。

 
=本論=
#この投稿は以下のような構成を持っています。
サマリー(“構造”の諸概念)
 日常語彙の「構造」
 抽象度が高い《構造》
 示差的<構造>
 “構造”諸概念の共通要素
 示差的<構造>に特有の要素

=本論=
日常語の「構造」と《構造》
科学認識論の《構造》
数学の《構造》
言語学の<構造>
 言語学の<構造>
 《ラング》と言語の<構造>
言語記号の概念
 言語記号の概念
 「意味するもの〔シニフィアン〕」
 「意味されるもの〔シニフィエ〕」
 「言語記号〔シーニュ〕」の恣意性
言語記号の恣意性とは
<構造>の共時態と通時態
 <構造>の共時性
 <構造>の通時態
《ラング》の観念性
《ラング》、《パロール》、《ランガージュ》
ソシュール言語学と<構造>主義
まとめ
 “構造”諸概念の共通要素
 示差的<構造>に特有の要素
 
ブック・ガイド

 
日常語の「構造」と《構造》
 「構造」とゆう言葉から、日常語的にはまず、建造物とか、自動車とか、実体を持った単一の構造物を連想されることが多いと思います。
 
 それから「構造」汚職とかの「構造」は、一纏まりの、といった意味を含みます。
 こちらの場合、「システム」って概念との意味連合が強い。
 
 「構造」汚職ってゆーのは、「システムにもんだいがある。だから・実行犯だけ処罰しても、後から後から汚職は絶えない」、って含みですね。
 
 なんで、「構造」と「システム」の意味が結びつくのでしょうか?
 
 それは、抽象度が高い《構造》の考え方では、「全体が部分の機能(意味)を決定する」とされるからです。
 この抽象度の高い考え方を、ここでは《構造》と表記することにします。
 
 建築物とかが「構造」と呼ばれるのも、全体の力学的な関係(力学的な《構造》)から、部分の力学的強度が要請される、と考えれば納得がゆきます。
 
 「構造」と聞くと年配の方には、「あー、マルクス主義か」って早とちりされる方がいるんですけど。
 「経済の上部構造は下部構造に規定される」とかゆーんですね、マルクス主義では。
 この考え方はそれなりに意味があるんですけど、20世紀的な《構造》の要件は満たしていません。
 マルクスさんは19世紀末の人でしたから、《構造》の考え方を知らなくって当然なのです。
 
 「20世紀的な《構造》の考え方はマルクスに深源がある」って説の人もあります。
 でもそれを言い出すと、「いやフロイトにも<構造>っぽい考え方はあった」とか「いやニーチェにも」とか話がどんどん広がります。(笑)
 後、“構造”主義の考え方で、マルクスのテクストを再解釈、とかフロイトのテクストを再解釈とか、そーゆー話もあります。
 その辺は突っ込んだ話と思うので、この文章では割愛してます。
 
科学認識論の《構造》
 「全体が部分の機能(意味)を決定する」ってとこから、《構造》について、独特の考え方が生じます。
 例えば、「全体の性質さえ損なわれなければ部分の要素は変更可能」って考え方です。
 それを逆にすると「部分の要素が変更されても全体の機能が一緒なら同じ(《構造》的に同型)とみなす」って考え方も出てきます。
 
 まず「全体の性質さえ損なわれなければ部分の要素は変更可能」
 TVドラマの『刑事コロンボ』に世界的なチェス・プレイヤーが殺人を犯す話があるんですけど。
 このドラマの1シーンに、犯人がライバルとレストランでいきなりチェスをはじめるとこがあります。
 
 たまたま、レストランのテーブルクロスが大きなチェック柄だったもんで、会話してる内にエキサイトしてチェスの試合になっちゃいます。
 で、二人のキャラは、砂糖壷とか、コップとか、テーブルの上にあったものをジャンジャン使ってチェスをします。
 一流プレイヤーなので、二人とも常人離れした記憶力を持ってて、コップはポーンとか、砂糖壷はナイトとか、一言も確認の会話を交わさずに判断がつくんですね。
 
 つまり、「システム(《構造》)が同一ならば要素は変更可能」なわけです。何を使おうとチェスはチェスですので。
 これで、成り金とかが急に出たら、チェスではなくなっちゃいます。
 
 「部分の要素が変更されても全体の性質が一緒なら同じ(《構造》的に同型)とみなす」は、「全体の性質さえ損なわれなければ部分の要素は変更可能」の裏返しです。
 『刑事コロンボ』のチェスのエピソードでは、食器が使われてチェスがプレイされたんですけど。これが文房具を使ってプレイされてもチェスはチェスです。
 
 この抽象度が高い《構造》の考え方は、科学認識論って分野で構築された考え方です。
 
数学の《構造》
 科学認識論の《構造》に少し近いところで、同じくらい抽象度の高い《構造》の考え方に、数学でゆう《構造》があります。
 アタシは数学ダメなんですけど、群論とか写像幾何学とかそーゆー分野の関連だそうです。
 
 一例としては、三角形ならどれだけ形が変わったものでも《構造》的に同型とみなす。
 この場合、三角形と四角形は別の《構造》とみなされています。
 でも、さらに《構造》の基準を変えると、三角形も四角形も五角形も、「閉じた図形」とゆう同型の《構造》とみなせる。
 そーゆー考え方です。
 
言語学の<構造>
言語学の<構造>
 さて、「科学認識論」の《構造》、「数学」の《構造》と来て、ここでもうひとつ、言語記号の<構造>を紹介しないと20世紀の<構造>の考え方についての説明としては不充分です。
 
 言語学の<構造>の考え方はスイスのフェルディナン・ソシュールが一人で(多分一人で)構築しました。
 学者の家系の出の天才児だったので、もしかしたら、科学認識論や数学の同時代の動向を、どこかで知ったのかもしれません。今のところそーゆー証拠は見つかっていないようですけど。
 
 ソシュール以前の言語学は、今だと歴史言語学って呼ばれてます。印欧祖語とか、そーゆーのを研究するのがソシュール以前の言語学のメイン・トレンドでした。
 歴史言語学のさらに前は、普遍文法とかゆーのがはやりでした。世界中のあらゆる言語に共通する法則とかを見出そうとする研究が流行ってたんです。
 歴史言語学は「普遍文法なんて絵空事じゃん」って人と、「いや、印欧祖語を再構築すれば普遍文法の発見に近づけるかも」って人とが入り乱れて(笑)研究されてました。
 
 で、ソシュールですけど、若い時は歴史言語学の研究で成果を挙げました。でも、途中でヤんなっちゃったらしーです。
 「どーも、これは科学になんない」、とか思って。で、ソシュールの後半生は、言語学を科学にするために費やされました。
 
《ラング》と言語の<構造>
 まず、それまでの言語学は、バク然と言語を全般的に研究してたんですけど。ソシュールはこれを止めました。
 ソシュールが言語学の研究対象に定めたのは《ラング》です。
 
 《ラング》ってゆーのは、フランス語とか、英語とか、そーゆーのです。
 なんだ国語のことか、とか思わないでください。
 国語って概念はニホン語の特殊な概念ですので。
 国語に近い概念は公用語でしょう。いや、民族語かな?
 
 大多数の国では、一つの国の内で複数の《ラング》が使われています。その内のいくつかが公用語として採用されてるわけです。
 例えば、中国語、ってゆー国語も《ラング》もありません。あるのは北京語とか広東語とかってゆう《ラング》です。
 
 それから、「フランス語」ってゆー《ラング》と「フランス語の元になったロマンス語」って《ラング》、これは<構造>的に別だってことにしよー。そーしないと言語学が科学的になんない。
 そーゆーことを決めたのもソシュールです。
 
 例えば、日本語ってゆー《ラング》と、万葉語って《ラング》は<構造>的に別のものってみなす事にしたんです。
 
 さて、ここまでときどき断わり無く<構造>って表記してました。
 
 科学認識論や数学でゆう《構造》と、言語学や言語論でゆう<構造>は、性質に違うところがあります。
 どちらも「全体から部分の意味が決定される」ってところは同じなんですけど。
 それ以外の所ではカナリ性質が違います。
 例えば、全体と部分の関係性にも違いがあります。
 
 どこがどー違うかを説明するには、ソシュール言語学の基本の基本、「言語記号の概念」について解説しなくてはなりません。
 
言語記号の概念
言語記号の概念
1.「言語記号〔シーニュ〕」とは、「意味するもの〔シニフィアン〕」と「意味されるもの〔シニフィエ〕」の結合態である。
2.「意味するもの〔シニフィアン〕」は示差的なシステム(<構造>)で認知される。
3.「意味されるもの〔シニフィエ〕」は示差的なシステム(<構造>)として想起される。
4.「言語記号〔シーニュ〕」での「意味するもの〔シニフィアン〕」と「意味されるもの〔シニフィエ〕」の結合は恣意的である。
 
 言語記号の概念はこれだけです。
 言語学の専門家になるのでなければ、これさえきちんと理解すれば、20世紀の言語論やコミュニケーション論のカナリの部分がわかっちゃいます。その代わりここをアバウトに理解すると、後々混乱するばかりです。(体験談:苦笑)
 
 まず、「記号」(言語記号)の、「シーニュ」ってゆーのは、英語の「サイン」にあたるフランス語です。
 「意味するもの」の「シニフィアン」ってゆーのは、「シーニュ」の動詞形の現在分詞。
 「意味されるもの」の「シニフィエ」ってゆーのは、同じく「シーニュ」の動詞形の過去分詞。

 「意味するもの」、「意味されるもの」って一般的に定着しちゃった訳語なんですけど。アタシはあまりよい用語ではないと思います(アタシのせいではないですケド)。でも昔は、「能記」と「書記」とか、「記号表現」と「記号内容」とか、もっとわけのわかんない訳語もありましたので、それよりはマシかな。

 「シニフィアン」は「意味するもの」ってゆうより「示しているもの」ってニュアンスです。
 「シニフィエ」は「意味されるもの」ってゆうより「示されたこと」ってニュアンスなわけです。
 アタシは、現代思想読み出してから随分後から、これを知って目から鱗が落ちたんですよね。「言語記号」のわかりが早くなると思います。
 
「意味するもの〔シニフィアン〕」
 ソシュールの場合、音声言語を中心に研究しましたので、「意味するもの〔シニフィアン〕」は、言語学だと「聴覚映像」とか訳されることがあります。
 書記言語だと、「意味するもの〔シニフィアン〕」は文字の形態ってことになります。
 ここで形態ってゆーのは、明朝体で書かれようと、ゴチック体で書かれようと、あるいは、毛筆で書かれようと「あ」とゆう文字の《構造》(形態)は同じと認知される、って意味です。
 
 さて、「聴覚映像」ってなんでしょう?
 ただの「音」ではないんです。「音」が「有意な音声」として認知されたときのイメージの事を「聴覚映像」と言います。
 
 例えば英米語では「r」の音と「l」の音は有意に区別された音素として認知されます。
 でも、ニホン語では区別されません。
 
 例えば、r→lと音を段々変化させ、聴き取る実験とかをします。
 すると英米語ネイティブのスピーカーは、この音の変化を連続としては認知しません。
 あるところまではゼッタイ「r」だって聴き取っちゃうんです。
 で、変化があるレベルを越えると突然「l」と認知する。
 
 音の変化自体を連続させても人間の方がそのように聴き取ってしまうんです。
 こーゆーふうにんげんの認知上区別される音を、有徴的な音素とか言います。
 で、音素の区別は《ラング》ごとに違う。
 
 それから、物理的には連続した音なのに、区別を聴き取ってしまう認知の仕方を「分節」と呼びます。
 「r/l」って書くと、「/」が「分節」を意味します。
 
 で、「『意味するもの〔シニフィアン〕』は示差的なシステム(<構造>)で認知される」ですけど。
 例えば英米語だと「r」と「l」は認知された(聴き取られた)音の違いが機能を持つ。(示差的)
 しかし、一連の音がどこで音素として分節されるかは、《ラング》ごとに違う。(恣意的)
 とされます。ニホン語では「r/l」の分節はされません。
 
 それとか、ニホン語でも網の「み」の音と、闇の「み」の音は昔は有徴的な音素として示差的に認知されてたと考えられています。
 万葉集は元は漢字で表記されていたので、今は同じ音と認知されていても、当時有徴的に異なっていた音素には別の漢字が使われています。
 万葉語がニホン語とは別の<構造>態とされるのは、こーゆー事例がいっぱいあるからです。母音の数も今より多かったようですし。
 
「意味されるもの〔シニフィエ〕」
 次に「意味されるもの〔シニフィエ〕」ですけど、これは「概念」って訳されます。
 普通言われる概念は、いろいろ物事を考えた結果まとめられたもの、みたいなニュアンスがありますけど。
 「意味されるもの〔シニフィエ〕」には、もっと基本的に、言語習得の仮定で身につけられた「概念」も含めて考えられます。
 そしてそうした「概念」は人間の言語思考を基本の所で拘束する、と考えられています
 
 よく出される例なんですけど、イヌイット(エスキモー)のある部族が、白って単語を日常語彙に数十持ってるってゆーんですね。
 アタシはウソかホントか知りませんけど。
 例えば「今降ったばかりの雪の白」とか、「分厚くて割れそうにない氷の白」とかにそれぞれ別の単語を持ってる。
 アタシとかは「白」って概念は「白」しかないです。
 絵描きさんだと、ジンク・ホワイトだとか、チタニュゥム・ホワイトだとか、いろいろな「概念」をもっているんですけど。そーゆー人は《ラング》の例外とみなされちゃいます。
 だいたい言語記号としては、「ホワイト」のヴァリエーション(ヴァリアントではない)、にすぎない、とも言えますし。

 例えば、「スカイ・ブルー」と、「セルリアン・ブルー」も、言語記号的にどちらも「ブルー」のヴァリエーションでしょう。 でも、「ブルー」と「インディゴ」はまったく別概念なんです。
 ちなみに米語人は、視覚的には「“inidigo”を有徴的に分節認知しない」って実験報告があります。「濃い・ブルー」だって言うらいいんですけど。そう言えば、ブルー・ジーンズって言いますよね。
 でも、HTMLのフォントタグには“indigo”ってカラーのコマンドがありますよね? 文化環境が変わって、米語人の認知<構造>に変異が生じているのでしょうか??
 ニホン語では「青」と「藍」はずっと別概念ですね。
 
 えーっと、何の話かってゆーと、ソシュールは、それまでの歴史言語学と、普遍文法とを一遍にひっくり返しちゃったって話なんです。
 歴史言語学がソシュール言語学を受け入れてどう変わったか、は後でちょっとふれます。
 「文法」の考え方も20世紀に随分変わったんですけど、そちらの話はこの文章の範囲を超えてしまいます。ソシュールの影響もあるんですけど、それより英米系の「言語行為論」ってコミュニケーション論の影響が大きい、ってことだけコメントしておきます。

 さて、ソシュールの言語学で、世界像を分節してく基本的概念は、自然言語では文化ごとに違う(普遍的なものは無い)、って事が発見されました。
 「世界像を分節」ってなんのことでしょうか? 生まれたときから視覚系の器質障害を持ってる方が、成長してから、例えば角膜移植の手術とかで、視覚を獲得すると、はじめは世界像が視覚認知されない、って話があります。
 アタシは本でそうゆう話を読んだだけですけど。視覚像が光りと色のにじみとしか認知できなくって(抽象画みたいなイメージでしょうか?)、遠近も実体の大小もわからないって話です。
 で、こうした視覚像は生活体験とともに徐々に認知<構造>が自己形成されてくと思われるのですが。その際の、分節認知の在り方が、文化ごとに規定されてる、のだろう、とゆう話です。
 最近は、認知科学が発展してきているので、この件はより精密に考えられるようになっていますが。例えば、ヒトに共通の肉体機構に基づく通文化的(あらゆる文化に共通)な分節と、文化ごとに異なる分節とがあるんだ、とかそうゆうふうになってきています。
 
 で、「『意味されるもの〔シニフィエ〕』は示差的なシステム(<構造>)として想起される」って事になるんです。この場合、通文化的な分節も、文化ごとに異なる記号<構造>の差違の体系の内に含まれて、いわば巻き込まれてしまう、と考えてよいと思います。
 「そんな事はない、例えば1とか2とか数詞の意味はどの文化でも共通だろう」って疑問もでるでしょうけど。ソシュール的な言語学では、言語<構造>の示差的システムの関係性が重視されることを思い出してください。
 どんなものでも、似てるとこだけ取り出して比較すれば、いくらでも似てるって言えます。ここでもんだいにされているのは、似てる要素でも、世界像の内での位置付けは《ラング》ごとに違ってくるって事実について、です。数詞について言えば、「4」とか「13」とか、「7」とか「8」の意味付けは《ラング》によって違いますよね。
 
 ずっと後になって、人間の言語能力に「深層の<構造>」があるって仮定をたてた言語学の一派があります。
 この立場では、様々な《ラング》は、「深層の言語<構造>」の発現態とされます。
 すべての《ラング》は、人類に共通である「深層の言語<構造>」のヴァリアントだ、ってされます。
 「変形生成文法」の考え方と言われています。少し、「普遍文法」の考え方と似たところがありますね。
 ここでは、そーした立場もある、ってゆー報告に留めておきます。
 
「言語記号〔シーニュ〕」の恣意性
 ソシュールの言語<構造>の考え方では、どんな《ラング》でも「『意味するもの〔シニフィアン〕』と『意味されるもの〔シニフィエ〕』が恣意的に(無根拠に)結びついたのが言語記号だ」って規定されてます。
 多分ここが一番ひっかかる・はず・と思います。
 
 とりあえず、ここでは「恣意的」とは、「文化ごとにいろいろで全人類に共通する根拠は無い」って意味だと理解してみてください。(後でもうちょっと詳しくお話します
 で、「『意味するもの〔シニフィアン〕』の示差的なシステム(<構造>)」自体が恣意的です。
 それから、「『意味されるもの〔シニフィエ〕』の示差的なシステム(<構造>)」は、これも「意味するもの」とは無関係に恣意的です。
 二つの恣意的な<構造>がこれまた恣意的に結合したのが「言語記号〔シーニュ〕」の<構造>です。
 
 すごくあやふやそーですよね。
 言語はもともとあやふやなもの(曖昧性をもったもの)なんだ、って発見したのはソシュール最大の功績かもしれません。

 えーっと、よく使われる喩話をご紹介します。
 「言語記号〔シーニュ〕」の示差的な<構造>を「網」とイメージしてください。この喩では、網紐の結節された個所が「言語記号〔シーニュ〕」とイメージされます。
 「意味するもの〔シニフィアン〕」と「意味されるもの〔シニフィエ〕」の結合態、ってイメージはありません。大まかな喩ですので。
 ともかく「言語記号〔シーニュ〕」とゆうのは網紐の結節点のように、ひとつの記号が他のあらゆる記号と関係しているとイメージされます。
 ある記号(結節点)をつまんで、そこをギュッとねじたっとイメージしてください。
 ねじられた結節点(記号)に近接した記号(結節点)の相互の位置関係は大きく変動しますよね。
 それだけでなく、より遠くの結節点(記号)にも位置づけの変動は、波及してゆきます。遠くになれば、なるほど、波及効果は緩やかになりますけれど。
 記号間の示差的関係が全体として意味を確定してゆく言語<構造>とは、例えばこのような<構造>様態(<構造>の在りかた)としてイメージされます。

 言語<構造>の実態は実はもっともっと曖昧です。詳しくは後述しますけど、網のように結節点(記号)の相互関係が一定しているわけですらありません。
 ソシュールは、曖昧性を持ったものを無理矢理な整理で裁断することを避けようとしました。曖昧な研究対象の曖昧さがどんな性質であるのかを研究するための、キッチリした方法を考えようとして、対象領域もキッチリ限定したのも、ソシュールの偉いところと思います。
 
言語記号の恣意性とは
 「言語記号は恣意的」と言われると、多くの人が、「?」って思うはず、とゆー気がします。
 例えば、「『意味するもの〔シニフィアン〕』と『意味されるもの〔シニフィエ〕』の結びつきは恣意的」とか言われたって、「そんなことないでは」、って思う人は多いはずです。「言葉の意味は歴史的に決まってるではないか」、と。
 
 これはソシュールの意見でもないですけど、言語の<構造>以外の文化的な拘束によって、固定しようとする力が生じると考えてよいでしょう。
 また、言語<構造>の内でも、音声言語と書記言語では、その曖昧さは格段に違います。
 
 例えば文字言語を持たない民族の音声言語は、凄く流動的だって報告があります。2〜3世代もするところころ代わるってゆーんですけど。
 2〜3世代ってゆーのはちょっと眉ツバな気もしますが。たしかに文字がなければ、言語は変わり易いと思われます。
 
 例えばアメリカ史上の黒人奴隷の言語。
 奴隷の所有者たちは、反抗を警戒して、出身部族が異なり、言葉が通じない奴隷ばかりを選んで夫婦にしたそうです。こうした夫婦の間では、カタコトの米語が話されます。で、それを聞いて育った子供たちは独特の米語を持つようになります。
 
 これは言語学でクレオール研究と呼ばれる分野に関連します。
 アメリカの黒人奴隷は過去、文字の学習を禁じられた歴史があります。で、黒人奴隷間の米語は農場ごととかで偏差が凄く大きかった、と言われます。それから、世代が移るにつれ変化も急激だった、とも言われます。
 
 それから、ニホン語でも、英語でもどの《ラング》でもよいんですけど、文字言語があるのに、単語の意味って、物凄くいい加減に変わっちゃう事実がたくさんあります。
 
 例えばニホン語に「建前」って言葉があるんですけど。
 多分、今だと、大多数の人は「建前」って聞くと、「本音と違う、上辺だけの」って意味だと認知すると思います。
 ところが、ある研究によるとこの「意味(用法)」が一般的になったのって、1970年代後半から1980年代初頭にかけて、と言います。
 本来は、「建前」って和大工さんの言葉で、今で言ったら「設計図」みたいな意味だったんですね。
 で戦前は「原則」とか「方針」みたいな意味でした。
 例えば「我が校は共学を建前とし」ってゆーのは、これは「ホンネは女子校にしたいんだよーん」とかって意味では無くって(笑)。「原則として共学が方針なのだ」って意味だったんです。
 今ではこの用法で「建前」を使う人は絶滅寸前でしょう。
 
 「原則・方針」といった意味の中から、「上辺だけの」って意味が突然出て来るわけがないのですね。あまりに唐突でしょ。
 これはもちろん「本音」って言葉との、示差的関係から新たに生じた意味なんです。
 それもどんなに早くても1970年前後に。
 ‘70年代以前には「本音」と「建前」を対にする言語習慣は一般的でなかったようです。当時の国語辞書にも載ってないのですね。
 
 言葉にはその意味が歴史的に、徐々にしか変化しないものもあります。でも、それは言語<構造>以外の文化制度による拘束の結果と思われます。
 本来は、そしてより多くの言葉の意味は、示差的な関係の効果で唐突に変わります。
 
 この唐突に変わることの根拠に恣意性があるわけです。
 
 ちょっと突飛な喩えなんですけど。
 言語<構造>の恣意性をイメージするためにラーメンを思い起こしてください。
 ラーメンってお汁のうえに油の粒が浮いてますよね。子供のとき、食べ終わったラーメンのお汁で遊んで怒られたことありませんか?(アタシはよく怒られたんですけど:笑)
 
 油の粒、ひとつひとつを、「言語記号〔シーニュ〕」とイメージしてください。油の粒がいくつかくっついてる境界をお箸で、チョンッとつつくと、くっついて大きな粒になります。
 大きな粒をお箸でかき混ぜると、それは小さないくつもの粒にわかれます。
 
 この喩えでは、お箸での操作を「言語使用」とイメージしてください。
 「言語記号〔シーニュ〕」の在り方は、言語使用によって、唐突に、恣意的に変わってゆく。そーゆー喩話でした。
 よい子は、真似して食べ物で遊んだりしないでくださいね。

<構造>の共時態と通時態
<構造>の共時性
 それやこれやで、ソシュールはいろいろな《ラング》を個別に分析しながら、相互に比較してゆく科学として言語学を構想しました。
 
 ここで、万葉語と日本語が別の《ラング》とみなされるって書いたことを思い出してください。
 
 ソシュール以前の歴史言語学は、《ラング》の示差的<構造>なんてコンセプトありませんでしたから、単語の歴史的変化をおっかけてたんですね。
 
 例えば、「印欧祖語を探るには『鮭』って語彙の歴史を溯るのが重要だ、だって、ゲルマン人は北海から来たから」。
 これってあやふやな研究方針ですよね。それは、考古学的に、ゲルマン人の祖先を溯っていったら北海の方が起源なのではないかなー、って傍証があっての事なんですけど。
 
 まず、古ゲルマン人が印欧祖語の語り手だって仮定が含まれてます。
 それから、考古学遺物の系譜と、言語痕跡の系譜は、なかなか一致しません。だから、「鮭」って語彙の痕跡を溯ってったら、それが古ゲルマン人に行き当たるって確証もないわけです。
 こうした仮定に基づいて研究をされる学者さんは、ホントにご苦労様だと思います。
 
 でも、ソシュール以降、歴史言語学も、<構造>の考え方を受け入れてます。意味的に関連が近いいくつもの語彙の組み合わせを追跡したり、いろいろ試みられているようです。
 
 で、《ラング》の示差的<構造>なんですけど。これは、単語の意味は、全体の<構造>の持つ関係性で(示差的に)決まるって考え方なわけです。
 「全体の持つ関係性で決まる」は、科学認識論の《構造》と同じですね。
 ただ「示差的に」が言語システムの特徴ではあります。
 それから、「要素の示差的関係の全体が意味を限定してゆく」(網をねじる喩えを思い出してください)が、一般的な「システム」とは違う性質です。
 
 こうした《ラング》の実態は、細部で刻一刻変動していると思われます。
 こうした細部の変動を、直に研究しようとすると科学にならない、とソシュールは考えました。
 そこで、ソシュールは刻一刻変動してる言語<構造>のある時期を、抽象的に仮定して研究対象にすることに決めました。
 それが《ラング》が持つ共時態の側面です。
 ある時期の言語<構造>に抽象的に仮定された性質が共時性と呼ばれます。
 
 歴史的に変動しているある言語から、ある時間幅での断面が切り出されたものが、共時態としての《ラング》、と考えて大よそ間違いではありません。
 
<構造>の通時態
 ここでは、一般的に広く使用されている通時態の概念について説明します。
 共時態と対になる概念が通時態です。通時態と歴史過程は別概念です。
 
 歴史過程、つまり継続的な変化の累積が微分されたものが共時態ではありません。
 逆に、まず、共時態が考えられます。次いで、複数の共時態の間の断続が通時態と考えられます。
 
 《ラング》の通時態とは、共時的<構造>の全体がある時期突然に一挙に変化するってゆうイメージです。
 
 「ある時期突然に一挙に」って言い方に戸惑う人は多いと思われます。
 ここでは、「言語の歴史的変化」みたいな凄くタイムスケールの大きな対象が考察されていることに注目してください。
 例えば、進化論で「大進化」って概念があるようです。
 アタシは自然科学は疎いのであやふやな理解と思いますが。
 「大進化」も「生物の種の進化は、あるとき突然に一挙に起こる」ってイメージで概ねよいと思います。
 
 生物学の「種」と同じように、いろいろな言語のなかに《ラング》とゆうカテゴリーを確定しよう。そうしないと「言語についての科学」がはじめられないから、ってゆうのがソシュールの構想だったわけです。
 
 で、通時態なんですけど。
 これと歴史(歴史過程)の概念上の区別はきっちりつけられないといけません。でないと話が混乱します。
 歴史過程は一般的に、継続的・暫時的、または断続的な変化とその累積の事を意味します。
 通時的変化は、<構造>の共時態と共時態の間の一挙の変化です。
 で、通時態とゆうのは一般に、「ある共時的構造が、別の共時的構造に変化するときの変化の在り方」と理解されています。
 
 実は、ソシュールを専門に研究している研究者の間には、うえに記したような「通時態」の理解が、ソシュール自身の思想に即していない、ソシュールの書いたテクストの誤読だ、ってゆう有力な意見があります。
 その立場では、「通時態」と一般に呼ばれている観念は「超時態」と呼ばれるべきとされます。ソシュール自身は「通時態」って用語でもっと別の事を言い表そうとしていた、と論じられています。
 
 アタシ個人は、この「超時態/通時態」の考えにたいへん説得力と魅力を感じているのですが。しかし、現状では一般的でないとも考えています。
 ですので、ここでは一般的な「通時態」の理解について記しました。
 
 後、通時態と歴史(歴史過程)の関係、について。
 ソシュール的な<構造>主義の考え方が、文化系の学問や、社会系の学問に根本的な影響を与えてから、<構造>の考え方を応用した歴史研究も盛んになっています。
 
 こうした研究では、例えば、「第一次大戦直前のイギリスの社会<構造>」、「両大戦戦間記のイギリスの社会<構造>」、「第二次大戦後のイギリスの社会<構造>」がそれぞれ共時態として仮定されます。
 そして「イギリスの社会<構造>」の通時的変化が考えられます。通時的変化のメカニズムを論じる際に、旧来の歴史過程(継続的・暫時的)が考えられる、二本だての考察になるわけです。
 
 通時態と歴史(歴史過程)とを曖昧に混同すると、この辺の整理がゴチャゴチャになってしまうのですね。
 
 それから、ある<構造>態の通時的変化の際の要素の変動が、「揺らぎ」と規定されています。
 これはソシュール以降の科学認識論の話題なんですけど。初期構造主義(科学認識論)の抽象的《構造》には通時態とか共時態って考えはありませんでした。これは、科学認識論のトレンドが、ソシュール的なトレンドを応用した事例と言えると思います。(←この件は、ちょっと筆者の憶測入ってます)

 後、パラダイムって概念をお聞きの人もいると思います。パラダイム概念は、最初に提唱したT・S・クーンが撤回した後も一人歩きしちゃった不幸な概念なんですけど(苦笑)。少し共時態の考え方に似ていますよね。今でも知識社会学なんかでは言うみたいですけど。
 パラダイムは「認識〔の〕枠組」とも訳されます。元の意味は、「ある期間を通じて科学研究者集団に問題や解法のモデルを提供する普遍的と認められた科学的成果」の意味でした。「パラダイム」自体には恣意性とか、共時的示差性とかはないところが、<構造>概念とは違います。
 
《ラング》の観念性
 ソシュールが考案した、《ラング》が、言語学の研究を“科学”的にするための、理論上の観念ツールであることは重視されるべきです。
 実際に《ラング》の<構造>を記述するとしたら、ある時代にある特定言語《ラング》を使っているあらゆる人の言語行為を調査しなくてはなりません。方言とか、年齢ごとの語彙偏差とか、いろいろ含めてですね。
 この調査を全体的におこなうことは、事実上不可能です。
 
 「《ラング》とゆう示差的<構造>を仮定して、そこから言語学をはじめよう」これが、ソシュールの目論見でした。
 これは、言語とゆう研究対象の性質を考えると妥当と思われます。
 実際、あらゆる論者・研究者に受け入れられていますし。
 
 ただ、ソシュールは偉かったので、《ラング》とゆう観念を構築する際に、きっちりした整理をしました。
 
 それが《ラング》、《パロール》、《ランガージュ》とゆう相互に関連した、観念です。
 
《ラング》、《パロール》、《ランガージュ》
 《ラング》とは、特定の言語の共時的な<構造>の事です。
 《パロール》とは、大まかにはある《ラング》を使う人々の個人的な発話の事、とされます。
 《ランガージュ》は、「言語能力」と訳されたりします。言語を使用したり、理解(解釈)したりする人間の能力のことですね。
 
 ソシュールの言語学では、《パロール》は、言語学の対象から外す、とされています。
 ソシュール以降の言語学・言語論では、《パロール》の取り扱いについては異なる立場が並立している、といえるでしょう。
 
 例えばきちんとした言語学でも方言は《ラング》の構造の一部と考えられます。でも、方言のどこまでが《パロール》でどこからが《ラング》であるかの線引きは、これは凄く専門的な議論になります。要するに異論がいくつも出るってことです。
 
 また、統計の手法を利用して《パロール》の偏異を学問的に研究しようとする分野に社会言語学あります。
 
 ソシュールは、《ラング》と《パロール》を観念的に分離することで、科学としての言語学の体系を打ち出したのですが。ご本人も、「《ラング》の構造が、なぜ通時的に<構造>変化するのか説明し難い」、って難問に死ぬまで悩んだようです。
 
 ソシュールの偉いところは、観念的な体系を構築しただけではなく、その体系から排除されたもんだいもきちんと考えようとしたところでしょう。
 晩年のソシュールはこのもんだいに取り組むため、詩の作成テクニックの研究に没頭しました。これはソシュールの「アナグラム研究」として知られています。
 
 それから、ソシュールが科学研究から排除した《パロール》の領域にまで<構造>の概念を拡張しようとした論者も決して珍しくありません。このタイプの論者は、ソシュールの「アナグラム研究」を重視する傾向があります。
 
ソシュール言語学と<構造>主義
 <構造>主義について説明するのはこの文章の範囲を越えますので簡単に。
 
 ソシュールの業績は生前は一般には知られず、評価もされませんでした。
 
 実は、ソシュール本人は生前自分の言語思想をあまり公表しませんでしたし。
 ソシュールの<構造>言語学の考え方は、彼の死後、まず、彼の講義を聴講した学生達の手で講義録として公表された、とゆう経緯なんです。
 
 で、その後ソシュールの再評価がされてから、ソシュールの断片的な遺稿を専門に研究する人も増えました。学生さんたちがまとめた、ソシュールの講義録には、随分誤解があって、ソシュール自身はもっと別の事を考えていた、とゆう指摘もあります。この評価は、現在では大分一般的なものと思われます。
 
 ソシュール的な<構造>の考え方が、文化系の研究や社会系の学問に影響を与えるようになったのは、ソシュールの死後、随分たってからの事です。
 
 ですので、一言で“構造”、とか、<構造>主義とか言っても、そこにはソシュール以外のトレンドが混在してます。
 この文章で簡単に説明した科学認識論のトレンドや、数学のトレンドもあります。

 だいたい、「構造主義(Structuralism)」って言葉だって、本人達が名乗ったりマニュフェスト(声明文)とかを出したのでなくって、雑誌とかがそー呼んだのがはじまりって話ですし。(よくある事ですけど)
 「構造主義四天王」(←コレってフランス語でなんてゆうのか、アタシは前から謎なんですが:笑)とか言われてる人たちでも、「しまいまで、構造主義を擁護してた人はロラン・バルトだけだ」とかゆー話もあります(笑)。
 普通は「四天王」のひとりって言われるフーコーですけど、「割と構造主義に批判的なとこが一貫してた」とかもゆーし。わけわかりません(爆)。
 それでも、多くの人びとに、共通した前提やアプローチが観れるので「構造主義」って言葉が成立してるんですけど。
 
 また、ソシュールの規定に沿って厳密に言語<構造>を考える立場と別に、《パロール》の意味能産性(まったく新しい用語法を唐突に用いても、コミュニケーションが成立すること「も」ある)も<構造>概念に含めようとする立場もあります。
 この二つの立場の間では、同じ言語<構造>ですら、意味付けが変わってしまいます。「《パロール》の意味能産性」を重視する立場の論者は、ソシュールの「アナグラム研究」を重視する傾向があったり、とかいろいろです。
 ここに、ソシュール言語学の影響を受けた文芸批評のトレンドが入ると、もっとわけがわかんなくなります(笑)。でも、文芸批評のトレンドは、記号論・記号学と結びつきが強いので、無視するわけにもいきません。
 
 さらにさらに、《ランガージュ》(にんげんの言語能力)を支える実体として、「深層の言語<構造>」を仮定する「変形生成文法」派が参加すると、どんどんわけわからなさは増すばかりです(爆)。
 
 ちなみに、「変形生成文法」の研究は、一部で「認知言語学」とゆう分野と関係して、いろいろな成果を挙げています。「認知言語学」はどちらかとゆうと、ソシュール的な<構造>概念より、抽象的な《構造》の概念を重視するようです。
 
 それやこれやで「構造」とか《構造》とか<構造>とかゆう話は、ややこしいです。
 ただ、共通の性質も、もちろんあります。
 専門の研究をするのでなければ、この「共通の性質」をきっちり理解してけばそれでよいと思います。


 後、どの対象領域だったら、どんなアプローチがふさわしいか、とかも考えられるとなおよいでしょう。
 例えば、文芸批評トレンドの<構造>論で科学認識論をやろうとしても、それはムチャです。逆もまたムチャなことは変わりません。
 レヴィ・ストロースのプリミティヴ文化へのアプローチ方法はそのままでは、高度に複雑化したモダン・ソサイエティーにはあてはめがたいです。(あてはめてもよいのですけど、こぼれるものがたくさんあります)
 逆にフーコーの「歴史の系譜学」とか「知の考古学」とかってアプローチはプリミティヴ社会にあてはめるには重い、と思います。
 よーするに、そーゆー事だけ気をつけられればよいんだ、って思います。
  
まとめ
 最後に、まとめとして、“構造”の諸概念に共通な性質とかについて書きます。(文頭のサマリーの最後に書いてあるのと同じ文章ですけど)
 次のようなことが言えます。 
 
“構造”諸概念の共通性質
 抽象度が高い《構造》や、ソシュール的な<構造>の考え方には、日常語彙の「構造」とは違う意味付けが共通している。
・実体について論じているのではないので、構造が単一であるとかないとかゆうのはナンセンス。
・何かが正当な構造様態(構造の在り方)で他がそのヴァリエーションとゆうのもナンセンス。
・部分(要素)の意味は全体の在り方から決定される。
・要素が入れ替わっても、全体の在り方は変わらない。

示差的<構造>に特有の性質
 また、ソシュール的な言語記号の<構造>には、特に次のような内容が含まれる。
・記号<構造>では、要素の意味は、要素間の示差的関係性で定まる。
 全体の内で担う部分の「機能」から個々の要素の意味が確定されるタイプのシステムとは、性質が違う。
・示差的な意味付けは恣意的である。
 要素間の差違の関係性だけが意味を限定してゆく。

 
ブック・ガイド
 このブック・ガイドは、本論の参考資料の意図ではありません。
 筆者は、本論は本論だけで、理解がゆくように努めて書いたつもりですので。
 ただ、筆者の筆力が足りなくって、「えー、カンナの書いてることホントかなー?」って思った人や、興味を持ってくれた人には、以下に挙げる本をお薦めします。
 
 一応絞りました。6冊です。
 ややこしー、専門向けの本を読むよりも、ここで挙げる一般向けの概説書の内、どれか2、3冊を読む方がはるかに実になる、とアタシは思います。(←体験談:笑)
 
橋爪大三郎、著,『はじめての構造主義』(講談社現代新書898),講談社,Tokyo,1988.
ISBN4-06-148898-8 C0210
 ともかくわかり易いです。それから、数学の話にまなりページ数が割かれてるところがよいです。
 ソシュール言語学〜記号論のトレンドへの言及が薄いのが欠点かな。
 でも、文科系の人が、数学的な《構造》のトレンドを理解するにはよいし。
 理科系の人が、文化系的な<構造>概念の手掛かりを得るにも割とよいです。
 入門・概説書としてはハイ・クオリティーです。
 ブックガイドも充実してます。
 著者の立場は、システム論的社会学です。その辺も考慮して読むとなおよいと思います。
 
田中克彦、著,『言語学とは何か』(岩波新書303),岩波書店,Tokyo,1993.
ISBN4-00-430303-6 C0280
 ソシュールの思想自体についてはもっとよい本があるのですが。20世紀的な言語<構造>の考え方のトレンドを知るにはこれが一番と思います。
 著者の立場は社会言語学なので、ソシュールの言語思想が、妙に神秘化されていないところがお勧めです。
 普遍文法、歴史言語学、変形生成文法などへの言及もありますし。
 さすがに、認知言語学への言及は(明確には)されていないですけど。
 
立川健二、山田広昭、共著,『現代言語論 ソシュール フロイト ヴィドゲンシュタイン』(ワードマップシリーズ),新曜社,Tokyo,1990.
ISBN4-7885-0372-7 C1010
 新曜社の「ワードマップ」のシリーズは、「キーワードの解説集」ってコンセプトで出されてる一般向け概説書シリーズ。
 平均的な新書本より、少し高度な水準かなって思うんですけど。キーワードごとの解説がコンパクで、読みやすいです。良書の多いシリーズです。
 この本の主題は、言語論・言語哲学です。
 <構造>主義と密接な関係にある、記号論・記号学のトレンドを理解するにはよい本と思います。
 後、哲学の専門家だと(専門家だからこそ?)なかなか一度に論じられない、大陸系(フランス・ドイツなど)と英米系の思潮に共に言及されているところがよいです。
 「哲学の言語論的展開」といわれる、ヴィドゲンシュタイン〜言語行為論へのトレンドは、直接<構造主義>には関わってきません。けれど、記号論・記号学を媒介にして観ると、同じ関心への別アプローチ、とも観えます。
 ちなみに、著者のひとり、立川健二さんはニホンでのソシュール再評価・紹介の第一人者だった丸山圭三郎さん(故人)のお弟子さんです。

土田知則、神郡悦子、伊藤直哉、共著,『現代文学理論 テクスト・読み・世界』(ワードマップシリーズ),新曜社,Tokyo,1996.
ISBN4-7885-0579-7 C1090
 「キーワードの解説集」ってコンセプトで出されてる、新曜社の一般向け概説書「ワードマップ」シリーズ。
 <構造>主義と密接に関係する、記号論・記号学と、そこから派生したテクスト批評のトレンドが紹介されています。
 <構造>主義文学批評から物語の形式分析・物語論へのトレンドは本文では言及する余裕がありませんでした。
 実はこの辺が一番TRPGに関係してきそうなんですけど。

久米博、著,『現代フランス哲学』(ワードマップシリーズ),新曜社,Tokyo,1998. 
ISBN4-7885-0626-2 C1010
 「キーワードの解説集」ってコンセプトで出されてる、新曜社の一般向け概説書「ワードマップ」シリーズ。
 <構造>主義自体は、そのメイン・トレンドはフランス語の思潮でした。ですのでこの本もお勧めです。
 フランス語での思想って、大きな流れ、文化環境の内で<構造>主義のトレンドが自己形成した性格をつかむにはよい概説書です。

ジョン・レヒテ、著,『現代思想の50人構造主義から ポストモダンまで』,青土社,Tokyo.1999.
ISBN4-7917-5736-X C1010
 6冊の内、唯一のハードカヴァーです。
 でも、50人の思想家について、ひとりあたり10ページくらいです。
 ちょっとまとめすぎてて、判断にまよう記述もあるかもしれません。その辺はあまり気にせずに、この本の中でレファランスされている思想家間の相互関連に注目して読んでくとよいと思います。
 この本のお勧めポイントは、“構造”のいろいろなトレンドがきっちりわけれれているところ。
 筆者は、構造主義四天王(笑)とか言われた、精神分析学のラカンの弟子であった、クリステヴァの弟子ですが。専門は社会学(表象社会学)だそうです。
 その割には、科学認識論のトレンドの位置付けが公正なんですけど。これは、著者の専門が表象社会学なので、科学認識論のバシュラールって人の表象理論の理解がゆきとどいてるからかなー、とか思います(ちょっと推測)。
 例えば、「初期構造主義」って章があるんですけど、ここにはソシュールが入って無い(笑)。
 ソシュールは「記号論」って章に入れられてます。
 普通は「構造主義四天王」(笑)の一人って言われる、フーコーは「ポスト構造主義」の章に入ってるし。イカス☆
 「構造歴史学」、って章があったりするのも、目配りがよいです。
 ちなみに「構造歴史学」の章には、ただひとり、『地中海』のフェルナン・ブローデルが挙げられています。

#この投稿は以上です。

この投稿の冒頭へジャンプ

TRPGのための哲学

TRPGのための学問所


このページはWebPage単独掲載サービスにより作成提供されています。

TRPG.NETホームページ / 筆者:鍼原神無 / Web管理者連絡先