TRPG総合研究室 LOG 100

TRPG総合研究室の2002年04月23日から2002年05月07日までのログです。


2002年05月20日:17時08分42秒
【乱数要素のゲーム分析】結果重視こそがゲーム性の定義の要? / myrt
(Re:2002年05月18日:20時36分51秒【比較ゲーム分析】観測主義と実態主 義 / トモスさん)

>>最後になりますが、以上のように考えると、結果重視で、上に挙げた 観測主義の立場をとるなら、事後検証には意味があるということになると思います。<<

 微妙にすれ違いが発生している気がしますので、私の考えている用語の意味を まとめています。

実態主義: ゲームのルールやシナリオなど、ゲームの仕組みが実際にどう動いている かに着目する。ゲームの仕組みが同じであれば、どう観測されるかは考慮しないか、 もしくは一意に観測のされ方が決定される。必ずしも可能とは限らないが、検証に よって明らかになる。

観測主義: プレイヤーにとってゲームの仕組みがどう観測されるかに着目する。 同様に観測されるなら実態がどんなものであろうともそれは同じものであるし、 観測結果が違えば違うものであるとみなす。

工夫重視: 工夫をすること自体が楽しみであり、それが勝敗を大きく左右 するかについては問題にしない。

左右重視: プレイヤーが勝ちを狙って選んだ戦略によって勝敗が決定的に 左右されることが楽しみであり、工夫の余地があるかどうかはあまり問題にしない。

結果重視: 工夫を試み、その工夫の有無が勝率などを決定的に左右することが 楽しみである。工夫が試みるために工夫の余地が必要であるし、プレイヤーの 選ぶ戦略によって勝率などが決定的に左右される仕組みがなければならない。

 これらの意味において、左右重視もしくは結果重視の立場では検 証が必要だと思います。観測主義の立場では「プレイヤーの選んだ戦略によっ て勝敗が決定的に左右される仕組みになっていた」ことを事後に観測する必要が あり、これが検証にあたると思います。
#プレイ中に検証するとネタバレになるため事後に行なう必要がある。

 さて、実態主義と観測主義は考察の立場の問題です。ゲームもそうでないもの も実態を検証したり、観測してみたりすることが可能です。

 究極の工夫重視とは「過去の歴史についてifを考える」ことだと思います。 その時点でどんな情報が得られたか、どんな判断ができたかが考えられま す(そしてそれは楽しいです)が、その結果どうなるかはすべて(シミュレーシ ョンを含めて)考察の域を出ません。このことから、工夫重視の立場で楽し めるだけではゲームとは言えないと思います。左右重視の立場では ギャンブルが楽しめますから、これもゲームを定義するには不十分です。

 以上のことから、結果重視こそがゲーム性の定義の要であると言う 意見に説得力を感じるようになりました。少なくとも結果重視性を満 たせば、それはゲームであると言っていいと思います。「これはゲーム じゃなかった」と文句をつけられたときに、結果重視性を検証により 示すことは強い反論になるでしょう。

 問題は、錆の怪物シナリオの例で示した「工夫の余地があるし、結 果はプレイヤーの戦略によって左右されるが、実態に関する情報が不十分で あるため、工夫すると実態における勝率が減ってしまう場合」です。このこ とに捕らわれて結果重視性とゲーム性の関係を怪しんでいたのですが、実態 の概念を拡張(再構成??)することにより解決できるかもしれません。
2002年05月18日:20時36分51秒
【比較ゲーム分析】観測主義と実態主義 / トモス
(5月14日付のmyrtさんの投稿を読んでのお返事です。)

前回の投稿では、myrtさんと僕との意見の違い(事後検証の役割について、工夫の定義についての意見の違いです)を整理するのに「実態主義、観測主義、体験主義」という枠組みに即して整理しようとしたわけですが、myrtさんの投稿から「工夫重視、左右重視、結果重視」というもうひとつ別の枠組みに即して整理した方がいいような違いがある気もして来ました。
そもそもこの2種類の概念セットの間の関係についてもどうもすっきりしない部分があり、個々の概念についても当初のままの定義では足りないようにも感じていたので、いろいろ試行錯誤を重ねた挙げ句、実態主義と観測主義の違いを整理することになりました。ここにそれを投稿します。最後に記す通り、考察は「結果重視のゲームプレイヤー」の立場、つまり自分の工夫が結果を左右することを重視するプレイヤーの立場からの考察になっています。工夫重視でもほぼ同じような議論ができると思いますが。

1)問題

議論は「”ゲーム性重視のプレイ”で重視されるところの”ゲーム性”は何か?」という問いをめぐるものです。或いは、TRPGは他のゲームと違った点もあるので、どんなプレイをすると、どのような意味でゲームと呼べるのか、を考えたいとも言えます。或いは、そもそもTRPGはゲームとしてプレイできるのか、という問いでもあります。


「ゲーム性重視のプレイ」というのは、TRPGを厳密なゲームとしてプレイすることではない、という意見は既にPurpleさん、myrtさんから出されている*1ので、問題はむしろどのような妥協をすることになるか、厳密なゲームとどこが違うのか、といった点を整理することだと考えることもできます。

(*1 Purpleさん、【制御層とゲーム分析】なぜ、ゲーム性を重視するのか?と言う観点から、3月1日、LOG 092
myrtさん、【比較ゲーム分析】ごまかしでないと思いこめる能力の暴走、3月3日、LOG 092


ゲームは目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊び、と定義します。

目的は「対戦相手に対する勝敗」「目的達成に成功/失敗すること」「ある尺度上での値(達成度)」などいくつかの形があることがわかっていますが、まとめて目的と呼んでいます。また、基本的にはある目的達成(「敵を倒して姫君を救出すること」のような)の成功・失敗を例にとって考えています。成功を勝利条件の達成とも呼んでいます。

工夫については、それがプレイヤー明白な手や運試しとなどは区別されるという点では一致を見ています。

2)実態主義/観測主義/体験主義

まず、実態主義/観測主義/体験主義という概念セットについて。これらはいずれも「ゲーム性をどこに見いだすか」「あるプレイがゲームのプレイであるか、それともゲーム性のない遊びであるかを、どのように判断するか」についての立場です。ゲーム性についての存在論的な立場、とも言えます。

実態主義はゲーム性はプレイの実態に「工夫が勝敗を左右する仕組み」があることだと考えます。つまりプレイの実態にゲーム性があったりなかったりします。「プレイの実態」は、GMのアドリブ、他のプレイヤーの手、設定や乱数要素など、プレイヤーの手がどのような勝敗をもたらすことになるかを左右するような要素の総体です。

体験主義は、これとは対照的に、プレイヤーの実感にゲーム性があったりなかったりすると考えます。プレイヤーが工夫によって勝敗を左右したと考えたならばそれはゲームであり、考えなかったならばゲームではなかった、ということになります。

両者の違いは、「実態としてはゲームになっていると言える遊びがプレイヤーに誤解されゲームではないものと考えられた場合についてどう判断するか」「実態としてはゲームになっていないと言える遊びが、プレイヤーに誤解されゲームとして考えられた場合についてどう判断するか」という2つの事態に端的に現れます。実態主義者は実態を根拠にある遊びがゲームであるか否かを決め、体験主義者はプレイヤーの実感に基づいて(それが誤解であろうとも)ある遊びがゲームであるかどうかを決めるわけです。

観測主義は、明確な定式化なしでやって来ましたが、上記2つの立場との違いから考えれば次のように考えるといいと思います:
プレイの実態ではなく、プレイヤーの実感でもなく、「プレイヤーが観測し、感じとるべき、実態の諸可能性」に「工夫によって勝敗が左右されるような仕組み」があることがゲーム性である。

「実態の諸可能性」というのは実態主義が問題にするところの「プレイの実態」と似ています。但し、観測主義は、「プレイヤーはプレイ中の任意の時点で、実態を完全に把握しているわけではなくて、実態がAである可能性、Bである可能性、Cである可能性...」などと様々な可能性などの中から絞り込めない立場にいる、という点に注目します。当然ながら、それらの可能性全てを考慮した手を打つことが最良であると考えます。言い替えると、「実態」ではなく「実態がどうであるかについての諸可能性」に「工夫によって勝敗が左右されるようになっている仕組み」があることがゲームだ、ということになります。

そうすると、ゲーム性があるのは、「実態」(に備わった仕組み)ではなくて、ゲームについて得られた情報からプレイヤーが思い浮かべるであろう実態の諸可能性(に備わった仕組み)だと考えられます。あるゲームでは、プレイヤーはどのような工夫をしたらよいか見当のつかない形でしか情報が与えられず、工夫をこらした手がよい結果に結びつくと期待することができないかも知れません。例えばコンピュータを用いたスロットマシンで、結果が完全にランダムであるという情報が与えられたとすると、これは何の工夫も可能にしない情報だ、と言えそうです。そうだとしたら、その遊びはゲーム性がない遊びだ、ということになります。

また、上の定義、観測される情報からプレイヤーが「感じとった」仕組みではなくて「感じとるべき」仕組みとしてあることについても少し説明が必要だろうと思います。「感じとるべき」仕組みである、ということは、プレイヤーが与えられた情報を十分活用しなかったり、あるいは誤って活用した場合には、「本当はゲーム性があるプレイの一場面で、ゲーム性がないと思ってしまった」り「本当はゲーム性がないのに、ゲーム性があると思ってしまった」りする可能性があるということです。ここで、「プレイヤーが思い浮かべるべき諸可能性」と「プレイヤーが実際に思い浮かべた諸可能性」の内、前者を重視するわけです。

この定義の仕方はやや恣意的な設定で、どちらの立場を考えることもできる(そうすると観測主義には実態主義よりのものと体験主義よりのものと2種類があるということになる)と思います。ですが、今の議論の文脈では明らかに観測主義と実態主義との違いが重要なので、このような形にしてあります。

3)実態主義の再検討

実態主義の着想は、「ゲームをプレイする時には、プレイされるゲームに相当するものがあると考えることができるはずだ。プレイされているものがゲームであるのかそうでないのかによって、プレイがゲームのプレイである(=ゲーム性がある)かどうかも左右されると考えられるだろう」という直観にあります。プレイされるゲームがゲーム作品として特定のデザイナーによって制作されたものであれ、あるいは民間伝承のように起源もはっきりしないままに様々なバージョンが流布している場合であれ、何か既存の仕組みを流用して遊ぶ場合であれ。

問題は、これを考えた際には「プレイヤーは実態をどうやって知るのか?」という点について十分な配慮がなされていなかった(しかも配慮がされていないことを僕が自覚していなかった)点にあります。

言い換えれば、「実態=手が勝敗を左右する仕組みやその仕組みを交際構成する諸要素」と「実態をプレイヤーに伝える仕組み(=プレイヤーのどのような行動がどのような情報提供に結びつくかを決める仕組み)」という2つの要素に分けて考えてみると、実態主義の関心は前者に集中しており、TRPGに適用しにくいものになっていると、観測主義について考えた今となっては感じます。

実態主義が「実態をプレイヤーに伝える仕組み」について持っている考え方をあえて言えば、「ゲームの実態はプレイヤーにきちんと、正しく伝えられる。ゲームはそのようにデザインされているべきだ。」という前提があり、「そのように正しく伝えられた実態に即して、プレイヤーが工夫を楽しむのがゲームだ」ということになります。
実態が正しく伝えられていない場合には、プレイヤーは的が外れた工夫を行うことになり、それは「プレイされるべきそのゲーム」がプレイされていない、そこでそこではゲームが成り立っていない、とするのが実態主義らしい立場だろうと思います。

こうした考え方は、フリーセル、マインスイーパー、ポーカーなどのゲームにはよくあてはまります。これらのゲームでは事前に伝えられているルールだけ(フリーセル)か、それにプレイ終了時点までわからない初期設定が加わったもので、この初期設定が乱数によって生成されたものであることから確率によってその内容を推測することがある程度までは可能です。しかも対戦相手がいる場合(ポーカー)でも、相手が自分に与える影響は少なく、スポーツで言うとテニスよりも徒競争に近い形になっています。
このような立場は、TRPGにはこのままの形であてはめることは困難だろうと思います。

但し、補足的に行った考察で、実態がきちんと伝わっていない場合については、「きちんと伝わっていない」ということがプレイヤーに十分認識されていれば、ゲームとして成立し得る、と考えました。この場合重要なのは、「実態が伝わっていないことがきちんと伝わっていること」であり、「実態についての誤解を植え付けてとりかえしのつかない選択をさせることがない」、「実態について知っておいてしかるべきことを全て知っていても工夫のしようがないような意志決定を迫り、その結果がとりかえしのつかないものになるようにはなっていない」という必要があります。
これらの補足的条件は、「工夫が勝敗を左右する仕組みになっている」という上の基本的な性質が維持されるために必要になります。

工夫をすれば勝てる確率が高くなるようになっているし、また、そのような工夫に必要な情報は、必要な意志決定の時点までに入手可能な仕組みになっている。逆に、工夫を怠ったり、情報収拾の工夫を怠ったりした場合には、勝てる確率が低くなるようになっている。

この補足的な議論を含めて考えた場合、実態主義の立場は、「プレイの実態に備わっている仕組み」と「実態をプレイヤーに伝える仕組み」との両方に考慮しつつ、一貫した立場から「ゲーム性」について論じることのできるものだと言えそうにも見えるので混乱していたのですが、よく考えてみるとそうでもないようです。

4)観測主義との対照

以上のように考えて来ると実態主義が観測主義と大きく違っている点は、実態主義が「他ならぬそのゲームがプレイされていること」にこだわるという点にあると言えそうです。実態が正しく伝えられ、その実態に即した工夫がされることがゲームのプレイになる、というイメージがあり、そのイメージに納まり切らない部分「実態が何であるか絞り込めないままに戦略的思考を行う場合があること」をうまく扱えていません。TRPGではこのような場合が多く発生するので実態主義を適用しづらいとも言えます。

観測主義の立場からは「わからなければわからないなりに工夫すればいいはず」と言えるのですが、実態主義の場合、むしろ、「わからない部分については工夫を要求しない。あるいはそこで要求できるものを工夫と呼ばない」という暗黙の前提があります。

これはどちらかと言えば考察の不足から来た不備、と言えます。工夫とは、あくまでもそのゲームの実態に即した工夫であると考えていて、それ以外の部分にある(と観測主義の立場からは考えられる)工夫ついては実態主義は考察し損ねた形になっていると言えると思います。TRPGでは、シナリオの真相が最後までわからない(最後の最後になってわかったり、あるいは全貌がわからないままに終わったりする)ことは日常茶飯事だろうと思います。

これに対して、観測主義は、プレイ中にプレイヤーが実態について正確に知らされていないのは例外的な事態というよりも日常的な事態に属するという前提に立っています。そこで、実態がどうであるかの諸可能性をうまく考慮しつつ、全ての場合について考えられる損益を見積もって最も有利な手を選ぶことが最良の工夫であり、そのような意味での工夫が勝敗を左右するようになっていればよい、ということになります。

例を挙げてみます。ある洞窟にモンスターがいる際に、そのモンスターの正体を推測する十分な手がかりが提供されているか、少なくとも手がかりを獲得する十分な機会がプレイヤーに提供されているとしたら、モンスターの正体を推測することが工夫の対象であり得る、それが勝敗を左右するような仕組みにすることでプレイにはゲーム性があることになる、と実態主義者は考えます。もしも情報が十分でなければ、情報の取捨選択や、それに基づいた推論や、それに基づいた手の決定などについて運試しをさせることになる、と。

運試しをさせるとしても、その運試しが勝敗を決定的に左右することがないような仕組みになっている(別の部分の意志決定がもっと工夫の余地があるものになっている)ならば依然として「ゲーム性」は保てるわけですが、どこかでそうしたきちんとした意志決定の機会が与えられていなければならない、と考えているのが実態主義者です。

観測主義者は、これに対して、必要な手がかりだけが全て与えられている上にそれら必要な手がかりがそうでない手がかりから区別できるようになっているという状況はTRPGでは稀だと考えます。付近の村人や洞窟から生還した人の証言にも嘘や誇張や勘違いが含まれている可能性があり、あるいは洞窟の怪物が別の怪物にとって代わられたために証言が現状を知る手がかりにならない可能性などもあります。気象条件や周囲の生態系などから推測しても、様々な可能性が残されることになります。TRPGではこのように実態が不明確なままにプレイが進行し、実態に即した工夫というのがそもそも例外的な事態であり、工夫と運試しは常にセットになって生じることになります。このようなプレイにゲーム性があるとしたら、それは、手がかりを総合して、実態の諸可能性に即した工夫をすることが勝敗を左右するような仕組みになっていることにあります。

言い換えると、観測主義者は洞窟の怪物の正体を正しく知るのに十分な手がかりが得られる仕組みになっている必要はないのですが、入手すべき情報を入手してそれをきちんと活用すればそれが目的達成(勝利)の確率を上昇させるような仕組みになっている、またそのように情報が入手できるような仕組みになっている必要がある、と考えます。

現実世界では、手に入る情報を活用しても目的が達成できないようになっていたり、情報が誤った認識を生み出すことから、工夫をするよりもでたらめに行動する方が良い結果につながるような仕組みになっていたりすることもあります。このような事態はゲームとしては望ましくない、と考えます。

実態主義と観測主義のもうひとつの違いは、「他ならぬこのゲームがプレイされていること」へのこだわりにあります。実態主義はこの点についてやや厳格で、誤解を招きやすい情報提供を通じてプレイヤーに実態を誤解させてしまったとしたらそもそもゲームのプレイが成立しなかったことになります。喩えとしてはやや極端ですが、囲碁のソフトを使って五目並べをプレイしてしまったようなものです。囲碁がプレイされなかったために、たとえ五目並べの手としては工夫に満ちた手をプレイヤーが打ったとしても、それはゲームをプレイしたことにはなっていない、という判断を下すことになります。観測主義はやや寛容で、そのような誤解は、工夫のし損ないと同じようなものであり、そのゲームの悪い戦略に基づいたプレイだと考えてよい、とします。

5)まとめ

実態主義は、実態に即したプレイを重視する立場なのですが、実態がどのようにプレイヤーに伝わるのかについて十分な考察がなされていないままになっていました。実態がどう伝えられるべきかについての指針はあるものの、実態が伝わりきらない場合の工夫のあり方については、納得の行く説明がなかったと思います。その点について踏み込んで考えると観測主義の主張が説得力を持ちます。観測主義は一見、実態主義の延長と位置づけられるようにも思えるのですが、決定的に違う点は、「実態が伝わらなくてもよいし、実態に即したプレイにこだわる必要がない」という点です。これらの違いから、観測主義は、実態主義の延長というよりも実態主義に修正を迫るような別の立場だという感じがします。
TRPGなど実態が公開されないまま進行するようなゲームのプレイにおいては、実態主義の立場からのゲーム性を実現しようとすると「プレイヤーにとって確実に信頼できることが明白な情報」を与え、それらの情報が「実態についての明白な理解」をもたらすのに十分であり、それに基づいた工夫を可能にする、という少なからず奇妙なアレンジを要請することになります。
観測主義の立場からゲーム性重視のプレイを考える場合には、与えられた情報を活用すると、実態がわからないながらも勝率が高まるということだけが要請され、こちらはかなり現実的だと言えます。

また、以上の考察は、実態主義、観測主義共に「工夫が勝敗を左右するような仕組み」を重視する立場(結果重視のゲーム)に立ったものになっています。これと異なる立場として、工夫重視(工夫の余地のあるところで工夫をすることを楽しむこと)の立場があります。結果重視、工夫重視、というのは、実態主義と観測主義とはいわば別系統の問題で、ゲームの楽しみをどこに見いだすか、についての立場です。工夫をすれば勝てる確率が、工夫が足りなければ負ける確率が高いような状況で勝ちを目指すことが楽しいと考えるのが結果重視であり、工夫をすること自体が楽しみであり、それが勝利の可能性を大きく左右するかについては問題にしないのが工夫重視です。
myrtさんと僕の間の意見の違いは、一部にはmyrtさんが工夫重視を、僕が結果重視を採用しがちである点にもあるようです。

最後になりますが、以上のように考えると、結果重視で、上に挙げた観測主義の立場をとるなら、事後検証には意味があるということになると思います。

事後検証が行われない場合には、プレイヤーは、
「ある時点で与えられていた情報に別の、もっといい活用法があったのかどうか」
「それ以前の時点でもっと情報収拾をしておくべきだったと言える場面があり、その場面で情報を得ていれば後の展開をより有利に運べたのかどうか」
「自分が不確実な諸要素を上手に見積もったことが成功につながったのか、それとも上手な見積りをしたと思っていたところが実はそうなっていなかったのか」
「運と工夫との影響力の比はどの程度で、実際どの程度の工夫に成功/失敗したために勝利/敗北になったのか」
「与えられた情報が自分に不利な結果をもたらすような工夫を招くような仕組みになってはいなかったか?」
といったことを知ることができません。これはつまり、「観測した情報に基づいてプレイヤーが感じとるべき実態の諸可能性に工夫が勝敗を左右するような仕組みが備わっているかどうか」=ゲーム性があるかどうか、が事後検証をしないと明言できないということでもあります。(事後検証をしても明言できないままに終わる可能性もあるような気がしますが。)
2002年05月14日:18時54分07秒
【乱数要素のゲーム分析】TRPGと実態に関する不十分な情報 / myrt
(Re:2002年05月12日:14時00分35秒【乱数要素のゲーム分析】ゲームの仕 組みと工夫の余地 / トモスさん)

>> myrtさんの考え方だと、工夫の余地はゲームの目的達成とは関係が無 い、ということになりませんか? それは単に、「プレイヤーが持っている目的を達成しようと するのに、どの程度手持ちの情報が活用できる か、その程度を指す」といったような定義になるような気がします。 <<

 まさしくそう考えています。ちょうど結果主義との対比になると考えています。

 観測主義での「取れることがわかっているそれぞれの手に対して、 どれだけ結果を左右するかわかっている度合」は、ちょうど結果主義に おける「どれだけ結果を左右するかが検証により明らかになったそれ ぞれの手に対して、判断時点でどれだけの情報が与えられていたか の度合」と一致すると考えています。ところが、「度合」でなく「割 合」であるとすると、母集団が違うことから変化が生じます。そのあ たりに意見のズレの原因があるのではないかと考えています。

 観測主義での「実態とは一致しない仮定下でのみ役に立つ考察」は、 結果主義においては論じられません。逆に結果主義においての「情報 は与えられていないが良い結果をもたらす戦略」は、観測主義においては 論じられません。

 これら2考察は「それぞれの手に対して、与 えられた情報からどれだけ結果を左右するかわからない度合」に影響 され、TRPGのように「実態に関する十分な情報を故意に与えない ゲーム」は「手が結果を左右する度合がわかったり、わからなかったり する」度合を調整しうるものであるし、それを故意に行なっているのだと 思います。

>>ある盗難現場に、犯人の偽装工作により、手がかりA,B,Cが残されています。これらを\ 総合すると犯人はxかy だということになるのですが、真犯人はzです。
ここで、真犯人zを突き止められるような手がかりは一切残されていないとします。プレ イヤーが真犯人を工 夫によって突き止められる可能性は、従って、ゼロです。 <<

 「絶対に真犯人はzでない」という情報が与えられていたならば、 それは矛盾した手がかりです。そうでなければ、「xかyのいずれかが犯人 だ」と決めつけた段階で失策です。とは言え「xかy以外が犯人である」 という可能性がわかっているからと言って、「真犯人はz」という 事実にたどり着けるとは限りません。「犯人を指さして、当たっていれば 勝手に自白する」のでもなければ、結局勝利することは不可能でしょう。

 でも、一般的な「勝利を目指して頭を使うこと」はその程度に冷酷なもので、 勝利の可能性が必ずどこかにあることを保証されただけでかなり甘い状況であ ると考えています。そして「結果が保証されるか 否かにかかわらず勝利を目指し て頭を使うこと」は、「頭を使う使わないにかかわらず、結果に一喜一憂する こと」と対比できると考え、工夫と表現してみました。いずれにせよ、この 活動を示す何らかの表現は必要だと思います(いいのが思いつかない)。
#しかしそう考えると、「ゲーム=工夫を試みるもの」と定義できなさそうだ。

 例えば7並べでは、手札が配られた時点で負けが確定する 可能性があります。単純に「勝てる可能性と、それを能動的に生かす機会が あるときだけをゲームのプレイとみなす」と考える方法もありますが、 7並べに「手札が配られた時点で負けが確定するかどうかを 検証し、そうであれば配り直すような審判」の必要性がないのであれ ば「勝てない場合も、7並べというゲームの1プレイ」であるとみなせるように思え ます。「もしかしたら状況は絶望的かもしれない」という不安も一要素だと思うので。

 同様に、「真犯人がzであることに決してたどりつけない実態」は、 同じだけのヒントが与えられるゲームのとりうる1実態でもあると考えられます。 ただそういう母集団を考えると、「その母集団の実態のどれかには、 勝てる可能性と、それを能動的に生かす機会が含まれるじゃないか。 なら、そういう機会が存在することをもってゲームを定義すべきだ」と言える かもしれません。

 TRPGのような場合、実態としてシナリオが与えられたとき には、「それはゲームだ」と考える場合と、「それはあるゲームのとり うる実態の一つだ」と考える場合が必要である気がしてきました。
2002年05月12日:18時30分40秒
【比較ゲーム分析】工夫と工夫の余地についての2通りの定義 / トモス
myrtさんと僕の立場の違いについて、ふと思い当たったので定式化してみました。やや粗削りで、まだどこがどう違うのか整理し切れていないのですが、こういう方向で考えていくと混乱が解消できそうだ、とは感じるので出してみます。

1)2つの立場の要点

立場1:観測主義

「工夫」とは目的達成に少しでも有利と考えられるような手を、与えられた情報を活用して編み出すことができる場合に、そのような手を編み出すこと。あるいは、既に知られている選択可能な手の中でいずれかの手が他よりも有利だとする考え方に、情報を活用することで辿り着けるならば、そのような考え方に辿り着くこと。またはそうした行為を通じて打たれた手

「工夫の余地」とはある意思決定の時点で与えられている情報がどれだけ意思決定に役立てられるか(目的達成に役立てられるか)、その度合い(余地)を指す。

あるプレイにおいて、与えられた情報から何か工夫を凝らす余地があるかどうか、に関心がある。

ある任意の時点で与えられている情報から推測すると、そのような情報を与えてくるような「実態」は複数想像しうる。それら全てを考慮するべきだという原則がある。そこで、プレイの実態とはかけ離れたものであれ、一致するものであれ、全ての可能性を考慮して手を決める。実際にそのプレイの実態がどうであったか、ということをプレイ後に問題にすることもない。それは「可能性のひとつとしては知っていたが、他の可能性もあの時点では考えられたし、考えるべきであったことには変りが無い。」とするため。

立場2:実態主義

「工夫」とは、目的を達成する際に、運やわかりきった手ではなく、戦略的な思考に基づいて手を打つこと。またはそうした思考の結果打たれた手。

「工夫の余地」とはあるゲームが、プレイヤーにとって、与えられた情報を元に、推論することで目的を達成できるような手を打てるようになっている度合い。

あるプレイにおいて、ゲームの仕組み(プレイヤーの工夫によって勝率や達成度が左右されるような仕組み)があるかどうか、に関心があるので、「とるべき手が何であるか、与えられた情報から考え付くようになっていたか?」という問いと「とるべき手をとっていた場合ととっていなかった場合でどの程度勝率に差が出るか?」という問いとを問題にする。つまり、どの程度工夫の余地があるゲームだったのか、を問題にする。

ある場面でとらなければいけない手、とってはいけない手、などを与えられていた情報から考え付くことができたか、あるいは与えられていた情報から考え付かないまでも、そうした手について考え付けく可能性を保証するような情報を手に入れられるような仕組みになっていたか。言い換えれば、「工夫が勝率を左右するような仕組みになっていたか」を問題にするために、「事後検証」を通じて、どのような場面にどのような形で「工夫が勝率を左右できるような仕組み」が存在していたのかを解明しようとする。

2)比較1:「もっと調査しておく必要があったこと」を感じる場合

ある意思決定Aをし終わった直後に、「実はこの意思決定Aに役に立つ情報Bを、それ以前の場面Cで調査しておけた。そうしておくべきだったことは、Cの時点で得ていた情報から明らかだった」と考えたとします。また、この考え方はプレイの実態に照らして正しいとします。

観測主義の立場からは、こんな風に言えそうです:
この意思決定Aをする以前の場面Cで調査をしていたら、それは今回のプレイでは入手せずに終わった情報Bを意思決定Aに際して与えることになっただろう。だが、それはまた別の話、場面Bでの工夫の余地を活かしきらなかったという話であって、意思決定Aに際して現に与えられていた(やや不足気味の)情報からどれだけの工夫がありえたか、どれだけの工夫をしたか、という議論には関係がない。

実態主義の立場からは、こんな風に言えそうです:
今回の意思決定Aでは情報Bを持っていなかったためにしくじった(/情報Bを持っていなかったにも関わらず、幸運にも適切な選択をした)が、実はそれを手に入れてしかるべき場面Cがあったわけで、事後検証により、「このゲームでは意思決定Aに関してもっと工夫の余地があった」とわかる。

3)比較2:中途半端な工夫の評価

上の状況で、ある意思決定Aの結果、実際には不利な手Dを打ったとします。情報Bさえ手に入れていればそのような手は打たずに済んだと考えられます。あるいは、与えられていた情報を中途半端にしか活用しなかったために手Dよりも更に不利な手Eを打ってしまったとします。ここで、EよりもDの方がましだということは、与えられた情報だけから結論できることなのですが、考えが半端だったためにEを打ってしまったとします。情報Bを手に入れていたら、Fが有利だとわかります。

観測主義:
与えられた情報を活用した手であれば、ともかく工夫である。従って、結果として不利に働くのであれ、中途半端に情報を活用したものであれ、工夫と呼ぶ。Fはそもそも与えられた情報からは導き出せない手。Eを打ってしまった者は工夫が足りないと言えるが、Dを打った者は、その場面では最大限の工夫をしたと考えてよい。

実態主義:
そもそも目的達成に貢献する確率のない手や確率を下げてしまう手のみが、与えられた情報から導き出せるとしたら、それは「悪いゲーム」だということになる。だが、もしも「場面Cで調査をしておくべき、ということは場面Cでもう少しよく考えていれば気付けたはずだった。あの場面でできたはずの工夫ができなかったために、結局意思決定Aで情報Bが不足して手Fの有利さに気付かなかったけれども、このゲームには工夫の余地があったことには変りはない。」
2002年05月12日:14時00分35秒
【乱数要素のゲーム分析】ゲームの仕組みと工夫の余地 / トモス
myrtさんの「錆の怪物」の例を読んで、いろいろと疑問が氷解した部分があります(他の部分は、わからないところもあったのですが)。ただ、myrtさんの立場の妥当性がわかった途端に自分がどうしてmyrtさんと違う考え方をとっていたかがよくわからなくなってしまったのでうまく考えをまとめられずにいます。自分の立場が一貫していたのか、どのように一貫していたのかについても混乱して来ました。

特に強力だと思ったのは、「ある手が工夫であったかどうかを知る為には、結果も、実態も参照する必要がなく、単に意思決定の時点で与えられていた情報だけが問題になる」という点です。(5月7日17時付けの投稿で読んで以来特に気になっていた点だったのですが。)



僕は工夫の余地という概念を、例えば、人が「このゲームは工夫の余地のないゲームだ。ほとんど運試しばかりだ」と言う時の「工夫の余地」として考えてきた面があります。

あるゲームの目的達成(度、確率)が、工夫によってどれだけ左右されるか、その度合いです。

myrtさんの考え方だと、工夫の余地はゲームの目的達成とは関係が無い、ということになりませんか?
それは単に、「プレイヤーが持っている目的を達成しようとするのに、どの程度手持ちの情報が活用できるか、その程度を指す」といったような定義になるような気がします。

つまり、myrtさんは「プレイヤーに与えられた情報」について工夫の余地を考えており、僕は「ゲーム」について工夫の余地を考えている、と。



次のような例ではどうでしょうか。

ある盗難現場に、犯人の偽装工作により、手がかりA,B,Cが残されています。これらを総合すると犯人はxかyだということになるのですが、真犯人はzです。

ここで、真犯人zを突き止められるような手がかりは一切残されていないとします。プレイヤーが真犯人を工夫によって突き止められる可能性は、従って、ゼロです。

これは工夫の余地のない、従って、ゲームではない遊びだと言えると思うのですが、同時に、myrtさんの立場からは「工夫の余地がある」ということになりませんか? 確かに、それらの手がかりから「それなら犯人はzに違いない」と誤った推論をするプレイヤーがいる可能性もあるわけで、そのような推論をしなかったとしたら、その分だけはプレイヤーは「工夫をした」と言えば言えます。 この工夫はゲームの勝敗に結びつかない上、「この遊びには工夫の余地がない」ということには何も変わりがないのですが。

あるいは、「ある目的を達成するのに、どの程度達成率が固定されており、どの程度運試しをしなければならず、どの程度工夫によって達成を変動させられるか」というような議論を少し前にやったわけですが、myrtさんの考えているような「工夫」をその議論とつなげようとするとどうなるでしょうか? 「工夫」や「工夫の余地」について、何か分類を導入すべきなのでしょうか?

myrtさんが既に書かれていることの反復になっているような気もしますが、まだ混乱しているので今回はこれで。
2002年05月10日:17時57分09秒
【乱数要素のゲーム分析】ゲームの仕組みの芋づる関係 / myrt
(Re:2002年05月08日:21時16分46秒【乱数要素のゲーム分析】事後検証 の役割 / トモスさん)

 事後検証についてですが、検証時期とその範囲についての意見の相違がある ように思います。

>>1)活用し損ねた手がかりの発見。 <<

 この発見のためには「判断時点までに入手された情報の集 合」だけを調査することがあります。「客観的に手がかりだけを 見れば活用すべきだが、そうすると実態で不利になる」場合を 考慮すると、「実態を調査して初めてわかる情報」はむしろ邪魔です。

>>2)更なる手がかり収集の機会/必要性の発見。<<

 収集の機会、必要性を事前に知ることができなかったのなら ば、「それを利用すれば良かった」というのは結果論にすぎません。 知ることができたのなら、1)のみからそれは明らかです。 芋づる式に明らかになる話は後にゆずります。

>>3)工夫のし損ねの発見。 <<

 「工夫とは何か」でズレるので省略します。

>>4)手と結果の間の因果関係の特定。 <<

 「どの手を取るとどんな結果になったか」を論じるためには逆 に「事前の観測データ」が邪魔です。プレイヤーが得ていた事前 データがどうだろうとも、実態が同じでプレイヤーの取る戦略も 同じであれば結果も同じであるからです(ここでは運の要素も実態 に含めてます)。

 1)と4)の二つを組み合わせて初めて、「どの戦略が妥当だと判断できたか。 その戦略を採用したとき、どんな結果になったか」を論じることができます。 情報が明らかになると取るべき戦略が明らかになり、それを取るとまた情報 が...という芋づる式の「ゲームの仕組みネットワーク」を分析するためには この分析が必要になります(工夫が左右する割合が増えるほど分析が困難に なるが)。

 トモスさんはこれを念頭においておられるのではないかと思うのですが、 1)で示したように、「妥当な判断をすると確率的(100%を含 む)に悪い結果になる」という結論が出る場合があります。これは 実態に関する情報が不十分なゲームにおいてしばしばありえま す。「ゲームはそういうものだ」と 言うならば同意するのですが、トモスさんはこの性質を嫌っておられる ように感じています。
#個人的にそういうゲームが嫌いなだけなのでしょうか??

 錆の怪物(鎧を含む金属製品を錆びさせて食べる。金属製品を持ってい なければ無害)でいっぱいの洞窟に「怪物がいる」という情報だけで 挑むときを想定してみてください。まともな装備を整えれば整える ほどドツボにはまります。しかし、どうしてもこれだけの情報しか得 られなければ「とりあえずまともな装備をしていくか」と考えるのは 妥当な判断です。

 ドツボにはまったプレーヤーは「金属製品を持っていかなければ良か った」ことを知り、「今度から情報不足のときは、錆の怪物にも注意しよう」と 学習するでしょう。すると「怪物がいる」とだけ情報を得たときの最適戦略は... ちょっと待って下さい。今、「このGMは錆の怪物を出しうる」情報を得ました よね。

 他のサークルのメンバーに「錆の怪物に注意してないのか。不注意 だな」と言えるでしょうか。言えるかもしれません。しかし言った瞬間 に、相手のプレイヤーは「錆の怪物に注意する忠告を受けた」という 情報を得てしまいます。

 そしてまわりまわって帰ってきます。錆の怪物に関する情報を、 忠告や、ルールブックや、GMからの情報で得ていなけ れば、「錆の怪物に対応する戦略を取るのが妥当だ」とは言え なくなります。

 さて、情報を得ていたにもかかわらず錆の怪物への対処を忘れ たとします。たまたまそのシナリオにおいて錆の怪物が出ず、 その忘却は悪影響を与えることがありえなかったとします。こ こで「しまった、対策してなかった。たまたま出なかったから 良かったけど」と悔やむ場合、私はこれも「工夫の不足」だと考えています。 しかし、実態を考慮せねばならないならこれは「工夫の不足」ではな くなってしまいます。錆の怪物が出ることがありえないシナリオにおいては。
2002年05月10日:17時53分54秒
【乱数要素のゲーム分析】不必要な仮定 / myrt
(Re:2002年05月08日:20時13分10秒【乱数要素のゲーム分析】Re:事前に 知ることが不可能な仕組み / トモスさん)
>>5.(上と同じゲームで)名簿については何もわからなかったが、 日本の学生には男性の方が女性よりも多いという事実を知っていた のでそれを活用して男性だと推測した。 <<

 私はこれは工夫であるが、用意された工夫の余地を生かしきっていない 稚拙な工夫であると思います。工夫のプロセスは以下のとおり。

・日本の学生であれば、男性のほうが率が高い。
・日本以外の学生であれば、情報がないので適当に賭けるしかない。

 「舞台となる学校を無作為に抽出したわけではなく、学生の男女比に 注意を払って選んだ」ことがわかっていても、どう注意を払ったのかの情報を読みとり損ねた段階で、「すべての学校の中からいずれかの学校が選ばれ、 その学校の中から学生を抽出した」と想定するしかありません。

 結局「選ばれた学生は全世界すべての学生の中の誰か」であるわけで、 これは仮定ではなく論理的帰結です。すると「日本の学生であれば、男性 のほうが率が高い」情報が利用できます。そしてプレイヤーにとっては、 それ以外の情報が(工夫の不足のために)利用できません。結果として、「男 のほうが比率が高い学校であるという仮定」は工夫の際に利用されませ ん。

>>このプレイヤーは、「より多く不確実性に直面した」と言えます。こ れは、「手を選ぶのにより多くの運試しをした」ことと同一視したい 気がします。<<

 それ自体には同意しますが、「より多く不確実性に直面する」というの と「より幸運でなければ勝利できない」のは異なった概念であり、ここで 重視すべきは後者ではないでしょうか。勝率1%であるよりも50%であるほう が結果の不確実性は大きいですが、より幸運でなければ勝利できないのは 前者です。

 またこういう意味での不確実性は、丁半博打においてゼロになってしま います。ダイス目が決まってからは、プレイヤーが「偶数が出てい る」「奇数が出ている」どちらの仮定をしようとも、結果は偶然性に 左右されません。それが気になっているところです。
2002年05月08日:21時16分46秒
【乱数要素のゲーム分析】事後検証の役割 / トモス
先の投稿でmyrtさんの立場について

>>僕の予想では、myrtさんは、「5は工夫だ」と端的に判断するのではないかと思うのですが。「無作為抽出がされていないという場合であっても、ともあれプレイヤーは工夫をしたのだ」という形で上の1)の見解とは対立するのではないでしょうか?<<

と書きましたが、本日づけのmyrtさんの投稿を読み、どうやら当たっていないようだと気が付きました。「体験主義者」であればそう答えるだろう、と思うのですが、myrtさんがその立場に立っているとは言えないようです。

隠し扉の件についてはどうやら考えが同じようです。また、戦艦大和の件についても同意見です。僕もmyrtさんの考えをつかみ切れずにいるようですが、myrtさんも僕の考えを誤解している部分があるようです。どうやらお互いが考えているよりも意見が似ているようです。

一番意見が対立するのはどこだろうか、と考えてみると、事後検証の件だろうと思い当ります。そこでこの点について改めて書いてみます。

事後検証はプレイが終わった後で、プレイヤーが、「自分があると思っていなかったところに実は工夫の余地があったこと」や「自分が「活用した」と思っていた工夫の余地が実はそもそも存在すらしていなかったこと」を知り、ひいては自分のプレイがどの程度工夫に満ちていたものであったかを評価したり、ゲームがどの程度運試しを要求する仕組みになっていたかを知る手段だと思います。

1)活用し損ねた手がかりの発見。
「後から振り返ってみて、意思決定の最中には見落としていたけれども気付いてしかるべき手がかりがあった。それに気付いていたらもっと優れた工夫ができた。」と気付くこと。もちろん「気付いてしかるべき」というのは万人が納得できる判断にはなりにくいので、検証してみたら「GMはあの意思決定はもっと工夫できたと思っていたらしいがプレイヤーの立場から言わせてもらえばあれ以上の手がかりに気付く余地はなかったからあれが精一杯の工夫だった」ということになる可能性もあります。

2)更なる手がかり収集の機会/必要性の発見。
「後から振り返ってみて、ある意思決定Aに差し掛かる以前の時点で、もっと情報収集をしておいてしかるべきだった、ということが意思決定Aよりも前の段階で与えられていた諸情報から結論できること」に気づき、「その調査をしていれば、意思決定Aの時点でより工夫に満ちた手が打てた」と気付くこと。これは言い方を変えると「あの意思決定Aをした時点で手元にあった情報はフル活用したのだが、あれ以上の工夫の余地はなかったのだろうか」という疑問に答えを出すものです。

3)工夫のし損ねの発見。
「自分はあの意思決定Aの時点で手にしていた情報群Bから、何が有利な手であり何がそうでないかについての見積もりCを形成し、手Dを選んだが、果たしてそれは工夫になっていたのか?」などと疑問を持ち、「実は情報群Bから見積もりCを出した過程に誤りがあったので手Dを選ぶべきではなかったことがわかった」「実は情報群Bから見積もりCを出した過程に誤りがあったのだが、正しい見積もりEに基づいても結局は手Dを選ぶことになっていたことがわかった」といった形で自分が工夫だと思っていたものが工夫になっていなかったことに気付くものです。

4)手と結果の間の因果関係の特定。
「ある意思決定Aに際して手Dを選び、結果として成功Eに至ったように思えるが、本当にそうだったのだろうか?」などと疑問を持ち、「実は手Dを選ばなくても成功Eに辿り着く可能性が高かった」「実は手Dを選ばず手Fを選んでいたらその方が成功Eに辿り着く可能性が高かった」「実は手Dは成功Eに至る可能性の少ない手だったのだが、運良くそうなった」などということを知るものです。

以上のように、事後検証がなければ、プレイヤーは、自分が工夫だと思ったものが本当にどの程度工夫たりえていたのかがわからず、また、運試しをする他ないと思って運試しに出た場面で本当にどの程度工夫の余地がなかったのかがわからない、と言えると思います。
2002年05月08日:20時13分10秒
【乱数要素のゲーム分析】Re:事前に知ることが不可能な仕組み / トモス
#鍼原さん、お久しぶりです。また議論する機会が来るのを楽しみにしています。どうぞよろしく。
身体にはお気をつけ下さい。

myrtさんが昨日の投稿で挙げられた例について考えてみました。

>>ある学校から無作為に学生を選んでから隠しておき、その学生の性別を当てさせるゲームを考えます。プレイヤーには名簿が渡され、それを注意深く調べれば男女比が9:1であることがわかるとします。以下の場合、何が工夫になるでしょうか。<<

>>1.プレイヤーが「男」と宣言し、正解は「男」。
2.プレイヤーが「男」と宣言し、正解は「女」。
3.プレイヤーが「女」と宣言し、正解は「男」。
4.プレイヤーが「女」と宣言し、正解は「女」。<<

まず、補足的な仮定をひとつ導入しておきます。唯一可能な判断材料は名簿から、男性である確率が高いことに気付くことだと考えます。「足音や匂いを手がかりに男女を区別しようとする」ような行為は有効性を持たないとします。

そうすると、女性だとする3と4が、「運に任せて女性が多いという前提を採用したがそれが運悪く外れていた場合」だと思われるので運試しであって工夫ではない、ということをまずは思います。

男性と推測するプレイヤーの中にも、同様に、名簿に隠された手がかりに気付かず「運に任せて男性が多いという前提を採用したが、それが運良く当った場合」に過ぎないため、運試しをしただけであって工夫をしていない人がいます。

「名簿から察するに男性が多い」と考えて、男性だと答えたプレイヤーは、同じく1と3を選んだ人の一部ですが、工夫をした人だと考えます。

これらの点ではどうやらmyrtさんと同じようですね。

では、次のような例ではどうでしょうか。

5.(上と同じゲームで)名簿については何もわからなかったが、日本の学生には男性の方が女性よりも多いという事実を知っていたのでそれを活用して男性だと推測した。

僕の(当面採用している)立場からは、これは次のような2つの場合に分けて考えると思います。

1)「舞台となる学校を無作為に抽出したわけではなく、学生の男女比に注意を払って選んだ」という類の情報が与えられていたら、「運任せに採用した前提(男の確率が高い)が正しかったが、その採用の根拠が誤っているので工夫ではない」と考えます。

根拠が誤っているというのは、学生が国全部の学生の中から無作為に抽出されたわけではなく、そのゲームの舞台となった学校の学生から無作為に抽出されただけなので、女性が多く採用される傾向にある学校を舞台にしていたら前提は間違いだということになるし、男性が多く採用される傾向にある学校を舞台にしていたら正しいということになるためです。たまたま舞台になった学校は採用した前提があてはまるような学校だったわけですが、それは運がよかっただけだ、と考えられます。学校を無作為に抽出したわけではなく、男女比を考慮して選んだので、料理学校や音楽学校など女性の学生が過半数を占める学校が舞台に選ばれていたかも知れません。そうならなかったのは、舞台の選定者がそうしなかったからで、確率的にはどちらの結果が起こりやすいとする根拠もないと思われます。

2)もしも「舞台になる学校を無作為に抽出した」ということがわかっている場合は、工夫と呼んでよさそうです。男性の学生数が国全体で多いなら当然ながら男性の学生数が多い学校の方が多い確率が高いということにもなる、と考えることができそうです。実際に調べてみたら小さな料理学校や音楽学校、バレエスクールなど女性の学生数の方が多い学校が多くあって、男性が過半数を占める学校の方が学校数としては少ない、という形になっているかも知れませんが。そこの部分を「確率的に考えて、そうなっている可能性は低い」と言ってよいなら「舞台となっている学校に男性が多い可能性が高い」と考えたことには誤りはないと言ってよいように思います。

しかしながら、このプレイヤーは名簿に隠されている手がかりを読み取り損ねたために、舞台となった学校では男子生徒が90%を占めることを知りません。たとえ同じ回答を選ぶとしても、このプレイヤーは、「より多く不確実性に直面した」と言えます。これは、「手を選ぶのにより多くの運試しをした」ことと同一視したい気がします。もっと工夫ができていれば(名簿に隠された手がかりに気付いて)、もっと確信を持って「男性」という回答を選べたはずなのだが、実際にはその工夫の余地を活用できないままに終わったために、より多く、運試しによって手を選ぶことになってしまった、と感じます。

僕の予想では、myrtさんは、「5は工夫だ」と端的に判断するのではないかと思うのですが。「無作為抽出がされていないという場合であっても、ともあれプレイヤーは工夫をしたのだ」という形で上の1)の見解とは対立するのではないでしょうか?



事後検証が必要なのは、プレイヤーが「自分は名簿の名前を元に男性が多いと考えて答えを決めたのだけれども、あの名簿の情報は正しかったのか? それともたまたま正解しただけなのか?」とか「自分は日本の学生数は男性の方が多いことからこの学校も男性が多いだろうと考えて男性と答えたけれども、実際にはもっと手がかりがなかったのか?」などという疑問を解消するためです。「誤った前提に基づいていようが、推論過程に問題があろうが、工夫は工夫」と考える体験主義的な立場からは事後検証は必要ないだろうと思います。
2002年05月08日:17時24分50秒
【乱数要素のゲーム分析】仮定と確信 / myrt
(Re:2002年05月07日:17時08分32秒【比較ゲーム分析】工夫と成功・失 敗の関係、実態主義の立場から / トモスさん)

 45秒ほど先走ってしまったようです。

>>もしもプレイヤーが運試しの要素について意識していて、「自分の前提 が間違っている可能性がある」などと考えているとしたら、それは「プレ イの実態を誤解して工夫に失敗している」とは言えないと思います。<<

 TRPGに限らず、私はそういう場合を想定しています。

 例えば丁半博打において、「ダイス目が偶数だったら」「ダイス目が 奇数だったら」と複数の仮定を、どちらが正しいとも確信せずに論ずる ことができます。丁半博打ではたまたまどちらに賭けても払い戻しの 期待値が同じですが、変形丁半博打においては工夫の余地があるかもしれません。

 隠し扉の例では、「壁に隠し扉がある」と間 違って確信した時点でアウトです。しかし、「壁に隠し扉がある可能 性」を考え、「壁に隠し扉がある場合にはどうすれば開くか」を検討 することは、工夫の一部でありうると思います。「どこかに隠し金庫が ある」情報を得て、いかにもあやしげな壁のレリーフを見つけたときに、 つるはしで殴る前に合い言葉をしばらく試してみるとか。

 ここでは、「壁に隠し扉がある可能性」に賭けているわけです が、「壁に隠し扉がない可能性」も考慮してつるはしも用意し、かつ 短時間しか試みないことによって賭けに負けたときのリスクを下げています。

>>「どこに活用されないままに終わった工夫の余地があり、それを活用 していたらどの程度勝率を挙げることができたか」を考えることができます。<<

 よくある議論に、「太平洋戦争で、戦艦大和を作らずにその材料で 戦闘機を作ればもっと良く戦えた」というものがあります。なるほど、 そうかもしれません。しかしそこから「戦艦大和を作った奴は馬鹿だ」と 単純に展開するのは間違いでしょう。それを論じるためには「戦艦大和を作 るより戦闘機を作ったほうが有利であること」を当時の責任者がいかに知 ることができたかを論ずる必要があり、建造後の戦闘機の活躍を引用する のはむしろ有害だと考えています。
2002年05月07日:23時38分57秒
意味無し投稿恐縮 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 とうとうLOG 100になりますね☆
 
 ちょっと体調崩したり、それで溜まった仕事で忙しかったりしています。
 議論にはおいつけてないですけど、楽しみに見ています。じっくりがんばってください。
2002年05月07日:23時17分04秒
TRPG総合研究室 LOG 099 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 099として2002年04月23日から2002年05月07日までのログを切り出しました。

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2002年05月07日:17時08分32秒
【比較ゲーム分析】工夫と成功・失敗の関係、実態主義の立場から / トモス
僕が考えている工夫の定義は、myrtさんの投稿の後半部分の解釈通りです。ただ、myrtさんの投稿のタイトル「敗北したときの努力は工夫ではないのか??」という問いに対しては、敗北しても工夫は工夫だ、と答えることになると思います。ここに矛盾はないと思うのですが、どうでしょうか? それを検討するつもりで書いてみます。

前回の僕の投稿と同様、とりあえずは僕がとってきた立場を維持・擁護する方向で書いてみますが、その立場の優位を主張することは本意ではありません。

1)工夫の定義2種

myrtさんと僕の「工夫」の定義の仕方を「体験主義と実態主義」という以前使った図式にあてはめることができると思います。僕は実態主義の立場をとっていて、「プレイヤーがある仮定を立てて、それに基づいて推論した場合には、その推論行為は実質的には工夫とほぼ同じだ。ただ、仮定が間違っている場合には、五目並べに勝つのための工夫を囲碁のプレイでやっているようなもので、実態に即した工夫とは言えない。これは工夫と呼ぶことはできない。」と考えているわけです。

それに対して、myrtさんは「体験主義」的に思えます。「用いている仮定が実態に照らして正しいものであれ、誤ったものであれ、推論していれば工夫と呼んで差し支えないだろう」と。体験主義についての以前の議論を流用すると、壁に向かってある呪文を唱えると秘密の入り口が出現すると信じて正しい呪文を突き止めるべく調べものや考え事をして楽しんでいる人は、実際にはそんなことが起きる可能性がゼロだとしても、工夫をしていることには変わりがないのだということになりそうです。

言い換えると僕は「特定の結果を狙う手の内、実際にプレイヤーが考えた通りの理由によって、その結果をもたらす確率が高い手」に工夫があると考え、「特定の結果を狙う手の内、実際にはその結果をもたらす確率が高くない手」や「特定の結果を狙う手の内、プレイヤーが考えたのとは違う理由でその結果をもたらす確率が高い手」は工夫ではなくて「工夫のし損ね」や「偶然の賜物」とでも呼んでおきたいと感じます。

実態主義は「ゲーム性重視のプレイ」がどのような場合に成立つかという問題について、「手が勝敗(または達成度)を左右するような仕組みがプレイの実態に備わっていること」が条件だ考えます。また、この「仕組み」がプレイヤーにとって難し過ぎても簡単過ぎても工夫の余地がないのでゲーム(工夫を楽しむ遊び)たりえないだろう、とも。

僕が使っている「工夫」の定義は、この線に沿ったもので、プレイに備わっているゲームの仕組みにある「工夫の余地」を活用して行うのが工夫です。このように考えた場合、プレイが終了した後に事後検証を行い、「どこに活用されないままに終わった工夫の余地があり、それを活用していたらどの程度勝率を挙げることができたか」を考えることができます。ひいては、「このプレイはどの程度まで運試しによって勝敗(または達成度、以下略)が左右されるようなゲームであり、どの程度まで工夫によって勝敗が左右されるようなゲームであるか」ということを考えることができます。

#というか実態主義としてはそのような状態を理想として実態の解明を重視するわけですが、TRPGや他のある種のゲームの場合には実態を事後検証によっても解明しきれないという問題があります。これを考えると、実態主義ではなく「観測主義」のような何かを見つけ出す必要性を感じるのですが、またmyrtさんは答えを持っている気がするのですが、まだ僕にはつかみきれていないようです。

2)運試し、あるいは工夫と成功・失敗の関係

きちんと工夫したにも関わらず、他の運試しの要素の方で失敗して望んだ結果が得られないということはもちろんあります。例えばある戦闘の際に剣を使うか斧を使うかを考えて、敵や戦況や地勢を正しく判断して、正しく斧を選んだとしたらそれは工夫なのですが、にも関わらず戦闘に負けてしまう可能性はあるわけです。事後検証をすれば、「あの時の選択自体は少しも間違っていなかった。ただ運が悪くて最良の選択をしたにも関わらず目的が達成できなかっただけだ」というようなことがわかることになります。つまり、このような「目的達成の成否」はある行為が工夫になっているかどうかには関係ないと僕は考えています。

それに対して、僕が問題にするのは、結果として良い方に働いたのであれ、そうでないのであれ、「誤解に基づいて考えたかどうか」です。間違った前提に基づいて推論を行い、未公開部分の設定内容がどうなっているかを推測した場合は、結果として設定内容についての推測が正しくても、間違っていても、それ(推論)は工夫とは呼べない、と思います。また、「前提と推論」の代わりに「状況認識と行動内容決定」と考えても同じです。つまり、PCのおかれている状況についての間違った推測に基づいて行動を決めた場合も、それがたまたま成功に結びついたのであれ、失敗に終わったのであれ、行動内容の決定プロセスが工夫だとは言えないと思います。最初の推測自体が間違っているからです。
それらの成功・失敗は運のよしあしによって左右されており、工夫によって左右されていない、と考えられます。



少し迷いがあるのですが、同様に、「運に任せて採用した前提がたまたま正かったため、その前提に基づいた行動が功を奏した」ような場合も、工夫だとは思えません。「特に根拠もないままに扉の向こうの敵がオークだと決めてかかって作戦を立てたところ、実際に敵がオークだったために作戦が功を奏した」のは大部分が運試しによる達成だという感じがします。そして、運試しをしている時点で、運試しに成功していようと失敗していようと(運に任せて採用した前提が実態と適合していようとしていまいと)それは運試しであって工夫ではない、と思います。但し、「扉の向こうにはもうひとりの自分がいると決めてかかって作戦を立てる」とか「扉の向こうには世界の果てがあると決めてかかって」というようなことは余りないわけで、どんな前提を採用する時でも全く運まかせというよりは、舞台となる世界の常識などを手がかりにしてい考えている部分がある、とは言えると思いますが。

ただ、TRPGではPCは「正しい前提」を「工夫だけによって」採択できることは稀だろうと思います。確実に信頼できるとわかっている情報(や「確実に嘘だとわかっている情報」)は獲得しやすいわけではなく、仮に獲得したとしても、そこから必然的にある状況認識なり、とるべき行動内容なりを導き出すことができるわけでもないと思います。「前提の採択」であれ、「前提に基づいた推論によって未公開部分がどうなっているかについての推測を固めること」であれ「未公開部分の推測に基づいて行動内容を決定すること」であれ、常に誤った結論に達してしまう可能性があります。そこで、実態主義の立場からは、これは「囲碁をやっているはずなのに五目並べと勘違いして工夫になっていない工夫をしようとしている」のと同じような事態、つまり工夫になっていない事態が頻繁に起こる、ということになります(少し妙な帰結ですが)。また、「囲碁か五目並べか呑み込めていないまま囲碁だと決めてかかって遊んでいたがたまたま運良く囲碁だった」という形で運試しになっている事態も頻繁に起こると思います。

3)TRPGの工夫の余地

以上を敷延すると、TRPGはそもそも工夫を楽しむことが非常に難しい遊びだ、ということに(実態主義の立場からは)なってしまうのではないか、という風にも思えるのですが、そうではないと考える重要な材料がひとつあります。

もしもプレイヤーが運試しの要素について意識していて、「自分の前提が間違っている可能性がある」などと考えているとしたら、それは「プレイの実態を誤解して工夫に失敗している」とは言えないと思います。むしろ「プレイの実態を十分知らないことを理解して、それに対処すべく工夫を重ねている」のであって、少しでもリスクを減らすべく更なる手がかりを探したり、自分の前提が間違っている可能性についてあれこれ想像して間違っている場合に自分が被ることになる被害などを考慮してとるべき手を決めたりしていると思います。また、そうしている限りで、プレイヤーは工夫をしていると言えるように思います。

言い換えると、プレイヤーが自分の知識の限界を意識している場合は「根拠もなくある前提を採用すること」(=運試し)ではなく、「常に手がかりを探し続けつつも、暫定的に前提を採用したり、行動内容を決定したりすること」(=継続的な工夫)をしていると感じます。TRPGがこのように遊ばれているとしたら、それは工夫を楽しむ遊びになっている、と言えそうです。そうではなくて「運に任せて未公開部分がどうなっているかを決めてかかる」ようなことばかりであれば、それとは逆に、運試しの遊びにしかなっていない、と言えるだろうと思います。

どうも詰めが甘いような気がするのですが、今はこれ以上はうまく書けないので今回はこれで終わります。
2002年05月07日:17時07分47秒
【乱数要素のゲーム分析】事前に知ることが不可能な仕組み / myrt
(Re:2002年05月06日:17時30分10秒【比較ゲーム分析】工夫 の余地と情報 / トモスさん)
>>もしも「事前に知ることが全く不可能な仕組み」になっていたら「たまたま 狼の群れと毒の沼とその他23種類の危険に対して備えておいたのが功を奏し て、狼の群れに遭遇することを避け、毒の沼地に踏み込むことも避けられ た」「でも狼の群れと毒の沼の代わりに毒蛇と土砂崩れに備えていたらパー ティーは全滅していたかも知れず、そうしなかったのは結局のところ運だ」と いうような事態になると思います。 <<

 なると思います。それに全く問題を感じていません。

 真の意味で「事前に知ることが全く不可能な仕組み」なのであれ ば、100%運です。悩むこともありません(悩むのは検討に値する 情報があるときだけ)。

 「山にありうる危険」についての少なくとも25種類の危険に関する 知識と、「これから山に入る」という情報があればすでにかなりの情報量で す。「山に危険がある可能性も、ない可能性もある(GMがシナリオ上で、 危険なしと設定しているかワンダリング危険チェックをするか不明)」という のは、「山に危険がある可能性がある(GMが危険性を何らかの手段で 用意する可能性がある)」とほとんど(全く??)同じ情報です。「既知の 知識では対応できない危険がある可能性がある」のは、「考えても仕方が ない可能性がある」だけですから、対処法を考えるためには影響しません。

 この調子で「標準的な危険のありうる山に対する戦略」を導くこ とが可能になるわけですが、その戦略を用いたところで良い結果を導ける かどうかにはどうしてもギャンブル要素が生まれます。 それでかまわないじゃないか、というのが私の結論です。私は「好判断 をしても運が悪ければ負ける場合がある」と考え、「勝ちに貢献した判 断だけが好判断だ」とは思いませんので。

 ギャンブル性を含むゲームでは(おそらく必ず)、「判断前の観測か ら見込みがあるとみなせる戦略」と「結果的に勝利につながった戦略」の間にギ ャンブル性があります。だからいかに工夫を定義しようとも、ど こかに必ずギャンブル性が入り込みます。

 myrt定義では、「判断前の観測から見込みがあるとみなせる戦略」を 導くことが工夫です。だから事前の観測と工夫の間にギャンブル性は ないが、工夫と結果の間にはギャンブル性があります。

 トモスさん定義では、「結果的に勝利につながった戦略」を 導くことを工夫としています。だから結果と工夫の間にギャンブル性はあ りませんが、事前の観測と工夫の間にギャンブル性があります。これが 存在するときは、事後検証によりなくなることもありえないと考えられます。

 このあたりまでの考察は、そこそこ自信があります。しかしトモスさんが、 事前の観測と工夫の関係をどう考えられているかについては自信がありません。 例題を考えてみます。

 ある学校から無作為に学生を選んでから隠しておき、そ の学生の性別を当てさせるゲームを考えます。プレイヤーには名簿が渡され、それを注意深く調べれば男女比が9:1であることが わかるとします。以下の場合、何が工夫になるでしょうか。

1.プレイヤーが「男」と宣言し、正解は「男」。
2.プレイヤーが「男」と宣言し、正解は「女」。
3.プレイヤーが「女」と宣言し、正解は「男」。
4.プレイヤーが「女」と宣言し、正解は「女」。

 myrt定義では、「いずれの場合も工夫の余地はあった。正解か否か にかかわらず「男」の戦略が有利であることを導くことが正しい工夫 である」となります。ただし正しい工夫を行なっても、ギャンブルに 敗北すればゲームには負けます。工夫の正しさをだけ論ずるためには結果が 必要なく、工夫の余地の有無だけを論ずるためにはプレイヤーが 実際に選んだ戦略すら必要もありません。

 トモスさん定義の工夫では、これらをどう分析するのでしょ うか。1.のみなのか(裏目を認めない)、1.と4.なのか(裏目を認める 代わりに事前の情報を無視する
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