TRPG総合研究室 LOG 103

TRPG総合研究室の2002年06月29日から2002年07月12日までのログです。


2002年07月12日:06時45分56秒
【複雑性の比較ゲーム分析】Re:中間目標設定に工夫の余地のあるときないとき / トモス
myrtさんの直前の投稿へのお返事です。

>>以上のことから、中間目標設定がゲームの仕組みを持っていなくても、長期的な意味でゲームになると思います。それだけなら中間目標そのものが必要ないのですが、中間目標設定に工夫の余地があったときそれがシステム全体の工夫の余地につながりつつ、なくても大丈夫なシステム特性を求めた結果このモデルに行き当たりました。<<

これについてはほぼ一字一句同感です。繰り返しが多くなりますが、myrtさんの主旨はこうだと思います。

・戦闘部分はサブゲームとして成り立ちそうだ
・中間目的設定はゲームとして成り立たなさそうだ
・だが、中間目的のよしあしが最終目的達成の可否に決定的な影響を与えないとしたら、プレイ全体は、戦闘ゲームの工夫が最終目的達成を左右するような、ゲームの一種として成立していると考えることができる

以上については賛成です。

僕らが今想定しているSDガンダムやある種のTRPGは、戦闘部分がゲームで、その間の「つなぎ」の部分が運試しになっていて、運試しに成功すればボス敵が現われて対戦となり、失敗すれば別の敵が現われる、というような類のゲームだと言えます。これは、マインスイーパーで、特定のマスに地雷があるかどうかを知りたい場合に周囲の手がかりをあれこれ利用して、工夫によって達成できる(サブゲームとして成立している)のですが、そもそもどのマスについてそうした工夫を行っていくのがいいのか、中長期戦略のレベルでは工夫によってよりよい手を編み出せる確証が持てないこととよく似ています。時間を気にせず、ただ全てのマスを探査しきることだけを最終目的にするなら、マインスイーパーも、個々のサブゲームにおける目的達成が、全体を通した最終目的達成につながるような、ゲームの一種として遊べるわけです。

で、問題の複数パラメーターの持ち越しなのですが、次のような形で、単数パラメーター持ち越しの場合と同型だと思います。

単一パラメーター持ち越しの場合:「どうやったら戦闘回数を最小限に抑えたり、勝ちやすそうな相手とだけ戦闘したりすることができるかは考えてみてもわかるような仕組みになっていないが、ともかく勝ち続ければいいのだ。」


複数パラメーター持ち越しの場合:「体力点と精神点のダメージの配分をどうすればいいか考えてみてもわかるような仕組みになっていないが、ともかくどちらもできるだけダメージを抑えればいいのだ。」

myrtさんが今回あげられた、乱数要素が含まれる場合についても、「体力を失う可能性は低いが、ダメージを受ける時にはその量が大きい戦闘と、体力を失う可能性が高いが、ダメージを受ける時にはその量が少ない戦闘の間でどちらを戦うか選べるとしても、その配分をどうすればいいのかは考えてみてもわかるような仕組みになっていない。だが、とにかくどちらの戦闘においても最少のダメージで勝ち続ければいいのだ。」

前にも考えたことですが、もしも、SDガンダムであれTRPGであれ、何かの事情で、「ある中間目的を運悪く設定してしまうと、絶対に最終目的を達成できないような仕組みになっている」としたら、それは「ゲームと非ゲームの混合された遊び」だということになります。例えば、「ある陣形で攻めるとどうしても戦闘回数が異様に多くなり、どれだけ工夫しても絶対に兵力が足りないことになる(最大勝率0%)仕組みになっている」とか「体力点と精神点のどちらのダメージを抑えるかの配分を運悪く6:4にすると、どれだけ工夫しても絶対に精神点不足で勝てないままに終わる仕組みになっている」といったケースです。

そうではなく、部分ゲームに勝ち続ければ必ず最終目的を達成できるようになっているのなら、「ゲームの一種」だということになります。



更に考えたのですが、後者のケースについては、「プレイヤーが中間目的設定について必勝手のようなものを知っている場合」だとも言えます。プレイヤーは戦闘において「自分のダメージも敵のダメージも関係なく、とにかく時間をかけるのがいい」とか「アイテムをたくさん使うのがいい」などという目的を立てずに、「最少のダメージで相手を倒す」ということを目的にしているわけですが、これは最適手ではないとしても必勝手のようなもののひとつです。

必勝手そのものではなく「のようなもの」というのをつけたくなるのは、その目的設定だけでは「必勝」性は保証されず、実際に個々の戦闘に勝ち続ける必要があります。あくまでも部分的に必勝手の一部を知っているだけで、他の手がうまく打てなければ(戦闘で勝てなければ)結局は負けてしまいます。また、TRPGでは戦闘に乱数要素が入るのが普通です。このため、工夫によって達成できる勝率の上限も限られています。(あれこれの工夫によりダイスの修正などを稼いでも最大で99%の勝率、など。)そのようなゲームには「必勝手」はありえません。

#より厄介な問題は、そもそもTRPGの戦闘をサブゲームと見なしてよいのか、という点だと思います。
これまでの議論では、「未公開部分を推測するゲーム」としてはTRPGはプレイしづらいのではないか、だが「戦闘部分がサブゲームとして成立したら、全体を通してもゲームになるようなプレイ」をやれる可能性はあるのではないか、という方向で議論して来ているわけですが。
2002年07月11日:18時56分33秒
【複雑性の比較ゲーム分析】中間目標設定に工夫の余地のあるときないとき / myrt
(Re:2002年07月10日:13時29分15秒【複雑性の比較ゲーム分析】 / トモスさん)
 モデルの概念についての共有はできたように思えるので、何故ガチャポン 戦記型のモデルを持ち出したかの利点について改めて書いてみます。

 これまでの考察で、ゲームをプレイするにはシステムの構造を(抽象的にで あっても)把握する必要があること、しかしそれはシステムの規模が大きくなる につれて困難になることがわかりました。またTRPGでは特に、GMとプレイヤーの解釈の相違から構造の共有、およびその確認が困難であることがわかりました。

 それを解決する単純な手法の一つが、それぞれのシステムの規模を小さくする ことです。ゲームを楽しむことだけを目的にするなら互いに相関関係のないミニ ゲームを連続してプレイする方法もありますし、総得点数などの単純な形で システム全体にゲームの仕組みを持たせる方法も考えられます(場合によっては 最後のほうは消化試合になるかもしれませんが)。

 しかし折角プレイするなら、ミニゲームを跨ぐようなグローバルな工夫の余地 を持つゲームをしてみたい。しかし構造の共有がうまくできなかったり、GMのひ とりよがりな「工夫の余地」にゲームの仕組みが依存していたりすると、うまく プレイできないもしれません。

 そこで持ち出したのがガチャポン戦記型のモデルです。中間目標設定に より「それぞれのミニゲームでどれだけ勝てばシステム全体としての勝利 が可能か」が大きく影響されるのですが、最良-最悪いずれの影響を与えて も決定的ではありません。

 その結果、中間目標設定まわりの「手がかり」がアバウトでも安心して運用 できます。わからなくても、瞬間で見破られても、逆の判断をされても、結果 として運試しを強いる状況になっていても--つまり中間目標設定において工夫 の余地がいずれの意味においてなくても、システム全体のゲーム性は保証されます。 工夫の余地がある場合ももちろん保証されます。

>>これは逆に考えた方がしっくり来る気がしませんか? その戦闘は単独 のゲームとしては成り立ちますが、うまく勝たない限り先々の戦闘で敗北 を強いられる可能性があります。<<

 どんなにうまく勝ったとしてもそれがボス戦でなければ、常に先の戦闘での 敗北の可能性があります。ボス戦以外の戦闘ゲーム及び中間目標設定にかかわらず、 できることは敗北の可能性を減らすことだけです。

>>しかもそのような可能性をうまく避けたり、低く抑えたりする方法は明 らかではなく、手がかりも余り与えられていません。<<

 戦闘ゲームにおいてできることは、なるべく多くの体力点を残すことの一 点に絞られます。戦闘そのものを避けたり、被害が少なそうな戦闘を 選んだりするのは中間目標設定の問題です。
#複数パラメータだとそうはいかない。

 中間目標設定に工夫の余地がないならば、プレイヤーにとってそれは強制 あるいはランダムで中間目標が与えられることと同義であると考えられます。 ところがどんな与えられ方をしても、戦闘ゲームの工夫(の累積)により勝敗が 左右されます(ただしどの程度の工夫で勝利できるかは大きく異なる)。

 つまり、「どの程度体力点を残すとどの程度大局的に良いか」が 中間目標設定に依存するものの、「体力点を残すほど、良い(か少なく とも悪くない)」という法則だけは決して変化しないわけです。

 ただし乱数要素がある場合、「勝率50%だが勝てば体力を100点残せる戦 略」と「勝率99%だが勝てば体力を1点残せる戦略」のどちらが優れているかは 一概には言えなくなります(期待値とシステム全体への貢献度の大小関係が一致しない)。 この場合は、複数パラメータを持つ場合と変わらないと思います。

>>つまり、中長期的な意味ではゲームになっていないわけです。 <<

 以上のことから、中間目標設定がゲームの仕組みを持っていなくても、 長期的な意味でゲームになると思います。それだけなら中間目標そのものが 必要ないのですが、中間目標設定に工夫の余地があったときそれがシステム 全体の工夫の余地につながりつつ、なくても大丈夫なシステム特性を求めた 結果このモデルに行き当たりました。
2002年07月10日:13時32分51秒
訂正 / トモス
またミスしてしまいました。 直前の投稿は識別子だけでタイトル部分が未完成 ですが、
【複雑性の比較ゲーム分析】持ち越しパラメーターが複数ある場合の特殊性

とするつもりでした。後々引用するような重要な投稿ではないので差し支えないとは思いますが念のため。
2002年07月10日:13時29分15秒
【複雑性の比較ゲーム分析】 / トモス
非常に簡略ながら、myrtさんの直前の投稿へのお返事です。

>>以上のことから、戦闘部分を繰り返すほど不利になるとは一概には言えないと思います。<<

これについては大いに納得しました。僕の理解不足が原因の誤解だったようです。

もう一点、持ち越しパラメーターが複数ある場合についてなのですが、

>>ところが「ミスにより精神点もしくは体力点のどちらかを失わねばならなくなったが、今後のためにどちらをどの程度多く残したほうが良いかの判断基準がない」となると、その戦闘は単独のゲームとして成り立たなくなります(大きなゲームの1部であるかもしれないが)。<<

これは逆に考えた方がしっくり来る気がしませんか? その戦闘は単独のゲームとしては成り立ちますが、うまく勝たない限り先々の戦闘で敗北を強いられる可能性があります。しかもそのような可能性をうまく避けたり、低く抑えたりする方法は明らかではなく、手がかりも余り与えられていません。つまり、中長期的な意味ではゲームになっていないわけです。

SDガンダムの例も、持ち越しパラメーターが複数ある遊びの場合も同じではないかという気がするのですが、「無傷で勝てるなら中間目的設定はほとんど気にする必要がない。戦闘部分の工夫がそのまま最終目的達成につながる、ゲームの一種として遊べる」「戦闘毎に負傷するようだと、運次第では、いくら戦闘に勝ててもゲームの最終目的は達成できない、という状況に立たされることがある。つまりゲームでない遊びになってしまうことがありうる。だが、運が悪くなければ、戦闘にある程度勝てばそれで最終目的が達成できるようなゲームとして成り立つことになる。」ということではないでしょうか?
2002年07月09日:12時11分18秒
【複雑性の比較ゲーム分析】持ち越しパラメータの唯一性 / myrt
(Re:2002年07月06日:18時53分25秒【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的設定 がゲームにならない遊びのゲーム性 / トモスさん)
>>myrtさんの投稿からはこのようなゲームとしてガチャポン戦記が成り立つ 可能性がある、という議論のようにも思えるのですが、実際にはアクション ゲームである戦闘部分は繰り返し戦うほど不利になります。 <<

 ガチャポン戦記は対戦ゲームであるために、2陣営で戦った場合には、 お互いの戦闘回数は必ず同じになります。生産や回復の概念がある ので、物量作戦で相手をねじふせる(戦闘回数も多くなる)戦略もあります。

 またユニットには種類があるために、戦闘そのものの勝敗と費用対効果は 必ずしも一致しません。高価なユニット1体に対し、安価なユニットが2体撃破 されて1体が相打ちに持ち込めれば費用的に有利な場合もあります(戦闘に勝っ ても受けたダメージは蓄積されていきます)。

 以上のことから、戦闘部分を繰り返すほど不利になるとは一概には言えないと 思います。

>>体力点のような持ち越しパラメーターがあると、無傷で戦闘に勝利したり回 避したりできるのでない限り、「戦闘回数が一定回数を超えるなら絶対に勝利 条件達成が不可能」ということになります。<<

 決して無傷で勝利できない戦闘があるとすれば、それは回避できる傷を調整する ゲーム部分と強制負傷部分に分解して分析することができます。中間目標設定によ っては強制負傷部分の累積だけで体力がつきてしまうルートが一つでもあるならば 非ゲーム混合になるかもしれません。

 しかし無傷で勝利することが困難な場合は多いと思いますが、 不可能な場合は滅多にないと思います。

>>持ち越しパラメーターが複数でも同じではないかと思うのですが、違うでしょうか?
:
中期的な資源配分戦略のようなものに関わって来るからでしょうか? <<

 まさしくそうです。持ち越しパラメータが体力だけであれば、その後の戦闘が どんなものであろうとも「とにかくより多く体力を残して勝利すれば良い」ことが 判断できます。

 ところが「ミスにより精神点もしくは体力点のどちらかを失わね ばならなくなったが、今後のためにどちらをどの程度多く残したほうが良いかの 判断基準がない」となると、その戦闘は単独のゲームとして成り立たなくなり ます(大きなゲームの1部であるかもしれないが)。

 このようなジレンマはTRPGをゲーム的に楽しむための手段の一つなのですが、 中間目標設定がゲーム性を持っていない(とプレイヤーに判断される)ときには システム全体のゲーム性を失わせる(と判断される)恐れがあるものだと 思います。
2002年07月06日:20時03分46秒
訂正 / トモス
今更気がついたのですが、
2002年06月29日:10時33分41秒
【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的設定のゲーム性
において「左右重視の観測主義」とあるのは「工夫重視の観測主義」の間違いです。工夫重視というのは、与えられた情報を活用すべく知恵を絞ることを楽しみ、それが実際に勝率を上昇させるような有効な手であるかどうかについては問わない、というものです。
混乱を招くような誤り、申し訳ありませんでした。
2002年07月06日:18時53分25秒
【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的設定がゲームにならない遊びのゲーム性 / トモス
myrtさんの「【複雑性の比較ゲーム分析】最終目的を達成するための中間目的の近似」 前半部分へのお返事です。

今回のmyrtさんの投稿で、前半部分の話題となっているのは、「中間目的設定が決して勝敗を決定的に左右しないようなゲーム」です。僕が考えていたこととほぼ同じ議論になっており、かなりよく理解できた気がします。

ここで「勝敗を決定的に左右しない」というのが何なのか、もう少しはっきりさせたいと思ったので考えてみました。

1)一般論

中間目的設定に工夫の余地がないような遊び、つまり、プレイヤーが手持ちの情報を元に考えてもよりよい中間目的が何であるかを判断できるようにはなっていないような遊びを考えてみます。例えば、ある洞窟へ辿り着くのに川伝いに行くルート、森の中を行くルート、山の尾根伝いに行くルート、近くの街道からのルートの4種類があるとします。どのルートもある程度未知であり、いろいろなリスクやメリットが予想されるのですが、どのルートがパーティーにとって有利であるかについて正しく推測できるような手がかりは与えられておらず、いろいろ情報収集しても決定的な手がかりは手に入らないとします。これは中間目的設定(ルート選び)について工夫の余地がない遊びです。

1−1)タイプ1:中間目的設定が勝敗を決定的に左右する遊び

この時に、工夫の余地がないにも関わらず中間目的が勝敗を左右するとします。例えば、4つあるルートの内の特定のルートを選ばない限り、罠にかかってパーティーが全滅し、運よく罠のないルートから探索した場合には、パーティーの戦力などに関わらず自動的に敵のボスが倒せる、となっているとしたら、このような遊びは、プレイヤーが他の部分でどう工夫してもルートの決定だけが最終目的達成の可否を100%決めてしまいます。これはゲームではありません。工夫の余地のない意思決定が100%勝敗(最終目的の可否)を決定してしまうため、「目的を達成するべく工夫を重ねることを楽しむ遊び」として遊べないわけです。

1−2)タイプ2:中間目的設定が勝敗を全く左右しない遊び

逆に、どのルートを通っても、同じ罠、同じ敵に遭遇し、同じ勝率が維持されるとしたら、ルートの選択は最終目的の達成確率に全く影響を与えないものであり、他の戦闘シーンや罠探知・解除などの部分がゲームになっていたら、そのゲームにおける生存確率が、そのまま最終目的の達成確率に反映されることになります。これは、ルート選択はゲームではありませんが、他の部分に工夫の余地があるゲームになっています。

以上が、ルート選択の影響が勝率を100%左右する場合と、全く左右しない場合、という2つの極端な場合です。

1−3)タイプ3a:中間目的設定が勝敗を決定的に左右することも、しないこともある遊び

中間形態はどうでしょうか。2つの場合が考えられます。 ひとつは、勝率が100%や0%になることがありうる遊びです。例えば4つの中から1つのルートを選ぶと、勝率が0%、0%-30%、0%-90%、100%のいずれかとなるような遊びがあったとします。(勝率に幅があるのは、ルート選択後のプレイヤーの工夫いかんで勝率が変わるからです。)これは50%の確率でゲームにならないような遊びだと考えられます。0%の場合、どう知恵を絞っても勝利できず、100%の場合、たとえミッションを放棄しようとしてもミッションが達成されてしまいます。(余りありそうにない事態ではあります。)残りの2つのルートの場合にはゲームであると言えます。

1−4)タイプ3b:中間目的設定が勝敗をある程度しか左右しない遊び

0%や100%の勝率をもたらすような選択肢がない場合は、その遊びは運試しが含まれるゲームであると言えます。

ちなみに、運試しが含まれるゲームについては乱数要素をどう解釈するかによってある遊びの実態や勝率についても異なる解釈が可能だ議論を以前(Re:実態主義における乱数要素の扱い、LABO101、5月29日)もしましたが、同じ議論がここでも可能です。つまり、勝率が0%-30%の間に納まるゲームを、70%の確率でゲームではなく、30%の確率でゲームであるような遊び、とする考え方がありえます。

以上を総合すると、中間目的設定がゲームになっていない場合、その中間目的設定が敗北を確実にしたり、勝利を確実にしたりしてしまう場合はゲームではなくなってしまいます。これが「勝敗を決定的に左右する」という言い回しのもう少し厳密な意味だと言えます。中間目的によって勝率が全く左右されない場合には他の部分にゲームがあればその部分の結果が勝率を左右することになります。中間目的によって勝率がある程度左右される場合には、その左右される度合いがそのまま運試しの度合いとなり、その分工夫によって勝敗を左右できる余地は減るということになりますが、その遊びがゲームでなくなってしまうというわけではありません。

2)中間目的設定がゲームになっている場合

言わずもがなですが、もしも、しかるべき手がかりが与えられていて、その手がかりを合理的に活用すればどのルートが有利なのかがわかるような仕組みになっていたとしたら、その遊びは、ルーと選びの工夫によって勝率が変動する遊びであり、中間目的設定にもゲーム性があるようなゲームだと言えます。

3)SDガンダムガチャポン戦記の例

今回の投稿でmyrtさんの挙げたガチャポン戦記の例では、 戦闘部分はゲームになっています(工夫によって勝敗が左右される仕組みになっている)。そこで、中間目的設定が勝敗に全く影響を与えないとすると、全体としても、最終目的の達成が戦闘部分の勝敗によって左右されるようなゲームになっていると考えられます。

myrtさんの投稿からはこのようなゲームとしてガチャポン戦記が成り立つ可能性がある、という議論のようにも思えるのですが、実際にはアクションゲームである戦闘部分は繰り返し戦うほど不利になります。

そこで、中間目的設定について工夫ができないとしても、それは勝敗を決定的には左右せず、ただ運試しを多く強いることになるようなゲームである、と考えるといいのではないかと思います。例えば1戦あたりの最高勝率(最大限の工夫によって達成できる通算勝率)が99%だとして、たまたま選んだ中間目的が、運悪く最終目的達成までに100勝を強いるものであった場合と、運よく10勝で済むものになっていた場合とでは、工夫によって最終目的を達成できる余地は前者でより少なく、後者でより多くなります。ですが、いずれの場合もゲームになってはいます。

#どんなゲームだったかおぼろげにしか覚えていないので、これも余り的を射た近似になっていないかも知れないと若干不安ですが。。

4)TRPGへの適用

以上の議論はTRPGにかなり安直に適用可能なような気もします。つまり、TRPGで戦闘部分がゲームになるようにしておいて、シナリオ部分が勝敗を決定づけないようにすれば、一応ゲームとして遊べるはずだ、と言えます。

問題は、戦闘部分をゲームになるように保証できるかどうか、またシナリオ部分が勝敗を決定づけないことを保証できるかどうか、という2点です。前者の戦闘部分については短く書くことができないのでここでは省略します。後者については、「シナリオ部分にこだわり過ぎるとゲームになり損なってしまい、本末転倒になるので、パーティーがとんでもない方へ進むようならGMから軌道修正の提案を出す」「戦闘シーンをゲームとして楽しむことを主眼にするのでシナリオにまつわる戦略で戦闘を避けたりしない」といった類の合意を予め成立させておくことで、シナリオに関連したプレイヤーの大局的判断、中間目的設定などが運悪く敗北を決定づけたり、運よく勝利を決定づけたりしてしまわないようにしておくのが有効かと思います。

5)その他

>>厳密に言えば、ガチャポン戦記と違って持ち越しパラメータが複数である問題点があります。これは持ち出しパラメータを1つ(PC1人体力のみ)にすれば解決できます。<<

この部分は直観的にはピンと来ませんでした。体力点のような持ち越しパラメーターがあると、無傷で戦闘に勝利したり回避したりできるのでない限り、「戦闘回数が一定回数を超えるなら絶対に勝利条件達成が不可能」ということになります。これは上に挙げたタイプ3aの「ゲームと非ゲームの混合の遊び」と言えます。持ち越しパラメーターが複数でも同じではないかと思うのですが、違うでしょうか?

あえて言えば、持ち越しパラメーターの数が多いと、その分戦闘の際の戦略に幅が出て、その戦闘部分のゲーム核が複雑になる可能性も考えられます。そのためでしょうか?あるいは、何か、中期的な資源配分戦略のようなものに関わって来るからでしょうか?
2002年07月04日:19時47分27秒
【複雑性の比較ゲーム分析】最終目的を達成するための中間目的の近似 / myrt
(Re:2002年07月03日:15時34分46秒【複雑性の比較ゲーム分析】中間目 的設定ゲーム、関連諸概念の定義 / トモスさん)

 SDガンダムガチャポン戦記においては、どう生産し戦闘を仕掛けるかも 極めて重要な要素です。アクション部分に常識的に強いだけでは戦力差を ひっくり返すにも限度がありますから。

 TRPGに置き換えた場合、「山賊のボスを討ちとることが目的。どのルー トでアジトに潜入するかによって敵の数が異なる。理論的に最悪のルート をとっても、各戦闘で最善を尽く せば(ダイスを使うならさらにかなり運が良ければ)勝利は可能。各戦闘 からの持ち出しリソースはPCの体力点と精神点だけであり、戦闘が長引い たら通報される、ボスの息子を殺していると最終戦闘でボスがバーサーク する、などの要素は考えない。敵とたくさん戦うと、体力点と精神点を 失う機会が増える」というようなものを想定していました。

 ルート選びが重要であるにもかかわらず、ルート選びだけに 依存して取り返しのつかない事態になることはない点、そして最良のルート 選びを(偶然、工夫、強制にかかわらず)しても、必ずボスに遭遇する点が ポイントです。中間目標設定が未公開部分の推測ゲームになっていても、 なっていなくても問題ありません。

 厳密に言えば、ガチャポン戦記と違って持ち越しパラメータが複数である問題点があります。これは持ち出しパラメータを1つ(PC1人 体力のみ)にすれば解決できます。

>>但し、私見ですが、ここで大局的な見通しがつけられるというのは、全ての 場合(ゲームの可能な局面なり、ゲーム核の可能性の総体における全ての可能 な局面なり)を想定して、その中で最も有利な局面を選ぶというわけではない と思いますがどうでしょうか? あくまでも近似的な判断でしかない、と。<<

 まさにそうで、いかに近似するかの勝負の側面があると思います。 アルゴリズムにも、最適解を実時間内に探索できる保証ができない 規模の問題に対してどこまで近似することを保証できるかという分野 がありますし。

>>大戦略のようなゲームで戦闘処理が簡単に済むとしたら、例えば「全てのユニ ットは「強さ」という一元的な尺度で測られ、戦闘の際には双方の関連ユニット の強さが合計されて大きな方が勝つ」といった類のルールの単純化を施した場合 なのではないか、とも思います。 <<

 陣地の強さについて考察してみます。将棋の場合、「この穴熊を破壊するに は戦力がこれだけ必要だ」という議論ができるようです--模範攻撃手順 を見せてもらったことがありますが、駒の種類と枚数までかなり確定で きるようです。もちろん駒の種類や攻撃方向にはバリエーションがある と思います。

 ところが大戦略の場合、「この陣地を突破できる確率は、このくらいの戦力 があったときこの程度だ」という議論しかできません。大きな戦力を持つ側 が勝つ可能性が高い、というだけであり、実際にはやってみないと結果が出ません。 結局「弱点数箇所に攻撃を集中し、破壊できた地点から乱入する」と いうような出たとこ勝負の作戦を立てるしかなく(完全読みはありえる「出 たとこ」の組合せをすべて読むだけ)、ある程度の結果の予想できなさが保証 されています。このことが近似目的を設定することの 妥当性につながるのではないかと考えています。

>>構造把握力のくだりは申し訳ないのですが、知識不足でうまく 理解できないようです。<<

 不用意な用語を使ってしまって申し訳ないです。これは、将棋などのゲームを スーパーコンピュータなりを用いて完全に解析できた場合を想定したときに、 それをどの程度把握していることになるかの尺度のつもりで書きました。

 お互いにゲームの構造を共有していないとゲームは成立しません。しかし将棋の 場合、「相手がこちらの角に注意を払っていない(角の位置が危険だという構造を 把握していない)ことを利用して飛車を取ってしまう」事象があります。

 単純に考えると、相手は「角の位置が飛車を取ってしまうほど危険であ る」という知識がない状態でプレイをしていたわけだから、「そんなゲーム だなんて同意していない」と抗議するはずです。しかし実際にはしませ ん。これは飛車を取られた段階で、その知識を共有してしまうからでは ないかと考えました。この「手遅れになってから共有する」プロセスは、 頭を使って勝負するゲームにはつきものであるのではないかと考えます。
2002年07月03日:15時34分46秒
【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的設定ゲーム、関連諸概念の定義 / トモス
(myrtさんの07月02日18時【複雑性の比較ゲーム分析】ゲーム性を保証する中間目的設定法 へのお返事です。)

どうもmyrtさんの論旨で呑み込めていない部分がある気がするので、確認も兼ねて、関連の概念を改めて定義してみます。

「ゲーム」は目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊びです。

ゲームという概念の定義により、全てのゲームには、勝利条件や達成度の尺度があります。これらはいわば「最終目的」です。(これまでの議論では便宜的に「勝利条件」と呼んで来ました。)

(但し、「最終条件」という言い方はゲームのプレイにそれらしい終わりがあることを前提しているような感じがしますが、ゲーム外の事情によってプレイを終了せざるを得ない時点まで延々と続くようなゲームも有り得ます。)

「中間目的」は、最終目的をどのように達成したらよいかが必ずしも明らかでない場合などに、プレイヤーによって設定される副次的な目的です。例えば、マインスイーパーでどの方向に向かって探査を進めていくかとか、将棋でどういう陣形に持っていくかといった目的は、それ自体最終目的とは違いますが、最終目的を達成するためにプレイヤーが考案・選択した目的です。

プレイヤーが設定する中間目的の中には、ゲームの実態に照らして「有効」なものとそうでないものがあります。有効なものは、その中間目的を達成すること(あるいは少しでも高い達成度を達成すること)が実際に最終目的を達成することに貢献するようになっているような、いわば的を射た中間目的です。

中間目的は、プレイヤーが気まぐれで決めたところが偶然有効なものになっている場合もあれば、与えられた情報を合理的に処理する中から有効な中間目的が設定される場合もあると思われます。後者は、中間目的設定が「工夫」になっている場合です。

ちなみに、与えられた情報を合理的に処理して導き出される中間目的が、実際には有効でないものになっている場合もありえます。これは、誤解を招くような手がかりを与えられたプレイヤーがそれを素直に活用して無効な結論を出すようなものです。プレイヤーが工夫によって有効な中間目的を設定できる余地がないこのような遊びは、少なくとも中間目的設定に関しては、ゲームになっていないし、ゲームとして遊びようがない仕組みになっている、と考えることができます。(結果重視の実態主義の立場からは、ですが。)

中間目的設定がゲームになりえない場合であっても、 一旦決めた中間目的を達成するために工夫をすることが できるなら、中間目的達成を目指して遊ぶ部分はゲームのプレイになっていると言えます。これは全体としては非ゲームである遊びの中に、ゲームである諸部分が含まれていると考えてみました。(これまでのところ「全体」と「部分」を表す言葉は「メインゲーム」「サブゲーム」だったと思うのですが、ゲームになっていない遊びも含めて扱いたいため、「プレイ全体」と「プレイの一部/部分」という用語にしたらいいのではないかと思います。)

では全体としてゲームになっているのはどのような遊びかと改めて考えてみると、最終目的を達成するための工夫の余地があるような遊びだという答えに思い当たります。工夫の余地がある、というのは、これまでの「結果重視の実態主義」による解釈そのままに、与えられた情報を合理的に処理して、目的達成確率、達成度をより高めるような手を考案できるようになっていることである、という意味です。中間目的設定のレベル(=大局的判断や中長期戦略のレベル)で工夫の余地がある、ということは、つまり、最終目的を達成するためにどういう中間目的を立てるべきか、避けるべきか、といったことを理解できるような手がかりをプレイヤーに提供する仕組みがあり、きちんと情報収集や情報処理を行えばより優れた中間目的が立てられるようなゲームだと言えます。

用語、概念についてもうひとつ補足しておきます。実態主義の「実態」というのはあるプレイヤーにとって自分以外の要素を指します。TRPGで言えばルール、シナリオ、世界設定、乱数要素、他のプレイヤーやGMの行動パターンなどを全て含みます。これら全てについて語ることはまずなく、実態がどのようになっているのかを議論するために「○○のような仕組みがある」「○○のような仕組みになっていない」などという言い方をして来ました。これに対してゲーム核とかシステムと言う場合にはこの実態の一部、ルールと世界設定と乱数要素を取り出して議論している場合になっています。

以上を言い換えると「最終目的を達成するために工夫する余地があるなら全体としてゲームになっている遊び」であり、そうでなければせいぜいのところ「諸部分がゲームであるに過ぎず、全体として非ゲームである遊び」(あるいは全くゲームを含まない遊び)という2つの場合があることになります。これに加えてもうひとつ、前回の投稿の7)の回答案2(実態主義の補強)で述べたようなケースも考えられます。これは「最終目的を達成するために工夫する余地があるが、ほとんどの部分は最終目的の達成に決定的な影響を与えない遊びは、中間目的設定にはゲーム性はないが、全体としてゲームになっている」と言えます。

myrtさんの指摘されたSDガンダム(何年も前にプレイしたことがあるような気がするのですが、古いゲームでしょうか?)は、この第3のケースだと思います。それをTRPGに素直に置き換えると、myrtさんの示唆されているような、「最終戦や要所要所の戦闘は不可避で、その部分でいかに工夫するかが勝敗を分ける。他の部分は飾りであって最終目的達成には関わらない」というようなシナリオが考えられます。シナリオ全体を通して「未公開部分を推測する」ようなゲーム性はないのですが、最終目的を達成するゲームにはなっています。

大戦略の方は昔、友達が遊んでいるのを横で見ていた程度の知識しかないせいもあってかなり理解が覚束ないのですが、SDガンダムが戦闘部分をアクションゲーム風にしているのと対照的に大戦略は確率論的に処理している、というのはわかりました。それが大局的な判断(=中間目的の設定)を容易にしている、という議論にも直観的には納得がいくものがあります。

また、それを確率論的ではなく確定的に、ちょうど将棋のように処理したとしたらどうなるかという対比で考えると、確率論的な処理を採用する方がプレイヤーにとっては大局的な見通しがつけやすいゲームになる、という議論もなるほどと思いました。

但し、私見ですが、ここで大局的な見通しがつけられるというのは、全ての場合(ゲームの可能な局面なり、ゲーム核の可能性の総体における全ての可能な局面なり)を想定して、その中で最も有利な局面を選ぶというわけではないと思いますがどうでしょうか? あくまでも近似的な判断でしかない、と。緻密に詰めて考えようとすると、特に戦闘処理のアルゴリズムが公開されている場合には、非常に膨大な場合分けや確率計算が可能ですが、そういう計算に励むプレイヤーがいるとも考えにくいです。それは、先読みが非常に有効である将棋のようなゲームであっても実際に15手先を読もうとする人はなかなかいないのと同じようなことではないかという気がします。戦闘処理のアルゴリズムが公開されていない場合は、まさにその未公開性故に、「たぶんこの程度の確率で勝つんじゃないだろうか」などと近似的に考えるからゲームになるのだと言えそうです。言い方を変えると、戦闘処理のルーチンは非常に複雑なものなのかも知れないのですが、プレイヤーに与えられている情報は限られているために複雑性が無視されている、と。大戦略のようなゲームで戦闘処理が簡単に済むとしたら、例えば「全てのユニットは「強さ」という一元的な尺度で測られ、戦闘の際には双方の関連ユニットの強さが合計されて大きな方が勝つ」といった類のルールの単純化を施した場合なのではないか、とも思います。



構造把握力のくだりは申し訳ないのですが、知識不足でうまく理解できないようです。「構造把握力」がゲーム核の可能性の総体なりゲーム核なりの構造を把握するプレイヤーの能力のことだろうとはわかるのですが。もしよろしければ、ここをもう少し解説してもらうことはできるでしょうか?
2002年07月02日:19時01分32秒
【複雑性の比較ゲーム分析】システム構造と工夫の影響範囲 / myrt
(Re:2002年06月29日:10時33分41秒【複雑性の比較ゲーム分析】中間目 的設定のゲーム性 / トモスさん)
>>これまで議論してこなかった実態主義のある側面を補強することで、少なく とも将棋はゲームになっている(小ゲームの寄せ集めなどではない)という 論を立てることもできます。 <<

 ちょっと話はズレるのですが、小ゲームの寄せ集めなど、システム全体として はゲームになっていないけれども、ゲーム性を楽しむことができる運用法につい ても考慮してみたいです。

 昨今のTRPGやCRPGにおいて、最終的にはPCが勝利することが前提となってい るものがあります。特にTRPGにおいて時間制限がある場合には小ゲーム集の 傾向が強くなります。しかし全体のシステムに影響を与えないことを自覚し た上で、それぞれの小ゲームにおいて最善をつくすことは、ゲームの楽 しみを得る一手法だと思われます。

 また、ゲーム的に進んできたシナリオの最後に不可避などんでん返しが仕 組まれていた場合、 それは「小ゲーム+どんでん返し=システム全体」と解釈できます。わざと 組まれていたならば、「システム全体としてはゲームになってな いぞ」という文句は、将棋の決着がついた後の駒の片付け方に文句 をつけるようなものであり適切ではないと感じます(たまたま扱う駒が 共通しているだけ)。小ゲームで培った思い入れを粉砕するような、 ストーリーテリング的な問題はあるかもしれませんが。

>>「将棋も実は対戦相手の発想の把握というお膳立てがあり、それがうまく行 くと中間目的策定も、中長期戦略も、ゲームとして成り立つ」<<

 発想の範囲の時間的な相違も考慮すべきだと思います。将棋の場合、自分の 把握しているゲーム構造の前提として将棋のルールも把握しています。ですから、 自分の想像を絶する手を相手が打ってきた場合、将棋のルールに照らして 正しいことを発見すれば、それまでに自分が把握していたゲーム構 造では不十分であったことを否応なく把握してしまいます。

 しかし対戦ゲームにおいては、相手に「3手先のこの手につなごうと思う のですが、ルール的に正しい手だと思いますか」と聞いて、手のうちをバ ラしながらプレイするわけにはいきません。 よって思考的なゲームにおいては、現在の相手の構造把握力を上回って いながら、その手を提示することにより相手がその構造を理解する(しかし すでに手遅れである)ような手が重要になります。これを実現するための 手段の1つが、1つ1つのルールは単純であるが、組み合わせると組合せ爆 発を招くシステムであると考えられます。

 TRPGも同様のことが言えると思います。GMかプレイヤーかを問わず、相手が 想像を絶する宣言を行ない、自分の常識に照らしてそれが合理的であることを 発見すれば、新たなゲーム構造を把握してしまうことがあります。 ところが将棋とは違って、どのような宣言が相手に合理的と解釈させられるか が一意に導けません。これが、TRPGが対戦プレイにむかない理由の1つであると 考えられます。

>>上記イ)で述べたように、工夫の余地とは与えられた情報を合理的 に処理することでよりよい手を発見・認識できる可能性を保証するような状 態です。ここで合理的な処理を、典型的には、明確な定義や単純な推論の積 み重ねとして考えて来ました。ですが、このような発想ではスポーツにおけ る工夫の余地などを捉え切れないことはほぼ確実です。<<

 ゲームの構造を完全に把握しきっていなくても、トライアンドエラーの 積み重ねからの推論は、それなりに合理的であると思います。 有限の試行回数から得られる推論は、その有限性から必ず制限さ れるので、その自覚が必要になりますが。

 これまでの考察から、工夫の余地が存在するかどうかがプレイヤーに とって事前に明らかでなくても、工夫の余地があることを期待して最善手を 打ってそれが期待どおりにむくわれた場合には工夫であると言って良いと 思いますので。
2002年07月02日:18時59分49秒
【複雑性の比較ゲーム分析】ゲーム性を保証する中間目的設定法 / myrt
 中間目的の不適切性については2種類のものがあると思います。1つ目が 一般的な場合であり、中間目的をより達成してしまうと最終的な勝利条件達成 の妨げになってしまうことがありうるものです。

 もう一つが、他の中間目的を設定したほうが中間目的達成時の最終的な勝利 条件達成への貢献度は高いが、その中間目的を設定してしまったが最後、 それを達成するほど最終的な勝利条件達成への貢献度は高いか、 少なくとも妨げにはならないことが保証される場合です。

 具体例として、コンピュータゲーム「SDガンダムガチャンポン戦記」を挙げます。 これは大戦略型のCSLGの戦闘シーンを対戦アクションゲームで解決するものです。 ここでCSLG部分においてどう戦闘するかを決定することを中間目的設定、 戦闘シーンを中間目的達成を狙うサブゲームであると解釈します。

 このゲームでは味方のボスが倒されない限り敗北しません。従って、いくら 中間目的設定がおろかでも、常にノーダメージで相手を倒せる能力があれば 敗北することはありえませんし、相手のボスに向かって進撃する程度の 中間目的設定能力さえあれば勝利することすら可能です(時間をかけても良い ならランダム戦略に頼ってさえいつかは勝利できる)。

 とにかく戦闘シーンになってしまえば、相手に少しでも多くのダメージを与 えて味方のダメージを少なくすることが少なくとも損にはならないことが保証 されているので、中間目的を考慮することなく目先の戦闘だけに没頭することがで きます。

 よって、設定された中間目的が必ずこの2つ目の特性を備えることが保証さ れたゲームにおいては、サブゲームがゲームであればシステム全体もほぼ確実 にゲームとなると考えられます。

 何故こんなレアな性質を例に出したかというと、ゲーム性重視のGMにとって の「まず間違いなくゲーム性を備えるシステム」を作るためのTipsとして、また プレーヤーが多人数であるときに居がちな戦闘時以外はあまり発言しないプレー ヤー対策として有用あると考えたからです。ややこしい展開をしていても、 最後に「最終決戦だ。経過はともかく、今となっては君達はこの戦闘に勝つしか ない」とやると最低そこだけにはついてこれますので。

 逆に、「SDガンダムガチャンポン戦記」と大戦略を対比することを考えます。 大戦略では戦闘は自動的に行なわれ、確率に基づいたランダムな結果が返されま す。大戦略でゲームができるほどの構造把握力があり(マップの広さにも依存す るが)、かつ大戦略と同程度に戦闘結果の予測ができるならば、「SDガンダムガ チャンポン戦記」は中間目的の設定そのものをゲームとしてプレイできると考 えられます。この面からも、この特性を備えることは有利であると考えます。

 またこのことは、サブゲームに妙なゲーム性を持たせてシステム全体を複雑化 させるよりも、ランダム関数を用いて単純化したほうがシステム全体のゲー ム性を保つことができる場合があることの例証であると考えられます。

 じゃあランダム関数を用いずに結果を確定させればもっと単純になる のではないかも思えますが、必ずしもそうではないと思います。 試しに大戦略の戦闘結果が確定的で既知であるシステムを考えてみましょう。

 すると従来型の戦線では敵の攻撃に耐えられません(寸分の無駄もなく攻撃を 組み立てられてしまうから)。結局、物量作戦でいくなり、間合いを広く取る なり、とんでもなく先読みをするなりして、いかにして組合せ爆発を導いて 相手の思考力を上回るかの勝負になってしまうでしょう。

 以上のことから、ランダム性を導入することは、先読み(だけでない組合せ) の段階が深まるにつれて影響力が小さくなることを保証することにより、 目先に設定した中間目標の達成に重点を置くことがそのまま工夫に つながる可能性を大きくする 役割を担っているのではないかと考えています。

 ゲーム性を重視するGMは、ゲームが成立することを保証するために この性質を念頭に置くと良いのではないかと思います。もちろんこれに 頼らなくてもゲーム性が(参加者全員にとって)あるならば問題ないのですが。
2002年06月29日:10時33分41秒
【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的設定のゲーム性 / トモス
7)中間目的設定とゲーム性をめぐる諸立場

以上で考察を終えることもできるのですが、いろいろと考えさせられるところがあったため、「中間目的設定はゲームではないのではないか」「TRPGも将棋もマインスイーパーも本当にゲームになっていないのか(なっているとしてもせいぜい小ゲームの断片の寄せ集め程度なのか)」という問いについてもう一度考え直して、これまでの議論の延長で考えても、4つの異なる答え方がありうることを示してみます。自分の立場をどれか一つに絞ることは現時点では僕には難しいのですが、それは後で考えることにして、それぞれを以下に説明し、最後に比較してみます。

回答案1:左右重視の観測主義の採用

実態主義の立場では、「最終結果の追求にとってよりよい手の発見につながる余地がない」という場合には、いくら 知恵を絞って充実感があるプレイをしても、ゲームではなかった、と否定されることになります。左右重視の観測主義は、このような充実感をゲームの楽しみの一種として汲み取ることができる立場です。

左右重視の観測主義を、次のように適用します。
中間目的を誤って設定することがあるが、それでもあるプレイはゲームたりえる。ある遊びがゲームであるかどうかを判断する基準は、設定した中間目的を達成するのに、提供されている情報を活用できたか、その活用の仕方が目的に照らして間違っていないかだ。もしも間違った中間目的を間違っているとは知らずに工夫を凝らして効率的に追求した場合、それはゲームと呼ぶにふさわしい遊びだろう。もちろん中間目的が間違って設定されていたら結果として工夫を凝らしたつもりでも勝利条件達成には結びつかない。だがそれは問題ではない。

この立場からは、中間目的設定自体は確かにゲームになっていない(運試しと複雑な判断の組み合わせになっている)が、プレイヤーが設定した中間目的がゲームの実態に即して有効であろうとなかろうと、その目的を達成するためにより優れた手を発見することが工夫として認められます。

但し、結果重視の実態主義と左右重視の観測主義は、相容れない立場ですが、人によって、プレイするゲームやメンツによって、とっている立場が違うが、2つともそれぞれ一貫した立場として並存している、という可能性も考えられます。左右重視の観測主義が説得力を持つことは、結果重視の実態主義が破綻することを必ずしも意味しないように思える点でやや疑問が残ります。

回答案2:実態主義の補強

これまで議論してこなかった実態主義のある側面を補強することで、少なくとも将棋はゲームになっている(小ゲームの寄せ集めなどではない)という論を立てることもできます。

実態主義から見た工夫の余地とは何であるかの議論の中で次のような意見を何度か出しました:
有効な手を有効と見分けられるだけの十分な情報が提供されていない時には、工夫の余地もまた限られている。そのような状況で強いられた決断の内容が勝敗を決定してしまうなら、それはゲームではない(工夫によって勝率を上昇させられる仕組みになっていない)。

これを「中間目的問題」一般にあてはめて、次のように考えることが出来ます。
中間目的の策定は決定的な情報に乏しく、消化しきれない程の量の情報が提供される。こうした複雑な判断を要求する場合には、その判断(意思決定)が元で取り返しのつかない劣勢に追い込まれたり、勝利が確定したりするなら、それはゲームではない
つまり、「中間目的策定」「中長期戦略策定」などは勝敗に大した影響を与えない場合にのみゲームたりえる、と考えるわけです。但し、プレイヤーは中間目的を設定するには情報が不充分であることを認識して、目的が暫定的なものでしかなく新しい情報の入手と共に変動されるべきものだということを常にわきまえた上でプレイするべきだという条件がつきます。例えば「銀が攻めあがって来ることは絶対にありえない」「とにかく角を成らせることが重要」などといった確かな根拠に欠ける確信の下にプレイした場合には、それが元で取り返しのつかない局面に追い込まれることになっても、それはゲームの仕組みが悪いのではなくてプレイヤーの過信が悪いのだ、と。そうした過信抜きでプレイされているとしたら、実態の把握困難さに照らして有効なプレイになっているし、「誤った思い込みに基づいてプレイしているためゲームになっていない」といったことにもならないと思います。

この観点は、ある種の感覚をよく説明するものになっていると思います。将棋でも、終盤戦の詰めのプロセスは非常にゲームらしいと感じますが、それ以前の展開は不確実な情報を手がかりに曖昧なままに考えて手を打ち、その有効性も必ずしもはっきりしない状態が続きます。プレイ終了後に振り返って考えても、結局どの手がよかったのか、まずかったのか、特定できなかったりもします。非常に多くの展開がありうる、諸可能性に開かれた状況から初めて、徐々に複雑さを減らして行き、終盤戦に至ってようやくゲームとして遊べる程度に単純な展開可能性の総体が残る。(展開可能性というのは、ある局面から到達可能な他の局面の総体とそこに至る経路の総体だと考えたらよいと思います。)将棋は複雑なゲーム核上をうろうろした後、終盤戦に至って、局所的に比較的孤立した、ゲーム核の一部分へ到達し、そこからがゲームらしい展開になるわけです。

つまり、この観点からは、終始一貫して多くの可能性に開かれている傾向にあるTRPGよりも、終盤で可能性が絞られて来る将棋の方がゲームとして成立しやすいという、直観的にも納得のいく構図が得られます。ですが、マインスイーパーを最少クリック数でクリアしようとする場合などは、ゲームの達成度を大きく左右するのは序盤から中盤にかけての大局的な読みだと思われます。将棋にも、そうした対局がある気がします。(自分は下手なのでできませんが。)こうしたケースについては、人間のプレイヤーにとって適切な情報が提供されていない状況で強いられる決断が勝敗を決めるのでゲームになっていない、と言えます。

もう一度言い換えてみます。決定的な手がかりを提供しないような仕組みになっている局面では、勝敗を決定的に左右するような事も生じず、またその局面でのプレイヤーの手も未決定性を残したまま「とりあえず」打たれるものであるなら、それは工夫をしていることにはならないけれども、少なくとも実態から遊離してはいないと言えます。実態から遊離しなければ、他の、決定的な情報が提供される局面で実態に即したプレイを行える余地が残ります。これをもって、一部の将棋の対局のように全体としてひとつのゲームになっているものがある、単なる小ゲームの寄せ集めだけではないと言えます。マインスイーパーやTRPGはそうはいかないように思いますが。

回答案3:「工夫の余地」の再定義

もうひとつ考えられるのは、工夫の定義を見直すことです。上記イ)で述べたように、工夫の余地とは与えられた情報を合理的に処理することでよりよい手を発見・認識できる可能性を保証するような状態です。ここで合理的な処理を、典型的には、明確な定義や単純な推論の積み重ねとして考えて来ました。ですが、このような発想ではスポーツにおける工夫の余地などを捉え切れないことはほぼ確実です。身体動作についての判断の多くは明確・単純な判断ではなく、複雑な判断の部類に属していると言えると思います。そこで、「TRPGにもどうやら同様の工夫の余地があり、将棋やマインスイーパーの中長期戦略についても同様の工夫の余地があると言えるようだ」と考えることができます。また、「物語重視のプレイ」も、以前の議論ではゲームとしてプレイしづらいと考えたわけですが、これも複雑な判断を主とするゲームだと整理できそうです。

この回答案の主要な欠点は、工夫の余地が複雑なものだと言ってしまった途端に具体的に議論できる保証がなくなり、工夫の余地の存在の有無すらもはっきりしないものになってしまう点だと思います。もちろん、工夫の余地はプレイヤーの能力との関係で決まるものなので、ある程度の曖昧さは避けられないのですが、TRPGのプレイ終了後に、「今のゲームにどの程度工夫の余地があったか」を事後検証を通じて検討することは格段に困難になると思われます。まあ、不便・不都合であるとしても依然としてある考えが真実を衝いているように思われる、ということはままあるわけですが。

回答案4:実装領域(お膳立て)の拡張

これは今回myrtさんが提案し、僕が将棋やマインスイーパーに拡張したアイディアです。
実装というのはあるゲームシステムなりゲーム作品なりを具体的な場所、時間、メンバー、環境においてゲームとして遊ぶために必要なあれこれのアレンジメント、お膳立て、ゲームを成立させる周縁的な作業だと考えてきました。ゲーム核の対概念としての実装領域(周縁領域)であれ、制御層の対概念としての実装(物理層との対応づけ)であれ、そのような意味で用いてきた概念です。お膳立てという言葉が比較的ピンときやすいと思います。
この概念を適用して、(概念自体は拡張再定義するわけではなく、そのまま適用します)これまでお膳立ての作業があると思われていなかった部分に実はお膳立ての作業があるのだ、とゲーム観を変えることが、回答になります。

「TRPGはGMとプレイヤーの間でプレイ中にもお膳立ての作業が続く」「将棋も実は対戦相手の発想の把握というお膳立てがあり、それがうまく行くと中間目的策定も、中長期戦略も、ゲームとして成り立つ」「マインスイーパーも、そのゲームの勘所を感覚的につかむというお膳立てがあり、それがうまく行くとゲームになる」などと考えるわけです。



回答諸案の比較

以上4つの案を比較します。左右重視の観測主義による説明は、これまでのゲームの捉え方に問題があったとするものです。中間目的設定はゲームの一部ではなく、何であれ設定した目的を達成するべく工夫してみることがゲームなのだ、ということになります。逆に結果重視の実態主義を補強するのが、2つ目の回答案です。中間目的設定は複雑な判断を要求するので非ゲーム要素だと考え、それが勝敗に決定的な影響を与えない場合にのみゲームが成立するとします。複雑な判断をゲーム外と考えつつも、ある種のプレイを「小ゲームの寄せ集め」ではなく「ひとつのゲームのプレイ」になっていると考える点で両者は共通しています。また、左右重視の観測主義と結果重視の実態主義はそれぞれ一貫した立場だと思うので、この両者は並立してよいと感じます。

工夫の余地を再定義するという案は、結果重視の観測主義はそのままに、「複雑な判断」もゲームの内、と答えるものです。ある遊びがゲームになっているかどうかは、考えてみても必ずしもわかるものではない、という厄介な帰結を含む立場ですが、スポーツなどゲームとして扱ってもよさそうでありながら従来の実態主義の見地からはどうもうまく扱えていなかった遊びをゲームとして捉えることができる利点があります。

以上3つの回答案は、中間目的設定を複雑な判断と考える点で一致しており、その複雑な判断が工夫の一種であるかどうかをめぐって不一致があります。これに対し、最後の回答案は、中間目的設定は複雑な判断ではなく、むしろ実装(お膳立て)さえうまく行けば明確で単純な判断の積み重ねで対処できる課題になる、とするものです。この実装(お膳立て)は、中間目的設定の複雑さを減らすために行うものです。
何を実装とし、何が実装でないいわばゲームの必須部分だと考えるかはかなり柔軟に変更ができる(変更すればそれは別ゲームではありますが)ものだということがわかっているので、「将棋を/TRPGをそういうゲームだと考えることもできるし、そういうゲームだと思っている人もいるだろう」という風には言えそうです。そう言ってみれば、上記の3つの回答案と、必ずしも並存できないものでもなさそうです。
2002年06月29日:10時28分13秒
【複雑性の比較ゲーム分析】中間目的問題と複雑性 / トモス
5)再まとめ

以上の議論とその背景をもう一度まとめなおしてみます。

ア)マインスイーパーにおける、局所的な判断(特定の未公開のマスに地雷があるかどうかの推測)は明快な定義と単純な推論過程に基づく(=理詰めの)判断だが、それを取り上げてゲームのモデルケースとした。

イ)その背景には、結果重視の実態主義があった。プレイヤーは与えられた情報を元にして、目的達成により有効な手を見つけ出せるような仕組みになっていることがゲームの条件であり、そのような仕組みによって保証された「よい手を見つけられる余地」(=工夫の余地)を活用して実際によい手を見つけることが工夫だとされた。

ウ)その背景には、「ゲームは目的達成に向けた工夫を楽しむ遊びである」という基本的な定義があった。この定義を上記のイ)とは違う形で解釈することもできることがわかっている。(体験主義や左右重視の観測主義など)

エ)ア)のような意味でのゲームは、ゲーム核の可能性の総体が有限であるか、無限であっても単純である場合に成り立つと考えた。(僕の前回の投稿)

オ)だが、よく考えると、ゲーム核の総体が有限だろうと無限だろうと複雑だろうと、人間のプレイヤーの想像力によって扱える時に限ってゲームとして成り立つのだし、TRPGのように無限で複雑なゲーム核の総体を扱う場合にも、それがどのようなものであるかについてプレイヤーがうまく理解できれば、推測のゲームは成り立つ。(myrtさんの今回の投稿)

カ)それを突き詰めて行くと、マインスイーパーも大局的な判断や中長期戦略は必ずしもゲームになっていないし、将棋も中長期戦略は必ずしもゲームになっていないということになる。つまり、有限であるゲーム核の可能性の総体を人間であるプレイヤーは把握し切れない。勘がうまく働いた場合や対戦者間の想像力が一致した場合などにのみ、ゲームとして成り立つ。(今回の僕の考察)

6)帰結

以上の議論の最大の帰結は、恐らく、TRPGも将棋もマインスイーパーも、実はこれまで漠然と考えていた程にはゲームとして成り立っていなかったのではないか、という疑問だと思います。中長期戦略、大局的判断、中間目的設定などといった側面について考えると、多くのゲームは「工夫の余地」がきちんと保証されているかどうかもはっきりせず、実際プレイヤーも工夫を凝らしてプレイしているとも限らないのではないか、という疑問でもあります。あるいは、その疑問をより積極的な主張として言えば、TRPGも将棋もマインスイーパーも実はそれほど純粋なゲームではないし、実際そういう遊び方をされてもいない、という意見になります。

更に、恐らくは、あるプレイの中で実際にゲームと呼ぶにふさわしいのはせいぜいのところ局所的、短期的なあれこれの諸部分だけであって、あるプレイが全体としてゲームたりえていることはないだろうとも言えそうです。
結果重視の実態主義によると、プレイヤーによって不適切な中間目的が設定された場合は、そのプレイをゲームとして楽しむための前提条件をクリアできなかったことになります。この立場では「工夫の余地」とは目的達成により有利な手を、提供されている情報を合理的に処理して導き出したり、知ることができるようになっていることを指します。そして工夫とはそのような状況で実際に有利な手を導き出したり、有利だと知ったりすることです。プレイヤーが中間目的の設定を誤った場合、ゲームの最終目的により有利な手を導き出す余地もなくなります。その場合長期レベルで見た場合の工夫は存在していないようなプレイになります。(例えばこれは、五目並べをプレイすべき状況で何かの勘違いをして囲碁だと思っている人がいくら知恵を絞って囲碁の好手を編み出したとしても、それはそのゲームを遊んだことになっていない、というような事態です。)

例えばマインスイーパーの一回のプレイというのは、実際には中長期戦略レベルではゲームになっておらず、何か中間目的がある場合(このエリアをできる限り探査する、など)に、その目的を達成するよりよい手を工夫によって見つけていく、というゲームがいくつも寄せ集められた非ゲームだ、ということになります。TRPGも、戦闘部分などはもしかしたらゲームだと言えるかも知れませんが、シナリオを単位としてゲームにはなっていない、と。(実際CRPGはそういうものとして遊ばれているような感じもしますが。)マインスイーパーであれTRPGであれ、最終目的を達成するために必要な情報が十分提供されていないか、されているとしても消化しきれないものであるため、工夫の余地が存在しないと考えることになります。
2002年06月29日:10時25分11秒
【複雑性の比較ゲーム分析】将棋とマインスイーパーにおける複雑性 / トモス
2)マインスイーパーへの適用

要点:マインスイーパーのゲーム核の可能性の総体は有限ですが、その有限性の全体を普通の人間のプレイヤーが捉えきることはほぼ不可能です。現に、局所的な判断(あるマスに地雷が埋まっているか否か、など)ではない、大局的な判断や中長期的な戦略の策定は、ゲームとして成りたちにくい面があるように見えます。ちょうどTRPGが、プレイヤーとデザイナーの想像力がシンクロナイズしている時にのみ推測のゲームとして成り立つように、マインスイーパーも、ある種の勘などの働きによって、プレイヤーがゲームのこつをうまく理解できる時にのみ、大局的判断や中長期戦略がゲームとしてプレイできます。

マインスイーパーでは、ゲーム核の可能性の総体も、プレイヤーが想定できる可能性の総体も、有限だと見なせます。

実際には、「最初の1手目で地雷にあたることはない」というmyrtさんが指摘した特徴を知らないでプレイする僕のようなプレイヤーがいることを考えると、「もしかすると5手目では絶対地雷にあたらないようになっているのでは」「実は13手目で運試しに出たら絶対に地雷にあたるようになっているのでは」などいくらでもゲーム核の可能性を想像できます。ここではこれを無視して議論を進めます。

有限なゲーム核の総体であっても、実際には、普通の人間であれば、ゲーム核の総体を把握し切ることはできません。例えば、ある局面で、「まだクリックしていないマスの中で一番最初にクリックするべきマスはどれか」ということは必ずしも明らかではありません。最短時間、最小クリック数で探知作業を終えるためには、次のクリックで数字のないマスを開け、そこから連鎖反応が起こるようなことが最も望ましそうですが、その為にはどのマスをクリックするのが最も有利なのかは、ある局面を取り出して(制限時間を気にせずに)練習問題として考えるとしてもなかなかわからないだろうと思います。

マインスイーパーの特徴は、「最適手」がわからなくても、「必勝手」(のようなもの)がわかっていることです。
もしもゲームの目的を記録更新ではなく全ての地雷の探知に設定した場合には、絶対安全な手を見つけることができる局面が多くあります。(運試しをせざるを得ない局面もありますが。)そして、この絶対安全な手を見つけるプロセスは与えられた情報の論理的な処理に基づいた未公開部分の推測なっています。

ですが、例えば「最短クリック数でクリアするには どうしたらよいか」「最短時間でクリアするにはどうしたらよいか」といった戦略を立てる段になると、与えられている情報を処理して手を決めることはかなり困難です。

これらの勝利条件については、「数字の並び方を見て、想像力や勘で、何となくここが怪しいと思ったマスをクリックしたら思った通りいいゲーム運びになった」、「理詰めで考えた分けではないが、与えられた情報から自分が有力だと思っていた仮説の幾つかを絞り込み、手を決める際に参考になった」などといった形で、上記の条件C),D)が満たされた場合に、ゲームとして成立すると言えます。これを言い換えると、マインスイーパーというゲームに対する複雑な判断力が養われ、その判断が成功した場合に、手がかりを正しく解釈して、残りの地雷の分布パターンの諸可能性や空白のマスの分布パターンの諸可能性などが見抜けることになります。

3)将棋への適用

要点:将棋のゲーム核の可能性の総体は、ゲーム核1つです。将棋に未公開部分がなく、ゲーム核はプレイ開始以前に知られています。また、ゲーム核は有限でもあります。ですが、その有限の、1つのゲーム核を普通の人間のプレイヤーは完全に把握することができません。現に、中長期的な戦略などは、複雑すぎてゲームとして遊ぶ(工夫する)ことが難しいものになっています。但し、対戦相手の想像力と自分の想像力が重なっていれば、相手の陣形や手を正しく読み解いて適切な中長期戦略が立てられる余地が出てきます。これはTRPGで想像力のシンクロナイズが成功すると推測のゲームが成立することとよく似ています。

将棋のように未公開性のないゲームでは、ゲーム核の可能性の総体はゲーム核たった1つ分しかありません。プレイヤーがゲーム核を知るのに必要な情報は、全て事前に提供されています。(4つの条件の内、A),B)を非常によく満たしているように思われるわけです。)

これはマインスイーパーやTRPGなどで未公開部分がどうなっているかをプレイヤーが確定できず、「このゲームはこうなっているかも知れない、あるいはああなっているかも知れない」と幾つも可能性を考えられる状況とは対照的です。

また、将棋のゲーム核は有限です。これは将棋が有限数の変数を扱うところから来ています。駒の数、盤の広さ、手の総体などがいずれも有限です。唯一考えられる無限性は、延々と同じ展開がループ状に繰り返されることですが、これは「千日手」として禁止されている上、仮に禁止されていなかったとしても「単純な規則に従った無限性」に留まります。

ですが、この、将棋の、たった1つの、有限なゲーム核を把握し切ることは通常の人間には不可能です。実際、多くのプレイヤーは、将棋を指す際には中長期的見通しを大きく誤る場合があります。右サイドから角と桂馬で攻めていけば崩せるだろうと思ったら全然上手く行かなかったとか。銀を2つ動員して攻めに出る方が有利だと思ったところそうではなかったとか。

具体的に、次の一手で角をとるためにはどうすればいいか、を検討することは理詰めできます。この部分は非常に明快で単純な判断に基づくものです。ところが中長期的な戦略という段になると、これまで「工夫」として考えてきたような、手がかり(情報)の合理的な処理という形にはなっていません。むしろ、曖昧さを含む、明確には説明し切れない判断をしていると思います。

そこで、こんな風に言えます。あるプレイヤーにとって将棋がゲームとして成り立つのは、対戦者の想像力が自分の想像力とうまく噛み合って、実際には手に負えない程複雑なゲーム核を、両者が同じような形で簡略化して捉えている場合に限られる。自分にとって完全に予想外の展開が生じない時に限って、ゲームとして成り立つ。もしも、相手の駒の動きが示唆する展開を自分が誤読しかできない、あるいはどう解釈してよいかわからず途方に暮れる、というようなら自分にとってはゲームは成り立たない。

4)まとめと一般化

以上のように、マインスイーパーにおいても、将棋においても、TRPGと同じく、複雑な判断が成功しなければゲームが成立たない、と言えると思います。これは中長期的な戦略、大局的判断などが要求されると、単純明快な推論ではなく、複雑な判断が必要になって来る、ということだと言い換えてもよさそうです。

TRPGを推測のゲームとして遊ぶことの困難についてこれまで議論して来たことは、「この扉の向こうに何があるか」「扉を開けるべきか」という類の局所的判断、短期的な戦略の困難でした。仮にそうした困難が解消されるとしても、大局的、中長期的な判断の難しさは残ると思います。例えば、今このダンジョンを探索に時間を費やしていいのか、ある土地へ行くのにどういうルートをとるのがいいのか、といった事柄をめぐる意思決定は、複雑な判断を要求します。これは例えば、ゲームブックで遊ぶ時に、「ジャンプする先の項を読んでからそこにジャンプするかどうかを決めてよい」というルールを導入して、短期的な推測が必ず成功するようにしても、中長期的な戦略が必ずしもうまく立てられるわけではないことを考えるとわかりやすいかと思います。

言い換えると、勝利条件達成のためにある中間(短期)目的を設定し、その中間目的の達成方法については最適解なり必勝解を特定できるかも知れないのですが、そもそも中間目的自体が最終的な勝利条件達成にとっては不適切な目的になっていることがあります。

2、3手で終了するゲームなど、こうした問題がないゲームもあり、そのような例を使って議論したこともありましたが、TRPG、将棋をはじめ多くのゲームは、普通の人間のプレイヤーがプレイする限り、この問題を孕んでいると思います。この問題が発生する基本的な理由は、ゲーム核(やゲーム核の可能性の総体)の複雑性にあります。

ちなみに、短期と中長期、局所と大局、明確で単純な判断と複雑な判断、などは実際のゲームでは程度の差としてしか存在せず、ある閾値を超えたらそこから先は中期問題、とか複雑とかいう線引きが出来るわけではないと思います。念のため。
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