TRPG総合研究室 LOG 065

TRPG総合研究室の2001年01月01日から2001年01月05日までのログです。


2001年01月05日:20時03分29秒
[用語]完全情報と完備情報 / 匿名希・望

ご無沙汰してます。
ちょっと亀レスになるのですが、「完全・完備情報ゲーム」については簡単な説明を試みた為にやや混乱を招いてしまいました。
厳密には鍼原さんの「ゲームのプレイヤーが互いに戦略集合と利得関数を知っているうえでプレイされるゲーム」が正確と思います。

「有限」の語を入れてしまったのは「有限=利得関数が計算可能」と単純化してしまったからです。
#厳密には(特に現実世界を考慮に入れると)有限でも計算不能な場合が在るし、無限でも計算可能な場合がありますね

実は卒論を書かないといけないんで、しばらく議論には参加できそうもありません。
ですから、俺の事はあんまり気にしないで下さい。

追伸:SHiNさんへ

一般的な「ゲーム理論」に関しては大型書店の人文科学系に行けばコーナーがあると思います。
ただ、「完備・完全情報ゲーム」が専らの対象で「開放系ゲーム」を直接扱うのはかなり最先端な話題だと思います。
俺もちょっと本を読みかじった程度ですんで、あんまり確かな事は言えません。
2001年01月05日:09時44分36秒
[【TRPG論】開放系]近似としての「開放系/閉鎖系」 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕

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#「開放系/閉鎖系」(及び疑似閉鎖系)の概念をどのようにTRPG論に適用するかは重要な話題と思います。
#ですので、アタシとしては[用語]ではなくって、【TRPG論】の関連話題として検討します。
 
◆近似としての「開放系/閉鎖系」
@アキトくんWrote (「[用語]『開放系』について」,TRPG総合研究室 LOG 064,2001年01月01日:04時59分00秒)
>開放系が非閉鎖系なのではなく、閉鎖系(と見なされたもの)とは、環境を無視しても平気なきわめて特殊な開放系なのだ
 
 うえは、とても一般性の高い概念規定で、まったく文句のつけようがありません。
 
 しかし、「TRPG論を検討する場合、特に、TRPGジャンルのジャンル特性と他ジャンルのゲームを比較検討する場合には、近似として『開放系≠非閉鎖系』とみなした方がよい」と思われます。
 特に、「『閉鎖系ゲーム』=『完全情報型ゲーム+完備情報型ゲーム』」とみなすならば、「開放系≠閉鎖系」とみなされる・べきです。そうしないと「閉鎖系ゲーム」の定義自体が歪むからです。

 「完全情報型」や「完備情報型」のデザインされたゲームは、システム外環境からの影響がプレイに及ぶことを想定していないから、「『閉鎖系ゲーム』=『完全情報型ゲーム+完備情報型ゲーム』」みなすと、説明できます(詳しくは後述します)。
 
 近似としては、『閉鎖系ゲーム』=『完全情報型ゲーム+完備情報型ゲーム』」とみなして問題ありません。
 実は、「完備情報型ゲーム=ゲームのプレイヤーが互いに戦略集合と利得関数を知っているうえでプレイされるゲーム」と概念規定すると、「完全情報型ゲームとは特殊な余条件のついた完備情報型ゲーム」(「『完備情報型ゲーム』⊃『完全情報型ゲーム』」)とならざるを得ないことは、確認しておいた方がよいでしょう。
 が、「デザインされたゲームジャンル間の比較」においては近似として「『閉鎖系ゲーム』=『完備情報型』+『完全情報型』」って整理で処理してよいと思います。
 
 ただし、「TRPGジャンルを、別種の『開放系ゲーム』(一例、「リアルなマネーゲーム」「法の“ゲーム”」など)と比較検討する場合は、場合によっては注意が必要になる・かもしれない」(話題によってはうえの“近似としてのみなし”を中断しなくてはならない場合もある・かも)、と留保しておきます。
 
 別に数学の話をしてるわけではないですから。
 とは言っても押さえるべきはきちんと押さえたうえで、「『デザインされたゲームジャンル間の比較・においては』おおまかに近似する、と区別する必要はあると思います。
 
◆開放系ゲームとしてのTRPG
 「閉鎖系ゲーム=『完全情報型ゲーム+完備情報型ゲーム』」とみなして、「TRPGを開放系ゲームとみなすなら、TRPGは『将棋や、よくある(典型的な)ボードSLGの類』(=『完全情報型ゲーム』)とも、『ポーカーや魚雷戦ゲームの類』(=『完備情報型ゲーム』)ともタイプが違う遊びだ」ってことにしかなりません。
 
 例えば、「バックギャモンでディーラーがイカサマをする場合」や「は、ルールシステムのデザインに想定されていない行為、と判断されます。ですので、「閉鎖系ゲームプレイからの逸脱」としてかたづけて構いません。
 
 しかし、閉鎖系タイプのゲームで「ゲームプレイからの逸脱とみなされること」が、「TRPGセッションでの“ゲーム”プレイからの逸脱」とみなされる、とは限らない(断定はできない)ことになります。
 “ゲーム”のタイプが違うからです。
#もちろん「プレイヤーのダイスの目のごまかし」とかは無条件にプレイからの逸脱です。しかし、「GMのダイスの目のごまかし」が「常に」逸脱、とは限りません。
#個人的には、スマートではないと思いますし、「信頼感」にも関わるので、あまり推奨されない方がよいとは思いますけど。ケース・バイ・ケースで判断されるべきってことです。
 
 このように、「開放系ゲーム」と「閉鎖系ゲーム」のどこがどう違うかを、TRPGに即して、いろいろ検討して、整理してゆくことには、すごく意味があることでしょう。
 
 例えば、「TRPGのプレイでヤワラカイ部分については、最適解の予測は成り立たない」(せいぜい近似にすぎない)、ってことが言えます。(「完全情報型」でも「完備情報型」でもないからです)
 さらに、「ヤワラカイ部分で、非ゼロ和ゲームを遊ぶ場合でも、最適解の予測は成り立たない」ってことも言えます。(やはり、「完全情報型」でも「完備情報型」でもないからです)
 
 特に「(TRPGセッションのヤワラカイ部分で)非ゼロ和ゲームを遊ぶ場合でも、最適解の予測は成り立たない」ので、プレイヤー間での交渉(≒政治ゲーム?)の要素も重要になります。
#ここの「ヤワラカイ部分」は、アキトくんの整理、「付け足しなんかつまらない!──続・RPG は将棋ではないという話」(半完成)に準じています。
 
 さらに、「GMがプレイヤーと『立場は違っても対等』に関与するTRPGセッション」で、「非ゼロ和ゲームがセッション展開に含まれる」場合には、「GM-プレイヤー間での交渉(≒政治ゲーム?)」も重要にならざるを得ません。
 
 また「TRPGでの意思決定」についても、ベーシックな方法論は通用しません。
#ここで特に「囚人のジレンマ」について触れておきたいです。「囚人のジレンマ」については、特に「メタ・ゲーム」のコンセプトを導入しないレベルでの「意思決定」についてが、「ベーシック」な方法論と特定しておきます。
#ここで言ってる「メタゲーム」とは、「ゲームの意思決定に関わる駆け引きの側面」及び、「その側面についてのゲーム理論」程度に考えてもらって構いません。
 
#アタシはTRPGセッションでのメタゲームについて検討することに特に反対はないです。
#が、ゲームデザイナーではない、GMやプレイヤーがセッションの実際で、個別システムの特殊なワールド、個別シナリオの特殊な状況についてメタゲームも含んだ意思決定を追求しようとするならば(その場合は)、まず第一に考察しなくてはならないのが言語コミュニケーションの問題だろう、とも考えています。(ですのでメタゲームについては、言語コミュニケーションについてが、アタシなりに整理できるまでは、自分から論じる予定はないです)
 
 ベーシックな「意思決定」を応用した「マーケッティングリサーチの意思決定」については、理論的に整理された方法論の概念図式は、参考になると思われます。
 しかし、実践論はほとんど参考にならないように思われます(私見)。(←この件は詳しい方のご意見をお聞きしたいところです)
 
 などなどが、「セッション中ゲームデザイン」の話題でいろいろ検討されてきていることと関連しています。
 ほとんど、同じ内容とも言えます(苦笑)。
 しかし、「開放系≠閉鎖系」の概念を導入すると、すっきり言える。
 
 「『閉鎖系ゲーム』=『完全情報型ゲーム+完備情報型ゲーム』」って前提も含まないといけないですけれど。
 それにしても、凄く効率よいです。
 
◆「開放系」活用の予測
 以下は、アタシの予想になるので分けて書きます。
 「開放系≠閉鎖系」の概念を導入して正しく適用してった方が、もっと、いろんな検討や議論も進め易くなるでしょう。
 
 例えば、「マーケッティングリサーチの意思決定」では、多分普通は、「最初に定められた達成目標を、できるだけ変更せずに追求すること」が、念頭に置かれた実践方法論が追求されのだろうな、って思っています。
 素人のおおまかな理解ですが、多分うえは「本来疑似閉鎖系にすぎない市場のメカニズムを、限りなく閉鎖系に近似」と、みなすことで成り立つのではないでしょうか(?)。
 
 詳しい人にお聞きしたいですが、「マーケッティングリサーチの意思決定」でも、商品ジャンルによっては、「最初に定められた目標をできるだけ変更せずに追求すること」なんて「意思決定」方法論では、通用する限界があるのではないかな、って想像されます。
 
 うえのアタシの「想像」は、パブリシティや、CMなど、マス・コミュニケーションの関与が大きいと思われる商品ジャンル、――例えばファッション性の高い衣類とか、コスメティックスとか、音楽商品(CDとか)、物語商品(小説とかマンガとか)、の場合を考えています。
#もしくは、うえであげた商品ジャンルの販売戦略に関しては、高度な(ベーシックではない)意思決定理論が適用されているのかもしれません(素人ですので判断材料がありません)。
 
 で、アタシの場合、「TRPGジャンルでは、プレイヤーがセッション過程を通じて、達成目標を策定してゆくのが常態(セッション前に達成目標が特定されているセッションは特殊な限定の加えられたセッション様態)」って理解を持っています。
 
 一例、「TRPGジャンルで、プレイヤーがセッション過程を通じて、達成目標を策定してゆく」妥当な方法論を検討する際には、「TRPGは開放系の“ゲーム”」である、って前提が重視されるべきです。
 例えば、こうした方面の話題についての検討が、「開放系≠閉鎖系」の活用として期待されてよいものと思われます。

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(sf:アンカー文字列がLastとLASTと違ったので統一)


2001年01月05日:09時33分08秒
[用語]開放系/閉鎖系の用法 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>SHiNさんへ私信です
#あけましておめでとうございます。
#IRCのお話ですが、具体的な日時などご相談したく思います。
#よければ、一行掲示板の方で、候補の日取りなど二三の候補を指定していただけるとありがたいです。
#もし、アレでしたら、アタシあてにメールをくださいませ。 ≫Hariharak@aol.com

 
>SHiNさんへ
 ところでSHiNさんの「開放系/閉鎖系」の定義の用い方は、議論を混乱させる弊害がありますので、重ねて異議を唱えます。
 
 せめて、「一般にはれこれの意味で使われているが、自分がTRPGで使う場合はこれこれの定義で使う」ときちんと断わってから使うようにしてほしいと思います。
 
@SHiNさんWrote (「【開放系ゲーム】 開放系ゲームにおいて挑戦的要素を成立させる条件 〜外部環境のブラックボックス化〜」,当掲示板,2001年01月05日:02時21分52秒)
>もちろん、アキトさんの考察や用語設定の有用性は認めます。が、それが私のTRPG理論を左右することはない。逆に、私のTRPG理論を理解してもらう「障害」になるなら、その有用性は失われる。むしろ、有害なものとなってしまう。
 
>つまり、私とアキトさんの「開放系ゲーム」についての定義や解釈が異なる場合、「アキトさんの開放系ゲームについての解釈」が、間違ってる(妥当性が低い)可能性もあるって事です。(もちろん、その逆もしかりですが)
>また、両方の解釈とも、十分でない可能性とかもね。
 
>でなきゃ、議論の意味はないでしょう?
 
 うえは違うと思います。
 
 アキトくんの紹介した「開放系/閉鎖系」の用語は、数学、社会科学、自然科学など、多くの分野で既に幅広く使われている用語です。
 
 例えば、開放系としての法システム(←社会科学)
 開放系としての免疫システム(←自然科学)などです。
 一般的な日常語とは思いませんが中公新書(アキトくんが指定している参考文献)で紹介されているので、もはや専門用語でもないと思われます。
 例えば、遺伝子、とか、複雑系、とかって言葉と同じようなものです。
 
 「馬場講座」が、一般的な「意思決定」と「意志決定」のどこが違うかを明確に言語化していないために、結構な混乱を招いたこと、SHiNさんもご承知でしょう。
#例えば、「最適解を求める意志決定」なんて、TRPGに凡そ関係ないことを言っていた、馬場論推奨の意見もありました。
#アタシの考えではこれは、馬場論者がよく言うように、読解者の読解能力不足・ではなく。馬場論の論としての書き方のいい加減さ(一般的な「意思決定」と「意志決定」のどこが違うかを明確に言語化していない)の責任です。
 
 SHiNさんは同じ事をするつもりですか?
 アキトくんの文章では、読者の為に参考文献を挙げたうえで定義が紹介されています。
 SHiNさんの文章では、参考文献も紹介されていなければ、定義も不明瞭です。
 これだけで「開放系ゲームの定義や解釈をめぐる論争においては、アキトさんとフィフティフィフティの立場」とは思えません。
 
 それに、「SHiNさんの開放系/閉鎖系」の用い方に、アタシ、アキトくん、Crescentaurさん、と短時間に3人の人が違和感を感じていることをSHiNさんはどう思いますか?
 Crescentaurさんの指摘は「完備情報型ゲーム」の用法についての指摘でしたが、結局は、開放系と完備情報型の位置付けについての違和感に起因しています。
 このことについてSHiNさんは、どう考えているのでしょうか?

 アキトくんの文章をみれば、「開放系/閉鎖系」の参照文献が挙げられていますね。
 「出典:『数学は世界を解明できるか』中公新書1475、丹羽敏雄著」です。
「開放系ルールとしての RPG──あるいは RPG は将棋ではないという話」
 
 せめてこちらを読んだうえで(新書本1冊です)、「数学などでは『開放系/閉鎖系』はこれこれの意味で使われているが、自分がTRPGで使う場合はこれこれの定義で使う」ときちんと断わってから使うようにしてほしいと思います。
 
 ご自分の論に都合がよいからこの定義でいく、とはちょっと勝手気侭すぎると思います。
 
 「馬場講座」のようにTRPGファンの間で・しか・通じないTRPG論が再生産されるだけです。
 アタシが思うに、実践論は、TRPGファンの間で・しか・通じなくても仕方ない面があります。しかし、基礎論が、TRPGファンの間で・しか・通じないものだといろいろ困ります。
 TRPGファンの間でしか通じないだけでなく、ジャンル外の人がみたら「なんか妙なこと言ってるな」と思われるTRPG論も困ります。アタシはそうゆう論は弊害があるので不要だと思います。
2001年01月05日:02時21分52秒
【開放系ゲーム】 開放系ゲームにおいて挑戦的要素を成立させる条件 〜外部環境のブラックボックス化〜 / SHiN
 
 あけましておめでとうございます。今年もよろしく。
 さて、新年早々の長文投稿で失礼します。
 
 まず、私の開放系ゲームの定義は、非閉鎖系ゲームという一点に拠っており、開放系ゲームの定義や解釈をめぐる論争においては、アキトさんとフィフティフィフティの立場であると思っています。
 私の「開放系/閉鎖系」というものをベースとしたTRPG論において、アキトさんの考察は有用ではあっても、必ずしも必要なものだというわけではないのです。(あえて、自分のオリジナルの用語を捨てて、こちらの用語を使用しているのは、以前アキトさん達が行われた「用語の定義合戦や論法自体をめぐる争いは虚しい」という提言に、私自身、昔から従っているからです)
 
 もちろん、アキトさんの考察や用語設定の有用性は認めます。が、それが私のTRPG理論を左右することはない。逆に、私のTRPG理論を理解してもらう「障害」になるなら、その有用性は失われる。むしろ、有害なものとなってしまう。
 
 つまり、私とアキトさんの「開放系ゲーム」についての定義や解釈が異なる場合、「アキトさんの開放系ゲームについての解釈」が、間違ってる(妥当性が低い)可能性もあるって事です。(もちろん、その逆もしかりですが)
 また、両方の解釈とも、十分でない可能性とかもね。
 
 でなきゃ、議論の意味はないでしょう?
 
 そこらへん、よろしく。>鍼原さん、アキトさん
 
 (アキトさん)
 >一つは、開放系が非閉鎖系なのではなく、閉鎖系(と見なされたもの)とは、環境を無視しても平気なきわめて特殊な開放系なのだという点です。
 
 開放系を「ある環境下のシステム」と定義すれば、確かに、閉鎖系が開放系の特殊形態と言えることは出来ます。
 が、同時に、閉鎖系を「外部環境に影響されないシステム」と定義すれば、開放系を非閉鎖系と考える事も出来るはずだと思います。
 これらは、論法の違いに過ぎないはずです。
 
 が、この「論法の違い」というのは、なかなか理解しずらいものもあるようですので、今回は、私がこれまで述べた事を、鍼原さんの論法やアキトさんの論法に近い形で語りなおしてみたいと思います。(よって、表現レベルでは、これまで私が語ってきた話とは整合しない部分があります。が、内容的には整合するはずです。もし、今回の表現に納得が行く部分があれば、それが別の表現(論法)ではどのように解説されていたのかを考えていただきたいです。そうすれば、より多角的な考察が可能となるはずです)
 
 まず、意思決定の要素を持つゲームの、『ルール系』というのは、たとえそれが閉鎖系ゲームのものであっても、システムとしては「開放系システム」です。
 なぜなら、外部環境たるプレイヤーの意思決定やダイスロール、カード選択などの影響を受けるからです。
 
 で、アキトさん言うところの「開放系ゲーム」(ヤワラカイコト)のルール系も、外部環境(GMやPL)の影響を受けるという点では『同じ』であるはずです。
 開放系ゲームも、閉鎖系ゲームも、そのルール系が「開放系システム」であるという点では、同じなわけです。
 
 では、両者を分かつものは何か?と言うと、外部環境及び、そこからの影響の受け方であると言えるでしょう。
 閉鎖系ゲームのルール系では、外部環境から受けうる影響を、ルールによって論理的解析可能な範囲に制限しているのです。ここまでは、まあ、一見して明らかな話ですよね。
 
 では、なんで、閉鎖系に分類されてるゲームでは、そんなことをしてるのでしょう?その理由と必然性はどこにあるのでしょうか?
 
 結論から言えば、外部環境との間に、どのようなやりとりがあるかを明快かつ制限のあるものにすることによって、判定を効率的及び公正に処理できるようにするためです。
 
 では、なんで、判定を効率的かつ公正に処理するためには、外部環境とのやりとりを明快で制限のあるものにせねばならないのでしょうか?
 たとえば、既にどなたかが挙げられてたように、抽象的な事象を処理する場合でも、体操競技や、シンクロナイズトスイミングのような方法で、採点可能です。
 もちろん、本当に公正かつ妥当かどうか疑問が湧く場合もありますが、許容範囲であると言えましょう。
 
 しかし、その公正さや妥当性に対する信頼を得るためには、それなりの努力がはらわれているという事を忘れては成りません。
 
 つまり、たかが個人的な遊びの室内ゲームで、オリンピックの審査員団みたいなものを必要とするシステムは使えない。また、その公正さや妥当性については、オリンピックなどのものでさえ、万人が納得行くものとは言えない。 
 よって、体操競技のように、本来は挑戦的要素を持つものとしてデザインされたわけでないものに「競技性」を持たせようとすると、無理が生じる。
 そこで、一から人為的なシステムとして挑戦的要素、とりわけ競技性の高いゲームをデザインしようと思うほど、外部環境とのやりとりを、明快かつもれなく処理できるようなシステムが、構築されているというわけです。(そして、その逆もまた然りです)
 
 さて、この事を踏まえた上で、閉鎖系ゲーム、開放系ゲームの話に戻ります。
 いわゆる「閉鎖系ゲーム」の場合、そのルール系が「開放系」でありながら、ゲーム系全体としては「閉鎖系」を形成することが出来ます。
 これは、ルール系への介入方法が、明快であるため、このルール系に介入を行っている要素を特定でき、それら全体を一つの「閉鎖系システム」として認識することが可能だからです。
 
 たとえば、将棋の「ゲーム系」は、「ルール系+プレイヤー(による手番毎の動かすべき駒の種類と移動させる位置のルール内での選択)」として、定義できます。これ以外の要素、例えばプレイヤーが昨日の夜に酒を飲みに行った時の話なんて考慮する必要がありません。アキトさんの「太陽系」の例と同じく、それらの影響が小さかったり、もしくは、プレイヤーの意思決定を定める知的活動の一部(もしかすると、二日酔いで働きが鈍ってるかもしれないし、もともとその程度なのかもしれない)として無視できるからです。
 よって、明快な公正さに基づいた挑戦的要素と競技性が保たれるのです。
 
 ところが、以前、myrtさんが私の問いに呼応して事例を出してくださったように、この将棋の途中で、「待った」なんかがかかったりしたら、この競技性などに破綻が期す事があります。
 対戦相手が、「昨日、飲みすぎたお前を家まで送ってやったのは誰だと思う?一手くらい待てよ」と言う具合に言い出したとしたら?
 そして、結局、その「待った」のために、勝敗が決したとしたら?
 
 この場合、二種類の考え方が出来ます。
 一つは、挑戦的要素が崩壊し、成立しなくなる。
 もう一つは、ゲームバランスに変化が生じただけであり、挑戦的要素は崩壊していない。
 
 この考え方は、どちらが、正しい、間違ってるという事は出来ない。
 ただ、一つ言えるのは、あまたのゲームデザイナー及びゲームプレイヤーが、「ゲーム途中でのゲームバランスの変更」を、「どうでも良い事」とは考えていないという事です。
 (でなければ、Purpleさんとmyrtさんとの例の論争は生じなかったでしょう)
 この点には、留意しておく必要があると思います。
 
 さて、この将棋における「待った」のケースでは、まだ、双方同意の元であるからして、「挑戦的要素の崩壊」となるとは限りませんでしたが、これが、一方による同意を得ないままの変更であったならばどうでしょうか?つまり、「イカサマ」です。
 この場合は、さすがに「挑戦的要素の崩壊」と言っても良いのではないでしょうか。
 いや、まだ駄目という人もいるかもしれませんね。
 イカサマというのは、いわば、ばれるリスクを背負って行うものなわけですから、一種の挑戦であり、これは、「新たなゲーム性の付加」であると考える人もいるかもしれない。
 それはそれで良いでしょう。
 が、もし、これが「暴力団」などの賭場で、イカサマを指摘することさえ一般人たるこちらには許されないとしたら?
 ここまできたらさすがに、挑戦的要素の崩壊、つまりゲームの崩壊と呼んでも良いんじゃないかと思います。
 
 リスクのあるイカサマ(つまり、ルール系で許された以外の恣意的介入)は、あらたなゲーム性の付加と言うことも言える。
 しかし、リスクの無いイカサマが行われると、それは挑戦的要素の崩壊である…ってわけです。
 
 さて、ここで一度、ここまでの話をまとめてみましょう。
  
 ●開放系ゲームも、閉鎖系ゲームも、そのルール系は、外部環境(ゲーム参加者やダイスなどのランダム要素)の影響を必ず受けるため、システムとしては開放系システムである。
 
 ●閉鎖系ゲームは、影響を与え合う外部影響の範囲を明確にすることが出来、ルール系にそれらを加えて「閉鎖系システムとしてのゲーム系」を構築することが出来る。この場合、ゲームリソース及びゲームバランスは保持される。
 
 ●開放系ゲームは、外部影響の範囲を明確にすることが出来ないため、閉鎖系システムとしてのゲーム系を構築することは出来ない。よって、特定のゲームバランスは持たない。また、新たなゲーム要素が付加されたりすることもあり、この場合、ゲームバランスはおろか、本来のゲーム性の変質さえ予想される。
 
 ●ゲームにおける挑戦の原則は、リスクとリターンであり、片方が失われない限りゲームバランスが変更される事はあっても、(挑戦的な)ゲームが成立しなくなることは無い。しかし、それらのどちらかが失われたなら、ゲームは成立しなくなってしまう。(何かをすれば必ず成功する場合や、何をやっても絶対うまくいかない場合、そこには挑戦的要素は無い)
 
 これらから導き出される結論は、「閉鎖系ゲームにおいては、そこに挑戦的要素が認められるのであれば、それが失われる事は決して無い」という事。
 そして、「開放系ゲームにおいては、ゲームバランスが保たれる事は無い」という事です。
 
 つまり、開放系ゲームにおいて、挑戦的要素が成立するかどうかは、まだ検証されていないというわけですね。いや、時として(リスクの無いイカサマがある場合など)、挑戦的要素が成立しない場合もある。しかし、それが起こる可能性や、それを防ぐ方法の有無については、やはり検証はされていない。
 
 これらを検証するには、挑戦的要素を構築しているものについて考察する必要があります。
 挑戦的要素を成立させているものは、リスクとリターン、成功と失敗の対称性であり、閉鎖系ゲームにあっては、ゲームバランスの維持によって、それらが失われないようにしているのです。
 つまり、開放系ゲーム(ゲームバランスの保たれないゲーム)において「挑戦的要素」を成立させるためには、以下の条件を満たしている事が不可欠なわけです。
 
 1、ゲームバランスの変更が挑戦的要素の消失に繋がらない事。
 2、ノーリスク、ノーリターンな挑戦が生じないようにすること。 
 
 ではいかにすれば、開放系ゲームにおいて、これが実現できるのでしょうか?
 よく知られている開放系ゲーム(ここでは鍼原さんの挙げた例)などを参考に、少し考えてみます。
 
 まず、リアルなマネーゲームは、開放系ゲームでありながら、常に挑戦的要素を保っている(ように見える)ので、いわばこれを実現していると言えます。
 では、いかなるシステムで、これを実現しているのか?という事です。
 
 マネーゲームのルール系は、法律などを含めた金融システムであり、ゲーム系は(鍼原さんの論法を借りれば)プレイヤーが不特定なため、規定できません。……いや、出来ます。一人だけ明らかなプレイヤーが存在します。それは、マネーゲームに参加しようとしている本人です。それが、「挑戦的要素を持つ」と認識している、その本人だけは、確実なゲームプレイヤーです。
 
 つまり、マネーゲームのゲーム系は、『ルール系+プレイヤー本人』と定義する事が出来ます。 
(※:開放系ゲームのゲーム系は、その性質上、ルール系と参加者本人さえ含んでいれば任意に決定する事が出来る。なぜなら、ルール系に影響を与えているゲーム系を特定できないのが開放系だから。例えば他の参加者を、ゲーム系として認識しようと外部環境として認識しようと、検証の上での根本的差異は生じない。)
 
 そして、それ以外の存在は、全て、「現実世界」という外部環境に含まれるものとします。
 (鍼原さんの示されたような開放系ゲームに関わる多層構造を、もっとも簡単な解釈で済ませたものです。鍼原さんはTRPGセッションにおける擬似閉鎖系を中心とし、そこに関わる外部環境の構造を構築し、それを「仮の整理」とおっしゃってましたが、これが物理法則レベルで完成することはおそらく無いでしょう。視点を変えればいくらでも別パターンの整理が可能ですし、深く考察しはじめたらキリが無い。社会学とかに属する理論に関しては常に大きな反駁の余地があるのです。これについての考察は有用ですが複雑です。今回は、これについての考察はメインではないので、ここでは思い切って『外部環境』として「一括」しておきます)
 マネーゲームのゲーム系は、当然、外部環境の影響を受けまくるので、開放系システムであり、開放系ゲームです。この外部環境が、どのように働いているかを考えれば、開放系システムに挑戦的要素を維持するための方法が見つかるはずです。
 
 まず、ゲームバランスの変更についてですが、ここでは、自由競争の原理によって、決して、挑戦的要素が保てないほどにバランスが崩壊することはありません。自由競争の原理は、外部環境です。また、自由競争の原理に抵触するような手段を講じたものは、司法によって裁かれる危険があり、新たなゲーム性の付加であり、ゲームバランスの変更と考える事ができます。これを実現させているのもまた、司法制度たる外部環境です。この他、いろんな事をしても、それらについて、必ずリスクとリターンが生まれる形になっています。全て現実世界という外部環境システムの成せるワザです。
 この「現実世界」という外部環境は、ブラックボックスとして扱う他ありません。その仕組みを完全に記述することが出来ないからです。しかし、それでおもなお、ゲームバランスを振り子のように揺らしながらも、なぜかギリギリの線では崩壊しないように保ってくれているのです。(厳密にはこれらが永遠につづくというわけじゃないのですが……人生というキャンペーンにおける、数回分のセッションが終わるくらいまでは大丈夫でしょう)
 
 では、これを『私たちが普段遊びとして楽しんでる』開放系ゲームにいかにして導入するべきかについて考えてみましょう。
 
 ただ、簡易システムとして、導入する事は困難です。その仕組みがブラックボックスであるからです。よって、ここでは効率性を優先して表面的な働きのみを真似た「擬似システム」として、導入する事を考えましょう。
 
 まず、「現実世界」は、マネーゲームのプレイヤーが、恣意性によってルール系に自由介入する事を防ぎます。マネーゲームのプレイヤーは、ルールに定められていない方法で、ルール系に介入できますが、その介入には、常にリスクとリターンが伴います。法的に定められてないように見えても、『出る杭は打たれる』のごとく、新たな法律が制定される可能性が常にあります。また、その方法が他者(これも外部環境たる「現実世界の一部」)にばれた場合、その効果を失う可能性がある。それらあらゆる可能性と戦い続けねばならないわけです。
 
 「何をやっても、必ずリスクとリターンが生じ(もしくは潜在的に存在し)、しかもそれがプレイヤーによる恣意的な操作が不可能であるシステム」 
 
 開放系ゲームが、リアルなマネーゲームと同様の挑戦的要素を維持するにはこれが必要となるわけです。
 そんな都合のいいシステムなんてあるわけない……などと思うのはTRPGをしたことが無い人くらいでしょう。そう、TRPGのGMシステムならば、これが可能なはずです。
 
 よって、TRPGにおいては、GMが常にプレイヤーの行動に関してリスクとリターンが生じるように、それらを恣意的に処理し続けることが出来れば、TRPGは、常に挑戦的要素を持ち続けうるという事になるといえます。
 これで、私と鍼原さんなんかは、ほぼ意見の一致を見たと言っても良いんじゃないでしょうか。
 
 さて、ここからが本文です。
 まず、本当にそうでしょうか?とクエスチョンをつけるところから始めましょう。
 「現実の理論は数学理論と違い、常に反駁の余地がある」
 よって、この「開放系ゲームにおいても挑戦的要素は存在する」という考えだって、反駁の余地があるはずです。
 これは一般に、「考察を深める」と表現される行為です。
 
 さて、TRPGは、本当に、常に挑戦的要素が存在し続けているでしょうか?
 
 いや、別に常に存在しつづけている必要は無い。一歩、歩くたびに挑戦的要素が発生していたんじゃきりがありませんからね。
 
 ただ、少なくとも、GMがそれを望む時(つまり、リアルなマネーゲームにおける外部環境の代理を務めようとする時)、常に、存在し続けていると言えるでしょうか?ってことです。
 
 経験論に照らして見て下さい。もちろん、答えはNOですね。でなきゃ、これにまつわるセッション中のトラブルなんておこらない。
 
 つまり、リアルなマネーゲームにおける「現実世界」と、TRPGの「GM」には違いがある、って事です。
 その違いとは?
 
 それは、「現実世界」が、無作為に振舞っているように見えるのに対し、「GM」は、明らかに作為的に振舞っているからです。
 たとえば、マネーゲームにおいて、ある投資が、突然次の日に100倍になってもどってきたとしたとしても、逆に莫大な投資が一夜にして消滅したとしても、それは「賭け」に勝った、負けたというだけの話です。それに、現実世界はブラックボックスですから、どこまでがブラックボックスの影響、どこまでが、自分の技量なのかもはっきりしませんしね。
 その意味では、「幻想」かもしれない。でも、確かに、プレイヤーは「挑戦的要素」を『信じる』事が出来るのです。
 
 ところが、目の前のGMによって、それらが決せられるとしたら?果たしてPLは、GMの無作為性を信じられるでしょうか?いや、信じる必要はない。GMが多かれ少なかれ常に作為的なのは自明の話なのですから。
 問題は、その上で、「挑戦的要素」の存在を、信じる事ができるかどうか?って事です。
 
 GMは、通常、PLの意思決定の「意図」を完全に理解しています。よって、それを処理する場合に「まったく無作為に」行うなんて事は出来ないし、それ以上に、それが「無作為である」とPLが信じる事は難しいでしょう。特に、そこで引き起こされた事態がPL自身にとって望ましく無かった場合は。
 
 この問題を解消する手段の一つは、「事前に、必要なルールやデータ(つまり、ゲームリソース)を用意しておき、それにしたがって処理する」という事です。
 
 これは、鍼原さんや、Purpleさんなどが、以前、ご自分の意見や考え方として提出されていましたね。
 
 しかし、私は、この考え方には否定的です。これは、myrtさんの「ゲーム中デザイン」に関する一連の論考(そして、それに対する私の意見など)の中で語られている事が理由です。
 
 簡単に言ってしまうと、「事前に必要なゲームリソースが揃えられてしまうようなゲーム」は、TRPGらしく無い場合が多いからです。
 それに、今回の論考で分析したように、「開放系ゲーム」においては、ゲームバランスの変更(つまり、ゲームリソースの変更)や、あらたなゲーム要素の付加というのが、無原則に生じるわけで。とても事前に用意できるわけが無いからです。
 例え、鍼原さんの提示された「シナリオを妥当性のある解釈で」という手法を用いたとしても、全てのゲーム展開をシナリオで記述できるわけは無いですしね。それに、結局、解釈に幅が出来るのだから、Purpleさんの「リソースを出来る限り用意すべし」という意見に比べ、適用範囲は広くなるけど妥当性の面で反比例しちゃいますからね。
 どちらも、開放系ゲームにおいて挑戦的要素をより保ちやすくするためのTipsとしては有効ですが、根本的な問題の解決にはなっていない。
 
 この問題を根本的に解決する手段は、二つ。
 
 まず一つ目は、PLに、十分な意思決定を行う機会を与えることです。
  
 PLに「十分な意思決定を行う機会を与える」というのは、以前、私が説明した「閉鎖系ゲームを構築する」という事です。
 ゲームバランスが認識(分析)可能で、リスクとリターンのあることが明らか。そして、そのゲームを「強要されない」という事。
 これが、TRPGにおいて、確実に「挑戦的要素」を存在させうるための条件です。(リアルなマネーゲームも、この条件を満たしているという事にお気づきでしょうか?)
 でないと、「GMは挑戦的要素であると思ってても、PLにとってはシナリオ上での決定事項」のように受け取られる可能性が存在するわけです。GMは良いバランスだと思って出した敵が、PLにしてみると強すぎる、勝てるわけ無い、と感じられたってってケース、結構あるでしょう?特に、戦闘ルールが良く出来ていて、戦略の価値がより高くなるほど、こういうケースは多くなる。敵が強すぎたのか、PLの戦術能力が低すぎたのか。もしくは、ダイスの目が悪すぎたのか。結果論からは、はっきりとは、わかりませんからね。
 さらにいえば、これが開放系ゲーム的なイベント(私がむかし書き込んだ、「発想型イベント」)なんかだと、なおさら。ゲームバランスは不確定だし、取りうる手段は星の数。ゲームバランスが悪かったのやら、とった手段が悪かったのやら。明快な検討は絶対不可能。
 
 だから、一番いいのは、PLに対しゲームバランス及びリスクとリターンを明快にした上で、そのゲームに挑戦するかどうか(ゲーム難度やリスクが、そこで得られる褒章とバランスが取れているか)をPL自身に判断させる。リスクの方が高すぎると考えたら、PLから新たな意思決定を確認し、あらたな「ゲーム中デザイン」を行う。
 で、それらの調整が不可能、もしくはPLとGM間で合意が得られないようなら、それを「ゲームとして成立しない」ものとし、処理すべきってのが、私の前回の「開放系ゲームでは挑戦的要素は成立しないという理論の意義」と題して説明した話なわけです。
 
 前回の私の論法は、これらについて、より明快に解説するための論法であったと言えます。こちらの論法で、解説すると、このように非常に迂遠(外部環境の構造などにまで言及せねばならない)になりますからね。
 
 さて、でも今回は、解決手段は二つであると申し上げました。
 一つ目は、PLに、十分な意思決定を行う機会を与えること。(開放系ゲームにおける閉鎖系ゲームの構築)
 
 そして、もう一つ。おそらくは鍼原さんが自らの論法で語りたかったのであろうテーマです。
 つまり、マスタリングやGMとPLのコミュニケーション、相互理解や信頼などによって、挑戦的要素を維持する方法についてです。
 
 が、シナリオに沿って公正に処理を行うとか、信頼やコミュニケーションに頼った方法は、非常に脆くあやうい部分があるという事は、既に、示したつもりです。
 もちろん、それらはTipsとしては有効です。が、それらのTipsのより有効な利用法なんかについてまで踏み込むための考察の指針となるべきものを提示したいと思います。
 
 それが、以前、お話した、PLに、GMのルール系に対する恣意的介入の「意図」を、悟られないようにする、という手法です。
 
 つまり、GMの恣意的介入のメカニズムを、リアルなマネーゲームにおける外部環境である『現実世界』と同様の「ブラックボックス」にしてしまおうというわけです。
 
 TRPGにおいて、PLがGMを信頼できなくなる一番の要因が、「シナリオに強引に誘導されてるんじゃないだろうか?」という疑念です。そして、同じくらい大きな疑念として「適当に、こちらのやることに迎合して、アドリブでマスタリングしてるんじゃないのか?」という疑念。
 
 どちらも、「イカサマ」に対する疑念です。
 
 が、「同意の上でのイカサマ」は、単なるゲームバランスの変更に過ぎないはずです。
 よって、イカサマをするなら、同意の上で。
 同意を得られないなら、ばれないように。
 そういう事です。
 
 ちなみに、イカサマをするなら同意の上で、ってのは「閉鎖系ゲームの構築」の事です。
 で、イカサマをするならばれないようにってのが、GMのブラックボックス化です。
 
 これは同時に「シナリオのブラックボックス化」でもあります。
 
 よく言われる「PLは、シナリオ進行に沿った意思決定を行うべし」という方法は、シナリオで設定された最終目標を見失う事なく、結果、途中の展開がいかに紆余曲折しようともシナリオの本筋から離れないように、って事を実現する手法としては優れています。
 が、PLの同意と協力が必要不可欠であるという点と、PLから意思決定のための考慮要素を一部奪ってしまうという点が欠点です。これらはたいていの場合、小さい欠点であり、たいして気にとめないで済みますが、一旦、意識せねばならない状況になると、もはや手遅れってことも少なくない。これが原因でセッションが崩壊するってのは、決して、珍しいことじゃない。また、TRPGの特性も十分に生かせてるとはいえないとも思います。(必ずしも特性を生かせば良いというわけじゃないけれど、これなら、よく練られたコンピューターRPGの方が面白いという人も多いはずです)
 
 それに、この制限から解き放たれる事を「知る」人間にとっては、時に、「小さな問題」じゃない場合もあるのです。井の中のかわずは、大海を目指したいとはおもわない。しかし、大海を知る者が、井の中に閉じ込められて我慢するのはなかなか難しいって事です。
 
 意思決定を下す場合、十分な情報が得られない場合の多いTRPGにおいては、勢い、「好みのシチュエーション」かどうかを基準に意思決定を行います。
 たとえば、道端で空腹で泣いている子供がいたとき、その子を連れて歩くか、食べ物を買い与えてやるに留めるか。もしくは、見てみぬふりをするか。
 これらの行為とシナリオにおける最終目標との関わりについては、普通、明らかになっていません。(関連があるかさえ定かでない場合だってある)
 よって、プレイヤーは「キャラクターのロールプレイ」に名を借りて、自分の好みのシチュエーションを選ぶことになるわけです。
 (「この子一人助けたところで何も解決しない」と言って心を鬼にするとか、「自分の手の届く範囲のことはやりたいと思うのが人情」と言って食べ物を買い与えるか。もしくは、「子連れ冒険者」という構図をつくりたいがために、あくまで最後まで世話をみようとするか……)
 
 ところが、そんな具合にシナリオが進んできていながら突然、「最終目標に反する」という理由で、好みでないシチュエーションを選ばねばならなくなった場合、PLは激しいストレスを感じ、時にはシナリオの流れに「反旗を翻す」事さえあるわけなのです。(但し、それが本当に翻した事になってるかどうかを知るのはGMのみです。GMは、その展開を予想していたのかもしれないのですから)
 この場合、PLの中ではPLオリジナルの挑戦的要素(いわゆるパーソナルゴール)が発生しています。
 そして、その目標は(具体的には何であろうと)結局は、「GMのシナリオに反する事」であるわけです。(すくなくとも、当のプレイヤーはそう思ってる)
 そして、GMがシナリオから反さないように恣意的介入をルール系に対して行っている事はPLも知っている。
 つまり、PL視点では、GMとPLはこの時点で対立関係にあるわけです。
 
 ところが、GMはその気になれば、さまざまな「リスクの無いイカサマ」を行う事が許されている。
 無作為な外部環境の代わりとしての、作為的ではあるが中立的な存在であるという前提ゆえに。
 
 しかし、この時点ではすでにPLにとってGMは「中立的な存在ではない」と言えるわけです。
 つまり、「挑戦的要素の崩壊」です。
 
 この「挑戦的要素の崩壊」は、プレイヤーが自分の行動が、GMの意図とは異なっていると「思い込む」事によって生じています。何をやっても徒労に終わるとき、それが、自分の失策なのか、それともGMのイカサマ(つまり、ルール系に対する恣意的介入)のせいなのか。証明する方法がありませんからね。
 この思い込みだけは、いくらGMが自分の中立性を唱えても無駄です。が、だからといってPLを責めるなかれ。この疑念は、GMの「力量」への疑念でもあるわけですから。
 たとえば、「自分はアドリブが苦手」と公言しているGMのセッションにおいて、シナリオで想定されていたであろう(これはPLの勝手な推測で、当たってるかどうかは不明)解決方法よりも「優れた解決方法」(これもPLの自己採点)を思いついて、それを行おうとしたらうまくいかなかった。そして、その場合のGMの「ゲーム中デザイン」によって作成されたリソースも納得できなかった。
 そんな場合、「結局、どんな方法を取っても無駄なんだ」とPLに思い込むなという方が無理でしょう?
 
 これはシナリオの流れがPLから「読みやすい」というのが、原因です。
 が、「プレイヤーにシナリオ進行に沿って行動してもらう」ためには、ある程度読みやすくなければならない。
 
 これは「ジレンマ」です。
 
 このジレンマを極端な形で解消したのが、「一本道シナリオ」であり、「フルアドリブマスタリング」です。
 
 一本道シナリオは、PLにシナリオを想定して行動してもらうように協力を促す必要が無い。よって、シナリオ作成(シナリオ展開)に幅で出来るわけです。しかし、同時に開放系ゲームとしてのTRPGの特性であるシチュエーションの多彩さなどが失われる。(意思決定の機会や挑戦的要素が失われるという人もいますが、これはあまり正確な説明とは言えない。『先へ進むための意思決定』や『先へ進むためにクリアすべき問題』などを存在させることが出来ますから。失われるのはシチュエーション的な意味で多彩な展開を引き起こすための意思決定の機会に過ぎないのです。つまり、一本道シナリオによって失われるのは、意思決定の機会というより、プレイヤーによるシチュエーション選択の機会なのです。)
 
 一方、フルアドリブマスタリングでは、シナリオをはさんでのPLとGMの対立はありませんが、GMの恣意性の影響が大きすぎる。プレイヤーの行動を処理するための判断基準たる「シナリオ」が無いのだから、何をしたって、GMの恣意性の結果であり、行動を失敗させられた時はもとより、たとえ自分の行動がうまくいったとしても、挑戦的要素(と、その達成感)を感じる事が出来ないのです。
 
 ここに、鍼原さんとかのTipsが役立つ理由がある。シナリオに基づいた公正さを保つ事で、プレイヤーは、「シナリオ進行に反さない限り、シナリオに記述されていない部分では自由な行動が、そして、シナリオを進行させるための意思決定にも、挑戦的要素があると信じる事が出来るのです。
 
 が、既に説明したとおり、それらは適用範囲に限界がある。先ほど挙げた「GMのシナリオ進行に反する『かもしれない』行動」をPLが選ぼうとした場合が、その限界です。
 このジレンマにイライラしたPLは、時にこんなことを言い出します。
 「シナリオに反するから処理できないっていうんだったら、素直に言ってね。この行動は撤回するから」
 で、これに腹を立てたGMはこういう。
 「別に処理できないことはないよ。それに、PLとしてでなく、PCとして行動宣言してね」
 こうやって、セッションは、悪い方向に転がっていく…ってのは、珍しい話じゃないでしょ?
 
 で、この適用範囲の壁をうちやぶる、しかもフルアドリブに逃げることなくうちやぶるためには、PLに「シナリオの内容を気づかせない」事が必要なのです。
 
 が、この手法にも限界があります。それは、シナリオの内容がわからない場合、PLからは、それがシナリオによるものなのかフルアドリブによるものなのか、見分けがつかない可能性があるって言う点です。
 よって、この手法を取る場合、GMはシナリオ作成時に、作劇的リアリティと整合性に重点をおいて作成しておかねばなりません。PLが通常、「フルアドリブかどうか」つまり「意思決定の結果がGMの恣意性だけに左右されない、挑戦的な要素が成立しているかどうか」という事を判断するときに、その判断材料とするのが、整合性や作劇的リアリティの欠如(※)に関する事だからです。
 
 (※作劇的リアリティの欠如:たとえば、何の伏線もなく、あまりに意外な出来事が生じたりする場合。現実的にはありえることでも、作劇的にはご都合主義っぽい)
 
 リアルなマネーゲームにおける挑戦的要素を成立させる「現実世界」というブラックボックスは、その全容がつかめないまでも、解析していくと、そこには因果律に基づいた素晴らしい整合性やリアリティ(ま、現実のものなんだから当然ですが(笑))があることがわかります。
 同様に、GMの処理に関しても、PL自身がそれらについて、よりつきつめていくことで、そこに整合性やリアリティをPL自身が見出す事が出来れば……PLは、それが、決してGMの恣意的影響100%のフルアドリブなんかではない、きちんと自分の意思決定の価値が考量された上での処理であると信じる事が出来るわけです。
 
 で、この時点で、GMは一つの「仮想世界」を手にいれることが出来たことになります。
 
 ここまで、TRPGの外部環境は「GMである」と仮定して語ってきました。PLのルール系で許可されている介入(ゲームトークンを介さない介入)はいわば、GM補佐であると。
 なぜならゲームマスターが「筋立て」をメインにシナリオを作成し、そのシナリオをベースに処理を行う場合、どうしてもそれらはGMの創作の域を出ないからです。そしてPLはその範囲内で許される行動を行えるだけ。この形態のセッションの最大の欠点は、セッションの成功がGMの能力内に制限されてしまうという事です。
 もちろん、周囲のPLの助言によって、その範囲をいくばくか拡大する事が出来ます。(myrtさんがゲーム中デザインの中で語られていた「ゲームトークンを介さずに行うPLによるゲーム世界(ルール系)への介入」です。)
 しかし、その助言を受け入れられる範囲もまた、GMの力量に制限されるのです。
 これでは、真の意味での「挑戦」とは言えません。GMがあらゆる点でPL以上の力量を持つことが保障できる状況ならともかく、そうでない場合、「よりうまくやった方が、うまくいかないこともある」という、鍼原さんの表現を借りれば「仕様ミス」が生じてしまうわけです。
 
 これは、TRPGの外部環境たるブラックボックスが、どれほど擬似的に現実世界をシミュレートしようとしても、結局は、その運用が人間によって恣意的に行われているという事による限界です。
 
 しかし、「仮想世界」を設定することが出来れば……話は少々かわってきます。
 
 まず、仮想世界の初期状態そのものを「デザイン」するのはGMです。実は、TRPGには既にワールドガイドというものが存在していますが、これは一種の「地図」にすぎません。
 で、重要なのは、GMが自由に仮想世界をデザインできるのは、「セッション開始前」に限られるということです。これは、TRPGセッションがスタートする瞬間、この仮想世界は、TRPGの外部環境になるからです。GMは、ルール系に自由に干渉することは出来ても、外部環境に自由に干渉する権限はありません。(でないと、GM自体が外部環境であることと変わらない)
 で、外部環境に自由に干渉できなくなるということは、ルール系にも真の意味では自由な干渉は不可能となるって事です。なぜなら、GMのルール系への干渉も外部環境の影響を受けるからです。
 これは、鍼原さんが以前、おっしゃられた『恣意的ではあるが勝手気侭では無い』状態であると思ってくださって結構です。
 
 ただ、鍼原さんのTipsでは、そのベースとして、GM自身が作り上げた「シナリオ」を、GMの恣意性を制限する外部環境として考えていた。私は、「シナリオ」でなく『仮想世界』を外部環境として使用しようと提案しているわけです。
 
 で、この「シナリオ」と『仮想世界』の相違点はというと、それは、PLに対して開かれているかどうか?って事です。
 シナリオへの介入度合いに関しては、GMとPLでは明らかに差異があります。GMはセッション以前の段階でシナリオを作成するという形で介入できるし、その上、厳密にはシナリオはゲームの目標や制限などを提供する「ルール系」ですから、GMはセッション中でも介入が可能です。
 鍼原さんのTipsは、それを理解した上で、GMのセッション中でのシナリオに感する介入を制限し(つまり、シナリオをルール系から独立させ、外部環境とする)、それをセッション終了後にPLに示す事で、公正であること、フェアであることをアピールし、信頼を勝ち得ることによって次のシナリオに生かす、というものでしたよね。確か。
 
 しかし、「仮想世界」は、PLに対しても『開かれて』います。ここが、シナリオを外部環境として使用する場合との決定的な差異です。
 「仮想世界」がPLに対して開かれる事で、GMにとっても「仮想世界」は、完全なる「外部環境」であり「ブラックボックス」となるのです。
 
 これは、TRPGの重要な特性の一つ…と成りえるはずです。コンピューターRPGでは、ゲームデザイナーにとってゲーム世界は決してブラックボックスではありません。プレイヤーにとってはブラックボックスですが。
 で、このゲーム世界がゲームデザイナーにとってもブラックボックスであるという特性を生かすか殺すかで、そのTRPGセッションが「コンピューターRPGでもやってた方がマシ」になるか、「やはりTRPGじゃないとね」となるかが決定されるといっても過言ではないかもしれないのです。
 
 TRPGの場合、ルールに穴がある事自体は、あまり問題じゃありません。その穴を埋めるための仕組み(GMによるゲーム中のリソースデザイン)があるからです。
 TRPGで問題となるのは、むしろ、鍼原さんの言うところの「仕様ミス」です。これは、TRPGにおいて非常に重要なエンターテイメント要素である『疑似体験』の価値を著しく損なうからです。
 
 ところが、実際のTRPGセッションにおいては、意外にこの仕様ミスが多い。これは、GMとPLの主観の違いによるものです。以前、myrtさんがこの点はゲーム中デザインの中で指摘していたはずです。さらに細かく言うと、myrtさんの発言を受けて、わたしが、ゲーム中デザインの二つのタスクと題し、タスク2として細分化して表現したシステムのことです。
 
 で、この仕様ミスを防ぐためのシステムを、より効率的・かつ明快にするのが、外部環境として『仮想世界』を設定するというシステムです。
 つまり、この『仮想世界』を介して、GMとPLの「主観の相違」、つまり「常識」とか「先入観念」の整合が取られるのです。
 もちろん、この『仮想世界』はブラックボックスではあるものの、詳しく観察していくと、部分的にはその仕組みが解明できます。よって、GMやPLが、このブラックボックスに『働きかける』ことが可能です。
 まず、ルール系で生じたあらゆる現象は、この外部環境へとフィードバックされます。
 これは、リアルなマネーゲームにおけるプレイヤーの行動が、現実世界そのものへ影響を与えているのと同様です。(一人の人間が、株を大量に売り買いすれば、それが相場の変動をもたらす。これらが連鎖すると、時には世界全体の景気さえ揺るがす結果になる)
 そして、ルール系に沿わない形での影響を与える事ももちろん可能です。(リアルなマネーゲームにおけるインサイダー取引などのリスクを伴うルール違反、つまり新たなゲーム要素の付加です)
 これまで、ゲーム中デザインとして語られて来た行為は、全て、この「ルール系の外でのブラックボックスへの働きかけ」となっています。ルール系にまず干渉してブラックボックスへフィードバックさせるのが、GMの干渉の仕方。ブラックボックスへ干渉してそれによってGMのルール系への干渉を制限するのが、PLの干渉の仕方であると説明できます。
 また、匿名希・望さんがおっしゃてた、「面白い話を作るという共通の目的に対し、GMとPLは違ったレベルで意思決定を行う」という視点からの話も、このブラックボックスへの介入方法について語る事になるでしょう。これについては、私と匿名希・望さんのやりとりの中で、ある程度、同意を得ています。
 つまり、未定義リソースをいかに扱うかというのが、GMによるブラックボックスへの介入の仕方であり、ゲームトークンを介して意思決定を行うというのが、PLによるブラックボックスへの介入の仕方というわけです。また、これらの介入は同時にルール系への介入にもなっています。アキトさんの論考でいうところの「ヤワラカイコト」においては、ブラックボックスへの介入からルール系へのフィードバックが、「カタイコト」においては、ルール系への介入からブラックボックスへのフィードバックが行われると説明できます。
 
 こう説明すると、この、外部環境を「仮想世界」というブラックボックスとして設定するというアイデアが、決して珍しいものではないことが判っていただけるはずです。ごく、一般的なTRPGセッションで頻繁に行われている事なのです。
 
 ただ、その特性や扱い方を理解している人は、意外に多くないというのが、私の見解です。
 たとえば、仮想世界がブラックボックスとしてきちんと機能するには、特定の参加者の支配下にあってはいけないのです。もちろん、それはGMも含みます。
 GMにはリソースデザインの権限が与えられており、これは経験上、その必要性が十分に認識されていることです。が、それゆえに下手をすると、このブラックボックスは完全にGMの支配下に入ってしまいます。よって、GMは、このブラックボックスに関して、PLが介入する「余地」を設けねばなりません。
 優れたGMであればあるほど、つまり、自分のマスタリング処理に自信のあるGMであればあるほど、この点を見失いがちです。それゆえ、PLが「挑戦的意欲」を失ったり、「挑戦的要素」を無視したりすると、「困ったちゃんプレイヤー」などと非難したりします。
 これは、PL側も同様で、GMがブラックボックスとしてきちんと機能することを信じるのが「お行儀良いプレイである」という認識のもと、仮想世界のブラックボックス化に協力せずにゲームに参加しておきながら、いざ、その信頼が裏切られると、「だめなGM」として非難したりするわけです。
 (わがままなPLほど、GMを育てるって言うと、言いすぎかもしれませんが、そういう側面があるのも確かでしょう)
 
 で、ここまでの私の理論を理解せずとも、これらの問題を直接回避する具体的方法はいくらかあります。
 
 GMが考慮すべき要素はあまりに多い(PL間の平等や隠れ要素との整合性やリアリティなどについても考えねばならない)ので、一概には言えませんが、Tipsとしては要所要所での「ルールデザイン」をPL自身に行わせるという方法があります。まあ、正確にはPLの意見を聞くという程度のものですが、最終的なオーケーを出すのが、GM自身でなくPLであるということです。
 たとえば、雨の降る確率をGMが任意に決定し、その上で、雨による悪影響がPLの意思決定の成果を損なってしまうと、PLはGMの悪意を感じるでしょう。通常、雨を降らせるかどうかは、魔法でも使われない限りGMの権限です。GMによっては、天候などをうまく利用して、PLをシナリオラインに誘導するってテクニックを使う人もいます。この場合、PLと利害関係が対立していなければいいのですが、もし対立したりするといきなり、挑戦的要素の存続の危機です。
(※:この対立は、別にシナリオに反するばかりじゃない。もっと些細な…例えばPLの目的を達成したいという意欲と、GMのゲーム展開上、簡単に目的を達成させたくない、という演出意図がかみあわなかった場合などがあります。
 (「魔神王になんでディスインテグレートが通用しないの?魔神王が魂だけの存在だといっても、あの呪文は魂だって粉々にするはずだよ?」「馬鹿だな。それじゃあ、シナリオにならないだろう?」)
 
 そこで、雨の降る確率をPLに尋ねたり、決めさせたり、ダイスを降らせたりするのです。
 
 こういう小さな積み重ねを行えば、PLは、仮想世界が決してGMの勝手気侭な恣意性のみに構築されたものではなく、無作為性を持つブラックボックスである事を認識し、その影響下にあるTRPGという開放系ゲームの中に、挑戦的要素の存在を信じる事が出来るはずです。
 
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 さて、一応、今回の論考自体はここまででやめておきます。
 今回の論考では、前回の論考とうってかわって、「開放系ゲーム」においても、「挑戦的要素が存在する」という論法を用いています。が、内容的には、「開放系ゲームにおいては挑戦的要素は成立しない」という視点から書いたものと同じなのです。
 
 この点を、できれば理解してもらいたい。そうすれば、よりスムーズな議論が可能となるはずです。
 たとえば、アキトさんや鍼原さんは、TRPGにおける「開放系/閉鎖系」の議論が、「ゲーム中デザイン」なんかの話と論法や重点的にカバーしている範囲は違えど同じ話であるという事について、十分理解されてないような節が、発言のはしばしから感じ取れるのです。
 まあ、もっとも、私自身、常に相手の論法を理解できてるわけじゃないんで、あくまで、自戒も含めた努力目標としての話ですけど。
 
 今回の論法と、前回の論法の決定的な差異は、まず、「ゲームバランスの変更」を、「挑戦的要素の喪失とみなすかどうか?」という点です。「みなす」という前提で語ったのが、前回。「みなさない」という前提で語ったのが今回であると考えてもらうと、わかりやすいかと思います。
 
 また、それに伴い、挑戦的要素に関しても、前回では、ブラックボックスの影響下における「挑戦的要素」に関して、「挑戦的疑似体験」として語っています。しかし、今回は、「挑戦的要素が存在するかどうかは、PLがその存在を信じる事が出来るかどうかで決定される」という視点のもと、いかなるブラックボックスであれば、PLがそれを信じる事が出来るか?という点が詳しく解説されています。
 これは、「挑戦的疑似体験」の話においては、省略していた話題です。
 
 じゃあ、今回、あらたにつけくわえた話か?っていうと、そうでもない。実は、以前、「GMによる神のロールプレイ」としてお話した内容が、まさにこれと同じ話なわけです。
 
 もともと、私は、より挑戦的な、「挑戦的疑似体験」(今回の論考での「ゲームバランスの変更がある挑戦的要素」)を楽しむという目的を達成することをメイン事項の一つとしたマスタリング理論として、「神をロールプレイするつもりでマスタリングする」という話を出し、それを解析するための方法として、疑似体験をベースとして考察するという事をうちだしました。
 
 ところが、疑似体験と挑戦的要素を分割して考えるべきという意見(というか観点)が、myrtさんや鍼原さんから出てたので、論法を変更したわけです。
 で、そこで、挑戦的要素も疑似体験として一括できる。また、疑似体験には挑戦的要素が必ずしも必要ないって話が、myrtさんなどからある程度理解が得られてきたんで、今度は、次のステップとして「疑似体験」としての挑戦的要素と、真の意味での「知的挑戦」について、分割して語ろうとしたわけです。
 すると今度は、「ゲームバランスに変更があっても挑戦的要素は失われない」という観点が提出されたんで、さらに、「ゲームバランスに変更がある知的挑戦」「ゲームバランスに変更のない知的挑戦」として、分割したわけです。
 で、厳密な意味では、やはり、明確な知的挑戦が成り立つのは、「ゲームバランスに変更のない挑戦」だけです。ブラックボックスの影響がありませんから。(ダイスロールなどのランダム要素さえ広義ではブラックボックスです)
 しかし、ブラックボックスが無作為にゲーム系に影響を与える場合、挑戦的要素は持続される……という話を今回させてもらったわけです。
 
 が、最初の方でも述べたように、ゲームファンにとって、このブラックボックスが介入するかどうかというのは、非常に重要なポイントです。
 将棋においては、ブラックボックスが存在しないので、よりダイレクトに自分の意思決定がゲーム展開に反映される。それによって相手との微妙なかけひきなんかも成立する。そこが、「面白い」のです。(ブラックボックスが介在すると、かけひきの効果が、そこにまぎれてしまってよくわからなくなる)
 MTGにしても同じ。ブラックボックスが存在しないので、(コレクション意外の意味でも)カード集めや情報集め、デッキ構築時の戦略的思考が楽しいのです。
  
 が、自分の意思決定がブラックボックスを通じてしか反映されないTRPGであれば……純粋な知的挑戦という意味では、そのゲーム性は、比較的低い(正確には、その挑戦の成果が曖昧である)のです。
 
 よって、ゲーム性向上案として、「閉鎖系の構築」(つまり、ゲーム中デザインによるブラックボックスの解消)という話を持ち出したわけです。もちろん、前回事例として提示した、ひとつのイベントについて「リスクとリターンを明快にする」というだけでは、知的挑戦という意味ではたいしたことはない。が、それが、複数の閉鎖系イベント、及び神のロールプレイ、もとい、今回のブラックボックス理論と組み合わせる事で、かなり高度なゲーム性(知的挑戦要素を含む挑戦的要素)を創出することが出来るはずです。
  
 ただし、それを実践レベルにもっていくには、まだ、今回お話した内容だけじゃ足りないのです。
 
 つまり、シナリオ構築の仕方という問題がのこっています。今回の論考を読めばわかるとおり、GMによるPLの誘導というテクニックの使用が、著しく「制限」されています。おそらく、「シナリオ進行に沿って意思決定〜」なんて観点で作成されたシナリオでは、通用しないはずです。(アドリブでのりきれる人はいいけどね)
 
 これは、鍼原さんから、再度、追求のあった「挑戦的要素のないシナリオ」についての説明と含めてお話します。
 
2001年01月01日:21時00分49秒
TRPG総合研究室 LOG 064 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 064として2000年12月30日から2001年01月01日までのログを切り出しました。



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