TRPG総合研究室 LOG 028

TRPG総合研究室の1999年05月21日から1999年05月25日までのログです。


1999年05月25日:15時51分20秒
[イシ決定]撤回・訂正≫Re:訳語としての意志決定 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>Dandanさん
 「論点を持ち出したのは私だけで、でぶ猫さんは関係ありません」なるほど、確かに。
 Dandanさんが導入された論点に、でぶ猫さんは応じられたわけでしたね。情報提供をされたMAT.Nさんと同じお立場というわけですね。
 
>toALL
 撤回と訂正をさせていただきます。
 「[イシ決定]Re:訳語としての意志決定」(当掲示板,カンナ記,99年05月25日:13時50分28秒)の内容に一部撤回のうえ訂正を加えさせていただきます。
> ただ、MAT.Nさんにはご理解いただけてると思いますが、念のために、アタシは当初から、一貫して、「意志決定」が「意思決定」の誤訳であるか否か、は、もんだいにしていません。
> その論点を導入されたのは、過去LOGを参照していただけば、おわかりと思いますが、Dandanさんです。
 
>toでぶ猫さん
 すみませんでした。ご要望をいただければ、公開謝罪をさせていただく用意もあります。
1999年05月25日:15時35分44秒
Re: 訳語としての意志決定 / Dandan
なるほど、わかりました。私は誤った(すくなくとも偏った)知識だったわけですね。

意志決定も意思決定も decision making も making decision もおんなじ事を言ってることがわかりました。

鍼原さん:
> その論点を導入されたのは、過去LOGを参照していただけば、おわかりと思いますが、Dandanさんと、でぶ猫さんです。

弁護ですが、論点を持ち出したのは私だけで、でぶ猫さんは関係ありません。
1999年05月25日:14時27分19秒
[キャンペーン適合システム]Re:質問:システムのもんだいではなくシナリオ・メークのもんだいでしょーか? / PALM-12
#あう,この書き込みは,大前提が違う気がします

●鍼原さんwrote
> 成長ルールがあるからといって、成長したPCがキャンペーンに参加する「べき」と言えるものでしょぉか?

「キャンペーンに参加したPCは,成長していくべきです」

 あう,成長したPCは要らないんです。 むしろ捨て時って感じです。
 要るのは,「まだ成長していないPC」,もしくは「今まさに成長中のPC」です。
 キャラクターがこなれて,成長していくからキャンペーンは面白いんです。
#あと,この成長は数値データだけなんて無粋な事を言わんといてください。
#ちなみに河嶋陶1朗さん風に言うと「馴染む」,DIO様風に言うと「んん,馴染むゾ」です。

 始めに数回軽いセッションをこなしたりすることもありますが,これはキャラクターの方向性(キャラ特性,性格と個人目標,パーティ内での立ち位置など)をある程度確定させるためです。 比較的キャラクターの設定の自由度が高いゲームでは,作ったキャラがどういうキャラになるか,どう「馴染む」かが他のPCとの解りづらいんですね。 もちろん,GMにとっても予想しがたいものです。 んでもって,キャンペーンは連続性が強いため,急な設定変更は,他のPL・GMに強いストレスをかける事になるから,出来るだけやりたくない。 だから,それを減らそうという試みです。
 もちろん,始めは,単発シナリオを同じPCでプレイしているうちにいい感じなんでキャンペーンにするなんてこともよくありますけどね。 > これがキャンペーンの起源でしょう

  あと,表題の質問については
「システムとシナリオ・メークのもんだいです」
付け加えるなら,マスタリングとPCのハンドリングとか色々全部の問題です。
 例えば,生き返れないシステムにおいて,即死して構わんと思っていうPL&PCはキャンペーン参加が難しかったりするわけです。

ではでは
1999年05月25日:13時50分28秒
[イシ決定]Re:訳語としての意志決定 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>MAT.Nさんへ
 調査ありがとぉございます。「訳語としての意志決定」(当掲示板,MAT.Nさん記,99年05月25日:12時40分01秒)で、お教えいただいた情報は、参考にさせていただきます。
 ただ、MAT.Nさんにはご理解いただけてると思いますが、念のために、アタシは当初から、一貫して、「意志決定」が「意思決定」の誤訳であるか否か、は、もんだいにしていません。
 その論点を導入されたのは、過去LOGを参照していただけば、おわかりと思いますが、Dandanさんと、でぶ猫さんです。
  
 アタシの論点は、「TRPGに関して言われる『意志決定』」は「ビジネス社会でも知られ、数学で言われる『意思決定』」と果たして、同じ意味内容で使われているか?です。
#あえて、誤解を恐れずに、比ユ的に言うなら、アタシがもんだい視しているのは、誤訳の可能性ではなく、意訳の可能性、に近いものです。
 
 アタシ的もんだい構成は、ジャンルとしてのTRPGの概念規定に関して、「イシ決定」の意味内容と同時に「最適解」の意味内容も含んでいます。、とくに、両概念の関わり方で「ゲーム」の概念に微妙なところで重要な差違が生じると思われます。
 
 
 用語翻訳の、及び用語法のもんだいとしては、まず、、
1.コスティキャンは、“Decision Making”を数学、または経営学での用語と同じ意味内容で使用しているか?
2.日本語訳の翻訳者は、“Decision Making”を数学、または経営学での用語と同じ意味内容を指し示す用語として「意志決定」の用語を選択したか?
3.巷間聞く、「TRPGに関する“意志決定”論的ゲーム論」では、果たして、数学、または経営学での用語と同一概念として、「意志決定」の用語が使用されているか?
 
 、、の3ステップが確認の為の集約的ポイントになるかと思われます。
 上記1〜3のステップは、「最適解」の用語内容、「イシ決定」と「最適解」の理論的関わりに関しても、同様に、チェックポイントになると思われます。
 
 1.のステップに関しては、断定はしませんが、理想的には、原著者コスティキャンが“Decision Making”を、数学、または経営学用語のそれを流用して、いわば意味内容を若干アレンジして使用してる可能性はチェックされるべきです。
 「哲学用語なんて、もそっとわかりやすい単語にできたろーがとゆうのばっか」という意見が述べられていまして。この意見には共感を誘うものがあるのですが、逆に、欧米の学術界には、「専門用語と日常語の区別がつかないために、文脈から内容を判断しなければならず、議論が混乱し易い、または専門的議論の俗解が生じ易い。昔みたいに専門用語がみんなラテン語だった頃はよかったなー(苦笑)」的なことが言われているとゆー話をご紹介します(翻訳された思想書などでときそき読む話ですが)。
 
 コスティキャンは、ゲーム・デザイナーであって、経営学者ではないと思いますので(もしかしたら数学者ではあるのかもしれませんが、アタシは不勉強で知りません)、“Decision Making”の語を専門用語通りの意味内容に、厳密に使用する責任は負っていないと思われます。それは、思想・表現の自由というものであって。逆に、厳密に使用するなら、その文中でその旨言及されたほうが自然かもしれません(この件も断定はさけますが)。
 
 通例、翻訳者は、同一原著者の執筆物を比較しつつ、文脈、論旨、原著者の思想傾向を参照情報にして訳語を選択するものです。残念ですけど、アタシ個人には、その過程を再チェックする能力も余力もないと思います。ですので、ステップ1.に関しては、保留のまま、断定を避けたいと思います。
 
 ステップ2.に関しては、日本語訳からある程度の読解が可能と思います。少々時間がかかると思われますが。
 ただ、MAT.Nさんが調査してくだすった、情報を傍証にすると、翻訳者は、数学、または経営学でいうところの「意志決定」を念頭において用語を選択した可能性は、大分濃厚になったかと思われます。
 ただし、アタシがもんだい視したいのは、テキストから読み取れるもの(テキストに意味されるもの)、です。読解を検討した後、テキストから、だけでは、意味決定不能、という可能性も含めて、検討はポイントになると思います。
 
 ステップ3.に関しては、いま細かく論じる余裕がないので、感想的意見として述べますが、「“意志決定”最重視のTRPG論」者のかたの内で、「最適解」の意味内容に関して、見解の相違は認めらるように思っています。
 
 さしあたりは、以上にします。
1999年05月25日:12時43分02秒
[疑似キャンペーンかの?]キャンペーンの参考文献 / MAT.N
新紀元社からゲームマスターガイド2ということで「キャンペーンガイド」という本が出てました。(山北篤と怪兵隊著/ISBN4-915146-10-3)
ちょっと古い本なので今でもあるかどうかわかりませんが。(たぶんあると思いますが)

この本ではキャンペーンの連続性を「PC」「世界」「ストーリー」でわけてまして、PCだけが連続するものを「タイムボカン型」、PCと世界が連続するものを「水戸黄門型」、PCと世界とストーリーが連続するものを「スターウォーズ型」としています。最後のものがフル・キャンペーンとなるわけですね。
なお、PCの成長と連続性こそがプレイヤーがキャンペーンを続ける重要なモチベーションという位置づけですので、世界だけが連続していてもキャンペーンとしては魅力に乏しいとしています。深淵の年代記キャンペーンはこれからすると疑似キャンペーンとなりましょうか。個人的には魅力的な背景世界なら引きになるんではなかろうかと思えますが、たしかにPCの連続性の要素は大きいとは思います。
1999年05月25日:12時40分01秒
訳語としての意志決定 / MAT.N
意志決定という訳語ですが、誤訳とは言えないようです。
(まあ馬場さんだから一筋縄ではいかないに違いないっ。と思ったので調べてみたんですが)(^^;
(参考サイト)
http://member.nifty.ne.jp/highway/dm/dectra.htm

と言うことでコスティキャンの小論から馬場講座中などで使われている意志決定という言葉はdecision makingと=で結べます。
1999年05月25日:11時26分47秒
[キャンペーンの面白さと意義]キャンペーンを行う効果について(長文) / PALM-12
 単発シナリオとキャンペーン・シナリオを比較した場合、何が違うかというとほとんど一緒なんですね、実は(笑)。

 大きく違う場所は、ほぼ一点です。 PCが成長する事です。 ダイス振って「ああ、こいつも強くなったなぁ」って成長した事を実感できる事。 うーん、成長してきた事を実感できる事の方がニュアンス的に正しいでしょうか?
 ここで重要なのは、「してきた事」を実感できるという点です。
 TRPGにかかる時間は、単発シナリオが実時間で数時間程度であるのに対して、キャンペーンでは数週間から数年に及びます。 これが「してきた事」になるわけですね。
#当然、時間についてはソリッドにじゃないですよ、両方とも
 「してきた事」はとても大事です。 PLが自分のPCの為に考えたどっかで聞いたような設定ではなく、文字どおり(?)血肉を持った過去をPCに与えてくれます。 「アクチュアリティを持った」と言っても良いのかな?
#「こなれる」ともいいます(笑)

 また、セッションとセッションの間に時間があるという事も当たり前ですが単発シナリオとの大きな違いでしょう。
 セッション中、意思決定を行うたびにそのPCの判断基準や性格がハッキリし,PCの設定情報は増加していきます。 また、状況やキャラクター間の関係もどんどんと変わって行くでしょう。 ただ、やはりその状況変化に対してリアルタイムにPCの判断基準や性格を変化させるのは、当たり前ですが難しい事です。 セッションとセッションの間の時間は、それを整理し理解する時間を与えてくれます(ちなみに脳の性質からいって一眠りするだけでも効果ありです)。
#PCの成長にPLが追いつく為の時間ですね(笑)

 状況設定が出来ている分、次のセッションまでにPCのロールプレイ、行動の試行なども考える事も出来るでしょう。 これはいわゆるPCの暴走を防ぐ事が出来ます。 また、セッションとセッションの間にGMの行うディスカッションにも同様の効果がありますし、他にも動きの悪いPCのサポートも考えることができます。 やはり、単発セッションでは難しい問題を解く時間を与えてくれます。

 悪い比喩表現ですが(まあ、”美しい”はあっても”良い”比喩なんてないんですけど)、難しい算数の問題を解くのに短い時間で次々と問題を変えても解けるわけはないんです。 一度、しっかり時間をかけて問題を解く。 そうすれば、次はもっと短い時間で問題が解けるようはずです。 キャンペーンはそういう時間を与えてくれるものでしょう。
#勘違いされている人は多いかもしれませんがTRPGとしてはキャンペーンよりも単発シナリオの方が難しいのです。
#ちなみに単発シナリオが”点”であるのに対して、キャンペーン・シナリオは”線”と言えば、イメージ的に解りやすいかもしれません。

というわけで、同じ技量を持つ人間の方が総じてキャンペーンの方がクオリティの高いTRPGを楽しみやすい。 また、上達もしやすいと思います。

 例えば、”たくさん”しゃべる事が演技する事だと思ったり、”いつでも”演技したり、PCの設定を”たくさん”付けたりすれば面白いTRPGが出来ると思う事もあります。 単発シナリオならば、失敗しておしまいですがキャンペーンならば何処が悪かったのか修正しながらセッションをする事もできます。 というか、キャンペーンはやらざるを得ません。 そうでなければ、キャンペーンは途中やめになるでしょう。 続けたければ、上手くいく工夫をするしかないわけです。
#もちろん、単発シナリオで失敗した事を検討する人もいるでしょう。 しかし、そういった人は成功と失敗を知っているわけです。 その人がキャンペーンをやった事が無いことはとても考えづらいと思います。
 人間関係についても同様でしょう。 キャンペーンを続ける為には、同じ人間たちと長い時間を付き合って行く必要があります。 ……コンベンションで「まわりにTRPGをやる人がいなくって」っていうヤツに対して「まわりに人がいないの間違いじゃないのか」と言わない我慢とかマナーとかいったものもキャンペーンでは、結構重要になるわけです。 もしくは言った後、どうサバくかとか(笑)。

 ええと、話がズレてきたので戻します。

 TRPGには様々な遊びかたができます。
 単発シナリオは,バラエティに富んだ状況設定と意思決定を楽しむ事ができます。
 それに対して,キャンペーンでは時間的な問題で状況設定や意思決定のバラエティに劣るものの最終的にアクチュアリティを持ったPCを楽しむ事ができます。 PCはどんな境遇に生まれ,成長し,どんな風に考え,どんな風に生き,どんな友人たちや敵を持ち,何を成したかを時間をかけゆっくりと楽しむ事ができます。
 これを単発シナリオで再現することは、とても難しい事だと思います。
 自分とは違う人生を創造していき,理解していく楽しみです。 プレイすればするほど、無限にこのキャンペーンが続けば良いのにと思えるキャンペーンにこそTRPGの醍醐味があると思うわけです。 合気道家モードでいうと(太極拳でもいいですけど)、PLが死ぬ時が一番面白いセッションだって感じでしょうか?
#ボクはTRPGとはPC自身を作る長いキャラクター・メイキングと思ってるんですけどね。 ゲームやインタラクティブな物語性の部分を別にすると。


 では、ごちゃごちゃ書いてきましたが最後に本題の鍼原さんの質問に答えておきまーす。

●鍼原さんwrote
 「キャンペーンしないと、TRPGのここがわかんない・身につかないゾ」ってお話とかあります?

 「キャンペーンしないと、TRPGの本当の面白さがわかんない」
 「キャンペーンしないと、TRPGの技術が身につかない」

 ……軽いジョークっす(笑)。
 でも、時間がかかるでしょうね、面白さがわかるのも技術が身につくのも。
 どっちにしろ、TRPGは「やってなんぼ」だと思うんで、上達には回数こなすのが一番だと思います、面白さも技術も。
#ま、この辺はPALMの経験論なんで無視してもらって構いませんけどね。 はじめから出来る人もいるでしょうし。

 ではでは
1999年05月25日:09時52分38秒
【意志決定】Re: まずまちがいなく / Dandan
ぐぐ、では、差し障りのない回答の所で。

> ところで、少し意思決定に関する文献をよんでみたいと思うのですが、よい入門書をご存知でしょうか?

私が知っているのは、経営学側ではなく、数学側の文献です。意思決定に関する本の中身は、大半が意思決定支援(=最適解を求めるアルゴリズム)の解法に割かれていますので、定義や種類といったところは十数ページくらいです。
個人的に読みやすかったのは、培風館の「ファジィ数学のおはなし」という本です。この本は意思決定だけではなく、ファジィに関することが結構RPGに応用できるのでは?と思わせるものです(差し出がましいですが)。
その他には「OR」という題名がつくものだったら大体意思決定に関することが書いてあると思います。
1999年05月25日:05時29分01秒
TRPG論に期待されるもの / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 唐突ですけど、「イシ決定」の話をきっかけにして、ちょっと前から思ってたことを書きたいと思います。
[識別子]は無しにします。
 
 TRPG論、アタシは、“本質論”と「実践論」と「概論」とに大別したいと思います。
#“本質論”を“ ”でくくったのは、アタシ個人は、古典的な形式論理の本質論の組み立てかた、好まないので、あまり「本質論」とゆー言葉使いたくないからなのですが。でも、とりあえず、わかりが速いので、この投稿では“本質論”でいこーと思います。
 
 「概論」と“本質論”には、TRPGの世間的認知を高める機能が期待されると思います。
 Web環境で議論されていっても、世間には影響しないよ、って思うかたがいらっしゃるかもしれませんけど、議論を通じて開発された説明方法や考えかたをオフ・ラインで活用するって間接的利用法もあると思いますので。
 
 言うまでもないですけど、「概論」は平易な言葉づかいや、世間的通念を前提にした考えかたが重要と思います。 例えば、「ゲームソフトは玩具であって『ゲーム』ではない」などの理論は、“本質論”には似つかわしくても、「概論」にはそぐわないと思います。
 “本質論”のほうは、アタシは、厳密さが大事と思いますので、言葉づかいが多少むづかしくなったり、論理展開が、世間的通念から離れてもしかたない面があると思います。専門用語も、必要に応じて、どんどん導入されて構わないと思います(妥当な用法と解説は不可欠ですが)。“本質論”だって、できる範囲で簡単なほーがよいのですが、どちらが優先かというと、厳密さが優先なのが“本質論”と思います。
 
 ただ、“本質論”には「概論」や「実践論」に期待されない性質が、期待されると思います。
 まず、将来的展開可能性を包含した内容であること。理論的には考えられるのだけど、技術的に実践はむづかしー、といった内容も“本質論”には包含されるべきと思います。たとえば、いまゲンザイだったら、チャットセッションとTRPGの関連づけ、といった話題はぜひ“本質論”のレベルで取り扱われてほしーところでしょー。
 次に、“本質論”に期待される、理論的厳密さですけれど。
 ここで理論的厳密さ、とゆーのは、平易でなくても構わないから、ロジックを追ってゆけば、例えば、TRPG経験のまったくない人にも、論旨が正確に伝わること、が重要と思います。
 「実践論」には、そーゆー性質はあまり重要ではないはずですが、“本質論”では重要と思います。
 ここで、少しだけ「イシ決定」についてふれると、アタシは「イシ決定」、“本質論”のレベルでは、議論の混乱を招く面があると思うので、調整が必要かと思います。なぜかとゆーと、ビジネス用語・数学用語としての「意思決定」との相違がはっきりされていないと思われるからです。同じ概念なのか、違う概念なのか、違うとしたらどこがどの程度違うかがはっきりされてないとゆー意味です。アタシは違う概念とされるべき、って意見なわけですけど。「最適解」にも同質のもんだいがあると思います。
 「実践論」のレベルですと、近似な体験を持つ人が、自己の体験に照らしあわせて判断して、理解できればよい、って面もありますので、うえに書いたよーな厳密さの必要性は乏しくなると思いますが。“本質論”ではたいへん重要と思います。
 そこのところがアバウトだと、結局、いくらTRPG愛好者の間で通用しても、TRPGの世間的認知を阻害する結果につながると思います。
 
 最後に「実践論」に期待されるもの、ですけど。すでに述べたよーに、「実践論」は、近似な体験を持つ人が、自己の体験に照らしあわせて判断して、理解できればよい、って面もあると思います。それから“本質論”よりは具体的、個別的であるほーがよいですよね。
 その反面、「実践論」では対象領域、や対象もんだいの限定がはっきりされるべきと思います。 むやみやたらに一般化しない、とゆーことでもあります。
 「[TRPGと物語生成]「ストーリー」はもんだいではない(長文)」(TRPG総合研究室 LOG 027,カンナ記,99年05月18日:21時10分05秒)でも、示唆しましたけれど、「ゲームシステムのデザイン論」のテーゼを、しっかりした論証なしに、ゲームプレイの実践論に横滑りさせたりすることは百害あって一理なしです。
 また、「コンベンション雑談所」で最近話題になった、「パンチラ30回の是非」も、実践論の範疇と思いますので、個別事情が説明されるまで、一般化された常識などで判断されるべきではないと思います(私見)。
 後、「実践論」のもんだいとして、あまり「近似な体験による参照」が行きすぎると、今度は、経験の質が異なる層に通じなくなってしまう、とゆー難問があります。これは下手をすると、TRPG愛好者の良好な関係を阻害しかねませんので充分留意されるべきと思います。
 
 “本質論”と「実践論」と「概論」はそれぞれ、主対象となる読者と期待される機能が異なるのですから、相互の参照はあまり安直には、おこなわれないほーがよいと思います。参照するなら、はっきりとした区別や限定を明確にして、ってことですね。
 
 
余談:本質論と類型論
 アタシ個人は、本質論を好みませんので、普段は「原理・原論」とか言っています。
 ただ、これはアタシの思想的好みですので、もちろん人様におしつける気はありません。
 本質論が展開される場合も、その論理展開がきちんとしたものでしたら、ちゃんとお付き合いするつもりはあるのですが。
 ここで、論理展開がきちんとした、とゆーのは、もちろんレトリカルなロジックが論理展開に混入しないとゆー意味ですが。
#アタシは本質論好みませんので、いつもレトリックとアナロジーを駆使した論を展開しておりますが(笑)。それは思想の自由とゆーものです(笑)。
 本質論のもんだいとしては、「公理(前提)の設定が違ってる論の間での対話が困難になりがちなこと」、「公理命題(前提)の解釈が異なってる論の間での議論が泥沼、水掛け論化しがちなこと」を指摘しておきたいと思います。
 「本質論の論理展開の正しさ」、と「公理命題(前提)の妥当性」とは性質が違うもんだいと思われますが、その二つが混同されがちなのももんだいと思います。
 
 アタシ個人は形式論理的な本質論は好まないのですが。その代わりに、類縁性にもとづいか類型論(タイポロジー)でジャンルとしてのTRPGを捉えてゆくとよいよぉに思っています。
 例えば、「TRPGとはライブな遊びであることが本質」って公理命題をたてて、TRPG論を展開することだってできますよね。そーするとその仮定のTRPG論では、「IRCチャット・セッションはTRPGの遊びかたとして本質的ではない」って結論になるはずです。アタシはあまりそーゆー「コレコレは本質ではない論」に意味を認められないんですよ。
#でも、まーそんなアタシでも「王様ゲーム」は「ゲームではなかろー」とか思うことはありますけど(苦笑)。
#この辺実際は、論者の得意に応じて、「本質論」と「類型論」両方があって補い合えってゆけると一番よいと思うのですが。
1999年05月24日:23時36分21秒
[キャンペーンの面白さと意義]キャンペーンの分類(長文注意) / 彬兄
#「いし」決定で話が出ているようですが、ちょいと原点に帰ってキャンペーンのお話 おば。

 PLAM-12さんが「キャンペーンにはどういった種類
/傾向があり,それぞれどういったシステムが向くのか?」
を論ずるのがいいだ ろうというお話をされていましたが、彬兄もその通りだと思います。
 で、キャンペーンの分類についていろいろ考えて見たんですが、なかなかこれとい ったうまい分類方法は見つかっていません。

#いろいろパターンは浮かぶんですけどね

 強いて分類できるとしたら、プレイスタイルとプレイヤー設定ぐらいですね。今思いつくの は。
 プレイスタイルで今までに出たのが、

・サークルなど特定のプレイヤーを相手に一人の人間がGMを行う
・コンベンションなど不特定のプレイヤーを相手にで一人の人間がGMを行う(擬似キャンペーン?)
・設定ノートを用意してGMをメンバー持ちまわりで担当する(SHiNさん提唱)

 こんなところでしょうか。
 一番オーソドックスなのが一番最初の「プレイヤー固定、GM一人」ですね。 たいていの場合、ストーリーはGMが一人で作ります。GM個人の力量に 大きく左右されますが、ストーリーに連続性を持たせるのに一番無理のない 形ですね。
 毎回面子が同じでGMも同じだとマンネリに陥り易いというのが欠点でしょうか。

 二番目の「プレイヤー不特定、GM一人」は実際ほとんど見かけることはない と思います。オープン例会で企画ものの卓などよほど特殊な例でもない限り GMの自己満足に終わりますから。
 この場合、たいがいは結果が次のセッションに影響しない1話完結型キャンペーン になるでしょう。この形の最大の利点は「プレイヤーの時間的都合をさほど考慮しなくてよい」 ところでしょうか。
 しかし、運営そのものはもっとも難しいですね。特に、参加プレイヤーがシナリオ作成 までに決定しない場合は。結果として無難な1話完結型のシナリオばかりになり、 バリエーションに欠けます。
#実は彬兄自身が妖魔夜行のキャンペーンをこの形でコンベンションでやったことが あったりします(笑)

 さて、最後の持ちまわりGM制ですが、この方式の利点は結構たくさんあります。
 まず、GMが毎回変わるので自然とセッションにバリエーションがでるということ。 マスタリングに限らず、人間十人十色、最も飽きのこない形であると思われます。
 次に、GMの負担が一人に集中せず分散するので一回一回のセッションが凝った ものにできるということ。その他にも、サークルのGM育成になるといった利点があります。(GMいく性に関しては今の議題とはあんまり関係ありませんが)
 逆に難点は、ストーリーに連続性を持たせるのが困難だということでしょうか。 設定ノートなどを使用すれば多少は関連を持たせることができるでしょうが、GMの だけの裏設定というものが作れなくなるなど、複数回数のセッションに渡る伏線などが どうしても張りづらくなります。
#GM全員が上級者になれば無責任に伏線を張るだけ張って次のGMにまかせる などという方法もあります。ドラゴンブックの「実践ゲームマスター道」で使われていた
方法です。


 次にプレイヤー設定ですが、これは今のところ3種類考えてます。

・PCがパーティーを作ってグループ行動をしている
・PCは基本的に独立で毎回諸般の都合で誰かとチームを組む
・毎回異なるPCでセッションを行う
 これも最初のが一番オーソドックスな形ですね。後のほうに行くにしたがって 特殊になって行きます。
 最後の「毎回異なるPCでセッション」は、前前から考えている形で、GMが 用意したあるNPCが主人公となるストーリーをPCが毎回ゲストキャラとなって 追いかけるというもの。マンガなどでよくある「超越した力を持った孤独な主人公」 でRPGができないかと考えて思いついた形です。

#考えるだけで実行したことはありません(ぉ)
 プレイヤー設定による利点と難点は漠然としすぎて断言できません。どなたか まとめてください(^^;)
1999年05月24日:19時33分03秒
【意志決定】まずまちがいなく / でぶ猫
to Dandan さん
 
 誤字の指摘がされるまでは全く同じ意味だったと思います。(いつのまに別の意味になったんでしょうねぇ(^^; )
 
 ☆だから字づらにこだわるのはやめよーとかいたのに(^^;
 
 ところで、少し意思決定に関する文献をよんでみたいと思うのですが、よい入門書をご存知でしょうか?
1999年05月24日:15時51分40秒
[意志決定]Re:Re: おそらく(^^; / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 そーですねー。
 アタシの「TRPG特有の意志決定」の理解は、もー書いちゃったので、アレですが。
 実際もんだいとしては、よっぽど厳密な議論をするのでなければ、実は「『意思決定』≒『意志決定』」とゆー、あたりで、成り立つ議論は少なくないと思います。
 Dandanさんもふれられているとーり、「『意思決定』≒『意志決定』」は必要条件にすぎず、必要充分条件ではない、とゆーのが大前提ですが。
 
 アタシ的意見としては、「『意思決定』≒『意志決定』」よりは、「シナリオの最適解」の意味内容によって、「TRPGに関する“意志決定論”」の内容、重要なポイントで論理展開の差違が生じると思っています。
1999年05月24日:15時19分17秒
【意志決定】Re: おそらく(^^; / Dandan
でぶ猫さん:
> コスティキャンのゲーム小論の翻訳(馬場さんのとこにあるやつ)時点で「意志決定」ですから、専門用語として「意思決定」と用いるのを知らずにこの字をあてはめたのかも知れませんね。ちなみに言語はまさにdicisionですので、意味するところは同じはずです。

何故、誤字かと思ったのは単に前意見の通りです。うーん日本語って難しいです。
同じような意味であるというのが分かりました。
ところで、皆さん同じ意味でとってらっしゃるんでしょうかね?
「【意志決定】定性的な評価」を見ると、ちょっと違った意味を持ってるような気もいたします。
1999年05月24日:15時17分20秒
[意志決定]Re^2:意思決定論について / Dandan
なんとなくわかってきました。
#その前に「Dicision」ではなくて「Decision」ですね。失礼しました。

まず、何故誤字かと思ったのかは、二度ほど間違えを指摘されたときがありましたので。
一度目は、OR学会において、意志決定と意思決定という2つ単語を織り交ぜた論評があったので、2つの単語はそれぞれ意味があるのでしょうか?と質問したところ意志決定は意思決定の誤りであると言われたこと。
二度目は、卒論においてたまたま一個所間違えて意思決定を意志決定と書いてしまったときに、教授から「意志決定という日本語は存在しないぞ」と言われたからです。
まぁ、他にも調べていて思ったことですが。

鍼原さん:
> [意志決定]意思決定と意志決定
> だいたい、「意志」って決定するものではない、って話もあるよーですが(笑)。

あ、それです。前に言ったのは(笑)。

> [TRPGと物語生成]能動的解釈行為としての読解
> Dandanさんが、言わんとされていることは理解できるのですが。その説にでは飛ばされている部分があります。

まとめで言われてる通り、表面的、論理的な主張とお考え下さい。
多分、僕の言っていることは既にお分かりだと思いますが、小説はどんなに良い考えがひらめいても、小説で起きる事実は変わりません。犯人の犯行を前もって止めることも出来ないし、その前に、意思決定を反映させるものがないわけで。ここまでは、同じ考えだと思います。
えーと、私のここでの考えは、RPGでは意思決定を反映させるものがあるが(コスティキャンの言う資源ですかね)、小説ではそれが無いという意味で取っていただければ。

> [意志決定]Re:意思決定論について / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>  これは、いかがなものでしょーか?
>  もし「意志決定」または「意思決定」の意味が、決定するという日常語で置き換え可能なのでしたら、専門用語的なものは使われず、そのように論じられたほうが誤解が少なくなると思うのですが。

意思決定の本質的な意味は決定することですが、意思決定のプロセスというのが存在します。
まず目標があり、意志を固める>状況より代替案を選出する>代替案の中から最善な案を選択する
だと思いました。だから、ここで言われてる意志決定と(私の思う)意思決定とは同じ事を言ってるのでしょうかね?

>  Dandanさんが言われる「意思決定する場が無ければRPGではありません。」との言明は、「意思決定=決定すること」と解する限りでは、特に異存はないのですが。

では、もう少し具体的で主観が入った意見を述べると、
「RPG では、マスターはプレイヤーに対し、ある場面において意思決定を行なえる場が与えられる。この場でマスターはプレイヤーの意思決定の結果に応じた状況が展開される。この場が無ければRPGではない。(必要充分条件ではなく、必要条件です)」
RPG と意思決定はこんな関係だと思っております。
1999年05月24日:13時09分02秒
[意志決定]意思決定+α / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 より精密に言うならば、、
 仮に「『意思決定』が、『ゲーム』の本質である」、との命題を公理として受け入れるとして。
 
 うえの公理はジャンルとしての、TRPGを含んだ「ゲーム」の遊戯一般からの弁別には有益であっても、諸「ゲーム」の内でのTRPGジャンルの特性を論じるには、なお不充分である、とゆーことになるはずです。
 
 ですので、アタシとしては、「意思決定」+α=TRPGで重要な「意志決定」とされるべきと思います。
 
 ここから先は、いろいろな異論が並立し得るかと思うのですが。
 アタシとしては、上記の「+α」に、「語りで伝えられる要素の能動的読解行為」を挙げたいと思うわけです。
1999年05月24日:12時41分31秒
[意志決定]Re:意思決定論について / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@DandanさんWrote
>つまり、意思決定の本質的な意味は「決定すること」です。それも占いとか他人の意見の鵜呑みではなく、自分の「意思」で。
 
 これは、いかがなものでしょーか?
 もし「意志決定」または「意思決定」の意味が、決定するという日常語で置き換え可能なのでしたら、専門用語的なものは使われず、そのように論じられたほうが誤解が少なくなると思うのですが。
 
 アタシが理解するところでは、TRPGに関して言われる「意志決定」とは、、
 
 「同卓メンバー(GM&プレイヤー)の語りで伝えられた描写を読解し、自分の判断で状況に働きかける選択肢を整理創案しつつ、選択を決める、、という一連の作業を指すと概念と解しています。
 これだけ複雑な概念を、説明するために用語が用いられることは妥当だと思います。
#用語の選択とその運用にはなおもんだいとなり得るかと思われますが。
 
 もし、「意志決定」=「意思決定」であるのなら、TRPGにも正しい、数学的最適解が求められることになります。
 そして、TRPGのルールに記述される定性的要素はすべて不純要素とゆーことになるはずです。
 世界設定なども定量的に判断されるべきなのだったら、最初から、定量的に記述されるべきと思われますので。
 
 もし、「意思決定」≠「意志決定」であるのなら、定性的要素の解釈をいかに、定量的判断と総合するか、の考えかたが重要になるはずです。
 この場合、「意志決定」だけではTRPGは成り立たなくなり、「意志決定+α」が重要となるはずです。
 
 Dandanさんが言われる「意思決定する場が無ければRPGではありません。」との言明は、「意思決定=決定すること」と解する限りでは、特に異存はないのですが。その言明のみからは、TRPGを論じるに際して、少なくとも、うえの二つの論理展開が派生し得、同じ用語で説明されるTRPG像がどちらであるか、不確定になると思います。
1999年05月24日:12時32分21秒
[意志決定]原文というのはコスティキャンの小論です / MAT.N
すいません。原文の題名をあげ忘れておりましたですね。鍼原さんのご指摘どうりです。正確に言えば"I have no words &Amp; I must design"の中ではとなります。
馬場講座に関しては何とも言えません(^^;
1999年05月24日:12時06分42秒
[TRPGと物語生成]訂正:能動的解釈行為としての読解 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>TRPGと小説の違い、として、Dandanさんが指摘される面は理解できるのですが、うえの物語論的な理解のほうが精密な理解と思われます。
#下線付け部が訂正個所です。
#失礼しました。
1999年05月24日:12時04分10秒
[意志決定]質問>原文では / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 MAT.Nさんが指摘されているのは、いわゆる「コスティキャンの小論」の用語と理解してよいのですよね?<質問1
 では、「コスティキャンの小論」から読み取れるゲーム思想と「馬場講座」から読み取れるゲーム思想とは、まーそーですね、“Decision Making”に関しては、同一と理解してよろしいのですか?
1999年05月24日:11時58分24秒
[意志決定]原文では / MAT.N
Decision Makingですよ。
コンサイスあたりでは意思決定の訳語をあててますですね。(経済用語とされていた)
1999年05月24日:11時42分36秒
【意志決定】おそらく(^^; / でぶ猫
 コスティキャンのゲーム小論の翻訳(馬場さんのとこにあるやつ)時点で「意志決定」ですから、専門用語として「意思決定」と用いるのを知らずにこの字をあてはめたのかも知れませんね。ちなみに言語はまさにdicisionですので、意味するところは同じはずです。
 
 意思と意志の違いはなにかといえば、意志のほうがより強く、はっきりした考えであるという程度でしょうか。どちらがふさわしい・・・という判断はおきますが、専門用語がよくその意味を体現しているとは限りませんので、あまり字づらであれこれ考えるのはよしたほうがいいでしょう。(哲学用語なんて、もそっとわかりやすい単語にできたろーがとゆうのばっか(^^; )
1999年05月24日:11時39分08秒
[TRPGと物語生成]能動的解釈行為としての読解 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@DandanさんWrote
>小説とRPGの決定的な違いは、意思決定する場が与えられているか否かです。小説は主人公に感情移入して意思決定をしても、次のページには定められたストーリーが続きます。
>RPGでは、プレイヤーが意思決定をすれば、キャラクターを通じた世界が変わります。
 
 Dandanさんが、言わんとされていることは理解できるのですが。その説にでは飛ばされている部分があります。
 
 小説を含んだ物語テクストの読解(読書)では、「語り」の意味を判断するコード体系の検討が読解と伴に進みます。
 どのような読解コードを選ぶ(より精密には、どのような読解コードを編む)のが一番適切か?が試行錯誤されながら読まれるのが、一般的な読解行為のあり方です。
 いわゆる「意思決定」とは違うのですが、受け手(読者)が評価基準(読解コード)自体を変動させてゆく選択の連続が物語の読解行為なのですが。
 
 こうした読解行為を重ねていくことで、テクストで表現される世界像にるいての理解が変質してゆきます。
 物語を読み進むうちに、だんだんと語られる内容の理解が進むことがありますね? それはこうした読解のメカニズムによります。
 受け手(読者)が選択した、読解のコードが違えば、ストーリーも違ったものとして評価されます。
 
 TRPGと小説の違い、として、Dandanさんが指摘される面は理解できるのですが、うえの者型理論的な理解のほうが精密な理解と思われます。
#この投稿内で使用している用語の概念規定に関しては「参考資料:ストーリー、物語生成に関する諸概念」をご参照ください。
1999年05月24日:11時12分50秒
[意志決定]意思決定と意志決定 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@DandanさんWrote
>前にも、どこぞのボードで書いたと思ったんですが(Log失念)、この話題が出るとどうしても気になってくるもので。
>「意志決定」って「意思決定」誤字だと思うんですが。
 
 どーなんでしょーね?
 アタシは、「意思決定」と違って、定性的な要素の評価も繰り込まなくてはならないTRPGの「意志決定」は複雑で微妙なのだから、「意志決定」として区別されているのだ、捉えていますが。
 だいたい、「意志」って決定するものではない、って話もあるよーですが(笑)。アタシは、TRPG特殊な用語なのだと解しています。
1999年05月24日:10時58分41秒
【意志決定】意思決定論について / Dandan
前にも、どこぞのボードで書いたと思ったんですが(Log失念)、この話題が出るとどうしても気になってくるもので。
「意志決定」って「意思決定」誤字だと思うんですが。

そもそも、意思決定というのは統計学やオペレーションリサーチの分野から出た言葉で、そもそもドイツやアメリカが進んでいました。(特に第2次世界大戦のアメリカ)
戦争において、効果的な決定を行なうこれらの論が、戦争後では一つの学問とされました。
「意思決定」はどんな単語から訳されたかというと「making dicision」ですが、「Dicision」というカリキュラムが「意思決定」と訳されることもあります。
つまり、意思決定の本質的な意味は「決定すること」です。それも占いとか他人の意見の鵜呑みではなく、自分の「意思」で。

小説とRPGの決定的な違いは、意思決定する場が与えられているか否かです。小説は主人公に感情移入して意思決定をしても、次のページには定められたストーリーが続きます。
RPGでは、プレイヤーが意思決定をすれば、キャラクターを通じた世界が変わります。
RPGにおいて、意思決定は重要/あまり重要じゃないではなく、RPGには意思決定する場が存在するのです。逆に言えば、意思決定する場が無ければRPGではありません。
1999年05月24日:09時32分51秒
【意志決定】定性的な評価 / でぶ猫
 んー、ゲーム理論にしても企業などの目標設定にしても定量的な評価が一般的なのはそれが数学的に取り扱える、あるいは意志決定時と結果判定に明確な評価ができるからにすぎないからだと思いますが。
 ☆定性的なものをビジネス書でどう評価せいと・・・あ、精神論的なビジネス書がこれにあたるかな
1999年05月24日:08時09分40秒
[TRPGと競技性]追加訂正>Re:有益?有害?無益?無害? / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#たびたびすみません(礼)。
> ところで、一般に、TRPGシステムに含まれる定量的な要素については、「解釈の多様性」、原理的に否認されると思います。多くの場合、定量的要素の処理では、ルール適用の妥当性とルール運用の妥当性がもんだいになり得るだけで、「解釈」ではなく「判断」が期待されるのだと思います。
#下線付け部が訂正個所です。
#こちらは、もとの記述が曖昧だったと思いましたので。
1999年05月24日:07時03分13秒
[TRPGと競技性]訂正>Re:有益?有害?無益?無害? / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
訂正します。
> ここでいう「最適解」は、TRPGでよく言われる、「シナリオの隠された目的の達成方法の模範例」といった感じの、アバウトなニュアンス語ではなくって、ゲーム的な競技で、より少ないリスクで最大の利益をあげる、って意味でのキチンとした最適解のことです。
> 競技性が導入されたゲームでは、より少ないリスクで最大の利益をあげるべく意思決定をしてゆくのが、正しいゲームプレイになるはずです。このためには、意思決定に関わる要素は、すべて定量的に判断される必要があります。
#下線付け部が訂正個所です。
#“意志決定”的ゲーム論でいう「意志決定」は、ビジネス社会で一般に知られる「意思決定」とは違う概念だ、とゆーのは重要なポイントだと思います。
#しかし、アタシんとこのコンピュータの辞書、“意志決定”、覚えたのね(苦笑)。
1999年05月24日:06時36分03秒
[TRPGと競技性]Re:有益?有害?無益?無害? / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>SHiNさんへ
 
@SHiNさんWrote(「[TRPGと競技性]有益?有害?無益?無害?」,「TRPG総合研究室 LOG 027」,99年05月21日:00時53分00秒)
>もっと、個人的でもかまわないので、「TRPGに競技性なんかもちこまれたら、ここがたまらないわ!」ってのを中心にして書いてくださると嬉しいです。
 
#えー、そーですかー(笑)。
#では、まずは「趣味編」から.
 
 アタシ個人の趣味としては、「競技性」強くうち出されたシナリオやセッションは割と嫌です。
 SHiNさんも言ってられますよーに、「戦闘という形で競技性が導入された場合は、これまで容認されてた非戦闘キャラってのが成立しなくなる可能性はあります。逆に、調査・交渉って形で競技性が導入されると戦闘バカなキャラは成立しなくなるでしょう。」ってアタリが好ましくない気がします。
 
 SHiNさんは、「これまで競技性のなかったところに競技性を導入したからといってTRPGの楽しみ方がそれほど変わるとは思いません」と言われてますけれど。どーなのでしょーか。 どーしても気がかりになります。
 「逆にいうと、私の言う競技性の導入ってのはその程度のものです」とも言われていますけれど、シナリオ・クリアの条件が、PC共通のものとしてあり、それが競われる、とゆーことでよいのですよね? 以下はその前提で考えてみます。
 端的にいって、一番ヒーローっぽいPCを前にたてて、シブく脇を固めるとか、バックアップに徹するとかゆー楽しみかたができなくなる気がするのですが。全員が、共同でシナリオ・クリアの目的を達するからそーゆー楽しみかたもアリ、なわけですよね(?)。異なるタイプのキャラが共同しあう楽しみかたが薄れる気がするわけです。
 んー、それとも、PCたちは仲間だけど、ライバル関係でもある、みたいな方向で競技性を導入されるおでしょーか? でも、ライバル関係にあるキャラってタイプが違うのがいたほーが、セッション展開はおもしろくなり得る蓋然性が増えると思うのですが。
 
 ゲーム的な競技性が導入されると、シナリオ・クリアの条件として設定された競技への対応の為に、PCデザイン(キャラ・メーク)のデザインの発想が強く方向づけされる結果、セッションを通じて生成されるにんげん関係の性質が、−−その生成の方向性が限定されすぎる気がするのですが。
 その意味では、でぶ猫さんが言われる意味での「競合性(=シナリオ・クリアの条件がPCによって違う)」だと、PCデザインの発想限定は相対的に緩いと思います。
 
#続いて、「ノーガキ編」です.
#以下は、とりあえず実践のことを保留して考えてみる、理屈のうえでの話です。つまり、SHiNさんに「そこまでの競技性の導入は考えてない」と言われてしまえば、終わっちゃうよーな話しではあります。
#でも、「そこまでのものではない」競技の導入ってアタシにはちょっとイメージわかないんですよ。セッション内にminiゲームを組み込むってわけでもないと思いますし。
 
 アタシの意見では、TRPGのシステムに含まれる定性的要素は多くの場合、多様な解釈を許し、その解釈の多様性と「ゲーム的な最適解の追及」は抵触するはず、と思っています。
 ここでいう「最適解」は、TRPGでよく言われる、「シナリオの隠された目的の達成方法の模範例」といった感じの、アバウトなニュアンス語ではなくって、ゲーム的な競技で、より少ないリスクで最大の利益をあげる、って意味でのキチンとした最適解のことです。
 競技性が導入されたゲームでは、より少ないリスクで最大の利益をあげるべく意志決定をしてゆくのが、正しいゲームプレイになるはずです。このためには、意志決定に関わる要素は、すべて定量的に判断される必要があります。
 
 ところで、一般に、TRPGシステムに含まれる要素については、「解釈の多様性」、原理的に否認されると思います。多くの場合、定量的要素の処理では、ルール適用の妥当性とルール運用の妥当性がもんだいになり得るだけで、「解釈」ではなく「判断」が期待されるのだと思います。
 
 一方、世界設定などの定性的要素は、一般に文章の形式で表現され、多様な解釈を許容しますが。特に、顕著に多様な解釈を誘発するのは、世界設定内の歴史背景的な設定や、社会関係の設定と思います。こうした定性的要素は定量的要素とは異なり、単一な「判断」を特定することは不可能だ、ってゆーのがアタシの意見です。
 
 ところが、ゲーム的な競技性のシステムへの導入は、システムの定性的要素(主に世界設定類)の解釈の幅に限定をかけらるって影響を生むと思います。ゲーム的競技性が追及されるならば、定性的要素は、むりやり定量化されて処理されるか、無視されるか、ゲームのために、統一した判断が強要されるか、選択肢は三つしかないのでは? と思います。
#とゆーわけで、アタシにはTRPGに競技性が導入されて、かつ、ゲーム的競技性が追及されれば、TRPGのTRPGらしさ(例えば定性的要素に本来許容される解釈の多様性)とかは変質してゆくはず、と思います。
#「いや、そんなに変質しないさじ加減で、競技性も楽しむのだ」と言われれば、それは、理屈のうえでの話しではなくって、実践の話しであると思います。
 
#もしかしたら、アタシが考え違いしているかもしれませんけれど。今回書いたことは、このあいだの「TRPGの表現的要素の公正な評価」についてのお話とどこかで関連してるのかもしれません。
#SHiNさんが、「自分の経験では公正な評価が難しいと感じています」(「TRPGにおける競技性」,「TRPG総合研究室 LOG 027」,99年05月19日:18時36分11秒)といわれる“感じ”はわかる気がします。
#ただ、プレイヤー専科のアタシが言うと申し訳ないんですけど。極論としては、GMさんの「表現的要素への判断」、公正であってさえいただければ、客観的である必要、必ずしも無いと思っています。
#とゆーと、直ちに、あるGMさんでOKだった表現が、他のGMさんではNGになるってことも起き得ることになるわけですが。実はアタシは、それでも構わないと思っています。そのGMさんの判断の姿勢が公正でありさえすれば、GMさんとの間のインタラクション〔相互作用〕を楽しむのも、TRPGプレイの一貫と思っていますので。
#TRPGシステムの定性的な要素の解釈、GMさんによって微妙に異なるってことはよくあることと思いますし。ただ、どんな解釈でもアリアリってわけではもちろんありません。プレイヤーとしては、セッションを通じて、あるGMさんのシステム(特に定性的要素)の解釈の妥当性を評価させていただく、って側面もあると思っています。
1999年05月24日:05時31分21秒
RE:コスティキャンの文学論!? / YAN
 
> あるいは,こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に,人を感動させる力を持つ。
> 作者は,きちんと効果を計算した上で,そのストーリーを語るのに最適な登場人物を作り出し,
> イベントを起こし,決断を下させ,結末を用意する。
> だからこそ,出来上がったストーリーは可能な限り最も感動的なものになる。
> もし,登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば,きっと出来上がるストーリーは,
> 予定よりつまらないものになるだろう。

  (以上、コスティキャンのゲーム論より)
 
> ぴゅうたさんwrote
> 個人的な感想を言わしてもらえれば、コスティキャンという人は
> (どういう人なのか知りませんが)、よほど現実世界というものが
> 退屈なものに思えているのでしょうね。現実の出来事というものは、
> 一応誰にも管理されていないとされているものです。だからコスティ
> キャンにとっては、現実の出来事よりもストーリーとしてまとまって
> いるものの方が、面白く、感動的である、というわけなんですよね。
 
 えーと…コスティキャン氏が言われているのは、「”ストーリー”は直線的であるが故に人を感動させる力を持つ」、ということであり、決して「直線的なものでなければ人を感動させることができない」、と言っているわけではありませんよ〜。 
 それは、続きの文章を読むことで分かります。以下に引用をば。
 
> これに対して,ゲームはそもそも直線的ではない。
 
> ゲームには必ず意志決定が関わるが,このとき与えられる選択肢は,どれも
> 本当にもっともらしく思えるものでなければならない。でなければ,すなわち
> 「正解」が1つしかなく,それを選ぶ以外に道がないことが明らかなら,それは
> 本当の意味での意志決定とは呼べない。
 
> プレーヤーがゲームのある局面で特定の選択肢Aを選び,次にそのゲームを
> プレイしたときに選択肢Bを選んだとして,どちらも全く合理的な判断に基づ
> いている,というのがゲームらしさなのだ。
 
> であるからして,ゲームをストーリーに近づければ近づけるほど,それはより
> 直線的になってゆき,本当の意味での意志決定が少なくなってゆき,つまる
> ところゲームとは別物になってゆくのである。

 
          〜中略〜
 
> だからといって,美しいストーリーに沿って展開するようゲームに手をいれ
> 過ぎたりすると,プレーヤーの行動の自由や,ちゃんとした意志決定を行う
> 能力をひどく制限してしまうことになる。
 
> 話は変わるが,こういう観点からすると「ハイパーテキスト」という新しい
> フィクションの形態はとても興味深い。
 
> (訳注)ここでいう「ハイパーテキスト」とは,読者の選択によってプロット
>     や結末が変わるインタラクティブ小説のこと。
>     いわゆる「アドベンチャーゲームブック」もその一種。

 
          〜中略〜
 
> ともあれ,もしハイパーテキスト小説が文学的な高みに達したら(もっとも
> 私が読んだ限りでは,そういうレベルの作品は全く無かったけど),それは
> 新しい物語叙述手法,もはや「ストーリー」と呼ぶことは出来ない何か別の
> ものを生み出すに違いない。
 
> →「ストーリー」は直線的である。「ゲーム」はそうではない。

 
 
 ストーリーが直線的という点、特に「登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば,きっと出来上がるストーリーは,予定よりつまらないものになる」という部分については、例えば、
 
 「作品が長く続くに連れ、登場人物が自己主張を始め”俺はそんなことしたくない!俺は死んだって良いからこうしたいんだ”…と語り掛けてくるような気がする。私は彼をもっと生かしてあげたかったのだが、彼自身がそれを許さなかったのだ」
 
 …というような場合もあるとは思います。しかし、この場合も厳密に言えば、「作者の中の」登場人物が語りかけてくるわけです。また、文章を書き上げたあとで、作者の意志に反した行動を取ったわけではない。逆に言えば、ストーリーは書き上げた時点で「直線的」にならざるをえないのです。
 
 それに対してゲームは、シナリオの製作者(たいていの場合=GM)の意志で全ての流れが決まるわけでなく、プレイヤーの意志が関与する…というのが、コスティキャン氏の意図なのでしょう。
 
# 作者の人間性や、その人生について知ることは、文学作品
# (というより芸術作品全般)をより深く理解し、楽しむ上で重要なことです。
 
 論文の場合、まずはそれよりも、論文を通して筆者が言わんとすることを正確に理解することのほうが大事だと思います。(そしてそれは、作者の人間性まで踏み込まずとも、文章を子細に、全体の関連性を考慮して読めば理解できることだと思います)
1999年05月23日:23時37分53秒
キャンペーンとキャラプレイとの関連 / 河嶋陶1朗
 河嶋の考えでは、キャラプレイは、単発のセッションより、圧倒的にキャンペーンの方が面白いです。
 理由は二つあります。
 
 理由いち
 キャラが自分に「馴染む」から。
 ちょっとパラノイアっぽい意見ですが。
 何回も同じキャラでプレイを続けてると、キャラの意外な一面が見えてきたり、
 キャラの思考法がだんだんと自分に染みついてくることが起こります(河嶋だけかな?)。
 そうすると、何かそのキャラに愛着が湧いたりして演じるのが面白くなっちゃうんですよね。
 
 理由に
 自分だけでなく、周りのプレイヤーにもキャラが「馴染む」から
 河嶋の場合、純粋に「演じる」こと以上に、キャラプレイの結果が周りに「受ける」ことを喜ぶ傾向があります。
 ので。周りがそのキャラを理解すればするほど、そのキャラの発言・行動の意図を理解してもらいやすくなり、
 「受け」もとりやすくなって、キャラプレイが面白くなるのです。
 
 キャラプレものの鍼原さんにこそ、ぜひキャンペーンを遊んで欲しいものです。
1999年05月23日:15時33分44秒
[キャンペーンの面白さと意義]中間まとめ:みなさんの意見の要約 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#アタシが、「[話題提案]キャンペーンプレイとシステム」(当掲示板,カンナ記,99年05月21日:08時06分37秒) で、提案させていただいた話題に関連すると思われるご意見を、要約的に中間まとめさせていただきます。
#この投稿では、[キャンペーンの面白さと意義]の話題に関する中間まとめをさせていただきます。
#●を頭につけたまとめ文は、もとの投稿が[キャンペーンのおもしろさと意義]の話題として投稿されたものの要約的引用です。
#◎を頭につけたまとめ文は、もとの投稿が[キャンペーンのおもしろさと意義]以外の話題(特に[識別子]がふられていなかったものも含む)を、アタシの個人的判断で引用させていただいたものです。
 
◎意志決定が面白いものとして成立するにはいくつか条件があり,このうち,今回のお話〔キャンペーンプレイ〕に関係しているのが「結果に対する責任」です。
 単発のシナリオに比べてキャンペーンではこの「結果に対する責任」の意識を容易に強く持つことが可能で,これは非常に重要なポイント。
 マクロな視点で見ると,単発シナリオでは「結果に対する責任」が消失,とまで行かないにしても,非常に弱化してしまいます。なぜなら,シナリオの成功/失敗,あるいは「60%の成功」,「成功はしたが犠牲も出た」,といった結果が次に反映されないからです。最終的にシナリオの結果がどうなろと,またはPCがどうなろうと,死のうが死ぬまいが,いずれにせよ次は無い。「今回のシナリオの成否がどんな意味を持つのか」ということに考えをめぐらせてしまうと,単発シナリオでは「結果に対する責任」が希薄なため,意志決定の楽しさが減じてしまうわけです。
 キャンペーンであれば,今回のシナリオの結果は次回のPCの境遇に反映されることになります。
 以上、「キャンペーンと『結果に対する責任』」,当掲示板,ラウールさん記,99年05月23日:00時43分11秒、より

◎TRPGの1セッションが、ひとつの物語を創るとしたら、キャンペーンってのは物語を積み重ねることによってひとつの世界を創り上げることなんじゃないかと思います。
 「プレイが重ねられるのに応じて、PC間のにんげん関係や、PCとNPC間のにんげん関係が、充実してゆく」こういう事さえ実現できれば、それはもうちゃんとしたキャンペーンじゃないかなあと思うのですが
「RE;[疑似キャンペーン] 疑似キャンペーンのイメージ」,当掲示板,SHiNさん記,99年05月23日:04時33分36秒
1999年05月23日:15時29分37秒
[疑似キャンペーン]中間まとめ:みなさんの意見の要約(やや長い) / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#アタシが、「[話題提案]キャンペーンプレイとシステム」(当掲示板,カンナ記,99年05月21日:08時06分37秒) で、提案させていただいた話題に関連すると思われるご意見を、要約的に中間まとめさせていただきます。
#この投稿では、[疑似キャンペーン]の話題に関する中間まとめをさせていただきます。
#●を頭につけたまとめ文は、もとの投稿が[疑似キャンペーン]の話題として投稿されたものの要約的引用です。
#◎を頭につけたまとめ文は、もとの投稿が[疑似キャンペーン]以外の話題(特に[識別子]がふられていなかったものも含む)を、アタシの個人的判断で引用させていただいたものです。
 
[疑似キャンペーン]の話題:「ちゃんとしたキャンペーンみたいに、全体を通じての敵、とか陰謀とかがない」、 「ちゃんとしたキャンペーンみたいに、毎回同じPCの面子が連続して登場しなくてもへーき」、そーした「疑似キャンペーン」で、ちゃんとしたキャンペーンの楽しみの一部でも楽しめる遊びかたのアイディア、運営方法のポイントなどは?
 
◎キャンペーンというものをPCの連続性を必須ととらえなければ、これでもキャンペーンできますですね。(年代記キャンペーンとか)
 以上、「[キャンペーン適合システム]PCの成長」,MAT.Nさん記,当掲示板,99年05月21日:10時33分51秒、より
 
●「オープン・キャンペーン」は、継続性のある時間幅の内でPCメンバーの限定がゆるい「疑似キャンペーン」で。MAT.Nさんがふれられた、「年代記キャンペーン」(「[キャンペーン適合システム]PCの成長」,当掲示板,99年05月21日:10時33分51秒 )は、時間の継続性が断続的になってる設定上でPCメンバーの限定も緩い「疑似キャンペーン」と言えるでしょーか(?)。
 以上、「[疑似キャンペーン] 疑似キャンペーンのイメージ」,当掲示板,カンナ記,99年05月21日:16時50分33秒、より
 
◎コンベンションでも可能なキャンペーンについて
 キャンペーンの条件を彬兄〔さん:カンナ補記〕は次のように定義しました。
・背景世界が共通である
・PCが前回参加したセッションの情報や設定を保持している
・ゲーム内時間がある程度連続している
 コンベンションでキャンペーンを行うときの制約条件は、、
・前回のプレイヤーが今回も参加するとは限らない
・今回のプレイヤーが次回も参加するとは限らない
・毎回新たなプレイヤーが入ってくる可能性がある
 ゲーム内時間が連続しているのでプレイヤーがいなくてもセッションを行えばゲーム内時間は過ぎていくことがネックとなる。
 コンベンションでキャンペーンをするには、PCがパーティーと長期間別行動をとっても不自然でないようにすればいい ポイントとしては、
・ゲーム内時間が過ぎても場所が移動しない、もしくは一定の地域を巡回していて別行動をしていても合流が容易
・パーティーメンバー間固有の信頼関係が薄く、メンバーが毎回変化しても不自然ではない
 場所に関しては設定の問題ですから、システムによる向き不向きはあまりありません。しかし、メンバーの変化を受け入れ易いかどうかはシステム(正確にはシステムで使用されている舞台背景)により大きく左右されます。
 以上、「コンベンションでのキャンペーンについて」,当掲示板,彬兄さん記,99年05月21日:19時26分33秒、より
 
◎キャンペーンがコンベンションに持ち込みにくい、おおまかな理由が二つありますよね。 一つは、「ストーリーが分からない」 もう一つは、「成長したキャラクターが使いにくい」です。
 この二つに共通していることは、「同じ人達だけが集まるわけではない」、ということです。だからストーリーが分からず、レベルもあわない。
 しかし私〔ぴゅうたさん:カンナ補記〕は、面白い人に会ったことがあります。 その人は、仕事の関係上、休みが不定期にしか取れず、仕方なくコンベンション専門プレイヤーとなっていました。  しかしその人は毎回違う人と顔を突き合わせているのに、キャンペーンを行なっていました。回りを強引に巻き込んだり、GMを困らせたりすることなしに。
 最初のうちは戦士をやっていることが多かったのですが、途中からどんな職業でもこなすようになりました。さらに、性別も変わることも少なくありませんでした。種族にいたっては、コロコロ変わります。フェアリーであったことすらありますから。ま、さすがに人間が多いことは否めませんが。
 それを見て思ったことは、「成長」ってのは強くなることじゃないんだな、ってことです。
 私は、これも素晴らしいキャンペーンの一つだと思います。
 以上、「キャンペーンについて」当掲示板,ぴゅうたさん記,99年05月22日:21時04分14秒、より
 
●彬兄さんが、コンベションでのキャンペーンを行う場合の最低条件などを述べられてますが、その中の「常にGMとして参加できる」てのが不可能な場合について書いてみます。
 つまり、持ちまわりGM制度を使用した場合です。
 ルーズリーフで、一冊、設定ノートを作ります。
 そこに、各GMが使用したNPCや設定をメモっていって、各GMが相互に利用することで世界観を深めていくわけです。
 できれば、全員がGMとPLを兼任するってのが理想です。
 ひとつの世界にGM,PL両方の立場から関わることで、より深い理解と普通とは違った面白さが手に入るんじゃないでしょうか。
 シナリオ書いたりマスタリングできないって人も、キャンペーンプランをどんどん出していったりして良いと思います。
 全員で物語を創るんだって意識で。
 (ただ、セッション中にご都合主義に走るとゲームとしてつまんないので、そこらへんのけじめは必要かと。)
 以上、「RE;[疑似キャンペーン] 疑似キャンペーンのイメージ」,当掲示板,SHiNさん記,99年05月23日:04時33分36秒、より
1999年05月23日:15時22分27秒
[キャンペーン適合システム]中間まとめ:みなさんの意見の要約 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
#アタシが、「[話題提案]キャンペーンプレイとシステム」(当掲示板,カンナ記,99年05月21日:08時06分37秒) で、提案させていただいた話題に関連すると思われるご意見を、要約的に中間まとめさせていただきます。
#この投稿では、[キャンペーン適合システム]の話題に関する中間まとめをさせていただきます。
 
 [キャンペーン適合システム]の話題:キャンペーンに適合性の高いシステムの見分けかたは?
 
●ほとんどのRPGはキャンペーン向きか、またはキャンペーン可能。
●レベルがないシステムはPCの変化がレベル制のものより大きくないので、「単発でもキャンペーンでもOK」。(シャドウラン、TORG、ベーシックロールプレイなRPG/クトゥルフの呼び声とか)
●PCに成長がほとんどなく、またシステム的に複数セッションに持ち込みにくい「深淵」はどちらかというと単発向きかと思います
 以上、「[キャンペーン適合システム]PCの成長」,MAT.Nさん記,当掲示板,99年05月21日:10時33分51秒、より
 
●問題となるのは,どのようなキャンペーンをやりたいのか
●キャンペーンは長くなる分だけシステム・コンセプトと一致していないと行いづらいものです。 ですから,「キャンペーンにはどういった種類/傾向があり,それぞれどういったシステムが向くのか?」の方が実用的で良いかと思います
 以上、「[キャンペーン適合システム]シナリオの傾向に注視すべき(提案)」,当掲示板,PALM-12さん記,99年05月21日:11時27分47秒、より
 
●そのキャラを使ってぜひまた遊びたいシステムと、特にそうでもないシステムはあるかも。 私は深淵やクトゥルフは毎回同じPCでなくてもいいです
 以上、「[キャンペーン適合システム]そのPCでまた遊びたいかどうか」,当掲示板,GMNさん記,99年05月21日:15時34分56秒、より
 
●成長ルールがあるからといって、成長したPCがキャンペーンに参加する「べき」と言えるものでしょぉか? それとも、「成長ルール以外の要素との兼ね合いでキャンペーンで遊んだほーがよいシステム/そーでもないシステムってわかれるのか?」
 予断としては、セッションをキャンペーンでやるかどーかは、GMの裁量。とゆーことは、システム・コンセプトのもんだいとゆーより、シナリオ・メークのもんだい。、、ってことだと思うんですけど。
 「システム・コンセプトに適合した、キャンペーン・シナリオとそーでない、キャンペーン・シナリオ」があるってもんだいなのでしょーか? だとしたら、それは、システムのどの辺を評価して考えられてゆくものなのでしょーか??
 以上、「[キャンペーン適合システム]質問:システムのもんだいではなくシナリオ・メークのもんだいでしょーか?」,当掲示板,カンナ記,99年05月22日:08時55分06秒、より
1999年05月23日:04時33分36秒
RE;[疑似キャンペーン] 疑似キャンペーンのイメージ / SHiN
To はりはらさん
 
 はりはらさんのおっしゃる擬似キャンペーンってのは、私達が「一話完結型キャンペーン」って呼んでるものとほとんど同じです。
 
 わたしは、TRPGの1セッションが、ひとつの物語を創るとしたら、キャンペーンってのは物語を積み重ねることによってひとつの世界を創り上げることなんじゃないかと思います。だから、はりはらさんがおっしゃってるような
 
 >おもしろさとしては、プレイが重ねられるのに応じて、PC間のにんげん関係や、PCとNPC間のにんげん関係が、充実してゆくこと、とかと思います。
 
 
 こういう事さえ実現できれば、それはもうちゃんとしたキャンペーンじゃないかなあと思うのですが・・。
 
 >自由な発想で、“キャンペーンもどき”(苦笑)のアイディアを出していただけたら、嬉しーです。
 それから、そーゆー遊びかたを目論むときのチェック・ポイントとかも。
 
 んーと、彬兄さんが、コンベションでのキャンペーンを行う場合の最低条件などを述べられてますが、その中の「常にGMとして参加できる」てのが不可能な場合について書いてみます。
 
 つまり、持ちまわりGM制度を使用した場合です。
 私は学生時代は、もっぱらこのシステムでしたし、今のサークルでも盛り上がってるところでGMが長期欠席せざるを得なくなった時、勝手にみんなで持ちまわってしまいました(笑)
 
 まず、ルーズリーフで、一冊、設定ノートを作ります。
 そこに、各GMが使用したNPCや設定をメモっていって、各GMが相互に利用することで世界観を深めていくわけです。
 できれば、全員がGMとPLを兼任するってのが理想です。
 ひとつの世界にGM,PL両方の立場から関わることで、より深い理解と普通とは違った面白さが手に入るんじゃないでしょうか。
 シナリオ書いたりマスタリングできないって人も、キャンペーンプランをどんどん出していったりして良いと思います。
 全員で物語を創るんだって意識で。
 (ただ、セッション中にご都合主義に走るとゲームとしてつまんないので、そこらへんのけじめは必要かと。)
 
 コンベションだから、参加者の増減も激しいだろうし、時には(出席率が良すぎて)2グループに分けたりしないと駄目な場合も出るだろうから、もちまわりマスターってのはコンベションなんかでは、わりと実用的でもあるんじゃないかなと思います。
 
 実際には、細かい問題点とかたくさん予想されるけど、ケースバイケースな事も多いし、きりがないので、とりあえずこの辺で・・・。
1999年05月23日:00時43分11秒
キャンペーンと「結果に対する責任」 / ラウール
 RPGにおいては「意志決定」が重要な位置を占めているわけですが,なにか決断を下したらすなわちそれが意志決定で面白いかというと,そう言うわけではありません。意志決定が面白いものとして成立するにはいくつか条件がありまして,以前馬場さんがNifty-Serveで簡潔に分かりやすくまとめてみえました。
 すなわち,
1)葛藤:意思決定する際の選択肢が複数あって,そのどれもがもっともらしい(迷う要素がある)
2)アカウンタビリティ:自分がなぜ,どんな理由でその意志決定を行ったのかを,明確な言葉で説明できること
3)結果に対する責任:その意志決定によって生ずる言動や結果に対して自分 で責任を持つこと
です。
 このうち,今回のお話に関係しているのが「3)結果に対する責任」です。

**

 まずは,「結果に対する責任」についてもう少し解説します。

 意志決定を楽しむというのは,実はRPGなどゲームに限った話ではなく,買い物や休日の過ごし方など,日常的に行っていることです。
 買い物を例に挙げれば,値段や性能,納期,デザイン,アフターサービスなどの諸条件を比較していくつかに絞り,その中からあれがいい,こっちも捨てがたいと楽しむわけです。
 ここで,「結果に対する責任」というのは,買い物に失敗した場合にお金が無駄になるといった形で私達にのしかかります。逆に,いい買い物をすれば友人に自慢できますし,投資に見合った効果を得てうれしいですし満足できます。
 買い物にも「結果に対する責任」に欠けた買い物というものがありまして,たとえば非常に小額の買い物だとか,必要だけど最低限の機能さえ満たしていればいいものなどのばあいがそうです。急に雨が降ってきて,安物でいいから傘が欲しい,といったシチュエーションなどがそうでしょう。こういう場合の買い物というのは,別に楽しいものではないと思います。
 このように,意志決定の結果がどうでもいいような場合には,意志決定は楽しいものとはなりません。

**

 えーようやく本題で,キャンペーンの特性の話です。

 RPGにおいても,この「結果に対する責任」の意識を持つことは「意志決定」を楽しむうえで重要な要素になっているのですが,単発のシナリオに比べてキャンペーンではこの「結果に対する責任」の意識を容易に強く持つことが可能で,これは非常に重要なポイントだと思います。

 セッションの中でプレイヤーは様々な意志決定を行うと思いますが,このときの意志決定は,まずは「やっぱり逃げるんだった」とか,「あの人物に交渉を持ちかけたのは正解だった」といった形でその行動の結果に反映されます。そして,最終的にはこうした意志決定の積み重ねがシナリオ(もしくはシーン)の成功/失敗という形で反映されることになります。
 つまり,このレベルで見れば,単発のシナリオであろうがキャンペーンの中の一シナリオであろうが,各プレイヤーは「結果に対する責任」をシナリオの成否という形で意識することができ,意志決定を楽しむことができます。

 ところが,もう少しマクロな視点で見ると,単発シナリオでは「結果に対する責任」が消失,とまで行かないにしても,非常に弱化してしまいます。なぜなら,シナリオの成功/失敗,あるいは「60%の成功」,「成功はしたが犠牲も出た」,といった結果が次に反映されないからです。最終的にシナリオの結果がどうなろと,またはPCがどうなろうと,死のうが死ぬまいが,いずれにせよ次は無いわけです。
 つまり,「今回のシナリオの成否がどんな意味を持つのか」ということに考えをめぐらせてしまうと,単発シナリオでは「結果に対する責任」が希薄なため,意志決定の楽しさが減じてしまうわけです。
 これがキャンペーンであれば,今回のシナリオの結果は次回のPCの境遇に反映されることになります。たとえば,パーティの評判が挙がる/下がる,上層部の評価が挙がる/下がる,新装備を買うだけの金が手にはいる/入らない,敵組織を追い詰める/追い詰められる,といった具合です。キャラクターの行動の結果は,上に挙げたような形で反映されることになるわけです。


1999年05月22日:21時04分14秒
キャンペーンについて / ぴゅうた
にゅう、ぴゅうたです。
  なんか関係ないことばっか書いてると怒られそうなので、キャンペーンについて2、3。
  
  キャンペーンがコンベンションに持ち込みにくい、おおまかな理由が二つありますよね。
  一つは、「ストーリーが分からない」
  もう一つは、「成長したキャラクターが使いにくい」です。
  
  この二つに共通していることは、「同じ人達だけが集まるわけではない」、ということです。だからストーリーが分からず、レベルもあわない。
  
  しかし私は、面白い人に会ったことがあります。
  その人は、仕事の関係上、休みが不定期にしか取れず、仕方なくコンベンション専門プレイヤーとなっていました。
  しかしその人は毎回違う人と顔を突き合わせているのに、キャンペーンを行なっていました。回りを強引に巻き込んだり、GMを困らせたりすることなしに。
  
  それは、彼が「ビリー」という名のキャラクターを使い続けたところによります。使い続けた、とはいってもキャラクターの基本的な所だけですけれども。
  そして、簡単なリプレイを「日記」という形で添え、ファイリングしてあります。一度見せてもらいましたが、とても面白いものでした。様々なシステムで行なわれる、ビリーの冒険・・・。
  さらに特筆すべきところは、ビリーは最初のうちは戦士をやっていることが多かったのですが、途中からどんな職業でもこなすようになりました。さらに、性別も変わることも少なくありませんでした。種族にいたっては、コロコロ変わります。フェアリーであったことすらありますから。ま、さすがに人間が多いことは否めませんが。
  
  それを見て思ったことは、「成長」ってのは強くなることじゃないんだな、ってことです。
  
  私は、これも素晴らしいキャンペーンの一つだと思います。
  
  うーん、またその人に会いたくなったな〜。ビリーは、あれからどんな冒険をしたのかな〜?
1999年05月22日:08時55分06秒
[キャンペーン適合システム]質問:システムのもんだいではなくシナリオ・メークのもんだいでしょーか? / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 MAT.Nさん、PALM-12さん、GMNさん、彬兄さん
 キャンペーンプレイについて、いろいろなご意見ありがとぉございます。
 また、よろしくお願いします。
 
 さて、[キャンペーン適合システム]の話題ですが、「大かたのTRPGシステムはキャンペーンプレイを前提にしている」とのご意見をいただいています。
 確かに成長ルールのないTRPGはないんではないか、あるとしても例外なのではないかとは思います。
 
 そこで、質問があるのです。妙なことをお聞きするよぉですけど。
 成長ルールがあるからといって、成長したPCがキャンペーンに参加する「べき」と言えるものでしょぉか?
 えっと、キャンペーンに参加したほぉが楽しいんだろー、って言うのはわかります。
 アタシがキャンペーンに反対な意見を持ってるわけでもありません。
 
 「TRPGはシステム・コンセプトに適合する方向性で遊ぶことが好ましい」
 「TRPGのシステム・コンセプトを考えるには、キャンペーン適合性も組み入れたほぉがよい」
 「大かたのTRPGシステムはキャンペーンプレイを前提にしている」
 
 もし、うえの三つの命題が、みんな真なら、理屈のうえでは、「成長したPCを使って遊ぶときは、一般に、キャンペーンプレイで遊ぶことが好ましい」ってことになりそーな気がします。
 どこかロジックがおかしいのかもしれないし。下手な考え休むに似たり、とかってゆーこともあるとは思いますが、一応[TRPGのテーマ論]とかを考えるうえでは気になります。
 
 さらに、質問を重ねますと、「成長ルールがあるからといって、成長したPCはキャンペーンに参加する『べき』と言えるものなのか?」、「成長ルール以外の要素との兼ね合いでキャンペーンで遊んだほーがよいシステム/そーでもないシステムってわかれるのか?」
 それは、、彬兄さんのご意見にあるよーに、「システムで使用されている舞台背景」(「コンベンションでのキャンペーンについて」,当掲示板, 99年05月21日:19時26分33秒)の選択のもんだい、とだけみなせるのか?
 、、とかもお聞きしたいです。
 
 予断としては、、
 セッションをキャンペーンでやるかどーかは、GMの裁量。 とゆーことは、システム・コンセプトのもんだいとゆーより、シナリオ・メークのもんだい。
 、、ってことだと思うんですけど。
 
 ではでは、「キャンペーンとシステムのコンセプトが一致していない場合,一年ほどして傾向が修正されてる場合もよくあります」(「[キャンペーン適合システム]シナリオの傾向に注視すべき(提案)」,当掲示板,PALM-12さん記,99年05月21日:11時27分47秒 )とゆー、点に絞り込んで考えてゆけばよいのでしょーか?
 つまり、「システム・コンセプトに適合した、キャンペーン・シナリオとそーでない、キャンペーン・シナリオ」があるってもんだいなのでしょーか? だとしたら、それは、システムのどの辺を評価して考えられてゆくものなのでしょーか?? やっぱり、彬兄さんさんが言われるよーな、シナリオ・メークにおける、設定の限定(←システムにある設定からの限定方法)だけのもんだいなのでしょーか?
 
 質問ばかりで、すみません。ちゃんとしたキャンペーン・プレイ、やったことないんで、トンチンカンなこともお聞きしてるかと思います。
1999年05月22日:04時58分23秒
個人的なことを2、3。 / ぴゅうた
にゅう、ぴゅうたです。
  ええと、申し訳ないが個人的なことを2、3。
  
  まず、宇津見さんへ。
  > すいませんが、あれのどこをどう読んだら、そんな人間性やら現実認識やらにまで突っ込んだ推論を立てるのか、全く意味不明です。
  
  ???・・・どうしてなんでしょう?
  
  んー、相手を深く理解したいからかな。その文章を何故書いたのか?どういう気持ちで書いたのか?どう考えているのか?
  しかし、私はコスティキャンでありえないので、理解するために私のなかにあるもので噛み砕く、それがあの推論なのではないのでしょうか。現実認識について言及しているのは、作者のいないストーリーの一例としてです。
  
  と、今思って書きはしましたが、自分でもよく分かりません。
  宇津見さんに投げかけられるまで、自分が何故他の人の考え方等に触れたときに感想や自分なりの考え方を持つにいたるのか、その理由や意味を考えたことがありませんでしたから。
  違う人間だからでしょうか?でも、私は他の人の意見の全てに感想等を抱いているわけではありません。
  違う意見を持っているからでしょうか?しかし、それにどういう意味があるのでしょうか?
  
  人の意見に感想を抱いたり、考えを深めるために推論を重ねることに対する意味・・・、残念ながら私には分かりかねます。すいません。
  
  さて、くうさんにです。
  
  んー、私がもっとも気になるのが、
  >もし,登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば,きっと出来上がるストーリーは,予定よりつまらないものになるだろう。
  
  というところなんです。これを一言で言うと、
  「偶然というものはドラマチックじゃない」
  ということじゃないですか。
  それと、少なくとも私の作ったPCは、「お話しの為に」作られたのではなく、「生きざまをお話として知ることが出来る」ものとして作られています。
  だから三下に殺されれば、くやしくは思うでしょうが、それが面白さを損なうものであるとは考えません。いえ、かえってPCだからと特別視されるほうが嫌いです。
  理解されているようですが、そういうことです。
  
  最後に、でぶ猫さんに。
  ありがとうございます。探して読んでみたいと思います。
1999年05月21日:19時26分33秒
コンベンションでのキャンペーンについて / 彬兄
コンベンションでも可能なキャンペーンについて、実はいろいろ以前に考えたことがあるのでちょいと書いてみます。

 最初に前提条件として…

・そのコンベンションが定期的に行われており、ほぼ毎回GMができる立場にあること
・そのコンベンションにある程度「常連参加プレイヤー」が存在すること
・そのコンベンションではテーブル選択がアトランダムではないこと


 の三点を挙げておきます。最低限これが満たされないことにはキャンペーンを行う意味がありませんから。

 さて、この場合、キャンペーンの条件とはなんでしょうか? 人によって変わってくると思うのですが彬兄は次のように定義しました。

・背景世界が共通である
・PCが前回参加したセッションの情報や設定を保持している
・ゲーム内時間がある程度連続している


 では、コンベンションでキャンペーンを行うときの制約条件をあげてみましょう。

・前回のプレイヤーが今回も参加するとは限らない
・今回のプレイヤーが次回も参加するとは限らない
・毎回新たなプレイヤーが入ってくる可能性がある


 この制約条件は先ほど述べたキャンペーンの条件とは矛盾しません。ただ、ゲーム内時間の処理がネックになります。ゲーム内時間が連続しているのでプレイヤーがいなくてもセッションを行えばゲーム内時間は過ぎていくからです。
 このとき、セッションにに参加していなかったプレイヤーのPCがその間何をしていたかが問題になるわけです。何もしないわけはないですから、パーティーと一緒に行動してると矛盾をきたします。だから、そのPCはパーティーと別行動をとっていたことになります。

 つまり、PCがパーティーと長期間別行動をとっても不自然でないようにすればいいんです。そのためのポイントとして以下のようなものが上げられます。

・ゲーム内時間が過ぎても場所が移動しない、もしくは一定の地域を巡回していて別行動をしていても合流が容易
・パーティーメンバー間固有の信頼関係が薄く、メンバーが毎回変化しても不自然ではない


 場所に関しては設定の問題ですから、システムによる向き不向きはあまりありません。しかし、メンバーの変化を受け入れ易いかどうかはシステム(正確にはシステムで使用されている舞台背景)により大きく左右されます。
 つまり、サイバーパンクなどPC同士の信頼関係が薄いもの、パラノイアやレレレなどPC同士の信頼関係とかそういうものの入り込む余地のないイロモノ(笑)はコンベンションでキャンペーンを行ってもあまり問題はないのです。
 サイバーパンクではありませんが妖魔夜行も「各PCが拠点を持っていて移動しない」「ネットワークという設定は通常のRPGにおけるパーティーよりも信頼関係が希薄」とコンベンションでのキャンペーンに向いているといえます。
 ファンタジー世界でコンベンションキャンペーンを行うなら、PC全員を傭兵などの不特定の誰かに雇われる存在か大きなギルドに所属している冒険者など信頼関係以外の結びつきを持った集団の一員にすればよいでしょう。
1999年05月21日:16時50分33秒
[疑似キャンペーン] 疑似キャンペーンのイメージ / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 「疑似キャンペーン」についての説明が不足していたよーです(汗)。
 と、言ってもいまは、キチンとした概念規定をしたくはない気がします。発想が方向づけられると嫌だから、いずれ、必要が出たら考えればいーよーに思うんです。
 
 「疑似キャンペーン」ってとりあえず、「ちゃんとしたキャンペーンみたいに、全体を通じての敵、とか陰謀とかがない」、 「ちゃんとしたキャンペーンみたいに、毎回同じPCの面子が連続して登場しなくてもへーき」ってイメージで考えてみていただけると助かります。
 
 んで、一番、「疑似キャンペーン」らしー、「疑似キャンペーン」の事例は、セッション終了後のCPの配分が少なくって、かつ初期から多大なCP数を使用してキャラメークされてるんで、相対的に新規配分CPの意義が低い「妖魔夜行」で、ある、「溜まり場」の設定を基本設定にして一回完結のプレイが重ねられるもの。とかをイメージしています。
 この事例だと、プレイヤーの面子は毎回多少の変動があっても、PCのグループは一定メンバーが想定されてても、毎回 “出演”するPCが少しづつ違うだけ、ってゆーのことです。
 おもしろさとしては、プレイが重ねられるのに応じて、PC間のにんげん関係や、PCとNPC間のにんげん関係が、充実してゆくこと、とかと思います。
 
 「ちゃんとしてないキャンペーン」の質問は、アタシ的には、ちゃんとしたキャンペーン遊びづらい環境を前提にして、どこか部分的にでも、キャンペーンに似た楽しみや、単発セッションにはない楽しみや意義がある遊びかたはないかなー? って疑問がもとになってます。
 でも、うえの質問意図は、とりあえず、おいといていただいても構いません。自由な発想で、“キャンペーンもどき”(苦笑)のアイディアを出していただけたら、嬉しーです。
 それから、そーゆー遊びかたを目論むときのチェック・ポイントとかも。
 
 アタシが、ちこっとふれた「オープン・キャンペーン」は、継続性のある時間幅の内でPCメンバーの限定がゆるい「疑似キャンペーン」で。MAT.Nさんがふれられた、「年代記キャンペーン」(「[キャンペーン適合システム]PCの成長」,当掲示板,99年05月21日:10時33分51秒 )は、時間の継続性が断続的になってる設定上でPCメンバーの限定も緩い「疑似キャンペーン」と言えるでしょーか(?)。
1999年05月21日:15時34分56秒
[キャンペーン適合システム]そのPCでまた遊びたいかどうか / GMN
 そのキャラを使ってぜひまた遊びたいシステムと、特にそうでもないシステムはあるかも。
・D&D1レベルのマジックユーザー(セッション無事生還して2レベルになった)
・ウォーハンマーのPC(転職できるだけの経験点が入った)
 とかならそのPCで次のシナリオに参加したいけど
・クトゥルフでSANが減ったPC(でも真の狂気じゃない)
・悲惨な運命を持ちながら見せ場無く生き残った深淵のキャラ
なんかは別のPCで始めたいなぁ。上記のは冗談としても私は深淵やクトゥルフは毎回同じPC でなくてもいいです。
 
#クトゥルフでも呪文覚えたPCはぜひともまた使いたいです(爆)
1999年05月21日:12時49分01秒
Re:コスティキャンの文学論!? / くう
ぴゅうたさんのおっしゃりたいことはよく分かるのですが、コスティキャンのゲーム論で言っていることは、

「巨大な悪の組織に立ち向かう主人公。敵のアジトに単身乗り込んだが、敵の三下の銃弾に倒れて(回避ロール失敗)死んでしまいました。終劇。」

これじゃ物語としてつまらないでしょ、という単純なものだと思いますが。
もし、そんなことをする人がいれば、十中八九は返り討ちにあうのが実際のところだろうから、ヒロイックな話を作るとすれば、どうしても作者による効果的な計算が必要になる。そんなことだと思います。
1999年05月21日:11時27分47秒
[キャンペーン適合システム]シナリオの傾向に注視すべき(提案) / PALM-12
 MAT.N氏と同じく「ほとんどのRPGはキャンペーン向きか、またはキャンペーン可能だと思います」です。
 ただ,問題となるのは,どのようなキャンペーンをやりたいのかでしょう。
 典型的な少年から勇者へのサクセス・ストーリー(?)をしたいとか,日本神話の天地開闢をモチーフにしたいとか様々な指向があると思います。 そして,その中で更に派手目な話がしたいとか,ハートフル・コメディがいいとか,キャンペーンの雰囲気に合ったシステムを選定していけば良いのではないでしょうか?。

 キャンペーンは長くなる分だけシステム・コンセプトと一致していないと行いづらいものです。 ですから,「キャンペーンにはどういった種類/傾向があり,それぞれどういったシステムが向くのか?」の方が実用的で良いかと思いますが,いかがでしょうか?。

#GMとってはある種,ネタバレの感もありますが……
#ちなみにキャンペーンとシステムのコンセプトが一致していない場合,一年ほどして傾向が修正されてる場合もよくありますね。 シナリオの傾向が変わったり,ハウス・ルールが追加されたりして。 で,ハウス・ルールなんかは見てみると素直にルーン・クエストやれよって話になったりするやつもあります(笑)。 あと,回避できるD&Dとか
1999年05月21日:10時33分51秒
[キャンペーン適合システム]PCの成長 / MAT.N
ほとんどのRPGはキャンペーン向きか、またはキャンペーン可能だと思います。
まずPCにレベルがあって成長し、変化していくRPGはキャンペーン向きと思われます。(ソードワールド、パワープレイ、真・女神転生あたり)
レベルがないシステムはPCの変化がレベル制のものより大きくないので、「単発でもキャンペーンでもOK」と思われます。(シャドウラン、TORG、ベーシックロールプレイなRPG/クトゥルフの呼び声とか)
PCに成長がほとんどなく、またシステム的に複数セッションに持ち込みにくい「深淵」はどちらかというと単発向きかと思いますが、キャンペーンというものをPCの連続性を必須ととらえなければ、これでもキャンペーンできますですね。(年代記キャンペーンとか)
1999年05月21日:08時06分37秒
[話題提案]キャンペーンプレイとシステム / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>toALL
 みなさんにいろいろ、お聞きしたく思います。
 
[キャンペーン適合システム]
 まず、キャンペーンに適合性の高いシステムの見分けかたを教えてください。
 ガープスなんか、ヒーローポイント少ないし。ヘタするとゲットしたヒーローポイント、シナリオ中で消費しちゃいかねなないと思うし。あ、まてよ、でも「マーシャルアーツ」とかだと、成長重要なのかな?うん「リン★ドリ」だと重要だよね、成長。
 システムのどんな要素に注目すれば、「キャンペーン向けのシステム」と判断できるか教えてください。
 ただ、キャンペーン向け/向けでない、だけでなくって。
 キャンペーン以外の遊びかたで遊ぶな/キャンペーン向け/どっちで遊んでも構わない/やりきりセッション向け/やりきりセッション以外で遊ぶな
 とまー、うえみたいな感じで、見分けかたを、具体的なシステム名をともなって、教えていただきたいです。
 
 結構実践的な話題としてですね。次期miniイベントを再開するときに参考にしたいんですよ。
 
[疑似キャンペーン]
 アタシ、いま「TORG」のオフィシャル・キャンペーン、『力の遺品』やってるんですけど。
 よく考えたら、はじめて、ちゃんとしたキャンペーン遊んでるんですけど、タイヘンだわー、イロイロ。
 プレイ時間も、継続も、プレイヤー間にんげん関係も、諸々全部。
 もし、キャンペーンプレイこなさなきゃ、TRPG上達しない、って話しなら、TRPG日本で広まるはずないですね、とか断言したくなっちゃいます。
 やーもー、意志決定がどーのとか、向上心がこーのとかって話ではないと思う。
 だって、アメリカと住環境違うし、ホーム・パーティーみたいな習慣ないし。よく知らないけど多分公共施設の状況だって違うんですよ(アメリカだと公共の図書館は24時間営業だって話だし)。
 偏見入ってるけど、TRPGのサークルって敷居高く見えるし(まー、コンベンションだって敷居低くはないけどさー)。
 
 キャンペーン「みたい」な遊びを、コンベンション環境でも、ちょっとがんばればできるってアイディアがあったら、教えてください。
 「妖魔夜行」とか、プレイヤーが持ちキャラ持って、一話完結を何度かやってく「疑似キャンペーン」ってやりますよね。
 あと、「サタスペ」の河嶋さんがやってられるんですけど。冒険企画局さんが提案したってお話の「オープン・キャンペーン」ってゆーのも、おもしろいですね。
 運営のポイントも絡めて、キャンペーン「みたい」な遊びかたのアイディア教えてください。
 
[キャンペーンの面白さと意義]
 んっと、やっぱ、「TRPG自体に関する本質的・全体的な考察」だから、こーゆー話題も挙げときましょーか。
 
 「キャンペーンしないと、TRPGのここがわかんない・身につかないゾ」ってお話とかあります?」
 アタシはキャンペーンって、サークル環境前提にしてる気がするんですが。
 コンベンションプレイヤーとしてはいろいろ、お聞きして、「なに言いってんのよー、コンベンションだって、ちょっと、こー、アレコレ工夫すればそれくらいできるわよー」(笑)、って持ってきたいです。
 
 いろいろの話題がまざるとイヤだから、[識別子]わけてきたいです。
 
 よろしくおねがいしまーす。
1999年05月21日:08時04分35秒
RE:コスティキャンの文学論!? / 宇津見
 ぴゅうた氏ヘ
 すいませんが、あれのどこをどう読んだら、そんな人間性やら現実認識やらにまで突っ込んだ推論を立てるのか、全く意味不明です。
 来客を少しの間観察しただけで、職業や最近の行動を言い当てる、シャーロック・ホームズじゃ、あるまいし。
1999年05月21日:08時01分20秒
[TRPGのテーマ論]システムのキャンペーン適合性 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
@でぶ猫さんWrote(「PCの生死の重要度は・・・」,「シナリオ雑談所」,でぶ猫さん記,99年05月16日:13時07分49秒)
>PCが冒険を通じて成長してゆくことが大事なゲームだと、やはりPCの死亡は一種の敗北でしょう。
 
 あー、そっかーー。そーゆー観点もありますよね。
 TRPGシステムのコンセプト論じるんなら、キャンペーン適合性も重要な論点ですよね。
 評論・レヴューにするにせよ。シナリオ作るにしろ。
 
 ふむ、これはコンベンション・プレイヤーであるアタシは見落としてましたのね。
 それとも、、やっぱ、ルール解析能力ないからかな?(苦笑)
1999年05月21日:07時43分49秒
コスティキャン / でぶ猫
 ゲームデザイナーですが、ゲーム以外には「ある日どこかのダンジョンで」上下、「ドラゴンはだめよ」上下が電撃文庫から出てますね。なかなかおもしろいです
1999年05月21日:05時02分20秒
コスティキャンの文学論!? / ぴゅうた
にゅう、ぴゅうたです。
  
  実は、今日(99年5月20日)はじめて「コスティキャンのゲーム論」を読みました。前々から知っていて、さらに馬場さんのとこからダウンロードしていたにもかかわらず、今まで読んでませんでした。ま、そんなことはどうでもいい。
  
>あるいは,こう言うことも出来る。ストーリーはまさに直線的であるが故に,人を感動させる力を持つ。
>作者は,きちんと効果を計算した上で,そのストーリーを語るのに最適な登場人物を作り出し,イベントを起こし,決断を下させ,結末を用意する。
>だからこそ,出来上がったストーリーは可能な限り最も感動的なものになる。
>もし,登場人物が作者の予定と違う行動をとったとすれば,きっと出来上がるストーリーは,予定よりつまらないものになるだろう。
  
  すいません、引用の引用をしています。
  
  個人的な感想を言わしてもらえれば、コスティキャンという人は(どういう人なのか知りませんが)、よほど現実世界というものが退屈なものに思えているのでしょうね。現実の出来事というものは、一応誰にも管理されていないとされているものです。だからコスティキャンにとっては、現実の出来事よりもストーリーとしてまとまっているものの方が、面白く、感動的である、というわけなんですよね。
  私は違います。ま、受取り方の違いと言ってしまえば、それまでかもしれませんが。
  もし、作者の用いようとしたストーリー以外のいかなるものもそれ以上の感動を生み出さないとするならば、私達人間の生み出した文学というものは、この世の真理というものにまで達していると言わざるを得ません。
  なぜなら、「現実を越える論理は存在しない」からです。
  つまりこの世のどんな現象も、作者を越える感動を与えることが出来ない訳です。
  でも、そんなことってあるのでしょうか?
  私達人間がまだその概念にすら気付いていないものが何かこの世にはあるのではないのでしょうか?
  なれば、現実を指揮者とし、みんなが作者となる「生み出されるドラマ」も、感動でき面白いストーリーであるということがあっても良いのではないのでしょうか?
  もっともっと大きな可能性があっても良いのではないのでしょうか?
  だって、ストーリーというものは現実の全てをシュミレートできますが、私達は現実の全てを知っているわけではないのですから。
  
  ごめん、なんかどーでもいい個人的なことだけだね。
1999年05月21日:03時36分57秒
TRPG総合研究室 LOG 027 / sf
 TRPG総合研究室 LOG 027として1999年05月15日から1999年05月21日までのログを切り出しました。

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