TRPG総合研究室 LOG 089

TRPG総合研究室の2002年02月10日から2002年02月17日までのログです。


2002年02月17日:16時41分21秒
【実装とゲーム分析】ゲーム核とゲームの局面(補足) / トモス
直前の投稿の最後に言及した「前に書いた時」というのは
【実装とゲーム分析】スポーツのゲーム核,トモス,2002年01月26日:08時51分45秒 LOG 087
を指します。ゲーム核の概念をスポーツにどう適用するかについて書いたのはこれがほぼ最初ですが、問題提起自体はmyrtさんが
【実装とゲーム分析】可能な戦略と状態のネットワーク2002年01月25日:18時49分17秒 LOG 087 で行っています。 次にごく手短に触れたのが
【比較ゲーム分析】Re:ゲーム核と制御層の接点、2002年02月14日:16時22分41秒
で、僕の投稿としては今回のものが3度目ということになると思います。
2002年02月17日:16時28分50秒
【実装とゲーム分析】ゲーム核とゲームの局面 / トモス
(myrtさんの【比較ゲーム分析】ゲーム核での局面と制御層の関係は??,2002年02月15日:00時04分53秒 へのレスです。)

>>ゲーム核の局面については、これは周辺領域の影響もすべて含めては駄目なのでしょうか。<<

まあ、これは概念の定義の問題なので、定義を変えた方が便利ということであればそうするなり、別の概念名を作ってしかるべき定義を与えるなりすればいいと思うのですが、とりあえずどうして今のようになっているかを説明してみます。

あるゲームのゲーム核をどう定義するかを考える時には、「その将棋なら将棋をプレイしていると言えるのはどのような場合か」を考えます。すると、それを「初期条件、局面、手、勝利条件からなるネットワーク」として理解するのがいいだろうと思いました。天候が違っていても、インターフェースが違っていても、指し手の実力がどうであろうと、そうした側面が同じなら将棋だと言えるだろう、と思ったわけです。プレイヤーは、ある同じ「構造」に直面していると言える、とその感覚を表現してきました。これは今考えてもやっぱりそう思います。

スポーツにゲーム核の概念を適用しづらいことの理由についてはまだ余り書いていませんが、その一つは、上のようなゲーム核に属さない、「周縁領域」(以前の用語では実装領域)の要因が関心の的になりやすいことです。具体的には選手の体格やプレイの癖、得意技(は主にマンガやゲーム内のスポーツですが、現実のスポーツにもあります)などです。何故そうなのか、と考えてみると、これはスポーツがプロのショービジネスとして盛んであり、選手をヒーローとして楽しんだり、対戦相手を研究することが当たり前になっているからだという気がします。

プロの将棋の世界でも、棋譜を元に次の対戦相手の弱点や打ち方の癖を研究することはできるだろうと思います。また、スポーツで体格や技能によって打てる手が違うのとほぼ同じことが将棋についても言えます。
「すごく腕のいい人にしか打てない非常に複雑で巧みな一連の手の組み合わせ」というのがあります。これは「この局面でどのような手が選べるか」についてしらみつぶしに調べたところでわからない人にはわからないような手です。しかも、練習を重ねたところでやっぱりある程度以上は伸びない、などということもあるので、スポーツである程度以上体格差を克服できないことなどと似ています。ただ、スポーツほどあからさまではない上、将棋を楽しむ人のほとんどはプロ棋士をヒーローとして楽しんだり、その技能を盗もうとしたりはしないわけですが。

そして、たとえ「自分には決して打てないような洗練された手を打つ相手」と対戦する場合でも、そうでない場合でも、将棋は将棋だ、と考えることができるので、対戦相手の実力やプレイの癖についてはゲーム核から外します。

スポーツについても、こうした理由から、対戦相手の体格によってゲームが左右される部分というのは「周縁領域」の問題であって、どんな相手と対戦しようとサッカーはサッカーのまま、ボクシングはボクシングのままだ、という風に考えるのがいいように思いました。

#将棋のようなゲームを念頭において考えた概念であるゲーム核は、スポーツにはそもそも適用できない概念なのだ、という可能性はあります。

また、将棋のように対戦相手を研究することが稀な形でプレイされているスポーツ(体育の授業中とか、アマチュアスポーツとか)を想定した場合には、戦略を立てる時にも、練習する時にも、「サッカーに強くなるにはどうしたらいいか」「このチームにとってはどのようなフォーメーションがいいフォーメーションだろうか」などと考えると思います。自分の得手不得手とゲーム核を考えるという点では、将棋と同じだと言えそうです。

以上から、体格や体力などはゲーム核の内に含めない方がいいのではないか、と考えたわけですが、スポーツについてはもう一つ、体格の問題と関連した難点があります。

上のように定義されたスポーツでは、体格や体力といったゲームにとって周縁的なはずの問題が勝敗を決定的に左右する可能性がある、という性質がある点です。これが顕著な格闘技では階級制が導入されて一応その要素が一定範囲に制限されているわけですが、その他のスポーツにも同様の影響があります。また、体格や体力に限らず、動体視力、反射神経、瞬発力など様々な身体能力がそのまま勝敗を左右することになります。これは「ゲームは勝利条件達成のために戦略的工夫を楽しむ遊びだ」という定義に抵触すると思います。このもっとも顕著な例は「腕相撲」でしょうか。戦略性は皆無ではありませんが、腕力に比べたら戦略が勝敗を左右する部分はかなり少ないと感じます。確かに、どんなに実力差があるプレイヤーの間でプレイされても特定のゲーム核に従っている限りそれは腕相撲だと言えるわけですが、それを「ゲームの本質」と称するには多少抵抗があります。

もう一点、一見似たような点なのですが、考えるほど一番厄介だと思えるのが「グラウンドの広さ」「天候」のような要素がプレイに非常に大きな影響を与えることです。サッカーを雨上がりの重い土の、広いフィールドでやるのと、晴れた日に細かい砂利の敷かれた学校の校庭でやるのとでは非常に勝手が違うわけですが、スポーツではそれは頻繁に起っているように思えます。天候やグラウンドの広さが違うと、ボールの飛距離や選手の走る速度も違ってきますから、「同じ戦略」が「違う局面」に結びつくことになり、ゲーム核はどう考えても違って来ますが、一般には同じ「サッカー」と呼ばれます。「ゲーム核」という概念を従来のままで適用することにこだわるならこの慣用を否定して、ゲームを分析する上ではそれらのゲームは別のゲームだと主張しなければならないように思います。上に書いたように、選手の実力差からボールの飛距離に差が出ることについてはまあボード・ゲームでもわかりにくいだけで似たようなことは起っていると考えることはできます。 ですが、グラウンドの広さが違うサッカーを同じサッカーと呼ぶことにはかなり問題を感じます。

何だか前に書いた時からそれほど進展がないかも知れませんが、とりあえず以上のように考えて、「ゲーム核の概念はたぶんそのままでいいだろう」と当面は考えています。
2002年02月17日:16時27分51秒
【制御層とゲーム分析】TRPGにおけるゲームの同一性 / トモス
#最近【制御層とゲーム分析】と【実装とゲーム分析】のどちらの識別子を使うか迷うことが多いのですが、この投稿は、myrtさんの【制御層とゲーム分析】ゴブリン族退治ゲームと制御層,2002年02月10日:10時23分04秒,LOG 088に連なる議論のつもりなのでそちらの識別子を使います。

シナリオが変更されたり、判定のルールが追加されるなど、プレイ中に制御層(=ゲームの進行にまつわる本質的なルールや設定)が変化するとゲーム性が損なわれる、というのが今までの議論から帰結される一応の原則(あるいは生き残っている前提)です。myrtさんはそれについて問い直すことを通じて、TRPGがいかなる意味でゲームたりえているのか、を考えているので、それについて僕が考えている点を少し書きます。

TRPGでは、GMがシナリオにとって本質的と考える部分を一部、わざと定義しないままにしておく場合があります。「ここでこのNPCがどう対応するかはその先の展開にとって非常に重要なのだけども、またそれはその時考えることにしよう」「ここでPCが扉を壊そうとした場合にはどういう判定を用いて決めるか、どういう結果がありうることにするか、はその後の展開に大きく影響を与えるけれども、それはまた後で決めることにしよう」などと。

未定義な部分がゲームにとって本質的な部分でないならば、それを定義する作業はまあゲームのプレイ中にやってもいい「実装」の一種だろう、ということになります。少なくとも今までの議論ではそういう前提でやってきたので今はこの点については考えないことにします。

それに対して、ゲームにとって本質的な部分だとGMが考えている部分が未定義なままだった場合には、「その定義しないままのゲームは、定義した後のゲームとは別のゲームだ」ということになります。実際にその未定義部分を定義する必要性が出た時点で、別のゲームに不可避的に移行してしまうことになります。ただ、こう表現するだけだとTRPGのゲーム性がいろいろ汲み取れていないような気もします。

この点に関して、myrtさんは上の投稿で、「実装領域を広くとっておくことでゲーム性を確保する」という方法があるという主旨のことを示唆していますが、それは「ゲームの多くの部分を本質的ではないことにして、それを根拠にゲーム性を確保する」ということのように思えるのでやや抵抗を感じます。あるいは「本質的/非本質的」という区別を「制御層/実装」の区別と重ねておくという方針を変えて、本質的な部分でも実装領域の場合があると考えるのかも知れませんが。
まあ、まだ具体的な議論が展開されていないので、何とも言えない部分が残りますが、代案にあたるものを出してみます。

ひとつ重要に思えるのが、「その部分定義しないということ自体は決定済」という点です。これはmyrtさんが以前「制御層が完結していない」と呼んだTRPGの特性ですね。
ゲーム中にそこをどのように定義するかによって、「ゲーム核」は明らかに違ってきます。つまり、「どのような手の組み合わせをとっていたらどういう結果になっていたのか」「あの局面からはどのような形で勝利条件を達成できる可能性が残されていたのか」といったことを考えると、その定義された部分によって大きく結果が違います。つまり、プレイヤーの立場からは、その部分がどう定義されるかは非常に重要です。
ですが、ゲームの進行を管理する審判(GM)の立場から、つまりゲームの「制御層」のレベルで考えると、事前に「プレイ中に決める」と決めてあった部分を決めただけで、ゲームの進行に支障をきたしたわけではありません。そういう部分があることは、他の未定義性一般とは違って、「事前に考えてもいなかったような事態の発生」だとか、「正当な手と反則の間の線引きをめぐる意見の相違」などをもたらす原因になるわけでもないようです。その部分を事前にデザインしてあっても、デザインの仕方やプレイヤーの発想次第でそうしたトラブルは発生する上、決めないでおくこと自体はトラブルを招くわけではないと言えます。


#これが繰り返し使われる判定ルールや、パーティにずっと同行することになるNPCの性格などであれば、又違ってくるかも知れません。また、未設定部分が複数あり、それらの間の相互作用が考えられる場合も少し違うかも知れません。上の例は、プレイのある時点までは問題にならないルールや設定で、かつ、一度それを使って判定・処理が行われてしまうと、その結果以外は問題にならない(ルールや設定が再び参照されることはない)というような性質のものです。

ここで、プレイ中の定義作業を境として、それ以前のゲームを「メタ・ゲーム」、それ以後のゲームを「オブジェクトレベルのゲーム」と呼んでみます。メタ・ゲームの特性は、ゲームの制御層に意図的に未完結性が残されており、それを完結させる仕方が複数考えられるものです。プレイ中の定義によって複数の可能な「オブジェクトレベルのゲーム」の内のひとつが採用されることになります。

異なる「オブジェクト・レベルでのゲーム」をプレイしたプレイヤーは、原則として、異なるゲームをプレイしたことになります。

但し、その2つのゲームの間で異なっているルールや設定の部分が全く参照されないままに2つのプレイが終了する、という場合も考えられます。その場合には、2つのプレイが、同じメタゲームに属するという理由で比較することが妥当だと言えます。

言い換えてみます、「もしもPCがこういう行動Aを状況Bにおいてとった場合には、」という部分の制御層だけが違っていて、他の部分が全く同じゲームがあったとします。それぞれのゲームにおいて1つのセッションが行われ、いずれのセッションにおいても、そもそも「状況B」にPC達が辿り着かなかった(あるマジックアイテムの隠されている部屋を訪れることがなかった)とか、「行動A」を誰もとらなかった(マジックアイテムを探すようなことがなかった)としたら、結局のところ同じゲームをプレイしたも同然です。そこで2つのプレイを比較することは、問題がないと言えます。

更に簡単に言えば、プレイ中に何かの設定やルールを追加した場合でも、それがプレイに影響を及ぼさずに終わるなら「ゲームが変わったこと」は問題にならないとする立場が可能です。
2002年02月17日:07時05分41秒
【実装とゲーム分析】制御層にはどのような意味で未定義性がないのか / トモス
まだ制御層に未定義性がない、という考え方を消化中です。同じところで混乱する人がいるのかどうか分かりませんが、何かの参考になればと思い考えたことを書いておきます。もし誤解や異論があるようなら例によって指摘をお願いします>myrtさん

制御層には、定義により、未定義な要素は含まれない、ということになっています。同時に、制御層はゲームの本質的な部分についてのルールやデータの集合、という風に考えてきました。あるゲームにとって本質的なルールやデータが完全にデザインされ切っているとは限らないので「制御層には未定義性が含まれる場合がある」と考えてもきました。また、「全てのルールやデータ」ではなく、あくまでその一部分が制御層を構成すると考えたのは、一応ルールとして存在してはいるもののゲームにとっては本質的でないようなルールもある、と考えたからです。

そうすると、ある審判役の人が、あるゲーム(水泳でも将棋でも)にとって本質的な部分がどこかについてあれこれ考えた結果、そのゲームの本質的な部分を構成するはずのルールやデータが一部定義されていないままになっている、と結論する場合が問題になります。

myrtさんの考えを察するに、「そこには2つのゲームが混同されていて、野球なら野球の「本質」をその人が考えている時には、いわば「その人のイメージする正しい野球」があり、もうひとつ、実際にルールや設定データによって定義されている「既にデザインされている野球の1バージョン」がある。いずれも野球の1バージョンではあり、似ているけれども、別のゲームだと考えるべき」というようなことになるのではないかと思います。審判役の人にとって「未定義」と見えるものは、単に2つのゲームの間のギャップで、それを解消するために正しいと思われる野球をルールや設定としてデザインして、そのゲームをプレイすることもできるし、デザインしないままにプレイして、いわば「その既成の制御層に合意する」こともできる。いずれの場合にも、プレイするゲームの制御層によって定義されている部分が、そしてそれだけがゲームの本質なのだ、という風に言えると思います。
2002年02月15日:01時44分37秒
【比較ゲーム分析】ゲーム核での局面と制御層の関係は?? / トモス
(Re:2002年02月15日:00時04分53秒、【比較ゲーム分析】ゲーム核での局面と制御層の関係は?? / myrtさん)

手短に一点だけ。

>>またトモスさんが、あえてゲーム核の局面の話で得点などの制御層の要素に触れられていないのは何故でしょうか??<<

あえて触れなかった理由というのはないですが、得点はゲーム核に含まれると思っています。例えば選手の位置などが一切同じでも得点や残り時間が違えば違う局面、ということになります。勝つためにとれる戦略が違ってきますから。
2002年02月15日:00時04分53秒
【比較ゲーム分析】ゲーム核での局面と制御層の関係は?? / myrt
(Re:2002年02月14日:16時22分41秒【比較ゲーム分析】Re:ゲーム核と制御層の接点 / トモスさん)

 ゲーム核の局面については、これは周辺領域の影響もすべて含めては駄目なのでしょうか。 初期局面の集合を考え、選手の体力などが特定されたら対応する初期局面からゲームを始め ることにすればうまく解釈できるような気がします。どうせ最終局面も集合になりま すし(例えばサッカーでゲーム終了時点の選手位置は千差万別)。
#でも「含められる!!」と言えるほどこの説に自信はない...

 またトモスさんが、あえてゲーム核の局面の話で得点などの制御層の要素に触れられ ていないのは何故でしょうか??得点は制御層で管理されますが、得点がどうなっているかは ゲームの局面において重大な要素である気がします。ゲーム核における局面とはどう かかわっているととらえるべきでしょうか。
2002年02月15日:00時03分12秒
【比較ゲーム分析】一回きりゲームと遊技ツール / myrt
(Re:2002年02月14日:01時57分13秒【比較ゲーム分析】Re:gameと遊技ツ
ール / トモスさん)

 ほとんど「そう考えています」と答えられますが、若干怪しい点だけ。

>>もしも何も断りがなければ「一回きりのゲームなら勝つためには何でもすべき」というプレ イになっている」というものだということでよいでしょうか? <<

 あるプレイに対しての分析が勝つことだけに焦点を絞っているときかつそのときのみ その分析はゲーム理論的な分析です。 だから私の場合、あるプレイを「これをゲームとして見る」とした時点で勝つことだ けを考えると仮定しています(実際のプレイに他の要素があっても)。

 その上で。一回きりゲームの話は、「持ち 越しリソースを考慮する分析(繰り返しゲームとしての分析)と、考慮しない分析(一回きりゲームとしての分析)がある」というつもり で書きました。「しなくて良い」と書いたからややこしかったですね。 勝つために何でもすべきなのはデフォルトで、一つのプレイだけを視野に入れるか、 次のプレイも視野に入れるかの差異です。

>>直観的には、僕が挙げた「引越し前に近所の人と一回だけバレーボールをする」という ケースについてもゲーム理論で分析できそうな気がするのですが、できませんか? <<

 できると思います。しかし「バレーそのものに勝つこと」に対してどの程度それぞれの 目的達成を評価するかのパラメータを与えるかが難しいことから、多目的ゲームとして分析するか、ゲーム的な分析とそれ以外の側面からの分析に分けたほうが楽かもしれません。
2002年02月15日:00時01分56秒
【実装とゲーム分析】TRPGの独自性とゲームプレイの利点 / myrt
(Re:2002年02月14日:17時16分40秒【実装とゲーム分析】制御層、未定義性、TRPGの独自性 / トモスさん)
>>「野球というゲームはどういう風に定義されるのか」をめぐる争いではな い、という風に考えることになります。 <<

 私はそう考えています。

>>だとすると、同投稿の最後に挙げた4つのTRPGの独自性をめぐる論点 もほぼそのまま、ということになりそうです。 <<

 「それらしさへのこだわり」と「複雑さを残す」ことに対してはまだ分析が可能で あると考えています。当時書きかけていた原稿を消してしまいました...

>>ゴブリン退治をめぐる議論を解釈すると、「TRPGもスポーツと同じように、制御層が安定していて、 その意味ではゲーム中に発生する困難は実装にまつわるものだけだと考えることもできるかも知れな い」「従ってそこにもTRPGの独自性はないかも知れない」という話になっている気がします。 <<

 TRPGのプレイであることはそれがゲームのプレイであることに拘束されませんから、 わざとやれば任意のゲームのプレイを逸脱しつつTRPGのプレイであるようなプレイをすることは いくらでも可能であると思います。このことからこの点でTRPGが独自性を持つことは明らかである と考えています。

 しかしTRPG独自の利点を(すべてではないが)生かしつつ、任意のゲームのプレイであり続けるこ との利点をも生かしたプレイも可能であるのではないかと考えています。ゴブリン族退治ゲームの 考察はそのためのもので、決して「すべてのTRPGはこうあるべきだ」という考察ではありません。
#という話を最初にすれば良かったのですが、忘れていました。申し訳ありません。
2002年02月14日:17時16分40秒
【実装とゲーム分析】制御層、未定義性、TRPGの独自性 / トモス
(myrtさんの【実装とゲーム分析】Re:制御層と未定義性,2002年02月12日:23時32分14秒へのレスです。)

「制御層には、定義により、未定義な要素が含まれることはない」という考え方に沿って考えてみます。まだしっくり来ないところが残っているのですが。
プレイ中に、何が反則かについて意見が分かれることがあるとしたら、それは「そもそも野球をプレイするという合意の内容は、具体的に野球のどのバージョンをプレイするという合意だったのか」とか「そもそも今ここでどのようなバージョンの野球をプレイしたいのか」とか「制御層に想定されていない事態が発生したけれども実装上の問題としてそれをどう片づけるか」といった問題はあるとしても、「野球というゲームはどういう風に定義されるのか」をめぐる争いではない、という風に考えることになります。

【実装とゲーム分析】制御層と未定義性をめぐるTRPGの独自性,2002年02月06日:18時24分35秒,トモス
の話に戻りたいのですが、というかそこが戻るべき場所のような気がしているのですが、結局、「1)制御層の未定義性」で挙げたケースは「制御層の未定義性」が原因ではないないものの、他の理由(「ゲームにつける名称の混乱」や、「プレイ前に、どのゲームをプレイするかをめぐってとりかわされた合意に含まれる未定義性」や「どう実装すべきかについての意見の相違」)によって生じる、ということでいいのでしょうか。
だとすると、同投稿の最後に挙げた4つのTRPGの独自性をめぐる論点もほぼそのまま、ということになりそうです。
ゴブリン退治をめぐる議論を解釈すると、「TRPGもスポーツと同じように、制御層が安定していて、その意味ではゲーム中に発生する困難は実装にまつわるものだけだと考えることもできるかも知れない」「従ってそこにもTRPGの独自性はないかも知れない」という話になっている気がします。
#同時に、TRPGはいかなる意味でゲームたりえるのか、という議論でもあると思いますが。
2002年02月14日:16時45分25秒
【制御層とゲーム分析】「制御層」の定義 / トモス
「制御層」の概念はずっと定義をせずに使ってきたので、Purpleさんが指摘するように、僕もあれこれ混乱がありました。そもそも定義も曖昧なままに用語を使い続けている意義がわからない、という人もいるのではないかと思います。(参考までに、意義については以前「中間まとめ」の後編の方に僕の説を書いてあります。) 遅くなりましたが、一応定義をやってみました。

制御層

あるゲームの定義(ルールや設定データ)の一部分から構成される、ゲームにとって本質的な部分。ゲームで審判的役割を果たす人ががゲームの進行を管理する上で行う必要がある判定、データ処理方法を特定する。ゲームシステムの一部分。審判がそのゲームで必ず行うことになる判定や処理をフローチャートで描いた場合に、それが制御層になっている。

例:野球におけるストライク、進塁、ファウル、などなどの関係を定義した部分(3ストライク=1アウト、4ボールで進塁、などなど)は野球というゲームにとって本質的なので制御層と考えることができると思います。何が野球の本質であるかについて万人が一致する保証があるわけではありませんが。

関連用語1:「実装」
また、このようなシステムで特定された作業と「実装」としばしば対比される。実装とは、制御層で特定された作業以外の作業で審判(かそれに相当する人)がゲームの実現・進行のために行うあれこれの作業のこと。当初、予めデザインされたゲームのシステムを具体的な現実の文脈に導入する作業、というような意味で使われた用語。

例:野球で、バットが折れて選手が怪我をした時に試合を一時中断してきちんと手当てが行われることを確認すること、替えのバットを調達すること、などはそれに当ると考えられます。

関連用語2:「物理層」と「仮想物理層」
ゲームのプレイが実際に生じる舞台を「物理層」と呼ぶ。

例:野球なら選手やボールやフィールドから構成される物理的世界です。将棋を声だけでプレイする場合には声や空気ということになると思います。TRPGならテーブルやキャラクターシートやダイスなどがそうですが、PC達が活動する舞台になる架空の世界を「仮想物理層」と呼ぶこともあります。スポーツで現実の物理法則が選手の活動を制約するのとある程度似た形で、PCの活動を架空の世界が制約することになるから一応「物理層」の変種のような名前をつけてみた、と考えたらわかりやすいでしょうか。

付記:見解の不一致
例えば野球なら野球の制御層と実装領域の境界については、たとえ全てのルールが共有されている2人の人間の間でも見解が一致しない場合があります。例えば「野球場には石灰で白線を引き、白線上に打球が落ちて石灰粉が舞ったのが見えたらそれはヒットと見なす」というルールを共有している人の間でも、「豪雨で石灰が流れてしまい、代わりに細いロープか何かで代用してよいかと球場のオーナー側から問い合わせがあった」という事態に直面したら、「それは野球の制御層で定められている本質的なルールと一致しないから自分が野球と呼んできたゲームではなくなってしまう」という意見と「そのルールはあくまで実装上のルールだったはずだからこうした事情がある場合には柔軟に解釈・変更しても、それでゲームが野球以外の何かになってしまうということにはならない」という意見とが出る可能性があります。
2002年02月14日:16時22分41秒
【比較ゲーム分析】Re:ゲーム核と制御層の接点 / トモス
(Purpleさんの【比較ゲーム分析】ゲーム核と制御層の接点,2002年02月14日:01時29分32秒へのレスです。)

#今回の制御層の件は、明確な要望を打ち出したというわけではないので、Purpleさんがこれまで出された要望はいずれも改正前ということになるかと思います。(僕が指摘するのも妙ですが。)myrtさんに「スポーツの例を避けて欲しい」と要請した件も、僕に「ゲーム核と非ゲーム核という用語でやってみて欲しい」と要請した件も、結局別の提案がmyrtさんや僕から出てPurpleさんも了解するという形になっているので、何というか、「建設的な提案」の類なのではないかと僕は思っていました。myrtさんも曖昧な点についてはつっこんで下さいという旨を再三書いていますし。

#わかりづらい独自の用語が増えていくことの方に僕は問題を感じます。これは改正前からマニュアルに記されている点です。

制御層についての話へ戻ります。

Purpleさんが「制御層」と「ゲーム核」の関係について 考察されていますが、たまたま「制御層」はmyrtさ んが、「ゲーム核」は僕が言い出した概念ではあるものの、その関係を(特にスポーツやTRPGを意識して)考えるという段になると、まだ定説がないのが現状だと僕は思っています。「その考え方は正しい/間違ってると思います」とお応えできるような根拠がまだ乏しいというか。

#ゲーム核のネットワークの局面は物理層の一部。
#局面をつなげている矢印は制御層の一部。
#と言うべきでしょうか?

という指摘ですが、スポーツについては僕もほぼ同様に 考えていました。ただ、ひとつややこしい点は、ゲーム核では全ての局面を問題にするのに対して、制御層を考える時には局面の多くが無視される、という点ことになると思います。
例えばテニスであれば、「ボールの位置、運動の方向と力、選手の位置、体勢、力」ぐらいは「局面」の構成要素だとしてよいと思います。
選手の体格や体力、コートのコンディションなどは周縁領域の問題と考えたい気がします。選手やコートが違ってもテニスという同じゲームが成り立つのに対して、「ルールやコートの性質上選手が特定の位置に立てない」などということになっていたらそれはちょっと違うゲームだという感じがして来るからです。シューズやラケットの性質も、周縁領域だと思っています。
審判は、選手が何か特定の禁止された行動をとるのでもない限りは、選手の位置などについては気にしません。反則や得点などごく限られた点について気にするだけです。
そこで、制御層の扱うゲームの局面は「コートの中にいて、打ち合いが続いている諸局面」をひとまとめにしてしまったり、「サーブを打つ諸局面」をひとまとめにしてしまったりすると考えるといいのではないかと思っています。選手がどんな手をとったのであれ、得点や反則があれば次の局面に移ります。そのような限られた移行だけに 審判は携わっていて、ボールがどこからどこに飛ぶか、 バックハンドをどう使うか、などについては無視に近い。
そこで、
・ゲーム核で定義される「ゲームの局面」は物理層の一部をなす
・ゲームの周縁領域に属する諸要素の状態(天候など)も物理層の一部をなす
・制御層は、ゲーム核よりも粗く定義された局面間の移行のみを扱う。(ネットワークにおける「矢印」)
・「実装」の中にはゲームの局面を特定し、反則や得点の判定をする作業が一部含まれているので、それが「局面の粗い定義」を行う。
という整理でどうでしょうか。
2002年02月14日:02時06分52秒
【比較ゲーム分析】「周縁領域」で了解しました。 / Purple
  2002年02月11日:05時52分37秒のトモスさんの書き込みへのレスです。
 
 >但し、具体的なルールの条文をとってきて、「これはゲーム核に属すのか核の外に属すのか」というかたちで問題にしたら「両方にまたがる」ということになるものはあるとは思います。これは考察を進める上で問題になったことはなかったと思いますが。
 
 両方にまたがる要素があるという話ですが、それならば、
 「周縁領域=非ゲーム核」が成り立たないので、
 「非ゲーム核」は使わないほうがよいと思います。
 
 >ちなみに、「ゲーム核」と「ゲームの周縁領域」とか「本質的」と「周縁的」という類の言い方を試しています。Purpleさんのリクエストとはちょっと違ってしまいますが、僕はこの方がしっくり来るようなので、特に問題がないようなら当分これでやってみたいのですが、構いませんか? >Purpleさん 
 
 はい。どうも、ありがとうございます。
 「核」と「周縁」という、対の意味を持つ言葉になっているので、「実装」よりもわかりやすくなったと思います。
2002年02月14日:01時57分13秒
【比較ゲーム分析】Re:gameと遊技ツール / トモス
(myrtさんの【比較ゲーム分析】gameと遊技ツール, 2002年02月13日:23時19分57秒へのレスです。)

そうすると僕の意見は、
「ゲームをプレイして遊ぶ時には人は往々にして、「ゲーム理論で分析できるようなゲーム」ではない形で遊んでいるし、それでよい」
というものだということになるでしょうか。
それに対してmyrtさんの意見は、
「自分が考察の対象にしているゲームはゲーム理論で分析できるような諸活動で、そこではプレイスタイルの選択はプレイ開始前に行われるものだし、もしも何も断りがなければ「一回きりのゲームなら勝つためには何でもすべき」というプレイになっている」 というものだということでよいでしょうか?

直観的には、僕が挙げた「引越し前に近所の人と一回だけバレーボールをする」というケースについてもゲーム理論で分析できそうな気がするのですが、できませんか?

すぐに引越しすることになる例のプレイヤーは、「プレイで自分のチームが勝利すること」の他に「一回きりのゲームであっても他のプレイヤーに悪い印象を持たれるようなことをしないこと」「断りもなく攻撃的な手を使わないこと」なども利得行列の中に入っている、と考えるとどうですか? 端的に、ゲーム理論で分析できないのは目的や工夫が介在しない活動(しゃっくりとか)だけのような印象を持っているのですが、どうでしょうか。

#制御層と実装をめぐる議論の方が留守になっていて済みません。
2002年02月14日:01時29分32秒
【比較ゲーム分析】ゲーム核と制御層の接点 / Purple
 ○さいしょに、おわび
 更新後の簡易掲示板利用マニュアルも読まずに、「要求」を連発してました。
 どうもすみません。
 
 ○本題:制御層の件
 
 トモスさん>あるいは審判の判定・処理作業の流れを示すフローチャートのようなものでしょうか?
 myrtさん>私は制御層をそのように想定しています。
 
 かなり、わかりやすくなりました。
 
 それで、この制御層のフローチャートに従って、実際にゲームのプレイが行われているのが物理層ということですね。
 
 そこで、あくまで直感ですが、
 ・ゲーム核のネットワークの局面が物理層。
 ・局面をつなげている矢印が制御層。
 というような形でゲーム核と制御層に接点があるという印象をもちました。
 
 #ただ、制御層・物理層だと、ゲームの周辺領域も含んでるので、厳密に言えば、
 #ゲーム核のネットワークの局面は物理層の一部。
 #局面をつなげている矢印は制御層の一部。
 #と言うべきでしょうか?
 
 #またまた、外していましたら、ごめんなさい。
2002年02月13日:23時19分57秒
【比較ゲーム分析】gameと遊技ツール / myrt
(Re:2002年02月13日:02時33分59秒【比較ゲーム分析】プレイスタイル の調整をめぐる工夫 / トモスさん)

 競技としてのゲームと遊技ツールとしてのゲームシステムを分けて考えるべきだと 思います。 私はゲームという用語をゲーム理論で言うところのgameやproblemのつもりで使っています。 gameやproblemは面白いとは限らず、楽しみやコミュニケーションなどの 要素をすべて排除し た(あるいは利得に変換した)上で利得を最大にすることだけを目的にすると定義されています。 この単純化の結果、ゲーム理論による分析が可能になります。逆に言えば、そうでない とゲーム理論では分析できません。
#「違う目的」がきちんと定義されるなら、よりグローバルな別ゲームとして分析できます。 マナー問題と繰り返し囚人のジレンマ問題の例とか。

>>むしろアレンジが「ゲーム前」に明示されることが重要なのだ、という意見のようですが、 これについても考えてみると賛同しかねます。 <<

 アレンジがプレイ前に明示されば十分gameやproblemたりえる、というのが私の主 張です。トモスさんの主張は、ゲームシステムを遊技ツールやコミュニケーションツールとしての側面から分析したものではないでしょうか。意見のズレはgame(勝つことが目的、 でも負けても面白いかもしれない)と遊技ツール(面白いことが目的、でも勝つことが面白さに つながるかもしれない)のズレであるように感じています。
#gameをXXツールと呼ぶなら勝敗決定ツール??なにか今ひとつ。

 プレイ中にゲームがアレンジされても、そのシステムが遊技ツールやコミュニケーシ ョンツールたりうる場合があるという点に依存はありません。

 ではアレンジがプレイ中になされた場合にgameやproblemたりうるのかという問題ですが、 これがまさしくTRPGのプレイはgameのプレイたりうるかという問題であると思います。 プレイ前、中、後の問題でなく、TRPGで言うPLとPCの区別問題に帰着されるのでは ないかと考えています。

 ゲーム理論がどう便利かというと、 例えば「キャンペーンより単発シナリオでのほうがキャラクターに無茶がさせやすいのは、 単発シナリオの一回きりゲーム性の高さに由来する」というように分析できます。

今回逃げた議題:

 ゲームシステムを持ってきてそれで遊ぶと、勝敗の要素抜きで楽しい場合があります。 例えばコンピュータ将棋を子供にやらせれば、勝てなくても駒が動くだけでトイ的な楽しみを 得るかもしれません(コンピュータを持ち出したのはルール違反の駒移動をさせないため)。 ここで子供が脈略なくに駒を動かすプレイをした場合、このプレイは将棋ゲームのプレイと 言えるでしょうか。
#将棋のプレイっぽくないが、私の今までの主張だと将棋ゲームのプレイに含まれてしまう。
2002年02月13日:02時33分59秒
【比較ゲーム分析】プレイスタイルの調整をめぐる工夫 / トモス
(myrtさんの 【比較ゲーム分析】ゲームのプレイとそれ以外のプレイ、2002年02月12日:23時34分43秒へのレスです。)

TRPGでプレイスタイルと呼ばれるものの多く、将棋やサッカーでもありうる同様のアレンジが、いわゆるゲーム核(ゲームシステムの中心的な部分)に含まれている「ゲームの勝利条件・目的」とは違う目的を設定することになっている、という点では意見は一致していると思います。

一応、もう一度例を挙げておくと
将棋の対局を始める前に「いつもは守りを固めて相手をじらすようなことばかりやっているのですが、お互い積極的に責めに出て派手な試合運びを楽しんでみたいと思っているのですが、おつきあい頂けますか?」と持ちかけること。

サッカーで、自分のチームが有利な時に時間稼ぎに徹して勝ちに持ち込むという戦法をとらないという暗黙の決まりに従ってプレイすること。
などがプレイスタイル上のアレンジとして考えられる例です。

myrtさんの意見は、「そういうアレンジをしてはいけない/していない」という意見ではない、というのは了解です。

むしろアレンジが「ゲーム前」に明示されることが重要なのだ、という意見のようですが、これについても考えてみると賛同しかねます。

1)「アレンジをする時は普通、ゲームの前にやっている」
2)「アレンジがない時には、人は「勝つためには何でもやっていいし、やるべき」という了解の下にプレイしている」
3)「アレンジをするならゲームの前にやるべきだ」
4)「アレンジがないならそれは「勝つためには何でもやっていいし、やるべき」という了解の下にやっていると理解されるべきだ」

ととりあえず例によって「ゲームが普通どうプレイされているかについての事実判断」と「ゲームがどうプレイされるべきかについての意見・提案」とを両方考えてみます。

実際にどう遊ばれているかについて言えば、ゲームのプレイが始まってからアレンジがされることは珍しくないと思います。「プレイスタイル」は、多くの文化的・慣習的な要素がそうであるように、しばしば無自覚なもので、他人に対して事前に説明しきることが困難な場合も多いと思います。明白な合意や意見交換などがないままに「ルール通りに相手をいたぶるようなことはしない」というスタイルが参加者の間で共有されて「勝つためには何でもやるべき」というスタイルが採用されていないケースもあると思います。そこで1と2は問題があると感じます。

ただ、何かアレンジをしたいならプレイが始まる前にする方がプレイ開始後にやるよりもいい、という事は感じます。それはそのアレンジの仕方でゲーム序盤にとるべき戦略が微妙に変ってくるからです。「派手な試合をやるんだったらもっと早く言ってくれれば飛車の道を開けておいたのに」などと。ただ、プレイスタイルの中には暗黙のルールや無自覚なままに採用されているとでも言うべきスタイルがあるので、全てを事前に明示することはできないので、事前に明示すべき、という原則は厳格に適用されるべきではないと僕は思います。
もうひとつ、ゲームのプレイスタイルについて話すこと自体がある種の暗黙のルールにひっかかる場合も考えられます。プレイ前にプレイスタイルについて10点ほど確認をとりたいのだがそんなことを持ち出すと変な眼で見られるのがわかっているからとりあえずプレイしながら様子を見ることにしよう、と判断してゲームすることは3の原則に反しますが、それでいいと思います。言い方を変えれば、上の原則は、ゲームがプレイされる文脈にそぐわない場合があると思います。前に挙げましたが、大人の間の社交や家族のだんらん、団体旅行中の娯楽、ゲーマーの間のホビー、プロの試合、学校の活動の一部、などゲームは様々な文脈でプレイされるものですから。

最後に4の意見ですが、これにも問題を感じます。家族のだんらんのためであろうと旅行先の娯楽であろうと勝つために何でもすべきというのが前提、とは考えにくいと思います。

一回きりの対戦を、今後会うこともない相手と行う場合には上のような事実判断なり意見なりが支持される、という ことでもない気がします。
引っ越す直前に、それまでつきあいのなかった町内会の有志が集まってやっているバレーボールに誘われたと考えてみます。忙しいからというので断ると引越しを少し手伝ってくれた上、余った時間で一度だけプレイするということになります。解散後にみんなで食事に、ということもなく、自分はそのまま引越しのトラックに乗ることになります。自分は中学・高校とバレー部で、ブロックしてくる 相手チームの選手の指先に強い負担をかけるようなアタックの仕方を知っているかも知れません。あるいは相手の鼻柱を狙ってアタックすることができるかも知れません。でも、「まあ素人の集まりでそういう戦法があることも知らないでプレイしている無防備な状態にこういう戦法を仕掛けるのも可哀相だ」「相手が鼻血を出したりつき指するようだと何だか悪い」「引越しも手伝ってもらったし」「もしかすると自分が知らないだけで和気あいあいとプレイするという暗黙のルールがあったかも知れないし、それを自分に言わなかったことを盾にとって勝つために何でもやるべきだと言うのも変だろう」「かと言ってわざわざそういう手も含めて勝つためには何でもやるべき、というゲームを提案するのが適当とも思えないし」などなどと考えて実際には他のプレイヤーのスタイルにそれとなく合わせてプレイしたとします。また、プレイしている間に実は他の人たちもそれなりに上手だとわかってきて、改めて「みなさん手強いですね」と言ったら「手加減しないでバシバシ来て下さいよ」と返事が返ってきたので、それをきっかけにかなり素人離れしたアタックをかけたりし、それでも相手が喜んでいることを知ってようやく本気を出すことにする、という形で少しづつプレイの仕方を変えて行きます。その間、「このような手は許されるか」などといったあからさまな会話はなく、雰囲気を探るようなことだけをするに留まったとします。

「一回きりのゲーム」という状況自体が特殊ではありますが、そういう状況で上のように暗黙のルールについて特に何も話さずにプレイを始めたり、にも関わらず「勝つために何でもやるべき」というスタイルを採用せずに始めたり、途中からそれを変更したりすることは、あってよいし、稀でもないだろうと思います。

#というか、いろいろ考えると「一回きりのプレイ」というのは非常に稀で、ゲームの内外で他のプレイヤーと何かの関係があるケースがほとんどなのも気になります。

以上から、上に挙げた4つの論点はいずれもやや問題を感じます。

ただ、何故myrtさんがそういう論点を出すかは僕なりにわかる気がするので、何か別の解決の仕方がないだろうか、と少し考えてみたのですが、
1)プレイスタイル上のアレンジはゲーム核外の目的をゲームに持ち込むので、ゲームの純粋さが失われるような気がする
2)自分は純粋なゲームがしたい
3)その為には上のような原則に従うことが役に立つ
という話であれば、それなりにわかる気がします。TRPGについてはmyrtさんはある特定のプレイスタイル(ゲーム性を重視するものの一種)に特に興味があり、それをどう実現させるかについて考えている面がありますが、同様に、将棋やバレーボールや他のあれこれのゲームについても、ある特定のプレイスタイルに興味がある、そしてそれを実現させるためにはこういう工夫をするとよいのではないか、ということだと考えれば、確かにそういうプレイの仕方には役に立つ工夫になっているだろうと思います。
2002年02月12日:23時35分59秒
【制御層とゲーム分析】制御層の明らかさとTRPGらしさ / myrt
(Re:2002年02月11日:06時42分35秒【制御層とゲーム分析】「同じゲームを一貫 してプレイしていること」の意義 / トモスさん)

>>制御層についてもこれはあてはまるでしょうか? 例えば制御層さえ一定していれば、テニスプレイヤーは、試 合に勝つための戦略を立てられるとか、プレイヤーはPCが目的を達成するための戦略を立てられるとか、言える でしょうか? <<

 2つの問題があります。1つ目が、制御層が明らかかどうかです。テニスでは得点などの 状態がどうなっているか、そして審判がある判定を下した場合に状態がどう遷移するかの規則を知っています。 しかしこれらが完全に隠されていると、制御層が一定でも戦略が立てられません。

 2つ目が、判定基準が明らかがどうかです。例えば前述のホブゴブリン退治ゲームで、ホブゴブリンを倒したと GMに判定されれば勝利できることがわかっているとします。しかしどのような宣言を行えばホブゴブリンを倒せ るか、あるいは倒すことに近づくかがさっぱりわからなければ戦略が立てられません。

 スポーツでは、上記の2問題が実用的なレベルで解決されていれば、プレイ中に一度も問題が発生しな いことが期待できます。しかし、一定である制御層の状態や遷移規則がプレーヤーにすべて明らかで、かつ どの宣言をすればどう判定されるかが極めて明らかであれば、それはもはやTRPGっぽくありません。 今のところ、このあたりで止まっております。

>>「同じゲーム」=「同じ戦略的思考が通用するゲーム」と言えるかどうか、がひとつの考えどころかな、と 思いました。 <<

 これは有用な考え方だと思います。プレイ後にシナリオなどを検討したとき各時点において、隠されて いたり後から追加された要素を考慮した戦略と、その時点でプレーヤーに明らかだった 情報から導かれる戦略について対比してみると面白いかもしれません。
2002年02月12日:23時34分43秒
【比較ゲーム分析】ゲームのプレイとそれ以外のプレイ / myrt
(Re:2002年02月11日:09時01分28秒【比較ゲーム分析】ゲームのプレイスタイル / トモスさん)
>>>>一回きりゲームは、「そのゲームで勝てば何をやってもいい、むしろするべき」という点に特 性がありますから。<<<<

 申し訳ありません。決定的な記述ミスをしてしまいました。「そのプレイで勝てば何をやってもい い、むしろするべき」の間違いでした。ゲームでやると「勝負は勝つようがんばるべきだ」という 循環論法になってしまいます。

 ゲームにおいて勝つために何でもするべきなのは、プレイが始まってから終わるまでです。 ですから、プレイが始まる前に相手に何を吹き込むかについてそれは適用されません。 駒落ちなど、事前にどのようなゲームを行うかの相談に分類すべきだと思います。 吹き込みをリソース持ち込みと見なし、どれだけリソースを持ち込むかもゲーム核に含んだゲームを定義 すれば適用されますが。

 また勝つためになんでもするべきなのは、そのプレイにゲームのプレイヤーとして挑む立場からです。 圧勝したら気まずくなるとか、相手が弱すぎて真剣勝負したらつまらないとか、 慎重に試合運びをしたほうが強いのはわかってるのに派手な試合運びをしたほうが面白いとかの ゲーム以外の要素が考えられます。特に最後の要素は今までの実装の議論から、派手な試合運びを しているかどうかの判定ができ、派手な試合運びをしていないと判定されたら失格の場合 には真剣勝負ができると考えます。逆に言えば、それができないのにこのような話を持ちかけるのは トラブルの元だと。
2002年02月12日:23時32分14秒
【実装とゲーム分析】Re:制御層と未定義性 / myrt
(Re:2002年02月11日:09時13分27秒【実装とゲーム分析】制御層と未定義性 / トモスさん)
>>まず、上の2つの視点だけが可能だと考えてみます。そう考えても、そもそもの問題は残る、という感じがします。<<

 その通りです。しかしそれら問題は分離されているので、分析のための議論が容易になると考えています。

>>全員が「これは実装上のルールだ」と意見が一致する保証があればよいのですが、「あるルールを追加したらそれ が別のゲームになるのか、同じゲームの違う実装になるのか」についての判断は個々人によって違うと思われます。<<

 この判断の違いの問題が解決し、「これは実装上のルールと見なす/見なさない」という定義が共有された後で も全く意見の相違が持ち越されるため、前項目と同様に問題を分離できると考えています。 ここでも、問題が解決するわけではありません。

>>視点c:あるルールを追加することが、制御層部分の変更ではあるけれども、「従来のそのゲームの欠陥の修正 や未完成部分の作成で、そのゲームのあるべき姿の実現」だと考える<<

 「その名を冠せられたゲームのそれぞれの定義」「その名を冠せられたゲームに参加してきた、そして これから参加する審判やプレーヤーがその名を冠するにふさわしいと考えるゲームのそれぞれの定義」が 山のようにあることを考えると、一筋縄ではいかない視点であると思います。 今のところはこれを縮小し、「今、参加者がどのゲームをしたいのか」という問題だけをあつかったほうが 無難であると考えています。

 結局、「同じゲームって何?」という問題に帰結されると思います。例えば「野球と名づけられたもの」と定義 すればルールが何であれそう呼ばれているかどうかだけで分類されますし、「現在プロ野球連盟が認めているも の」と定義すれば年度によってその定義が示すルールは異なることになります。「従来の野球の欠陥の修正 や未完成部分の作成の結果作られた野球のあるべき姿の実現であるもの」というゲームは定義できるが、それはそのゲーム のあるべき姿の実現かどうかの判定問題になるだけではないかな、という気がしています。 今までのところ常にそのルールの有無が判定を分けているようなルールがあったとしても、 そのルールがそのゲームの定義の一部だ、とは言えるかどうかは微妙である気がします。


(Re:2002年02月11日:05時52分37秒【実装とゲーム分析】Re:制御層をめぐる曖昧さ / トモスさん)

>>あるいは審判の判定・処理作業の流れを示すフローチャートのようなものでしょうか? <<

 私は制御層をそのように想定しています。例えば100m競争の制御層の例で、完結したフローチャートが書けるように状態と状態遷移規則を列挙しました。ゴブリン族退治ゲームの制御層の例で 示した状態遷移規則は、そのように制御層を書いた場合の一要素のつもりです。
2002年02月11日:09時13分27秒
【実装とゲーム分析】制御層と未定義性 / トモス
(myrtさんの 【実装とゲーム分析】制御層と未定義性:3問題の混同?,2002年02月08日へのレスです)

#この議論は、制御層に未定義性があるような場合が考えられるか、という点をめぐるものです。

myrtさんの挙げられた3つの問題
1 「水泳」という語が何を意味するかが不明確
2 「水泳」という語が何を意味するかが人によって異なる
3 名前が何であれ、どのゲームをプレイするのか、で意見が一致しない

の内1と2の区別がよくわからないのですが、とりあえずそれは問題ではない気がするので1と2を合わせて考え、3との間の区別を考えます。

その次に挙げられた2つの視点
a あるゲームから別のゲームへの移行
b あるゲームのひとつの実装から別の実装への移行

はよくわかった気がします。ここで提示されている2つの視点のどちらかをとる限りは「水泳でも、野球でも、a)制御層が定義され切っているなら、定義内容に変更があった時は別のゲームへ移行することになるし、b)制御層に未定義部分があるならそれを定義する作業は実装ということになる」ということになると思います。



制御層という概念はまだ定義が与えられていませんので「ゲームの制御層は、そのゲームの未定義性を内に含むことはない」という定義を与えれば、myrtさんの主張は正しいということになります。というか、myrtさんはそれを踏まえて「制御層をこういう方向で定義しようと思っているのだけれどどうだろうか」と提案をしているのだと、僕は理解しています。

その提案を検討する上で重要なのは、その定義の仕方を採用すると、物の見え方がどう違ってくるか、物事をどういう風に整理できるか、という点だと思います。



まず、上の2つの視点だけが可能だと考えてみます。そう考えても、そもそもの問題は残る、という感じがします。(概念の定義の仕方を提案しているだけで、概念の分析をしているわけではないので当然と言えば当然なのですが。)

そもそもの問題、というのは、「制御層に未定義性があるゲームで、ゲーム中にその定義について意見が対立し、ゲームが困難になる」という(僕が以前示唆した)可能性です。

【実装とゲーム分析】制御層と未定義性をめぐるTRPGの独自性2002年02月06日で挙げたバサロ泳法をめぐる例で、その可能性を示唆しました。)

制御層には未定義性はありえないのだ、とmyrtさんの議論に沿って考えても、「バサロ泳法をこれまでの選手以上に活用した選手」が現れた時に、そのプレイを中断し、これまでの水泳競技とは別の、新しいゲームに移ろうとする審判が出てくることが考えられます。選手の中にも、他の審判の中にも、それが望ましいことであるかどうかについて意見の相違がある可能性があります。

それがどういう形をとるか、2つの視点それぞれについて書いてみます。

a)もしも制御層で決められている内容を変更するのなら、それはあるゲームの定義を変更したのではなく、あるゲームを中断して別のゲームを始めることにしただけだ(元のゲームの定義は変更されていない)というのがmyrtさんの意見だと思います。

この場合、「次に行うゲームをどのゲームにするか」(つまり「どういうルールを導入するか」)をめぐって意見が対立する可能性があります。

あるいはそもそも、「10m以上のバサロ泳法は別に禁止されていなかったのに、どうしてプレイを中断したのか?」という意見と「どうしてあのプレイが反則だという常識がわからないのか?」という意見が対立する可能性も、あると言えます。

これに関して、myrtさんは「野球をやるかサッカーをやるかの議論と同じ」「過去のルールに縛られる必然性がない」としていますが、オリンピックの水泳競技でバサロ泳法を活用した選手が優勝した後に、ルールを変更しようという動きが出たとして、「ルールを変更するのだからいっそのこと今後の水泳競技ではピンボールで決着をつけることにしようじゃないか」などという議論が出ることはかなり考えにくいと思います。競技の終了後ではなくて、競技中に、審判によるストップがかかって、ルールを追加した上で再開、となる場合にはなおさらそうです。

一般的に、ルールやデータの類について追加設定を行う際には、「何でもよい」というわけでもなく、かつ、「これしかありえない、という必然的な形で追加設定の内容が決められる」というわけでもなく、その中間にあって「でたらめではないが、明確な規則に厳密に従った作業でもない」ような形で設定を行うと思います。あるいはそうすることが期待されていると思います。制御層に何も未定義な部分がない場合には、「追加設定」は起こりえず、あるゲームを中断して別のゲームを開始するだけですが、その際の「移行」についても、どのゲームを開始することにしてもよいというわけではないし、特定のゲームを開始することだけが「正解」と言えるような確かな根拠が共有されていることも稀だろうと思います。

つまり、意見の相違が起こり、ある程度の議論が成立する余地があるわけです。(「何でもよい」のならあれこれと理由のつく議論にはならず、せいぜい交渉が成立する程度だと思います。これもこれで問題ですが。逆に「正解がある」場合には、その正解が採用されるので議論は成立しません。)

#ちなみにこれはTRPGのPCの行動も同じで、「何でもできる」わけでもなく「厳密に定められたことだけができる」わけでもない中で行動を発案していくのがプレイヤーの役目になっていると思います。


b)これに対して、もうひとつの視点によれば、制御層で決められていない物事について決めるのなら、それは「実装」(制御層を現実の文脈を考慮しつつうまく導入してゲームを成立させるための諸作業)であって、それは例えば「ゲーム中は飲酒は避けて下さい」とTRPGのGMからお願いがあるというような、ゲームにとって本質的ではない事柄だ、ということを意味する、ということだと思います。

バサロ泳法を活用する選手が登場したことで、ちょうど飲酒しながらプレイするプレイヤーが登場したことにGMが反応するように、「バサロ泳法は10m以上は使わないで下さい」という実装が導入されたのだと考えると、以前「制御層の定義が一致しないゲーム」として扱ったケースが成立すると思います。

「いくら制御層に何も断りがなかったからと言って、そんなルールを導入されたらそじゃあ別のゲームじゃないか。」と言い出す審判やプレイヤーがいる可能性があります。というのは、新しく追加されたそのルールが、実装上のルールではなく制御層の一部だと考える人がいる可能性があるからです。

全員が「これは実装上のルールだ」と意見が一致する保証があればよいのですが、「あるルールを追加したらそれが別のゲームになるのか、同じゲームの違う実装になるのか」についての判断は個々人によって違うと思われます。そこで、「実装上の問題で、ゲームにとっては本質的なことではない。論争はやめて早く競技を再開しよう。」という意見も「それは従来の水泳競技とは別のゲームを始めることだけれども、そのゲームをプレイすることに異存はない」という意見も、「それは別のゲームを始めることで、しかもその新しいゲームは今ここに導入されるべきゲームとは言えない」という意見もありえます。



以上から、制御層に未定義性はありえない、という形で制御層の概念を定義した場合でも、「自分達のプレイにおいて何が反則で何が手として扱われるべきかについて意見が分かれる」「何か意外な手の出現によって用意されたゲームに不都合が起き、ゲームを変更するか、その手をとらないように要請するかと考えてしまう」ような困難が生じる可能性があります。つまり、制御層に未定義性の残っているゲームというのがありえたとしたら、それをプレイする場合と同じような困難があります。

そう考えると、議論は少しややこしくなるかも知れませんが、制御層には未定義性がありえない、という規定を導入することには問題がないとも言えそうです。また、myrtさんの方に何か考えがあって(TRPGのゲーム性を記述する上で役に立つ形で定義したいと思っていて)提案されているだろうと思われるので、ここで定義の仕方にこだわるよりはその先の議論を見てから必要ならまた考えることにすればいいと思いました。



ちなみに、以上の議論で排されることになる見方(のうち重要と僕に思われるもの)は

視点c:あるルールを追加することが、制御層部分の変更ではあるけれども、「従来のそのゲームの欠陥の修正や未完成部分の作成で、そのゲームのあるべき姿の実現」だと考える

というものだと思います。制御層が変更されたらそれは別のゲームなので、同じ名称で呼んだり、同じゲームだと考えることは不適切だ、ということになります。「ゲーム核」の概念については一応こういう視点もありだとして来たのですが、それはそれで混乱の元だと感じていたので、「制御層」についてはそれは無しでやってみるというのも悪くない気がします。
2002年02月11日:09時01分28秒
【比較ゲーム分析】ゲームのプレイスタイル / トモス
#実装の話と離れてきたので識別子を変えてみました。

>>一回きりゲームは、「そのゲームで勝てば何をやってもいい、むしろするべき」という点に特性がありますから。<<*1

というmyrtさんの論旨はよくわかるのですが、別の考え方もあると思います。

例えば見知らぬ人と将棋が指せるような場所にふらっと訪れて(学園祭とか、町の将棋会館の類とか)一度だけ、知らない人と将棋を指す、という場合を考えてみます。ここでどんな勝ち方をしても、対局後に恨まれたりすることは なく、しかも対局の相手と後に顔を合わせる可能性すら皆無だとします。

で、この来訪者は「試合前にひとつ提案があるのですが、勝つためにはどんな手を使ってもいい、むしろそうすべき、というゲームをやりませんか?」と試合前に相手に持ちかけることができます。

そうではなく、来訪者は、「私は初心者なのでまだいろいろ勝手がわからないまま指しています。もしアドバイスなどがあったら、対局中でも教えて頂きたいのですがどうでしょうか?」と持ちかけることもできます。

あるいは、「いつもは守りを固めて相手をじらすようなことばかりやっているのですが、お互い積極的に責めに出て派手な試合運びを楽しんでみたいと思っているのですが、おつきあい頂けますか?」と持ちかけることもできます。

持ちかけなかったらどうなるかはわからないと思います。「自分は派手に責め合うようなゲームをやりたかったのに相手は勝ちにこだわるゲームをやりたかったらしく守りを固めて自分をじらして来た。自分はつまらないから勝たせてやることにした。」などということになるかも知れません。

もしも「そのゲームで勝てば何をやってもいい、むしろするべき」というのがゲームのマナーだとしたら、上の提案の内2つめ以降はマナーに反する提案なので、提案してはいけないし、提案された方も了解してはいけない、ということになるでしょうか。

あるいは、受け入れたと見せかけておいて、派手な試合運びを途中から止めてしまって、相手がそれに気づくまでの数手の間に自分の形成を非常に有利なものにしてしまう、ということが望ましいということになるでしょうか。

僕は「そういうマナーはあってよい」、とも「そういうマナーは存在する」、と思いますが、「そういうマナーだけが存在するべき」「そういうマナーだけが存在している」とは思いません。つまり、問題解決策・意見としても 事実判断としても、部分的なものだという印象を持ちます。

つまり、上に挙げた提案が(これほど明白にではないとしても)行われているし、それを受け入れてもいい、と思います。

参照:
*1 【実装とゲーム分析】マナーと繰り返しゲーム,myrt, 2002年02月08日:12時52分01秒
2002年02月11日:06時42分35秒
【制御層とゲーム分析】「同じゲームを一貫してプレイしていること」の意義 / トモス
(myrtさんの【制御層とゲーム分析】ゴブリン族退治ゲームと制御層2002年02月10日:10時23分04秒 へのコメントです。)

以前まとめ(*1)の方でも書きましたが、「実装」をめぐる議論はこれまで2つの文脈をほぼ同時に意識しながらやってきたと思います。ひとつは、他のゲームと比較した場合のTRPGの独自性は何か? という文脈です。もうひとつは、ゲームとは何であり、TRPGはどのような意味でゲームたり得る/たり得ているのか? という文脈です。で、まとめはひとつめの文脈の方に焦点をおいて書いたのですが、今回のmyrtさんの投稿は2つめの文脈を考えないとわからないかもな、と感じました。

とりわけ「ゲームたり得ているか」ではなく「ゲームたり得るか」の方ですね。つまり現状診断とか事実判断ではなく、可能性の摸索や解決策の提案の方。

TRPGがゲームの一種であるか、それともゲーム以外の 遊びなのかについてはいろいろな意見がありますが、 ゲームとしてTRPGを遊ぶことを考えた場合には、「自分の打てる手がはっきりしない」「手の効果が予想しづらい」「ルールや世界設定の全貌は誰も知らない」「ゲーム中に追加設定が行われるので、プレイヤーの戦略がそのせいで水泡に帰すようなこともある」など将棋やスポーツなどとはかなり違う部分が目立ちます。


「ゲーム核」の概念を使って、将棋とTRPGについて比較していた時に考えたことのひとつに、「ゲーム核が安定していれば、プレイヤーに要求される戦略的思考の内容も安定している。TRPGは他のゲームと比べてその安定性が低い」ということがあったと僕は理解しています。ゲーム核は、 打てる手にどのようなものがあるか、それらの手がどのように局面を変動させるか、他にどういう要因が局面を変動させるか、最終的にどういう局面に持っていったら自分の勝ち(目的達成)になるのか、などからなるゲームの本質的な部分です。この部分に変更があって、打てなかった手が打てるようになったり、ゲームの局面を変動させる新たな要因が追加されたり、勝利条件が変更されたりした場合には、それまでの定石が通用しなくなったり、ある長期的な戦略的見通しの下に体制を整えたり特定の資源を貯えたりしていたところがそれが無駄になってしまう、などといったことが起こり得ます。そして現にTRPGではそういうことが起こっているように思えます。(事実判断です)そうしてどうやら、そうした追加設定が全く必要のないTRPGのシステム・シナリオを準備することはできないのではないか、という話にもなっています。(ゲームブックのように選択肢を制限するとか、プレイヤーが発案した手の中でGMが事前に準備した範囲を外れるものについては「特に意味のあることは何も起こらなかった」などと対応することにすれば別ですが。)

制御層についてもこれはあてはまるでしょうか? 例えば制御層さえ一定していれば、テニスプレイヤーは、試合に勝つための戦略を立てられるとか、プレイヤーはPCが目的を達成するための戦略を立てられるとか、言えるでしょうか?

myrtさんの今回の投稿では、制御層が変わらなければ少なくとも同じゲームをしていると言える、という方向で議論を組み立てていますが、「同じゲーム」=「同じ戦略的思考が通用するゲーム」と言えるかどうか、がひとつの考えどころかな、と思いました。

あるいはmyrtさんの方では既に見通しがあって僕の思考がそこまで届いていないだけかも知れませんが。

参照:
*1 トモス 【実装とゲーム分析】中間まとめ(1):TRPGと将棋の比較分析 2002年02月01日
2002年02月11日:05時52分37秒
【実装とゲーム分析】Re:制御層をめぐる曖昧さ / トモス
遅れ馳せながら、Purpleさんとmyrtさんの議論されている、「実装」の意味(実装概念の定義)や「制御層」の意味について、僕の考えていることを書いてみます。

#2000年末にここで行われていた議論のログは僕もやや丁寧に読みましたので、Purpleさんとmyrtさんの行き違いが多いようだとは思っていました。僕に橋渡しのようなことができるといいのですが。。

母集団という言葉でmyrtさんがどういう対象を意識されているのかはわからないですが、野球なら野球、将棋なら将棋についての「ルール、データ」(つまり設定・決定されている事柄)を考えた時に、
一部のルールやデータはゲーム核領域に属し、
一部のルールやデータはそれ以外の、ゲームにとって周縁的な領域に属す

と言えると思っています。
どちらにも属さないルールやデータ、というのはないと思っています。

但し、具体的なルールの条文をとってきて、「これはゲーム核に属すのか核の外に属すのか」というかたちで問題にしたら「両方にまたがる」ということになるものはあるとは思います。これは考察を進める上で問題になったことはなかったと思いますが。

また、野球なら野球に関係のないルール、たとえば「廊下は走らない」とかいうのはそもそも話題にならないので「母集団」の外、という風に言えるでしょうか。
僕が母集団という言葉を使うとしたらそんな風に使うと思います。

ゲームに関係のある諸設定がそのように分けられるとして、プレイヤーの「行動」も同様に分けられるし、GMや「審判」の行うあれこれの判断や処理も同様に分けられる、と考えてきました。

ちなみに、「ゲーム核」と「ゲームの周縁領域」とか「本質的」と「周縁的」という類の言い方を試しています。Purpleさんのリクエストとはちょっと違ってしまいますが、僕はこの方がしっくり来るようなので、特に問題が ないようなら当分これでやってみたいのですが、構いませんか? >Purpleさん 



制御層については、まだ定義がない状態で僕も手探りでやっている感触が強いのですが、考えていることを書いておくと議論が楽になりそうなのでやってみます。

まず「制御層はネットワーク」というmyrtさんの意見はちょっと考えたことがありませんでした。

これはゲーム核と同じような意味で、「勝利条件を達成するために何をすればよいか、何をしてはいけないか」といったプレイヤーにとっての選択肢で構成されるネットワークとして考えていいでしょうか?

あるいは審判の判定・処理作業の流れを示すフローチャートのようなものでしょうか?

僕はゲーム核についてはある時は分類のカテゴリーとして、ある時にはネットワークとして扱って来たのですが、制御層についても同様のことがあてはまるのではないかと考えて来ました。

myrtさんはまたmyrtさんの考えがあって制御層をどう定義するべきかについて意見があるかと思うのですが、参考にはなると思うので、どうしてゲーム核をそういう風に扱ってきたかを説明してみます。



ゲーム核はネットワークとして描ける(それを強調するために「ゲームの構造」という言い方をしたりもしてみましたが)わけですが、同時に、ある領域というか分類のカテゴリーでもあります。用語を分けた方がいいように感じたこともありますが。今まではそんな風に使ってきました。

特定のルールや設定データが「ゲーム核」に属するとか、ゲーム核の外である「周縁領域」に属するとか言えるのは両概念が分類のカテゴリーだからです。

ルールや設定データだけではなくプレイヤーのとる行動も、「手」(=ゲームにとって正当な行為)「反則」や「その他のゲーム外の行為」(この2つはゲーム外の行為)という形で分け、手はゲーム核に、それ以外は 周縁領域(当時の言い方では「実装」)に属するもの、としてきました。

また、ゲームの進行中に発生する問題も、それがゲーム核部分に属するルールの曖昧さにまつわるもので、ネットワークとしての構造を変動させる可能性のある問題なら「ゲーム核に属する問題」として、逆にゲーム核外のルールの運用や未定義性を扱うものであれば「周縁領域に属する問題」(当時の言い方では実装領域に属する問題、あるいは実装上の問題)と考えて来たと思います。

ネットワークを「システム」として考えることもできます。システムは要素とその関係からなるものとされることが多いですが、そのような意味でのシステムです。
構成要素はネットワークはゲームの「局面」です。
関係にあたるのが「他のどの局面から移行してその局面に辿りつく可能性があるか」、「他のどの局面へ移行して行く可能性があるか」を基準とする局面間の関係です。

「可能な局面」と「局面の変動規則と初期状態」(Purpleさんのまとめ方)を規定するのは、もう少し具体的には「可能な手」「手の効果」「その他のゲームの要素の影響」にまつわるルールや設定だと思います。

このように定義すると、「行動」や「問題」はシステムとしてのゲーム核の構成要素ではないです。また、「ルール」「設定データ」など(野球なら野球というゲームについて定義されている事柄)も別に直接の構成要素ではありません。構成要素はあくまでも局面であり、その局面にどのようなものがあるか、及び諸局面がどのように関係するか、を規定するのがルールや設定データだと思います。

だから厳密には「ゲーム核にまつわる」行動や問題、「ゲーム核を規定する」ルールや設定という言い方にして「ゲーム核に属する」という言い方はやめた方がいいのかも知れません。が、いずれにせよ、「ゲーム核」と「周縁領域」とが「行動」「問題」「ルールや設定」を2分するための概念として使えることにはそれほど変わりがないと思います。

制御層にも同じことがあてはまるかな、と思います。
制御層をネットワークとして描いた場合には、ルールや設定データなどは厳密には「構成要素」とは言えないかも知れませんが、制御層に関わるものと、そうでないもの(制御層と区別される「実装」の領域にまつわるもの)、という風に分類はできるだろうと思います。
2002年02月10日:17時23分09秒
TRPG総合研究室 LOG 088 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 088として2002年01月29日から2002年02月10日までのログを切り出しました。

 告知:2002年02月04日に簡易掲示板利用マニュアルを更新しました。簡易掲示板についてにて、修正点などの告知がしてあります。もし読んでいなければ「必ず」熟読ください

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