TRPG総合研究室 LOG 086

TRPG総合研究室の2002年01月13日から2002年01月22日までのログです。


2002年01月22日:11時06分17秒
【実装とゲーム分析】未定義性とゲーム核の変動の再検討 / トモス
>>以上のことから、新しい手を考えたために変わってしまうようなものはゲーム核ではなかっただけでなのではないかと考えます。 <<

myrtさんの指摘、もっともだと思いました。が、問題があることについては同意するものの、解決法についてはいろいろ迷いがある、といったところです。基本的には、プレイヤーにとって「新しい手」はゲームの構造には関係ないものの、ルールを熟知した架空の存在である「審判」にとって新しい手が出現すれば、それはゲーム核の変動を引き起こす、という意見を提出してみます。他の立場もとりうる、ということも述べてみます。

ゲーム核はプレイヤーの技量に関係なく、遊び手がみな直面することになる構造です。そこで、TRPGやスポーツなど、手がそもそも未定義であるようなゲームにおいては「誰も考えたことのなかった手」が発案されたからと言ってそれでゲーム核が変動すると考えるのは少し妙です。特にスポーツでは。でも同時に、その発案によって生じる現象は、次のいずれとも違います。

1)将棋などで誰も考えなかった手を誰かが考え出した為に勝負どころが変わること
2)将棋などで、これまで反則とされていた2歩がゲーム中の規則変更によって反則ではなくなった為に勝負どころが変わること

ゲーム核は遊び手の技量とは関係のないゲームの構造を指すので、前者ではゲーム核の変動がない、後者ではゲーム核の変動がある、と言えます。以前一度言及しましたが、これを考える一つの手がかりは、無際限の計算能力を持った「究極のプレイヤー」を想定して、そのプレイヤーが影響を受けるか、と考えてみることだと思います。1)はそもそもそうしたプレイヤーには生じ得ない事態で、2)はそのプレイヤーに影響を与えるゲームの変化です。こちらがゲーム核の変動です。

さて、TRPGではそもそも手の総体(何と何と何ができるか、その全ての選択肢)が明確に定義され切っていないため、厳密には上のどちらの事態ともつかない事態が起こり得ます。 例えば、

3)誰も考えたことがなかったし、ルールにも、設定資料にも、GMの予想範囲にも想定されていない手をプレイヤーが発案したが、それは認めるべきもののように思えたので承認した結果、シナリオの難易度や戦闘の勝負どころが変動した。

この時、ゲーム核は変動しているでしょうか?
改めて考えてみると、幾つかの言い方ができるように思います。

a)もしもTRPGのような未定義性のあるゲームにも「ゲーム核」と呼べる何かが存在していて、変動することがあるのだとしたら、それは変動したと言えそうです。
b)もしかするとTRPGのゲーム核は、存在していても、変動する可能性が全くないものかも知れません。つまり、これまでの言葉で言うところの閉鎖系です。
c)TRPGではそもそもゲーム核が存在しない、とも考えられます。
d)TRPGでは、ゲーム核が完全に明確な形で存在しているわけではないが、かと言って何の構造も存在していないわけでもない。と考えることもできます。

そもそもこうした幾つもの意見がでる背景には、「ゲーム核」という概念を無理矢理開放系にあてはめようとすることの問題があるようにも感じます。

それぞれの考え方を採用することの帰結を一通り検討したい気もしますが、僕も時間の制約が厳しくなってきているので、とりあえずこれまでの議論でとってきた立場と「ゲーム核は変動しないのではないか」とする立場を比較するだけにとどめます。

ゲームの構造(=ゲーム核)はゲームで生じうる各局面でプレイヤーが選択できる手、各選択肢がゲームの展開に与える影響、などから実際に図として描けるもの、という風にも言ってきました。
TRPGではこのような意味での構造を描ける部分は多くあります。例えばGMは、どの場面でパーティがどのような選択をしたらシナリオがどう展開していくのか、を考えて準備している部分があります。プレイヤーも、戦闘の際にどのような選択肢があるのかをある程度、知っています。多くのファンタジー系TRPGでは魔法は固定された効果(乱数要素は入りますが)を持っていて、冒険中に遭遇することになる敵に対してどのような魔法をかけることができるかは、かなり明確に定義されています。

ところが、これは言わばネットワークとして表現される「ゲームの構造」のノードやパスの一部分だけが描かれている状態で、そこに描かれていない「未定義」部分のノードやパスは、ゲーム中に、PCの発案やGMアドリブによって「追加」されていくことになります。と、少なくとも今までの議論ではそんな風に前提して来ました。

別の考え方を採用して、「未定義」を「未発見」と、「追加」を「発見と明確化」とすることもできます。こちらの考え方をとると、ゲーム核は誰も知らないだけできちんと存在していて、それがゲーム中に変動することもない、ということになります。将棋のケースととても似てくるわけです。

未定義、追加、が生じるという考え方、「ゲーム核が生成されていく」という考え方の根拠は、後から設定の当事者達が考えても、その設定に必然性があったとは思えない、他の設定もありえたような気がする、という傾向があることです。でも、当事者が認識していないだけで必然性があったのだ、と考えることも不可能ではない、と思います。究極のプレイヤーを想定した場合、そのプレイヤーにとってはどこにも新しい物事の発生などなく、全てが起こりうることの中に収まっている、と。手が発案されたように見えても、それは既に存在していたものが発見されただけで、新しいパスの生成ではない。ノードがアドリブで追加されたように見えても、それは予め存在していた設定の可能性のひとつにたまたまGMが気がついただけで、ゲームの構造は、少しも変っていない、と。

いずれの立場をとる場合でも明らかなのは、「ルールからだけでは、どのような設定が追加/発見されることになるのか」見てとることができないという点です。TRPGにもゲーム核は存在していて、不変なのかも知れませんが、それはルールと実装問題に詳しいだけの「審判」には窺い知れない。そこで、プレイヤーからも、GMからも、「審判」からも、ゲームの構造の一部がプレイ中に追加/発見されることになるように感じられる。将棋では「審判」を驚かすような手は、実装問題にまつわる部分を排除できるなら、発生しないと言えます。TRPGではそれが生じる。これをTRPGが開放系であり、将棋が閉鎖系であることの証拠と考えることもできるし、両方とも閉鎖系だけれども、ただ上記のような違いがあるだけだ、と考えることもできますが、少なくともTRPGと将棋を区別する根拠になるという点では意見が一致すると思います。

そこで冒頭に引用したmyrtさんの命題に戻りますが、
>>以上のことから、新しい手を考えたために変わってしまうようなものはゲーム核ではなかっただけでなのではないかと考えます。 <<

ここで、「プレイヤーにとって新しい」だけならそれはゲーム核の問題ではない、「審判にとっても新しい」ならそれはゲーム核の変動、というのがこれまでの議論から出てくる帰結だと思います。でも、「ゲーム核は変動しない」と考え、「ただ将棋ではそれが可知が、TRPGでは誰もそれを知らないだけだ」とする立場を採用するなら、ゲーム核は新しい手の出現によって変動することはない、とmyrtさんの提案に同意できます。

ただ、以上の議論はスポーツに適用するには更なる限定が必要です。スポーツでは手の未定義性があるものの、新しい手の発案が生じても「審判」はそれまでと同じ判定方式で対応できてしまう場合が少なくありません。例えば「スキーでジャンプの姿勢を工夫した結果、誰もやったことのない姿勢を編み出した」としても、「審判」はたぶん対応に困ることはなく、ただ飛距離などを見るだけだろうと思います。ゲーム核の変動があった、と考える必要もない気がします。TRPGでは予想外の手をPCがとった場合、GMがルールや世界設定などを追加する必要が出ることが多いのとは対照的、と言えるかも知れません。

長くなりましたが、以上です。で、残る問題は例によって、「では将棋も実装問題をめぐる未定義性があるからTRPGとだと言えるのか、それともそうした諸問題は「実装問題」として分けて考えられる(ゲーム核と実装領域が区別できる)から、TRPGと将棋は質的に違うゲームだと言えるのか、」というところかと思います。
2002年01月21日:15時12分42秒
【実装とゲーム分析】審判の判定とは関係ないのでは / myrt
 トモスさんのご意見は「ゲームの構造が変わるかどうかは 審判の判定如何にかかわっている」ということでしょうか??

 少なくともスポーツにおいては、一切ルールや制御層の変更なしで(も ちろん物理層も)、審判と参加者の全員が同じ判定を下すにもかかわら ず、勝負所(??)が変化する場合がありえます。ここで勝負所とは「参加者 と審判がそのときにゲームの勝負所だと思っているところの概念」のような意味合いを 想定してます。
#めちゃくちゃ曖昧で申し訳ないです。
ある100m走の定義である、100m走Aを考えます。

 100m走Aにおいて、「走り出してからゴールするまできっかり5秒で走破で きる走法」が開発され、それが100m走Aのルールに全く反していないと全員が 認めた場合を考えます。このとき現在以上に 有効なスタート法が特になかったならば、走法開発後の100m走Aはほ ぼ「フライングせずどれだけ早く走り出せるか」の勝負になるでしょう。

 その走行法が開発されてからの プレイの集合は現在の我々が考えている100m走のプレイの集合とは違ったもの になるでしょう。そんなものは早押しゲームと同じですから。しかし、 審判や参加者が全員「ルールを文字通り適用するとそうなっちゃうなぁ」と 納得してしまうなら、それらプレイは100m走Aに含まれます。

 将棋でもスーパー定石とその暗記法が開発され、参加者や審判が考えるところの 勝負所ががらっと変わってしまう可能性は常にあるわけです。

 これら走法やスーパー定石の開発を念頭においてさえ、最初にルールを定義 すれば変わらないものがあり、それがゲーム核だと言えます(ここでは 簡単化のために実装問題は無視している)。スキージャンプで新たな姿勢を 開発するなどの行為は、ゲームの本質の探求だと言えます。

 以上のことから、新しい手を考えたために変わってしまうようなもの はゲーム核ではなかっただけでなのではないかと考えます。
2002年01月20日:18時42分45秒
【「物語重視」のゲーム分析】「打ち込みプレイ型」の場合 / トモス
やっぱり鍼原さんは前回僕が投稿したものとは違う意見を持っているような気がしました。

今度こそは当たっているに違いない、と考えているわけではないのですが、また別の考え方を思い付いたので簡単に書いてみます。鍼原さんの考えていることに特に執着していないけれども「物語重視」について考える人にとっては、結局、当たっていようがいまいが参考になり得ると思うので。

今回とりあげる「物語重視」のプレイの一種に、一応「打ち込みプレイ型」と名前をつけておきます。遊び手がプレイに打ち込むことで面白い物語を生成させようとする方法なので。

スポーツでも他のゲームでも、精一杯プレイすることができればそれに応じて充実感が得られる、という一般則があると考えます。
野球などで、結果としては平凡に終わった試合であっても、当人達は非常に一生懸命にプレイしたので、当事者にとっては息もつかせぬ白熱した試合だった、ということが一般に成り立つ、とも考えることにします。

そうすると、ストーリー(個々の出来事)がどうであるか、それが第3者的な視点で見た時にどうであるか、ということとはかなり関係なく、「とにかく真剣にやればそこで経験する物語は面白いものになる」と言えることになります。

ただ、ここで少し紛らわしいのが、誰が何に真剣に打ち込んでいるかです。少し場合分けして考えてみます。


#ちなみに「ストーリー」は架空世界の中で起きる出来事の時系列順の羅列、「物語」は「ストーリー」がどんな順番で受け手(プレイヤー、小説なら読者)に示されたか、どんな風に表現されたか(語り口など)、そして受け手がどんな感受性を持っているかが組み合わさって決ってくる「感想、受け手の感じたストーリーの感触」と想定しています。

1)プレイヤーがゲームの目的に打ち込む

シナリオの目的を達成するために駒であるPCを操って努力を重ねる、ということを想定すると、それは、将棋や野球がそうであるのと同じように、充実したゲームになると思います。もう少し具体的には、ここでは「財宝の獲得」「ドラゴン退治」など即物的な(物理的次元の) 目的を想定しています。PCの心理については目的に関係ない、と。 ここで生成される物語は、「プレイヤーのゲームの経過についての物語」であって、「PCの冒険の物語」ではないと思います。それは将棋を一生懸命プレイすることが「ある軍隊の戦いの物語」ではなく「将棋の対戦の物語」を生むのと同じことです。 ロールプレイとかキャラクタープレイと呼ばれるような、キャラクターの個性の演出は邪魔である可能性があります。それがなければ、ゲームの即物的な目的に専念できるのに、と考える人にとっては邪魔なのだと思います。

2)PCが冒険に打ち込む

PCがシナリオのミッションを達成することに真剣に打ち込んでいるとか、PCの個人的な目的を達成するために打ち込んでいる場合、そのPCの立場に同一化してプレイできたら、その分だけは「結果は凡庸だし、振り返ればよくある駆け出しの冒険者の話そのままだけれども、それを経験するプロセスは非常に興奮や緊張に満ちていて、充実した。」とPCとしても、プレイヤーとしても、感じることができると思います。

ただし、ここでも、「PCの過去や性格設定を参考に、心理を細かく描き出そうと努力する」ことが邪魔になる場合があります。PCの心境を想像しようと努力することがきっかけとなってPCへの感情移入を高めることもありますが、逆に努力ばかりが大変で、実感のないままに設定を元に心理を割り出してそれを描写する、という作業に終始する可能性もあります。後者の場合には、「PCとしてPCの目的に向けた努力をすること」の実感も薄れるので、結果として充実感も薄れることになります。

3)プレイヤーがPCの心理を描き出して物語を作り出すことに打ち込む

プレイヤーは通常、裁量権がPCの言動に限られていることから、自分でストーリーの展開を左右することは困難です。が、GMがPCの「心理的な葛藤」を生み出すようなシナリオを用意していた場合には少し違ってきます。「心理的な葛藤」というのは、例えば「不意打ちするか、決闘を申し込むか、」という選択が単純な損得ではなくて好き嫌いの感情、善し悪しの価値観などと絡んでいるような場合を想定しています。そうした心理的な葛藤とそれにまつわる意思決定を経て、即物的なシナリオの最終目的(ドラゴン退治とか)を達成する場合も、そうではなくて心理的な次元に最終目的がある(恐怖の克服とか)場合も、考えられます。 いずれにせよ、プレイヤーは、PCの心理を描き出すことで、ストーリーの重要な部分を自分で作り出していることになります。それが結果として第3者から見ても見栄えのする物語になっている保証はないのですが、真剣に打ち込めば、当人にとっては非常に充実したプロセスになる、とは考えられます。

鍼原さんの話はここに近い感じがしました。

なお、「打ち込めればそれで充実する」という人もそうでない人もいると思うので、「打ち込みプレイ型」はあくまでそういう考え方、感じ方を持っている人の採用できるプレイ方法のひとつ、という風に考えています。
2002年01月19日:17時47分06秒
【実装とゲーム分析】実装領域と制御層の共通問題 / トモス
>>スポーツのようなゲームは判定できた後の完結性を持ちます。全く新しい判定を作りゲームを改変する場合には、必ずその判定と、判定の結果による状態遷移規則、遷移先の状態を同時に定義します。ところがTRPGでは、状態遷移規則や遷移先の状態が未定義であるのに判定を用意したり、実際に判定したりします。この意味で、TRPGは完結性を持たないと考えられます。 <<

とありますが、これを例によって覚束ない僕の解釈に沿って言い換えてみます。

スポーツや将棋などではゲームの開始時点では、ゲームのルールや実装の配慮によって未定義性が残らないようにデザインされている。でもTRPGでは未定義性を平気で残している。そこが大きな違いだ、という論だと感じます。

ただ、(myrtさんと意見が一致している点だと思うのですが)未定義性が残らないようにデザインされている将棋のようなゲームでも、予想外の行動がゲームの目的にとって思わぬ有効性を持っていることがプレイ中に明るみに出る、という可能性は否定できません。これは基本的には、プレイヤーがとれる行動やゲームが行われる現実世界の状況の多様性が事実上無限な上複雑なので、その全可能性を考えた上でルールや実装上のデザインを準備することはできない、というところにあると思います。

そう考えてみると、将棋もTRPGも、ゲームの構造が流動する可能性があるという点については同じだ、と言えることになります。前回の投稿の迷路の比喩で言えば、抜け道を発見したようなものです。

この、TRPGと将棋が同じなのではないか、という可能性が僕が気にし続けている点です。ゲームとしての両者の特徴をどうやったらうまく区別できるのか、と言い換えてもいいです。

ただ、僕の感じでは、それを解決するために出された概念が「実装」で、例えばコンピュータ・ソフトの将棋をプレイする際にメモをとっていいか、クラッキングによって設定データを変更していいか、などといった問題はあくまで実装領域の問題である、と考えるのだったと思います。 どのような行為が「手(=ゲーム核に属する行為)」であり、どのような行為が「予め配慮されていなかった行為(=実装領域に属する行為)」なのかを区別した上で、「実装領域での問題については適宜介入・調整して構わないし、問題が解決できなかったためにゲームが不成立になる可能性もあるけれども、ともあれそれはゲームが変動したということではないし、新しい手が発案されたということでもないのだ、」と言えるのだと思います。
もちろん、こうしたことが言えるためには、何かの形(理由)で、あるゲームの実装領域とゲーム核を、誰もが同じ仕方で区別できる必要があります。そうでなければ、一部の人がある行動を正当な手として認め、ゲームの構造が実は事前には把握され切っていなかったのだ、という意見を持つことを否定できないだろうと思います。
つまりこれはゲーム核に未定義性があることを否定できないということです。

実装領域がゲーム核と区別できるのか、誰がやっても同じ区別に行き着くのか、見解の相違が生じないのは何故なのか、については僕は未だに回答不能です。将棋に関して言えば、実装領域とゲーム核の境界についてかなり意見が一致する気がします。それが何故か、あれこれ言葉にしてみようとはしたもののまだよくわからない部分が残っています。(わからないのは「入力が離散的」という辺りの将棋の性質と境界線の引きやすさの関係です。)

同じ問題は、制御層についても言えると思います。何を制御層の中に含めて、何を含めないのか、の問題があると思います。

制御層という概念は、ゲーム核とよく似ているのですが、その類似点と相違点を、前回出した「審判」の比喩をもう少し進めて今はこういう風に考えています。
審判は特定のインターフェースについて実践経験を積んだ人で、そのインターフェース(例えば将棋を盤と駒でプレイした場合)について、反則と手を見分け、目の前の現実世界で何が起こったらそれをゲームのどのような「手」と判断するか、をよく知っている人です。
そのような審判に判断されたところのゲームの状況は、制御層に属しています。ゲームの状況はプレイの進行に伴って変化するわけですが、その変化がどのような法則に従うか、が「ゲームの構造」に定義されています。

そこで、審判が無視して考慮しない現実の諸側面は「制御層」に属さない事柄だと言えます。それらがゲームの目的達成に影響を与えるようなら、それは介入・禁止などの手段によって阻止されるべきだし、それはゲーム中の追加設定(未定義部分の定義作業)とは見なさないし、ゲームの開放性とも考えないのだ、と。

こういう主張が成り立つのは、何をゲームの制御層に含めて何を含めないかについて一致している場合だけです。

例えば気になるのは、将棋のゲーム核を人工言語で記述できる、制御層をコンピュータ言語でプログラムできる、という考え方です。そのプログラムできる部分を指して「ここが制御層だ」「ここがゲーム核だ」と判断できるのは何故なのでしょうか?
2002年01月19日:17時23分12秒
【実装とゲーム分析】制御層の完結性 / トモス
myrtさんの発言を解釈しつつひとつ質問です。 >>香水の使用を許可してもしなくても、将棋の制御層は期待通りに動作します。

とmyrtさんは書かれていますが、僕はそう考えたものかどうか迷っています。この議論に沿って考えると「プレイヤーAが香水をつけてくる可能性については予測していなかったので「審判」(−とこれは前回の僕の投稿からの比喩ですが。)は放置した。香水アレルギーを持っていた対戦者Bはくしゃみやかゆみに襲われて思考能力が低下、Aが勝利を収めた」ということが起こり得る気がします。


(放置という方針はmyrtさんの今回の投稿から採用しました。これについても僕は何か落着かないものがあります。)

プレイヤーAの勝利をどう考えたものでしょうか?

1)これは「審判が予め考慮していなかった要因がゲームに決定的な影響を与えても、それはゲームが成立しなかっただけで、ゲームは閉鎖系のままだ」と考えることができます。

2)あるいは、「審判が予め考慮していなかった要因がゲームに決定的な影響を与えたので、別のゲームが成立しただけで、審判の知っている元のゲームは閉鎖系のままだ」と考えることもできます。

3)あるいは、同じ事態を、「審判はゲームの構造を捉え損ねていたのだし、将棋は未定義性のあるゲームだから手の総体が誰にもわからない。たまたま新しい手を打つプレイヤーが現れて勝っただけのこと」と考えることもできます。

1)や2)の場合、プレイヤーはどうやって「手」と「反則」の区別を知ることができるのか(全てのゲームに「審判」が実在するわけではないと思います。)、が気になります。あと、TRPGも全く同じような形で閉鎖系だと言えば言えてしまう気もします。
3)の場合にはTRPGも将棋も開放系ゲーム、ということになりそうです。将棋とTRPGは違う、という印象があるのですが、それが汲み取れないのが気になります。
2002年01月18日:17時47分28秒
【実装とゲーム分析】未定義性と完結性 / myrt
 整理しきれておらず冗長ですが、 このままでは永遠に整理できない気配がしたので...

(Re:2002年01月15日:19時25分44秒【比較ゲーム分析】制御層とゲーム核の 関係、及び実装問題 / トモスさん)

>> もしも審判の間での判断が分かれるようなら、それは「何が正当な手で 何が反則かが厳密には定義され切っていないゲーム」であり、つまり「未定 義性がある開放系」だということになります。

 あるゲームの制御層を定義したとき、物理層でなされるすべてのプレイ に対して判定ができるならば制御層は完結性を持ちます。制御層が完結性 を保つためには判定ができることだけが大事であり、その判定が物理層 において絶対的な一貫性を持つ必要は必ずしもありません(例:バレー ボールの多数決判定)。

 物理層におけるプレイに対して必ず判定をできる保証は、すべ てのゲームにおいてありません。例えば将棋でも、物理層では駒 をマス目の間におくことができます。制御層が完結性を持つのは、 判定がなされてからの完結性です。物理層について我々が解析しきって いない以上、どうやって判定を実現するかは 未定義である部分が必ず残ります。これが未定義性でしょう。

 いやな匂いの香水をつけて相手の思考を妨害しても良いかどうかは 将棋のルールでは未定義です。 全員が香水をつけてくることを義務づける将棋大会だ って開け、その場合には香水をつけてこないことこそ反則になります。 以上のことから香水をつけて良いかどうかは、将棋ルールから見て実装上 の問題です。

 香水の使用を許可してもしなくても、将棋の制御層は期待通りに動作します。 判定さえなされればゲームは成立するため、どちらが正しいという問 題ではありません。これはゲームの実装の幅広さを保証します。

 「全く新しい手」に対しての制限を作る必要性があるのは、その手が頻繁に これから使われると恐れがあり、従来のルールでフォローできず、かつその 手が使われると「我々のしたかったゲームはこんなゲームじゃないんだ!!」と なる場合に限られます。そうでなければ、「その手に関しては無制限」で片付ければいいのですから。

 「全く新しい手」に対して判例を作ることは、元のゲームが示す プレイ集合に対する部分集合であるところのゲームを定義することにな ります。それは「我々のしたかったゲームはどういうゲームなのか」と いう問題であり、ゲームの改変と同様のプロセスを踏むと考えられます。

 さて、「我々のしたかったゲーム」を定義するときに、「我々が 元のゲームの名を冠してプレイしてきたプレイの有限集合」が参考に なります。 この有限集合のうち望ましいものが含まれ、今回の「全く新 しい手」にも言及し、想定する「望ましくないプレイ」を排除したプレイの 集合が定義できれば(この定義は一意には決まらない)、その定義が示す集 合を「我々のしたかったゲーム」として採用できます。
#プレイの取捨選択における恣意性は完全には排除できない。 例えばF1のターボ禁止に冠する黒い噂を聞いたことがある(日本人の ひがみかもしれんが)。

 ただ、スポーツにおいて「全く新しい手」に対して判例を考える のは大抵プレイ中ではありません。プレイ中に「全く新しい手」が打たれた 場合は、その手に関する制限は「無制限」であるとして判定 するのが通例です(次回からは禁止されるかもしれないが)(遡及法の禁止の 精神)。プレイ中に モメるのは大抵、その手がすでにあるルールに反しているかどうかの解 釈の問題です(定義されているからこそモメる)。

 もっとも、わざと解釈の幅を広げたルールを設定することもあり ますが。「その他、公衆良俗に反することなど禁止(将棋大会のルール の最後にあった)」。またゲームのルールで禁止されてないからって日常レベルで マズいことをやれば、日常レベルのルールでつまみ出されます。将棋中の火事も そうでしょう。火事の中で行なう将棋も実装が不可能なわけではありませんが、 困難でありレアケースなので、火事になったら「ゲームが成立しなかった」で
片付けるのが安直な実装だと思います。もっともプレイの中断が レアケースでなくかつ重要な場合、ルールを定義する場合があります(プロ野球の 雨天中断とか)。

 スポーツのようなゲームは判定できた後の完結性を持ちます。 全く新しい判定を作りゲームを改変する場合には、必ずその判定と、判定の 結果による状態遷移規則、遷移先の状態を同時に定義します。ところがTRPGでは、 状態遷移規則や遷移先の状態が未定義であるのに判定を用意したり、実際に判定 したりします。この意味で、TRPGは完結性を持たないと考えられます。
2002年01月17日:19時25分09秒
【「物語重視」のゲーム分析】コミュニケーションの重要性、総括 / トモス
2)コミュニケーション
以上のような構造の共有とそれをめぐるプレイを成立させるためには、いろいろなコミュニケーションを丁寧にやっていくことが必要だろうと思います。
システムや背景となる世界がどのような象徴構造を許すのか、はその一つです。GMがシナリオを用意し、背景世界を紹介する際には、プレイヤーに「こんな構造を用意してみた」「背景世界のあれこれの要素のいくつかをその構造とこんな風に結び付けてみた」ということを伝えて合意をとりつける方が、後のプレイが順調に行くでしょう。「それはアリだ」とプレイヤーが考えるのか、「それは不適切な解釈だ」と考えるのか、不適切だとすると何故か、などを考える。

プレイヤーは、単にプレイヤーレベルでその構造についてコミュニケーションするだけではなくて、自分の担当するPCがその構図にどう関われるかを考えて、キャラクターの背景設定を解釈してPCに特定の立場をとらせたり、葛藤させたりするのだと思います。立場や葛藤だけでなく、より具体的な言動の詳細も、構造との関係で決めていく。更にそれが他のプレイヤーにうまく伝わると、PCの間の関係が物語の構造に重なったりもします。

こうしたコミュニケーションの諸相はどう分類したらいいのか今はわかりませんが、とりあえずこうやってコミュニケーションをとっていくことは、「物語の象徴的構造」「PCの立場」「ストーリーの諸要素の意味」「プレイヤーの要望」などなどをめぐってかなりいろいろな意志疎通が起こりうる、と言えそうです。それもこれも構造を共有し、議論をそれをめぐるものに絞るからだ、とも。「物語の面白さ」というだけでは余りにいろいろな可能性があるところを、ある構図を導入することで「これは自然を守ることを訴える物語になるかも知れない。あるいは人間が自然を征服することの功罪を描く物語かも知れない、PC達の立場や行動による」などと話題を絞り込み、意志疎通の手がかりにする。でも「一本道」、「メッセージの押し付け」、「結末の押し付け」「構図の押し付け」などとは限らない。

3)総括

物語の構造という形で「物語の面白さ」について絞り込んだ提案を行い、と同時に、その構造の変更に対する提案などもある程度受け入れる。つまり「構造」はタタキ台のようなもので、それがあることで、遊び手の間の意志疎通が容易になり、また世界の背景設定や場面の情景描写、PCの言動、などがお互いに密な関係を保った物語が形成される可能性も高まる。そういう遊び手間、物語の構成要素間の結び付けをする「媒介」の役割を構造に担わせ、コミュニケーションを重視したプレイによる成功を図るので「構造媒介派」の物語重視プレイ、とこれを呼んでみました。

前に福田さんの投稿に示唆を得て提案した「ストーリー限定型」とは違う、物語重視のプレイをゲームとして成立させるためのもうひとつの戦略でありうるだろうと思います。

いろいろ粗いところがありそうですが、今回は以上です。
2002年01月17日:19時20分40秒
【「物語重視」のゲーム分析】物語の構造 / トモス
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。鍼原さんの投稿の僕なりの咀嚼です。

重要な論点は2点、「コミュニケーションを丁寧に」「示差的な多義性を持った言語構造態を共有する」だと思いました。確信はないのですが、読んでいて「こういうことかな?」と思い当たったことがあるので、僕の言葉で表現してみます。今回も誤解かも知れませんが、とりあえずひとつの考え方にはなっていると思います。「生成される物語の面白さを目的とするプレイは、こんなプレイでもありうるのではないか」という一例に。これはあくまでもひとつの立場だということを強調しておきたいので、仮に「構造媒介派」と呼んでおきます。(名前の由来は後に。)

1)物語の構造
まず、「示差的な多義性を持った言語構造態」ですが、これをかなり思い切って「物語の象徴的な構造」という言葉に置き換えてみます。

物語にはしばしば「善対悪」のような「図式」があります。物語の時系列的な展開のパターンではなくて、物語を構成するキャラクターの間の関係、場面の間の関係、などです。このような意味での「図式」にあたるものを、物語の構造と呼んでおきます。それは物語の具体的な諸要素に表現されていて、例えばテレビでは正義のヒーローと悪役は話し方が違ったり、衣装の色が違ったりします。悪役は日光の差さない地下に住み、正義のヒーローは地上に住む、という対比がある場合もあります。
要点だけ書いてしまうと、TRPGで、このような物語の構造を遊び手の間で共有することである程度「どのような物語内容が生成され得るか」を絞り込み、その構造のデザインをめぐってあれこれ駆け引きをしたり、構造をうまく物語の諸要素に反映させる工夫をするのが、構造媒介派のプレイスタイルです。以下、それをもう少し具体的に書いてみます。


例えば映画「ターミネーター2」の前半部分には、日常と非日常の2項対立があります。人間ならざる者達(ターミネーターとT-1000)が現れるのは、夜の人気のない駐車場や荒くれ者がいる酒場といった、日常世界の辺境です。また、唯一未来のことを知っている女性(サラ)は、妄想に取り付かれていると考えられていて、精神病院に隔離されています。
一方彼女の息子であるジョンは日常の世界に属しており、自宅界隈や、ショッピング・モールのゲームセンターなどの場所に登場しています。
ターミネーターとT−1000は、戦いを繰り返しながらどんどん日常世界に侵入してきて、やがてショッピングモールも、ジョンの家庭も、破壊されることになります。それは物語が非凡な真実(少年が実は未来のレジスタンスの指導者であり、未来から送られてきた刺客に狙われていること)が、日常世界にいる少年に明らかになっていき、真実として受け入れられていく過程でもあります。(観客もだいたい似たようなコースを辿る気がします。)
また、この象徴的な構造は、サラが夢で見ているヴィジョンとも一致しています。いかにも平凡な生活の一部を構成していそうな公園で遊ぶジョンや他の人々。彼女はそこから金網で隔離されており、危険が迫っていることを必死に訴えるのですが、それが聞き届けられるよりも先に核爆発が起き、全てを呑み込んでしまう。

細部の記憶があやふやなのですが、こんな風に物語を貫く象徴的な構造があって、登場人物や、舞台となる場所や、その他様々な諸要素がこのコンセプトとの関係で決められている。映画、芝居、小説、絵画など、具象芸術にはそうした形で作られているものは多いと思います。

TRPGでも、象徴的な構造をGMが用意して、例えば「汚れなき自然」と「それを破壊しなければ繁栄できない人間」をめぐって物語が生成されるように、と仕掛けてみることができます。(PCやプレイヤーに全く関心がなければ駄目だと思いますが)。精神的な魔法の力によって人間が自然を制御できるようになるにつれ、ある都市が拡大し、森を耕作地に変え、ユニコーンや妖精が森を追われ、そうした存在が人々の日常生活のそこかしこにもたらしていた神秘がいつの間にか姿を消す。たとえばそんな背景世界を用意することができます(もちろんシステムなどにもよりますが)。舞台となる場所、PCが直面する葛藤、シナリオの中心となるイベント、NPC、などもそれに関係のある形で用意することができます。どこからかやってきた魔物や山賊の退治を引き受けたパーティが討伐の後に原因の究明に及ぶと、ある特殊な泉の存在が浮かび上がる。森の奥深くにある泉の水が、近くの山の開拓をきっかけに濁るようになったが、泉の水が澄んでいて空が映っている間は森の縁に住む人々の心も澄んでいて、邪念が浮かびにくかった。ところが山腹の住人達を立ち退かせても彼らに行き場や職があるわけでもない。むしろそれは都市政府の雇われ魔術師達に魔法で解決してもらうとか、治安強化のために警備隊を配置するのがいいのではないか、と考える立場まである。山腹の開拓と泉の間の関係があるという説は根拠がない、として疑う人もいるかも知れない。PC達は、原因究明の過程でインフォーマントになってもらった妖精(籠の中に入れられて見世物にされている)から逆に、泉を何とか元の状態に戻して、自分を故郷に帰してくれ、と依頼される。

その構造を受け入れてどちらかの立場(自然を守る/人間の繁栄を)をとってみるのもいいし、葛藤するのもいいし、構図を変動させようとする(共生の可能性を探る、とか)のもいい。あるいは構造を真っ向から否定して、「自然も人間もありのままで汚れていないはずだ」とか、「それは自然を美化した考え方で、人間に自然を破壊する力がなければ天災などで命を落とさざるをえない厳しい世界に生きる羽目になるはずだ」という考え方を探るのもいい。(この場合にはプレイヤーとしてマスターにそれを伝えて、設定変更を促すような交渉が必要になるかも知れませんが。)

粗造りの例ですが、このように象徴的な構造を用意すること、それをマスターが伝えようとし、プレイヤー側も理解しようと務めること、が「構造媒介派の物語重視プレイ」では重要になります。つまり、ストーリー(出来事、キャラクターの言動など)がその構造をめぐって展開すれば、生成されてくる物語は少なくともその構造をめぐるものになり、「わけがわからないもの」や「散漫なもの」ではなくなります。ある「きちんとした物語」になる、と言ってもいいでしょうか。それは「物語の中でもとびきり面白いやつを目指す」時の目的としては少々控えめ過ぎるレベルかも知れませんが、少なくとも「味わいや意味がちゃんとある物語を目指す」という時には目的になるものだろう、と思います。
また、その象徴構造があることで、何をしたら物語がより面白くなるかについてプレイヤーが考える手がかりが提供されている点がとても重要かなと思います。
2002年01月17日:19時18分29秒
【「物語重視」のゲーム分析】 議論の文脈 / トモス
#鍼原さん、投稿どうもありがとうございます。いろいろ考えるところがありました。

鍼原さんも以前指摘されたことですが、「物語の面白さを追求するプレイスタイル」をもう少し具体的に定義するとどうなるのかは、たぶん人によっていろいろだろうな、と僕も一連の投稿を書きながら思っていました。だから、鍼原さんの発想と僕の発想が微妙に違っていてそれを浮き彫りにすることが難しい、というのも無理はないような気がします。
ただ、「物語内容の面白さ」(=ゲームの目的)がはっきり定義できると、多少「それを追求して遊ぶことがどのような意味でゲームになりうるか、なり難いか」といった問題についても踏み込んだ話ができるような気がするので、興味があるところではあります。

今回の鍼原さんの投稿には、「良い悪いは別にして自分が考えていることと、トモスが書いたことが少し食い違っている」という話と「この点については自分はもっといいアイディアを持っている」という話が混じっていたと思うのですが、とりあえず前者の方を考えていきます。「物語内容の面白さ」を鍼原さんはどう捉えているのか、です。前の僕の投稿はいわばひとつのケースというか、「物語内容の面白さをこんな風に捉えて、こんな風にゲームとしてプレイできる(しにくい)可能性がある」という話だったわけですが、今回のはもうひとつ別のケース・スタディだ、というつもりでやってみます。

ちなみに鍼原さんにわかりづらいと指摘された点を意識しつつ前回のケース*1 を整理・要約するなら、こんな風になります:
ストーリーとは架空世界で何が起き、どういう因果関係があるかの総体であり、それがどんな順番で生じるか、どんな口調で語られるか、などなど「表現」と、それから遊び手の「感受性」(どういうストーリーがどう表現がされた時に、どのような感想を抱くか)と組み合わさって、ある遊び手にとっての「物語内容の面白さ」(=ストーリーについて感じたその感想の内容)が決まる、と考えます。例えば「今回は自分は魔剣を使えたから嬉しかった」というのはストーリーについての感想ですが、「魔剣を抜くまでに、魔法の力に怯えるNPC1と、目前に迫る敵1との板挟みになって非常にスリリングだった」というのは、「物語内容の面白さ」です。全く同じストーリーが全く同じように表現された場合でも、プレイヤーが違っていたら、「魔剣を抜くのに、ここだ、という瞬間をずっと待ち続けてタイミングを測っていたので、じれったかった」と感じる場合もあります。そうすると、プレイヤーは、「これから先、こういうことが起きてくれたら楽しいかな」などとある程度は予想が立てられても、それを実現する手段がなかったり(でもそれはマスターのシナリオの設定内容次第だ、とか)、逆に何が起こるか、それがどう表現されるかについてはだいたい予想が立っても、(たぶんこれからパーティは内部分裂の危機に直面することになり、一触即発の緊張感が漂うだろう)、それを自分が楽しめるのかどうか、どうやったら楽しめるのかが自分でもよくわからなかったりする場合があります。そこで、ゲームとしてはプレイしづらいわけです。
抽象的な言葉に置き換えると、目的がはっきり定義できないこと、プレイヤーにできること(目的達成のためにできる工夫)がかなり限られていること、などからゲームとして遊ぶことが困難なわけです。

ただ、福田さんの指摘*2 通り、これには「特定のストーリーとプレイヤーに限定してプレイを行う」という(恐らく実践されてもいる)かなりの程度有効そうな解決法もあります。

参照(敬称略):
*1
【比較ゲーム分析】勝利条件としての「物語の面白さ」
,トモス,2001年12月29日:14時28分35秒, TRPGLABO 083

【比較ゲーム分析】勝利条件としての「物語の面白さ」
,トモス,2002年01月05日:17時19分57秒, TRPGLABO 084
*2 Re:勝利条件としての「物語の面白さ」,福田,2002年01月06日:07時06分26秒
2002年01月17日:19時15分43秒
識別子変更案 / トモス
#鍼原さんの問題提起(?)を受け、識別子の分離案を提出してみます。

「実装」をめぐる議論も、「物語重視」をめぐる議論も【比較ゲーム分析】の枠内でやっているという感じが僕はしています。

鍼原さんが以前指摘された通り、「物語重視」をめぐる議論はTRPGのプレイスタイル間の比較、セッション間の比較、などを意識したものになっていると思います。「物語重視のプレイと、そうでないTRPGのプレイがゲームとしてどのように違うのか?」特に僕は「物語重視のプレイがいかなる意味でゲームだと言えるのか?」と考えているつもりです。

それに対して、「実装」をめぐる議論はTRPGと将棋やスポーツなどを比較するような視野でやっています。概念や議論の見通しがよくなると、「TRPGは他のゲームと比べて、ゲームとしてどのような特徴や独自性を持つか?」「TRPGはいかなる意味でゲームだと言えるのか?」といった問題に対する答えにつながると思います。既に目的やサブゲームや未定義性などの概念を手がかりにした答えが提案されていますが、それに追加されるような形で。

だから、2つの議論は、焦点や視野は違えど道具立ては同じだと思っています。

ただ、同じようなタイトル(例えば【比較ゲーム分析】実装領域とゲーム核の区別、など)の投稿が何本もあるのは、新着情報をチェックしている人にとってはかなり参考にならないかもな、と気になっていました。

あと、識別子が同じだから議論が単一だろう、と思う方は非常に混乱されるだろう、とも。

そこで、
【「物語重視」のゲーム分析】
【実装とゲーム分析】
という2つを提案しておきます。これで識別子の後につける副題のような部分は投稿毎に違うものにできると思います。

どちらにも属さないけれど関連の話題は
【比較ゲーム分析】
を使って投稿したらいいかと思います。

2002年01月17日:05時27分20秒
[比較ゲーム分析]「物語の面白さ」と「物語生成過程」 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 えっと、トモスさんの、「【比較ゲーム分析】勝利条件としての『物語の面白さ』」 (TRPG総合研究室 LOG 084,2002年01月05日:17時19分57秒)、へのレスです。
 日数明いた割りに進展ないので申し訳ないのですが(困)。
 
@トモスさんWrote
>鍼原さんのコメントからは、「キャラクタープレイをうまく行うことで面白い物語が生成される」という意見を感じたのですが、これは僕の採用している枠ではうまく捉え切れない感じです。
 
 アタシの方でも「勝利条件としての『物語の面白さ』」と「物語生成過程重視」について、あれこれ考えてみようとしたのですが、あまり進展はありませんでした。
 
 苦し紛れに、トモスさんが書いてられる「物語重視」とアタシが考えている「物語生成重視」の差違点を炙り出せないか試みてみます。
 自分の考えに近い話題ほど差違が理解しづらいということもママありまして。丁度この話題がアタシにとってのソレなんだと思います。
 食い違いはアタシも感じているのですが。「差違点を整理できないか」と言ってもうまくいかすに、ますます食い違う可能性もあるのですが。(もしそうなってしまったら勘弁してください)
 
 アタシが考えている、「生成過程重視」を乱暴に要約すると「ゲーム・コミュニケーション(=ゲーム・プレイ)も含めて、セッションに動員される多種多様なコミュニケーション(性質が異なる諸コミュニケーション)を丁寧に処理する」って要約してもよいかもしれません。
 
 一般に、TRPGセッションでは他のゲームには、ちょっと類を観ないくらいタイプの違うコミュニケーションが複数種類動員されるのですが。
 それぞれのコミュニケーションのタイプ別の性質を意識しながら、丁寧にコミュニケーションを処理してゆくことが「物語生成過程重視」、と捉えていただいても構わないと思います。
 
 アタシが思うに、「物語の面白さ」は、丁寧なコミュニケーションが実現され、かつシステム(ルール系)についての判断と、ワールドについての解釈を妥当におこなわれれば、結果として達成されると考えています。
(「物語の面白さ」が単独で勝利条件になることはTRPGではないと思うんですね。野球とかでもそうしたことはないように思うのですが)
 
 後、誰か特定メンバー(プレイヤーでもGMでも)の当初の計画通りに物語内容が作成されるセッションは、これはTRPGって遊びの性質から考えて、らしくないように思っています。(今回は関連付けての説明は、はしょらせてもらいます)
 
 だったら、「物語生成過程」なんて言わないで、「コミュニケーションを丁寧に」って言い方でいいじゃないか、という意見もあるかもしれません。
 こちらもきちんとした説明をはじめると長くなるので、今回ははしょらせてもらいますけど。
 一言書いておくと、「何のためにコミュニケーションを重視(丁寧におこなう)するのか?」という観点は重要で。
 「何のために」が絞り込めずに、ただ、「コミュニケーションを丁寧に」を言っても、心構え以上の意義は持てないと思いますので。技法の整理などを考えていくには不適当だと思っています。
 
>面白い物語が生成された場合の感想としては、例えば次のようなものが考えられます。
>「魔王を倒せたのだが、倒せた時のPC1の疲れ切った物の言い方が、何か魔族との長い戦乱の時代の幕開けを感じさせてゾクゾクしてよかった」
 
 ちょっと乱暴な言い方になるので気が引けるのですが。
 「倒せた時のPC1の疲れ切った物の言い方が、何か魔族との長い戦乱の時代の幕開けを感じさせてゾクゾクしてよかった」というようなことはあり得るのですが。トモスさんが例示に挙げたような要約は、アタシには印象論だと思えます。
 
 ここで「印象論」というのは、間違いではないにしても不正確でしょう、的な含みです。
 TRPGセッションで、プレイヤーなりGMなりの描写や説明から、なぜ「疲れ切った物の言い方」と「長い戦乱の時代の幕開け」といった連想が結びつくか、を考えてみると――
a「ワールド設定が構造的に共有されている(多様な解釈を含みつつ共有されている)」
b「それまでのセッション展開で表現された物語展開とキャラクター性の解釈、了解が踏まえられて、はじめて、メンバー間でバラバラに食い違うわけではない連想が成り立つ」

 ――はずです。
 
 例え、台詞回しが達者な人が「疲れ切った物の言い方」をうまく表現したとしても、aやbとうまく連動しなければ「魔族との長い戦乱の時代の幕開けを感じさせ」るといった連想はうまれないはずなんです。
 
 例えば、次は「妖魔夜行」のあるセッションでの個人的体験例なのですが。
 セッションの課題(≒ミッション)はクリアされ、経験点も妥当に(プレイヤーに納得のいく範囲で)配布されました。
 しかし、敵役の位置にいた妖怪キャラクターを説得し人間社会への被害だけを止めさせようと試みたあるPCにとっては、敵の殺戮で終わった物語展開は「苦い勝利」でした。
 結末において、別のあるPCは「仕方なかった」的に言い、また別のあるPCは「そんなことを気にしてもしょうがない」的に言った。

 アタシとしては、ここで、PC間の意見の一致が見られなくとも、メンバー(GMとプレイヤー間)で、それぞれの観点から物語内容についての構造的了解(差違の了解)が成立することが、TRPGセッションでの物語が面白くなった状態だ、と考えています。
 メンバー間の物語解釈が構造的にも成り立たないほどバラバラになってしまった場合は、少なくとも物語生成面ではセッションは失敗、と考えます。(が、往々にしてそうした場合はゲームプレイも齟齬をきたしていることが多いかと思います)
 
 類似の事態を、トモスさんの「何か魔族との長い戦乱の時代の幕開けを感じさせてゾクゾクしてよかった」の例を借りて仮定してみると――
 PCaにとっては「ゾクゾクした感じ」の基調は恐怖であり、PCbにとっては戦慄であり、PCcにとっては喪失感のようなものである、というそれぞれのキャラの解釈(物語的に生成された出来事の受け止め方)が、メンバー(プレイヤー達とGM)に構造的に了解される。
 ここで「やってやるぜ」とか「期待」とかのアフレッシブなキーワードをださないのは、単にトモスさんの例の条件が「倒せた時のPC1の疲れ切った物の言い方」だとの仮定を踏まえてのことです。アグレッシブな展開の物語でも「ゾクゾクした感じ」の捉え方(解釈)がPCによって多様である、ということは成り立ちます。

 ――アタシとしては、こうした事態が成立したときに「TRPGセッションで生成された物語内容が面白くなった」と考えています。
 
 アタシは、システムに含まれるワールド設定を未定義な言語構造態というよりも、示差的な多義性を持った言語構造態としてみなしているわけですが。
 ワールド設定の多義性がセッションで生成される物語内容にも反映されたときに、システムのポテンシャルが活用された、的な意味合いで「セッションで生成された物語内容が面白くなった」と言ってよいように思います。
 
 ちょっと説明不足かな、とも思いますが。
 上のように考えていますのでトモスさんの言われていた――
>「ゾクゾクした」「リアルだった」「味わい深かった」辺りが受け手の感受性に一番左右される部分です。

 ――というのは、当然と思うのですが(ただし、「感受性」というのが、世間で言われる“感性”のようなニュアンスで言われているのでしたら、それは不正確だと思います。ワールド知識のような非・感性的な素因も重要だからです)。一方で――
>物語内容の面白さを目的とするプレイは、この受け手の感受性に左右される点での達成を目指すので、独特の達成しづらさがあると思います。

 ――という意見は、トモスさんの意図がよくわからないんです。
 書かれていることの意味はアタシなりに理解できてると思うのですが。
 しかし「独特の達成しづらさ」が「受け手の感受性に左右される」から生じる、という整理はアタシにはピンと来ません。
 
 ピンと来ないままに応答しても、また食い違うと思うのですが。
 システムとワールドを踏まえて、コミュニーケーションを丁寧に行えばそんな達成しづらいということはないように思います、というのがアタシの意見なんです。
 
>鍼原さんのコメントからは、「キャラクタープレイをうまく行うことで面白い物語が生成される」という意見を感じたのですが、これは僕の採用している枠ではうまく捉え切れない感じです。
 
 先の投稿では物語生成過程重視を考えるに至った経緯を述べたのでそのように採られかな(?)とも思うのですが。
 より一般的に言い換えると「TRPGの場合には、キャラクター・プレイを含んだ多種多様なコミュニケーションを自覚的に使い分け、それぞれの性質を意識しながら丁寧に行っていけば、セッションで生成される物語内容は面白くなる・はず」というのがアタシの考えなんです。
 要約的に「物語生成重視」(生成過程の重視)と言っているわけで、「ストーリー重視」とは考え方が違います。ですから――
>物語内容のレベルに目的がある場合は、特定のストーリーが実現されること(魔王を倒す事、姫君を無傷で救出すること)が目的なのではなく、そうしたストーリーがどう表現され、どう感じられたかが問題になります。

 ――と、いうのも、アタシの方にしてみるとちょっと噛み合わない感じなんです。
(多分トモスさんの方にしてみても、噛み合わない感じ方だと思うんですけど)
 
 アタシ的に言ってみると「ストーリーがどう表現され、どう感じられたか」はセッションの出来不出来を左右するもんだいにはもちろんなるのですが。
 TRPGセッションでは、メンバー個人の恣意や目論見でストーリーもどう表現されるかをコントロール仕切ることはできません。
 ランダム要素もあるし、多種多様なコミュニケーションが介在するからです。強いて言うなら表現をメンバー個人が恣意や思惑でコントロールできるのは、エピソードよりももっと断片的な語りにおいてだろうと思います。

 結局、複数メンバー(プレイヤー達もGMも)の思惑が交叉して、ストーリーも結果としてできてしまうのがTRPGでの物語生成だ、と言う風に思っています。
 ストーリーも結果としてできる・だから・物語内容もも当然結果として生成される(が、生成過程にはメンバー個々人の思惑も関与する)と考えています。
 
 とても曖昧な受け答えだったと思いますが。いかがでしょうか(?)。
 
別件1:もしかしたら、[比較ゲーム分析]の内で、Myrtさんが深く関ってられる話題と、「物語生成」関連の話題は[見出](識別子)分けた方がよいのかしらん?とか思いました。
 普段だと、自分なりに考えた[見出し]案提案するんですけど。
 ちょっと、今回は、[比較ゲーム分析]の内での位置付けがよくわからなくて。
 もし、よければ、トモスさんに[見出]案を考案・提案していただけたら助かります。
 (今回はアタシちょっと判断がつかないので、トモスさんが特に分ける必要無し、とみなされるならば、それでも構わないです)
 
別件2:@トモスさんWrote (「【比較ゲーム分析】制御層とゲーム核の関係、及び実装問題」,当掲示板,2002年01月15日:19時25分44秒)
 >myrtさんも、鍼原さんも、基本的には「ルールを読めばわかる」、という意見のようなのですが、それはルールを読めば、ゲームとは一般的にどういうものか、駒と盤を使うゲームとは一般的にどういうものか、などの常識なり経験なりを手がかりにだいたいどの審判も意見が一致するだろう、ということでいいのでしょうか?
 
 こちらへのお返事は、少しお時間ください。
 文脈よく考えないと、トモスさんの質問意図読み違えそうな気がしてるものですから。
2002年01月15日:19時25分44秒
【比較ゲーム分析】制御層とゲーム核の関係、及び実装問題 / トモス
#myrtさん解説ありがとうございます。

まだあちこち手探りな上、ちょっと議論を組み立てる速度が落ちていますが、差し当たり一つ考えたことを投稿してみます。

今回もイメージとか比喩を使ってみます。冗長ですが。


#「それは誤解」「こう考えてはどうか」など指摘・提案などがあったらまたよろしくお願いします。>myrtさん

ゲーム核とかゲームの構造という用語で指していたのは、ゲームの各局面でプレイヤーが選択可能な手と、それらの手がゲームの局面をどう変えるか、ということです。(正確にはそれに他に、プレイヤーの手以外の要素=他のプレイヤーの手やゲームの進行や乱数要素などがどのようにゲームの局面を変えるか、ということも含めます。)

ゲーム核というのは、プレイヤーが直面しているもの、というイメージがあります。巨大な迷路のようなものを上から見下ろして、「あの交差点であっちへ行けばあの場所に辿り着ける。そこからこういう道筋を辿ったら目的地まで辿りつけるんではないだろうか」などと考えている、というようなイメージでもあります。(将棋のようなゲームでは迷路の先の方が見えないとか、RPGでは一部が隠されているとかいう点を付け加えると、かなり的確な喩えだと言えそうです。)

制御層の方は、プレイヤーが直面するものではなくて、むしろゲームの審判のような人がプレイを観察しながら現実に起きていることを解釈している時の、その解釈の内容や解釈行為が所属している領域、という感じがします。ただ、ここで、プレイヤーがその審判に「このゲームはどういうゲームなのか」ということを聞ければ、それを元にしてゲームの構造が描けるように思います。審判は「このゲームはどこが選択の難しいところで、どこに気を付けてプレイすると目的を達成できるか」などといったことを考える役目ではなく、「実際のプレイをどう判断して、必要に応じてどういう判定を下すか」ということを知っている立場です。でも、プレイヤーは審判に「ではもし私がこんな局面でこんな行動をとったらあなたはどう判定するだろうか?」という類の質問をすれば、ゲームに有効な手と反則が区別でき、結果としてゲーム核がわかります。

但し、プレイ中に「さっき審判に聞き忘れたけれどこの場面でもしこういう行動をとったら認められるだろうか?」とプレイヤーが何かを思い付く可能性は残ります。審判が「以上でゲームの全局面について話をしたことになるし、それぞれの局面でとりうる手も全部話したことになるよ」と言うまで話をしていればプレイヤーは、「この行動はさっきの話のなかで有効な手として登場しなかったからきっと反則なんだ」と判断できる、ということにもなりそうです。(ここは少し自信がないです。)

ところが、審判も予測しなかったような思わぬ行動が登場して、「これは今まで考えたことがなかったけれど、手として認めるべきだろうか? それとも反則として禁止・阻止するべきだろうか? どういう基準・根拠で判断したらいいだろうか?」と迷う可能性があります。

いつも非常にお粗末な例ばかりで申し訳ないですが、将棋について今まで挙げたいろいろな「反則めいた行動」を審判が反則として判断できるのは何故か? 複数の審判の間の判断が常に一致するとしたらそれは何故か? という疑問があります。もしも審判の間での判断が分かれるようなら、それは「何が正当な手で何が反則かが厳密には定義され切っていないゲーム」であり、つまり「未定義性がある開放系」だということになります。


「手と反則」の問題ではありませんが、「終盤で突如会場が火事になった場合どうするか?」なんていうことも考えます。

myrtさんも、鍼原さんも、基本的には「ルールを読めばわかる」、という意見のようなのですが、それはルールを読めば、ゲームとは一般的にどういうものか、駒と盤を使うゲームとは一般的にどういうものか、などの常識なり経験なりを手がかりにだいたいどの審判も意見が一致するだろう、ということでいいのでしょうか? それとも、ルールを読めば論理的に導き出せるはずで常識も経験もかなり関係ない、というような意見でしょうか?

ある見習い審判がいるとします。ルールについてみっちり講習を受けた後で、実際のプレイを観察、解釈する実習に入ります。教わったルールはベテラン審判達が「ゲーム核」と考えている部分(これは例えば駒や盤といったインターフェースも除外された、ゲームの構造のことです)の構造の明示と、プレイ中によく生じる行動や事態にどう対処したらいいか、第3者による放火があればホットラインを通じて消火係を呼ぶ、盤上の駒の配置を素早く撮影する、などといった実装上の指示を含んでいるものと考えます。

見習い審判の実習期間中に、講習で教わらなかった事件が起こるとします。「自分はどうもこの駒の匂いが気になって集中できないので自分が持ってきたこの駒と盤を使ってもいいだろうか」という申し出が指し手の一人から行われます。何を基準にどう判断したらいいか、審判は知っているでしょうか? 何故知っているのでしょうか?

棋士の一人が香水をつけてきて相手の香水アレルギーを誘発することに成功し、それが元で失格と判断されたとします。それに対して棋士は「おれが今からとろうとするこの行為は、ルールで禁止されていなかったのだから、この行為をおれが今とったことを理由にいきなり失格にするなんてひどい。」と抗議したとします。TRPGでは「やってもよさそうだし、審判によっては認めてくれること」があって、でもそれが他の審判にとっては論外で即刻退場に値するものだったりすると思います。将棋もそんなところがある、と言えるでしょうか? それとも将棋の審判達は何かの理由によってこういうTRPGに起こりそうな事態を未然に防止できるでしょうか?


「物理層」はゲームが実際にプレイされている場面です。それを観察しているだけでは何がゲームに有効な手で、何が反則であるかは必ずしも明白ではないと思います。特に、「とってもよさそうだが誰もとらなかった行動」が有効な手だけれども誰もそれを打たなかったのか、それとも反則だからやらなかったのかがわからない。こう考えているので、プレイから制御層を知ることはできない、というmyrtさんの意見には同感です。ではルールからそれを知ることができるのか、というと僕にはよくわからないのですが。ルールにはインターフェースの話も実装上の工夫もゲーム核も全て含まれているので、それらを誰もが同じ仕方で区別できる、という必要があるように思います。できるでしょうか?
2002年01月15日:17時33分33秒
【比較ゲーム分析】将棋とゴルフにおけるベンチマークテスト / myrt
 トモスさんの一連の記事(【比較ゲーム分析】TRPGとゴルフに おける「戦績比較」)の結論に共感します。

 結局、スポーツはその非マルコフゲーム性から、「初期状態から より有利な戦略が選べること自体が実力の一部」という側面を持っ ているためベンチマークテストが簡単な面があるのだと思います。 ゴルフだと、飛距離とか。最大飛距離が長ければゴルフに強いわけ ではありませんが、最大飛距離が度を越えて短ければゴルフに弱い ことは確定です。

 TRPGも非マルコフゲーム性を持ちますから、将棋よりもスポーツに 似たベンチマークテスト性を持つ可能性を考えてみます。例えば「ソード ワールドで、作ったばかりのキャラ3人で30匹のゴブリンを倒した」と 言えば「何か凄い」気がします。

 問題はどう凄いかですが、「作戦が凄い」「ダイス目が凄い」「GMの アイテムを出す気前が凄い」「ゴブリンのオリジナル設定が凄い」など、 何か「今の自分の基準から見た凄さ」があるように思えます。そしてその 凄さは詳しい話を聞けば結構わかりやすいです。定量的には計れませんが。

 将棋の場合、名人の凄い手を見て解説されてもどう凄いのか素人には 良く分かりません...
2002年01月15日:17時31分30秒
【比較ゲーム分析】制御層と物理層 / myrt
(Re:2002年01月13日:11時08分18秒【比較ゲーム分析】制御層と物理層、シミュレーション / トモス)さん

 人間の100m競争では、物理層でフライング抑止処置をすることはあまり ありません(例えば競馬では、鉄板でスタート不可能にすることにより物理層で抑止しています)。フライングをしてしまった選手をファール 戦略をとったとみなすことによりフライング抑止を実現しています。

 100m競争では選手が最初にスタート位置にいてくれないと 困りますが、物理層の物理法則だけではこれは保証されません。 制御層で最初にスタート位置にいない選手はファール戦略をとったと みなすことにより、ファール戦略を取りたくない選手が物理層でもスタート 位置にいることを期待します。

 また物理層の物理法則では、人間が早く走って物理的(というか肉体的??)に 嬉しいことはあまりありません(例えばネズミレースでは、ゴールに食べ物を 置くことにより早く走って嬉しいように調整されます)。制御層の状態遷移規則 によって、人間が早く走るモチベーションを与えています。 これらの効果を考え、この層を制御層と呼んでみました。

 これに対してシミュレーションは、まず物理層的に勝利したら嬉しい 実戦があります(仮想物理層)。操作物理層でどれだけ頑張っても、その 操作物理層において直接嬉しいことはありません。制御層は、操作物理層で の行動のモチベーションを与えます。

>>他に、僕がまだよくわからない点は、あるゲームの制御層がどのようになって いるかは、複数の仕方で理解できる、とするmyrtさんの見解。

 致命的な部分で違う...まぎらわしい書き方をした私が悪いのですが。
#「新たに実装が制御層とみなされることも」と書いた覚えが。

 私の見解は、ある「プレイ」に対して複数の制御層(ゲーム)が定 義できる、というものです。「プレイ」は、その場で、その時間に行 なわれたプレイは他にないという意味でそれぞれユニークです(唯一性を持つ)。

 ある「ゲーム」と言ってしまうと、それはそのゲームが実装されるところの もの(プレイ)の集合を指します。違う時間に違う場所で違うメンバーで行なわ れても、定義に合致してれば同じ「ゲーム」だと言えます。

>> ルールなどを見ても何が物理層で何が制御層かがわかるわけではない。

 ルールを見れば制御層がわかります。ところが、特定のプレイを1回だけ見た 場合、どこまでがルールで決まっていたのかはわかりません(解説がなかった として)。そのプレイでたまたま影響がなかった(均一だった)ルールについての 知識が得られませんから。これは、「地球上ではスポーツは1Gの重力下でプレ イされ、それが大きな影響を与えている、大抵の場合特にルールに明記される ことはない」という考察と考え合わせると興味深いです。
2002年01月13日:17時48分00秒
分割掲載について / トモス
sfさんへ。
一括掲載か、区別可能な題名付きの分割がよい、との意見承知しました。お手数をおかけして済みません。

2002年01月13日:16時53分36秒
TRPG総合研究室はすべて個別リンクできます / sf

 半自動化なのでぼちぼちと進めてましたが、今回の更新でTRPG総合研究室はすべて個別リンクできるように処理しました。

 そうそう、分割して数字をつけるくらいなら、まとめて書いてもらったほうが読みやすいかと思います。分割するなら、書かれていることをつかむ役に立つ題名をお願いします。


2002年01月13日:16時45分52秒
TRPG総合研究室 LOG 085 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 085として2002年01月09日から2002年01月13日までのログを切り出しました。

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