TRPG総合研究室 LOG 087

TRPG総合研究室の2002年01月22日から2002年01月29日までのログです。


2002年01月29日:13時06分53秒
移動の提案 / トモス
#特にmyrtさんへ
#他の方の意見もお伺いしたいです。

あれこれ考えたのですが、多くの方が参加できるようなわかりやすい議論をすることの困難さを感じています。この掲示板を占拠しているような形になっているのが少々心苦しいので、外部の掲示板に移って議論を続けるという可能性を考えてみたのですがいかがでしょうか?

まだ議論したいことが残っている上、他の方々の意見を聞きたい気持ちもあるのですが、アクセス数も週500前後とだいぶ減っており、このまま続けていても匙を投げる方が増えるばかりかな、と思いました。

試みにTRPG 論考掲示板に掲示板を設置してみました。

ちなみに、移動した場合も、これまで同様、myrtさん以外の方の参加もお待ちしています。
2002年01月29日:10時49分02秒
【実装とゲーム分析】自由度をなくす自由 / myrt
(re:2002年01月27日:13時31分38秒【実装とゲーム分析】ゲーム核と実装、局面の無限性 / トモスさん)
>>TRPGは考えられる局面が無限にある上にそれらが事前に定義され切って いないので、ゲームの構造がプレイ中に変動する。それに対して将棋は、 局面も手もしっかり定義されているのでゲーム核がはっきりしてい て、プレイ中に別のゲームに移行するようなこともない。 <<

 なぜ将棋でそれが実現できるかというと、プレイ中に「将棋とは別の ゲーム」に移行した場合にはそれを将棋とは呼ばないからだ、という視 点が重要である気がしてきました。これならば3時間制限将棋から1時間 制限将棋への移行と将棋からチェスへの移行、およびそれらの場合のゲーム 核の移行について奇麗に説明できるように思えます。

 将棋からチェスへの移行しても、それはどちらも「2人対戦ゲー ム」の枠を超えません(リソースは滅茶苦茶だけど)。だからTRPGでも、 どれだけゲーム核が移行してもそれをもってTRPGでなくなることはない と考えられます。しかし、ゴブリン退治がホブゴブリン退治になることは日 常茶飯事(??)です。

>>TRPGはそもそも扱っている局面の数が無限で、一括処理が可能な単 純なものでもないため、GMはPLがとりうる行動を事前に予測し切るこ とができないし、PLのあらゆる手に対処できるような万全の準備をする ことは普通できない。 <<

 これが幻想であるという仮説を立ててみます。

 PLの行動宣言を文字列情報に落せるならば、コンピュータ文字入力型ア ドベンチャーゲームのシステムを用いることによりすべての文字列に 対する対処を定義することができます。ある行動宣言に対し て「ソレハデキナイ」と対処されるのは、その行動宣言に対し て対処「ソレハデキナイ」が定義されているからです。

>> PLが「目を閉じてしばらく思い出が頭に去来するままに任せて、 何が思い浮かぶかを見る」などと言った場合に何が去来することにす るかを事前に考えているGMは非常に少ないだろうと思います。<<

 しかしそれは待機宣言じゃないかと判定して、「特に何も思い浮か ばないね。特に行動しないなら、時間を進めていいかい??」と切って 捨てるGMはそこそこいると思います。

 TRPGでは、「GMに働きかけるが、逆効果が出て選択肢を1つ に制限させてしまう」ような自由(??)もあると思います。吟遊詩人 GMの悪口に「TRPGの自由度を不当に制限した」よばわりがあります が、「PLがGMに働きかける自由は許した。たまたまその働きかけの結果、 PCに許される選択肢が常に1つに制限されただけだ」と言い返せるか もしれません。

(Re:2002年01月27日:00時24分39秒、【実装とゲーム分析】新しい手とアンフェアさ / myrt)
>>>>「相手、もしくは審判から反則だと言わ れるかもしれないことを自覚している場合には事前申告すべき」<<<<


(re:2002年01月27日:15時07分28秒【実装とゲーム分析】Re:新しい手とアンフェアさ / トモスさん)
>>事実判断として「スポーツはこのようにプレ イされている」という意味で述べられているなら、賛成の度合いは低いです。<<

 「このようにして勝ちを狙いにいくプレイは、そのスポーツのプレイでは ない」と考えています。スポーツにおいて審判は公正中立であることに なっていますので、その審判を能動的に困らせることにより有利になろ うとする戦略はそのスポーツの戦略ではない(しかしよりグローバルなゲーム の戦略ではありうる)と考えます。

 だからわざとやった場合にも、 対外的にはあくまでも「当然認められるものだと思っていた。 過去の例に関しては我々の認識不足だった。 認められなければそれはそれで仕方ないが、審判は判定を下すことが 仕事なのだからこの程度のことは予測しておいてほしい。また公 正な判定をしてほしい(無論、不利になれば公正でないと文句をつける)」とい う立場を貫く傾向があると思います。この対外的立場が、そのゲームに対する 戦略となるでしょう。
#デジャブが。もしかしてループさせてしまいました??

(Re:2002年01月27日:17時34分56秒【実装とゲーム分析】「勝負どころ」について / トモスさん)
>> 僕は将棋の勝利条件は常に「王を詰めること」だと思ってきたので得 点性もありうる、となった時点でそれはゲーム核の変動という感じがします。<<

そうですね。勇み足でした。得点性将棋の例はマズかったです。

 ゲームの構造と勝負所についてですが、トモスさんの指摘で私の考えてた 概念が音を立てて崩れたので、修正のめどがつくまで保留させてください。 自分で実装は初期条件の設定を含むと考えておきながら、どの実装においても 初期条件が同じであると決めつけていました...

 「正しく実装しなければならない」については、どう実装したら正しいと 言えるのかという疑問に対してうまい答えを思いつきません。例えば柔道は 体重による階級区分(無差別級含む)があるのに、相撲にはありません。
2002年01月29日:10時45分40秒
【実装とゲーム分析】知覚させるための方法だけが実装のすべてではない / myrt
(2002年01月27日:04時56分45秒 Re: 【実装とゲーム分析】スポーツの ゲーム核 / Purpleさん)
>>「実装=局面を、人間に知覚させるための方法」
 という定義になっているような気もします。ただ、これだと、「局面 の総体」と相反する概念ではないような気がしてきます。 <<

 局面を人間に知覚させるための方法を用意することは実装の一部ですが、 それが実装のすべてではありません(操作面のインターフェースの提供および 諸条件の設定を含む)。それでこの疑問は解決しないでしょうか??
2002年01月27日:17時34分56秒
【実装とゲーム分析】「勝負どころ」について / トモス
(Re:2002年01月25日:18時49分17秒【実装とゲーム分析】可能な戦略と状態のネットワーク / myrtさん)

少し前の投稿に溯ってのお返事です。このmyrtさんの投稿の後半、将棋の実装がプレイ中に変更されたために勝負所が変動する、というケースについて。

>>審判「申し訳ない。時間がないので、今から全員持ち時間ゼロで1手30秒の早指しでお願いします。また会舘が閉まるのが21:00なので、20:30の段階で終っていなければ得点制(駒に点をつけて、持っている駒の得点合計が大きいほうが勝ち)で勝負をつけてください」 <<
>>形勢が有利で持ち時間も豊富だが、駒数は相手と対して変わりのないプレーヤーは愕然とするでしょう。<<
>>まずこの変更がなされても、20:30までに詰めてしまえばやはり勝ちです。このように不変な部分が、将棋にはかなりあります。<<

僕は将棋の勝利条件は常に「王を詰めること」だと思ってきたので得点性もありうる、となった時点でそれはゲーム核の変動という感じがします。
ただ、それ自体は僕の無知のせいで、実は得点制による勝敗の判定は公式ルールの一部なのかも知れません。仮にそうでないとしても、「実装がプレイ中に変更される為に勝負所が変わる」ような例は考えられそうです。「足を組み直したところ盤の一番端にあった自分の駒を落として踏んでしまい、何故か2つに割れてしまった。換えの駒もないのでセロハンテープで貼り付けて使用することにしたが、それが気になって集中できない。」としたらそれにあたるでしょうか。いずれにせよ、実装の変動で勝負どころが変動する場合がある、というmyrtさんの論自体には賛成できそうです。

ただ、そうした事よりも気になるのが、myrtさんがゲーム核を「勝負どころの変わらなさ」と結び付けている点です。

新しい手が出現しただけで変動してしまうようならそれはゲーム核ではない、という以前のmyrtさんの意見から転じて、その変動する度合い、あるいは変動しない度合いがゲーム核だ、という意見を提出されたわけですが、これはゲーム核が「安定性の度合い」であって「安定していたり、しなかったりする何か」のことではない、という論になっているところで困っています。

例を挙げてみると、スポーツはTRPGよりもゲーム核が安定している傾向にあると思います。ここでゲーム核は、安定していたりしていなかったりする何か、です。「何か」具体的に特定するなら、局面の総体、手の総体、局面の間の結びつき、勝利条件、などなどです。これらはゲームの種類によって、安定していたり、していなかったりするわけです。

で、myrtさんの議論は、こうした諸要素(局面の総体、手の総体、などなど)の安定性や不安定性の「度合い」がゲーム核だということでしょうか? そうではないと思うのですが、そんなところで行き詰まってます。

「勝負どころ」はまだ踏み込んだ定義が与えられていない用語なので、これについて、ゲーム核との関連で少し定義をやってみます。いろいろな定義の仕方がありうると思うので、myrtさんの考えている「勝負どころ」の意味とズレるかも知れないですが、それについてはまた指摘してもらった上で話す方が議論がわかりやすくなりそうなので。

ゲームの構造をネットワークとして描いた場合、ゴールに到達するのにどういう道筋がありえるかをいろいろな形で考えることができますが、特定のノード(迷路の分岐点、と考えるとイメージしやすいでしょうか)でどちらに行くかによってその後の展開が大きく違ってくる場合があります。その後の展開が具体的にどうなるのか、将棋などではよくわからない場合があると思います。こういう場面は「考えどころ」と呼べそうです。慎重に考えるとどちらかが自分にとってかなり不利だということに気づくかも知れず、それがわかった時にはもう引き返せないからです。

逆に、ある局面に到達する道筋はいろいろ考えられるけれども、そこに到達するとその後の展開が楽になることがわかっている、というケースも考えられます。
オセロでは盤の一番外周側のマスに自分の駒を置くことがとても大事だという傾向があります。そこで直接勝利条件の達成を目指す代わりに「4隅を狙う」「端を狙う」といった副次的目的を追求してプレイが行われることがよくあります。これは、ゲームの特定の局面に辿り着ければそこから先の展開が楽になるので、そのような局面のどれか一つに辿り着こうとするわけです。このような場合の「特定の局面に辿り着くかつかないか」は「勝負どころ」だと言えそうです。

将棋では「相手の角を封じる」などが副次的目的になって追求される場合はありますが、他にも非常に多くの副次的目的があり、それらを同時に追求し、ある時には何かをあきらめ、という形でプレイして行きます。オセロのように、端や隅を抑えれば他は多少失っても最期には勝てる、というような傾向は低いと思います。角を封じるために桂馬を使っていたら自分の飛車の動きがどうも不自由になり、ついでに自陣の守りもうまくない、といったようなジレンマに追い込まれる可能性が高い。そこで、将棋では「勝負どころ」は複雑で移ろいやすい、と言えることになります。ゲームの局面が変わるにつれて、勝負どころも変り、しかもそれが常に、「複数の副次的目的の間で、あちらを立てればこちらが立たないというトレードオフの関係が発生している」ような状態にあります。

更に話を溯ると、審判が新しい手を認めることがゲーム核の変動だと考えられるか、という話からこの勝負どころの話に来たのですが、そのつながりがまだよく把握できていない感じがします。
審判が新しい手を認めたらゲーム核が変動するのはスポーツでも将棋でもTRPGでも同じ、という路線で一応僕は議論してきている気がします。
そうして、いずれのゲームでも「この行動を手として認めるべきだろうか」と審判が考えに迷うような行動をプレイヤーがとる可能性はゼロではありません。
だとすると、将棋もスポーツもTRPGも未定義性のあるゲームであり、ということになると思います。これは、実装領域とゲーム核とを区別することができないのだ、ということでもあります。myrtさんの話はこれらの考えに対する異論になっているのだろうとは思うのですが。

あと、もう一点、これまでmyrtさんが出された意見の中で僕が重要だと思っているのが、「正しく実装しなければならない」という原則です。ゲーム核以外の要素がゲームの展開に非常に大きな影響を与えるとしたら、それは望ましくない。その影響が競合しているプレイヤーの一部に特に有利なものであるなら、とりわけ望ましくない、という原則があると思います。勝負どころが変動してしまうのは、単に実装上の失敗だと考えることができます。つまり、そこではゲームが適切な形で成立できなかったのだ、と。
2002年01月27日:15時13分51秒
【実装とゲーム分析】スポーツとTRPGの未定義性の違い / トモス
myrtさんのここ1、2週間の議論の方向として、スポーツではプレイ中に審判が何かを定義しなければいけないケースが少ない、という立論の試みがあると思います。

意図的に未定義性を残しておくTRPGと違って、スポーツでは、何が反則か、何を無視するか、何を手として認めるか、などをしっかり決めておくので、ゲーム核が安定している傾向にあるのだ、と。身体動作=手は無限にあるにも関わらず、未定義性に悩まされることなく(逆にその恩恵を受けることもなく)ゲームがプレイされる傾向にあるのはそのせいだろう、とも。

だとすると、基本的には賛成ですが、TRPGのことを考えるともうひとつ、「PCは非常に多様な場所、条件で行動する」ということが考えられます。スポーツでは、ルールとして、あるいは暗黙の了解として、平らな、長方形のフィールド内で、ユニフォームと靴と特定の用具のみを使ってプレイする、ということになっている傾向があります。これは、将棋が現実の戦争を簡略化したのと似たような意味で、非常に簡略化された争いの形式だと言っていいと思います。対してTRPGはそういう簡略化を避けて「複雑なままに」戦争やその他の様々な行動を扱おうとする傾向があります。絶対に簡略化をしないわけではないですが、複雑なものを複雑なままに扱おうとする傾向があるとは言えると思います。具体的には、地形、天候、装備、使用する技能、などがスポーツと比べて格段に複雑です。そうすると、単にPC間の戦闘だけを扱うTRPGがあったとしても、多大な未定義性が残ることになると思います。
2002年01月27日:15時07分28秒
【実装とゲーム分析】Re:新しい手とアンフェアさ / トモス
(Re:2002年01月27日:00時24分39秒、【実装とゲーム分析】新しい手とアンフェアさ / myrtさん)

>>「相手、もしくは審判から反則だと言われるかもしれないことを自覚している場合には事前申告すべき」ではどうでしょうか。少なくとも審判に問い合わせてOKが出れば、審判に権限がある限り相手の口を封じることができます。<<

これは、実装上の工夫として、「こういうルールがあればゲームがうまく行きやすい」という意見でしょうか? だとしたら賛成です。そういう意見があれば、ないよりはうまく行くだろうと思います。審判が勉強不足、経験不足、資料不足でとてもそういう制度を導入できない、みんな忙しい中を何とか時間を作って集まるのに精一杯なのでそういう事前の調整ができない、「過去の判例」があるのをプレイヤーが知っていて審判は知らなかったためにゲーム中にトラブルが生じる、などもちろんいろいろな困難は考えられますが、基本的にはいいと思います。

ただ、実装上の工夫、「こうするべきだ」という意見ではなく、事実判断として「スポーツはこのようにプレイされている」という意味で述べられているなら、賛成の度合いは低いです。「確かにそういう圧力はあるけれども、誰もがその原則を守り通している、という現状はないだろう」と思います。たぶんmyrtさんも同意して下さるとは思いますが。
2002年01月27日:13時53分35秒
【実装とゲーム分析】無限性と複雑性 / トモス
直前の僕の投稿に関連して、もう一点補足しておきます。 局面の数が無限でも、それが定義され切っていれば、将棋のように非常に明確なゲーム核を持ったゲームとして遊べる、という例です。

z=ax + by +c

という式があり、2人のプレイヤーがxとyに代入する値を交代で宣言し、GMはその都度、zの値を計算、2人のプレイヤーに告げるとします。
また、プレイヤーはxとyに代入する値を宣言する代わりにa、b、cの値についての予想を述べてもよいとします。全ての値を正確にあてられたら、そのプレイヤーの価値です。外れた場合には、単に外れた、という情報が得られるだけで、どの程度近いのかは教えてもらえません。
ここで、a、b、cの値は整数で、ゲーム中に変更されることはないものとします。整数であることはプレイヤーにも知られています。
プレイヤーが宣言できるxとyに代入すべき値は、実数であれば何でもよい、とします。(計算係のGMはちょっと大変ですが。)つまり、このゲームでは打てる手が無限です。

無限なのですが、定義されていない要素があるわけではなく、ゲーム中に何か新しい手が発案される、GMが準備して来た範囲を超えた手が出現する、といったTRPGのような事態も起こらないと考えられます。

無限の手がきちんと定義される場合は、このように数学的に定義されているか、そうでなければ、「ある有限の種類の記号を、ある規則の範囲内で、無限に連ねてよい」という形で定義されていると思います。(これは数学的定義を含むような、更に包括的な定義ですね。例えば10進数の実数は0から9まで10種類の記号と、小数点を無限に連ねるもので、小数点は一度しか使えないという他は制限がないものだと言えます。)

Purpleさんが指摘されたTRPGの局面の無限性は、単に無限であるだけではなくて、それら無限の諸局面を一括処理できるような単純な法則性に支配されていない複雑性を帯びた無限性だと僕は考えています。そこで、GMが事前にPLの手を予想し切って、それに備えておくことができるという保証がありません。

複雑な無限性を扱うのに事前の定義を行わないのは当然(そもそも行えない)で、それ故にTRPGは未定義性を含んでいるのだ、ということにもなります。TRPGの独自性があるとしたら、それは未定義性と複雑性ではないだろうか、と僕が提案しているのはこういうことです。

もちろんそれも、先の投稿で書いた実装概念をめぐる議論の展開によっては、「実は将棋にも未定義性があった」という形で否定されかねませんが。
2002年01月27日:13時31分38秒
【実装とゲーム分析】ゲーム核と実装、局面の無限性 / トモス
Purpleさんへ。
質問ありがとうございます。難しくて済みません。わかりやすく書こうとあれこれ工夫もしてみてはいるのですが。

>>「ゲーム核」=取りえる局面の総体

という定義に、それらの局面がどうつながっているか、を加えて考えると僕がゲーム核として想定しているものになると思います。つながりというのは、例えば局面Aでプレイヤーが手Bを打つと、局面Cへとゲームが移行する、という場合に「AとCがつながっている」という風にイメージしているわけです。「手」以外にも、乱数要素などが局面を移行させることがあると考えているので、もう少し厳密には「つながり方」にもいろいろな種類があるということにもなります。また、最近は書いていませんでしたが、勝利条件が達成されるのがどの局面に辿り着いた時なのか、も特定されている必要があります。当たり前だと思われるかも知れませんが。

これまでのところ、こういう風に定義した「ゲーム核」が同じであるかどうかによって、ゲームの同一性を判断できるのではないか、と考えてきています。駒の動き方が変わったり、2歩が許可されたりしたら、それで局面の総体や各局面の間のつながり方にも変化が生じます。そうなったらそれは厳密には「別のゲーム」だ、と考えるという方向で議論してきています。逆にゲーム核が同じであれば、一見違うゲームのようであっても、それは同じゲームだ、と。

将棋の場合、ゲーム核を知っていれば、何がよい手で何が拙い手かを研究することができます。将棋の戦略的思考(=どの手を、どのような局面で、どのような理由で選ぶのか)は、このゲーム核から決ってくる、面が強いです。但し、「相手がデートの約束があって急いでいるのを知っているのでわざと隙をつくって攻め込ませてそれをうまく迎え撃つことで形勢を有利にする」などといった実装面の問題に配慮した策が効を奏すこともあるのですが。

TRPGはルールが追加されたり、設定データが追加されたりするので、別ゲームへの移行がプレイ中に起ってしまう、という風にも考えています。

ゲーム核でない要素が実装である、というのはその通りです。実装というのはどうも使い心地がよくないので、「実装領域」と言うことが僕は多いですが、それはあるゲームの要素が所属することができる領域、というイメージで考えています。ゲーム核の領域に属するか、実装領域に属するか。ただ、この「要素」という言葉も厳密に考えようとすると厄介だと思いますが。例えば遊び手がとった行動がゲーム核に属するのはそれがまともな手である時で、実装領域に属するのは反則として規制されたり、ゲームには関係のない行為(扇子で自分を仰ぐ、とか)として無視される場合だ、と考えています。ルールの一部は、ゲームの局面の総体や局面間のつながりを定義するものですが、別の一部はそうしたゲーム核を持ったゲームを実際にどうプレイしたらいいかについての規定(駒の文字はどのような大きさであるべきか、など)だと考えています。ルールブックから一文一文をとりだしてきれいに分類できるわけではないですが。

でその後の指摘、
>>「実装=局面を、人間に知覚させるための方法」<<
>> という定義になっているような気もします。ただ、これだと、「局面の総体」と相反する概念ではないような気がしてきます。<<

を読んで思ったのですが、「局面」と言う時に、僕がそれを非常に抽象的なものとして考えているのでわかりにくいのかも知れません。

ご指摘の通り、話題にしているのは「インターフェース」と呼んできたもの、局面を人間にどう知覚させるかの話です。僕は、これまでの議論で、それはゲーム核の内には含まれないと考えてきました。実装領域の問題ないしアレンジメントだと。将棋で、ゲームの局面を人間に知覚させる手段についての取り決めは、対局中に相手の集中を邪魔してはいけない、というルールと同じく、実装領域に属するルールだと考えます。

例えば、空間的な情報を扱う思考が並外れて不得手な人が将棋を覚えるのに言葉(「1三角成」などの言葉)を通じてだけプレイを重ね、ついぞ盤と駒をイメージすることなく、将棋のそこそこの指し手になったとします。その人は将棋を「ある言葉を言われたらある言葉を言い返す」ということの繰り返しのゲームだと考えていて、ゲームの局面について、局面の間のつながりについての理解もあります。でもそもそも駒も盤も見たことがないので、「局面」は盤上の駒の配置とは結びついていません。「これまでに言われた言葉」から「今言える言葉」や「今後のやりとりの持っていき方」を考えることはできます。

言い換えると、メールを通じて行うプレイでも、駒と盤を使って行うプレイでも、それが同じ(将棋の)ゲーム核を持っていると考えられるなら、将棋だと呼べる、という考えです。「ゲーム核」は抽象的な構造なので、インターフェースが変わってもその抽象的な構造が変わらなければ同じゲームだと言えるとしています。

マルバツを例に同じことを書いた投稿が、【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装の区別:インターフェース問題にあります。*1 マルバツをカードゲームでだけプレイした人は、単純なゲームだけに、そもそも平面上に並ぶ○と×とを扱うゲームだ、ということを知らずに、カードをいかに切っていくかのゲームとして認識することができると思います。戦略を立てる時にも3x3のマスのことなど考えない。でも行っている戦略的思考は同じゲームの構造、つまり同じゲームの局面とそれらのつながりに基づいています。そこでこれを同じゲームだと扱っているわけです。

もちろん、Purpleさんの指摘通り、これらは定義なので、他の定義を採用することもできると思います。それなりに意味が通って、議論や考えを整理するのに役立つような定義の仕方は他にも幾つもあると思います。





>>「将棋だと、局面の総体は有限個。スポーツやRPGだと局面の総体が無限にあり、局面の総体であるゲーム核に違いがある。」<<
>> という結論が出かけてるような気がするのですが、これは単に、比較ゲーム分析の前に, この掲示板で話題になっていた自由度の話に帰結するだけのことではないかという気がしてなりません。<<

という指摘、ほぼその通りだと思います。myrtさんも僕も、その結論のことはずっと意識していると思います。それが自由度の話と結びついているとの意見にも賛成です。ただ、本当にそういう結論を出していいのかどうかをめぐって迷いがあるので「実装」をめぐって議論が始まったのだだと思います。

意識している結論のひとつ、Purpleさんの考えておられるものに近い方を僕なりに言ってみると、こんな風になります:

TRPGは考えられる局面が無限にある上にそれらが事前に定義され切っていないので、ゲームの構造がプレイ中に変動する。それに対して将棋は、局面も手もしっかり定義されているのでゲーム核がはっきりしていて、プレイ中に別のゲームに移行するようなこともない。

自由の問題にひきつけて考えるとこう言えると思います:

TRPGはそもそも扱っている局面の数が無限で、一括処理が可能な単純なものでもないため、GMはPLがとりうる行動を事前に予測し切ることができないし、PLのあらゆる手に対処できるような万全の準備をすることは普通できない。


(PCが全員牢獄に入れられ鎖で壁に貼り付けられているので祈っても叫んでも何をしても「何事も起こらない」という事態が続く、というような、PCの行動が非常に限られている場面は考えられます。この場合でも、PLが「目を閉じてしばらく思い出が頭に去来するままに任せて、何が思い浮かぶかを見る」などと言った場合に何が去来することにするかを事前に考えているGMは非常に少ないだろうと思います。)

言い方を換えると、TRPGでは、PCやPLの自由を完全に制御・排除し切れるという原理的な保証がないゲームだ、と言えます。「国王暗殺」「通行人の殺害」など思いもよらなかった展開を全て防ごうという努力は、原理的には、成功する保証がありません。(保証がないだけで、成功する可能性はもちろんあるわけですが。)
また、手も、それを処理するルールや設定も、事前には定義され切っていないので、一部はプレイ中に発案・作成されることになります。これはプレイヤーやGMがいろいろなアイディアを出し合うことでよいセッションを実現する可能性一般に開かれている、そういう意味で自由がある、とも言えます。GMが考えていたのと違う展開が訪れた場合には、それが「シナリオの崩壊」「セッションの失敗」である場合も、逆に「予想外の成功」である場合もあるわけです。

以上のような結論と反対の結論もありえます。

上の結論を出すためには、「将棋では香水をつけてきて相手のアレルギーを誘発するような行為は手とは認められない」という類の合意が成立している必要があると思います。これが「手」には関係ないことは常識的には明らかです。指し手が同じ部屋で盤を挟んで対局する場合に特有の、実装上の問題で、メールによるプレイでは問題になりません。その問題に対処するべく部屋の換気に気を付けるとか、香水を事前に禁止するとか、薬の服用を認めるとか、単に無視するとかいうことが行われます。

ここで、香水をつけてくることは手ではない、というのは常識的には明らかだと思うのですが、だとすると、人によって、時代や地方によって、常識が違えば、その境界線の引き方も違ってくるかも知れません。常識は移ろうものなので。

ということは、突き詰めれば、「将棋のようなゲームでも、プレイヤーの行動の内どのようなものが手であってどのようなものが実装領域の問題として無視・対処されるべき行動なのか、は厳密には言えない」ということになってしまいます。これは即ち、「将棋のようなゲームでも手の総体は完全に定義され切っていないし、どのような局面がありうるのかも完全には定義され切っていない。つまりTRPGと将棋は程度の差としての違いがあるだけで、質的な違いはないのだ」ということにもなります。これが考えられる第2の結論です。

これでいいのか、そうではなくて、あくまでも将棋とTRPGは違うのか、がひとつの疑問です。
もしも質的には違いがなく、単に将棋の方がより安定している、常識的判断が一致しやすい、ということだとしたら、そもそも常識的判断が一致しやすいのは何故なのか、がもうひとつ気になっている疑問です。

参照:
*1 【比較ゲーム分析】ゲーム核と実装の区別:インターフェース問題,トモス, 2001年12月23日:15時53分46秒
2002年01月27日:04時56分45秒
Re: 【実装とゲーム分析】スポーツのゲーム核 / Purple
 最近の議論は難しくなっていて、ついて行けてないですが、確認がてら、自分の言葉で整理したいのですが、
 
 ・「ゲーム核」=取りえる局面の総体
 
 という定義なんですよね。
 これは、そういう定義ということで、理解できます。
 
 わかりにくいのは、「実装」です。
 
 2002年01月26日:08時51分45秒の書き込みの、
 「実装領域とゲーム核の区別をここに導入するなら、グラウンドのコンディション、ボールの状態、選手の間の体格の違い、などは全て実装上の問題であり、(以下略)」
 
 という記述を読むと、
 
 ・ゲームが持つ要素は、「ゲーム核に含まれる要素」と「ゲーム核で無い要素」に分割できる。
 ・「ゲーム核で無い要素」=「実装」である。つまり、「局面の総体ではない何か」である。
 
 と言う定義になっているような気がするのですが、これであっているでしょうか?
 
 しかし、別の記述の
 「ゲーム核=ゲームの構造は、例えば将棋やマルバツを考えてみると、物理層には依存しません。将棋をコンピュータでプレイしても、電子メールで「1三角成」などとメッセージをやりとりすることでプレイしても、カードゲームでプレイしても変わらないのがゲームの構造、という風に定義しているので。」
 
 という部分を読んでいると、
 
 「実装=局面を、人間に知覚させるための方法」
 
 という定義になっているような気もします。ただ、これだと、「局面の総体」と相反する概念ではないような気がしてきます。
 
 どっちが正しいのでしょうか?(あるいは、どっちも正しくないのでしょうか?)
 この辺、どう解釈したら良いのか、わからなくなっています。
 
 ---
 
 で、理解が足りないのに、こういうことを言うのは良くないかもしれませんが、
 
 「将棋だと、局面の総体は有限個。スポーツやRPGだと局面の総体が無限にあり、局面の総体であるゲーム核に違いがある。」
 
 という結論が出かけてるような気がするのですが、これは単に、比較ゲーム分析の前に, この掲示板で話題になっていた自由度の話に帰結するだけのことではないかという気がしてなりません。
 
 RPGは将棋に比べると、自由度が高い(=選択できる行動の数が、事実上無限にある)。自由度が高ければ、局面の総体が増えていくのは当然のことだと思います。
 
 RPGの自由度の高さを、別の言葉で言い換えているだけなのでしょうか?
 
 
2002年01月27日:00時25分42秒
【実装とゲーム分析】ランク付けとゲーム核 / myrt

(Re:2002年01月26日:08時51分45秒【実装とゲーム分析】スポーツのゲーム核 / トモスさん)
>>そういう実装上の問題が無視できないほど重要になるのは、例えばボクシングなどの格闘技で、 ウェイトによるランク分けを導入して調整を図るケースが多数あります。 <<

 他に、柔道は無差別級があるために興味深いです。重ければ重いほど良いわけでもなく、 上限と下限の両方を決めている。これは、プレイの初期状態に各自がリソースを持ち込め、 それにより物理層でとれる戦略が左右されることを期待するものだと思います。

 持ち込みリソースを制限することにより戦略の幅を左右できることは、NHKのロボット コンテストのレギュレーションの例などでわかると思います。よく考えるとあれは「新し い手」の宝庫...ただ、ロボコンはあまり再現性がない点が問題です。大会に優勝するロボット でさえ全プレイ数が知れてます。もめごとも茶飯事ですし。

>>でも、上のように定義されたゲーム核でもやっぱり不変だ、と言えないでしょうか? ゲームの同一性を区別する際の指標としては、どちらを利用することもできる、と。 <<

これなら不変であると言って良いと思います。確信はないですが、意見の一致を見たんじゃないかと 思います。
2002年01月27日:00時24分39秒
【実装とゲーム分析】新しい手とアンフェアさ / myrt
(Re:2002年01月26日:07時24分28秒【実装とゲーム分析】新しい手の再現性、TRPGとの比較 / トモスさん)
>>その理由をもう少し言葉にしてみると、自分だけ、他人が知らない手を知っていて、それをプレイ中に導入す るのはアンフェアーだということでしょうか。<<

 私が念頭においていたのは、わざと審判が判定に困るような新しい手をいきなり使っておきながら、 熟慮の末に審判がそれを反則と判定した後に「審判がこちらを負けさせる意図をもって判定をゆ がめた」と抗議することの卑怯さです。こう抗議されるのが嫌で反則でないと判定すると、今度は 対戦相手から同様の抗議を受ける可能性がありますし。

 確かに場合によっては判定することは勝敗を決めることと等しくなるわけですが、そういうややこ しい事態に巻き込んだのはお前だろ!!という。
#TRPGでもこういうことはありえるなぁ...

 この問題は新しい手について事前にこっそり判定を聞くことで回避できます。こっそり判定 を決めてもらうことはそれはそれで卑怯な気がしますが、いきなり投入よりはマシであると思います。 ただし、その判定結果について黙っていることを審判に強制することはできないでしょう。

 「新しい手」だと思ったが過去に例があった場合は簡単です。審判が聞かれたら昔の判例を 答えればいいし、いきなり投入されても判例のとおり判定すればいいのですから。逆に「新し い手」を考えたのに、きっと過去に例があるだろうと考えた場合は「どう判定されたか」を調 べるはずだからやはり問題ないと思います。
>>それから、個人競技系のスポーツで、お互いの記録を比べる場合にも多少問題が発生しそうです。<<

 個人競技の場合、その新しい手の違いが従来の手と明らかに一線を画するならば、競技の後で注釈を つけることにより両方の記録をたたえることができます。例えば「飛行機速度の世界記録」でも、元は 一種類でしたが今ではレシプロ機、ジェット機で別々に記録がなされます。

 やはり「新しい手」が問題になるのは判定が曖昧な場合であり、審判と対戦相手がその手を認める か否かにかかっているように思えます。認められるならばどんな新しい手でも問題は発生しないし、 認められないならば相手が知っている手であろうと駄目であると。「俺の知らなかった手だからそれ は駄目」というのはわがままだと思います...それを認めると勉強不足の人を相手にできません。

 これらがうまくいくのは審判が完全な過去の履歴を持っており、かつ絶対の権限がある場合 の話です。トモスさんが指摘されるように選手会から突き上げが可能な場合や、そもそも身内 スポーツで履歴や権限の所在がしっかりしていない場合、事前申告の要求がしっかりしていな い場合には問題が発生するし、都合が悪くなると問題を発生させるプレーヤーも存在すると思 います。
>>以上のように考えると、「新しい手を導入する場合には事前に申告すべきという圧力があ る」という言い方は少し断定が強すぎる気がします。<<

 「相手、もしくは審判から反則だと言われるかもしれないことを自覚している場合には事前 申告すべき」ではどうでしょうか。少なくとも審判に問い合わせてOKが出れば、審判に権限が ある限り相手の口を封じることができます。 ただここで挙げた行為はTRPGでは、プレーヤーがGMの威を借りて他プレーヤーを納得させる方 法に当たると思うので、GMがどうやってプレーヤーを納得させるかについてはもう少し追いかける 必要を感じています。
2002年01月26日:08時51分45秒
【実装とゲーム分析】スポーツのゲーム核 / トモス
>>さて、以上のような状態遷移と戦略の選択を元にすると、物理層と制御層の双方に依存した、しかしそのどちらでもないネットワークが書けそうです。私は、トモスさんがこれをゲームの構造と呼んでいるのではないかと思うのですがどうでしょうか??<<

ゲーム核=ゲームの構造は、例えば将棋やマルバツを考えてみると、物理層には依存しません。将棋をコンピュータでプレイしても、電子メールで「1三角成」などとメッセージをやりとりすることでプレイしても、カードゲームでプレイしても変わらないのがゲームの構造、という風に定義しているので。将棋などの例で考える限り、ゲームの構造は、制御層で現実のプレイの動作が観察されて「今のゲームの局面はこう」とその都度その都度判断されると思うのですが、発生しうる「ゲームの局面」の種類はゲームの構造をネットワークとして描いた場合のノード数と同じだと思います。

ややこしいのはそれをスポーツに適用する場合です。 myrtさんがどう考えているのか、どう考えると一番すっきりした議論になるのか、などについてまだ迷いもありますが、一応それなりの解決を見ているように思うので書いてみます。

サッカーで考えると、個々の選手の違いを無視するなら、ゲームの局面の総数はこんな風に表現できます:
各選手のフィールド上での配置、各選手の姿勢、ボールの位置、各選手の動き(その瞬間の慣性)、ボールの動き、残り時間、双方の得点、の全ての積。

「手」は可能な全ての動作の総体です。スポーツはだいたいそうですが。サッカーはチーム競技なので、「手」もチームとして考えるなら、「各選手がとりうる全動作の数の組み合わせ」と同じ数になります。ある個人(=選手)にとって可能な手を考える場合には、「その選手がその状況でとりうる全動作」になります。
厳密に考えるといろいろ追加したい項もありますが、それよりも気になる問題は、ゲームのある状態(=局面)から別の状態(=局面)に移行する際にどのような手を打てばいいのか、が固定されていないことです。グラウンドのコンディション、風やボールの空気の具合などによって、同じ場所から全く同じ蹴り方をしてもボールは違う軌道を描くことになります。これはどう考えたらいいでしょうか。

選手がそれぞれ異なる肉体を持ち、異なるコンディションで試合に臨んでいることを考えると、そもそも選手が違えば「同じ手=同じ動作」などとれないし、コンディションが違っても同じ動作がとれない、というようなことも思い浮かびます。

以前myrtさんの出された100m走の例について混乱したのは、ひとつはそこです。(もうひとつ、それを個人競技と考えるか対戦と考えるか、といった辺りの問題もあります。)

ですが、実装領域とゲーム核の区別をここに導入するなら、グラウンドのコンディション、ボールの状態、選手の間の体格の違い、などは全て実装上の問題であり、例えばテニスであれば、そうした要素による撹乱を受けるのは、将棋を打つ時に駒を動かした音が部屋にどう響くかが微妙に心理的な影響を与えるのと同じように、無視すべき問題で、それらを無視したら、同じようなゲームの構造があるのだ、と考えることはできると思います。


「ある場面では、体力や筋力の限界から特定のシュートが打てないが、それも将棋で時間と共に集中力が続かなくなってしまうことと同じ」「ある選手には可能な動作が別の選手には不可能だけれども、それも将棋で、思考能力の差や集中力の差や経験の差から、先が読める人と読めない人がいる、というのと同じ」と考えます。

そういう実装上の問題が無視できないほど重要になるのは、例えばボクシングなどの格闘技で、ウェイトによるランク分けを導入して調整を図るケースが多数あります。

実装上の問題が無視、調整された後に残っているゲーム核の部分は、結局、プレイヤーの動作に余りルール上の制限がなく、選手の資質によって実際にとれない手がいろいろあるにも関わらずそれらの動作も余り禁止されていないようなゲームです。サッカーについて上に示したゲームの局面数と、手の総体は、そんなゲーム核です。

そこで、
>>ただ、この例で書けるネットワークは例えば雨が降っただけで変化します。<<
というmyrtさんの指摘に対しても、そうではなくて、将棋で部屋の音響や部屋に蝿が迷い込んできたかどうかなどを無視するのと同じく、天候などは無視してゲーム核とは考えないのだ、というお返事になります。

このようにして定義されたスポーツのゲーム核は、無限のゲームの局面を持っていて、ネットワークとして描くことが不可能です。しかも、審判がいちいち気にしない点についても細かく区別して「これとこれとは別のゲームの局面」などと姿勢の違いや選手の配置の違いを取り沙汰するので、審判の認識している局面数とゲーム核の概念で扱われる局面数が違ってくるのも将棋などと違う点だと言えそうです。

で、 >>じゃあどこまで抽象化すれば不変なネットワークが得られるんだというと、私の現在の考えではそれはどうしても制御層になってしまいます。<< というmyrtさんの意見ですが、制御層の概念を導入すると、確かに不変なネットワークが得られると思います。 でも、上のように定義されたゲーム核でもやっぱり不変だ、と言えないでしょうか? ゲームの同一性を区別する際の指標としては、どちらを利用することもできる、と。

もちろんそれもこれも、ゲーム核と実装領域を区別できる保証があれば、ですが。制御層も、誰がどのような知識・情報を手がかりにそれを析出するのか、という点で同じ困難を抱えていると思います。ルールにも、「ここが制御層です」と書いてあるわけではないので。
2002年01月26日:07時24分28秒
【実装とゲーム分析】新しい手の再現性、TRPGとの比較 / トモス
再現性の定義については納得です。そして新しい手を導入することに再現性がない、という点、その理由づけについても同感です。

これを理由としてmyrtさんが「スポーツでは、未定義部分がゲームに深く関わることを知っていたら事前に申告し、定義を行うように促す圧力がある」という論を展開されていることについても、今ではその意図が汲み取れる気がします、と思えます。

その理由をもう少し言葉にしてみると、自分だけ、他人が知らない手を知っていて、それをプレイ中に導入するのはアンフェアーだということでしょうか。

将棋など手がしっかり定義されていると考えられるゲームであっても、たまたま相手が知らなかった(又は忘れていた)手を打てばほぼ同じ効果が発生しますね。もちろんこの場合には相手がその手を知っているかどうかを事前に知ることが困難で、香水でアレルギーを誘う、といったものではなく駒をまともに動かすような手であれば、原理的には相手もそれを事前に考え付く可能性があったのであって、相手がその手を思い付かなかったのは相手の責任だ、と言える度合いが高いように思えます。ゲームの局面数(ゲームの構造のネットワーク図におけるノードの数)は有限なので原理的には全てをひとつづつ調べていけばその中に含まれている、だから意外な手と言えども新しさはないのだ、とも言えます。

それに対してスポーツで「未だかつて誰も打ったことのない手」を導入する場合には相手はその手を知らないだろうという予想を、やや自信を持って立てられます。可能性が無限にあって、全てを検討することは誰にもできない、と言えそうです。そこで、自分だけが知っている新しい手をプレイ中に導入することは、そもそも相手と自分のゲームを別のゲームにしてしまう、ということに近い何かが起こります。厳密にそれを別のゲームと呼ぶかどうかについてはとりあえずまた今度考えます。

ともあれ、対戦型のスポーツでこれをやると確かに相手とのゲームの構造の違い「のような」ものが出てきます。それから、個人競技系のスポーツで、お互いの記録を比べる場合にも多少問題が発生しそうです。そこで、こうした「未知の手を導入する際には事前申告」という圧力がある、と考えることも納得がいきます。(myrtさんの考えがここに書いたものと同じという保証はないですが、それは指摘を待ちます。)

そのように一応賛成した上で、少し違う意見も出してみます。たぶんmyrtさんも予想していない意見ではないと思うのですが、これを聞いておくことは重要という気がするので。
ひとつは、「新しい手」だと気がつかない可能性です。プロスポーツやオリンピックなどでは、経験者によるコーチや過去のプレイを研究するなどといったことがあるので、初めてプレイに参加する選手でもかなりルールや習慣に通じているようなところがあると思います。でも、スポーツの中には、非公式でアマチュアのみの活動もたくさんあり、参加するプレイヤーが何が新しく何が新しくないかを事前に判断できない可能性があります。「あの手は熟練プレイヤーの中には知っている者もいたが、知らない人も大勢いた」なんていう可能性もありそうです。

もうひとつ「事前申告の圧力」は必ずしもしっかり告知・明示されるとも限らないと思います。そういう方針を持っていない、あるいはそもそもそういう点について合意が形成されず何かが起こるとその都度口論をしたり、暗黙の内に敵意を形成したり、これも作戦の内、と主張したりするようなプレイヤーも考えられます。

どちらもTRPGで生じるような問題がスポーツで生じる可能性の話です。競技性のあるスポーツを想定しているようなのでそういうTRPGの例を挙げると「そんな風に雑魚の敵をわざわざ大量にやっつけて技能値や財宝の獲得を狙うなんて何だかズルい、GMはどうして強力なモンスターを出現させたりして処罰しないのか?」とあるプレイヤーが考え、「それなら自分のPCもそういう形で技能値が上げやすいように技能や職業を選べたのに」と不平を言う場合。ここでは、事前にその手が申告されていれば、それをどう扱うかがわかって、かつ、プレイヤーもその知識に基づいて職業や技能を選択し、「キャラクターの強化、財産の獲得」といったゲームの目的をより効率的に追求できた、ということが言えると思います。ですが、そのような申告をしなければならないという明確な告知が事前にGMからなされているとは限らず、また告知がなされたとしても、何が「当然できるはずの手」で何が「もしかすると他の人の発想外かも知れない手」なのかはわからない場合があります。

以上のように考えると、「新しい手を導入する場合には事前に申告すべきという圧力がある」という言い方は少し断定が強すぎる気がします。スポーツの中にもそういうプレイスタイルもあればそうでないスタイルもある、ということが言えるとしてみてはどうでしょうか?
そして、何が「新しい手」か、それをどのような場合にどう扱うか、などについての完全な合意が成立する原理的な保証はない、と。(この後者の方についてはmyrtさんは既にそう考えているような感じもしますが。)

2002年01月25日:18時49分17秒
【実装とゲーム分析】可能な戦略と状態のネットワーク / myrt
(re:2002年01月25日:03時31分53秒【実装とゲーム分析】Re:た またまたどりつかないプレイ / トモスさん)
>>これはネットワークとして描いたゲームの構造の話で言えば、複数のノ
ード(新しく承認された手の使える全局面)からパスが出て他のノードに つながる(手の効果が認められる)というような変動なので<<

 具体例で考えてみました。

 サッカーで横からボールが飛んできて、選手はそのボールを確保して ドリブルに移りたいとします。

 さて物理層だけで考えると、ボールを手で掴んで足元に置けばドリブルが できます。しかしそれでは制御層において反則とみなされ、結果としてボール が確保できません。

 ところが制御層には「どうやったらドリブルできるのか」に関する知恵が 得られないので、再び物理層で考えるとどうやら「ボールを胸にあてて、 その作用で地面に落す」という戦略がとれそうであることがわかります。
#将棋は、この知恵がすべて制御層で得られることになっています。 実際には時間制限や、情報伝達のための肉眼確認の必要性などがありますが。

 ここでボールは横から飛んできているので、そのまま立っていると胸に ボールが当たる前に手にあたりそうです。手に当たると制御層でも 反則をとられ、物理層でもボールがどこに飛んでいくかわからないので、 これはマズそうです。

 そこでボールのほうに体の正面を向けます。体の正面をボールのほうに 向けるための脚運び戦略を一々書いてるとキリがないので省略します。これ らがすべてうまくいき、さらに何の邪魔も入らなければ、なんとかドリブル に移ることができるでしょう。

 さて、以上のような状態遷移と戦略の選択を元にすると、物理層と 制御層の双方に依存した、しかしそのどちらでもないネットワークが 書けそうです。私は、トモスさんがこれをゲームの構造と呼んでいるのでは ないかと思うのですがどうでしょうか??

 ただ、この例で書けるネットワークは 例えば雨が降っただけで変化します。物理層で取れる戦略集合が変わるため です。もちろん、実装にも依存します。極端な話、タコ型で脚が8本ある 火星人が同ルールでプレイしようとすれば、どう実装しようと地球人とは 違ったネットワークを見出すことになるでしょう。
#え、人間と同程度の身体能力を持つ二足歩行型ロボットをラジコンで操縦??

 じゃあどこまで抽象化すれば不変なネットワークが得られるんだというと、 私の現在の考えではそれはどうしても制御層になってしまいます。

 今度は将棋において、突然プレイ中に実装が変更されてプレーヤーが 直面する勝負所が激変する例を考えてみました。

審判「申し訳ない。時間がないので、今から全員持ち時間ゼロで1手30秒の 早指しでお願いします。また会舘が閉まるのが21:00なので、20:30の段階 で終っていなければ得点制(駒に点をつけて、持っている駒の得点合計が大きい ほうが勝ち)で勝負をつけてください」

 形勢が有利で持ち時間も豊富だが、駒数は相手と対して変わりのない プレーヤーは愕然とするでしょう。

 まずこの変更がなされても、20:30までに詰めてしまえばやはり勝ちです。 このように不変な部分が、将棋にはかなりあります。

 そして、同様の急変更を告げられたときの愕然とし具合(??)が、プレイ しているものが将棋であるか、チェスであるか、マルバツであるか、 その他のボードゲームであるかによって、それぞれ独特の違いがあると 思います。例えばマルバツだったら、こんな制限を言われてもあまり展開 は変化しませんよね。

 この、実装が変化したときの変化し具合(また変化しなさ)こそが、 そのゲームのゲーム核なのではないかと考えます。
2002年01月25日:18時45分38秒
【実装とゲーム分析】新しい手の再現性 / myrt
(Re:2002年01月25日:03時46分55秒【実装とゲーム分析】Re:未 定義性と頻度 / トモスさん)
>>この指摘にも納得です。TRPGでは、世界観、ルールの運用、プ レイスタイルの選択などについて、どこに合意がありどこに合意がない かを割り出すことも大変で、プレイを始める前に定義しきれない、という点が対 照的だと言えそうです。 <<

 スポーツに対しても実装段階では「新しい手」に対する完全な定義の 不可能性が ありますが、TRPGでは可能でもあえて世界設定などを定義しないことがある 点に特徴があると思います。これは必要ない定義をしないことによる省力効果 の他に、定義がどうしても必要になった段階には定義のために利用できる 参考資料(例えば他の世界設定の定義)が増大している効果も狙うものだと考 えられます。

>> ただ、そこでは再現性がない(というのは一回性が高い、と解していい でしょうか?)出来事はたくさん起こると思います。 <<

 同じ状態で同じ戦略を用いたときに同じ結果が出る性質が再現性です。 同じ戦略を二度目に投入しようとすると、状態が変わってるので「いきな り投入する効果」が出ません。さらに新しい戦略を考えてまたいきなり投入することは できますが、その場合は戦略が違うものになるので同じ結果が出る保証はありませ ん(審判の知識が増えて状態も変わってるし)。

 新しい戦略を次々に考えて投入することはできますが、以上のことから再現 性があるとはちょっと言えないと思います。
#もちろん机上の検討ならできますが。
2002年01月25日:03時46分55秒
【実装とゲーム分析】Re:未定義性と頻度 / トモス
>>以上のことからスポーツにおいては、未定義部分をかかえていることを自覚し、その未定義部分を定義しなければならない可能性が無視できない程度にあるならば、プレイを始める前に定義しておく圧力があると思います(その結果別ゲームになろうとも)。その可能性が十分に低いと考えられるルールは、そう考えられている間には妥当なルールだと言えます。<<

この指摘にも納得です。TRPGでは、世界観、ルールの運用、プレイスタイルの選択などについて、どこに合意がありどこに合意がないかを割り出すことも大変で、プレイを始める前に定義しきれない、という点が対照的だと言えそうです。

>>「新しい手」をプレイ中にいきなり投入することは政治的なゲームにおける戦略であり、元のゲームとは離れたものだと考えるべきでしょう。第一、再現性がまるでありません。<<

この部分については半分ぐらい納得です。試合開始前に自分の開発・発案した戦法を伝えるかどうかは、基本的に試合そのものとは別の、でも試合自体をを含むより大きなゲームの一部、と考えることができると思います。ただ、そこでは再現性がない(というのは一回性が高い、と解していいでしょうか?)出来事はたくさん起こると思います。

あと、試合が始まってから、手が発案される可能性も、一応あるにはあります。

その後にmyrtさんが議論されているシミュレーションの件はまだうまく理解できていないのでもう少し考えてみます。
2002年01月25日:03時31分53秒
【実装とゲーム分析】Re:たまたまたどりつかないプレイ / トモス
>>未定義部分を定義したとき、既に定義した部分を変更したりした場合に何が変わらないかというと、「変えなかったところが変わらない」という実に当たり前な結論が出たように思えます。<<(myrtさん)

これは納得です。ややこしいのはmyrtさんの言われる勝負所にまつわる変動だと思います。今まで許されていなかった行動が手として正式に認めると、そのせいでプレイヤーの作戦が大きく変更することがあります。これはネットワークとして描いたゲームの構造の話で言えば、複数のノード(新しく承認された手の使える全局面)からパスが出て他のノードにつながる(手の効果が認められる)というような変動なので、その構造を前にしてどうやってある特定のノード(複数のノード群のひとつ)に辿り着こうかと(=勝利条件を達成しようかと)考えるプレイヤーの立場からは非常に大きな変化です。
2002年01月25日:03時20分49秒
【実装とゲーム分析】ゲーム核の定義 / トモス
ゲーム核の定義については僕は自分の中では比較的迷いがない、というか、ちょっと変更しづらい形でまとまっている感じがしているのですが、myrtさんの方では摸索が続いているようなので、もう一度自分の考えをまとめてみます。ここを変更する可能性を検討したい、ここはまだ合意が成立しているわけではない、ここは詰めが甘い気がする、などという点がありましたら指摘をお願いします>myrtさん

ある2人の遊び手が同じゲームをしている、と言えるのはどういう時かを考えて、その遊んでいるゲームの同一性を判断するための基準・根拠のようなものをゲーム核と呼んでいる、という点ではmyrtさんと僕では一致していると思います。

遊び手の腕前、熟練度などについてはゲーム核とは分けて考える、という方針の一致もあると思います。これは将棋を初心者がプレイしても熟練者がプレイしても同じ将棋、と呼ぶという一致でそれほど取りざたするものでもないだろうと思います。(この前提を問い直すことは可能だとは思いますが。)

また、インターフェースを変更してもゲームは同じものでありうる、としてきました。将棋をどんな盤と駒でプレイしてもそれは将棋で、マウスとコンピュータ・ディスプレイでプレイしてもやっぱり将棋だ、と。「マルバツ」は普通、3x3のマスを使ってプレイしますが、それをカードゲームに換えても、同じゲームと呼ぶことにしてきました。

インターフェースを換えても残るゲームの特性は何か、というと、ゲームの各局面それぞれでプレイヤーがどんな手を選択可能か、というその選択肢の全体、それにその選択肢それぞれがゲームの局面をどのように変動させるか、という手が持つ効果の全て、だと思います。これはゲームの各局面をそれぞれ点で表し、プレイヤーの手やその他の要因によってゲームの局面がどのように変化しうるかをそれらの点の間を結ぶ線として考えれば、ひとつのネットワークとして表現できます。これをゲームの構造、と呼んできました。(ゲーム理論の樹形図とほぼ同じものです。)

例えば将棋では、盤上の駒の配置は全く同じでも、双方の持ち駒だけが異なってたらそれを別の局面としなければならない、というちょっと見落としやすい点などもありますが、原理的にはこのゲームの構造を描けます。

ゲームの総体を把握できる超人的なプレイヤーがいたら、そのプレイヤーには将棋がカードゲームになっていようが、声だけで勝負する形であろうが、同じゲームの構造を見て取れると思います。

プレイヤーはゲームに対する熟練度や、ゲームについての知識の有無によって、ゲームの構造をどの程度把握できるかに違いがあります。でも、同じ構造に直面しているのだ、と考えることはできます。同じ迷路の中を歩いている、ような感じです。

(一部のコンピュータゲームではそもそもゲームのルールや舞台になる世界のマップなどが完全には公開されていないのでプレイしながら知っていく面があります。これは将棋で最初の駒の配列や駒同士の力関係などが全て公開されているのと対照的に、プレイヤーの知識が制限されているケースです。)

ゲーム核がどのようなものであるかが明確にわかっている場合には、GMやゲームの審判などが、そのゲームをうまく実現するためにどのような配慮・工夫をすればいいかがある程度わかって来ます。適切な実装とそうでない実装が区別できる度合いが高い。例えば、将棋のような対戦ゲームでプレイヤーのどちらかだけに有利なインターフェースを両者に押し付けることはよくない、と考えられます。

実際のゲームのルールは、ゲーム核を把握するのに必要な情報と、そのゲーム核を現実世界のコンテクストでゲームとして成立させる(実装する)際の規定の両方が含まれると思います。例えば将棋のゲーム核を考える際には駒や盤に言及する必要はなく、全てを記号で置換えて記述できるだろうと思います。が、実際の将棋のルールにはほぼ確実に駒の並べ方などが記されています。ですが、ルールを見ただけで、どこがゲーム核で、どこが単なる実装上のルールであるかが判断できるか、という点についてはこれまでの議論では結論が出ていないように思います。

また、ゲームに審判が存在していて、反則の取り締まりやゲームの進行管理、勝敗・目的達成などの最終的判定を一手に引き受けていると想定した場合には、審判はゲームのルールやその運用法を知っているので目の前で起きているゲームのプレイの進行を観察・解釈して、今どのような局面にあるかを判断することができます。ですが、上の場合と同様に、審判がゲーム核とそれ以外を区別しているか、区別できるか、明白な根拠を示してその区別の仕方を説明できるか、と言うと必ずしもそれは明らかではないように思えます。

実際に行われているゲームのプレイを幾つも観察した場合には、何がルールであるか、何がゲーム核であるか、などは明確にはわからないだろう、と意見が一致しています。

また、将棋とTRPGはゲームとしてどう違うのか、と考えた時に、将棋はどういうゲームかが非常に明確に定義されているゲームであるのに対してTRPGはそうではない、ゲーム核に変更が加わる、ということが言える、としてきました。と同時に、将棋でも実装上のアレンジメントはいろいろあるわけで、それによってゲームの難易度なども変わりますし、勝利条件に到達するために有効な手段も違って来る可能性があります。しかもその変動の一部はゲームをプレイしている最中に起こるものだと思います。それが実装領域の問題であって、ゲーム核の変動ではないのだ、と言えれば将棋はあくまでも将棋、TRPGのようにゲーム核が変動することはないのだ、と2つのゲームを質的に区別できると思うのですが、果たして将棋のゲーム核がどういう部分であり、実装領域がどこから始まるということを確信をもって言えるのか、言えるとするとどうしてなのか、がはっきりさせたいところです。
2002年01月23日:18時39分09秒
【実装とゲーム分析】未定義性と頻度 / myrt
 頻度を抑える圧力があるのではないかという気がしてきました。

 未定義性をかかえているが、その未定義性が問題になる可能性が果 てしなく低いゲームを実装したときに、その未定義性によって困ること はあまりありません。

 オリンピックなどで未定義性が問題になることが稀にありますが、 それは大抵プレイ中ではありません。問題が発生してから未定義部分 を定義すれば、次プレイ時には問題が発生しません。

 「新しい手」をプレイ中にいきなり投入することは政治的な ゲームにおける戦略であり、元のゲームとは離れたものだと考え るべきでしょう。第一、再現性がまるでありません。

 以上のことからスポーツにおいては、未定義部分をかかえていること を自覚し、その未定義部分を定義しなければならない可能性が無視でき ない程度にあるならば、プレイを始める前に定義しておく圧力があると 思います(その結果別ゲームになろうとも)。その可能性が十分に低いと 考えられるルールは、そう考えられている間には妥当なルールだと言 えます。

 コンベンションを開くために複数の役員が集まり、シミュレーション を行なってコンベンションの運営方法を決める会議を行なうとします。 このシミュレーション製作過程は、TRPGにかなり似ています。各役員 に担当部所があり、それぞれの立場からシミュレーションを行なえば さらにTRPGに近いです。

 役員の間では仮想物理層に対して想定する具体像が違う ものです。しかし、それらは現実にコンベンションを開くときの物理 層に束縛されることからある程度の同一性が期待できます。
#ここにTRPGが他のゲームと違い対戦型のものが少ない理由があるのかも。

 実際にコンベンションを開いたときに不測の事態に行なわれないために シミュレーションを行なうわけですから、頻度の高い事態に対しては 対応できるように定義していかねばならない圧力があると考えられます。

 シミュレーションゲームでは仮想物理層による束縛はありませんが、 制御層によって縛られます。たまにバグ持ちゲームがあることを除け ば、制御層は完結するように定義されます。仮想物理層の束縛がない ことから、「実際にはこんなことはありえないが」という展開に なることがあります。

 ところがTRPGでは、プレイ中の仮想物理層の製作と制御層の定義 が相互に依存しています。この相互依存は各ゲームやシミュレーションに はないものです(ルール変更を念頭においたスポーツでさえ、変更は物理層の物理法則を変化させない)。 ここにどう圧力をかけていくかが、 TRPGの独自性であるかもしれません。

2002年01月23日:18時33分25秒
【実装とゲーム分析】たまたまたどりつかないプレイ / myrt
 スポーツのサッカーには、PK戦のルールがあります。ところが、たまたま PK戦にもつれこまないプレイがありえます。 しかしそのプレイは「PK戦のルールも規定したサッカーというゲームの 指すプレイの集合」に含まれます。

 ここでSF的な設定により(超人がいて1000点オーダーで競われるとか)、 サッカーにおいてたまたま同点で時間切れに なることがそれまでになかった世界を考えてみます。そのときは必要性 がなかっために誰も思いつかず、同点で時間切れになったときの処理が未定義な サッカールールを実装することがありえます。実装時にたまたま処理の定義 が必要になったときになんとかするわけですから、PK戦で決着をつけたプレイも、 じゃんけんで決着をつけたプレイも、ルール違反ではないので このサッカーゲームに含まれます(どちらも一つの実装にすぎない)。この 例を踏まえまして。

 ルールAという定義の指すゲームAと、ゲームAというプレイの集合に 含まれるプレイx1,x2,x3を考えます。ところがサッカー協会Bはプレイx3(例えば 引き分けをじゃんけんで処理した)を好ましくないプレイであると考え、x3を 含まないがx1, x2を含むゲームBを考え、それを示すルールBを定義したと します。またルールBに従い、新たにプレイy1,y2,y3がなされたとします。 このときゲームBに含まれるいかなる プレイyもゲームAに含まれるならば、各プレイyはゲームBの要素であると ともにゲームAの要素でもあると言え、ゲームBはゲームAに含まれます。 ところが、ゲームBではプレイx3で通じた戦略を使うと 違反とみなされるかもしれませんし、それどころか使える局面になることが 理論的にありえないかもしれません。その結果としてプレイx1,x2に似たプレイが ゲームAよりも頻繁になされるようになるかもしれません。

 逆の場合を考えてみます。サッカー協会Cが新たなプレイz1を好ましい プレイだと考えたが、プレイz1はゲームAに含まれないので新たな ゲームCを考えてそれを示すルールCを定義したとします。ただし、ゲームCは ゲームAに含まれるいかなるプレイxも含むとします。このとき、ゲームAは ゲームCに含まれます。ルールCの下ではプレイx1,x2,x3で有効だった戦略は、 有効かどうかはともかく違反とはみなされないでしょう。 また似た局面であるならばそれは通用するかもしれません。
#似た局面でしかあまり似た戦略が通用しないのは同ゲーム下でも当たり前。

 結局集合の話になるのですが、ゲームAとゲームBに共通であるがゲームCに 共通でない要素(プレイz1)と、ゲームAとゲームCに共通であるがゲームBには 共通でない要素(プレイx3)があります。またゲームAからCまですべて共通 の要素もあります(プレイx1,x2,y1,y2,y3)。

 未定義部分を定義したとき、既に定義した部分を変更したりした場合に 何が変わらないかというと、「変えなかったところが変わらない」という 実に当たり前な結論が出たように思えます。

自己つっこみです。

(Re:2002年01月21日:15時12分42秒【実装 とゲーム分析】審判の判定とは関係ないのでは / myrt)
>>以上のことから、新しい手を考えたために変わってしまうようなも のはゲーム核ではなかっただけでなのではないかと考えます。 <<

 そうではなく、ある新しい手を考えたり、ある旧来の手を使わなかったり してみたら勝負所がどう変わるかこそがゲーム核であるように思えてきました。 また実装に対しても、実装によって変化しない勝負所ではなく、 それぞれの実装に対してどう勝負所が変わるか自体がゲーム核であると。なぜなら、 ゲームは正しく実装されればそれらはすべてそのゲームなのですから。

 そう定義すれば、たまたま複数の実装に対してある勝負所が変化しなかった としてもそれがゲーム核に依存すると言えます。勝負所は 対戦相手やコンディション、プレイ展開にさえ依存して変化するのだから、 そんなに不自然な定義でもないと思います。
2002年01月22日:15時30分14秒
TRPG総合研究室 LOG 086 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 086として2002年01月13日から2002年01月22日までのログを切り出しました。

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