TRPG総合研究室 LOG 105

TRPG総合研究室の2002年08月15日から2002年12月20日までのログです。


2002年12月20日:01時38分33秒
【複雑性の比較ゲーム分析】複雑性と経験則 / myrt

(Re:2002年12月09日:06時04分10秒【複雑性の比較ゲーム分析】ゲームだと 信じられる遊びとしてのTRPG、信仰の根拠 / トモスさん)

 マインスイーパの中盤戦は、そのワンミスで失格となる性質から、「有利な戦略」ではなく「不利でない戦略」を選ぶゲームであると思います。1つ開けるマスを選ぶたびのミス率をpとすると、aマス開くまで1度もミスしない確率 は(1-p)のa乗となり、pが0.01(1%)であっても69マス目で累積ミス率は0.5(50%)を超えます。熟達により累積ミス率が十分に下がったときの(速度を競わない)マインスイーパは「ゲームではない」と言えそうですが、これはもはやギャンブル性を除けば複雑性を持たないと思います。

>>と同時に、そのような信仰に疑問を投げかけることも可能です。言葉にしたり厳密な分析をせずに何となく習い覚えたテニスのフォームが非常に不味いものである、というようなことはしばしば起こります。 <<

 しかし我流のフォームは、テニスを初めてプレイする、かつ全く事前知識を与えられない選手のフォームに比べれば、高い成績を挙げることがより期待できるという意味において優れています(矯正が難しいという観点からは劣っているかもしれない)。どれだけ勝率が期待できるかと、どれだけその戦略が最適の戦略と似ているかは、必ずしも一致するとは限りません。

 ところがこの経験則なるものが曲者であるのはご指摘のとおりです。身近な学習アルゴリズムとしては漢字入力システムがありますが、故意に第一候補に適切な漢字を挙げさせないように偏った学習データを与えることは比較的簡単ですし、TRPGにおいても「ゴブリン退治の定石に慣れたころにラストモンスターの洞窟に放り込む」ような故意のひっかけは常套手段です。

 システムの本質が極めて複雑でも、その複雑である事実が既知であるならば、「軽々しく断言できない」ことを判断できると思います。経験則が裏目に出るのは、システムの本質の複雑さよりもひっかけ構造になっているか否かのほうが効くように思います。将棋の中盤戦において「とりあえず3-5手先までしか読まなくて良いから、なるべく手駒を増やす」という戦略が裏目に出ない保証はありませんが、複雑性のために他の手がかりが全くつかめず、その戦略を取らないよりは取ったほうが勝率が高まることが期待できるなら、工夫が可能であると思います。
#相手が一枚上手で逆手に取られることもあるが、その逆手にとられる可能性に関する情報すらないと仮定。
2002年12月09日:06時04分10秒
【複雑性の比較ゲーム分析】ゲームだと信じられる遊びとしてのTRPG、信仰の根拠 / トモス
またしても大変間があいた投稿になってしまい申し訳ありません。

1)経緯


複雑性と検証不可能性(観測不可能性)についての考察は一段落ついたとは言い難い状況にあるので、もう一度その点について議論を進展させてみます。

今年後半の議論は、【複雑性の比較ゲーム分析】工夫の余地の尺度(2002年07月16日:20時48分24秒, TRPGLABO LOG 104)の冒頭に挙げた3つの問題、「工夫の測定方法」、「構造把握とゲーム性」、「近似」についてのものになっています。ここ最近の投稿で扱っている複雑性や観測不可能性は、「近似」についてのものです。

2)問題

問題の定式化は 【複雑性の比較ゲーム分析】実態主義と観測の問題(2002年08月07日:03時01分05秒, TRPGLABO LOG 104)にある通りです。

一応もう一度言い換えてみると、マインスイーパーの中盤戦や将棋の中盤戦やTRPGにおいて、「工夫」はどのような役割を果たしているのか、という疑問があります。

工夫によって勝敗が左右されるような仕組みが遊びに備わっている(ルールやデータ設定などの構造的特性からそういう仕組みになっている)のだとしたら、その遊びは文句なく「ゲーム」だと言ってよさそうです。「ゲーム」というのは、「目的を達成すべく工夫を重ねることを楽しむ遊び」を指します。

ここで、「工夫」というのは、プレイヤーが与えられた情報を合理的に処理して、正しい理由によって、優れた手を発見・判別する(手の優劣を判断する)という行為です。

(これまで何度か繰り返してきた点ですが、より優れた手を打つことは勝率を上昇させることにはなりますが、必ずしも勝利自体をもたらす保証はありません。また、自分がちょうど打とうと思っていた手の有利さを改めて確認するというような思考も、何か新しい手の発見にはなっていないものの手の有利さのより的確な認識に結びついたという理由で、工夫だと考えることになります。)

このような意味での工夫が果たしてマインスイーパーの中盤やTRPGにあるのかどうか、疑問を投げかける余地がある、ということについてはmyrtさんと僕の間では一致を見ているように思います。

マインスイーパーでは、中盤のある局面においてどの手を打つ(どのマスをクリックする)のが最も有利なのかを考えながらプレイするプレイヤーは余りいないように思われます。また最適な手を見つけるのでないとしても、2つか3つの「何となくよさそうな手」の中から最も優れたものを選ぶ、というようなことも行われていないように思えます。

マインスイーパーから時間の要素を抜いて、「最短クリック数でクリアすることを目指すゲーム」にした場合、特にその傾向が顕著だと言えそうです。

これを更に一般化して、「複雑性」がある遊びは、工夫の余地があるかどうかがわかりにくい、(=ゲームであるかどうかがはっきりしない)と言えます。

そもそも工夫にあたる行為が行われていないように思われ、ゲームではないようにも思われます。マインスイーパーも終盤になると手の優劣を判別できるようになり、ゲームらしくなるのですが。

ここで、「複雑性」とは、ある局面または遊びで、手の総体と、それらの帰結の総体について、普通の人間の思考能力では把握できないような性質を指します。

もう少し厳密には、10月11日づけの投稿の「3−1)複雑性の2つの形式(暫定版)」で提案した「組み合わせの複雑性」と「構成要素の複雑性」(有限の複雑性と無限の複雑性)の内、組み合わせの複雑性がマインスイーパーに備わっているものです。

TRPGの場合、上記のような複雑性に加えて、検証不可能性ないし「構成要素の複雑性」としてきたものがあります。TRPGでは、複雑な世界を複雑なままに扱おうとする傾向があり、多くの局面で、そもそも「選択可能な手の総体」が把握不可能です。ある局面で何ができるのかについて、マインスイーパーや将棋であれば数え上げることができるわけですが、TRPGではそれができないと言えます。

そこで、ある手と別の手の優劣を比較しようにも、「次の局面で打つ手、その次の手などをどうするかによってどちらが有利かは全然違ってくるし、それらを総合して評価することはできない。」というような形での限界に突き当たります。

ちなみに、上記の暫定的な複雑性の分類を補足したいのですが、一部のコンピューターゲームでは、扱われている変数やそれらの間の関係は有限であることがわかっているにも関わらず、それらについての情報が公開されていないために観測不可能性が生じます。「このシステムでは、どうやらこの場面で他のキャラクターと会話をすると、後の場面で待ち伏せに遭う仕組みになっているような気がするのだが、そうではないかも知れない。」など、どのような変数があるのか、どのような「変数の間の関係」があるのかがわからず、かつ、その可能性が無限に考えられるために、実質的に「構成要素の複雑性」「無限の複雑性」と呼んだものと同じ事態が生じます。これを「非公開性の複雑性」「無限の可能性の複雑性」と名づけておくことにします。余りいい名前ではないかも知れませんが。

3)今回の論点:遊びの分類と「合理性への信仰」

以上の問題について、これまでの議論を一歩進めて、ある種の解決策のようなものを提案してみたいと思います。


複雑性がない遊びにおいては、その遊びに工夫の余地があるかどうかが明らかであり、プレイヤーは自分のプレイが工夫になっていたかどうかをプレイ後に検証することが可能です。つまり、自分のプレイが与えられた情報の合理的な処理を含み、その結果、手の優劣の判別に役に立つような知見に結びついたかどうか、を検証することができます。

これは「明らかにゲーム」「明らかに非ゲーム」のいずれかに分類できるような遊びだということになります。

これに対して、複雑性のあるゲームでは、そのような検証ができないものとします。(ある程度なら検証ができると考える論拠をmyrtさんが直前の2つの投稿で指摘しているのを汲み取りきれない形になってしまい申し訳ありません。)

そこで、これは「明らかにゲーム」「明らかに非ゲーム」のいずれにも分類できない遊びだ、とします。

その代わり、「ゲームだと信じられる遊び」と「ゲームでない信じられる遊び」「ゲームであるともないとも信じられない遊び」という3つのカテゴリーを追加します。

そしてTRPGやマインスイーパーの中盤戦を「ゲームだと信じられる遊び」に分類する理由として、次のようなものが考えられると思います:

人の思考は、本人が自覚していて、言葉で説明できるよりもずっと合理的に思われる面があります。あるゲームをプレイしていて、「何故かわからないがこの手がよさそうだ」と思いついた手について、よくよく考察・分析を重ねてみたら、実際に非常に優れた手だった、というようなことは実際起こります。

身体動作については特に、この傾向が顕著です。どのように身体を動かすことが自転車の安定した乗り方に結びつくのかを言葉で説明し、他の乗り方よりもどうしてその特定の乗り方が優れているのかを立証することはほぼ不可能だろうと思われますが、多くの人は多かれ少なかれ似たような乗り方を習得してしまいます。習得した人もまた、その乗り方がどうして他の乗り方よりも優れているのかをうまく言葉にしきれないことになります。

そこで、言葉では到底説明しきれないような複雑な状況に直面しても、人間はその複雑性を合理的に扱い、優れた手を発見・判別しているのだ、ただ、その判断も、言葉で説明しきれないような複雑なものなのだ、と信じる根拠があると言えます。少なくともある程度は。TRPGやマインスイーパーにおいてもそれが起っている、と信じることも可能です。

と同時に、そのような信仰に疑問を投げかけることも可能です。言葉にしたり厳密な分析をせずに何となく習い覚えたテニスのフォームが非常に不味いものである、というようなことはしばしば起こります。

そこで、複雑な状況に直面すると、人間は判断を誤る、つまり工夫をし損ねるものだと考えることができます。たまにうまく行くことがあるとしても、それは偶然うまく行ったのであって、「与えられた情報の合理的処理」「正しい理由による優れた手の発見・判別」などは起っていない、つまり工夫になっていないのだ、と考えることができます。ここから、TRPGについても、工夫の余地が全くない遊び、「非ゲームであると信じる」根拠がある、と言えます。少なくともある程度は。

もちろん、2つの立場のどちらにもある程度分があると考えて、TRPGは「ゲームであるともないとも信じられない遊び」だと結論することもできます。

4)要点

以上の議論の要点をまとめます。


複雑性のある遊びは、「明らかにゲームである遊び」でも「明らかに非ゲームである遊び」でもない、と言えるように思います。プレイヤーのプレイに工夫が含まれているかどうかは、プレイヤー自身にとっても不明瞭なままに留まります。ただ、プレイが工夫を含むと信じることはそれほど過激な考え方ではないような気がします。と同時に、プレイが工夫を含んでいないと信じることも、あるいは、含んでいるか否か、どちらとも言えないと考えることも、できるように思えます。

5)補足

今回の投稿は、myrtさんの8月14日付けの投稿【複雑性の比較ゲーム分析】ジンクスとOR (TRPGLABO LOG 104)の次の一節を敷延したものです。

>>ゲーム核が検証不可能である場合は、ゲーム核(??)がゲームの構造を持っていないことも検証不可能であるはずです。であればそれがゲームでないと断言することもできないわけですから、「ゲームと呼ぶには相応しくない」というのは少し違うのではないでしょうか。同様に、実態が検証不可能であれば何が工夫であるかも検証不可能であるし、それで良いと思います。<<
2002年10月18日:21時25分02秒
訂正:ノリ重視プレイは愚かなプレイとは限らない / myrt
 前の書き込みだと、ノリ重視プレイ=愚かなプレイになってしまいますね。 たまたま私の経験したノリ重視プレイが、喜んで愚かなことをするプレイだった だけです。誤解を招くような書き方をしてしまい申し訳ありません。
2002年10月18日:21時20分57秒
【比較ゲーム分析】「有効な工夫であったことにしてしまう」疑似TRPG / myrt
 前回の考察を進めて、参加者の工夫の試みを工夫だったことにしてしまう システムが実現可能であるかを考えてみます。

 参加者が5-6人であるが、全員がGMとPLの役割を兼ねるとします。 ここではPC達は1人であるか、全員が同じ目的を持った1パーティーの構 成員であるとします。

 無茶な仮定ですが、参加者の価値観は(そのプレイ範囲において)同じであり、 様々な提案を同様かつ即座に評価できるとします。要するに「これが一番 良い提案だ」という判断が必ず一致するとします。

 まず最初に、PCの目的、置かれた状況を定義します(便宜上のGM役を決めて も良い)。ただし、PCにとって未知である状況はすべて未定義であるとします。

 次に、その状況からPCがどの戦略を取るのが良いかを全員で検討します。 これが工夫の試みで、「ゲームのプレイ」にあたります。十分に検討し て「一番良い提案」を決定し、その戦略をPCが選んだことにします。

 次に、その戦略が順当にむくわれるように、未定義であった状況を定義 します。取るべき戦略を検討する段階でPCが直接知ることができない未公 開部分についての考察はなされているはずなので、戦略を選んだ時点でかなり の部分が自動的に決まるでしょう。しかし次の戦略を選ぶ際に重要である 状況は必ずしもその前の段階では必要ない(ために決定されるとは限らない)ので、 ある程度はまた適当に定義せねばなりません。

 そして得られた新たな状況を元に、「ゲームのプレイ」を行ないます。この 過程を繰り返し、終了状況になった時点で終了します。

 このシステムは観測主義の立場から、観測に対して妥当な実態を作っていけ ば、「ゲーム」ができるのではないか、と考えて組み立てました。またプレイ中に 状況の妥当性について議論となり、最も「らしい」状況をGMが採用する過程は ゲーム性重視プレイにおいて良くあるので、それを極端にしたモデルも想定しました。

 ...似たようなプレイをしたことがあります。「ドラゴンハーフ」で極端 なノリ重視プレイで。PLが愚かな展開を期待して愚かな戦略を選び、GMが それに口を挟むのはさらに愚かな展開にするときだけでした。
#もしかすると特殊なプレイだったかもしれません。それしかこのシステムの プレイ経験がなくて...

 つまり、ノリ重視プレイも、ゲーム性重視プレイも、必要に応じて、 参加者が納得できるように未定義部分をリアルタイムで定義できるシス テムを欲している、という点においては同等である、ということでしょう か。「工夫を試み、(それが正しければ)むくわれるべきだ」「愚かな戦略を取り、 目論見どおり愚かな展開を招くべきだ」という方向性の違いがあるだけで。
2002年10月16日:18時58分15秒
【比較ゲーム分析】すでに工夫の定義で必要十分なのでは?? / myrt
(Re:2002年10月11日:01時52分55秒【比較ゲーム分析】複雑性と 未公開要素の対比 / トモスさん)

>>基本的な疑問は、例えば、囲碁をプレイしているのに五目並べのつもり で戦略を練っている場合にはそこに「工夫」があるとは言えないのではな いか、−プレイされているゲームに照らして、その勘違いプレイヤーの行 為は工夫になっていないと考えるべきなのではないか、という類の疑問です。 <<

最初はその勘違いが(だまされるなどによる)確信によるものなのか、 未公開性に対抗するために既知のゲームの情報を参考にできることを 期待してのものなのかの相違が重要なのではないかと思ったのですが、 考察の結果、「結局工夫の余地があったのか」に帰結されるように思います。

 まず「その勘違いが問題となる可能性はどれだけか、またその影響はど の程度か」の問題があります。囲碁をプレイしているのに五目並べのつもり であって致命的であるのは、ほぼ確実にその相違による問題が発生し、さら に影響が致命的であるからです。しかし草野球のローカルルールに関する 勘違いなどでは、影響が少なかったり(1点差をひっくり返す程度の影響で あったが実力差により10点差があったとか)、たまたまプレイを通じて1度も問題 が発生しないこともあります。
#勝敗をひっくり返すか否かより、「不利なルール適用をされたほうが負けた か」のほうが精神的影響が大きい気もしますが。

 次に、「そのルールが問題となった際に、それぞれの主張するルールが 受け入れられる可能性はいくらか」の問題があります。例では「プレイさ れているのは囲碁」とされていますが、逆に「五目並べをプレイしている のに、相手が囲碁をプレイしていると勘違いしている」と見ることもできます。 草野球の場合、「両チームの意見が一致しているのに審判が横槍を入れ る」ことは滅多にありません。審判が存在しない場合はさらにこの問題は顕著で す。TRPGにおいては未定義性のために、状況認識の違い問題は日常茶飯事です。

 例えば「これが囲碁か五目並べかじゃんけんで決めよう」となったとすると、 それぞれの場合の工夫の余地が50%の割合で存在するシステムになるでしょう。 採用されなかった側の挽回が不可能であれば、単なる運試しとなるでしょう。 しかし草野球のローカルルール程度の勘違いであれば、大抵の場合に工夫の 余地は存在すると考えられます。
#囲碁の例は挽回可能だとしても中止してやりなおせ、という話もありますが。

>>ここで例えば、イカサマによって特定のカードが多く使われていたりした場合には、 もはやその遊びで有利な手とそうでない手を判別するための情報が騙されている方の 遊び手には与えられていないことになります。<<

 ブラックジャックにおいて 絵札が1枚減らされていたとすると、最善手が変化するかもしれません。しかしこのことによる 不利を被るためには、1枚単位で確率計算をせねばなりません。全くの初心者が それなりの手を考えるまでの工夫であれば、十分にその余地があると思います。

 このように「最善手は変化するかもしれないが十分に工夫の余地が残る」ような ルール勘違い補正は、TRPGの状況認識の違い問題を許容するために必要な概念である と思います。また、GMのスクリーン裏のシナリオ補正問題も。

 一般のゲームにおいては、このようなルール勘違いによる工夫の余地の影響は、
複雑性のために分析が困難です。しかし、TRPGにおいてはむしろ比較的容易なので はないでしょうか??

 なぜなら、もう片側のルールを採用した場合にどんな処理をしたかを検討 し、再現することができるからです。TRPGの性質上、その再現は実際のプレイと 似た構造を持ちます。「だから有利/不利だった」という結論が 出たとすれば、実際にはその逆であった可能性は低いでしょう(何故なら、 同様の思考を経て参加者が処理するだろうから)。

 TRPGは、参加者が工夫だと思ってプレイしたことを、そう思ったという理由から 実際に工夫にしてしまう(勝率を高める)場合があり、それが他のゲームと異なる と思います。
2002年10月11日:01時52分55秒
【比較ゲーム分析】複雑性と未公開要素の対比 / トモス
工夫と勝敗を切り離せるかどうか、というmyrtさんの問いは問題をうまく捉えていると思いました。そこでこの問いについて、更に考えてみました。やや昔の議論を引っ張り出して動員する形になるので、労を惜しまずに再記述するようにしたのですが、結果として今回も長くなってしまいました。

1)問題

基本的な疑問は、例えば、囲碁をプレイしているのに五目並べのつもりで戦略を練っている場合にはそこに「工夫」があるとは言えないのではないか、−プレイされているゲームに照らして、その勘違いプレイヤーの行為は工夫になっていないと考えるべきなのではないか、という類の疑問です。

言い方を換えると、プレイヤーの経験内容や行動(思考)だけを基準に工夫を定義するのではなく、プレイされているゲームがどのようなものであるかも含めて定義をしようとしているわけです。

何故このような形で工夫を定義したいかと言うと、いわゆる実態主義の立場を成立させるためです。ある遊びがプレイヤーに工夫の余地を与えるようなものであればその遊びをゲームと呼び、そうでなければゲームでないとする、というのが実態主義の立場ですが、この立場は、工夫の余地が、かなりの程度、遊びのルールや設定によって決ってくるものだと考えます。つまり、部外者の立場からも比較的観察しやすい要素をもって、ある遊びがゲームになっているかどうかを判断しやすい立場です。(それと対照的な立場として、「ゲーム」は遊び手がある特定の感覚を抱いた時に成立するものだとするものが考えられます。これはいわばプレイヤーの主観という部外者には必ずしも観察しやすくない基準によるゲームの定義です。)

ここで基本的な手がかりになるのは、実態主義と乱数要素の関係について行ってきた議論、乱数要素の含まれる遊びにおいてどのような工夫がどのような形で成り立つのか、という考察ではないか、と前回の僕の投稿では示唆しました。ですが、考えていく内にもうひとつ別の議論、「未公開要素」についての議論と関係が深いと考えるようになりました。設定内容の一部がプレイヤーに対して公開されていない場合(軍人将棋における対戦相手の駒の布陣、多くのカードゲームにおける他のプレイヤーの手札、TRPGにおけるシナリオのプロット、などを念頭においています。)

2)未公開要素がある遊びにおける工夫

これまでの議論の要点を非常に簡単にまとめると、未公開要素がある場合には、その未公開部分がどうなっているかについて、可能性の総体が明らかになっていれば、それに対する手の摸索ができる、という点にあります。もしこの部分の設定がAなら手Xがよい、設定がBならYが、CならZがいいだろう、といった思考が可能です。ここから、設定内容がどうであれ決して役に立たない手を避ける、それぞれの場合のリスクやメリットを考慮して手を選ぶ、もしも設定内容がどうなっているかについての確率分布が明らかになっていたら(Aである可能性が55%、Bである可能性が32%、Cである可能性が13%などと)その確率データを元に最も確率の高い設定内容に対応した手を選ぶ、などということができます。これらは工夫と呼べるだろう、ということで一致して来ました。

工夫の基本的なイメージは、実態を的確に把握して、その把握に基づいてよりよい手を探す戦略的思考、といったものですが、ここでは未公開要素の内容がどうであるかの可能性の総体が情報として与えられている必要があります。例えばカードゲームや軍人将棋であれば、どのようなカード・駒がありうるか、それらがそれぞれ何枚あるのか、といった情報は往々にして与えられています。

ここで例えば、イカサマによって特定のカードが多く使われていたりした場合には、もはやその遊びで有利な手とそうでない手を判別するための情報が騙されている方の遊び手には与えられていないことになります。そこで(実態主義の立場からは)その遊び手にとっては、その遊びは工夫の余地がなく、ゲームとは呼べない、という風に考えるわけです。

3)複雑性の問題との対比

未公開要素については、工夫ができる条件として、未公開要素がどのようになっているかについて、その可能性の総体が明らかになっていること、が重要だとこれまでの議論では考えたのに対して、複雑性の問題は、「可能性の総体が明らかになりえない」ところに発生するものだと言えます。ということは、例えば、「設定内容はAかも知れないし、Bかも知れないし、Cかも知れないが、それらいずれでもない、何か自分が予想していないものかも知れない」といった形で、常に把握しきれない部分が残る、ということが言えると思います。

これを、今回の投稿の焦点になる問い「工夫と勝敗は切り離せるか」という問いについての議論にすると次のように言えると思います:

2つの手の間の優劣を判断するためには、その手がもたらしうる帰結の全てを比較する必要がある。未公開要素の内容がどうであるかについていろいろな場合分けによって考え、手の比較をすることで、手の優劣を少しでも解明することができる。従って、工夫は少しでも有利な手の選択に結びつくものだと言える。それが不可能だとしたら、工夫はもはや不可能だろうか。もしも工夫が可能だとしたら、それは工夫を重ねることが有利な手の選択に結びつかない、ひいては勝率の上昇に結びつかないということなのではないか。例えば、より劣った手に至るような思考を、工夫と呼ぶことができるだろうか。

3−1)複雑性の2つの形式(暫定版)

まず、複雑性について2通りの形を、議論の便宜上、区別することにします。

ひとつは、ある種のパズルに見られるような、「手とその帰結の関係の総体が、情報が公開されているにも関わらず、把握可能ではない状態・性質」です。これはこれまでの用語で言うと、ゲーム核が公開されているにも関わらず、その全容を把握することができない状況です。

例えば、詰め将棋やフリーセルなど、パズルの類では、しばしば、最適の手を選ぶのに必要な情報は全て公開されているにも関わらず、最適の手が何であるかはプレイヤーにとって必ずしも明らかではありません。

ある種のパズルは、考える内に特定のパターン(必勝手)が見つかる、などといった形で、少なくとも目的を達成するのに必要なゲーム核の全容は把握できることになります。そうでないパズルもあり、ある手が優れた手なのではないかと考えつつもその理由が完全には説明できない、といった状態のままでプレイが終了します。何が何だかよくわからないが、あれこれ試行錯誤していたらパズルが解けた、といった類の経験をするのがこの場合です。

例えばある詰め将棋の新しい、より優れた解が100年以上も経ってから発見されたというmyrtさんの指摘した例を考えると、その詰め将棋はこの種類に属すと考えてよさそうです。

詰め将棋では推論に必要なルールや設定データは全て公開されていると考えることができます。プレイヤーはそれらを適用しさえすればいいわけです。コンピューターにしらみつぶしに計算させたら解が見つかる類の問題だとも言えます。ですが、その問題のややこしさが普通の人間の把握能力を超えていると考えられる場合があるわけです。

このように情報が公開されているにも関わらず全体が把握できない状況というのは、更に言い換えると、「全ての可能性を数え上げることは原理的にはできるはずなのだが、現実問題としてはやっていられない」と感じるような類の状況だと思います。


複雑性のもうひとつの形態は、TRPGに典型的に見られるように、情報の全面公開が原理的に不可能な遊びです。ゲーム核に未定義性がある、としてきた類の遊びがこれにあたります。TRPGと並んでこの種の遊びとして考えられるものに、スポーツがあります。他に、ディベートの類も、遊びの一種だということにするなら、ここに属します。

これらの遊びにおいては、「とりうる手の総数やありうる局面の総数が無限であり、かつそれらを統べる単純な法則がないために、その全貌を把握することができない」という性質があります。

ここで重要なのは、無限性は必ずしも複雑性を意味しない、ということです。これまでにも何度か議論した点ですが一応、似たような例をひきつつ書いておきます。

z=ax+by+c という方程式を扱い、複数のプレイヤーが順番に、xとyに任意の実数を代入し、マスターにzの値を計算してもらい、実数の値であるa、b、cを最初に当てたプレイヤーが勝ち、というゲームを考えます。プレイヤーが打てる手(xとyに代入する2つの実数の組み合わせ)は無限にあります。そこで、このゲームではゲーム核を完全に描き切ることはできません。ですが、実際にはゲーム核の構造を単純なパターンに置き換えて扱うことができるために、全貌を把握できないということはありません。

TRPGやスポーツなどでは、キャラクターの言動や、プレイヤーの身体動作などについて、単に無限の可能性があると考えられるだけではなく、それらが単純なパターンに置き換えられる類のものではないために、全貌が把握できないものになっている、と言えます。これは、最初に挙げた詰め将棋に見られるような複雑性とは違って、コンピューターに扱わせることが困難なタイプの複雑性です。

あくまで暫定案ですが、前者を組み合わせの複雑性、後者を構成要素の複雑性、と呼んで区別することにします。それ自体としては単純なルールを組み合わせると複雑になるのが前者の複雑性で、そもそも複雑な要素(自然言語、身体)をゲーム内に採り入れていることから来るのが後者の複雑性のようなので、差し当たりこう名づけてあります。

有限系の複雑性と無限系の複雑性、という区別も成り立つような気がします。

3−2)組み合わせの複雑性と未公開要素の対比

組み合わせの複雑性の含まれた遊びは、コンピューターを動員すれば最適解も見つかるかも知れないし、ルールや設定内容に未定義性はないようなものです。そこで、ある2つの手の間の優劣も、原理的には、比較可能なはずだということになります。ところが、実際にはそのような比較は通常の人間には不可能で、半端な比較を行った場合には、不利な手を有利だと思い込んでしまうような場合もありえます。

不利な手を有利な手だと思い込んでしまうこと自体は、未公開要素を含む遊びでも起こり得ます。あるプレイヤーが、与えられた情報を最大限活用したところ、実際には最も不利な手を有利だと結論し、その手を採用することになる、というようなことが考えられます。ですが、このような仕組みになっていて、工夫によって勝利を少しでも確かなものにする余地がないとしたら、その遊びはゲームではない、ということになります。

組み合わせの複雑性のある遊びは、このようにプレイヤーを不利な手に導くような「仕組み」は備わっていないように思えます。ただ、考えれば有利な手がわかるような仕組みもないわけです。ということは、優れた手の摸索自体に、常に運試しの要素が含まれていて、運がよければ有利な手が、運が悪ければ不利な手が、有利であるように思われてくる、という面があります。

ですが、複雑性のある遊びは、全てが運に支配されている遊びとは少し違うような気がします。つまり、全くでたらめに手を選んでも、よくよく考えても、結局のところは運に支配されて終わるだけの遊びであれば、それは運試しの遊びであり、ゲームではないと言ってもいいと思うのですが、実際には考えて手を選ぶことは、往々にして有効であるように思われます。

これ以上踏み込んだ考察はまだできないようなので、今回もかなり中途半端ですが、ここでひとまず投稿します。
2002年09月29日:16時27分01秒
【比較ゲーム分析】工夫と勝敗は切り離せるか / myrt
(Re:2002年09月27日:12時08分52秒【比較ゲーム分析】実態主義にとっての複雑性と観測 不可能性の問題 / トモスさん)

 私もまとめを投稿しなくてはいけないな、と思いつつついつい放置してしまいました。 いつもトモスさんに頼ってしまって申し訳ないです。

 私の視点からトモスさんが述べられた他のトピックについて触れてみます。

 大本の「TRPGはゲームか」という疑問に対しては、「TRPGをゲーム性を無視して楽し むこともできるから、ゲームとイコールではない。 しかしゲームを含むことができるため、ゲーム性を楽しむことも可能である」という 結論が得られたと思います。ここではまだ「工夫」の概念につっこんだ議論はなされて おらず、まだゲーム性は「将棋や野球などの一般にゲームと認められているものの性質」程度 の認識でした。

 ところが、今度は「そんなにゲーム性を重視するなら、TRPGでなく他のゲームをすればいい じゃないか」という疑問が生じました。そこでTRPGには、使い捨てのシミュレーションゲーム としての利点を持つのではないか、と考察しました。しかしTRPGはゲーム以外をシミュレート することも可能であるため、ゲームとして成立させるためにはやはり何らかの制約が必要であ ると考えられます。

 そしてその条件について考察したところ、「ゲームとしての同一性が保持されればいいので はないか」「そもそも同一性とは何か。何をもって同一である、ないと判断するのか」という 問題に再度直面しました。鶏が先か卵が先か...その後は トモスさんにまとめていただいたとおりです。

>>これは言い換えると、正しい手がかり(用いられているダイスが変形10面体であること)が得ら れなくても、有利な手の発見・選択に結びつきさえするなら、工夫だという考え方です。 <<

 微妙なニュアンスの違いがあるように思えます。正しい実態(用いられているダイスが変形10 面体であること)が得られなくても、何が有利な手かを判断する材料になるなら、それは正しい 手がかりであるし、工夫が可能であるのではないか、と考えています。

 結局何が工夫であるかが完全に正しいことを証明するために実態の不可知性の問題が立ちふさ がるわけですが。

>>この考え方は「気まぐれによる手の選択であっても、有利な手の選択に結びつきさえするなら工夫と 呼んでいいのではないか」という(かなり抵抗を感じる)意見とすれすれという感じがしますが、ど うでしょうか。<<

 私自身も整理しきれていないのですが、「必ず有利な手の選択に結びつくならば、もはや それは気まぐれではない」のではないか、と感じています。直感で「局面Aでは戦略aが有利だ」と 感じたときと、何度か試してみて有利にプレイすることができたときと、有利であることを 証明したとき、一体いつ工夫がなされたと見なすかの問題があります--直感的には、証明は 工夫ではなく「工夫であったことの証明」であるように感じます。
#気まぐれによる的中に関する危惧は私にもあります...

>>これを更に言い換えます。「ゲームによっては、より多くの根拠に基づいて判断を下した場合 にも、実際に有利な手の発見・選択につながらない場合がある。だが、実際に選ばれた手の優劣 に関わりなく、より多くの根拠の発見は工夫である。」 <<

 私としてはこの考え方には抵抗があります。例えば将棋において、「この局面はすでに詰んで いることがわかっている。しかし守り方・攻め方によって、何通りの王の取り方があるかは わかっていない」ときに、取り方の数を数えることは工夫ではない、と感じるからです。

>>ですが、工夫の定義を見直すことにより、「少なくともボレーの打ち方について改善できた。 結果としてそれは勝敗を決定的に左右しなかったかも知れないが。」「相手がこちらの飛車を 狙って仕掛けてきた大掛かりな手に7手前で気が付いた。結局は勝てなかったが。」というよう な部分について、「それは工夫であり、従って、そのプレイはゲームのプレイになっていると言 える」と言える可能性が出てきます<<

 私はこれらをそれぞれ、「ボレーの打ち方について改善できた。経験上この改善は、 特定局面での得点化可能性を増やし、不利になる局面を思いつかないので、工夫であると思われ る」「飛車の狙った罠に気づいた局面と気づかなかった局面からそれぞれ十分な数の試行を すれば、気づいた局面からの試行のほうが勝率が高かったと思われる」と解釈することができる と思います。...同じことを違う表現で表しているだけかもしれません。
2002年09月27日:12時08分52秒
【比較ゲーム分析】実態主義にとっての複雑性と観測不可能性の問題 / トモス
#大変遅い投稿になってしまい、申し訳ありません。

1)大局的な文脈

最近の議論で問題にしているのは、実態主義の立場からは、複雑な実態を持った遊びやゲーム性の検証が非常に困難(または不可能)な遊びをどのように扱うべきか、という問いです。

議論の文脈を再設定する意味でも、これまでの議論に少しまとまった見通しを与えておく意味でも、まずはこの問いを背景となる文脈から改めて詳述してみます。

僕がこの掲示板に投稿を始めたのは昨年11月からですが、それ以前の時点では、とりわけ「自由」という概念をキーワードに広範で複雑な問題についての議論が行われていたように思います。例えばマスターやプレイヤーの義務や権利についての議論がそこには含まれていました。その考察はRPG日本*1 や紙魚砂さんの論考*2 などに展開していったもののこの掲示板上での議論は少なくなったように思います。そこで11月以降の議論に絞って考えてみると、最初に問題になったのは「プレイ中にルールや設定内容が変更されることがあるTRPGは、ゲームとは呼べないのではないか?」という疑問です。TRPGだけでなく他のゲーム、ゲーム以外の遊びなどとの比較で考えて議論していることが多いので、「別ゲームへの移行」と「ゲームとして成立すること」の関係としてもう少し一般化すると、

a)あるひとつのゲームから別のゲームに移行するようなことがプレイ中に起こるとしたら、(例えばTRPGのプレイ中にルールが変更されたり、設定が追加されたりしたら)その遊びはもはやゲームとは言えないのではないか。

という問いになります。これは更に、3つのより一般的な問いに展開してきたように思います。

b)TRPGはゲームの一種として遊べるのか、それはどのような形で可能なのか。

c)ゲームの同一性とは何か。何が同じなら「同じゲーム」と呼べるのか。 何が変更された時に「別のゲーム」へ移行したということになるのか。

d)ゲームとは何か。

これまでの議論では、こうした問いに答える、少なくとも3通りの立場が出ていると思います。

立場1
ひとつの立場は、別ゲームへの移行はTRPGでは(確実に起こるとは限らないとしても)防止することが不可能で、かつ、別ゲームへの移行は遊びを「ゲーム」ではなくする(ゲームとして成立しない、ゲーム性を損なう)ものであり、従ってTRPGのプレイがゲームとしてきちんと成立する保証はない(必ず失敗するというわけではないにしても)というものです。より具体的には、これは、プレイ中にシナリオの内容や世界設定、ルールなどの追加・変更を余儀なくされることがあるのではないか、という考え方です。 詳しい議論は中間まとめ*3の方でまとめたので、ここでは省略しますが、上記の問いの内c)にどう答えるかによって「ゲーム核」と「制御層」をめぐる2つの立場が展開されることになりました。

この考え方を突き詰めていくと、実際には将棋にすらもそうした変動の可能性があるのではないか、といった疑問が出てきます。そうすると、TRPGはスポーツや将棋と比べてもゲームとして成立しにくい遊びなのではないか、という感覚をうまく扱うことができない点が問題ではあります。

立場2
もうひとつの立場は、何かしらの手段によって、TRPGにおける別ゲームへの移行を防ぐことができる、従ってTRPGをゲームとして遊ぶことができる、というものです。具体的には、ゲームのコアルールや設定(「制御層」)について、事前に合意を形成し、それに則ってプレイしている限りは「合意されたゲーム」のプレイになっていると考えることがこれにあたります。不測の事態が発生しても、その合意内容以外の部分を変更する分には問題がない、と考える立場です。TRPGでは必ずしも全てのルールや設定について事前合意を形成できないこと、合意内容で触れられていない部分についてはどのように追加・変更を行ってもプレイがうまくいくとは考えにくいことなど、問題がありますが、「どういう遊びを遊ぶか事前に決めて、その決めた範囲で遊べたらあとは文句をいわないことにしよう」というある種割り切った考え方だと思えば筋が通ってはいます。

立場3
もうひとつ別の立場は、別ゲームへの移行が生じてもある遊びはゲームでありえるし、逆に別ゲームへの移行が生じなくても、ある遊びはゲームになっていない場合がありえる、というものです。具体的には、ある遊びに「工夫の余地」があるならばプレイ中にルールや設定内容が変更されようともその遊びはゲームである、とする立場です。(工夫の余地がなければ、設定内容に何も変更がなくてもその遊びはゲームではない、とも考えます。)ではこの工夫の余地が何か、という事についてはまだ未整理な点がいろいろ残されていますが。

ゲームは工夫を楽しむ遊びだと定義して来たので、ルール変更などの問題よりも工夫の余地に注目するこの立場には説得力があると感じます。また、ルール変更がしばしばプレイヤーによる工夫の余地をなくしてしまうことが問題なのであり、工夫の余地を損なうことがないルール変更などであれば問題はないのではないか、という議論も出ています。

2)実態主義と工夫をめぐる議論の流れ

上記の「立場3」はここ数本分の過去ログの中心だと思います。ある遊びがゲームであるかどうかは、その遊びに「工夫の余地」があるかどうかによる、という漠然としたアイディアを細かく展開する議論を随分行いました。乱数要素が含まれる遊びにおいて、工夫の余地とは何なのか。勝率の低い遊びや勝率の変動幅の少ない遊びにおいてはどうか。勝利に結びつかなかった場合はどうか。未公開要素がある遊びにおいてはどうか。複雑性がある遊びではどうか。

その中で僕は、「工夫の余地」を何か遊びのルールや設定データの特性のようなものとして位置付けることに関心を持ち、「実態主義」と呼んできました。単純な例を挙げれば、将棋の終盤戦では、盤上の駒の配置や双方の持ち駒、それにルールから、どのような手を打つと何手で相手を詰めることができるかを考えることができる場合があります。これは運や相手のミスではなく、自分の戦略的な思考によって勝利をものにするような行為で、そうした行為を可能にするのが、将棋に備わった「工夫の余地」だということになります。

より一般的には、戦略的思考を通じて有利な手が打てるような実態になっている遊びが、ゲームであり、工夫とは、その戦略的思考です。乱数要素も未公開要素ない遊びでは、それは、戦略的思考によって勝利条件を確実に達成できる、という保証にあたります。

ちなみに乱数要素が含まれている場合には、確率論的に有利な手(勝率の高い手)が発見・選択できるようになっている必要があります。(勝利できる必要はありません。)

このような「実態主義」の立場を展開する上で特に厄介な問題だと感じたのが、複雑性と観測不可能性の2つの問題です。

3)実態の複雑性、実態の観測不可能性

将棋ではどのような陣形を組めばよいか、どのような組み合わせの駒でどのように攻めるのがよいか、などの点についての確実な判断が非常に困難です。いくら戦略的思考を重ねたところで、「より有利な手」が見つかるとは限りません。これが複雑性の問題です。

更に、仮に何か有利な手が見つかったとしても、プレイ後に振り返ってみて、その手が本当に有利な手であったのか、相手の作戦ミスなど偶然的な要因によってたまたま有利に働いただけの手なのか、といった判断が難しい面があります。これが観測不可能性の問題です。


複雑性の問題を一般化すると、局面数が膨大、局面の間の関係が複雑(とれる手が多数あるが決定的に有利と言える手がひとつもない)、などルールや設定データによって規定されるところの遊びの構造的な性質(ゲーム核部分)が複雑である時に、並みの人間の思考能力では「より有利な手を発見すること」が困難になる、という問題です。将棋の局面の展開に限らず、考えられる全ての可能性を比較・検討して論理的に結論を出すことができないような状態を想定しています。TRPGではそもそもとれる手の総体がほとんどの局面で無数に存在しているために、このような複雑性に満ちています。(そこで、一見でたらめに見える手をとっていたら偶然の積み重なりによって非常に望ましい結果に行き着く、というようなことも起こりうるわけですが。)

観測不可能性の問題は、ある手の有利さを判断するだけの情報が手に入らないことを指します。上述の将棋の例であれば、一応対戦相手の思考パターン以外のデータは与えられているので、コンピューターを動員して全ての手を検討することなどによって原理的にはかなりの部分が解決できます。解決できる、というのは、ある2つの手を比べてどちらがどのように有利であるかをかなり具体的に考えることができる、というものです。(「手Aの場合には相手が、3手後までに角を動かさなければいけないということにさえ気づかなければ非常にうまく行く、手Bの場合には、11手目の歩の位置と、香車の位置が大きな問題になる、どちらの手をとる方が勝率が高いかは、相手がどちらの点に気がつきやすいかの見積もりの問題になる」、といった形で実際には有利さを検討することができない面が残るので、完全には解決できないままに留まりますが。)より明白なケースとしては、TRPGで、プレイ後に「このシナリオで与えられる最終目標を、もっと効果的に達成する方法があっただろうか」などと考えてみて「実はあの敵の要塞を別のルートで攻めていたら」「もしも魔法Aをあの場面で使っていたら」などと考えてみてもそれらの手の有効性がそもそも測定できない、それがGMのその時の反応などに依存している、というような事態です。あるいは、ゴルフにおいて、「あの時にもう少しスピンをかけておけばよかったのではないか」と考えてみても、プレイ中の風や地面のデータが記録に残ってもいないために、最終的な判断が下せないままに終わる、というような事態です。

実態が複雑である場合、実態が観測不可能である場合、共に、「工夫」を楽しむことが難しくなります。つまり、戦略的な思考を通じて「より有利な手」を発見・選択し、勝率を上昇させる、というようなプレイがしづらくなります。それはひいては、こうした遊びがゲームであるかどうかについて、何か歯切れの悪さが残る、ということでもあります。

今回の投稿では、この2つの問題についての解決案の摸索を更に進めてみます。

4)複雑性の問題について


複雑性と観測不可能性の問題に対処するべく「工夫」という概念について考え直すことが有効なのではないか、というのが前回の僕の投稿内容でした。具体的には、これまで工夫の典型として想定して来た「より有利な手(勝率の上昇に結びつく手)の正しい発見・選択に直接結びつく戦略的思考」以外に、「既に有利だとわかっている手の有利さをより正しく認識することに結びつく思考」や「手の有利さを正しく認識するための手がかりを得ることに結びつく思考」などを加えるという可能性を検討しました。これを引き継ぎつつ、複雑性の問題についての解決案にしてみます。

例えば将棋のある場面で、2つの手の内のどちらが有利かを最終的に正しく判断することができなくても、その判断の参考になるような「この手を打った場合にはその後の展開としてA,B,Cが考えられる」といった点を明確にすることを工夫の一種と考えることは妥当でしょうか? もし妥当だと言えるのなら、複雑性に満ちたTRPGのような遊びであっても、あるいは将棋の序盤戦の中間目的設定などであっても、そこに工夫が認められる、ということになります。

それを考えるに当たって重要な考えどころは「より多い手がかりは、有利な手の発見・選択につながるとは限らない」という点にあると思います。2つの手AとBについてあれこれ比較して考えてみたところ、本当は不利な手であるAの方の利点ばかりが明確になり、実際に有利な方の手Bについては利点が余り明確にならないままに終わったためにAの方を選んでしまう、というようなことがありえます。

前回はそこでかなり困っていたのですが、これについて今回は少し違った考え方を出してみます。

手がかり(判断材料)を得るような思考が工夫であると考える理由は、まず、「どちらの手を選ぶのであれ、少しでも多くの根拠に基づいている判断であることが望ましい」「たまたま有利な手を選んだとしても、その選択が気まぐれや勘違いの結果であったならばそこには工夫は認められない。」という考え方によるものです。これらの考え方自体はこれまでの工夫についての考え方の枠を大きく外れるものではないと思います。

これを更に言い換えます。「ゲームによっては、より多くの根拠に基づいて判断を下した場合にも、実際に有利な手の発見・選択につながらない場合がある。だが、実際に選ばれた手の優劣に関わりなく、より多くの根拠の発見は工夫である。」

この考え方は、勝敗と工夫の関係とほぼ同型です。「ゲームによっては、より勝率が高いと考えられる手を選んだ場合にも、実際には乱数要素が裏目に出て勝利につながらない場合がある。だが、実際の勝敗に関わりなく、より優れた手の選択につながる思考が工夫である。」

TRPGで、最適の手が見つけられないまでも、考えられる様々な手についてそれらの多様な帰結について少しでも多く見通しが立てられたら、それは工夫だと言えるということになります。

もう少し細かい事を言えば、「勝率が高い手を選ぶこと」は、有利な結果につながるとは限らないとしても確実に勝率を上昇させるのに対して、「判断材料を増やすこと」は、有利な結果につながる保証がありません。 従って、myrtさんが観測の問題と結びつけてしばしば提案してきた考え方とかなり近くなります。すなわち、「工夫とは勝利に結びつくプレイを行うことであるとは限らず、ある状況で、与えられた情報から、より有利と思われる手を発見・選択するような思考を指す」というような考え方をすることになるわけです。実態主義の立場から、これまで、「そのような思考の結果、実際に有利な手が見つかるようになっているのでなければ、その遊びはゲームであるとは言えない」という主張を何度か行いましたが、あるいはこの主張を撤回する必要があるかも知れないと思います。

むしろ、「勝率の上昇に結びついたのであれ、つかなかったのであれ、実態の正しい解明を行ったのであれば、部分的な解明であっても、それを工夫とする」という見解に立って言えば、「そのような解明を積み重ねれば勝率が上昇するような明らかな仕組みがなくてもよい」という風に言うべきなのではないかと思います。但し、幾ら解明を積み重ねても全く勝率に影響しないとか、ランダムに勝率に影響する、という仕組みになっていたらやはりそのような遊びをゲームと呼ぶことには抵抗を感じますが。

この点について、myrtさんの直前の投稿に、次のようにあります。

>>しかし面白い点は、この二つの「実態」のほとんどの場合において、推論から導かれる最適戦略が一致することです。有利な戦略を見つけられれば工夫であるならば、どの「実態」を持ちどんな観測結果が得られても、複数の戦略を比較した場合の「こちらが有利だ」という関係が必ず一致するならば(どの程度有利かは異なっても)、何が工夫であるかも同じであると言えるかもしれません。<<

これは言い換えると、正しい手がかり(用いられているダイスが変形10面体であること)が得られなくても、有利な手の発見・選択に結びつきさえするなら、工夫だという考え方です。

この考え方は「気まぐれによる手の選択であっても、有利な手の選択に結びつきさえするなら工夫と呼んでいいのではないか」という(かなり抵抗を感じる)意見とすれすれという感じがしますが、どうでしょうか。

今回の僕の提案はむしろ逆に、「有利な手の発見・選択に結びつかなくてもいいから、正しい手がかりが増えさえすればいい」という考え方を押し進める形になっています。

5)観測不可能性の問題について

ある種の遊びは、プレイ中もプレイ後も、その実態の詳細が解明できないままに終わります。対戦相手がいる場合や、生身の人間であるGMが実態の一部を構成している場合、詳細を調査し切れない現実の都市が舞台になっている遊びの場合、などです。

こうした遊びにおいては、そもそも何がより有利な手であるかを断定できにくいという特徴があります。そこで、「ゲームであることを確実に保証された遊びだけをプレイしたい」というプレイヤーには不向きなのですが、ある種の遊び手にとっては「ゲームと見なして楽しんでもよい」ような遊びになっていると言えばよいのではないか、というようなことを考えていました。

ですが、工夫の定義を見直すことにより、「少なくともボレーの打ち方について改善できた。結果としてそれは勝敗を決定的に左右しなかったかも知れないが。」「相手がこちらの飛車を狙って仕掛けてきた大掛かりな手に7手前で気が付いた。結局は勝てなかったが。」というような部分について、「それは工夫であり、従って、そのプレイはゲームのプレイになっていると言える」と言える可能性が出てきます。

ただ、上述のように、「どれだけ知恵を絞って絶対に勝てないようになっている」ような遊びだとしたらそれはゲームとは呼べない感じがしています。勝利の可能性があったかどうかについて全く観測できない遊びについては、依然としてうまく扱いきれない感が残ります。

今回は以上です。

参照:

*1
RPG日本
RPG話題別掲示板27 「自由」なプレイを考える:「自由」をキーワードとしてシナリオやプレイのあり方について考察と比較を行う
http://www.rpgjapan.com/talk/topic.cgi?27

*2
紙魚砂さん
TRPG覚書
◆TRPGにおける「自由」−2001/11/24
http://sun.endless.ne.jp/users/simizuna/scenario/RPG_memo/rpg_memo2001-02.htm#076

*3
【実装とゲーム分析】中間まとめ(1):TRPGと将棋の比較分析2002年02月01日:20時09分48秒 / トモス

【実装とゲーム分析】中間まとめ(2):TRPGとスポーツの比較分析2002年02月03日:15時21分46秒 / トモス

2002年08月28日:11時50分02秒
【複雑性の比較ゲーム分析】特定の観測結果と複数の実態 / myrt
 ゲームの実態を検証することの難しさを考察するために、ダイス当てシステムを 考えます。親が4,6,8,10面ダイスのいずれかを用意して5回振り、その出目から 子が何面ダイスを振ったのかを当てます。

 ここでダイスの出目が4,6,3,1,5であったとします。そこでプレーヤーは「6面 ダイスだ」と宣言したところ、「不正解」とだけ告げられてネタばらしなしに片 づけられてしまったとします。

 この観測結果から、子はダイスが8面か10面であることはわかりますし、た ぶん8面であった可能性が高いだろうことは推論できますが(確率論でもそうで あるし、10面ダイスで9,10が出る可能性を親が考慮することを考えれば)、特 定することは不可能です。

 さてここで、9と10の出る確率が少ない変形10面ダイスを考えます。そして10面 ダイスはどんなものかと問われたとき、子は通常の(??)、親は変形10 面ダイスだけを思い描いたとします。そして親が今回用意していたダイスが8面 ダイスであったとしたならば--このゲームの実態とはどんなものになるのでしょ うか。
#ここでは「通常10面の存在くらい知っていろよ」という点は無視し、ど ちらも相手の常識を知らない均等な立場であったとします。

 親が用意したダイスが8面体で、8面体ダイスに関する認識が親と子で共通して いるにもかかわらず、10面体ダイスに関する認識が異なると何が工夫であるか がズレてくるわけです。TRPGにおいても、「シナリオで実際に用意された事 象についてGM-PL間で共通認識があるにもかかわらず、プレイ中のどんな事象 が用意されているかがPLサイドで特定できない段階において、GM-PL間の共通 認識が得られていない事象が用意されているわけではないことがPLサイドで 否定できない」場合において同様の問題が発生しうると考えられます。

 しかし面白い点は、この二つの「実態」のほとんどの場合において、 推論から導かれる最適戦略が一致することです。有利な戦略を見つけられれば 工夫であるならば、どの「実態」を持ちどんな観測結果が得られても、複数 の戦略を比較した場合の「こちらが有利だ」という関係が必ず一致するなら ば(どの程度有利かは異なっても)、何が工夫であるかも同じであると言えるか もしれません。

 またTRPGの検証おいては、GMが用意していたシナリオよりも、プレイ中に 観測された事象だけからどんな実態であったかを検証することのほうが重要 である場合があるように思えます。例えばリレーマスターにおいて「最初 のGMが適当に用意したNPCを後半のGMが伏線として使う」場合など。


(Re:2002年08月24日:19時00分23秒
【複雑性の比較ゲーム分析】工夫の種類再考 / トモスさん)
>>ですが、ここで、「少なくとも、道幅や通行人の量や町並みを観察する 行為は、判断を助ける」と言えるならば、その限りにおいて、それらの行 為は工夫の一種だったと考えられることになります。<<

 上記のダイスゲームの例において出目によってヒントになったりひ っかけになったりすることが確認されているので、「十分に観測した場合に 通行人の量と最適戦略の間に相関関係がある」、「通行人の量を参考にすると 確率的には勝率が高まるはずであったが、プレイした日はたまたま ひっかけヒントになっていて、それが最後のプレイ日まで続いた」「日本 中の駅前を調べると通行人の量が参考になることが 多く、その知識をPLは得ることができるが、○○線沿線に限ってはたまたま 参考にならない」場合をわけて考えるべきだと思います。
2002年08月24日:19時00分23秒
【複雑性の比較ゲーム分析】工夫の種類再考 / トモス
直前のmyrtさんの投稿へのお返事です。ここ数本の投稿で議論している問題、検証困難・不可能な遊びの一部をゲームと見なすような実態主義の立場が可能かどうか、という問題について、工夫の定義を再検討することから考えてみました。8月7日付けの投稿で提起し、8月12日付けの投稿でブレークスルーできないまま、とした問題に対する、一応の解決案(というよりもその糸口)を提案するものです。myrtさんの直前の投稿は、遊び手の心理や、観測行為を考慮に入れて問題を説明・解決しようとするもので、この路線には僕もかなり可能性や魅力を感じるようになりつつありますが、今回の僕の投稿は相変わらずこれまでの傾向に沿った、遊びの形式的な特性に注目するものになっています。

1)工夫や類似行為の種類

実態主義の工夫の定義をひとまず離れて、工夫と、工夫に似た諸行為の幾つかを列挙してみます。

a)典型的な工夫
もっとも工夫らしい工夫は、与えられた情報の合理的な処理に基づいて、優れた手を、正しい理由によって、発見・判別するような行為だと言えると思います。これは、よりよい手を発見・判別するものも、既に打とうと決めていた手が優れていることに対する更なる確証を与えるもの、の2つの形態を含みます。

b)失敗につながる情報処理
与えられた情報を合理的に処理する結果、2つの手の内、不利な手の方を有利だと判断してしまったり、最も優れた手以外の手を最も優れた手として発見・選別するような行為もある、とこれまで何度か考えてきました。これは、その遊びにおいてプレイヤーに提供される情報が、何かの形で誤解を招きやすかったり、プレイヤーを騙すようなものであったりする場合に起こります。

#詰めて考えるとこういう現象はありえないとする立場も可能だろうと思うのですが、その議論は又の機会にまわします。

c)部分的な情報処理
与えられた情報をプレイヤーが合理的に処理しようと試みたものの、部分的にしか成功しない場合も考えられます。この半端な思考の結果、優れた手の発見・判別に至る場合と、そうでない場合が考えられます。これは、与えられた5つのヒントの内3つだけをヒントとして認識し、それらを利用して、真犯人を推理したり、あるいは推理し損ねたりするようなことだと考えたらわかりやすいと思います。ヒントからの犯人の推理はかなり複雑な判断で、厳密にはよい例ではないのですが。

d)部分的な判断
優れた手の発見・選別に直接つながらないものの、その手がかりになるような部分的な解明を行える場合があります。これは例えば、将棋のある局面で、プレイヤーが選択肢として考えている4種の手のそれぞれについて、相手がどういう反応を示す可能性があるかを3手先まで考えるものです。3手先まで読めたところで、どの手が最も優れているか、あるいは選択肢の中にない何かの手がより優れているかどうか、についてははっきりしないままに終わります。ですが、どの手がどの程度優れているかについて、確かな判断材料が増えた、ある不確実性の低減が起っている、とは言えます。

2)中間目的設定問題、検証不可能性問題

以上の内、d)部分的な判断として挙げた行為を、工夫の一種として認めるような立場を考えてみます。その立場からは、「中間目的設定が複雑」である遊びや、「実態としてゲームであるかが検証不可能」であるような遊びが、ゲームの一部だ、と考えることができるように思います。

2−1)中間目的設定のケース

中間目的設定が非常に複雑であるような遊びを考えてみます。例えば将棋における勝負の持って行き方や、マインスイーパーで最短時間での踏査完了を目指す際のクリックの順序などは、非常に複雑です。結果として、中長期戦略の策定をゲームとして遊ぶことが難しい、と考えてきました。これは、上記のa)の意味での工夫をすることが難しい、ということだと考えてきました。ですが、ここでd)の種類の行為を工夫の一種として認めるとするなら、中間目的設定においても、部分的には明らかにできる点があり、それを明らかにすることは、中間目的設定や当面の手の選択を助けるだろうと思われます。

もう少し詰めて考えると、ここで、「優れた中間目的の設定を助けるから」d)のタイプの行為を工夫と見なすことにするのか(そうだとしたらそう考える根拠は何なのか)、そうではなく、「戦略策定において考慮する要素について、不確実性を低減するから」(仮に優れた中間目的の設定につながらなかったとしても)工夫と見なすことにするべきと考えるのか、2つの立場が想定可能です。後者を選びたい気がしますが、そうすると、上記のc)のタイプの行為も工夫の一種と認めるべきなのではないか、という別の疑問が出てきます。例えば、上記の将棋の例で、4つの手の間の、3手先までの優劣は何となくつけられたものの、その優劣に従って最も有利な手を選ぶと長期的には一番損な手を選ぶ羽目になってしまうという可能性があるわけですが、にもかかわらずそれを工夫と考えてよいのか、という問題があります。ひいてはこれは、工夫をすることが必ずしも勝率の上昇に結びつかなくてもよいのか、という問題です。

2−2)検証不可能性のケース

検証不可能な遊びや検証困難な遊びとして、例えば、○○線沿線の任意の駅前から出発して徒歩で30分以内にゲームブックを売っている古本屋さんを見つける、というようなものが考えられます。駅回りの地勢はゲームデザイナーの手による設定とはやや趣が異なるもので、事後的にも、「この駅から徒歩30分以内の場所に一体ゲームブックを売っている古本屋はあったのか?」と考えてみてもわからなかったり、「それを見つけ出せる合理的な術があっただろうか?」と考えてみてもわからなかったりします。「駅前で30分間目をつぶって立ち尽くす」というプレイ放棄に近い戦略に比べたら歩き回って探すどのような戦略も「まし」であり、その意味ではこの遊びにも工夫の余地があると考えることはできなくもありません。ですが、「町並みの雰囲気を読む」とか「道幅と歩行者の量が手がかり」といった類のセオリーを手がかりにプレイヤーがどこを歩くかを判断していることをもって「工夫が行われている」と言えるかどうかを考えてみるとかなり問題なわけです。

その主な問題は、上記のa)の種類の工夫だと断定するためには、考えられる全ての駅前について特定の判断回路に従った経路選択が、それ以外の経路と比較して有利であるかどうかを決めなければならない点にあります。これは現実的には非常に困難な作業になります。

古本屋の在庫内容は刻々と変化するため、対象を調査し切ることはできない、という問題もあります。1月から2ヶ月間かけて調査を行ったものの、実は調査期間以後の3月に入ると卒業シーズンのために学生からの買い取りが増え、以後半年間はゲームブックの流通状態が異なり、従って同じ戦略でも有効性も異なる、といった可能性も、考えられないわけではありません。こうした思わぬ要素があるために、十分な検証がどのように可能であるかについて、常に不確実さがつきまといます。

ですが、ここで、「少なくとも、道幅や通行人の量や町並みを観察する行為は、判断を助ける」と言えるならば、その限りにおいて、それらの行為は工夫の一種だったと考えられることになります。こうした点についてはプレイヤー間でも意見は食い違いますが、そうした意見の不一致は検証不可能性とは別種の問題で、やや扱いやすいという感じもします。

長い時間をかけて考えた割には中途半端ですが、とりあえず今回はここまでです。
2002年08月15日:10時10分36秒
TRPG総合研究室 LOG 104 / sf

 TRPG総合研究室 LOG 104として2002年07月12日から2002年08月14日までのログを切り出しました。

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