TRPG総合研究室 LOG 104

TRPG総合研究室の2002年07月12日から2002年08月14日までのログです。


2002年08月14日:23時03分57秒
【複雑性の比較ゲーム分析】ジンクスとOR / myrt
(Re:2002年08月12日:18時59分53秒【複雑 性の比較ゲーム分析】実態主義の限界と複雑性、検証不可能性 / トモスさん)

 私が重要だと思うのは、明らかに拙い手がわかる部分と、見通しが悪くて 何が良い手が判断できない部分との間です。

 明らかに拙い手の次に、ちょっと考えれば拙いことがわかる手があると します。そして、もう少し考えれば拙いことがわかる手が...と段階を 追うごとに、だんだん「拙いと思うんだけど、もしかするといい手である かもしれない」な部分に到達します。

 将棋などのシステムにおいてはその「だんだん難しくなっていく 具合」がどの段階においても同じ仕組みに依存している ことがわかっているので(組合せ爆発)、「自分がギリギリ判断でき ない部分も、もう少し賢ければ判断ができるのだろう」ことが常に言えます。 この仕組みがあることが拙い手の部分の考察でわかるからこそ、 勝敗を左右するようなもっと複雑な部分にも似たような仕組みがあること を確信できるのではないでしょうか。

>>とりわけ、複雑な構造を持ったゲーム核が、検証不可能(プレイ後も不可 知)であるような場合には、そういう思考が行われていると思います。僕が 迷っているのは、それらをうまく説明できないという理由で実態主義に一定 の見切りをつけるべきか、あるいは従来通りの実態主義の立場からそうした 遊びはゲームと呼ぶに相応しくないと言うべきか、<<

 ゲーム核が検証不可能である場合は、ゲーム核(??)がゲームの構造を持ってい ないことも検証不可能であるはずです。であればそれがゲームでないと断言 することもできないわけですから、「ゲームと呼ぶには相応しくない」というのは 少し違うのではないでしょうか。同様に、実態が検証不可能であれば何が工夫 であるかも検証不可能であるし、それで良いと思います。

>>そうすると、ジンクスや願掛けのようなものまで工夫だということにな り兼ねず、個人的にはかなり躊躇するものがあります。 <<

 共感呪術なんかを見ると、呪術やジンクスが非科学的なのではなく、経験則の 中から科学的に裏付けられたものを取り除いた残りが呪術やジンクスなのだと 思っています。「熊は強い。なら熊に似ることができれば、熊に似た強さが 得られるんじゃないか」なんて発想自体は科学的だと思います。オペレーション リサーチを徹底するようになったのは近代になってからですし。

 ちなみにマインスイーパで壁に接したマスから開くのは、2択3択を迫られない ためだと思います。2択3択を迫られるのは大抵壁がらみですから。

>>ですが、この立場は、「どれだけの観測を経たら立証と見なすか」という点が 不明確だという問題があります。 <<

 正真証明難しいです。例えば「6面ダイスを振ってみて、どんな結果が出たら ダイスがどれだけ歪んでいると言えるか」なんてのは...カイ2乗検定などが ありますが、かなり偏ってても「歪んでいるとは断言できない」という歯切 れの悪い結果が出ます...
2002年08月12日:18時59分53秒
【複雑性の比較ゲーム分析】実態主義の限界と複雑性、検証不可能性 / トモス
myrtさんの直前の投稿へのお返事です。

1)コメント

ゲーム性が存在したかどうかだけを検証するのは比較的容易、というmyrtさんの指摘はもっともだと思いました。将棋であれば投了とか居眠りによる時間切れという手段があるわけですが、これは当然ながらよい手ではありえません。

ただ、将棋の楽しみはそうした明らかに拙い手とそれ以外の手とを区別するところにはなく、ゲーム核の中でももっと見通しの悪い部分を相手に何とか先を見通してよりよい手を見つけだそうとする点にあると思うので、上のような容易な検証では捉えられない部分についてどう考えるかが重要という点は変りがないだろう、とも思います。

スポーツであれば、5分間ただ立っているだけ、というような手はいろいろなスポーツで選択可能ですが、かなり多くのスポーツで明らかに拙い手になっています。

こうした明らかに拙い手を避ける以外に、近似判断、経験則、無根拠な前提を用いる思考ととりあえず括ってみた思考を、ゲーム中には行っており、それが手の優劣を判断しようとする楽しみと結びついているとも思います。そこでこの問題を再びとりあげてみます。

2)問題

(近似判断、経験則、無根拠な前提を用いる思考についてのやりとりから)

(トモス)>>これらの思考法はこれまで「工夫」として想定して来たような、典型的な合理的な判断、形式的・論理的に証明可能な手の優劣の判断とは異なる判断だという感じがします。<<

(myrtさん)>>いや、これこそ典型的な「手がかり」ではないでしょうか。<<

ゲームと一般に称される多くの遊びでこのような思考が行われているとは思います。とりわけ、複雑な構造を持ったゲーム核が、検証不可能(プレイ後も不可知)であるような場合には、そういう思考が行われていると思います。僕が迷っているのは、それらをうまく説明できないという理由で実態主義に一定の見切りをつけるべきか、あるいは従来通りの実態主義の立場からそうした遊びはゲームと呼ぶに相応しくないと言うべきか、あるいは実態主義を補強して慣用的な「ゲーム」との齟齬を減らすべきか、という点です。より具体的には、これまで乱数要素や未公開要素について行ったような実態主義の補強ができるのか、あるいは観測主義を定式化してそちらに移行するべきか、という2者択一を念頭において考えているのですが。これ自体適切かどうか自信がありません。

#前者を選択することはあるいは奇妙に思えるかも知れませんが、ゲームという言葉は人や分野によって用法が異なるもので、一つの理論的立場からそれら全てを説明できないとしても少しも不思議はなく、実態主義の立場からはある極めて限られた遊びしかゲームとして認められない、という立論も、その意味ではありだろうと思います。

3)実態主義の再検討:「工夫」および「工夫の余地」の定義

実態主義の立場の中で重要と思われる考え方は、「工夫によって勝率が上昇する」ということをもって「工夫の余地がある」とする点です。言い換えれば、工夫の余地とは「工夫によって勝率を上昇させられる余地」なわけです。

当初はこの考え方を「工夫によって確実に勝利できること」と混同したりもしましたが、あくまでも勝率の上昇であって勝利そのものではない、という風に今は考えています。

また、勝率を上昇させるような「よりよい手」の選択につながらない場合であっても、(例えば、あれこれ思索した挙げ句、単にそれまで打とうと思っていたのと同じ手を打つべき、という結論になる場合でも)、少なくともその手が他の手と比べて優れていることがより確かになった場合には、それを工夫と認めてよいだろう、とも考えました。勝率が上昇する場合としない場合とに共通するのは、手の優劣についてのよりよい判断ができる、という点です。よりよい判断は、それまで考えていたのと別の手の選択につながるかも知れませんし、同じ手の選択に留まるかも知れませんが、いずれにせよ判断はより確実なものになっているわけです。言い換えれば、ある遊びに工夫の余地があるというのは、「考えることで手の優劣が正しく判断できる余地」があることだと考えるわけです。

以上のような工夫の定義と同時に、実態主義の立場からは、手の優劣について何も適切な情報を与えることのないような思考については、工夫とは呼べない、という議論もして来ました。例えば与えられた情報を、知恵を絞って、誤った前提に基づいて処理して、より拙い手を打つに至った場合、そこには工夫はなかった、という風に考えるわけです。知恵を絞ること一般と、工夫とを区別するわけです。工夫は、あくまでも正しい判断だけに限られる、とします。

4)問題の再記述

以上のように「工夫」「工夫の余地」を定義することから帰結する困難は2つあると思います。いずれも、検証不可能で複雑なゲーム核を扱う場合に発生する困難です。

a)あるプレイヤーが「工夫のつもり」で行った思考が、勝率の上昇なり、手の優劣のより確かな判断に結びついているのかどうかがわからない場合がある。

もしも、「プレイヤーが工夫のつもりで行った思考は何であれ工夫と見なす」ということであれば、この困難は解消します。工夫の有効性を検証できなくても、プレイヤーが知恵を絞ったのならとにかく工夫と見なす、ということにするわけで、検証不可能性も、複雑性も問題になりません。但し、この立場からは、「ゲームはいくら工夫を重ねても絶対に目的を達成できないようになっている場合がある」という帰結を受け入れる必要があるように思えます。これはこれで厄介な帰結だという感じがします。

#他の、もう少しましな選択肢が思いつけそうなものですが。

b)勝率の上昇に結びついていることを、繰り返しプレイとその結果の観測によって統計的に確かめることができるけれども、それが思考そのものの正しさを保証せず、思考に用いた推論過程や前提が誤っており、かつ結論として導き出される判断は偶然正しい思考を行った場合の判断と一致するために勝率が上昇しているかも知れない、と考えられる場合があります。

ここでも、「ある手が有効であることが経験的に立証されているなら、その根拠は問題にせずに、単に受け入れてよいし、その有効な手を突き止めた思考は、工夫と呼ぶに相応しい」とする立場に立つことで、困難を解消することが可能であるように思われます。実態に照らして正しい推論過程であるのか、間違った推論過程であるのかに関係なく、有効な手に至った推論は工夫とする、という形での解消です。

#あるいは、より穏当な立場として、検証が不可能な場合には実態に照らしての判断を諦めて有効な手に結びついた思考を全て工夫と見なす、とする立場が考えられます。

ですが、この立場は、「どれだけの観測を経たら立証と見なすか」という点が不明確だという問題があります。

例えば知り合いで「マインスイーパーは、最初は壁際のマスをクリックするのがいい」という説を唱えている人がいます。そして、どうやらそれは彼の経験上は有効らしいのですが、実際にはそのような手の有効性を他の手の有効性と厳密に検証することもなく信じているようで、いわば盲信とスレスレという感じがします。そうすると、ジンクスや願掛けのようなものまで工夫だということになり兼ねず、個人的にはかなり躊躇するものがあります。

これは、「経験的な立証」をより形式的に細かく定義することで部分的には防げる問題だとは思います。マインスイーパーであれば、1手目に壁に接したマスを選ぶことと、 接していないマスを選ぶことが、どの程度、空のマスの開示につながるか、という比較をすることができます。開示される空のマスの数の平均が壁際のマスをとった場合により多くなっているはずだ、という仮説を立てて、ある程度の観測を重ねた後にそれを統計的に検定することもできます。ですが、開示される空のマスの数を持って「手の優劣」と見なしてよいのかどうか、あるいは、スポーツのようにそもそも関与するファクターの数が非常に多く、それらの関係が複雑な場合には、統計的な手法が役に立たない、という問題などが残ります。

ブレイクスルーできないままですが、以上のように、観測主義らしき立場に行くこともためらわれ、かと言って実態主義だけではどうも扱いが困難なケースに直面している、という形で行き詰まっているようです。
2002年08月08日:10時50分32秒
【複雑性の比較ゲーム分析】実態主義と強化学習 / myrt
(Re:2002年08月07日:03時01分05秒【複雑性の比較ゲーム分析】実態主義 と観測の問題 / トモスさん)
>>例えば、ウェブ上で30分以内に任意の国の産業・技術史についてできるだけ 詳細な情報を収集する遊びのようなものを考えたとしても、そこにどれだけど のような工夫の余地があるかは検証不可能だろうと思います。 <<

どんな工夫の余地があるかを厳密に検証することは不可能ですが、 ゲーム性が存在したかどうかを検証するだけなら比較的容易であると思います。 より良い工夫あるいは稚拙な工夫が、一つでも存在することを検証できれば 良いわけですから。ゲーム性を保証するために、すべての工夫の余地を 検証する必要はありません。

 要は「戦略Aと戦略Bは短期的な有利さで優劣をつけるのは簡単だ が、長期的には難しい」と言う場合でも、「でも、戦略Cは戦略Aに比べて 全面的に劣っている」というような戦略Cが一つでも見つけられればいいわ けです(戦略Bに劣っている必要はない)。むしろこれはゲームブックで見つ けることが難しく、将棋やスポーツで(実用に耐えうるレベルで)見つけること はかなり容易であると思います。

>>これらの思考法はこれまで「工夫」として想定して来たような、典型的な 合理的な判断、形式的・論理的に証明可能な手の優劣の判断とは異なる判断 だという感じがします。<<

 いや、これこそ典型的な「手がかり」ではないでしょうか。特定の環境に おいて、知覚情報の累積(つまり経験)を元に最適戦略をどれだけ導くことが できるかは、人工知能の学習関係で広く研究されています。 経験を元に状況の類似性を判断して最適戦略を選ぶなんてそのまんまで す。googleで「スキナーボックス」で引くと面白いページがいくつかひっかかり ます(人工知能よりも心理学??)。「強化学習」は まさにそのまんまの話なのですが、引っかかるページが専門的すぎます...

 シミュレーションという実態のあるものに対して経験を通じて挑むわけで すから、実態主義において参考になるのではないでしょうか。
2002年08月07日:03時01分05秒
【複雑性の比較ゲーム分析】実態主義と観測の問題 / トモス
#パズルの話とは別の話題ですが、前々から気になっていた点があるので書いてみます。直接的には、myrtさんが【複雑性の比較ゲーム分析】ゲーム性を保証する中間目的設定法(TRPRGLABO LOG 103、2002年07月02日:18時59分49秒)とそれに続く議論を通じて提案された「近似」のアイディアに触発されたものです。

1)経緯

最近の議論では、僕は実態主義に執着しており、myrtさんの批判や質問を受けて、とりわけ「勝敗」「乱数要素」「未公開要素」などについて実態主義の内容を修正しつつ補強してきた、と言えると思います。

実態主義は、「工夫によって手の優劣を正しく判断することができるような仕組みになっている遊びがゲームである」と考えますが、そのような意味での工夫が成り立つ為には、プレイヤーに適切な情報が提供される必要があります。適切な情報、というのは、プレイヤーがその情報を合理的に処理すると、正しい判断に辿り着けるような、そういう情報です。乱数要素や未公開要素を備えた遊びであっても、この条件に抵触しない限りはゲームでありうる、という形でこれまでの議論は一応決着を見ていると思います。例えば、手の優劣を誤って判断させるような情報が与えられるとしたら、その遊びは工夫の余地のない、ゲームではない遊びだということになります。

こうした乱数要素や未公開要素についての議論は実態主義を彫琢する上で有益ではあったのですが、myrtさんが提示した疑問の中で観測にまつわる諸論はまだ汲み取り尽くせていないという感が残っています。その全貌を描き出すことはできませんが、特に気になるのは「検証不可能性」と結びついたケースです。

2)検証不可能性

ある遊びが終わった後で、実態主義の立場からそれがゲームだったのかどうかを判断しようとしても、判断する術がない場合があります。その遊びに工夫の余地が存在していたのかどうか、を調査・検証しようとしても、明確、厳密には検証できないような状況です。このような遊び(プレイ)について、そこには検証不可能性がある、と言ってみます。

やや曖昧な言い方ですが、デザイナーが直接デザインした要素以外の要素がゲームの実態に取り込まれているほど、そのような検証不可能性が高いように思います。あるいは、プレイヤーにとって不可知の無限性と複雑性が備わっているような遊びは、検証不可能性が高い、と感じます。

具体的には、フィールドと対戦相手が介在するスポーツがすぐに思い浮かびます。多くの場合、試合終了後に至っても「この試合には工夫によって勝率を上昇させる余地があったか」が厳密には検証できないだろうと思います。基本的には工夫の余地があるはずだと実感はあるのですが、それを検証しようにも、どこにどのような工夫の余地があったかを言い当てることが困難です。

フィールドだけがあって対戦相手がいないような遊び、例えば特定の収穫を目指して行う釣りやハンティングなども、同様にゲームであるかどうかが検証不可能だろうと思います。スポーツではなく、例えば、ウェブ上で30分以内に任意の国の産業・技術史についてできるだけ詳細な情報を収集する遊びのようなものを考えたとしても、そこにどれだけどのような工夫の余地があるかは検証不可能だろうと思います。

これらの場合、検証不可能、というのは「手持ちの情報を総合して考えると手Aが手B,C,Dなどと比べてよい手であるように思われるけれども、実際にはB,C,Dは意外にもより有利な展開につながっていた可能性がある」というような可能性があるために検証が不可能になっています。

GMの影響力が強いTRPGも、このような検証不可能性のある遊びの一種だと考えています。

将棋は上に挙げた遊びとは異なる種類の遊びだという感じがします。(プレイヤーにとって不可知の無限性や複雑性がずっと少ないゲームなので。)検証が可能かどうかは微妙なところです。まだ考えがまとまらないのでここでは展開できませんが、検証のためには「ある局面である手が他の手と比べて優れている」ということが断言できる必要があるように思います。原理的にはそれは可能なのですが、現実的には人間の知能だけでは困難だ、といったところでしょうか。

検証不可能な遊びの多くは、何がよい手であり何が拙い手であるかを厳密には確定できない、という性質があるように思います。そこで、ある定石、フォーメーションなどについても、それが本当に優れた手であるのかが厳密にははっきりしないことになります。

ですが、そのような遊びの多くが、ゲームだと考えられていたり、ゲームのように遊ばれています。

3)近似判断、経験則、無根拠な前提

検証不可能性のある遊びにおいて、実際にはどのような形で手の優劣が摸索され、戦略や定石が開発されるのか、ということを考えてみると、とりあえず3つの思考法が思い浮かびます。(これで全てではないだろうと思いますが。)

ひとつは近似判断です。ある手Aと別の手Bを比べて、「いろいろな場合についてどうやらAの方が短期的に有利になるようだから、長期的にも有利なのではないか」と考える場合などがこれにあたります。ここでは、短期的な優劣はかなり厳密に検討できる可能性があるのですが、長期的な優劣については、「短期的に不利な立場に追い込まれても長期的には有利になる」といった事態がありうることを十分考慮に入れていない可能性があります。(これはいわゆる「大数の法則」などと関係する問題であるということを何となく感じるのですが、これもまだうまく言葉にできないので後の課題とします。)

2つめの思考法、経験則は、特定の手がそれまでの経験から有利に働いたように感じられるので、それを採用する、というものです。複数のプレイを比較した場合には、例えば対戦相手や他の条件が微妙に異なっているために、本当にその手が有利な手であるために有利な展開や勝利(や高い達成度)に結びついたのかは厳密には検証不可能である場合があります。また、仮にそうした形での比較が可能であるとしても、どうしてその特定の手が常に有利な展開をもたらすのかについて、実態の構造に即した説明ができるわけではありません。ちょうど経済統計を見ながら「歴史的に見て変数A,B,Cが条件Dを満たすと必ず事態Eが発生する」ということがわかっていてもそのメカニズムについて説明ができないような場合があるようなものです。

最後に、無根拠な前提に基づいた思考があります。ある種の戦略は、「何となく有利っぽい」といった程度の理由で採用されており、実際にはそれがある特定の局面にのみ有効なのにも関わらずそれ以外の局面でも採用されている、といったことがあると思います。実は有利な場合もそうでない場合もある、ということが解明されていない状態であり、つまり、(暗黙の内に)採用された前提が実は無根拠なものであり、それ故に判断が誤っている、と考えられる場合だと言えます。

以上の3種の思考法についても、今の時点ではそれらが完全に別種のものではなく、かつ、重複する(特定の判断が3つの性質を同時に帯びる)ことがありうる、ということも感じますが、とりあえずはこれ以上の整理ができないので後は今後の課題にしておきます。

これらの思考法はこれまで「工夫」として想定して来たような、典型的な合理的な判断、形式的・論理的に証明可能な手の優劣の判断とは異なる判断だという感じがします。多くのゲームではこうした判断が行われています。それが工夫である、とする立場をとることは可能ですが、それらはmyrtさんが観測主義における工夫として提起してきたものに近く、実態主義とは別の立場になるのではないだろうか、という疑問を抱いています。

やたらと未完成な考察で申し訳ありませんが、今回は以上です。
2002年08月02日:15時38分25秒
【複雑性の比較ゲーム分析】意思決定と工夫の相違点 / myrt
(Re:2002年08月01日:06時36分53秒【複雑性のゲーム分析】完全な構造把握と ゲーム性、パズルにおける工夫と意思決定 / トモスさん)
>> myrtさんの投稿で最適手を見つけられるような遊びをゲームと区別して パズルと呼んだのは、今回の馬場(秀和)さんのコラム*2に触発されてでし ょうか? <<

 触発されたのは事実ですが、パズルはあくまでもパズル的な要素を持ったも のと考え、ゲームではないと判断しているわけではありません。一般的に将棋 はパズルではないと考えられているが、将棋の終盤戦を模した詰め将棋はパズ ルであると考えられていることを前提にしています。あくまでも、構造を完全 に把握した瞬間には、パズルであれ将棋であれゲームが終了してしまうのでは ないか、という点に焦点を置いています。

 またパズルは最適手を十分に発見できるので、対戦ゲームにおいてプレイヤー同士が構造を把握している程度が異なる、という問題を議論する際に、興味 深い役割を果たすのではないかと考えています。特定のパズルが苦手であって も、すでに与えられた解が正解か否かを検証することはきわめて容易であり、 それは将棋において詰みを認めさせられることに通じていると考えています。

>>基本的には、馬場さんの議論は意思決定や葛藤を基準にしたゲームの定義に 基づくものであり、工夫を基準にゲームを定義しているこれまでの僕らの議論 とは今のところは相容れないものだろうと思います。<<

 私は、便宜上で使用している用語のスコープや、解釈の相違こそあるもの の、「いわゆるゲーム」の性質を論ずるものとして十分に参考になるもので あると感じています。例えば馬場さんは「パズル」と「ゲーム」を排他的な ものとして定義されておられるようなので、それを我々流にいけば「パズ ル」と「パズル以外のゲーム」に読み変えることができます。

 すると馬場さんは「パズル」と「パズル以外のゲーム」の違いについて論 じられており、我々は「パズル」と「パズル以外のゲーム」の共通点につい て論じているわけです。よって結論が違うことに何ら矛盾はないと思います。 たまたま同じ呼称に違う定義を当てはめているために用語的には相容れない ですが。

 さて、意思決定が「多目的による無正解性」による、パレート最適解の 集合の中から一つを選び出す行為を含んでいる可能性はあります。しかしそ れだけでしょうか。将棋のような「パズル以外のゲーム」において、ゲーム の構造を完全に把握しておらず、まずできないことを自覚した上で、さら に「待った」の許されない状況で、どんな工夫が可能か、というのは十分に 議論の価値がある議題であると思います。
2002年08月01日:06時36分53秒
【複雑性のゲーム分析】完全な構造把握とゲーム性、パズルにおける工夫と意思決定 / トモス
myrtさんの直前の投稿に対するお返事です。

>>ゲームに必要なのは把握されていないシステムであり、完全に状況を把握した瞬間にゲームは終了するのではないでしょうか。<<

>>将棋の構造を完全に把握できる存在(未来人や宇宙人とか)にとっては将棋は最善手を探すパズルにすぎません。<<

まず、構造把握が完成している場合にも、乏し過ぎる場合にもゲームが成立しないこと、そうした見解がこれまでの実態主義の立場に沿ったものであることを述べます。

その立場からは、完全に構造を把握し切っていないパズルを解くことも、ゲームのプレイの一種であり、これは最適手などが発見し得る場合、それを探すべくプレイする場合であっても同じだ、ということを述べます。これと対照的な立場として、馬場さんのエッセイなどに見られるパズルの定義をとりあげて比較します。

1)構造把握とゲーム性

構造把握の話は、実態主義の付帯条件にまで溯れる話だと思います。「遊ばれているゲーム作品の構造的特性」だけでは何がゲームであるかを説明できないために、「プレイヤーとゲーム作品の関係」に言及した部分です。*1

その付帯条件によれば、非常に簡単なルールで、プレイヤーが全てを見通せるような遊びであれば、そこには工夫の余地がなく、もはやゲームではありません。

同時に、構造が複雑過ぎる場合にもゲームは成りたたない、とも考えます。合理的な思考をいくら重ねてもそれによって勝率を上昇させることができなければ、でたらめにプレイすることと、工夫を凝らしてプレイすることとの間に差がない、純粋な運試しに似た遊びになってしまいます。

複雑過ぎず、単純過ぎない、適度な難易度の構造に直面した時にだけ、プレイヤーはゲームをプレイすることができるわけです。

2)パズルとゲームの関係

僕らのこれまでの議論ではパズルはゲームの一種として扱って来ました。これについてPurpleさんが異論を唱えてはいるものの、それをうまく展開・統合できないままで来ていると思います。

目的を達成すべく工夫を楽しむ遊びの一種である、あるいはゲーム理論で扱えるような活動の一種である、というのがゲームの定義です。例えば数学の問題を前にして、その解法を自分が見つけられるかどうかがわからない状態から始めて、試行錯誤の中からある解(や解法)を導き出せた場合、そのプレイには工夫があり、与えられた問題には工夫の余地があった、ということになります。(厳密には検証できない部分が残りますが。)つまり、実態主義が定義するところのゲームなわけです。もしもあるゲーム作品で遊ぶ際に最適手を見つけられる余地があるにも関わらずそうしなかったのだとしたら、そのプレイは、より工夫の少ないプレイであり、ゲームとしての楽しみ(=工夫の楽しみ)もより少ないままに終わったプレイである、ということになると思います。

既に述べた様に最初から構造を把握し切っていて最適手を知っているような場合はゲームにはならないわけですが、 工夫を通じて最適手に辿り着くことはある遊びをゲームでなくすることはありません。(発見して以後の部分はもはや工夫の余地がない、アイディアの実行でゲーム性がありませんが。)また、最適手があるはずだ、と思ってそれを探して工夫を重ねることも、ゲームの遊び方のひとつです。

myrtさんの投稿で最適手を見つけられるような遊びをゲームと区別してパズルと呼んだのは、今回の馬場(秀和)さんのコラム*2に触発されてでしょうか? 基本的には、馬場さんの議論は意思決定や葛藤を基準にしたゲームの定義に基づくものであり、工夫を基準にゲームを定義しているこれまでの僕らの議論とは今のところは相容れないものだろうと思います。この立場によると、工夫では解決しきれない問題に直面した際に、葛藤しつつ、ある手を選択することがゲームの本質的な楽しみであり、最適手を見つけて葛藤のないままにそれを選べてしまうパズルは、その発見の過程でどれだけ知恵を絞ったとしても、ゲームの一種ではない、ということになります。

パズルとゲームの関係の議論とは少しズレますが、意思決定派と工夫派の主な違いの一つは、myrtさんが7月27日の投稿で指摘している、「多目的による無正解性」にまつわるものだと思います。これまでの議論では、互いに独立していて、達成度の変換比率などが考えられない複数目的がある場合、どれをどの程度重視するか、といった選択には工夫の余地がなく、従ってその部分はゲームではないという結論になっています。

ですが、意思決定派の立場からは、こうした葛藤はゲームの楽しみの中心的な部分を構成する、ということになる可能性があります。それは工夫の楽しみではなく、工夫の限界に直面したところに成り立つ、決断の楽しみとでも言うべきものです。

3)まとめ

短く言い換えます。工夫を基準にゲームを定義する場合、パズルも工夫の余地がある限りゲームの一種だと考えられます。工夫の余地がなくなるのは、構造把握が難し過ぎたり、困難過ぎたり、そもそも与えられた情報によって勝率を上昇させるような手を打てない場合(工夫の余地がない場合)です。意思決定を基準にゲームを定義する場合は、意思決定が工夫ができない場面で行われる行為であるために、工夫のみによって解けてしまうパズルなどはゲームとは別の遊びだ、ということになります。

参照:
*1 (実態主義の付帯条件)
トモス、【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組み(TRPGLABO LOG095、2002年03月29日:15時08分03秒)

*2 (ゲームとパズルの区別)
馬場秀和さん、『”ハイパーロボット”とパズルゲームの楽しみ』(Scoops RPGコラム、2002年7月22日)

このコラムで展開されているゲームとパズルの区別について僕は、
グレッグ・コスティキャンさんの言葉ではなく,デザインのみが,ゲームを語ってくれる(FRPGM 英文翻訳プロジェクト design_j.txt制作チーム 訳、1995年)
にある「パズル=静的な遊び」という説を否定し、
ラウール(氷川霧霞)さんの意思決定について(氷川TRPG研究室、1998/11/14)
にある「パズル=最適手を探し出してしまうために葛藤なく手を選択する遊び」という説を採用しているという風に解釈して議論を補っています。
2002年07月31日:16時42分16秒
【複雑性の比較ゲーム分析】ゲームに必要なのは把握しきれないシステム?? / myrt
(Re:2002年07月29日:02時51分16秒【複雑性の比較ゲーム分析】将棋におけ る構造把握の問題をめぐって / トモスさん)
>>また、myrtさんは、このように瞬時に修正がされるようなプレイは、結 局のところゲームとして成立していると言えるのか、という点については 明言を避けているような感じがします。プレイヤーの心理として、ゲーム として成立しないという抗議なり認識が発生しにくいだろう、という意見 のように感じます。<<

 実はそこまで考えていませんでした。

 これも直観的な推論なのですが、絶対にプレーヤーが「ゲームが成立 していない」と抗議しない保証が得られるのならば、それはプレーヤーが 必ずゲームが成立したと認めることを保証することになるかもしれないと 考えています。 TRPGでは抗議しない保証はまず得られませんが、抗議の発生しづらさが ゲームとしての成立可能性と密接に関係しているように思われます。


 ガチャポン戦記の例は、サブシステムなら完全に状況把握が可能な システムを組むことが現実的であるから、それを利用して全体をゲームを 成立させることができるのではないかという考えの元に挙げました。しかし 現在、全く逆である可能性に思い至りました。ゲームに必要なのは把握され ていないシステムであり、完全に状況を把握した瞬間にゲームは終了する のではないでしょうか。

 将棋の構造を完全に把握できる存在(未来人や宇宙人とか)にとっては 将棋は最善手を探すパズルにすぎません。しかし人間も終盤戦では、 その後に展開しうる局面の構造を完全に把握できる場合があります--それって 詰んでませんか??

・相手が詰んでいることを把握した場合:すでに勝利が確定しています。
・実は自分が詰んでいること把握したが、相手が把握していない可能性がある場合: 将棋のルール上に限ればもはや祈るしかありませんから、ゲームではなさそうです。 相手の性格を読んで詰みを把握させない工夫が可能であるかもしれませんが、そ れはもはや別ゲームであるように感じます。
・相手が特定の手を打てば詰むことを把握した場合:相手にその手を打たせれば 勝利することができます。把握の度合を深めるのではなく、すでに把握している 構造と一致するように状態を持っていくことによっても勝利が掴める、 というのは面白いと思います。

 またこう見ると、勝利のために状況を把握しようとする試みは、工夫の試み とほぼ同じであるように感じられます。ただし必敗の構造を把握することがあり えるので、状況の把握と工夫はイコールではありません。

 以上のことから、将棋のような対戦ゲームにおいてはプレーヤー同士の 構造把握がかみあわないのはむしろ本質であり、それを狙ってゲームは デザイナーによって故意に複雑な構造を与えられているように思えます。 状況が不利であるときに故意に状況を複雑にし、何を打てば良いかわからなく してしまう(自分もわからなくなるが、わからなくなる度は有利不利とは関係が ないので相対的に不利でなくなる)「紛れ」という戦略がありますし。
2002年07月29日:02時51分16秒
【複雑性の比較ゲーム分析】将棋における構造把握の問題をめぐって / トモス
#遅くなって済みませんでした。コンピューターが一台故障してまだトラブルの渦中にあります。。

myrtさんが提案された構造把握について、自分なりに考えてみました。

1)問い

基本的な問いは、「将棋のようなゲームで、自分の把握している構造と相手のそれとが噛み合っていない場合、それをゲームと呼べるのか?」という問いです。

myrtさんはこれに対して、微妙な答えを提案しましたが、それを咀嚼しつつ、もう少しクリアに、ゲームと呼べる、という答え方をする立場を探してみました。

ここで問題になっている「構造」の定義の仕方は少なくとも2種類あり得ると思います。ひとつは、構造を、ゲーム核や、ゲーム核の可能性の総体の構造的特性と考えるものです。もうひとつは、実態や、実態の可能性の総体と考えるものです。どちらをとるかで考察の細部が違って来るような気もしますが、ここではゲーム核やゲーム核の可能性の総体を扱う場合を考えてみます。

将棋ではプレイヤーが構造を把握し切れていないのが普通です。そこで、意外な手を相手が売って来る場合には、自分の把握していたゲームと実際にプレイされるゲームがズレる、そのせいで自分の戦略も無駄になってしまったり、修正を迫られたりする、ということになります。これはひいては、工夫によって試合に勝利できる可能性が減ったり、無くなったりするということです。特に後者の場合、実態主義の見地からは、「ゲーム」として成立しないプレイだということになります。

2)myrtさんの回答案

myrtさんがこれに対して提案した考え方は、微妙なものだと感じました。構造の把握はプレイ中に変化し得るものであり、将棋は単純なルールによって構成されているために把握内容の修正がすぐに行われてしまうために、相手の意外な手が出現しても、それでゲームが駄目になったと考えない、というものです。僕の読み込み過ぎかも知れませんが、とりあえずこの意見を僕なりに咀嚼してみます。

構造把握がプレイ中に変化する、という見解には賛成です。大半のゲームでは、プレイを通じてゲームに慣れ親しみ、よりよい戦略を発見・開発していく過程があります。それはプレイヤーがゲーム核やゲーム核の可能性の総体の構造の把握の仕方を変えていく過程だとも言えます。(もしも構造の把握内容が変化したらそれだけでゲームが成立しない、という立場をとってしまうと、大半の遊びはゲームとして成立しないことになります。)

また、自分の構造から相手の手が読み切れなかったとしてもすぐに修正ができる、という指摘にも賛成です。但し、修正に時間がかかるのか、瞬時に修正ができるのか、ということは実は問題ではないような気がします。

また、myrtさんは、このように瞬時に修正がされるようなプレイは、結局のところゲームとして成立していると言えるのか、という点については明言を避けているような感じがします。プレイヤーの心理として、ゲームとして成立しないという抗議なり認識が発生しにくいだろう、という意見のように感じます。僕なりに憶測を重ねてみると、僕が明言を避けるとしたら、ひとつの迷いがあるからです。迷いというのは、「プレイヤーとしては、相手が打ってきた予想外の手を前にして、自分が予想していなかったことを根拠に抗議することはできないだろう。むしろそれを予想できなかったのはプレイヤーのせいなのだし、ルール内で相手の意表をつくことは対戦の重要な戦略の内だなのだ。だが、将棋のようなゲームの構造を把握し切れる人間がいるとも考えにくいし、予測できなかったことをプレイヤーのせいにするのも妙だ。」という逡巡です。

3)回答案2

将棋は、事前に公開された、有限・単純なルールから成り立っています。ルールが事前公開されているために、構造を完全に把握し切らないのは、少なくとも部分的にはプレイヤーの責任だということになります。これは、ルールの詳細が完全に公開されておらず、有限でもなく、単純でもないと考えられるTRPGとは、かなり対照的だと言えそうです。(将棋とTRPGの間にあるのは程度の差だけとも言えそうですが。)ただ、この考え方だけで、全ての予想外の手を予想し損ねたプレイヤーの責任にすることはできないと思います。つまり、「プレイヤーがきちんとあれこれの可能性を考え尽くしていれば、そのプレイヤーはゲームを楽しむことができたのに、それを怠ったからゲームが成立しなかったのだ」「将棋が悪いのではなくプレイヤーが悪い」という類の議論を立てるには、将棋のゲーム核は余りにも複雑です。

ここで重要と思われるのが、有限・単純なルールが公開されているため、もしもプレイヤーが構造を把握し切れていない場合には、プレイヤーはそれを自覚することができる、ということです。プレイヤーは、自分の局面の「読み」が、あるいは数手先を読む時の可能性の絞り込み方が、ある程度、仮定や勘に基づくものであるのか、それとも全ての可能性を検討した結果であるのか、ということを判断できます。そこで、ある将棋の対局において、「角が成る可能性は絶対にない」という類の断定をせず、「考えられる限りでは角成りはない」といった類の考えと共にプレイすることにもなります。そのようにプレイしている限りにおいては、予想外の手の出現は、「予想外の手が出現し得る」という予想の範囲内ではあった、ということになります。これは言葉遊びのような感じに思われるかも知れませんが、プレイヤーが自分の持っている構造把握が不完全であることを自覚しているということは、少なくとも、それを何か別のゲームと勘違いしてプレイすることを避けることには成功している、ということです。つまり、角成りがありうる状況で、角成りが絶対にありえないという確信の元にプレイすることを避けることには成功しています。それはひいては、誤った把握に基づいて誤った戦略を立て、それがそのプレイでは実際には通用しないために、工夫の余地のないプレイになっている(=ゲームとして成立することに失敗している)という事態を避けることに成功している、ということでもあります。このような回避に成功することは、それだけではプレイをゲームとして成立させるものではありません。もしも他の部分に工夫の余地が存在していれば、それを正しく把握することで、初めてプレイがゲームになり得る、ということになります。このような、構造が把握可能な部分として思い浮かぶのは、将棋であれば、終盤戦の部分です。

言わずもがなかも知れませんが、これは、中間目的設定自体は工夫の余地がないが、局所的には工夫の余地があるようなゲームとして、将棋は成り立ちうる、という考え方です。この考え方を最初に提示したのは、【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的設定のゲーム性の「回答案2:実態主義の補強」においてで、それ以降、SDガンダムガチャポン戦記にこの考えを適用する議論をしてきました。構造把握の問題についても、同じ議論を立てることによって、プレイヤーが相手の構造把握を理解していなくても、将棋がゲームとして成立し得る、という立場をとれるように思います。

参照:


「構造把握」の概念は 【複雑性の比較ゲーム分析】システム構造と工夫の影響範囲(2002年07月02日:19時01分32秒)で提起されたものです。

その後、更に補足的な説明として、 【複雑性の比較ゲーム分析】最終目的を達成するための中間目的の近似(2002年07月04日:19時47分27秒)があります。

これらのきっかけとなったのは、次のような僕の記述だろうと思います。

>>あるプレイヤーにとって将棋がゲームとして成り立つのは、対戦者の想像力が自分の想像力とうまく噛み合って、実際には手に負えない程複雑なゲーム核を、両者が同じような形で簡略化して捉えている場合に限られる。自分にとって完全に予想外の展開が生じない時に限って、ゲームとして成り立つ。もしも、相手の駒の動きが示唆する展開を自分が誤読しかできない、あるいはどう解釈してよいかわからず途方に暮れる、というようなら自分にとってはゲームは成り立たない。<<
【複雑性の比較ゲーム分析】将棋とマインスイーパーにおける複雑性2002年06月29日:10時25分11秒)
2002年07月27日:16時45分44秒
【複雑性の比較ゲーム分析】工夫の余地があるはずなのに嫌われる特性 / myrt
 工夫の余地の確認の難しさから逆説的に、客観的にはほぼ工夫の余地がないと思わ れても、参加者の間で工夫の余地があるとみなされる場合が考えられます。例えば今日の科学では 占星術は将来の予測にはあまり役に立たないと考えられていますが(って日本ではそうだと思って ます)、中世ではより正確な将来予測のために工夫が試みられていましたし、当時の段階では 成果が認められた例もあるはずです。さらに未来に占星術の妥当性が改めて認められる可能性 はゼロではありません。

 以上のことから、部外者の同意が得られる保証がなくても、参加者の間で工夫の余地がある とみなされるならば、(彼らの間では)ゲーム性のあるシステムであると認めて良いし、参加者が 検証において工夫の余地があると認めるようなシステムが望ましいシステムであると考えられます。 これまでの考察から、ゲーム性を重視すると自称するプレーヤーの間でも好む特性が 異なる場合があることがわかっています。よって彼らがどのようなものを「工夫の余地」とみ なすかを、客観的にでなく主観的にとらえる視点が必要であると思います。

 そろそろ材料が出そろったように思えるので、ゲーム性重視プレーヤー が、工夫の余地があるはずなのに嫌うシステムについて考えてみます。

・工夫の余地を持たないことがある特性
7並べの例で示したとおり、「大抵の場合工夫の余地があるが、ごく希に工夫の余地なく 勝負が確定してしまう場合がある」システムが考えられます。自分のプレイとは関係なく、 そのような場合がありうるだけで不快になるプレイヤーがいるかもしれません。

・運試しの特性
いくら工夫を試みても最終ダイスの出目によっては勝敗が逆転する可能性があるとすれば、 その可能性があるだけで不快になるプレイヤーがいるかもしれません。確率的な 場合分けを考慮した上で戦略を選ぶ工夫がミソであるシステムの場合、極端な出目が 重なると工夫では勝敗を覆せない場合がほとんどであると思います。

・裏目が出る、あるいは努力が無駄になることがある特性
勝率が高い戦略を取った場合は敗北するのに、勝率が低い戦略を 取った場合は勝利する展開のありうるシステムが考えられます(どこに賭けても払い戻し率が同じ である変形ルーレットで00が出た場合など)。TRPGでは、ダイス目の結果、シナリオの設定、 果てはGMの気まぐれにより裏目の展開になる場合が考えられます。 客観的は裏目に出る可能性をふまえた上でなされる試みのみが工夫とみなされる べきですが、この展開に対する許容範囲も個人差があると考えられます。

・工夫の結果に与える影響の大きさの、プレイ時感覚と検証による相違性
プレイ時に「これは非常に重要だ」と考えて労力をつぎ込んだ項目が、検証してみると 効果がないわけではないが些細な効果しかなく、またその逆である項目が存在したとす れば、不満を抱くプレイヤーがいるかもしれません。両方の項目に十分な労力をつぎ込 むことが可能だったのであれば工夫の余地を否定することはできませんが、労力が有限 であるとして考察すれば妥当な非難ができるかもしれません。

・多目的による無正解性
大抵のTRPGは多目的性を持っています。それぞれの目的をより達成する戦略を探す ことはゲームになりますが、両立できず優劣が客観的に決まらない複数の目的のどれ を選ぶかはゲームではなく、そこに工夫の余地は存在しません。「共存の限界」などを テーマにしたシナリオを、ゲーム的ではないという理由で嫌うゲーム性重視プレイヤーが いるかもしれません。

・多目的であるとき、特定の目的に対する工夫の余地のなさ
TRPGが多目的であるとき、工夫の余地のある目的とない目的が同時に存在し、 工夫の余地の有無に関する情報が終盤(あるいは検証時)まで明らかにならず無駄な 工夫の試みを強いられる場合が考えられます。 例えば「誘拐された王女を救い出して賞金をもらおうと試みたが、王女はすでに殺害さ れていた。幾分かの賞金は手に入れたが、王女を救い出すことは不可能であった」場合など。

 他にもあると思いますが、とりあえず思いついただけ挙げてみました。
2002年07月19日:17時52分44秒
【複雑性の比較ゲーム分析】敗北側の工夫の量 / myrt
(Re:2002年07月16日:20時48分24秒【複雑性の比較ゲーム分析】工夫の余地の 尺度 / トモスさん)
工夫の量、というのは面白い概念だと思います。

>>そのような接戦をわざと目指すことにはある種の本末転倒感を感じるのですが、 目的はあくまでも最も効率のよい勝利でありつつ、工夫の多いプレイの方を好む、 というのはありだという気もします。 <<

 将棋の駒落しについて考察してみます。今まで単純に「簡単に勝てると工夫の 余地が減る(接戦だと増える)」と考えていたのですが、「接戦になると双方が勝つ ために必要となる工夫の量が増える(劣勢側は勝機が増えるために、勝ちにつながる 試みが増えることにより総量が増える)」と考えることができるように感じます。

 とりあえず工夫の量が多くなることが期待できるシステムが、ゲーム性重視 プレイヤーにとって良いシステムであるという仮説が考えられます。もっとも 無駄にプレイ時間が長くても困りますから、他の要素が同じであるときに。

 工夫の量が多いプレイが良いプレイだという仮説には、負けたほうの工夫の量は ゼロなのかという問題があります。接戦で負ければ悔しいが満足できる可能性 がありますし、最後の一手をミスして負けていてもそれまでの手順には満足 できるかもしれません。ワンミスで敗北しても、それ以外の手に工夫が存在する ことを認めるような工夫の量の定義ができないでしょうか。
2002年07月16日:20時48分24秒
【複雑性の比較ゲーム分析】工夫の余地の尺度 / トモス
#今僕が気になっている問題は3つあります。ひとつは大戦略を例にmyrtさんが議論した近似の問題です。もうひとつは将棋を例にmyrtさんが議論した構造把握力の問題です。更にもうひとつは、今回の投稿で提起された工夫の測定方法の問題です。近似の問題はどうやらこれまでの「実態主義」では扱い切れない問題のような感じがするので後回しにし、残る2つの内重要度が高いと思われる工夫の測定方法についてまずは議論してみます。

あるゲームと別のゲームのどちらに、より多くの工夫の余地があるかを判断する方法について、あるいはある特定のゲームの工夫の余地を測定する方法について、myrtさんの考察から更に踏み込んだ議論をしてみます。

1)粗い尺度:勝率の変動幅

まず、工夫の余地の、粗いながらわかりやすい尺度だと 思われるのが、工夫の余地を勝率の変動幅を基準にするものです。

ある遊びは、プレイヤーがいいプレイをしてもまずいプレイをしても、90%の確率で勝利条件が達成できるようになっているとします。この遊びには工夫の余地はありません。あるのは運試しの余地だけであり、運が良ければ勝利に、悪ければ敗北に帰結する遊びです。

運試しというのは、プレイヤーが知識や工夫によって対処できないと考えられる偶然性の要素が、勝率を決定するものです。

典型的にはダイスを振ってその結果で局面の展開が左右されるようなもの(乱数要素)を指しますが、乱数要素のもたらす影響は実際には工夫によって対処可能で、必ずしも勝敗を規定しない場合もあります。例えば宝箱を開けた際に、運がよければ指輪をひとつ手にいれ、運が悪ければ魔神が出てきてあるパズルを出します。このパズルは完全に工夫によって解けるもので、解けなければ魔神はPCの命を奪うのですが、解ければ指輪をひとつ与えてPC達の前から姿を消します。ここで、運が左右するのは魔神が出現するかどうかなのですが、魔神の出現はPC達の勝敗を規定しません。勝敗は完全にプレイヤーの工夫(この場合はパズル解き)にかかっています。

また、乱数要素のない場面でも運試しがありうることもわかっています。プレイヤーが未公開要素を推測する必要があるにも関わらずその推測に十分な手がかりが提供されていない場合には、プレイヤーは運試しを強いられることになり、その推測には工夫の余地がそれだけ少ないということになります。

例えば上のケースで、魔神がパズルの代わりにあるクイズを出したとします。それはその世界の古代史にまつわるもので、PC達は正解についての知識も、推測できる十分な手がかりも入手できません。この場合、プレイヤーがクイズに正解するかどうかは、プレイヤーが特に合理的根拠もないままに選んだ答がたまたま正解と一致していたかどうかに、部分的には依存しています。その依存の分だけは、運試しが入っているわけです。宝箱を開けたら魔神が出現するかどうかはプレイヤーがコントロールできる事柄ではなく、じっくり考えたらクイズに正解することができるような仕組みも、そのゲームにはありません。その分だけ、プレイヤーの勝敗は、工夫ではなく運にかかっていると言えます。

また、プレイヤーのとる行動の中には運試しと工夫のいずれにも属さないような要素が含まれています。例えば、格闘ゲームで自分のキャラを敵のキャラに接近させてただ立っているだけというのはほぼ確実に不利な行動です。これはほとんどのプレイヤーにとっては工夫以前の常識的な判断です。ですが、こうした判断に失敗するようなことがあれば、それだけで勝率は大きく低下すると考えられます。多くのゲームでは、こうした非常識な行動は勝率を0%にまで下げます。ですが、このように非常識な行動をとらなければ勝率が100%で、非常識な行動をとったら勝率が0%という遊びがあったとしたら、その遊びには工夫の余地があるのではなく、単に当たり前のことをするだけで勝てるようになっていてゲームになっていない遊びだ、と感じる人も多いだろうと思います。ここではこのような感覚を頼りに、工夫と当たり前の行為とを分けて考えます。

そこで、勝率の変動幅の内、運や常識的判断などではなく、工夫が勝率を変動させる量が、ある遊びの工夫の余地の量だ、と考えることになります。

2)算定の困難さ

上のような、工夫による勝率の変動幅は、多くの場合、算定困難なものです。理由はかなりいろいろ考えられますが、それらの内の幾つかを挙げてみます。

ゲームのルール体系などが複雑な場合には、必要な基礎データが全て揃っていても算定が困難です。

対戦型のゲームでは相手の工夫が自分の勝率を規定しますが、その度合いは乱数要素のように数値として扱うことは困難です。一見、相手が様々な局面でとる手を一通り知ることができれば、それを元に自分の工夫の余地がどれだけあるかを分析できそうなものですが、相手は自分の手の癖などを見抜いた上で打つ手を変えてくることなどもあるので、相手の手だけを抽出・分析することができません。
代わりにその相手との勝率を測定する方法も思いつきますが、十分な回数の測定をする間に相手も自分もゲームに上達してしまう可能性があります。

マルチプレイヤーゲームではこの困難は更に激しくなります。

一部のコンピューターゲームはどの部分にどのように乱数が用いられているかなどがプレイヤーには公開されていません。

スポーツの多くは、天候や地形など偶然性が絡んだ要素が勝率を規定する部分がありますが、これはどのように勝敗に影響しているのかが特定困難です。これは単に公開されていないけれどもデータとして存在しているコンピューターゲームの乱数要素と比べてより扱いが困難な要素です。

以上を考えると、変動幅が算出できるのは、一部のボードゲームやカードゲームについてのみ、ということになるだろうと思います。

ですが、TRPGのように算定が明らかに困難なゲームであっても、あるいはゲーム一般について論じる際でも、非常によく似た2つのゲームの間でどちらにより工夫の余地があるかを議論したり、デザイン上どのような変更をすることがよりゲーム性を強めることにつながるかを考えたりする手がかりにはなります。

このような状況は、例えば、「制度の不公平さ」を測定する体系的な方法が曖昧だったり、測定方法があっても実施が非常に困難だったりして実際には「国会の不公平さと市議会の不公平さ」を比較することはかなり難しいのですが、それでも「今ある国会」のどこを改革したらより不公平さが少ない制度になるかを考えることができるし、そのためには「不公平さ」の概念は役に立つ、というような状況とよく似ていると思います。

3)やや厳密な尺度:不確実性の変動幅

上のような工夫の余地の算定方法は、「工夫とは与えられた手がかりからより有効な手を導き出すことである」という定義を暗に前提しています。

このような考え方では汲み取れないもうひとつの種類の工夫が、これまでの議論で何度か登場しました。

「既に有効だとわかっていてとるつもりだった手について、それが有効であることを更に確信させる別の根拠を見つけること」というのがそれです。これは先に挙げた工夫と、与えられた手がかりを活用して手の有効性を正しく理解するという意味では共通しているのですが、それによって何か別の手や新しい手を選ぶことにはつながらない点が違います。

例えば、探偵としてある事件について捜査した結果、目撃者の証言とアリバイから考えて一番犯人である可能性が高いと思われる人物Aについて、よく考えたらその人物が犯行の強い動機も持っていることに気がついたとします。これに気がつかないとしてもやっぱりAが第一候補であることには代わりがないのですが、動機の面からもその考え方に確証が得られたわけです。

ゲームのある時点で、犯人である可能性があるとして目をつけていた3人の人物達がそれぞれ違う目的地へ旅に出、その中から一人を選んで行動を調査する必要があるとします。その時に、Aを選ぶのに目撃者の証言とアリバイだけを根拠に選ぶよりも、動機面での考察も加えた上で選ぶ方が、より運試しの度合いが低く、より工夫による決定の度合いが高いと言えます。

また、動機面での手がかりが何も与えられないままに犯人候補を絞り込ませるような仕組みになっているゲームと、動機面での手がかりが提供されて、よく考えれば犯人候補を絞り込む根拠が得られる仕組みになっているようなゲームとを比べると、後者の方により工夫の余地がある、と言えます。ところが、2つのゲームはその部分以外は同じであるため、勝率の変動幅も、「根拠が何であれ、Aを選べれば勝率はその後の工夫次第で60%-90%の間のいずれかになる。選べなかったら運よくある別の目撃者に遭遇しない限りは事件が迷宮入りしてゲームオーバーになる。その目撃者に遭遇する確率は30%で、遭遇した後の勝率はその後の工夫次第で60%-90%の間のいずれかになる。」などと同じものになっています。2つのゲームいずれにおいても、最有力候補がAであることを正しく推理する手がかりは与えられています。

このように考えると、上に挙げた「勝率の変動幅」という尺度では工夫の余地はくみ取り切れません。どちらのゲームでもAを選ぶかどうかで勝率が変動するのですが、同じAを選ぶにも、非常に多くの運試しを含むような選択もあれば、非常に多くの工夫(手がかりから引き出された根拠)に裏打ちされた、運試しの少ない選択もあるわけ です。


別の例を出してみます。

マインスイーパーのようなゲームでは、一定の手がかりから「この4マス中に地雷が2つある」というようなことがわかる場合があります。その4マスの中から1つをクリックすることは50%の成功率の運試しをすることに相当します。もしもフィールド全体で残り10マス、地雷数7つであったら、その4マスの中から1つを開けてみることは、他のマスを開けることよりもリスクの少ない、有利な手だと言えます。ですが、そのマスに地雷がないことが、別の手がかりを元に考えてみた結果明らかになった場合には、同じ手でもリスクが0です。

そこで、このような観点から、どの程度の不確実性が不可避であるかをゲーム全体を通じて考えて、それを元に「プレイヤーは工夫によってどの程度不確実性を減らせるか」を考えるというのがより厳密な尺度になると言えると思います。

この観点からは、従来は議論されて来なかったもうひとつの工夫も扱えます。「相対的に有効性の低い手について、与えられた手がかりから、相対的に有効性の低い手だと判断すること」

言い換えてみます。
最初の尺度は勝率の変動幅を基準にします。つまり、工夫がどの程度勝率を変動させるかを問題にしました。そこでは、工夫によって選べる中で最も有効な手のもたらす勝率と、工夫が皆無の場合の勝率を考えて、その差を元に、そのゲームにどれだけ工夫の余地があるかを考えます。

上の例で言えば、Aを第一候補にでき、他の局面でも最良の工夫を行った場合の最高勝率(90%)と、誰を第一候補にしたらいいかわからない(候補選びが運試しになっている)場合の勝率とを比べます。これは
(60+ 60*0.3 + 0*0.7 +0)/3 =26%
です。

これに対して、2つ目の尺度は、プレイヤーが工夫によってどの程度有効な手を有効だと確信できるか、を尺度にします。あるゲームでは、プレイヤーは、工夫を重ねて最適の手を選ぶ場合には勝率が90%なのですが、実際にはその最適の手を「他の手よりもいい手である可能性が60%」だから選ぶのか、「他の手よりもいい手である可能性が90%」だから選ぶのか、工夫の量によって違いが出てきます。

そこで、あるゲームにおける最良の工夫は、「工夫によって選べる中では勝率が最高になる一連の手」を選ぶような工夫で、その手のセットがもたらす勝率と、その手を採用する際にプレイヤーが手の最適性を確信できる度合いとを掛け合わせ、不確実性を含み込んだ「最高勝率の期待値」 とします。

勝率が90%である手が最適の手だと正しくわかったプレイヤーのプレイでも、60%の確率で最高だと思ったプレイヤーは勝率期待値54%、90%の確率で最高だと気がついたプレイヤーは勝率期待値81%、となります。

その逆の、「最低勝率」は、工夫の必要もなく明らかによい、悪いとわかっている手を除いては、何をどうしてよいかわからず適当に手をた場合の勝率です。上の例で言えば、A、B、Cのいずれか一人の候補に絞り込む根拠が見つけられず、それぞれを3分の1の確率で選ぶようなケースです。前に出した計算式と同じく、
(60+ 60*0.3 + 0*0.7 +0)/3 =26%
というのがその局面以降の勝率になります。

この最高勝率の期待値と最低勝率の差が、このゲームの工夫の余地だということになります。

4)補足

やや話がずれますが、「最良の工夫」として上に挙げたものは、工夫によって打てる手の中で、勝率が最高のものを打つことに結びついています。ところが、これは「最大量の工夫」ではありません。
ゲームのある局面に差し掛かったところでふと油断してしまい、最適な手を選び損ねるのですが、非常にあれこれ工夫を重ねた末に、結局は勝利条件を達成します。それはちょうど、圧倒的な試合運びで勝てるはずのところを、つい油断してしまったために非常な接戦を強いられることになるが、結局は勝つ、ということに似ています。
人によっては、このように工夫の量が多いプレイほどいいプレイだ、と考えると思います。これは最良の工夫をし損ねたのですが、その失敗をカバーするためにも、より多くの工夫を重ねるプレイです。

そのような接戦をわざと目指すことにはある種の本末転倒感を感じるのですが、目的はあくまでも最も効率のよい勝利でありつつ、工夫の多いプレイの方を好む、というのはありだという気もします。
2002年07月13日:21時23分51秒
【複雑性の比較ゲーム分析】システムの偏微分 / myrt
 これまでの考察から、システムが偏微分のような形で分析できないかと考えています。

 ソードワールドでは、プレーヤーはダイスロールでより大きい目を振ると有利にな る(もしくは不利にはならない)ことなっています。すべて2d6ですから、1プレイ 中の平均値を出すことは容易であり、はなはだ単純ですが「どの程度幸運で あったか」の一要素を計算することができます。

 ところが、同様のシナリオに同様のメンバーで同様の知恵で挑み、ダイス目の平均値が 同じであっても、どの場面でどのダイス目が出るかの分布が異なれば、結果は異なる可能 性があります。例えば、クリティカルが雑魚相手に出るかボス相手に出るかは重要な要素です。
#実際には、同様の知恵ってどんなものだとかの問題がありますが。

 ここで、同様のシナリオに同様のメンバーで同様の知恵で挑んだと過程したとき、 どの場面でどの程度のダイス目が出ればどんな展開になったかを考察できる場合がありま す。「ここでファンブルを振らなければ勝ててたのに」というやつです。

 これと同様に、シナリオやダイス目を固定して、各場面でどの程度工夫ができればどんな 展開になったかを考察することが可能であれば、これがシステムからゲーム要素を分離する作 業であると考えられます。ここでダイス目だけがわからないときの工夫の価値は、ダイス目の 最小から最大まで積分すると得られることになります(難しく書いてますが、単にすべての ダイス目を考慮するだけです)。
2002年07月13日:21時23分13秒
【複雑性の比較ゲーム分析】実用的な範囲でゲームとみなせるシステム / myrt
(Re:2002年07月12日:06時45分56秒【複雑性の比較ゲーム分析】Re:中間目標 設定に工夫の余地のあるときないとき / トモスさん)
>>#より厄介な問題は、そもそもTRPGの戦闘をサブゲームと見なしてよいのか、という 点だと思います。 <<

 理論部分は決着がついていると思います。TRPGの戦闘の集合内には、明らかにゲー ムではない要素があります。しかしTRPG一般では「勝負を将棋でつける」などの方法を 選ぶことも不可能ではないので、TRPGの戦闘でかつゲームである部分集合が存在するは ずです。従ってガチャポン戦記型のシステムを使いたい場合は、その要素を選んで運用 すればいいわけです。

 またもっと実用的な面を見れば、特定のシステムを参加者全員がある程 度把握しており、全員が「工夫の余地のあるシステムだ」とみなすならば、参加者の 間でそれをゲームとみなして運用することができると思います。幸いTRPGの戦闘シス テムは、工夫次第で勝率や損害率が異なるとプレイヤーに認識させ、実際そうであるように 運用することは容易であると思います(欲張って他の条件を求めだすとやっかいになるが)。

 理論的に最高な(最悪な)ダイス目が出続けるが、プレイヤーが最悪の(最高の)宣言をし続 けたときに、そのシステムが勝利を与えるか敗北を与えるか--矛盾の故事を思わせます。
2002年07月12日:23時41分12秒
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