TRPG総合研究室 LOG 101

TRPG総合研究室の2002年05月21日から2002年06月08日までのログです。


2002年06月08日:03時39分50秒
【比較ゲーム分析】横から失礼しますが(^^;(れ:世界が「それらしい」ことと、ゲーム性) / 紙魚砂
>トモスさん
ええと、「未公開部分の推測」の論に関して重要な見落としがあると思われますので、書いておきます。以後の論で考慮してもらえるといいと思うんですが。
#的外れだったら読み飛ばしてください(w。

1)プレイスタイルを知ることも推測の手がかりとして重要である。下記の事項はゲーム成立のために必須。
>(myrtさん)>>T&Tのシナリオ(特にソロシナリオ)はまさしくそんな感じです。愛好家は少なくない気がします...ただし、事前にプレイスタイルの前情報は欲しいですね。<<

2)GMは出した情報をPLがどう解釈するかを予測して手がかりを出す。共通認識を作り出すための相互作用がある。

3)アクションに対するリアクションが共通認識の内に収まるように精度を上げていく過程がある。実際のセッションでは、その精度がある程度上がったところで初めて主題となるゲームが出来るようになる。
例えば序盤で軽い戦闘をして感覚を掴んでもらった後に、本格的な戦闘をやる、とか。
2002年06月07日:16時08分28秒
【比較ゲーム分析】世界が「それらしい」ことと、ゲーム性 / トモス
myrtさんは少し違う議論を立てようとしているのかも知れませんが、前回のmyrtさんの投稿を見て、僕の考えている立場は依然として維持可能だと思ったので、それが何であるかを改めて書いてみます。

1)問題

TRPGで未公開部分を推測することがゲームになりうるか、というのが基本的な疑問です。どうやら簡単にゲームになっているのではない、という点では意見の一致を見ているようです。

僕は、それがどのように困難であるかを2種類に分けられるという気がします。一つは「情報の真偽を見極める手段がないこと」もうひとつは「(真の情報だけに限っても)情報が多様な解釈を許すために、未公開部分の推測にとって十分な手がかりを与えつつ、かつ工夫の余地を残しておく、ということが困難なこと」です。

この内、2つ目の方に興味があります。漠然とした感触としては、これは「TRPGが複雑な世界を複雑なままに扱っていて、その点でマインスイーパーと違うこと」に関係がある、と感じます。

2)原因と対策

「手がかりの解釈の仕方に多様性がある」という事態は何に由来するか、と考えてみると、TRPGが複雑な世界を扱う遊びになっているからだ、ということが原因として思い当たります。それをもう少し詳しく書いてみます。

まず、「マインスイーパー」「T&T」などを単位として ゲームを考えてみます。マインスイーパーの初期設定やT&Tのシナリオは、その同じゲームの中のバリエーションである、と。

ここで、マインスイーパーは有限な局面数からなるゲームだ、と見なすことができます。そこで、与えられた情報から「未公開部分がどのようになっているか」を考えた場合にも、その候補は有限です。また、局面を表現するのに必要な変数の数や変数のとりうる値のバリエーションも、有限です。

これに対して、TRPGの場合、どのようなシナリオが作成可能か、ということを考えると、ほぼ無限です。「無制限」ではありませんが、ルールブックなどによって与えられた制限の範囲内で、ほぼ無限のバリエーションのシナリオが考えられます。

ゲームブックに同じような図式を当てはめると、キャラクターシートや戦闘や運試しのルールが共通のゲームブックがどのような冒険を扱えるか、ということを考えれば、やはりそのバリエーションは無限です。ゲームブックは実際の作品は全て有限(1冊に含まれる局面数は有限)である点が違っていますが。

有限な変数の値の組み合わせとして表現できるのは単純な世界で、ある情報を手に入れると、その情報で直接明らかにされている以外の事が推測可能です。

これに対して、実質的に無限の変数が介在する、複雑な世界を扱うTRPGやゲームブックは、ある情報を手に入れても、そこから推測によって他の物事についての推測をすることが困難だと言えます。

例えば、マインスイーパーで、ある「地雷が埋まっているかどうかまだわからないマス」について、周囲のマスから得られた情報を参照すると、「ここには必ず地雷が埋まっている」とわかることが多々あります。TRPGでは、「この扉の向こうからはトロルのいびきが聞こえるし、トロルの匂いが漂って来るし、よく見るとトロルのものと思われる体毛が廊下に落ちているし、複数の情報源から仕入れた情報ではここには巨大なトロルが財宝の番をしている」と情報が与えられていても、実際に扉を開けるとトロルも財宝も魔法によって生み出された幻影であったり、実は扉を開けると予期しなかった罠が発動したり、トロルだけでなく錆の怪物も一緒に眠っていたり、トロルに化けたドラゴンだったり、全てが夢だったり、といった可能性が否定し切れません。

プレイヤーが、自分に与えられた情報群Aから、推論によって、そのような情報群を与える可能性のある全ての実態の集合Bを考えると、そのBに含まれる要素(実態)の数はマインスイーパーなら有限、TRPGやゲームブックなら無限、ということになります。


#ちなみに、実態の数が無限であっても、それを表現するのに必要な変数の数が有限である場合も考えられます。この例としては以前、無限性と複雑性の区別という形で扱ったゲームが挙げられます。(1月27日、ログ087)このようなゲームでは、考えられる実態が無限であっても実際にはその無限の事態にきちんと対応した手を編み出すことが可能になると思います。理由は、その無限性が整数の無限性のように、一定法則に沿った単純なものであり、TRPGの世界のように複雑なものではないためです。

整理しきれていない感はありますが、以上のように、TRPGやゲームブックを「未公開部分を推測するゲーム」として遊ぶには、「舞台となる世界」は複雑過ぎ、「与えられた情報」を手がかりにした推論が成功しづらい、と言えるように思います。

これらを言い換えると、「複雑な世界をシミュレートしているから、プレイヤーは与えられた手がかりをどう解釈してよいかについて無数の可能性に直面し、その一部はGMの考えている解釈と重なり、一部は重ならない」という理由で困難が生じるので、「GMとプレイヤーの、手がかりの解釈の仕方をできるだけ近づけることが望ましい」というのがそこから安直に考えつく解決策です。もちろん、完全に一致する見込みは皆無で、かなり限界のある解決策だと思いますが。

これに対して、myrtさんは「シミュレーションであること」、かつ、「1回きりのプレイ」であることの2つが組み合わさって、この解釈の多義性の問題を引き起こしているという考えのようです。つまり、「シミュレーションでない場合」か「同じシナリオを何度もプレイする場合」にはこの困難が解消される、と考えているようです。

シミュレーションでない場合には問題は発生しないだろう、という点ではほぼ同意見(例外めいたものも思い当たりますがそれは又の機会にでも)です。

ですが、複数回プレイした場合に問題が解消されるか、と考えてみると、必ずしもそうではないように思います。複数回プレイすることで「GMの癖がわかる」とか「その世界についての一般的な知識が増え、推測の成功率が上昇する」ということはあるように思います。ですが、その効果も限られたもので、何度プレイしたところで、TRPGが複雑な世界を扱っている限りは、「未公開部分」を「それまでのプレイの経験」「与えられた知識」などから推測できる可能性は限られていると思います。また逆に、複雑な世界を扱ってさえいなければ、1回きりのプレイであっても未公開部分を推測するゲームとして遊べると思います。

言い方を変えると、TRPGにおける「未公開部分の推測」は工夫と運試しとの混合にならざるを得ず、その点でマインスイーパーとは違っていると感じます。

3)例

解釈の多義性が、複雑な世界をシミュレートしていることだけに由来するのか、それともそのような世界を舞台に1回だけ遊ぶことに由来するのか、と考えるにあたって参考になるのは、「予想外のファクターが常に介入して来て、意外性に満ちた世界」(複雑性が高い)を考えて、そういうシナリオやゲームブックを、繰り返し遊ぶ場合だろうと思います。これについては既に例が出ているのでmyrtさんの前回の投稿から引用しつつ議論してみます。


(例1)


(トモス)>>もしも宝箱を開けた場合に発動する罠の内容が完全にランダムに決まっているようなシナリオで、長短13本の毒針が飛んで来るかも知れず、異次元に飛ばされるかも知れず、呪いがかかるかも知れず、シナリオ全体を通してそういうランダムさが満ちているとしたら、奇想天外な冒険ではあってもゲームとしては成立しないだろうと思います。 <<


(myrtさん)>>T&Tのシナリオ(特にソロシナリオ)はまさしくそんな感じです。愛好家は少なくない気がします...ただし、事前にプレイスタイルの前情報は欲しいですね。<<

そうすると、その愛好家は「未公開部分の設定を推測するゲーム」をプレイしていない、ということは依然として言えるのではないでしょうか。具体的には、戦闘を楽しむとか、コミカルなノリを楽しむとかいうことはあっても、何が起こるかわからない物事をそれでも予想ようとして工夫をこらすわけではないし、仮にそのような予想を試みても、勝率を上昇させることができる見込みが無い、と。


(例2)


(トモス)>>「この状況に以前やって来た時には、選択肢1を選んでとんでもない目にあったけれども2か3のどちらをえらぶといいのか皆目見当も付かないし、何が起こるのか予測不可能だ」<<


(myrtさん)>>「選択肢1を選ぶととんでもない目にあう」という情報が入ってます。<<

これについても、結局、前回選ばなかった選択肢2と3の帰結がわからないために、次のように言えると思います。「これまでに試した手の組み合わせ(このページで選択肢1を選び、その先で選択肢5を選び、…という一連の手の連なり)についてはその結果がわかるが、その情報を手がかりとして未公開部分を推測するというゲームをプレイすることはできない。」

また、例えば、 「この部屋は前回のプレイでは31ページで扉を開けるかどうかの選択を迫られて、今は51ページで同じ選択を迫られている。少し状況は違うけれども、前回は食糧貯蔵庫だったから寄って行くことにしよう」と思ったら今回は前回とは違って遠くから敵の放った矢が刺さって気絶してしまう、というようなランダムさもあります。 言い換えると、舞台となる架空世界の情報は、完全にランダムな設定内容を持ったゲームブックでは、次回以降のプレイに役に立たないわけです。

以上はゲームブックがランダムな設定内容を持っている場合にいかに(未公開部分を推測する)ゲームとしてプレイできないか、という2つの説明ですが、反対の側面もあります。ゲームブックでは「13へジャンプする選択肢は、どこからであれとってはいけない」などという「ゲーム世界外」の情報も入手でき、それを活用すること(PCが持っていない、プレイヤーの知識を活用すること)はゲームブックではかなり受け入れられていると思います。ここから、「57ページに行ったら後はどの選択肢をどう選んでも5手以内にゲームオーバーになってしまうことがこれまでの63回のプレイからはっきりしているから、57に行かない洗濯しを選ぼう」という形で過去のプレイから得られた情報を活用して勝率を上昇させたり、同じ手を選ぶのにもより確証を持って選ぶことができます。

但し、ここでは「それらしさ」と呼んだプレイヤーの知識、「架空世界がどのような世界であるかについての曖昧な知識」を全く活用していません。ゲームブックを解く効率的な方法は、本文の記述を気にせずにどの選択肢がどのページにジャンプするものであるか、その構造を解明していくことだということになります。これは、TRPGにまず応用がきかないという欠点を無視するとしても、かなり味気ないゲームブックの遊び方だということになります。


(例3)


(myrtさん)>>ほど良い程度のヒントを与えることが困難であるから、割り切ってしまったのが nethackなどの「理不尽死のありうるゲーム」なのではないでしょうか。誰でも突破できる障害から誰も突破できない障害までランダムに配置する。障害の困難さに対して指数的に設置率を下げれば、突破能力に応じて到達できる範囲が確率的に決まるモデルの出来上がりです。同様に達成度を変化させるシステムを作れば、TRPGにも応用できるのではないでしょうか?? << nethackはプレイしたことはないですが、これはTRPGでダンジョンを舞台にエンカウンター表などの乱数要素を活用して遊ぶゲームと同じようなものだと考えていいでしょうか? つまり、「未公開部分の推測」を楽しむゲームではない、と。
2002年06月07日:06時15分52秒
【比較ゲーム分析】「未公開要素の推測のゲーム性」をめぐる議論の文脈 / トモス
最近まとめらしいまとめをしていなかったので、今の議論がどのような文脈に位置づけられるのかを改めてまとめてみました。

1)これまでの議論の流れ

非常に大きなレベルでの議論は、TRPGで「ゲーム重視のプレイ」をする際に重視するところの「ゲーム性」というのは何なのかを考えることであり、TRPGがどのような意味で「ゲーム」なのかを考えることだと思います。また、それはひいては、TRPGをゲームとして楽しむことの困難やそれに必要な工夫が何かを考えることにもつながります。


「ゲーム」が何であるかは「目的(勝利条件達成や、達成度最大化)達成に向けて工夫を楽しむ遊び」と考えてきました。

またここで「工夫」とは次の2種類だと言えると思います。(2種類目についてはまだそれほど議論していませんが。)
・与えられた情報を活用して、何か少しでも有利だと考えられる手を考えつく余地がある場合、それを実際に考えつくこと。
・与えられた情報を活用して、既に有利だと考えていた手が他の手よりも有利だと考える別の理由を考えつく余地がある場合、実際にその理由を考えつくこと。

この両者は、手を打つ際に運任せや気分任せになっている度合いを減らし、情報に基づいた推論を導入する度合いを増やしている点で共通しており、その点で工夫と呼べる何かになっています。

以上のようなゲームがTRPGについて成立つのはどのような場合か、TRPGがゲームとして成立つかどうかどうもわかりにくいのはどのような理由か、ということを考えて、幾つかの主な意見がこれまでに出されています。
「システムの開放性があるからゲームとして成立ちにくいのではないか」
「でも開放性は実は「実装領域」(運用面での諸問題)を考えれば全てのゲームにあると言えるのではないか」
「開放性があっても「制御層」の同一性さえ保たれていればゲーム性は成立つのではないか」
「制御層の同一性が保たれていてもゲームにならないような制御層も考えられるので何か別の条件があるのではないか」
「制御層が保たれているか否かではなく、開放性があるか否かでもなく、GMが、ゲームのルールや設定内容を変更してプレイヤーの戦略を無にするようなことがあるかが問題なのではないか」
「GMによるルールや設定の変更も含め、プレイヤーが与えられた情報を目的達成に活用できるようになっていることが重要なのではないか」

などが(一応ほぼ登場した順に)主な意見です。
現在はこの最後の意見の批判的な検討をしている、という形になっています。

この検討に際して、上に挙げたゲームと工夫の定義を大筋において受け入れつつも、細かな部分では意見が異なる幾つかの立場があることがはきりしました。例えば、「プレイ中のGMの裁量がプレイヤーの勝敗を左右するような仕組みにシナリオが書かれていて、しかもプレイヤーがそのことを知らされていない場合、それはゲームになりうるだろうか」という問題について、「ある遊びがゲームになっているかどうかはプレイヤーの体験した内容によるので、 プレイヤーが、自らの工夫によって勝率を上昇させてそれが勝利に結びついた、と感じたのなら(それが勘違いだとしても)ゲームだ」と考えるのが「体験主義」の立場です。それと対照的に、「ある遊びがゲームになっているかどうかは、プレイヤーが実感しないものも含めて、プレイの結果に影響を与えるルール、設定、GMの裁量、乱数、などが、プレイヤーの工夫の余地を残しているかどうかによる」と考える「実態主義」もあります。

もうひとつ「観測主義」という立場もあるのですが、これは「実態主義」とよく似ている上、今回の投稿でもその違いは問題にならないようなのでその説明、検討は省きます。

ちなみに今回の投稿は(また最近の一連の投稿は)この実態主義と観測主義にまつわるもので、体験主義の立場はそれほど関係ないです。

2)未公開部分を推測することはゲームたりうるか?

当面の問題は、TRPGで、未公開部分の設定内容(シナリオの内、PCにもプレイヤーにも知られていない部分)を推測することをゲームの重要な一部として遊べるか、ということです。
TRPGは例えば戦闘シーンをゲームとして遊び、「シナリオ」にまつわる部分は物語として楽しむ、というような楽しみ方もあると思います。ですが、シナリオがゲームの楽しみを提供することは可能なのかどうか、というのが気になっているところです。

ちなみに、ゲームは一般に、ルールや設定の提供する仕組み、乱数要素、他のプレイヤーの手、未公開の設定内容の4種類のいずれか(またはそれらの組み合わせ)によって工夫の余地、工夫の楽しみを提供する形になっているようです。TRPGには全ての要素が含まれていると言えそうですが、ある種のパズルのように1つ目の要素だけからなるもの、多くのコンピューターゲームのように他のプレイヤーが関わらないもの、将棋のように乱数要素が介在しないもの、などもあります。当面の関心は、TRPGにとって「未公開の設定内容」がゲームの楽しみを提供できるかどうか、です。

それがどうやら簡単ではない、(ゲームとして成立しにくい)という点では一致しています。具体的には、次のような点で困難です。

・プレイヤーは、しばしば、虚偽の情報を受け取る。(情報提供者が嘘をつく場合や、何かの錯覚がプレイヤーに訪れる場合)ところが、何が真実で何が虚偽であるかを確実に判断することはほぼ不可能である。そこで、情報の取捨選択に際しては運試しの要素が入ることになる。
・舞台となる架空世界がどのような世界であるかについて、プレイヤーとGMの間で解釈、理解の違いがある。そこで、次のような意見の相違が生じやすい「A,B,Cの3つの情報を与えられたら当然、この洞窟に錆の怪物がいることに思い至っていいはず。このシナリオはプレイヤーにきちんと情報を与えて工夫の余地を提供している。」「こういう洞窟に錆の怪物がいるというのはいくらA,B,Cのような情報が与えられたら極めてありそうにないと考えるのが普通で、このシナリオはプレイヤーを罠に陥れるような仕組みになっている。」これはひいては、GM(やシナリオの制作者)にジレンマを与えることになります。それは「未公開部分について、いろいろな解釈の余地がある情報しか与えないと、プレイヤーはGMが期待するのとは全く違う解釈に辿り着く可能性があり、しかもGMとしてはそれが「舞台となる世界についての誤解に基づくもので、この遊びをよく理解していない証拠」と退けられない場合がある。」
と同時に、「未公開部分がどのようになっているかについて、プレイヤーが確実に正しい結論を出せるようにと配慮をする場合には、余りに明白な情報を与え過ぎて実際にはプレイヤーは何の工夫もなく正解を知ることができるという事態になる場合がある。」この、多義的で推測困難、という状況と、明白で工夫の必要がない、という状況とのいずれをも避けて、プレイヤーに工夫の余地を残すような情報を与えることは、困難です。

このような意見の相違は、単純なシステムを扱っている場合には、主要な変数間の関係を全て特定し切ることで防げます(=システムを閉鎖的にすること)。ですが、TRPGは複雑な物事(架空世界での冒険)を複雑なままに扱おうとする傾向がある(全く単純化がないわけではなく、あくまで傾向があるというだけですが)ために、防止が困難です。

3)未公開部分を推測することがゲームになりにくい理由

上に書いた通り、「TRPGが複雑な世界を扱うこと」は未公開部分がどのようになっているかについての推測を困難にしていると考えられます。ですが、これが唯一の理由と言えるかどうか、などについてはまだ議論の余地があります。

言い換えると、TRPGのどのような特徴が、「未公開部分を推測するゲーム」に不向きなのかが気になります。そうした特徴を把握できれば、あるいは対処の仕方について考えることもできるかも知れませんし、シナリオに含まれている謎解きがどうしてゲームっぽく感じるのかを理解する手がかりにもなるかも知れません。それを考えるべく、マインスイーパー、ゲームブックやアドベンチャーゲームなどとの比較でTRPGの特徴を考えているわけです。これらの遊びはいずれも未公開部分を推測することが、目的達成(勝利条件達成)に必要になる遊びです。マインスイーパーは、(遊びかたにもよりますが)明らかにゲームと言える側面があります。最初の1手が完全に運試しであることなどゲーム性重視の立場からはやや難を感じる点もありますが、未公開要素を推測するゲームだと言えます。他の遊びについては、ゲームか、それに近い何かであることは確かだろうと思えます。

上の議論からは、「GMが「それらしくない」設定をしてしまったためにプレイヤーがいくら情報を与えられても正しく推測できないような仕組みになってしまっていて、ゲームとして成立たない」(=シナリオの落ち度)、「プレイヤーが「この冒険の舞台がどのような世界か」についてはっきり理解していないために、いくら情報を与えられても正しく推測できず、つまりゲームをプレイできない」(=プレイヤーの落ち度)、「誰が悪いわけでもないが、プレイヤーが与えられた情報を活用して未公開部分を推測することが難しいか、ひどく簡単になってしまっている」という3つのケースが考えられ、ゲーム性重視のプレイのためにはGMは最初のケースを避ける責任がある、ということになります。(3種のケースは必ずしも判別が容易ではないですが、プレイヤーが理解できないような世界を勝手に作り上げるなど、明らかに最初のケースに相当すると思われるような場合もあります。)

これに対して、myrtさんはシナリオが一度しかプレイされないこともTRPGの特徴で、他の一回使い切りゲームと同じく、未公開部分の推測はゲームにはなりにくい、という可能性を提案しています。逆に、同じシナリオを何度もプレイした場合には、ある程度「この世界がどのような場所であるか」がわかってきて、未公開部分を推測する能力が増す、と考えることができます。

今回の投稿はあくまでも議論の文脈をまとめなおすことなので、とりあえず細かな検討は次の投稿にまわして、ここで終わります。
2002年06月06日:23時44分14秒
『TRPGとは』(TRPGの定義) / 2ちゃんねら〜
 http://www.mahoroba.ne.jp/~furutani/long/00000194.html
 簡易長文投稿に『テーブルトーク・ロールプレイングゲームとは』(TRPGの定義)と題して投稿いたしましたのでご報告します。
 この投稿は、2002年2月から5月にかけて、2ちゃんねる、卓上ゲーム板「TRPGとはなんだ?!(根本命題)」スレッド(http://game.2ch.net/test/read.cgi/cgame/1014113207/)における意見交換をまとめたものです。
 
 『テーブルトーク・ロールプレイングゲームとは』(TRPGの定義)
 【前提】
 テーブルトークRPGとはテーブルゲームの一種で、プレイヤーが仮想世界で仮想の人物の役割を演じる(ロールプレイ)ゲームです。
 
 【TRPGの条件】
 テーブルトークRPGとは、上記の前提をふまえ以下の条件にあてはまるものです。
 1.参加者の会話によって行われる
 2.ゲームマスターの役割を行う参加者がいる
 3.ルールとシナリオがある
 4.ゲームマスターの提示した場面にどう対応するか、プレイヤーが模索しながら進行する
 5.その場の(セッションの)規範がある
 ※TRPGとは単にルール(システム)の運用だけでなく、遊び方によっても定義の枠をはみだしてしまうことがあります。
2002年06月02日:00時24分25秒
【比較ゲーム分析】繰り返しプレイによる手がかり獲得 / myrt
(Re:2002年06月01日:19時25分22秒【比較ゲーム分析】「悪い」シナリオと「それ らしさ」 / トモスさん)
>>GMの作成したシナリオが「悪い」とプレイヤーが言える時があると思うのですが、それは ババ抜きの場合と違って、GMはゲームデザイナーだからだと言えば説明になるでしょうか? <<

 この理由で説明できる場合が多いと思います。ババ抜きもどきのカードゲームを一晩で デザインし、1回だけプレイする場合を想定してみると、同様の文句が出る可能性が 考えられます。

 ただしTRPGでは「システムは悪くないが、ジャッジが悪い」に相当する、「シナリ オは悪くないがマスタリングが悪い」という文句が出ることも考えられ ます。「シナリオが悪い」のと「マス タリングが悪い」がきっちり切り分けられないケースも考えられますが。

>> 次にどのようなイベントが生じるか、どのような行動をとったらどのような展開にな るかなどがそれまでの状況から全く予想が立てられないようになっているシナリオは、ゲーム性重視のプレイを不可能にする悪いシナリオで、その責任はGMにある、と。<<

 その予想できなかったイベントの結果が、次回のプレイのための手がかりとなる場合は どうでしょうか。「並びだけで勝負が決まっている山札」は単独ではゲームたりえませんが、 そのような山札の並びを生みうるシステムはゲームでありうると思います。錆の怪物シナリオ はもちろん、デストラップダンジョンに何度も挑むセッションも考えられます。

 しかしデストラップダンジョンの例では、脈略のない敗北イベントの後で即座に次のプ レイに移れる特徴があります。だから単独のプレイにおいて理不尽な敗北は許容されるとしても、 単位時間あたりの(実態主義における)工夫の実感を確保することが望ましいのかもしれません。 最初に自他ともに認めるポカミスをしたからと言って、その後2時間ほどGMに敗北状況を 語られたら辛いです。

>>カードゲームのカードは、多くの場合、どのような札が何枚含まれているかプレイヤーに知ら されています。そこで、ランダムに積んでも「あの札はもう2度出たからまず出ないだろう」な どと戦略的思考の余地を残すことになります。 <<

 しかし、カードゲームのプレイヤーのすべてが正確なカウンティングは心がけているわけでは ないと思います。大抵は手持ち情報からいい加減に展開を推測し手早くプレイするもので、わずかな 勝率を上げるために長考しすぎることはむしろ嫌われます(これも単位時間あたりの工夫に 関連するだろうか)。

 特に初回プレイにおいては、正確な枚数情報はむしろ思考の妨げになることさえありま す(他に覚えねばならないルールが多く、とっさの理解力には限界があるから)。じゃあ初回 プレイにゲームの面白さはないかというとそうとは限りません。中途半端な理解でも、 ゲームのプレイは場合により楽しむことができるのではないでしょうか。

>>もしも宝箱を開けた場合に発動する罠の内容が完全にランダムに決まっているようなシナリオで、 長短13本の毒針が飛んで来るかも知れず、異次元に飛ばされるかも知れず、呪いがかかるかも知れ ず、シナリオ全体を通してそういうランダムさが満ちているとしたら、奇想天外な冒険ではあって もゲームとしては成立しないだろうと思います。 <<

 T&Tのシナリオ(特にソロシナリオ)はまさしくそんな感じです。愛好家は少なくない気が します...ただし、事前にプレイスタイルの前情報は欲しいですね。

>>「この状況に以前やって来た時には、選択肢1を選んでとんでもない目にあったけれど も2か3のどちらをえらぶといいのか皆目見当も付かないし、何が起こるのか予測不可能だ」<<

 「選択肢1を選ぶととんでもない目にあう」という情報が入ってます。ゲームブックであれば 選択肢の数は有限ですから、永遠にランダムであることはありえません。仮想TRPGとして 選択肢が無限に増える場合を考えても、1つでもとんでもない目にあわなかった選択肢を 見つければそれを選べば次に進めます(見つからなければ繰り返しプレイにより次の選択肢 を選択し続ける)。
#というか、それがゲームブックの正しい遊び方だと思う...

 これは、カードゲームにおいて「この状況でこの札を出すとえらい目にあう」ことを 身をもって学習することに似ています。こういうのは口で説明してもわからないもので、 その状況になってから教えてやるか、実際にえらい目にあわせてやるのが効果的です。 熟練者の上達の手段の半分はこれでしょうし(残り半分が理論的に導くものとして)。 いずれにせよ、「次回があるから」という要素は重要だと思います。

>>細かい点かも知れませんが、TRPGとシミュレーションを比べると、TRPGの方は「模倣す べき現実」が不足しているのと感じます。<<

 うーん、具体的にはどういうことでしょうか。第3次世界大戦モノTRPGなんかは現 実世界の設定をかなりそのまま使えそうですが、シミュレーション上の問題はやはり 発生すると思います。「このヒントでブービートラップに気づくか」なんて、実験して 統計を取るしかありません。


 ほど良い程度のヒントを与えることが困難であるから、割り切ってしまったのが nethackなどの「理不尽死のありうるゲーム」なのではないでしょうか。誰でも突破 できる障害から誰も突破できない障害までランダムに配置する。障害の困難さに対し て指数的に設置率を下げれば、突破能力に応じて到達できる範囲が確率的に 決まるモデルの出来上がりです。同様に達成度を変化させるシステムを作れば、TRPGにも 応用できるのではないでしょうか??
2002年06月01日:19時25分22秒
【比較ゲーム分析】「悪い」シナリオと「それらしさ」 / トモス
GMの作成したシナリオが「悪い」とプレイヤーが言える時があると思うのですが、それはババ抜きの場合と違って、GMはゲームデザイナーだからだと言えば説明になるでしょうか? ババ抜きでは他のプレイヤーは、自分が勝利条件を達成するために自分の表情を操作するのは当然なのですが、GMがプレイヤーの予想を裏切って絶対に工夫が実らないようなシナリオを作成することは悪い、「ゲーム重視のプレイ」を阻むものだ、と。

錆の怪物について言われている強制イベントは、その後の部分にゲームが来るので問題ないのですが、そうではなくて完全に強制イベントだけに終始するシナリオや、次にどのようなイベントが生じるか、どのような行動をとったらどのような展開になるかなどがそれまでの状況から全く予想が立てられないようになっているシナリオは、ゲーム性 重視のプレイを不可能にする悪いシナリオで、その責任はGMにある、と。

もちろん、プレイヤーが「そんなの予想が立てられない」と思ったものの、GMに言わせれば「よく考えて情報収集をすればわかるようになっていたはず」、という場合があるので判断はいつも簡単に下せるわけではないですが。



同じ論点を、GMのシナリオは、ちょうどカードゲームで山札を恣意的に積むことに似ている、という5月26日のmyrtさんの投稿の論点から敷延して説明してみます。

カードゲームのカードは、多くの場合、どのような札が何枚含まれているかプレイヤーに知らされています。そこで、ランダムに積んでも「あの札はもう2度出たからまず出ないだろう」などと戦略的思考の余地を残すことに なります。

それに対して、TRPGの未公開部分は、そもそもどのような効果を持つカードが存在しているかすらもプレイヤーにわからず、カードの総数もわかりません。「さっき毒針の罠にかかったから毒針である可能性は低い」などとは予想が できず、あるいは「次のカードはハートかスペードかクラブかダイヤだ」と全ての場合を列挙するように、「この宝箱を開けると発動し得る罠の種類は、」と全てを列挙することもできないわけです。(これまでの議論で言うところの確率計算による戦略策定も、場合分けによる戦略策定も、共に不可能。)

このような形で無限の多様性を含んだゲームで活用できる知識は、確率計算や場合分けではなく、「それらしさ」あるいはmyrtさんが言うところの「シミュレーション」という要素だと言えると思います。

つまり、プレイヤーは、複雑な諸事象について、ある程度曖昧な形(それらしさ)で知っており、その知識を活用して「宝箱からドラゴンが出現する可能性は低いだろう」などと予測をたてるわけです。

もしも宝箱を開けた場合に発動する罠の内容が完全にランダムに決まっているようなシナリオで、長短13本の毒針が飛んで来るかも知れず、異次元に飛ばされるかも知れず、呪いがかかるかも知れず、シナリオ全体を通してそういうランダムさが満ちているとしたら、奇想天外な冒険ではあってもゲームとしては成立しないだろうと思います。

それに対して「それらしく」シナリオが作成されて いる場合は、プレイヤーも「この状況で考えられる 主なリスクは何だろうか」などと考えることができます。

そこで、
>>よってこれはTRPG独特の問題ではなく、「特定の事象をシミュレートした1回使いきりゲーム」の問題ではないでしょうか。シミュレーションであれば、どれだけ現実を模しているかについてプレイヤーが文句をつけることが可能です。<<

というmyrtさんの議論の内シミュレーションの部分については賛成です。(TRPG独自ではない、という点にも賛成です。)

ですが、一回ゲームではない、複数回プレイする場合を考えてみても、上のような意味でランダムに組まれたシナリオは、工夫の余地がありません。例えばそれは非常に でたらめな展開を示すゲームブックを何度かプレイした後に、「この状況に以前やって来た時には、選択肢1を選んでとんでもない目にあったけれども2か3のどちらをえらぶといいのか皆目見当も付かないし、何が起こるのか予測不可能だ」と感じるようなものです。そのゲームブックは「それらしさ」を欠いているために戦士として塔の中を冒険していると思ったら扉を開けた途端に次のセクションでは蛙になって荒波に呑まれており、そこでたまたま口にした言葉がきっかけで今度は王様の前で芸を披露する道化になっている、といったような荒唐無稽なものになっています。無限の多様性を孕んだ母集団の中からランダムに抽出された物事が相互に連結されているようなゲームブックなので、何度プレイしても運試しの余地しかないと思います。例えば「前回はここから4ステップで勝利条件達成したけれども、3ステップ以下で勝利条件を達成できる可能性はあるだろうか?」と考えてみても、端的に答えが出ないわけです。

という風に考えているので、これは単にシミュレーションの問題であって、「一回きりのプレイ」によるものではない、と言えるような気がしています。


補足:

細かい点かも知れませんが、TRPGとシミュレーションを比べると、TRPGの方は「模倣すべき現実」が不足しているのと感じます。TRPGでは「この設定はオリジナルの忠実な再現だからこれでいい/再現になっていないから悪い」という議論をする余地が少なく、「この設定はルールブックなどにある世界観に照らしてそれらしいからこれでいい/それらしくないから悪い」という議論になる余地が多いという風に感じます。そこで、TRPGの方が、「ある設定が悪い設定であったかどうか」について意見が分かれやすいのではないかとも思います。ある人にとっては「非常にそれらしい設定で、よく考えたプレイヤーならこの罠を予期して回避策を立てられるはず」と思えるものが他の人には「逆立ちしてもわかりっこないような悪い設定」と思えることが多いのではないかと。

これはひいては、以前指摘したTRPGの困難に結びつきます。「意見が分かれやすいゲームなのだから本当に誰の目から見ても明らかにそれらしいような設定だけを作ろう。罠などは確実にそうだと予期できるようなものにしよう。」などと考えてシナリオを作ると、本当にわかりやす過ぎてどこにも工夫の余地がないようなものになっていたり、逆に適切な工夫の余地を残そうと思ったら非常にわかりにくいものになってしまったりする、という困難があって、ゲーム性重視のプレイが実現しないことがあるのではないか、と思います。
2002年05月31日:18時35分00秒
【比較ゲーム分析】割合的なシナリオ / myrt
(Re:2002年05月29日:18時29分02秒【比較ゲーム分析】Re:実態主義における乱数要 素の扱い / トモスさん)
>>そうではなくて、乱数を確率の問題として考えることもできます。この場合、実 態にはダイスの具体的な目は、含まれておらず、単に確率分布で表現されるような 不確定な要素が含まれていることになります。<<

 錆の怪物シナリオとカードゲームの山札積み込みの考察から、GMの作ってくる シナリオもこの確率分布的に捉えることができると思います。

 例えばプレイヤーはプレイ前に閲覧を禁じられていたマスター用のルールブッ クに「ランダムダンジョン作成チャート」が載っているとか、同一の マスターが十分な回数のマスタリングを行ない錆の怪物シナリオを使った 割合いが出せるとか。事後の検証でかまわないなら、後者は究極の結果論として 計算できます。

>>プレイヤーが「それは与えられた手がかりをどう解釈するかによっ て全然違って来る。自分が施した解釈の方が筋が通っているようにも 思えるし、その解釈に基づいた行動が勝率の上昇に結びつくような仕組みがあって しかるべきだったのではないか」などと考える可能性もあります。 <<

 ババ抜きも未公開情報を推測することが重要なゲームですが、「その顔つ きだったらジョーカーをここに持っているべきだった」と主張はナンセンスです。 その他のゲームであっても、推測がはずれた厳然たる事実があったのであれ ば、「これじゃ勝てないよ」と言うことはできても「このほうが筋が通っている」 という文句が出ることはありえません。

 だとすればTRPGにおいても、GMの作ってきた設定を推測することにミスした ならば、「そんなの推測できないよ」とは言えても「こっちの解釈のほうが 筋が通ってるよ」とは言えないはずです。

 よってこれはTRPG独特の問題ではなく、「特定の事象をシミュレートした1回 使いきりゲーム」の問題ではないでしょうか。シミュレーションであれば、 どれだけ現実を模しているかについてプレイヤーが文句をつけることが可能です。

 TRPGではプレイヤーの解釈にGMが納得した場合には それが正解につながるように調整できるという点で、むしろ実態主義者にとって はTRPGのほうがゲームの仕組みを持ちやすいのではないでしょうか。 GMとプレイヤーの間に解釈の違いがある場合には、TRPG以外のゲームにおいて プレイヤーとデザイナーに意見の相違があるようなものだと考えられ、 TRPG以外のゲームにおいても問題が発生します(プレイヤーがゲームを学習する か、そのゲームで遊ばないことしかできない)。
 
2002年05月29日:18時29分02秒
【比較ゲーム分析】Re:実態主義における乱数要素の扱い / トモス
myrtさんの26日付けの投稿へのお返事です。

>>戦略的思考により良い手を導くと51%の確率で勝利し、悪い手を導くと49%の確率で勝利するシステムがあるとします。<<

>>今まで、これがゲームであるのかどうかという次元で考えていました。そうではなく実態主義においては、このシステムは「2%(51-49)の確率でゲームの仕組みを持つシステム」とみなすのではないでしょうか。<<

意外な発想ですが、どうやらその通りですね。これとは違う考え方もできるとは思いますが。(後述します)

myrtさんはどこで迷っているのかわかりませんが、上の考え方は、次のような例として考えられます: 2つの扉の向こうに2種類の罠があって、一方は49%の確率で回避できる罠で、もう一方は51%の確率で回避できる罠だとします。どちらの扉を選ぶことが有利であるかについては謎かけか何かの形で手がかりが与えられており、選ぶべき扉がどちらなのかを戦略的思考によって知ることができる、とします。罠を回避して扉の向こうに行くことができたら勝利条件の達成です。また、どちらかの扉を一度だけ開けて挑戦できるものとします。便宜上、判定には100面体ダイスを使うものとし、その値は事前に決っている(ダイスが既に振られている)と想定してみます。すると、1から49までの目のいずれかが出ている場合は、どちらの扉を選らんでも勝利条件の達成になる仕組みがあると言えます。この49通り分は、ゲームになっていません。また、52から100までの目が出ている場合には、プレイヤーがどちらの目扉を選ぼうと罠を回避できない運命になっています。そこでここにも工夫の余地は全くなく、ゲームになっていないと言えます。ダイスの目が50と51である場合だけ、プレイヤーの工夫(正しい扉の選択)が勝利をもたらし、誤った扉の選択が敗北をもたらすような仕組みがある、つまり、工夫の余地のある仕組みにのっとって遊んでいる、と言えます。この2つのケースだけがゲームになっているわけです。
だから、上のような遊びは、確かに、2%の確率でゲームになっており、49%の確率で負けが確定している遊びになっており、49%の確率で勝ちが確定している遊びになっていると言えます。100通りの実態があり、2つだけがゲームの仕組みを備えた実態だ、と。

もうひとつ別の考え方もあります。上の考え方は乱数要素が設定内容と同じように初めから決まっていたと見なす場合(あたかも運命によってダイスの目が初めから決まっていたと考える時のように)の結論です。そうではなくて、乱数を確率の問題として考えることもできます。この場合、実態にはダイスの具体的な目は、含まれておらず、単に確率分布で表現されるような不確定な要素が含まれていることになります。(そこで実態が100通りあるわけではなく、1通りしかない。)この場合には、「このゲームは2%分の工夫の余地があり、後は運試しにしかなっていない」考えることになります。ただ、結果重視の実態主義者の中には、「ダイス運があれじゃあどう工夫してもだめだった。これはゲームとは言えないな」などという類のことを言う人がいるので、このように確率分布として乱数要素を扱うことには、必ずしも全ての実態主義者が賛成するとは言えなさそうですが。

以前、【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性とランダマイザ(LOG096、3月30日)に書いた乱数要素の2つの扱い方(2節と3節に議論があります)にそれぞれ対応しています。



カードゲームの例と錆の怪物をめぐる例については納得です。そこでTRPG一般について考えてみます。

TRPGには、未公開部分の設定を正しく推測することが工夫になっているものが多くあるような気がします。何かの謎を解明しなければならないとか、何かの理由によって誰も生還した者がいない洞窟の中に入って財宝を持ち出すとか。例えばマインスイーパーとか軍人将棋のようなゲームは、未公開の設定部分について推論を重ねて戦略を立てていくゲームなので、TRPGもまた、未公開の設定部分についての推論を重ねるゲームだ、と考えることができるのではないか、というのが出発点となる疑問です。

そこで、これが実態主義的に言って「ゲーム」になるのはどういう場合かと考えると、様々な手がかりが与えられて おり、その手がかりを正しく組み合わせて、誤った手が かりは無視し、ちょっとした推論をすると、「洞窟の中にはどうやら毒の池があって、中に入るとその毒気にやられて生還不能になるらしい」ということがわかるような仕組みだと言えます。

ところが、一方ではTRPGではPCが入手する情報の多くは確実に信頼できるものとは限りません。常に「実はこうなのではないか」「毒の池があると思われるのは実は特殊な呪いのせいなのではないか」「実は池の毒は光の届かない場所では効果がなく、真の危険は洞窟に住む錆の怪物なのではないか」「毒性は強くないのだが実は洞窟の中が滑りやすくなっていて、容易に池の中に落ちてしまって毒を前進から吸収してしまうことになるのが真の危険なのではないか」などなど、どこまで考えても、「これが正しい答えのはずだ」というものには行き当たらないように思えます。 これがTRPGで未公開部分の設定を推測することがゲームになりにくいひとつめの理由です。

また、もしも何かの形で信頼に足る情報を提供することができたとして、プレイヤーがそれを信じれば簡単にとるべき行動がわかってしまうようであれば、そこには工夫はありません。真相を直接語ってしまうと、未公開部分の設定内容を推測することは工夫にはなりえないことになります。ですが、少しでも曖昧さが残っていたり、情報が断片的だったりすると、複数の解釈がありえそうです。ゲームが終わって検証してみたところ、GMが「これだけヒントをやったのだからこの設定に気付いてしかるべきだった」と考えている点について、プレイヤーが「それは与えられた手がかりをどう解釈するかによって全然違って来る。自分が施した解釈の方が筋が通っているようにも思えるし、その解釈に基づいた行動が勝率の上昇に結びつくような仕組みがあってしかるべきだったのではないか」などと考える可能性もあります。

これがTRPGで未公開部分の設定を推測することがゲーム として遊びづらい2つめの理由です。

言い換えると、「答えを直接与えてはいけないが、与えられた情報をきちんと取捨選択、解釈できるようになっていて、その結果が正解に辿り着くようになっていなければならない」というのが未公開部分の推測がゲームになるための条件だと思うのですが、これは達成困難だという気がします。もしかすると別の、もう少しすっきりした定式化があるかも知れませんが。



この困難について考えられる対策というのは、「未公開部分を推測し切れなくても遊べるゲーム性を重視する」というものです。ひとつは戦闘ですね。もうひとつ、次のような例も考えます。

錆の怪物がいる可能性と、毒の池がある可能性とが示唆され、どちらか一方だけが正しいらしい(錆の怪物は毒に耐性がないはずだから両方に遭遇する可能性は低いと考えられる)のだけれども確信が持てない状況にプレイヤーはおかれます。「きちんと考えれば本当はどっちなのかわかるようになっている」ようなゲームにはなっていません。つまり未公開部分の設定を推測することはゲームではないわけです。ですが、ここで「ではその両方に最大限対処できるような装備は何か?」「どうにかして事前調査をする方法はあるか?」などを考えることは工夫になりそうです。

ただ、これは、実態がAである場合とBである場合と両方に備える、という類の戦略なので、実態主義の立場からこれを工夫を捉えられるかどうか、というところが少し微妙ではあると思います。
2002年05月26日:21時06分18秒
【比較ゲーム分析】実体主義におけるゲーム性とギャンブル性の分離 / myrt
(Re:2002年05月25日:13時23分24秒【比較ゲーム分析】乱数要素、未公 開要素と実態主義 再論 / トモスさん)

 いまいち自信がありませんが、ある程度理解できたような気がします。

 戦略的思考により良い手を導くと51%の確率で勝利し、悪い手を導くと49%の確率で 勝利するシステムがあるとします。

 今まで、これがゲームであるのかどうかという次元で考えていました。 そうではなく実態主義においては、このシステムは「2%(51-49)の確率でゲ
ームの仕組みを持つシステム」とみなすのではないでしょうか。

 そしてここではたまたまプレイヤーに与えられる手がかりが実態におけ る勝率で与えられますが、実態主義においてゲームの仕組みを持つために 必要なことはプレイヤーが把握できる勝率の値が正しいことではなく、戦 略的思考によって最も有望であると導ける手が実態において勝利につながる(悪い 戦略的思考によるものはつながらない)ことが重要なのだと思われます。

 極端な話、戦略的思考により「丁半博打において丁にかけたほうが良い」という 結論が得られるヒントが与えられた場合(例えばありもしないイカサマを示唆すると か)、これは50%の確率でゲームであるシステムであると言えるのかもしれません。 ただし単なる思いつきでは駄目で、「そのときの丁にかけるという判断は戦略的思 考において妥当であった」と検証においても言えねばなりませんから、厳密には このような場合はありえないかもしれません。

 実態主義者が、カードゲームのような裏目に出うるシステムを何故プレイするのかを 考えてみます。カードゲームはそれなりに高い確率でゲームの仕組みを持ちうるシステム であること、カードゲームを何度もプレイして通算勝率を競うメタなシステムを考えると これは必ず(??)ゲームの仕組みを持つこと、この2点のためではないでしょうか。

 TRPGのGMとしてシナリオを作成することは、カードゲームの山札を恣意的に積むことに 相当すると考えています。観測主義者は「どうせランダムにシャッフルしたらゲームの仕組み を持たないことがあるんだからどう積んでもいいじゃないか」と考えるが、実態主義者 は「恣意的に積むんだから、ゲームの仕組みを持つように積まねばならない」と考えるのでは ないでしょうか。

 実際には恣意的に積んでしまった時点で、ランダムにシャッフルしたことを想定した確率 計算は通用しなくなります。しかし山札を恣意的に積む人が、「ランダムにシャッフルしたこと を想定した確率計算によって戦略的に良い手を導いたときに決して裏目に出ないように積 む」ことを心がけることは不可能ではなく、そのように積まれたことをプレイヤーが知らされれば それを利用してプレイすることは可能であると考えられます。


 錆の怪物の例はわざと戦略的思考により勝利ができないようになっています。しかし 実際に錆の怪物を出したシナリオを組むことを考えると、ゲーム的な展開を考えてしまいます。 ここから、サブシステムを分析することについて考えます。

 GMは故意に、PCの装備が裏目に出るように錆の怪物をぶつけます。この場合、装備が裏目に 出ることは強制イベントであると解釈できます。錆の怪物のシナリオがゲーム的になるのは、 強制イベント終了後に「金属製の装備を持っていて錆の怪物が出たときにいかに被害を限定 するか」というサブシステムにおけるものではないでしょうか。このサブシステムにおいて、 戦略的思考を怠れば装備が全滅し、うまく立ち回れば無事持ち帰れるような仕組みが あるならば、これは実態主義においてもゲームであると考えられます。

 同様にギャンブル性についても、「ギャンブルの結果によって違ったゲームの 仕組みを持ったサブシステムが現れる」という実態が考えられます。これと「ランダ ムにゲームの仕組みをもったりもたなかったりするシステム」の混合が、 実態主義におけるカードゲームの正体ではないでしょうか。
2002年05月25日:13時23分24秒
【比較ゲーム分析】乱数要素、未公開要素と実態主義 再論 / トモス
1)経緯 myrtさんの24日の投稿の以下の部分についての議論をします。


(トモス)>>実態主義とは、「実態に照らして無効な手は工夫と見なさない」ような立場ではなくて、「実態に照らして無効な手と有効な手とが戦略的思考の結果として共に導き出せるような状況があれば、そこには工夫の余地がないから有効な手も無効な手も工夫とは見なさない」ような立場だと言えます<<


(myrtさん)>>山札を用いるカードゲームにおいて、山札の実態(記録しておいたり、後にめくって調べる)に照らして無効な手と有効な手がまざっているならば、工夫とはみなさない、ということでしょうか。錆の怪物の例であれば、錆の怪物が出てくる可能性がアナウンスされるどころか否定できない時点で、錆の怪物相手に不利になる装備を選ぶことは工夫ではなくなってしまいます(そしてその装備は他の怪物に対して不利になるだろう)。<<

いくつか回答がある感じがしたのですが、暫く考えている間にひとつしか思い当たらなくなってしまったのでそのひとつを書きます。実態主義を維持する立場からの回答です。

2)基本的な立場:山札を用いたゲームの場合

「工夫」とは実態主義にとっては、プレイの実態とプレイヤーの目的に照らして有効な手を、実態に照らして正しい知識と正しい推論過程に基づいて導き出すことだ、という主張を変えない方向で議論をしてみます。

実態についての直接の知識がない場合に、実態についての確率的な知識や場合分け的な知識を活用した場合でも、それが実際に山札の実態に照らして有効であれば、またその場合にのみ、一部工夫(残りは運試し)と見なしてよいとします。

確率論的に最も有利と思われる手が、実態に照らして無効な手になっていたら、そもそもその局面では工夫によって目的達成の確率を上昇させられる余地がなかったのだからその手も工夫ではなかった、ということになります。

あるいはもっと簡略化して言ってしまえば、「正解がわかるようになっていない場合にはそもそもそこに工夫の余地もないしゲーム性もない」ということになります。

そこで、「このゲームの実態と、実態について各局面で与えられていた情報(や実際には遭遇しなかった局面で与えられることになっていた情報)などを考え合わせると、工夫によって勝率を上昇させられる余地がどの程度あったか」をゲームの後に検証することで確かめられる(場合がある)ということになります。

山札を用いた勝負のケースは、一見、確率計算によって勝率を上げられる可能性があるように思えます。その可能性を活用して実際に確率計算に基づいてより有利な手を打つ場合には、工夫になる場合があります。ですが、これは、確率論的には有利であっても山札の実態に照らして実は不利な手になっている可能性があります。プレイが終わった後に、「結局この勝負では与えられた情報を元に確率論的に有利な手を選んでも勝てないようになっていた。つまり工夫の余地のないような実態になっていた。だからゲームではなかった。」ということが明らかになります。

もしもゲームになっているとしたら、それは、実態主義が言うところの「工夫の余地」があるからです。そして、その工夫の余地とは、与えられた情報を元に適切な戦略的思考をして辿り着く手が、実態に照らして、そうでない手よりも、有利になっているような仕組みがある、ということです。

今回も結果重視と結びついた実態主義なので当然と言えば当然ですが、「山札のカードがそんな風に配列されていたんじゃ工夫によって勝てる余地がないじゃないか! そんなのはゲームじゃない!」という不満がプレイ後に出る可能性があります。しっかりとしたお膳立て(ゲームの仕組み=工夫の余地)があってくれないと楽しめない、という立場ですので。

3)他の例への適用

もうひとつ、この立場から以前myrtさんが出された「学生の性別を当てる遊び」については、こういう風に言えます。

学生名簿を見て、9割が男性だったことから「男性」と回答したプレイヤーが実際に正解になるなら、その遊びには工夫の余地があったことになり、ひいてはそのプレイヤーは工夫をしたことになる。

ところが正解が女性であった場合には、こんな風に言います。「これは入手可能な全情報を総動員しても結局は外れるようになっている。工夫の余地のない実態なのでゲームになっていない。」

では錆の怪物の例はどうでしょうか。錆の怪物の出現する可能性がわかっていて、何らかの怪物に必ず遭遇することもわかっていて、選択可能な手が次の2種類しかないとします。

1)「錆の怪物に対処できるが、他の全ての怪物に対して不利で全滅を避けられない手」
2)「錆の怪物に対処できず全滅を避けられないが、他の全ての怪物に対して有利な手」

ここで、錆の怪物が出現する確率について何の手がかりも与えられていない場合、ここには運試しの余地しかありません。プレイの内のその部分の意思決定はゲームになっていない、ということになります。
もしも錆の怪物だけが出現する確率が他の怪物だけに遭遇する確率よりも低いとわかっていたら、2を選ぶのが戦略的に妥当な帰結だということになります。そして、もしもその手を選んだことでパーティーが全滅に追い込まれるようになっていたとしたら、そのような実態はゲームではないということになります。

手が2つに限られておらず、例えば錆の怪物に対処すべくどの程度の予算を費やすとどの程度生存確率が上昇し、その分どの程度他の敵に遭遇した場合の生存確率が減少するか、また、どの程度の確率で錆の怪物と遭遇するか、他の怪物と遭遇するか、ということがわかっていた場合には、当然ながら、最適な予算配分を探し出すことができます。(2つ以上の最適点があるかも知れませんが。)そして、最適な予算配分をしたら全滅を避けられないようになっていたとしたら、やはりここでも工夫の余地がなかった、ということになります。

4)定式化

一般化してみます。

与えられた情報が部分的であったり確率に関するものである場合には、プレイヤーはその情報を可能な限り合理的な形で活用して意思決定に臨む。(何が合理的な判断かについては、当然ながら、人によって判断が分かれる場合がある。)

そのような意思決定をしても、それによってプレイヤーの目的達成の確率が上昇するような仕組みになっていない場合、そのプレイの実態は、ゲームになっていない、とする。そこには工夫の余地がなく、従って工夫も起こらなかった、ということになる。

5)補足

このように定義されたところの実態主義は、観測主義と似ていると思います。何を工夫と呼ぶかについての違いはあると思うのですが、何がゲームであり、何がゲームでないかについてはほぼ意見を同じくすると感じます。

実態と観測の関係についてはいろいろ迷いがあったのですが、上の立場によると、実態主義には、「実態の推測に役に立つような情報がプレイヤーに与えられる必要がある」という「観測内容についての要請」が含まれることになります。あるいは「実態についての情報をどのような局面でどのように与えるかについての仕組み」が実態の一部分として考慮されるべきだ、ということになります。的確なタイミングで、きちんとした手がかりを与えるのでない限りは「正解が推測できるようになっている」ということは保証できませんので。
これは従来も「プレイヤーにとって単純過ぎたり複雑過ぎてはゲームとして成立しない」といった形で含まれていた考え方と似ていますが、その従来の考え方では、実態について正しく情報を与えられた場合にプレイヤーがそれをどの程度簡単/複雑だと感じるか、ということについてのみ問題にしていた感があるのに対して、今回の「観測内容についての要請」はそもそもどのようにどのような手がかりが与えられなければならないかについて、実態主義は一定の要請をするものになっている、というものです。端的に言えば、「役に立つような手がかりが、その手がかりを役立てられるような仕方で、与えられなければならない」(あるいは、そうした手がかりを獲得する方法についての十分な手がかりが与えられるか、その手がかりについての手がかりが与えられるか、…以下略)という要請です。(余り端的ではないですが。。)
手がかりを与えるタイミングが遅すぎる、手がかりとそうでない情報が区別できないような形で与えられているためにプレイヤーが活用不可能である、といった仕組みになっていたら、それはゲームになっていないわけです。

ある山札の実態について「場札と手札と他のプレイヤーの手札を除いた残りがランダムに配列されている」という情報を与えておくこともでき、その代わりに「この山札で偶数と奇数が隣り合わせになっている箇所は全部で20あり、同じスートの札が2枚続いている箇所は全部で10ある」という情報を与えておくこともできるとします。前者の情報を与えるとプレイヤーは2枚手札を切るよりも3枚切る方が確率論的に有利だ、という結論に達し、後者の情報を与えると逆に2枚切るだけに留める方が有利だという結論に達するとします。ここで、この山札の実態に照らして、手札を2枚切る方が有利な形で山札のカードが配列されているのであれば、与えるべき情報は、ゲーム重視のプレイであれば、後者だということになります。

実際にトランプを用いた遊びではそんなことができるようにはなっていないわけですが、それは、実態主義の立場からは、トランプの遊びの中にはゲームも、そうでないものも、乱数要素によってゲームになったりならなかったりするものも含まれている、ということになります。たとえプレイヤーの手によって結果が左右されるようになっていたとしても、戦略的思考によって勝率を上げられるような実態になっていないのなら、あるいはそのような情報が与えられる仕組みになっていないのなら、それはゲームではない、と。
2002年05月24日:15時34分16秒
【比較ゲーム分析】戦略的思考と工夫 / myrt
(Re:2002年05月22日:19時33分27秒【比較ゲーム分析】観測主義と実 態主義 再論 / トモスさん)
>>ここでmyrtさんが「怪しんでいた」というのは言い換えるとこういう ことでしょうか。<<

 ほぼそうですが、結論が少々異なります。

>>「だからゲームの楽しみは工夫による成功ではなくて、工夫自体でなければならな いだろう」<<

 すると歴史のifを考えることがゲームの条件を満たしてしまうので、ゲーム は(観測主義における)工夫にだけ依存するものではないのではと考えていま す。「ゲームは工夫だけで定義できるんでは」という前言に反するんですが... だから観測主義における工夫を他の名称で呼んだほうがいいのではないかと 思っていますが、今ひとついい単語が思いつきません。ここでは 実態主義における表現に習い、戦略的思考と表現してみます。

>>プレイヤーにとっては正解も失策も同じように戦略的思考を必要とする手で あったわけですし、実際どちらも楽しんでいるわけですから。 <<

 歴史のifを考えることに対する考察から、戦略的思考とは別に結 果に対して一喜一憂する こともゲームの一要素なんじゃないでしょうか。そのそも完璧な戦略的思考が できなくてもそれなりに楽しめるならば、その原因と結果のリンク性にも あまりこだわる必要もないかもしれません(完全になくなると困るが)。

>>実態主義とは、「実態に照らして無効な手は工夫と見なさない」ような 立場ではなくて、「実態に照らして無効な手と有効な手とが戦略的思考の 結果として共に導き出せるような状況があれば、そこには工夫の余地がな いから有効な手も無効な手も工夫とは見なさない」ような立場だと言えます<<

 山札を用いるカードゲームにおいて、山札の実態(記録しておいたり、 後にめくって調べる)に照らして無効な手と有効な手がまざっているなら ば、工夫とはみなさない、ということでしょうか。錆の怪物の例であれば、 錆の怪物が出てくる可能性がアナウンスされるどころか否定できない時点で、 錆の怪物相手に不利になる装備を選ぶことは工夫ではなくなってしまいま す(そしてその装備は他の怪物に対して不利になるだろう)。

 そうすると完全情報ゲームでないほとんどのゲーム に工夫の余地がなくなってしまいそうなのですが...山札の実態が何であれ 確率がわかっていて、それに基づいて考えるなら観測主義ですし。
2002年05月22日:19時33分27秒
【比較ゲーム分析】観測主義と実態主義 再論 / トモス
#前回の投稿は長文の上に論点を詰め込み過ぎた気がして やや反省しています。今度はペースを落として、丁寧に議論を進めることを試みてみます。

#また、myrtさんは実態主義、観測主義などを、ゲームを分析する際の視点と捉えている(またそのような文脈に限定しようとする)ような面があるような気もするのですが、今回も、両者を「何がゲームであるか」「何が工夫であるか」など、ゲームについての一般的な信念や直観と結びついた立場だと扱って議論しています。

1)観測主義と工夫重視
>>問題は、錆の怪物シナリオの例で示した「工夫の余地があるし、結果はプレイヤーの戦略によって左右されるが、実態に関する情報が不十分であるため、工夫すると実態における勝率が減ってしまう場合」です。このことに捕らわれて結果重視性とゲーム性の関係を怪しんでいたのですが、実態の概念を拡張(再構成??)することにより解決できるかもしれません。<<

ここでmyrtさんが「怪しんでいた」というのは言い換えるとこういうことでしょうか。

「ある状況で何が工夫にあたるか、何が工夫にあたらないかは、プレイヤーに与えられた情報だけから決まるはずだ(観測主義)。そこで、与えられた情報を活用して何かの手を選んだとしたら、それは成功に結びつこうと、失敗に結びつこうと、工夫であると言うべきなのではないか。それ故に、目的達成に向けた工夫を楽しむこと(=ゲームをプレイすること)は、そもそも成功に結びつくことを期待せずに行われる遊びなのではないか? (工夫重視の立場)」

観測主義の立場に立つと、僕なら、上のように考えることの説得力を感じます。また、直観的にも、「実際に成功に結びつこうと結びつくまいと、創意をこらした手であればその手を考える過程は工夫だと言っていいはずだ」と感じます。

あるいは、別の視点から同じことを言えば、ある局面でプレイヤーに与えられている情報が全く同じであっても、プレイヤーが次に打つ手に対する処理の仕方が異なっているような2つの異なる実態(あるいは3つ以上の実態)を常に想定することができる。ここで、与えられた情報を元に創意に満ちた手を幾つも考え付けるが、実態に即して有効な、いわば「正解」だけを工夫と呼び、それ以外の手を工夫と呼ばないのはおかしい。

僕がここ2週間程の間に感じるようになった観測主義の説得力は、こうしたものです。そして、観測主義の立場をとると、一見、「工夫によって勝利がもたらされることは必ずしも期待できない」「だからゲームの楽しみは工夫による成功ではなくて、工夫自体でなければならないだろう」という工夫重視の立場にもなるだろうとも思えます。

2)実態主義と結果重視

上のような観測主義の立場から考えると、実態主義は、「実態に照らして有効な手だけを工夫と見なし、そうでない手を単なる失策と考えるような立場」であるという対比が成立つように思えます。そして、そのような実態主義にはかなり説得力が欠ける立場のような感じもします。プレイヤーにとっては正解も失策も同じように戦略的思考を必要とする手であったわけですし、実際どちらも楽しんでいるわけですから。

ですが、実態主義については別の視点からの弁護がある程度は可能だと思います。実態主義は、上のような状況について、こんな風に言うと思います:「そこではあれこれ考えても正解がわかるようになっていないのだから、そこには工夫の余地がなかったと言える。正解である「錆の怪物対策」に思い至るには運試しが必要な状況だ。工夫の余地がないそのような状況では、そもそも工夫ができるわけもない。」

ここで、実態主義者が観測主義者と違うのは、「工夫の余地」の定義です。

観測主義者は、与えられた情報を活用して戦略的思考をすることがそのまま工夫だとするため、与えられた情報から「より有効だと思われる手」を導き出せる可能性があれば、たとえその手が少しも有効でないとしても、それを導き出すことが工夫にあたると主張すると思います。錆の怪物のことを考えずに、とにかくあれこれの装備を整えることは、この観点からは、工夫と呼べるわけですし、その際に活用することになった情報群について、工夫の余地があった、と言えます。

(但し、「洞窟に行くと暗闇で辺りが見えないから、始めから目隠しをして洞窟まで行くことにするという手が有効なのではないか」などと、本人にとっては何かの理由で有効に思えるけれども、一般的な基準に照らして無効と思われる手、についてはそれを工夫と認めない、とします。つまり、実態は参照しないわけですが、常識は参照するわけです。)

それに対して実態主義者は、「ある、実態に照らして有効な手(例えば錆の怪物に対する準備をすること)が戦略的思考によって導き出せるようになっているか、なっていないか」という問いかけから始めて、戦略的思考によって導き出せる可能性があれば、それを「工夫の余地」と呼びます。

つまり、錆の怪物について思い至ることが運試しに近いような上のケースでは、実態主義者に言わせれば、そもそもそこには工夫の余地などほとんどなかったのだ、ということになります。運試しを強いられるような状況で戦略的思考を試みても、工夫にはならない、と。

3) まとめ

もう一度この対比をまとめてみると、観測主義者は、与えられた情報を元に戦略的思考を行った場合にはそれを工夫と考えます。観測主義者から見ると、実態主義者は、実態に即して有効な手だけを工夫と見なす妙な立場だと見えるような部分がありますが、それはどちらかと言えば理解不足によるものです。実態主義者は、実態に即して有効な手が、運試しによってではなく戦略的思考によって導出できる時に、その導出を工夫と考えます。そこで、観測主義者が工夫の結果導き出したと考える手の内、実態に即して無効な手は全て、有効な手も一部、工夫ではない、と実態主義者は考えると思います。

実態主義とは、「実態に照らして無効な手は工夫と見なさない」ような立場ではなくて、「実態に照らして無効な手と有効な手とが戦略的思考の結果として共に導き出せるような状況があれば、そこには工夫の余地がないから有効な手も無効な手も工夫とは見なさない」ような立場だと言えます。

この立場の違いを、別の言い方に置き換えてみると、観測主義は、観測内容(与えられた情報)に工夫の余地があったりなかったりすると考えるのに対して、実態主義は、実態に工夫の余地があったりなかったりする、ということになります。

4)補足

4点ほど補足します。

以上の議論では、「実態主義」が「結果重視」とかなり分かちがたく結びついているようにも思えます。
ですが、実態主義者が工夫重視のプレイをすることも考えることはできます。
実態主義者が工夫と見なす手は、実態に照らして有効な、実際に勝率を上げる手です。ですが、ある種のゲームはいくら工夫を重ねたところで勝率が非常に低いままに留まります。このようなゲームは結果重視のプレイヤーにとっては楽しみの少ないゲームなのですが、工夫重視のプレイヤーは勝敗にはこだわらずに工夫だけを楽しむことができるので問題を感じないと思います。

2つめの補足は、実態主義と情報不足についてです。
実態主義は、「正解を推測できるようになっているのが工夫の余地」と考えます。これは将棋のようにルールや局面についての情報が極めて信頼できる形で与えられているゲームにあてはめやすい考え方です。「金だとばかり思っていた駒が実は角だった」などということはプレイヤーの勘違いでもない限り起こりません。
TRPGでは、舞台になる架空世界については、どの情報が信頼できる情報で、どの情報がそうでないのか、がわからないような場合がほとんどです。そこで、「有効な戦略も無効な戦略も、常に与えられた情報から推測可能な状況に立たされている」と言えます。これは、実態主義の立場から言えば、プレイヤーが常に運試しを強いられているようなものです。
このような状況について、実態主義をどう適用するかは、少々考えどころだろうと思います。前回の僕の投稿でも一応いろいろ試みてはみたものの、十分だったかどうか自信はありません。

3つめの補足は、結果重視と観測主義を組み合わせる場合です。結果重視は、「工夫によって勝率が上昇するようになっていないと楽しめない」という立場です。そこで、観測主義を結果重視と組み合わせる場合には、「手持ちの情報から工夫によって思いつく手を実行に移すと、それが実際に勝利に結びつくようになっていなければならない」という考え方になるのではないかと思います。これも前回の投稿で示した点です。今回の投稿で扱った観測主義は前回のものと大分違っていますが、それは結果重視と工夫重視の違いから来るもので、両方共観測主義であることには変りが無い、と言えると思います。

4つめの補足は、工夫の定義についてです。議論の便宜上、「有効と考えられる手を導き出すこと」「有効な手をを導き出すこと」などを工夫としました。ですが、工夫にはもうひとつ系統のものがあると思います。

「(何も新しい手を考案せずとも、)複数の手の内どれがどの程度有利であるかについて、手元の情報を活用して、少しでも確からしい判断が導き出せる時に、それを導き出すこと」(観測主義の場合)

「(何も新しい手を考案せずとも、)複数の手の内どれがどの程度有利であるかについて、手元の情報を活用して、少しでも正確な判断が導き出せる時に、それを導き出すこと」(実態主義の場合)

この系統の工夫は、言い換えれば、「他の理由で既にある手を打つことに決めていたのだけれども、その同じ手を打つ理由をもうひとつ見つける」というようなことに相当します。
2002年05月21日:03時23分06秒
TRPG総合研究室 LOG 100 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 100として2002年05月07日から2002年05月20日までのログを切り出しました。

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