TRPG総合研究室 LOG 099

TRPG総合研究室の2002年04月23日から2002年05月07日までのログです。


2002年05月07日:00時21分32秒
【比較ゲーム分析】敗北したときの努力は工夫ではないのか?? / myrt
(Re:2002年05月06日:17時30分10秒【比較ゲーム分析】工夫の余地と情報 / トモスさん)

 私の主張は、システムに「工夫に対する結果の保証性」がないとき、「そのとき 選ばれた戦略はギャンブル性を持つが、ギャンブルの勝率をそこまで上げるものと しての工夫が存在しうる」というものです。これはトモスさんの「ギャンブル性が あるときそこまで工夫の余地が下がってしまう」という主張と合致するものだと 考えています。

 この意見の違いは、初期値を工夫しなかったときのギャンブルの勝率と取るか、確率1と 取るかの違いではないでしょうか。私は「戦場には流れ弾があるから死ぬときは死ぬ んだ。しかし注意すれば、死ぬ確率を減らすことはできる。これが工夫だ」という考え であり、トモスさんは「弾が飛んできたときに当たらないようにするのが工夫だ。しかし 戦場には流れ弾があるから運悪くどうしても死んでしまうときはある」という考え なのではないかと思います。

 そしてトモスさんの考えは「だから死んでしまったときは、そいつの工夫は工夫じ ゃなかったんだ」ということではないでしょうか。だとすると、これはどうしてもギャ ンブル性を含む概念となるはずです(たまたま死ぬと工夫じゃなくなるわけだから)。

>>言い換えると、「間違った仮定に基づいて推論した結果がたまたま運良くプレイヤー に有利に働いた場合と、正しい仮定に基づいた工夫がプレイヤーに有利に働いた場合と の区別は、事後検証をしない限りはつかない」という点が気になるわけです。<<

 「仮定が正しかったか否かが事後検証しない限り決してわからない」ときの事後検証 は、「どう仮定するかギャンブル」の結果の確認と同じであるということでしょう。

 そして「どう仮定するかギャンブル」に勝利し、かつ論理的にその選択が(例えば確 率的に)有利であることが事前に導出可能であった「工夫のつもりであったもの」だけ が工夫であるということでしょうか。

 「myrt定義の工夫」はここでの「論理的にある選択が(例えば確率的に)有利である ことが事前に導出可能であるとき、それを導出すること」に当たります。
2002年05月06日:17時30分10秒
【比較ゲーム分析】工夫の余地と情報 / トモス
1)総論

僕が以前の投稿で主張した内容は、myrtさんの引用した通り「ある意思決定を行う際に、その決定に必要な情報は全て手元にあるか、必要な情報を獲得する機会が事前に与えられていたか、そうでなければその決定の結果が取り返しのつかない事態をもたらさないようになっている」ということです。ここから、「必要な情報なりそれを獲得する機会が与えられていたか」を知るために事後検証が必要になるのだと考えました。ですが、これではあたかも「乱数要素はあってはいけない」という含みがある感じがして少し妙だと自分でも思っていたのですが、myrtさんにその点を考えてもらった形になったようです。

myrtさんの主張は
>>「ある意志決定を行う際に、そのために利用できる情報は手元にあるものだけである」という面から、どれだけ工夫できるかと事後検証は関係ないと考えています。<< という(かなり対照的な)記述に見て取ることができると思います。これは「情報がなくても工夫ができることには変わりない、どんな状況であれ、工夫はできるし、それは自分がどれだけ工夫しようとするかにかかっている」という議論でしょうか?

結局は「工夫」をどう定義するかについての違いの問題かも知れませんが、僕は少し違う立場をとってきたので、そちらを維持して比較対照を試みようと思います。それは「本人が工夫だと思っていたけれども工夫になっていないものと、本人が工夫だと思っていて実際に工夫になっているものとがある」と考える(プレイヤーの想定する工夫と、実態としての工夫を分けて、後者の方を本当の工夫だと考える)ものです。

つまり「本人は工夫のつもりでやっていたことが実はただの運試しになっていた」という場合があることを気にする立場が僕の立場です。(例によって、そちらの立場の方が優れていると思って、その立場をとっているというわけではなく、なりゆきでそうなっている感じですが。)

もしも「本人にとっての工夫」と「プレイの実態に照らした場合の工夫」とを区別するような僕の立場を前提したら、事後検証をしないと「自分が工夫だと思っていたのは本当に工夫になっていたのか」かがわからないと言っていいのではないかと思います。

言い換えると、「間違った仮定に基づいて推論した結果がたまたま運良くプレイヤーに有利に働いた場合と、正しい仮定に基づいた工夫がプレイヤーに有利に働いた場合との区別は、事後検証をしない限りはつかない」という点が気になるわけです。情報量が少なくて運試しを強いられること自体は(「純粋ゲーム志向の結果重視」の立場に立たなければ)問題はなく、その点ではmyrtさんの意見に賛成なのですが、いつでも工夫ができるわけではなく、あくまでも工夫は必要な情報が与えられている時にのみ可能だ、という感じがします。

myrtさんもその可能性は意識して書かれていますが、myrtさんが考えるよりもずっと多くこれが起こりうると僕は考えているようです。

先にまとめておくと、「手を決めるのに必要な情報が揃っていればいるなりに、揃っていなければないなりに工夫ができる。揃っていない程、運試しが含まれることになる。」「但し、何が正しい情報か、それをどう解釈するかなどは必ずしも明らかではないので、工夫のつもりで行っている推論が実際には運試しにしかなっていない場合がある。」と言い換えるとしっくり来そうです。まずはこの「工夫と運試しの区別」についてTRPGを例に考えてみます。

2)工夫の余地が事後検証によってしかわからない場合

TRPGはいわゆる「繰り返しプレイ」ができないゲームで、未公開の設定内容を推測することが勝敗を大きく左右するゲームだ、とします。そしてトロルのねぐらがあるという山に入り込んでトロルを退治するというミッションにパーティーが一丸となって取り組むケースを考えてみます。

ここで、パーティーを待ち受けている危険にどのような者があり得るかはかなり予測が困難です。毒の沼があるかも知れませんし、狼の群れがいるかも知れませんし、野盗団が襲ってくるかも知れません。(あるいは何の危険もない安全な山かも知れません。)もしもパーティーがそれらの危険について事前に知ることが全く不可能な仕組みになっており、かつ運悪くそれらの危険に遭遇したら生き残ることもできない仕組みになっていたとしたら、その分だけそのゲームは運試しの要素が増えます。あらゆる危険に備えようとパーティーがあれこれ工夫こらすことはもちろん可能です(実際に全ての危険に対して備えることはできないとしても)。ですが、もしも「事前に知ることが全く不可能な仕組み」になっていたら「たまたま狼の群れと毒の沼とその他23種類の危険に対して備えておいたのが功を奏して、狼の群れに遭遇することを避け、毒の沼地に踏み込むことも避けられた」「でも狼の群れと毒の沼の代わりに毒蛇と土砂崩れに備えていたらパーティーは全滅していたかも知れず、そうしなかったのは結局のところ運だ」というような事態になると思います。

もちろん、運試しに出た場合でも「山は危険な場所だという噂もあるし、常識的にも山は危険な場所である場合がある可能性があると考えられる」というような情報を元にあれこれの危険に備えるという工夫をしているので全く工夫をしていないわけではないのですが。

これに対して、もしも「実はきちんと町で情報収集をしていたら、長い間山に狩りに入っている人々がいることを知り、彼らに会えば山の危険について具体的な情報が得られるようになっていた」のだとしたら、「実は工夫の余地があったのに、運試しに出てしまっただけだ」ということになります。

以上の例で、「山に入るに際してどういう準備をしていくか」という意思決定に「工夫の余地」があったかということを考えると、プレイヤーはそのゲームを一度プレイしただけでは「工夫の余地がどの程度あり、どの程度は運試しなのか」がわかりません。(いろいろと戦略を変えて繰り返しプレイすることができれば別かも知れませんが。)

例えばプレイヤーの中には、「この辺りの気候から考えて毒の沼がある可能性がある」と考えた人がいるのですが、いったいその推論が正しかったのかどうかはGMに後から聞いてみないと(そしてGMが気候のことと毒の沼を全然関連付けずに設定を準備していたことを知るに至らないと)わからないままです。この推論は誤った仮定(気候によって毒の沼の有無が左右されるという仮定)に基づいたもので、結論がたまたま的中したことは「運試しに成功した」のと同じだと言えると思います。が、それは「事後検証」をしないとわからないわけです。同様に、「そもそもこのゲームではこのような危険に遭遇することを工夫によって避ける可能性があったのか」ということも、事後検証をしないとわからないと思います。「一応出発前にどういう準備をしていこうか考える場面があったけれどもあの意思決定の際には何も手がかりがなかったし、それ以前に山裾の村で人々にあれこれ聞いてまわった時にもめぼしい情報が何もなかったから、あの部分は結局運試しだったのではないか」とあるプレイヤーは考え、「でももしかしたら誰か特定の人を見つけて話を聞いていたらもっといい情報が入手できたのではないか」と別のプレイヤーは考えるのですが、事後検証をしなければそれも確かめられないままに終わります。

もう一度言い換えると、「ある意思決定に際して、情報がなければないなりに工夫をすることはできるし、手がかりになる情報が何も与えられていなくても勘違いによって何かの情報を手がかりに推論してしまうこともありうる。だが、実際にある意思決定にどの程度工夫の余地があったのかは事後検証をしてみて始めてわかる」ということが言えるように思います。

3)考えられる反論2種

反論が2つ考えられます。それは上のような立場を完全に否定するものというよりも若干の修正を迫るものという感じがします。

ひとつの反論は、「もしも必要な情報が完全に与えられていたらむしろ工夫の余地は何もない」というものです。これは「必要な情報」をどう定義するのかにもよると思うのですが、上の「山に入る際の準備をめぐる意思決定」であれば、十分な量の情報が与えられていたら「毒の沼地と狼の群れと野盗団にだけ気をつければいい」という判断をするには工夫は必要なさそうです。ただ、その情報を獲得するために事前に工夫をしたことや、それらの判断から具体的に装備や移動ルートなどを決める工夫が必要になるわけですが、それは別問題です。

例えば「毒の沼地」の詳細が与えられておらず、それが沼地が形成された歴史的な経緯からだけ推測できるようになっている場合は工夫の余地があると言えるかも知れません。あるいは毒の沼地という形ではなくて「奇妙な病に冒されることになる土地」だという情報だけがあり、川の水や辺りに棲む獣に現れた症状などからある種の毒だと推測できるようになっているとか。いずれの場合も、実際にゲームとしてそうした推測を楽しむことは難しそうですが、原理的には「必要な情報は与えられており、なお工夫を必要とするケース」だと考えられます。つまり「必要な情報を与えられていれば必ず(事態が明らか過ぎて)工夫の余地がなくなる」というわけではなくて「必要な情報が与えられていて、かつ、工夫の余地が残されている場合がある」と言えます。

もうひとつの反論は、上のひとつめの反論の続きのようなものです。「明らか過ぎる情報が与えられていたら未公開部分の設定を推測するという工夫は成り立たない」という上の批判に加えて「しかも、明らか過ぎもせず、かと言って難し過ぎもしない情報を与えることは非常に難しい」というのが2つめの批判です。 これは別の形で言うと、「事後検証をして、実は工夫によってもっと多くの手がかりを得る余地があったし、それを思いついてしかるべきだと考えられるような手がかり(もっと情報収集活動をすべきだという示唆)がPC達に与えられてもいた」ということをGMが示したとしても、プレイヤー達はそれを否定する可能性があります。「そんなささいな手がかりだけじゃもっと情報収集をしたらもっといい情報が得られるなんていうことはわからない」「情報収集をあの時点で打ち切ったのは工夫が足りなかったからではなくて、与えられた情報からの妥当な結論のひとつで、もっと情報収集をすることにしていたとしても、やっぱりそれはそれで妥当だけれども、どちらを選ぶかは結局偶然に左右される問題だ」と。myrtさんが既に指摘している点ですが。

これはつまるところ「何が明らか過ぎて工夫する余地もないような情報で、何がささやか過ぎて見落としてしまうような情報で、何が適度に思考を要求するような手がかりか」という問題だと思います。その点についての感じ方がプレイヤー毎に違うために、TRPGでは大多数の人がが「ここには工夫の余地があった」と認めるような局面というのはなかなかないだろうと言えるような気もします。(もっとも、TRPGでも未公開の設定部分を推測する工夫ではなくて、戦闘ルールに基づいた戦闘のように、乱数要素のある状況で最適の行動を選択するような工夫であればまは話は別ですが。)

ただ、それは結局TRPGは「未公開要素を推測するための工夫を楽しむゲームとしては遊びづらい」という結論に至るということであって、依然として「工夫の余地は必要な情報が欠けていれば低くなる」ということに変わりはないと思います。

4)まとめ

以上をまとめると次のように言えると思います:
TRPGにおける未公開要素を推測する工夫について、
必要な情報が与えられていて事態が余りに明らかである場合には工夫の余地がなく、
必要な情報が与えられていない場合には運試しを迫られることになり工夫の余地がない。
その部分を推測する手がかりが全て明白に与えられていて(運試しの余地がない)、かつ、未公開部分が推測困難になっている(工夫を要請する)場合に、工夫の余地が最大になる。
但し、ここで言う「工夫」は、プレイの実態に照らして、プレイヤーが目指した中間的または最終的な結果を達成できる確率を増大させるような行為を指し、プレイヤーにとっては工夫のつもりであっても実際には偶然そのような効果を持っただけの行為は工夫とは呼ばない。



事後検証の問題は、主に「プレイヤーは工夫だと思っていた(か工夫になっているか自信がなかった)けれども実態として運試しだった推測」と「実際に工夫たりえていた推測」を区別するために必要で、事後検証を経て初めて、どの場面にどのような工夫の余地があったのか、がわかることになります。

事後検証の結果、多くの事柄が運試しであったことがわかったとしてもそれはそれで「運試しが多いゲームだった」ということになるだけなので、「工夫の余地がどこにどのような形で存在していたか」「自分の工夫がどんな風に結果に結びついたか」を気にしないようなプレイヤーには興味がない作業になるかも知れません。
2002年05月05日:17時45分30秒
【乱数要素のゲーム分析】結果重視と検証の必要性 / myrt
 ゲームが「プレイヤーが工夫によって導き出しうる最善の戦略を取った場合、 勝利する/あるいは敗北しないことを保証する性質」を持つ場合の 検証について考察してみます。

 最初に最善の戦略を取れば次に最善の戦略を取るための情報が必ず明らかになり(あるいは なっており)、その連鎖が最後まで続くことが保証されるシステムはあります(主にパズル雑誌の パズル)。広い盤面のペンシルパズルは、最初は終盤に埋めるべき部分をどう埋めたら良いかの 情報が足りません。しかしすでに情報がある部分から埋めていくと、次の部分を埋め るための情報が必ず明らかになるようにデザインされています。

 このようなパズルでは記入ミスによるものを除けば、「情報が十分であるのに、知恵(とか時間 とか根気とか)が足りないためにとん挫する」「パズルを解いてしまう」のどちらかの結果に終 わります。どちらの結果も、回答を見る必要はなく結果が明らかです。しかしとん挫してしまった 場合には、とん挫した先にパズル的な欠陥があったかどうかを知ることはできません。この 場合、欠陥がなかったかを知るためには検証が必要になると考えられます。

 また同様の趣旨でゲームをデザインしたとき、パズルと違い解法が一意でないかも しれません。ならばある解法でそのゲームをクリアしたとき、もう一つの解法で解こうとした ときにこの「工夫により必ず解ける」性質があったかどうかをプレイヤーが知るには検証が 必要になるかもしれず(もう一つの解法のための情報を得る必要が必ずしもなかったた め)、「もう一つの解法のルートに乗ったときにクリアできる保証があったかどうかわから ない」ならば「我々がクリアできたのは、たまたま正解の解法ルートを選んだからだ」と 考えるかもしれません。

 以上のことから、「プレイヤーが工夫によって導き出しうる最善の戦略を取った場合、 勝利する/あるいは敗北しないことを保証する性質」を求めるならば、その性質を確認 するためにはプレイ後の検証が必要な場合があると考えられます。

 次に、ゲームが「プレイヤーの戦略が優れていて、かつ運が良かった場合に勝利できる 性質」を持つ場合の検証について考えてみます。

 コンピュータゲームやTRPGには、どんな乱数をどう用いて処理しているかをプレイヤー に対してプレイ中には隠蔽する場合があります。これを悪用すれば、決してプレイヤーが 勝利もしくは敗北できないようなシステムを構成し、かつそれをプレイヤーに対して(少 なくとも1プレイの間は)完全に隠蔽することが可能です。それどころか乱数の結果を 公表していてさえ、「他の戦略/乱数により敗北/勝利ルートがあったんだが、今回は たまたま観測されなかったんだ」と言い張られるかもしれません。

 よってゲームが「プレイヤーの戦略が優れていて、かつ運が良かった場合に勝利できる 性質」を持つかどうかを知るためには、事後の検証が必要である場合があると考えられま す(必ずでないのは事前のルール解説で検証済みの場合がありうるため)。

 以上のことから、これら性質に関する検証の必要性は乱数要素の有無とは関係がないよ うに思います。
2002年05月05日:17時44分02秒
【乱数要素のゲーム分析】わからないことと工夫 / myrt
(Re:2002年05月05日:05時43分02秒【乱数要素のゲーム分析】Re:手がか りとゲームの実態 / トモスさん)
>>「ある意思決定を行う際に、その決定に必要な情報は全て手元にあるか、必要な情報を獲 得する機会が事前に与えられていたか、そうでなければその決定の結果が取り返しのつかな い事態をもたらさないようになっている」<<

 致命的な結果を招きうる決断を、十分な情報なしに強いられることは良くありま す(実世界では進学先の選択とか)。加えてランダム性を含む大抵のゲームにおいて は、後知恵から導かれた最 適戦略を選択していてさえ究極の不運のために敗北する場合があります--これは丁半博打で ダイス目をあらかじめ知っているレベルの有利さを想定しています。ソードワールドで こちらのダイス目がことごとくピンゾロであることがわかっているとき、どんな戦略を立てれ ればボスに勝てるでしょうか。 以上のことから、取り返しのつかない事態をもたらさないことは一般に保証されるわけ ではないと思います。

 私は「ある意志決定を行う際に、そのために利用できる情報は手元にあるもの だけである」という面から、どれだけ工夫できるかと事後検証は関係ないと考えています。 あるのは「そう工夫したらどんな結果になったか」を論じるときであり、それは結果論であ ると考えます。変形丁半博打の例で示したように、工夫をすればするほど実態における勝率 が下がる場合があります。

>>1)TRPGでは、ゲームの目的が何であるか、結果がどのような範囲に収まるか、などを事前 に知ることは必ずしも可能ではありません。<<

 その場合は、「わからないこと」がわかっています。事後にどんな実態が発覚しようとも、 この時点でそれらがわからないことに変化はないので、この時点での工夫の余地は変わりません。

>>2)更にTRPGでは、定義され切っていなかったりすることもあります。<<

 これも「これからどう定義されるかわからないこと」がわかっています。

>>3)プレイの諸局面の間のつながり(=局面の展開を決定するルール)がわかりにくいた め、中・長期的な戦略が立てにくくなっています。<<

 実際のプレイにおいては一番やっかいな点ですが、理論上は簡単です。この時点で局面間 のつながりについてわかっていることだけから立てられる中で最善の戦略を探すことが、 この時点でなしうる最良の工夫です。

>>4)更に、TRPG独特の特性として、「局面の展開についてのルール」が未定義だということ も挙げられます。<<

 これも同様です。

 あるカードゲーム(名前失念)で「勝利条件がカードに書かれていて刻々と
変わるゲーム」がありますが、このゲームをカードの種類を全部知ることなしにプレイする 場合を考えてみます。目指していた勝利条件が変更されるどころか、いきなり勝利や敗北を 宣告される場合もありえます。じゃあプレイヤーは漫然とプレイすれば いいのかというとそうではなく、それでも知り得た情報の中から最善の戦略を探すこと が「工夫を試みること」だと思います。
#まあ、ルールを把握するまでは漫然とプレイしてみようってこともありますが。

>>事後検証をしてみると、実はプレイヤーが気が付いてしかるべき手がかりがあったり、<<

 手がかりの部分を、プレイの録音をもう一度聞かせて「ここにヒントがあるぞ!」と 教えたとします。それで納得しないのであれば工夫の余地はなかったことになるし、納得する のであれば「判断前の時点で得られていた情報」だけから工夫の余地が判断できたこ とになるのではないでしょうか。だからGMの管理していた裏設定を検証する必要はないと思います。

>> ここで事後検証をすると、「実は自分達の薬の使い方がよかったために決定的な情報の獲得に つながったと思っていたけれども、実際には勘違いで、勘違いの仕方がたまたま被害をもたらさな かっただけで、つまり、工夫による成功だと思っていたのは実は運試しによる成功だったのだ」と いうことが明らかになる場合があります。こういう可能性を気にするとしたら、事後検証をするだ ろうと思います。 <<

 私も、そういう可能性を気にするなら事後検証をすべきだと思います。しかし工夫の余地の観点 から見ると、「薬の使い方についての情報から、どのように判断ができたか」だけが問題になりま す。だから「実は薬が毒薬で飲んだら即死」であったとしても、得られる情報が同じであるならば どう判断すれば良いかに関する工夫の余地は変化しないので、事後検証と工夫の余地は関係ないと 思います。

 ただし、工夫の余地のための手がかりを矛盾なくプレイヤーに提供していくためには、 これら検証に耐えうるような実態を用意しておくことが一番楽であると思います。 透明薬の例であれば、実態が幸運薬であれば「偵察の成功例がある」と説明することにより矛盾の ない情報でプレイヤーを信じさせる(そして判断のための情報とさせる)ことができますが、 毒薬だとそう簡単にいきません。

 矛盾させずにプレイヤーをうまく騙すには、プレイヤーに観測させる仮想ゲームと GMが裏で動かす実態ゲームの二つを同期させて動かす必要があり、普通に実態を用意する よりも難しいと思います。最後までばらさない(途中で相違点の手がかりを出さずに検証だけで 判明するようにする)ならば自己満足にしかなりませんし。
2002年05月05日:05時43分02秒
【乱数要素のゲーム分析】Re:手がかりとゲームの実態 / トモス
5月3日18時付けのmyrtさんの投稿へのお返事です。

>>手がかりが十分与えられていて、GMの管理している実態がそれと矛盾していないのであれば、否応なく実態はゲームであるはずです(でなければ不正確な手がかりである)。

>>事後の観測が事前の観測と矛盾しない限りにおいては、事後の観測結果の範囲は事前に明らかであることになり、その範囲で事前に成果を保証できるものだけが「工夫」と言い切れると思います。

>>トモスさんは工夫の余地のなさは事後の観測によって明らかになると考えられているようですが、私は理想的な状況では、それは事前の観測で明らかになると考えています。

これらの点については賛成です。また、これらの論点を例証する形で持ち出されている丁半博打の件もわかりやすかったです。

ただ、myrtさんも示唆しているように、これらの議論はTRPGにはあてはまらない面があるように思います。そこで、その部分の議論をやってみます。

マインスイーパーやTRPGなどではどういう手がどういう局面の展開を引き起こし得るのかを調査しながらプレイするものです。そこで、未公開要素があるゲームには「事前に成果を保証するもの」としての工夫だけではなく、プレイ中に得た情報を元に行う工夫が必要になってくきます。myrtさんが上で「理想状況」とした事態が成立しないわけです。「事前」というのを拡大解釈して、「ある意思決定を行う際に、その決定に必要な情報は全て手元にあるか、必要な情報を獲得する機会が事前に与えられていたか、そうでなければその決定の結果が取り返しのつかない事態をもたらさないようになっている」という風に考えれば納得が行きます。ここで、「必要な情報が事前に与えられていたか、そのような情報を獲得する機会が与えられていた」という事は、プレイ中にはわからないので、プレイ後に検証すると思います。

これはmyrtさんがとりあげた丁半博打の例とTRPGを比較してみると、わかりやすいような気がします。丁半博打の場合と違って、TRPGには次のような4つの特徴があります。

1)TRPGでは、ゲームの目的が何であるか、結果がどのような範囲に収まるか、などを事前に知ることは必ずしも可能ではありません。ゲームブック(はやや解釈が難しい事例ですが)やコンピューターゲームでも、どのような結末がありうるのかがわからないままプレイが始まる場合があると言えそうです。

2)更にTRPGでは、定義され切っていなかったりすることもあります。例えば、「トロルを退治しに行ってあれこれ事の真相を知るにつれて依頼主に非があると感じるようになり、結局は依頼主を説得してトロルを退治せずに終わった」などという展開は、PCの性格設定やその世界の常識などを手がかりにプレイヤーやGMが、プレイ中に、プレイの目的を摸索・定義した結果生じるものだと言えます。プレイ前には「与えられた状況の中でPCがPCらしい行動をとること」という程度の漠然とした目的があっただけだ、と。

3)プレイの諸局面の間のつながり(=局面の展開を決定するルール)がわかりにくいため、中・長期的な戦略が立てにくくなっています。「観測結果の間の論理的なつながり」とmyrtさんが呼んでいるものにあたると思います。これは、ゲームブックや一部のコンピューターゲームでも見られる特徴です。

4)更に、TRPG独特の特性として、「局面の展開についてのルール」が未定義だということも挙げられます。GMもプレイヤーも事前には考えなかったような展開に、プレイしている内に思い当たり、実際にそれを採用することになる、というようなことが起こり得ます。

#以前未定義性について議論した際には、(a)未定義性があるとゲーム核が固定されないからゲームの成立を不可能にする、(b)制御層を固定すればゲームが成立すると考えられる、などという意見を摸索したわけですが、結局のところ(c)制御層の固定ではなく工夫の余地があるかどうかによってゲームが成立するか否かを考えていく、という立場を摸索しているのが現在の議論なので、僕は「未定義性があっても工夫の余地はありうるのか?」という問題をここで検討している形になります。それだけを検討しているわけではありませんが。

以上4点の内、1)と3)は未公開の設定内容が工夫の余地とどう関わるか、2)と4)は未定義の要素が工夫の余地とどう関わるかについての疑問につながります。

未公開要素があっても、未定義性があっても、それだけで即工夫の余地がなくなるわけではなく、上に書いたように、「その後の展開に取り返しのつかないような影響を与える意思決定に際して、必要な情報が全て与えられている、情報を獲得できる機会がそれ以前に与えられていた」という条件があれば、それで工夫の余地があると言えます。そのような形で情報が獲得できる仕組みになっていいないプレイは、その分だけ工夫の余地がなく運試しになっていると言えます。

ここで、プレイが終わった後で、「あそこに罠があるなんてどこにも手がかりがなかった。このシナリオはよっぽど運がよくないと達成できないものだった。」とあるプレイヤーが感じたとしても、本当にそうだったのかは、「事後検証」をしてみないとわからない場合があります。(事後検証をしてもわからない場合がある、という点も僕には非常に気にかかっているのですがそれはとりあえず考えないことにします。)事後検証をしてみると、実はプレイヤーが気が付いてしかるべき手がかりがあったり、ただの罠だと思っていたものが実は隠しておくべきPCの行動が事前に敵にばれてしまったために敵がわざわざ仕掛けたものであったということが明らかになったりするかも知れません。検証をしないことには、「本当にその部分には工夫の余地がなかったのか」は断言できません。

同様に、「あの工夫は非常によかった。成功のカギになった。」などと感想を抱くプレイヤーがいたとしても、検証をしてみたら実は工夫だと思っていたものが運試しでしかなかったということも考えられます。

この2つ目のケース(工夫だと思っていた行為が運試しに過ぎなかったケース)について、例を考えてみます。「ある薬を飲むと透明になれるので敵の拠点に潜り込むのに有効である」という情報を手に入れてその薬を使って斥候に向かうという工夫を実行したとします。この時、実は薬についての情報は嘘で、薬の効果は幸運をもたらすことだったとします。幸運のために敵が居眠りをしていたり物音に気が付かなかったり、よそ見をしていたり、ぼやが発生して煙で視界がぼやけたり、罠も作動しなかったり、といったことが続いて情報収集に成功したのですが、薬が身体を透明にしなかったことについては気付かないままに終わった、とします。

ここで事後検証をすると、「実は自分達の薬の使い方がよかったために決定的な情報の獲得につながったと思っていたけれども、実際には勘違いで、勘違いの仕方がたまたま被害をもたらさなかっただけで、つまり、工夫による成功だと思っていたのは実は運試しによる成功だったのだ」ということが明らかになる場合があります。こういう可能性を気にするとしたら、事後検証をするだろうと思います。

一般的に、「誤った思い込みに基づいたプレイ」は工夫の余地を減らし、運試しを持ち込みます。「正しいかどうかはわからないけれどもたぶんこうなのではないか」と考えている限りでは、いわば「自分の暫定的な仮定が正しいかどうか常に手がかりを探していて、推測の作業が続いている」というプレイをしていることになるので、運試しをしていないと言えるだろうと思うのですが。

以上から、「工夫の余地」は、プレイヤーが「運試しを強いられる側面」だと思っていた事柄について存在していたり、逆に「工夫の余地がある」と思っていた事柄について存在していなかったりすることがあり、それを確かめるためには事後検証が必要になる、と言えると思います。これは「未公開要素」があるゲームに広くあてはまるものだと言えそうです。(マインスイーパーや一部のカードゲームなど、未公開部分がランダムに設定されているものについてはあてはまりませんが。)また、TRPGの場合には局面の展開のルールや目的に「未定義性」があるために、その未定義性からも同様の効果が生じる、とも言えるのではないかという気がします。

まだいろいろ細かく考えられそうですが、とりあえず今回はここで終わります。
2002年05月03日:18時10分49秒
【乱数要素のゲーム分析】手がかりとゲームの実態 / myrt
(Re:2002年05月03日:02時49分36秒【乱数要素のゲーム分析】観測の役割 / トモスさん)
極めて長文なので、結論を先に述べます。
>>「ゲーム性重視のプレイ」をする際の問題は、「工夫をするための手がかりがきちんと与えら れているかどうか」ではなくて「プレイの実態がきちんとゲームになっているかどうか」だと思 います。<<

 手がかりが十分与えられていて、GMの管理している実態がそれと矛盾していないのであれば、 否応なく実態はゲームであるはずです(でなければ不正確な手がかりである)。裏でいくらまともな システムが動いていても、手がかりがなければプレイヤーは手の打ちようがありません。また ゲームでないシステムが動いていて、それに関する十分な観測を許せば、「工夫のための手が かりがない」ことがわかると思います。

>>観測というのは、僕にとっては、「ある遊びがゲームになっているかどうかを知るための手 段」だという気がするのですが、myrtさんの場合、「あるゲームを遊ぶ際に必要な手段(工夫 をするために必要な手がかりを得る手段)」にもなっているようです。<<

 まず、事後の観測によってイカサマが判明する場合がありえます(事前に判明した場合は どうなるんだろう)。これは通常のボードゲームでは必要ない場合があるので、かなり軽視して いました。

 次に、結果を観測する意味での事後観測が必要になります。今まで私が述べてきた「工夫 のための観測」は、常に次の工夫のための観測でした。しかし工夫を試みた後にその結果が 観測できなければ、「クイズを出題されて、答えても答え合わせなしに次の問題に移られ る」ような欲求不満感を感じると思われます。

 ここでTRPGでは、イカサマとGM権限は紙一重です。だから通常のボードゲームではイカサマ を見破るものと同じプロセスをへて、それがゲームかどうかを確認しているのではないでしょ うか。

 しかし逆に言えば、矛盾さえしていなければ良いとも言えます。トモスさんは工夫の余地の なさは事後の観測によって明らかになると考えられているようですが、私は理想的な状況では、 それは事前の観測で明らかになると考えています。

 (2002年05月02日:17時34分45秒【乱数要素のゲーム分析】混合戦略とTRPG / myrt)で示した、 紙コップとダイスの例を、今度はGMサイドから考えてみます。GMサイドからは、すぐにプレイ ヤーが「とりあえず丁にかければいいんじゃないか」と思いつくことが予想できます。ですから、 丁の目を出して紙コップを伏せておけば、プレイヤーが悩めば悩むほど期待値が下がるように 細工することができます。逆に、プレイヤーが丁半いずれに賭けても期待得点が同じになるよ うな確率で目を出す変形ダイスを振ることだって可能です。

 GMのそれらの細工はプレイヤーの工夫を台無しにするものでしょうか。私はそうは考えません。 プレイヤーの工夫は、GMが(1,0)から(0,1)までの任意の確率で丁半を管理している限り最低の 期待得点を保証するものですから、それらの細工は十分予測の範囲内です。逆に言えば、それ以上は 予測できないことを観測から知っているべきだと考えます。

 観測主義的に考えるとプレイヤーがプレイしているゲームは、「それまでの観測結果を
返すようなゲーム」であるわけです。ここで工夫の余地の問題になっているのは「GMが紙 コップの中にどんなダイスを伏せているかわからないゲーム」であり、後に「伏せてある のが6面体」「伏せてあるのは変形ダイス」などどんな実態が明らかになろうと、この時点での 工夫の余地は変化しません。もしGMがイカサマをしていてこの後のプレイが台無しになったとし ても、「GMが紙コップの中にどんなダイスを伏せているかわからないゲーム」なるものに工夫 の余地があったことには変わりありません。

 以上のことから、事後の観測が事前の観測と矛盾しない限りにおいては、事後の観測結果の 範囲は事前に明らかであることになり、その範囲で事前に成果を保証できるものだけが「工夫」と言 い切れると思います。それ以外はただの当てモノでしょう。事前に成果を保証できるので、これまで 結果を確認する必要を感じていませんでした。

 ここで、工夫と努力は分けて考えます。著しい努力の結果「どの手を打っても結果が変わら ない」とか「結果が変わるが、どうなるかの手がかりは全くない」ということが明らかになっ たとき、これを工夫とは考えません。ゲームブックの場合、「これ以上考えても仕方ない」こと は良くあります。

 ところがTRPGの場合、論理的推論には限界があります。シミュレーションの柔軟性のために それぞれの観測結果の関係がアバウトであり、参加者間においてその共有が保証できません。 GMは筋が通ってるつもりでも、プレイヤーが「論理的矛盾だ!!」と言い出す可能性は常にあります。 ところがGMが「それぞれの観測結果にはこういう論理的関係を想定しているんだ」とシナリオを バラすと興ざめになってしまいます。この問題に対処するために、プレイヤーの思考中に修正を 入れる、プレイ終了後に想定していた論理的構造を説明するなどの過程が必要になる場合が考えら れます。

>>体験主義者は、プレイ中にそれに気付かないままに終わり、「結局全滅しちゃったけれど、 あそこでもう少し情報収集をしていたらこの大掛かりなトラップの話もきくことができていた だろうに、ちょっと作戦を誤ったな」などと反省し、あたかも「より工夫していればよりよい 結果につながる余地があった」かのように、つまり「ゲーム」であったかのようにプレイを 振り返ります。<<

 「もう少し情報収集をしていれば」は「たまたま大がかりなトラップの道を通らなかった ら」と同程度に結果論であるように感じられます。工夫を問題にする なら、「もう少し情報収集をするべきであることがその時 点でわかっているべきであったか」が重要だと思います(永久に情報収集しているわけにも いかないし)。事前にわかっているべきかどうかを知るためには、基本的に事後検証は 必要ありません(「事前にわかっているべきかどうかを知る」べきことを知るためには必要かも)。
2002年05月03日:02時49分36秒
【乱数要素のゲーム分析】観測の役割 / トモス
myrtさんの最新の投稿を2本ざっと読んだ時点での非常に手短な感想ですが、僕にとっては違う2つの事柄(2種類の観測)をmyrtさんは同一の事柄としているような感じがします。前から薄々感じていたことなのですが。今回はそれが何かを摸索してみます。

観測というのは、僕にとっては、「ある遊びがゲームになっているかどうかを知るための手段」だという気がするのですが、myrtさんの場合、「あるゲームを遊ぶ際に必要な手段(工夫をするために必要な手がかりを得る手段)」にもなっているようです。

これと並行して、観測と工夫の関係について、僕は、「観測(とりわけ事後検証)をすると、その結果として、その遊びに工夫の余地が本当にあったのかどうかがわかる」という風に考えています。「工夫の余地が本当にあったのかどうかがわからないままに終わる」という場合もあるのですが。いずれにせよ、観測は「自分がプレイしていた遊びが実際にゲームであったかどうか」を考えるための手段になっているわけです。これに対してmyrtさんの考えでは、「プレイ中に戦略を考えるために必要な手段」にもなっているという感じがします。

今回のmyrtさんの投稿についても、その直前の僕の投稿が「TRPGのセッションが終わった後に、そのセッションが工夫の余地のある遊びたりえていたかどうかを観測(事後検証)によって確かめることはできないような気もする」と感想を書いたことに対して、myrtさんの議論は「観測を通じていかにセッション中に工夫のための手がかりを手に入れるか」を検討したものになっている気がします。

myrtさんがどうしてそのように考えているかがまだよく呑み込めていないのですが、とりあえず自分がどうしてそういう風に考えているか、を説明してみます。

TRPGやゲームブックは設定の一部が未公開になっています。未公開の設定部分を予測することが勝敗を分ける重要な工夫になっています。ここで、設定内容が実際何であるかについては、プレイヤーは膨大な可能性を想像できます。ですが、架空世界の常識や調査して獲得した情報などをもとにして、いろいろな仮定を立てて(あるいは立てていることにも気付かないままに)起こりうる出来事を絞り込んでいるのだろうと思います。

もしもプレイ中に感じたことだけを問題にするなら、このような思考のプロセスは「工夫を楽しむこと」なので、もうこの時点でプレイはゲームたりえている、と主張することになります。体験主義というのはそのような立場です。

ところが、プレイヤーが工夫を楽しんでいたとしても、実際の設定内容の方が実にお粗末で、到底推測できないような事柄た大量にあるとします。「到底推測できない」というのは、工夫だけによって正しく推測することが不可能で、運がよければ正しく推測することが可能になる、ということです。つまり、ここには工夫の余地がありません。

体験主義者は、プレイ中にそれに気付かないままに終わり、「結局全滅しちゃったけれど、あそこでもう少し情報収集をしていたらこの大掛かりなトラップの話もきくことができていただろうに、ちょっと作戦を誤ったな」などと反省し、あたかも「より工夫していればよりよい結果につながる余地があった」かのように、つまり「ゲーム」であったかのようにプレイを振り返ります。「実際にどうなのか」を確かめる必要性を感じない人(体験主義者)にとっては、これで十分です。例の「極小制御層型TRPG」であっても、こういうプレイヤーには十分楽しめる可能性があります。

ですが、「自分はこれをゲームであるかのようにプレイできたけれども、果たして本当のところはゲームになっていたのか?」と考えるような人(実態主義者)にとっては話が別です。観測やその特殊形態である事後検証は、そのような人にとって重要な手続きだろうと思います。「勝敗は工夫とは関係がなかった」「運がよくない限りは到底推測できないような設定内容が多くあり、勝敗を決定的に左右していた」というようなことになっていたら、それで「このプレイはゲームであるかのように楽しんだけれども、実態としてはゲームにはなっていなかった。」という結論を出すからです。

つまり、「自分がプレイしていると思っていたゲーム」と「実際のプレイの実態」を比較してみて、プレイがゲームになっていたかどうかを判断するわけです。「自分でも怪しいと思っていた推測が実は間違っていた」とか「よく考えれば推測できたはずの設定内容をよく考えずに推測していたので間違っていた」というだけなら大抵は依然としてゲームだと言える、つまり、工夫の余地があったけれども工夫し切れなかっただけだと言えるのですが、「到底推測しえないような設定があり、自分はそれについて誤った推測を行っていたために勝てない仕組みになっていた」「自分がたまたま運良く設定内容と合致した推測を行った為に各種の危険を避けることができていたことがわかり、自分の工夫による達成だと思っていたものが実際には運に支えられたものだということがわかった」などということがわかった場合には、「このプレイはゲームではなかった」ということになります。

このような「プレイの実態」を徹底的に解明しようと思ったら、GMの設定内容を見せてもらう、ダイス目がどうであったかを教えてもらう、GMのアドリブの内容を教えてもらう、などが重要になって来ます(事後検証)。ただ、「もしもあの場面でこういう手を採用していたらどういうアドリブで対応していただろうか」などといった可能性を逐一検討することは実質的に不可能なので、「こうしていたらもっと上手く行っていたと思うよ」などというGMの判断を信用することにしたり、「たぶんこの場面ではこっちの手Aをとる方がよかったのだろう」と推測を交えて判断することが含まれます。(そうではなくもう一方の手Bをとった場合には、それに続く場面で、こういう奇抜な作戦を実行することもできるが、もしかしたらそれを考慮すると手Bの方が望ましいと言えるのでhないか、GMはどのようなアドリブでその作戦に対応していただろうか、などと細かく考えていくことも原理的には可能ですが、あきらめるわけです。)

もちろん、どのようなゲームであれ、プレイする際にはあれこれの手がかりがあって初めて工夫が可能になります。それを観測と呼ぶmyrtさんの考え方もそれはそれでわかるような気がします。ですが、「ゲーム性重視のプレイ」をする際の問題は、「工夫をするための手がかりがきちんと与えられているかどうか」ではなくて「プレイの実態がきちんとゲームになっているかどうか」だと思います。手がかりがどんなに少なくてもいろいろ想像を働かせて工夫を凝らすことはできると思うのですが、問題は、そうやって働かせた想像が全然的外れで、工夫のつもりでやったことが少しもよい手になっていないような場合がありうることだと感じます。その場合、想像の仕方が悪いのか、もっと調査を行うべきなのか、それともプレイが運試しを多く要求するからそうなっているのか、が疑問になり、その疑問に答えるために観測や事後検証が重要なのだ、と。

まだうまく説明できた気がしませんが、今回はこれで。
2002年05月03日:00時32分51秒
【乱数要素のゲーム分析】工夫とより良い戦略 / myrt
 「工夫とは、より良い戦略を見つけることである」と言えるか考察してみます。 まず、戦略を「全般戦略」「限定戦略」「特定局面戦略」の3つに分類してみます。

 「特定局面戦略」は最も狭い概念で、「将棋である盤面を与えられて、次にどう打つか」という ようにそれぞれの局面に対して1手だけを与える戦略です。将棋のようなゲームにおいて は、「特定局面の純戦略(確率的でない戦略)」の数は各局面において決定的です。

 「限定戦略」はやや広い概念で、限定された局面の中でだけで用いる戦略です。 将棋で言えば「対穴熊戦略」や「A君と対戦するときの戦略」などで す。

 「全般戦略」は、そのゲームのいかなる局面に対しても「特定局面戦略」を返す戦略です(厳密にはたどりつきうる局面に対してだけで良い)。

 将棋において、特定の名人戦の棋譜を暗記してきて、相手がその手順どおりに打ってくる 限りこちらも棋譜どおりに打つ戦略を考えてみます。この戦略は、「特定局面戦略」の羅列で 構成された、相手がその手順どおり打ってくるときだけに用いることができる「限定戦略」です。

 相手が手順どおり打ってくれるとは限らない場合、この戦略だけではプレイが止まってしまい ます。そこで「相手が手順どおり打たなかった場合、投了する」という戦略を加えると、こ れは「全般戦略」になり実際にプレイに使用することができます。

 この「全般戦略」は、その名人戦と全く同じ手を打ってくる相手には勝てます。 しかしランダムに駒を動かす相手にさえほとんど投了で負けてしまいます。そこで、相手が 手順どおりに打ってこなかった場合、投了の代わりにランダムで駒を動かすように限定戦略を 差し替えることを考えてみます。投了すると必ず負けですから、いかなる戦略に対しても 強くなるか、少なくとも弱くはなりません。ならば、これは「より良い戦略」であると考え られます。

 このように、既存の戦略よりも「より良い戦略」を見つけることが工夫であるとしてみま す。「全般戦略」だけでなく、「限定戦略」や「特定局面戦略」に対しても同様の工夫が 可能であると考えられます。「今、目の前の対戦相手にだけ有効であれば良い」という限定 を加える場合など、最適戦略が何かは限定の加え方に依存します。
#その前に最適の定義にも依存するが。

 工夫の余地を考えるためには、まず限定を明らかにし、その限定における既存の戦略を 考える必要があると思います。するとプレイヤーが優秀すぎればすぐさま最適戦略に気づいてし まうときは「即座に導ける戦略を既存の戦略としたとき、それが最適であると工夫の余地 がない」と説明でき、三すくみがありえるような戦略に対する工夫については「相手の戦略を 限定したときの工夫の余地」として説明できるように思えます。

 問題はTRPGのような場合ですが、プレイヤーが与えられた情報により限定が設定できる かもしれません。ある決断に迫られたとき、決断時点で伏せられている情報はすべ て「未だ振られていないダイス目」と同様に分析すると説明できるかもしれません。
#いまいち自信なし。
2002年05月02日:17時34分45秒
【乱数要素のゲーム分析】混合戦略とTRPG / myrt
 工夫ってのが何かが微妙なのですが、「確率的(100%を含む)に良い結果 を招く戦略を、観測結果から論理的に導くこと」ではないかと考えていま す。「良い」の比較対象としては、ランダム戦略、「観測結果から一見 最も順当に見える手を選ぶ戦略」、「観測結果から一見 順当に見える手の中からランダムに選ぶ戦略」などを想定しています。
#難しく書いてますが、ようするに「直観で適当に選んだ場合」と比較してます。

 将棋のようなゲームにおいて、「ランダムな手を選ぶ戦略」が優れた一連の手を 選び続ける可能性は存在します。だから最適解を見つけるような工夫を除けば、 工夫の結果得られた戦略は確率的にしか評価できないのではないでしょうか?? だとすれば、その程度のゲームの仕組みを観測させることはそんなに難しくないと 思います。
#「優れた戦略」と「すぐれた一連の手」を別に考えてます。

 さてここでは戦略を、到達する可能性のあるそれぞれの結果の確率から 評価しています。だから繰り返しプレイされるゲームであれば戦略を評価 できるのですが、TRPGのような1回切りゲームの場合はどうなるでしょうか。

 GMが紙コップを伏せて、「さあ、半か丁か賭けろ。半で当てれば金貨1枚、 丁なら2枚。間違えたら、どちらにせよ金貨を1枚失う。1回切りの勝負だ」 と言ってきた場合を考えて下さい。

 普通考えると、丁に賭けたほうが良さそうです。しかしGMがダイスを 振る所は見なかったので、直接置いてるかもしれません。 そういえばGMは5角柱ダイスを自慢してました...さあ、どちらに賭けたほうが 有利でしょうか。

 ゲーム理論では、混合戦略で示されたミニマックス戦 略による最適解が定義されています。GMがイカサマをしていない限り、 どんな方法を取ろうとも丁と半の確率の和は1です。それぞれの出る確 率を(a,b)とします。

 さて、プレイヤーの選ぶ手も確率的に(c,d)で示し、この対を一つの戦略と みなします。「絶対半だっ」という戦略は、(0,1)で示されます。 期待得点は1*(a*c)+(-1)*(a*d)+(-1)*(b*c)+2*(b*d)となります。
(a,b)を固定すれば、期待得点を最大化する(c,d)は決まります。

 問題は、(a,b)がさっぱりわからないことです。そこでミニマックス戦 略。逆に(c,d)を固定すれば最悪の(a,b)も決まるわけですから、「最悪の(a,b)に 対する期待得点がもっともマシな(c,d)」が存在します。ゲーム理論では、 これを最適解としています。
#2戦略しかないので実は不適切かも...3戦略でやるといいかも。
#3戦略の場合、線形計画法による解法があります。

 1回切りのゲームに対して、紙コップの中のダイスが何面かすらわからない のに、ここまで結論を出すことができました。なぜこんな例を示したかと言う と、「GMがどういう設定をしてるかは、ある程度の予想しかできない」場合に 行なう推論がこれに似ていると感じたからです。TRPGにおいてGMが「情報を 小出しにしてプレイヤーに悩ませる」ことによるゲーム性はこのあたりに あると思います。
2002年05月01日:07時36分35秒
【乱数要素のゲーム分析】Re:観測と検証 / トモス
myrtさんの4月25日づけの投稿「【乱数要素のゲーム分析】観測と検証」へのお返事です。


(トモス)>>ですが、観測によって得られる情報が(その他の情報との組み合わせで?)どのような工夫の余地に結びつくのか、という点はまだ僕には答えが出せません。<<

(myrtさん)>> 以上のことから、「厳密な検証」が最適手についての検証までを含んでいるならばそこまで観測してしまうと工夫の余地がなくなると思いますし、プレイに必要なルールだけの観測であるなら工夫の余地がある場合もあると思います。工夫の余地を考える際に、観測問題を避けては通れないと考える理由がこれです。 <<

この件については納得がいきました。どうもありがとうございます。

また、観測が検証を含むようなより広い概念だとする考え方にも納得です。

そうすると、僕がこれまで考えてきた体験主義と実態主義という構図を次のように再編できるような感じがします。

これまでは「実感できるゲームっぽさ」を重視する体験主義と、「事後検証によって確かめられるゲームの仕組み(工夫が勝敗を左右する仕組み)」を重視する実態主義、という2つの立場を対照させるという形で考えてきたわけですが、ここでまず「実感」、「観測」、「事後検証」とゲームらしさのようなものを感じる手段について3種類があると考えられます。(他にもいろいろ考えられますが。)

また、「ゲームらしさのようなもの」が何であるかについては、「工夫によって勝敗が左右されることがゲームの特性だ」という僕が従来考えてきたような(「純粋ゲーム志向の結果重視のプレイヤー」の)考え方だけではなくて、(myrtさんが工夫重視のプレイヤーという形で提案したような)「目的を達成するために工夫の余地があることがゲームの特性だ」という考え方も成り立つわけです。(ゲームが何であるかについて他の考え方を持つ人もいるかも知れません。これは今並行してやっている議論で検討されているわけですが。)

TRPGで「ゲーム性重視のプレイ」をする場合にはどうなるのか、という問いにひきつけて考えてみると、その「ゲーム性」の有無をどんな風に判断するのか(実感/観測/事後検証/その他)、「ゲーム性」をどのようなものだと考えるのか(工夫の余地があること/工夫が勝敗を左右する仕組みになっていること/その他)、という2つの変数が考えられるということになります。

観測によってゲーム性の有無を判断する立場の中にも、どのような特性をもって「ゲーム性」とするかについてはいろいろと意見の相違がありそうです。


(工夫重視の立場から)「目的を達成するために工夫をする余地があること」がゲーム性だとしてみると、あるプレイの最中や終了後に、工夫の余地を観測できるかどうかが重要になる、ということになります。何となく、これは可能だという気がします。それに対して、(純粋ゲーム志向の結果重視の立場から)「工夫が勝敗を左右するような仕組み」がゲーム性であり、それを観測できることが、ゲーム性のあるプレイを成立させるのだ、と考える場合には、そういうプレイをすることはやや困難なのではないか、という気がします。まだ考えがまとまらないのでこれは今後の課題にしておきます。
2002年04月25日:15時42分16秒
【乱数要素のゲーム分析】観測と検証 / myrt
(Re:2002年04月23日:17時03分13秒【乱数要素のゲーム分析】観測を重んじ る立場 / トモスさん)
>>ですが、観測によって得られる情報が(その他の情報との組み合わせで?)ど のような工夫の余地に結びつくのか、という点はまだ僕には答えが出せません。 <<

 「厳密な検証が可能な場合」は、「想定されたシステムが正 しいことを保証できるような、事後の観測が行なえた場合」という、 観測における著しく特殊な場合だと考えています。事前の説明も、プレイ 中に得られる情報も、事後検証も、すべてプレイヤーにとっての観測となります。

 江戸時代から伝わってきた詰将棋の問題に、コンピュータによって別解が 発見される(欠陥問題であることがわかる)という事件がありました。ルールが 明らかなだけでは検証が十分だとは限らないことがわかります。

 以上のことから、「厳密な検証」が最適手についての検証までを含んでいる ならばそこまで観測してしまうと工夫の余地がなくなると思いますし、 プレイに必要なルールだけの観測であるなら工夫の余地がある 場合もあると思います。工夫の余地を考える際に、観測問題を避けては通れない と考える理由がこれです。

>>myrtさんはそれに対して工夫重視の立場から、ゲームを繰り返しプレ イするなどの可能性があれば、勝敗にはこだわらなくてもゲームを楽し むことができる、と考えたわけです。 <<

 勝つために工夫を試みる、という意味で勝敗に こだわるべきだと思います。そこから、良い戦略を取れば必ず勝てる 必要を感じないだけで。

 実際に繰り返しプレイを行なう必要があるのは、ゲーム の仕組みに関する観測が十分でない場合に限ります。その他は 仮想プレイで十分であり、それはTRPGの反省会で想定されるものも含むと 考えています。

>>繰り返しになりますが、この定義は、一般にゲームと呼ばれる遊びの中 に「工夫と運試しの両方によって勝敗を決めることを楽しむ遊び」がかな り多く含まれていることとやや緊張関係にある感じがします。 <<

 娯楽性に限れば、 プレイアビリティの問題ではないでしょうか。ボードゲームに 限って考えてみると、以下のように感じられます。

 ランダム性を除外し、かつ工夫のしどころのあるゲームは、デザイン(特に 必勝法がないかの検証)が難しく、1手の誤りが致命的になるわりに 一連の妙手を打たないと勝てません。ワイワイ騒ぎながらのプレイには向 かず、初心者の勧誘も 困難です。

 ランダム性の大きいゲームは、良い手も悪い手もそれなりにダイス目に 吸収されます。よって1手が軽く、いい加減なプレイヤーと 真剣なプレイヤーが同時にそれなりに楽しむことができます。 ワイワイ騒ぎながらのプレイできて初心者の勧誘も楽なので、この手の ゲームは同じサークル内でも多種類そろえる価値があります。よって売れるので、 たくさん製品化されます。
2002年04月25日:15時40分50秒
【比較ゲーム分析】左右重視はゲーム的な立場か / myrt
(Re:2002年04月23日:16時27分17秒【比較ゲーム分析】ゲームと 工夫の楽しさ / トモスさん) >>例えば「左右重視」の特徴は、ゲーム愛好者に見られるものだとして も、ゲームとそうでないものを分ける手がかりにはならないだろうと思 います。(少し自信がないですが。) <<

 私も確信はできないのですが...工夫重視はかなりゲームと密接な立場の ように感じられます。しかし、勝利を目指して工夫を試みるのと同じやり かたで、特定のシステムに対して敗北を目指して努力することも可能です。 ならば左右重視も、「プレイヤーが勝利を目指している」という付帯条件さえ つけばゲームにユニークな立場であるかもしれないと考えています。それがイ コール結果重視かというと、違うような気がしていますが。

 実際にボードゲーム「カタンの開拓」をプレイすると、座して勝敗が決する のを待つか、行動に出て勝敗を決するかを選べる場合には、勝利の見込みが同 程度ならほとんどのプレイヤーが行動に出ることを選択するように思います。
#というか、少々不利でも行動に出るような気が。

>>そう考えてくると特に気になるのは「運試し」と「競争」の要素です。 これが「ゲームの楽しみ」の不可欠な一部だ、という議論を立ててみます。 <<

 駒の色が格好いいという要素の無いゲームもあるように、 運試しの要素もあってもなくてもいいんじゃないでしょうか。 CSLGである大戦略は駒が実在の兵器を模していること自体に大戦略らしさが あるように、それぞれのゲームには不可欠の要素かもしれませんが。

 ただ、私は「ルールとリソースとトークン」をもってゲームを定義した ほうが楽だと思ってます。分類が簡単なので。しかし工夫の問題を無視した 定義なので、どちらにせよ「ゲームの楽しみとは何か」を問う必要性は 残ります。

 競争についてですが、TRPGに関する現在の議論ではその必要はないと思い ます。「デストラップダンジョンは単なるパズルだ。NPCと駆け引きしてナン ボだ」というような意味でのゲーム性の議論をしている わけではないと思いますので。
2002年04月23日:18時26分36秒
【比較ゲーム分析】TRPGのゲーム性 / トモス
本題に文脈を戻して考えてみます。

TRPGをゲームとして楽しむためにはどのような工夫が必要であるか、ということについて、「制御層を固定してはどうか」というアイディアに対する代案を探している、というのが大筋の議論の文脈ということになると思います。最後にこの文脈で議論をしたのは3月29日の【制御層とゲーム分析】Re:ゲーム性の成立条件としてのゲームの仕組みになるでしょうか。

これまでの議論に出てきた様々な立場を消化してまとめるにはもう少し時間がかかりますが、僕が摸索していた立場に限っては、比較的まとめられそうです。それが他の立場の見通しを整理するきっかけにもなることを願いつつ、整理、展開してみます。

いわゆる「ゲーム性重視のプレイ」で重視されるところのゲーム性が何にあたるか、と考えると、それは「プレイの実態にゲームの仕組み」があるということ、つまり、「工夫が勝敗を左右する」という特徴があることだ、というのが僕の追求してきた立場/仮説です。

工夫が勝敗を左右するためには、

「公開されている設定やルールが複雑過ぎてどう工夫していいか皆目検討がつかないこと」

「逆に簡単過ぎて工夫らしい工夫が必要ないこと」

「推測も調査も不可能な未公開要素が勝敗を左右してしまうこと」

「乱数要素が勝敗を左右してしまうこと=運試しの要素があること」

「GMの裁量が勝敗を左右してしまうこと」

「目的が困難過ぎるため、工夫によって達成できそうにないこと」

「目的が達成しやす過ぎるため、工夫が必要ないこと」

などの事態がないことが望まれます。ゲームデザイナーとしてのGMは、「ゲーム性重視のプレイ」をするにあたっては、こうした事態を抑制・排除する必要があります。

実際にそうした諸要素(乱数、未公開要素、裁量など)がどの程度勝敗を左右する仕組みになっているかは、ゲームをプレイするだけではわからず仕舞いで、プレイ後に検証をしてみると多少わかることになります。また、ある程度は「信用」などで済ませるのではないか、ということが考えられます。それは「どうも工夫が勝敗を分けるような仕組みになっていたようだ。もしかすると違うのかも知れないという可能性を完全に否定できるわけではないとしても、まあそう信じてよさそうだ」という形で「実態」の代わりに「実感」を拠り所に「ゲーム性」を考えていくわけです。これは「実態としてゲームになっているだけでなく実感できることも大切だ」という発想に結びつきます。どの程度実態を解明したいと思い、どの程度信用するか、は人によってウェイトが違うだろう、とも考えられます。
(つまり、「純粋ゲーム思考の結果重視」の立場は「体験主義」とも「実態主義」とも結びつきうるということです。)



以上が、僕が追求しようとした立場にまつわるこれまでの議論の要点だと思います。以下は、追加というか、更に展開させてみた議論です。

このような立場からは、工夫が優れていれば100%の勝率を保証し、工夫が足りなければ勝率が0%にまで低下する、という仕組みになっていることが望ましいと言えるのですが、TRPGにおいてはそれは2つの理由で難しそうです。 ひとつは、乱数要素抜きではプレイづらいため、勝率が100%になる、ということはなさそうです。

もうひとつ、未公開要素(シナリオの多くの部分)を推測することが工夫の大きな部分を占める(目的達成を大きく左右する)と思うのですが、もしそうなっているとしたら、GMは、プレイヤーが工夫によって推測できるが、工夫なしでは推測できないような、つまり、明白でもなければ、推測不可能でもないようなシナリオを用意する必要があります。TRPGは架空世界と、架空世界での常識がプレイに関わってくるため「この世界でこういう手がかりを与えられたらどういう推測をするのが凡庸で、どういう推測をするのが鋭い発想だと言えるだろうか」と考えることになると思うのですが、実際にプレイしてみると、プレイヤーはGMが予期しなかったような発想に基づいて行動したり、明白なはずの答えを見逃したり、工夫しないとわからないだろうとGMが考えた答えをあっさり見つけたりする場合があると思います。つまり、「シナリオ中心」によるゲーム性の追求は難しいのではないか、と感じます。

こうしたシナリオに関連して発生する工夫の余地と比較的対照的なのが戦闘部分です。戦闘ルールはプレイヤーには公開されており(PCには未知かも知れませんが)、武器や魔法の性能、特殊技能、各種の敵の強さなども知られている場合があります。この部分は、ある程度は、推測によってではなくて、乱数要素や公開されているルール・データを総合して各種の戦略について有利・不利を見積もる中から手を決めることができ、その判断についても、未公開部分を調査・推測する際の判断に比べたら、合意が形成しやすい(どの手が有利で、どの手が不利であるかについて合意が形成しやすい)ようなものになっていると言えそうです。そこで、TRPGのゲーム性を重視したプレイをしようとすると、「戦闘中心」ということになるような気もします。戦闘が楽しみたいだけであれば何もTRPGをやらなくてもいいような気もするのですが。しかも、戦闘部分には乱数要素が多数用いられることも多く、運試しが勝敗を左右する可能性も高まることになりそうです。

シナリオでも戦闘中心でも「ゲーム性重視のプレイ」困難がつきまとうとしたら、GMはどういうゲームを準備すればいいのか、ちょっと考えあぐねています。あるいは、「ゲーム性重視のプレイ」で追求されているのは「工夫によって勝つこと」の楽しみではないのかも知れない、と最近の議論から考えることもあります。特に「工夫自体が楽しみで、勝敗自体は余り左右される余地がなくてもよい」とする工夫重視の立場がここに何か使えるのかどうか。あるいは、工夫の楽しみ以外の楽しみが追求されている、ということがあるでしょうか? 運試しが楽しい、というような?

#ずっと議論につきあって頂いているmyrtさんには大変申し訳ありませんが、僕は今晩から1週間程外出することになります。出先からも掲示板はチェックしますが議論には参加しにくいと思うので次回の投稿は来週火曜日になる見込みです。よろしくお願いします。
2002年04月23日:17時03分13秒
【乱数要素のゲーム分析】観測を重んじる立場 / トモス
各種の「○○重視」の議論から一歩身を引いて、myrtさんとの間で意見が分かれた主な点を再考してみました。

結局のところ、僕は「純粋ゲーム志向の結果重視」の立場から、乱数要素が運試しを持ち込むことに対して抵抗していたのだと言えます。myrtさんはそれに対して工夫重視の立場から、ゲームを繰り返しプレイするなどの可能性があれば、勝敗にはこだわらなくてもゲームを楽しむことができる、と考えたわけです。

#myrtさんの立場はゲーム一般についての議論としてはわかるのですが、繰り返しプレイによる観測や手の改良ができないのでTRPGに適用するのはちょっと難しいような気がしませんか? (観測、というのは一応事後検証とは区別して考えています。もしかするとだからこういう疑問をもつのかも知れませんが。)

また、当初はこれは「体験主義と実態主義」の差かとも思ったわけですが、それはどうも違うようです。myrtさんは実態が決して明らかにならないようなゲームでも繰り返しプレイして「観測」を重ねることができれば構わないという前提で話をしていて、この「観測による判断」は「根拠が必ずしもしっかりしていない実感や思い込み」によってプレイのゲームっぽさを判断するものとも「厳密な検証」によってプレイのゲームの仕組みの有無を判断するものとも違うものです。つまり、「体験主義」でも「実態主義」でもない何か別の立場がこの問題に関しては可能で、myrtさんはそこに立っている、と感じます。

この点について考えてみると、まだいろいろわからない部分があります。

工夫の余地があれば、それはゲームである、とするのが工夫重視の立場だと言えると思います。ですが、myrtさんが以前指摘した通り、観測の結果工夫の余地があるとわかった時には、既にどういう工夫が最適であるかの答えも出てしまったようなものである場合もあるような気もします。

事前に知らされている要素や知らされていない要素がどのような形で工夫の余地につながるのかは、「乱数要素」「未公開要素」「他のプレイヤーの手」「公開されているルールやデータ」などについてそれぞれ考えられますし、4月15日の「【比較ゲーム分析】「工夫の余地」とは何か」で簡単にまとめもしました。

ですが、観測によって得られる情報が(その他の情報との組み合わせで?)どのような工夫の余地に結びつくのか、という点はまだ僕には答えが出せません。

言い換えると、「○○重視」の話は、ゲームをプレイする上でどのような楽しみを求めるか、という話で、それ以前の「○○主義」(体験主義と実態主義)については、何を持ってゲームとそうでない遊びを区別するか(プレイヤーの実感か、プレイの実態か)、その判断基準をめぐる話だったと言えます。

ここで、「純粋ゲーム志向の結果重視のプレイ」は勝つために工夫を楽しむもので、「工夫によって勝敗が左右されるようなゲームの仕組みがプレイについて存在しているのが望ましい(実態主義)」とか「そういう風になっていると感じられることが望ましい(体験主義)」などと言えます。

こうした言明を工夫重視のプレイについて行おうとするとどうなるのでしょうか?

工夫重視のプレイは、勝敗が工夫によって大きく左右されることを要請しません。繰り返しプレイなどが可能であれば、(より一般的には、観測を通じて手の有効性を知ることが可能であれば、)遊びを楽しむことができる、ということになるでしょうか。
2002年04月23日:16時39分46秒
TRPG総合研究室 LOG 098 / sf

TRPG総合研究室 LOG 098として2002年04月15日から2002年04月23日までのログを切り出しました。

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