プレイング研究室 LOG 015

プレイング研究室の1998年06月26日から1998年07月06日までのログです。


98年07月06日:02時52分51秒
でぶ猫さんに質問とくらぁ(笑) / S

 うぅむ、含蓄深いっすね。
 あ、初めましてー、でぶ猫さん。Sっす。まだ、T・Kエセ代表んトコでだべってたんすけど、はいはい、僕も一言。
 
>やはり物事には行き過ぎというものがあるでしょう。
 セッション中、どの程度までキャラクターを表現することが許されるかというと、これは私が以前から「またかい」と言われそうなくらいゆーとることですが、ゲームコンセプトにそってるかぎりでしょう。
 
>では、コンセプトと無関係でもツボを押さえていればいいか?
 実はツボを押えるということは世界との相性がよい、つまり他のPCやNPCと同じ世界に存在し、同じ空気を呼吸できるということで、やはりゲームのコンセプトにしたがっていることになると思うんですね。
 
 思い出しまいましたぜ (笑)。過去の爆走プレイ (笑)。
 いや、それはともかく。
 T・Kエセ代表の文章に、「RPGはゲームである」、「キャラクターへの感情移入や、ルール的に表現されないキャラクターの表現は付加価値である」、この2つについては語られているけど、「しかし、上記二つはゲームコンセプトという緩い制約にしばられなければならない」 って部分が欠落してる、って書いてましたよね。
 確かに抜けてますなぁ (苦笑)。
 それは確かに言えるんすよ。
 って言うか、要するにでぶ猫さんの意見に賛成してるワケで、「あっちゃー、これじゃ爆走プレイばっかやってる、って見られてもしょうがないやん」 って、さっき、でぶ猫さんの文章に含まれてる警告的なニュアンスを見て、2人で言い合ってたんすよ (笑)。T・Kエセ代表は、鏡さんの文章に感激して、その直後にショック受けて、ちょっとパニくってんすけど (笑)。
 
 で、でぶ猫さんって、アイデアマンって聞いてるんで、ちょっと僕が思う事に意見欲しいんすけどね。個人的に。
 
 このゲームコンセプトってヤツが曲者で、僕もまだ上手い事、解決するアイデアを持ってないんすよ。
 ってーのが、「そのゲームを初めてやる人間にとって把握し難く」、かつ、「そのゲームをやり込んだ人間がマンネリ的な類型を破ろうとして、鍼原さんが言ってるような 『更なる個性』 を付け加えようとして、それ自体はいいんだけど、それがカオス化したケースに対する歯止めがない」 って問題、あると思うんすよ。
 例えば、最初にアーキタイプとか提示して取っ付き易くして、んでその上で、世界観的に色んなキャラクターのパターンが在り得る形にしとけばいい、って問題じゃないっしょ?
 そういう意味で言えば、ルーンクエストとかでも、あれだけカルトがあっても解決できてないっしょ? 「じゃあ、もっかいオーランスやろう」 ってトコから、カオス化は起こり得る訳っすから。
 これって、要はユーザー側の 「そのゲーム、及びワールドに対する“愛”(笑)」 を頼りにするしかないんすかね?
 「歯止めのルールは在り得るか」 という問題じゃなくって、「歯止めのルールの存在は是か非か?」 って事について、一つ、意見くれません? ちょっと、参考にしたいっす……って、ネット加入したろか、僕も。えらい疼くわ、この掲示板 (笑)。
 あ、勿論、「プレイヤーにストレスを与えない」 事を前提としてっすよ。
 
 おっと、それとPSってヤツです。
 僕自身は、ゲームコンセプトとか世界観に合わないキャラは……まぁ、破壊的じゃなけりゃ別にいいんすけどね。ただ、自分がマスターん時には徹底的にこだわりますけど (笑)。「没ッ、没ッ」 って (笑)。(←これはこれで問題あるよな(笑))
 要は、その世界観に沿ってる事が原則、しかし、あまりにも魅力的なキャラなら、存在を許してもいい……ってのが僕のスタンスっすかね。
 
 更にPS。
 えぇと、T・Kエセ代表、まだ立ち直ってません (笑)。
  
 も一つPS。
 フリートークで、まこちゃんがカワイイんじゃねーかッ!? なんて言ってた人がいたけど、なかなかいいっすよ (笑)。でも、「手ぇ出したら、塵になるまでぶん殴る」 って言われてるんで、ウチは誰も粉かけようとしません (笑)。
98年07月06日:01時07分35秒
キャラプレはどの程度まで容認される? / でぶ猫
キャラプレ派の鍼原さんなどがどの程度までやってるかは、わからないのですが。
(鍼原さんとは、昔、朱鷺田さんとこでいっかい一緒にテスト版のメガテンやった覚えはあるんですが、どんな プレイスタイルだったか覚えてなくて(^^; )
 
 やはり物事には行き過ぎというものがあるでしょう。
 セッション中、どの程度までキャラクターを表現することが許されるか というと、これは私が以前から「またかい」と言われそうなくらいゆーとる ことですが、ゲームコンセプトにそってるかぎりでしょう。
 例として、アースドーンを考えてみます。アースドーンのディシプリン、つまり職業には 哲学があり、また種族の性格傾向も明確なので、実はキャラを表現することが容易です。
 たとえばアーチャーはものごとの本質を見抜いて、一矢でここという所を射抜くことを是としています。
 つまり、無駄やごまかしを嫌います。
 この哲学に肉付けする程度までなら、まず誰にでも容認できるレベルでしょう。
 例えば、私のつくったキャラクターで、「ルパン3世の石川五右衛門」を雛型にしたやつがいます。
 こいつの口癖は「またつまらぬものを射てしまった」です。雰囲気などは元ネタを知ってる人ならわかるでしょう。 キャラを表現する楽しみは、さて、こいつを動かしたらどうなるか・・・ですね。
 ところが、さらに「実はロリコンなんだ」「実は師匠に裏切られて殺されそうになった過去があってね」「彼の使ってる 弓は(データ的には普通でも)隕石から鍛え上げたわざもので」「自分の甘さを知ってるから、無理して禁欲的に修行にはげんでるんだぜ」などなど やりはじめたら・・・うっとおしいだけですね。
 では、コンセプトと無関係でもツボを押さえていればいいか?
 実はツボを押えるということは世界との相性がよい、つまり他のPCやNPCと同じ世界に存在し、同じ空気を呼吸できると いうことで、やはりゲームのコンセプトにしたがっていることになると思うんですね。
 
 キャラクターを表現するということは、付加価値にすぎず、なくてもゲームとしては機能するものです。
 しかし、紙に書かれたデータに過ぎないキャラクターに生命を与えることは、ゲームを面白いものにしてくれます。
 ただ、生命を吹き込むということはなにもかもを表現しなければならないわけではありません。その世界に生まれ、その世界のある価値観を もったPCが、何を考え、どう行動したか、端的な部分を機会あれば押し出せばよいのです。そうすれば、キャラクターのありようを他プレイヤーやマスター をあまりわずらわせなくても印象づけることができるでしょう。
 いかに「らしく」「印象的な」言動を実現できたか、おそらく、これがキャラクターを表現することの成功の目安ではないでしょうか?
 もちろん、それらはゲームの世界にしっくりくるものでなければなりません。でないと、よい印象より悪い印象を与える危険があります。
 ☆トラウマのせいで動物虐待がすきで薬物依存の傾向のあるPCってインパクトはあってもウィッチクエストとかではむきませんね。
98年07月06日:00時31分01秒
RE:鏡氏、そして皆様方へ / 鏡
 T・K代表さんへ。
 
 あなたとご友人方との遊び方に関するノウハウとレポートは、大変面白く読ませていただきました。卓上RPGのより深い楽しみ方を追求する姿に感銘を受けると共に、この一連の文章がRPGについて試行錯誤する者にとって大変貴重なものとなるであろうと確信致しておるところです。多くの人々に長く利用されるためにも、過去ログに埋もれてしまう前に長文投稿ページ等にもコピー投稿されることをお勧め致します。
 
 さて、まず大変お気になさっているらしき私の前回の書き込み(98年6月24日「RE:ボクなりに結論が出たので報告します」)について説明申しあげます。
 
 直後に狂兵さんからもご指摘をいただきましたが、当時はまだあなた方のプレイスタイルに関する理解はできておりませんでした。が、その一方で、まこさんの書きこみ(「ボクなりの結論が出たので報告します」)によって討議自体が終わろうとしていました。そこで、「情報不足の場合は、最悪の状況を想定する」という持論に従い、「まこさんの書きこみから推測される最も不適切なプレイスタイル」を想定して書きこんだというのが、その経緯であります。(彼女の書き込みから読み取れる以上に、更にかなり深読みして想定しましたので、念のため。)
 その後のあなたの書きこみによって、幸いこの想定が誤りであることが分かり、安心しました。もちろん大変失礼なことでありましたので、誤解については喜んでお詫び申しあげます。
 
 次に、下記の一文に関して、補足を申しあげます。
 
 >極端な話、あなた方との間でしかRPGを遊べないということになったなら、
 >それはあまり良いこととは 思えないのです。
 
 この苦言は、二つの可能性を想定したものです。ひとつは「閉鎖的な状況で、きわめて偏った方向に特化したプレイに慣れてしまった場合、それ以外の者とプレイが合わなくなるのではないか?」という心配ですが、これはあなたの書きこみによって杞憂であることが分かりました。(あなた方のプレイの基礎に多様なスタイルが混在していることが確認できましたので。)
 しかし、もうひとつの「非常に優れたプレイであったとしても、一つのプレイスタイルのみに習熟した場合、それ以外のスタイルを持つ者(特に自分よりも経験の浅い者)に対処できなくなりはしないか?」という不安は残ります。・・・尤もこれは、例えばまこさんが他の人にRPGを教えるようになってからの問題ですから、今後の課題とすれば良いことなのですが。(FREETALKなどを拝見するに、まこさんには他の場でのプレイ経験もあるようですので、これまた杞憂になりそうです。)
 
 一連の書き込みを数回読んだ範囲ではありますが、ここであなた方のプレイスタイルに対する私個人の感想を申しあげます。
 あなた方のプレイスタイルは、現在の卓上RPGの遊び手にとって目標となりうるものであると推察いたします。参加者全員の総意によって日々続けられた研鑚の最善の結果であり、あなた方が誰に対しても自慢できることです。
 ただ、更に完成度を高めることと並行して今後重要なのは、その普遍性(あるいは伝達)であろうと考えます。他の者もあなた方のように楽しめるようにするためのノウハウの伝達方法、また、コンベンションのような場で不特定多数を相手にする際の問題など・・・。既に自ら課題とされているかも知れませんが、これらの問題を解決した暁には、あなた方が築き上げた認識と技術は、誰もが目指す頂のひとつとなりうるでしょう。
 日々ご多忙とは伺いましたが、今後の更なる研鑚が実を結ぶことを願って止みません。
 
 最後に、図々しくも我侭をひとつ申し添えます。
 あなた方のノウハウ、あなた方にとっては当たり前の事かも知れないプレイのポイント・注意点などを箇条書きにして「長文投稿」あたりにでも公表していただきたく進言いたします。(私のサイトでも投稿を受け付けておりますが、道義上この場ではこちらをお勧めしております。)大変重宝な資料となるでしょうし、ご友人Sさんの方法論やシステムの発表を待つ間、私どもの手慰みにでもさせていただければ幸いなのですが・・・。どうか御一考下さい。
 
 以上、長くなりましたが、先の「苦言」の元となった私の不安は解消されました。後はあなた方のプレイが末永く、楽しく有意義なものであることを祈るばかりです。
 長文陳謝。(所要時間3時間(笑))
98年07月05日:22時54分04秒
キャラクタープレイとは役作りが本質であるか否か?(>鍼原様へ) / T・K代表、あーんどS
 本題とする 「我々は普通か異端か」、「妹を参加させていいものか否か」 に関する、でぶ猫様、寺田様、鍼原様、sf様、狂兵様のレスは取り敢えずのところ、後回しにさせて戴きます。申し訳ありません。
 この場では端的に、お応え戴き有難うございます、とお礼を申し上げておきます。正直、お応えして戴いた内容にほっとしているところです。
 
 本題ですが。
 私個人として非常に興味が湧いた、鍼原様のご質問に対してお応えさせて戴きます。別段、話の流れに逆らうものでもなく、むしろ補足、あるいは求心させ得る要素を含むと判断致しました。
 ……と、その前に、鍼原様へ。
 
>先日は、T・K代表様の書込み意図、少々勘ぐってしまって、失礼しました。
 
 何か誤解を招かれない事を、私、書き込んでしまっていたでしょうか?
 それとも、私が書き込みを開始する以前の段階での 「想像される我々の非一般的なプレイスタイル」 に対する鍼原様の 「RE:ボクなりに結論が出たので報告します」(プレイング研究室LOG 014)、この文中に於ける 「もし、いつか、まこさんが、一般のコンベンション遊び行ったら、もしかしたら、まこさん、身についた遊び方アジャスト(調整)するのに、少し苦労するかもしんない、ぜんぜんオッケーかもしんない」 辺りの発言に関し、私に配慮して下さっておられるのでしょうか?
 
 前者でしたら、申し訳ありません、場所をご指摘下されば訂正します。
 後者でしたら、お気に為されなくても。恐縮です。お気遣い、お礼申し上げます。
 ……いや、ここまで書いて気が付きました。鍼原様の 「re:続“鏡氏、そして皆様方へ”」 と、それに対する私の前の方の 「鍼原神無様へ」 の事ですね。(成程、同じような標題だと後で苦労しますね (苦笑))
 いえ、それこそお気に為されずに。私自身、最終目的がどうのこうのと言いながら、何処となく楽しんでいる自分に 「おい」 と突っ込みたいぐらいですから (笑)。
 いい思い出になりそうです。
 さて、本題ですが。
 
>TRPGでのキャラクタープレイを「演技」ではない、と言ったとき、当然、「では何なの?」って疑問が出ます。アタシ、まだ、うまく説明できないのですけれど、演劇関係のかたがゆぅ「『役作り』を試みること」、なのではないか、って考えているのですけれど。いかがおもわれますでしょうか?
 
> 「TRPGにおける、キャラクタープレイとは『演技』ではない、それはPL&GMが協力しあって、PC&NPCの『役作り』を試みること」である。←おそらくは、「ゲーム的に処理される、ストーリーを前提にして」って条件をつけるべきか? いま考え中なのですけれど。
 
 これには……いや、私は 「成程」 と頷いてしまいました。
 
 まず、前提を置きましょう。
 馬場氏の講座で主張されている事を、「社会的役割分担としてのロールプレイはRPGに於いて必須だが、より個人的なキャラクタープレイは時として弊害を生む。従って、それは付加価値的にしか存在を認められない」 と言い換えてみます。
 そして、キャラクタープレイを重視する方々は、この点に違和感を覚えるように思われます。
 私自身としては、馬場氏の講座にはほぼ納得できるのですが、それはあくまで私が、ゲームとしての特質と、社会的ロールプレイを下敷きにしている立場にいるからでしょう。
 私のこの観点から見ればRPGのスタイルは、「相対的な差異」 と言うより、「階層的な差異」 と言い換える事ができます。
 
 その前提の上で。
 鍼原様の書き込みを読んで、もしかすると、と思ったのですが、キャラクタープレイは更に 「必須」 と 「付加価値」 に分ける事ができるのではないでしょうか?
 つまり、
● 必須…………鍼原様が仰る 「役作り」 と、それに沿った言動
● 付加価値……我々が行っているような、実際の演技による 「表現、描写」
 の2つに、です。
 これを踏まえますと、RPGは、以下のように優先度の多層化ができるのではないでしょうか。
 
 1. 馬場氏の講座で語られる、RPGとしての基本と、社会的役割演技=本来の意味でのロールプレイ
 2. 鍼原様が仰る 「役作り」 と、それに沿った言動
 3. 我々が行っているような、実際の演技による 「表現、描写」
 
 1番から3番までの 「演技」 が、あまりに漠然とし、人によって優先順位が異なっていた為、多くの物議を醸し出したのでは? (いや、「順位を考える自体が無意味である」 と仰る方がいるかも知れませんが、私としては、「RPGが“ゲーム”として成立する」、言い換えれば、「みなが楽しめる」 為には必要だと思うので)
 RPGという 「ゲーム」 に必要なものを、「誰でもできるゲーム=ホビー」 としての一般性をなるべく残す形で抽出すれば、こういう優先順位になるのではないでしょうか?
 そういう事も含めて仰っておられるのですよね?
 
 その鍼原様のお考えに対し、矛盾や問題があるか否か、でありますか……しかし、私自身は劇団関係者ではないので、今、お応えできるとしたら、あくまで私の考えになりますが。門外漢の口出しで、混乱が起こるのを覚悟で言えば、少なくとも感覚的には全く違和感がありません。
 演技は、ここでのご質問に適した形で2つの側面に分ける事ができると思うのです。
 一つは、仮想人格のシミュレーション。
 もう一つは、それを対外的に伝える表現技術。
 前者は、先の1番から3番までの優先順位で言うところの、2番……鍼原様が仰る 「役作り」 がないと、決して成立しません。個性なんてどうでもいい、というエキストラ的な扱いならともかく。
 勿論、後者は3番の事。これまた、まず先に2番あっての話あり、現状、でぶ猫様が仰る通り、「できる人ならやればいい」 的な付加価値に過ぎないでしょう。
 
 少しご質問の意図とは外れるかも知れませんが……RPGに於いて世界観はルールの一種、緩い制約としてのルールだと考えられているのが一般的なようです。
 これをコンピュータRPGのフィールドマップに喩えた時、鍼原様が仰る 「役作り」 は、「キャラクターのアルゴリズム」 に喩える事ができるのではないでしょうか。
 勿論、アルゴリズムを設定しないとマップ上でキャラクターは動いてくれませんし、もしくは無秩序が発生するだけです。
 プレイヤー同士のモラル、システム、世界観、これらをマクロコスモス的なルールとすれば……そこでいざ実際に活躍するキャラクターにとっての、ミクロコスモス的なルールについて不完全なのが、馬場氏の講座なのではないでしょうか。
 キャラクタープレイを一種のルールと考えてみる訳です。ある意味、レトリカルな表現ですが、「プレイヤーが“個性の設定”に沿っている」 以上、そう考えてもよいのでは?
 マスターが 「ルールだけでは不完全なRPGを完全化する為に、1回きりの使い捨てのシナリオを作る」 とすれば、一方でプレイヤーが 「そこまでやってもまだ不完全であるRPGを完全化する為に、一回一回のプレイ中に 『役作り』 を結実させていく」。だとすれば、「ゲームをやっているものの、結果としてストーリー的な創作行為でもある」 という観点から見れば、これには大いに頷けます。シンメトリな対比にそそられます (笑)。
 その不完全性、非再現性もまた醍醐味でしょう。鍼原様が仰る、この辺りをゲーム的に楽しむ、という点には共感を抱きます。
 
 鍼原様が例の上位・下位ルールについて興味を示された事から考えますと、これをより確実化する為の方法論を想定しておられるのでしょうか?
 キャラクタープレイのより前提的な部分 (役作り) をルール化する事ができれば、より遊び易いゲーム足り得るのでしょうが……これは、試みとしては既に 〈ガープス〉、あるいはよりゲームに適合化しての 〈天羅〉、これらに雛型を見出せるでしょう。(まぁ、馬場氏の方法論をスッ飛ばして、キャラクタープレイのみに走りがち……という点に非難があるようですが、試みそのものは面白いと思います)
 また、キャラクターを 「自分独自のもの」 と感じさせるか否か、という点に於いては反感を持つ方々もいらっしゃるようですが、閉塞しがちなPCの設定を外に向けて対応させる試みという意味で、アーキタイプ相関図は面白いと考えます。
 
 しかし、鍼原様が仰っておられるのは更にその一歩踏み込んだ部分、「で、いざ、それをプレイヤー同士がどう処理していくのか、あるいはプレイヤー個人が内面的にどう処理するのか」 という事でしょうか? このルール化、即ち誰でも楽しめる形にする事でしょうか? 単なるお約束ではなく、あくまでその場その場の独創的な発想を活かす形で?
 だとすれば、それは……私の手には余る事です。
 確か朱鷺田氏が仰っておられる見解だったとうろ覚えなのですが、例えばプレイヤーに 「カードを持たせる」、「ルールの処理に於いて、メタファーなどを散りばめる事でプレイヤーに暗示を掛ける」、こういった類いの方法で、プレイヤーの心理に対してある種の指向性 (ガイド) を作る事は可能でしょうが……難しいですね。
 
 ……いきなり申し訳ありません。今、私の仲間のSが訪れていまして。
 Sです。例の上位・下位ルールや三すくみを提案し、我々のオリジナルシステム、〈プレーンフレーム〉 の作成を手がけるなどしている人間です。
 ここに書かせろとうるさくせがむもので……キーボードを明渡します。
 
 ●  ●  ●  ●
 
 初めましてー。多分、それに近い方法はあると思いますよー。って言っても、僕は直感型の人間だから、無責任に言ってるだけっスけど (笑)。
 実際、まだテストプレイはしてないし、仲間内にも言ってませんけど、僕はかなり前から形にしてるルールがあります。
 朱鷺田さんが言ってる方法と根本的にそう差がある訳じゃないっスけど、『感情移入を維持したままでプレイヤーとキャラクターの客体的乖離を緩やかに、でありながら強く行わせ、その上で“キャラクターの役作り”を支援し、かつゲーム全体を巨視的に俯瞰させて、ドラマの育成を支援する仕掛け』 って言ったら、大体、見当付くんじゃないっスか? まさしく何処にでもありそうな、安直な素人発想 (笑)。
 
 何にしても現在のTRPGって、意志決定とそれに対するレスポンス、つまり拡大するインタラクティヴ性に限って言えば、あと数年も経たない内にコンピュータやネットを使ったメディアで表現できると思うんですよ。視覚的、あるいは聴覚的な部分に訴えかける強さなんて、既にてんで敵わねぇし。いやぁ、FF8、楽しみっスね (笑)。ティファを超えるキャラ、欲しいっスね (笑)。
 
 だとすれば、TRPGが持っている 『みんなで参加して、その場で想像・創造行為を“共有”している』 っていう臨場感ですか、これを強調する方向を模索するのもいいんじゃないっスかね。『それをやるぐらいなら演劇やるか、同人誌でも作った方がいい』 なんて意見もありますけど、ゲームとしての本質を基盤に持ち、決して忘れていないなら、べっつに邪道じゃないと思いますよ。現状のRPG界の大半を占めてるライトユーザーの需要にも合ってるし、それならコアユーザーでも違和感ない筈ですし。
 それらを総合的に考えて、鍼原さんの 『TRPGにおける、キャラクタープレイとは演技ではない、それはPL&GMが協力しあって、PC&NPCの役作りを試みることである』 って意見は、マジでナイスっすね。もうめっちゃ共感できます。そこに痺れる、憧れる、ですね。
 
 ……あ、そうそう。僕とかはかなりブッ壊れた人間っスけど、えぇとここではT・K代表か、コイツってば根が真面目なだけなんで、もうちょっと付き合ってやって下さいねー……って、いきなり失礼しましたー。
 
 ●  ●  ●  ●
 
 申し訳ありません、「書かせて書かせて、お願いだから愛のメッセージを届けさせて」 と (この言葉自体も書けと) とあまりにしつこくせがむもので……Sには、何となく逆らえないのです (苦笑)。
 不快感がありましたら、この私が代わって謝罪致します。再度、申し訳ありません。
 
 ……ええー……支離滅裂に陥っているような気がしますが、意外とこれでご質問に対する応えになっておりますような……気もしないでもないのですが。よろしいでしょうか?
 
 であると同時に、「現在の我々の基本スタイル」 に対する説明補完にもなったと思われます。
 
 それにしても、何が何でも暴力的長文ですね (苦笑)。重ね重ねお詫び致します。
98年07月05日:20時39分31秒
赤の他人とぷれいんぐ〜 / 狂兵
 まるで知らない人達とセッションするのって、海外旅行みたいなもんですわな。
 法律も習慣も嗜好も違う人達の群に飛び込むのですから。そりゃトラブル続出って感じになりますわ。
 そんな時にはどうしてます?大体大別すると、
 「自分の法を固持する派」と「郷には入れば郷に従う派」の二つになると思いますけど。
 ちなみに私は自分の考え方を固持する派です。
「日本人は日本語喋れりゃ良いんじゃい!英語なんざ知るかい!」って感じですか?
 なので、自分と考え方の違う所にはなるべく参加しないようにしてます。
 その見極めは大体システムでつけてます。
98年07月05日:17時05分34秒
集団内で純化されたノウハウの明文化 / sf
 他の人も書いていますけど、T・Kさんのほうで行われているスタイルは、おそらくは王道ではあるが、ふつうではない。という状況だと思います。なんというか、技量卓越、という感じで。
 でも、もしかすると仲間うちで煮詰まる(っていいかたあれかもしれんが純化するでもいいか)までたくさん遊んで、しかも飽きないように実験していれば、そうなる……ってものではあるのかも知れません。うーむ、"ロールプレイングの達人"で書かれていたやりかたそのものって感じかなあ。
 遺憾ながら、文章化の点でもツッコミ具合の点でも負けているうえに最近遊んでないのがあれですが、私も似たようなことは試してきました。
 ルールレスのフルアドリブをキャンペーンで試したうえで長所と限界を悟るとか(で語り部を書いたわけだが)。キャラクターの個性の表現には過度の感情移入は障害であり人格演出のためには行動を介して明確に他の参加者に伝達しなければ無意味であるとか。類型的でないキャラクターを練り上げるための事前・事後ミーティングのほうにプレイ時間に数倍する時間をかけてみるとか。過去はPCだったNPCや重要でないNPCを手の空いているプレイヤーに担当させるとか。いちおうは、試してはいます。
 でまあ、そうやっていろいろやっているがゆえに、ある意味で内輪で固まって、よそから参加しにくいってことにもなってまして。いろいろと試したうえでの暗黙の了解というものが大きなものになってしまっているんですよね。
 その暗黙の了解・暗黙の手順からなるノウハウの明文化をしようというのが、T・Kさんのほうで試されていることなんだと思いますが……公開を期待しとります、正直なところ。(;^^)
#私も頑張ろう。(;^^)
98年07月05日:15時43分15秒
T・K代表様の書込みへの感想、等 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
 え〜、でぶ猫さん、寺田さん、と続いた後に、アタシなぞが書込むのはせんえつかとは思いますけど。例によって、出しゃばり(笑)。
 T・K代表様の書込みを読ませていただいて、理解できた範囲での感想は……、おもしろすぎる☆ 寺田さんの感想にやや近いニュアンスでしょうか?
 
 先日は、T・K代表様の書込み意図、少々勘ぐってしまって、失礼しました。
 で、T・K代表様がたいへん苦労して書込みをされた動機、のあたりへのお返事なのですけれど。
 アタシの体験的な判断にすぎないので説得的に論拠を述べることがしにくいのですけれど。妹さんは、おそらく、お仲間で身につけられたTRPGの楽しみかたを、多少アジャストしたほうが、例えば、コンベンションなどで見知らぬ人とTRPGを遊びやすいのではないか、とゆぅ気がしました。
 断定はいたしかねますけれど、蓋然性が高いよぉに思われます。ただ、そのアジャストはさして困難とも思われません。
 よぉは「同卓メンバーがそのセッションに何を求めてるか」を見極めることができればちょっとした工夫でアジャストはできるかと思います。で、妹さんは、もしかしたら初めはとまどうかもしれませんけれど、その辺の見極めができないかたではないと思いました。
 
 アタシ、逆にT・K代表様にご質問したいことあるのですけれど。よいでしょうか?
 お仲間はキャンペーン主体にTRPGをされているのですよね。
 えぇと、アタシは、一般にTRPGのプレイヤーに「演技」を要求することは困難だって思うてtます。その意味ではT・K代表様のお仲間は例外的にメンバーに恵まれている、って感想を抱いちゃいました。
 特にコンベンションなどで、初対面の面子がセッションに参加するときに「演技」を期待することはできない。だいたい、アタシだってちゃんとした「演技」なんてできないです(笑)。
 一方、セッションを成立させるために、「ルールの解釈」をタイトにした約束事でプレイの幅に強く限定をかけるセッションハンドリングの場合、1.「約束事」の集積自体が新規参入PLをはじき出してしまう(それも古参PLが無自覚な内に)、2.時として、ストーリー的に不自然な展開が、よしとされてしまう。との、もんだいが発生しやすく思います。
 で、アタシは、プレイヤーサイドから、キャラクタープレイ(←「馬場講座」で規定されている「キャラクタープレイ」ではなく、もっと一般的に、PCの個性、特に行為の動機付けを重視して、表現すること)を無理なくセッションに持ち込む方法をアレコレ考え、ささやかに、試みております。
 
 前置きが長くなりました、質問に移らせてください(礼)。TRPGでのキャラクタープレイを「演技」ではない、と言ったとき、当然、「では何なの?」って疑問が出ます。アタシ、まだ、うまく説明できないのですけれど、演劇関係のかたがゆぅ「『役作り』を試みること」、なのではないか、って考えているのですけれど。いかがおもわれますでしょうか?
 「役作り」が成功しなければ、キャラクタープレイは失敗、でも、ストーリー(セッション)は十分成立させることはできる、−−ってゆぅか、現状では、アタシはいつも、その辺を狙ってコンベンションなどでプレイしてるのですけれど。アタシ個人としては、「セッションは成立しても、キャラクタープレイは常に成立するとは限らない」、ってあたりの「(キャラクタープレイの)再現性のなさ」をゲーム的に楽しんじゃう、ってあたりが、現状の遊び方です。
 えっと、話を戻します。現状では、一般に向けて「演劇でゆぅ『役作り』」の概念を説得的に、かつコンパクトに説明することがアタシにはできないでいます。おそろしく、多くの前提をおかなくってはいけない。
 で、T・K代表様は、演劇関係のお仲間が多いってお聞きしましたので、よろしければ、ご質問を許していただきたいのですけれど。アタシの考えてる説明の方向性には、何か矛盾とか、もんだいとか潜んでいますでしょうか? →「TRPGにおける、キャラクタープレイとは『演技』ではない、それはPL&GMが協力しあって、PC&NPCの『役作り』を試みること」である。←おそらくは、「ゲーム的に処理される、ストーリーを前提にして」って条件をつけるべきか? いま考え中なのですけれど。
 先日Resをいただきました、「上位ルール」、「下位ルール」の件も、アタシが「考えていた」ってゆぅのは、この件の関連で考えていたにすぎませんです。ハイ。
 手前勝手な質問をなげかけまして、きょぉしゅくですけれど。いかが思われますでしょおか?
98年07月05日:01時56分24秒
T・K代表さんの一連の書き込みと問いに関して私なりの話 / 寺田大典
 ども。T・K代表さん、前の書き込みは途中で切れてしまって(;_;)失礼いたしました。あんな書き込みにも丁寧に レス付けて頂いてありがとうございます。

 私の他者の遊び方のスタンスに関してはT・K代表さんが引用して下さった所が本心です。しかし、自分に対し
 て「だから現状でいいんだよ」とは思っていません(この辺、自分勝手ですが)」その理由は、「やっぱり今より自
 分が<面白い>と思えるTRPGの遊び方があるのならそれを知りたいし、やりたい」と考えてしまうからです。
 T・K代表さんの「一般の遊び方を知りたい」という意見は「私たちが知らない<面白いやり方>が隠されている
 かも」という考えはあると思うのです。

 で、それを踏まえた上で、T・K代表さんの書き込みを呼んだ感想は......「ずるいっすよ」です。(苦笑)
 TRPG人口密度が最も多いと思われる東京でそれなりにちょっと(?)サルにTRPGやってた私から見ると、T・K
 代表さんのグループの遊び方の方向性というのむしろは「隙の無いスタンダード」であると思います。しかし、そ
 の遊び方は一般とは「特殊」と言われるかもしれません。

 それはなぜか?

 誤解を恐れずに言わせてもらえば「各分野にて一般にTRPGをやっている人間がパッと考えて行える方法論の
 先を行ってしまっているからそれをいきなり目の前に差し出されても実践できるかどうかというレベルに見える」
 わけです。私は、T・K代表さんの文章を読んで非常にうらやましさと嫉妬を覚えた事を正直に告白します。だって、
 私の周りにはそうした実験的なセッションを行うと思う人も、そういう時間を費やそうと思う人もほとんどいなかっ
 たから。そして、そこで行った事を蓄積し、明確に文章化できるだけの能力が今の自分に無いからです。

 T・K代表さんのTRPGプレイではなく、「TRPGに対する取り組みの姿勢」でしたら「異端」と結構言えるかも(^_^;)。
 いや、グループでそこまでこだわってしっかりやっている人達ってみないです。で、通常は「自分の得意分野や嗜好
 に突出して鍛える」ところをT・K代表さんのところは「面白ければ取り入れるという事で全部やってみる」という事が
 できる意志を持った人間の集合環境いうのが非常にうらやましいです。普通そこまでいかないわけです。で、私とか
 は、このsfさんの伝言板では各人がT・K代表さんのグループが行っている事をやろうとしていると思っています。
 しかし、毎度顔を合わせたり、実際に会話をしているわけでは無い為、様々なねじれや弊害が起こってしまう(私は
 これは悲しいがしょうがないと思っています)

 「発想はした事あるけど、現実に行うに至らなかった」セッション形態がT・K代表さんの話の中に私にとってはダイ
 ヤの様にちりばめられていました。個人的にメール送って良いですか?(^_^;)幾つかの実験セッションの結果とそ
 の過程で出た方法論(例:二重人格演技が初心者にもたらす効力)を私は非常に知りたいです。

 私が、二年前ぐらいから気が向いた時にやっているセッションキャンペーンで採用しているプレイ方式なのですが、
 「各プレイヤーは、判定で決まった結果以上の効力を出さない&他者の状況を確定させてしまわない範囲において
 自分の周囲の状況を<演出>してよい」というルールがあります。まぁ、やっている所はやっているのでしょうが、
 普段遊んでいない面子も混ざるオムニバスのキャンペーン&超シリアスのセッションで行う時には「明言化」が必要
 なのです。で、それを、T・K代表さんに【演技】にて言われてショック。ショックなのは、言われたからというより、T・K
 代表さんの書きぶりでは「T・K代表さんのグループは全員それができる」と読めたから。私は、前述の事を提案した
 けど、それができるのはまだ「グループの一部」だからです。で、それの起因は、やはり「相手にわかる文章化の能
 力」だなぁと思ってジェラシーいっぱいです。

 あー、今は、何か、同じ事の繰り返し書いちゃうので(もう既に.....)とりあえず、ここまでにします。最近、企画中心で実際にTRPGやって
 なかったけど、むちゃくちゃやりたくなってきた(あずまさんが書いた「うずく文章」ってやつですな)。ではでは。

 P.S.
 まこさんもいろいろ思う事あると思うし、それを心に抱いて遊びましょう♪TRPGに「絶対の正解」はないし、「まこさんの心に抱いた疑問
 は、まこさんが<とても楽しいと感じられるTRPG>への道」だと絶対に思うから。そして、それをないがしろにするようなお兄さんではな
 いと思うからです。
98年07月04日:22時12分09秒
T・K代表さんへ / でぶ猫
なにかコメントしようかなと思いましたが、コメントすべきことはあまりありません。
 
 まず、私のスタンスをとーってもおおまかにいえば
 
 ・RPGはゲームである。
 ・キャラクターへの感情移入や、ルール的に表現されないキャラクターの表現は付加価値である。
 (付加価値:なくてもいいのだが、あったほうがよいもの。そして、しばしば選択の決定打になるもの
  例えば、マルチプレイボードゲームとRPGという「ゲーム」のどちらを選ぶかというとき、RPG
  をやりたいと決定させるものであったりします。早い話がキャラクタプレイやりたいからRPGとい
  う場合がそうですね)
 ・しかし、上記二つはゲームコンセプトという緩い制約にしばられなければならない。
 
 三つめについては特に行数をさいてはいませんが、他の二つについてはまったく矛盾するところがなく、 異論をさしはさみようがありません。
 ご自身の環境をガラパゴスになぞらえましたが、むしろそれが幸いしたところもあるかもしれませんね。
98年07月04日:17時10分46秒
続々々“鏡氏、そして皆様方へ”、「多重人格演技」、「ゲームとして」、「終」 / T・K代表
 前中後編の後編であります。やや遅れてしまい、申し訳ありません。
 推奨される長さに比べれば、やはり暴力的長文であります。申し訳ございません。
 ……謝れば済む、という問題でもない事は重々承知しているのですが……繰り返すしかありません。申し訳ございません。

  ■【多重人格演技】■
 
 例えば、最近では 〈N◎VA〉 などが我々では好例ですが、キャラクターがそれぞれ別行動を取る傾向にあるゲームがあります。
 そのような 「場面転換」 がある場合でもなければ、五重人格演技など非常に困難です。例え演じ分けができていても、一人を表現している内に 「もう一人は何をしている」 と突っ込まれがち……と言えます。情景中の時間があくまで流れているのに対し、表現されていないキャラクターの時間が止まってしまう為です。
 我々の中で最も演技力がある人間ですら、「同時に五重に演じるのは脳が沸騰する」 と躊躇します。
 同時に演じたその上で、シーンの要で 「感動」 させるなど、我々はまだ顕著な実例がありませんし、おそらく無理でしょう。
 
 また、「どれだけ一度に多くを演じられるか」 という競い方などは主眼にありません。ストーリー上の人物関係図として、キャラクターが多々存在する事が要求される場合などに行われるのです。
 我々の中には、「やたらめったら複雑な状況の中で、どう転ずるべきかを悩みまくる……自分が演じているキャラ間で利害関係があるなら、なおさらジレンマを楽しめる……そうは思わないか、君達」 などと言い出す、マルチゲームやコンゲーム的なプレイに嗜好を持つややこしい輩もいるのです。
 ……私の事ですが。
 
 唐突に話が変わるようですが。
 現在、行っておりますキャンペーンの一つに、〈指輪物語〉(+部分的にロールマスター) を用いたものがあり、参加プレイヤー3人、各自が一人二役、パーティー総数6人という構成です。
 世界こそ中つ国ではありませんが、いわゆる普通のファンタジー世界であり、そこで行われるのも普通のミッションクリア型、障害克服がメインとなる、システマティックな遊び方であります。
 が、同時にキャラクタープレイにはとことんこだわっている訳ですが。
 
 多重人格演技に関しては、これがいい例だと思われます。同時にその場に混在して十分な演じ分けができるのは一人二役、適性に富む者で三役が限界……と、我々の間では考えております。
 自分が担当しているPC同士の会話など、まさしくドラゴンボールの悟空・悟飯・悟天が話し合うようなモノですが、これを実際にリアルタイムで行うのは我々の誰もがてこずりますし、少なくとも熱の入った演技などできません。普通は単なる行動宣言を以って、コマンド的に省略します。
 
 この 〈指輪〉 のキャンペーンに於いては、単にメンバーの都合でプレイヤーが3人しか集まれず、「戦闘しまくるつもりなのに3人パーティーではなぁ」 という問題に対する解決として発生した、実に全くいい加減な始まり方でありました。
 そういう意味での需要が有るからこそ、多重人格演技が行われるのです。
 逆に言えば、十分にプレイヤーの数が確保できている場合では行いません。好んでやる人間もいますが、他のプレイヤーが一人一役だとしても、別に問題は生じません。
 
 また、休んだプレイヤーAがいるとします。かつ、そのキャラクターXがPCである事が望ましいシナリオであるとします。仕方がなく、代役として他のプレイヤーBがXを演じるとします。
 こうした時にも多重人格演技は便利である、と考えられている訳です。何せ、Bは本来の持ちキャラYも演じなければならないのですから、キャラクターを単にユニットとしてしか考えていないと、XがYの盾になる……という事が脈絡もなく起こりかねません。
 より正確にトレースするなら、BがAというプレイヤーを演じて、かつその上でAとしてXを演じる……というメタ演技が必要にはなりますが、これは互いによく見知っている仲間内でなければできないでしょう。単なる 「物まね」 ではなく、相手の 「考え方」 を真似るのが重要なのですから。
 難点は、あまりにも見事な (かつどうでもいい物まねまでやられる) メタ演技だと、「え、あの時、Aは参加していたよな?」 という記憶の食い違いが起こる事でしょうか。
 ……いや、冗談ではないのですが。実際、起こります。
 
 ところで、逆説的に聞こえるやも知れませんが。
 「未熟なプレイヤーが多重人格演技を行うと、RPGそのものについて上達していく」 という事例があります。
 端的に言えば、キャラクターAとキャラクターBの区別を付ける為に、より真剣に力を入れざるを得ないからですが、昔、それまで多重人格演技を経験していなかった人間が、「声や口調、その他の全ての個性を、AとBで両極端・正反対に設定するのがよい」 と要領を教えられ、実践したところ、ある劇的な変化が起こりました。
 客体的乖離に無頓着だと往々にして起こりがちな 「プレイヤーとキャラクターの未分離」 という問題がありますが、初めからはっきりと分かる形で 「AとBの分離の必要性」 を提示されるからでしょう。
 
 つまり、AとBを演じ分けるという事は、「ある一つのキャラクターに成りきって没入してしまう」 事から一歩引いて、「プレイヤー自身の意識」 を起点にする事が必要だからです。
 プレイヤー自身の意識をホームとして、ホーム→A→ホーム→B→ホーム→A……という循環にならざるを得ないのです。A→B→A→B……だと、本物の多重人格ですから。
 そして、「プレイヤーの意識がキャラクターの意識に対して俯瞰する」 事は、ゲーム全体を落ち付いて見渡せるという事です。
 
 システムの正確な、かつ効果的な運用。
 シナリオ上の障害に対してどう干渉していくかという戦略的思考。
 ドラマ的な構造上の彼我の立ち位置の把握と、そこから如何にストーリーが流れるかという演繹・帰納的な考察、あるいはそれをねじ曲げる創作性の発揮。
 何より、コミュニケーションとしての場に対する配慮。
 
 これらの、「プレイヤーとキャラクターが未分離」 な状態、「ある一つのキャラクターに成りきって没入してしまう」 状態では決してできない、そして往々にしてプレイを破綻させてしまう迷惑なプレイがなくなるのです。
 実際、その劇的な変化を遂げた人物は、それ以後、どんどんと上達しました。「要するに、“ゲームをしていなかった”からRPGが下手だったんですね」 とは、本人の弁です。

  ■【ゲームとして】■
 
 そして、ここを特に強調したいのですが。
 演劇的である事に対する意味としての、ゲーム性、競合性、あるいはシステマティックな部分などが 「同時に」 ないと、我々は歯ごたえを感じられません。と言うより、面白くありません。
 はっきり言います。あくまで我々はRPGがしたいのです。
 本来の我々の代表Hは、演劇で主役を張る事も多々あり、劇団内でそれ相応の立場におりますが……そのHからして、「RPGはゲーム以外の何物でもない、ルールレスやシナリオレスなど本来的に邪道だ。オレはタクティクスな思考がしたいんだ。いや、猿と言われてもいい、それ以前にダイスを振らせろ。頼むから振らせろ」 と考える極端なスタンスに、12年間ずっと一貫して立っています。
 無論、ルールレスやシナリオレスでやる場合はやる場合で、全員で面白がる訳ですが。
 ……自分で書きながら 「あまりにも矛盾に満ちているな」 と苦笑しておりますが、実際の実態としてこうなので、他に表しようがありません。
 
 話が逸れましたが、とは言え、正直申し上げて部分・完全を問わずルールレスは6〜7年前の時点で食傷気味であります。大多数がそう考えております。私も、です。
 もっぱらルールと面向かって有利不利を考え込み、ビジュアルを肉付けしていくのが主流なのです。その編み出した組み合わせの強さを以って、より強い障害を乗り越えていく事に快楽を覚える人間ばかりです。
 例えば、誰かが危機的状況に陥ると、それは 「ゲームとしての盛り上がり」 につながります。歓声と爆笑を以って迎え入れられ (シリアスやホラーの時には建前として抑えますが)、「ピンチになるのが面白いんだろ。何とか助けてやるって」 と言い、「うるさい、自分で何とかする」 と言い返す……そんなパターンが殆どです。
 目に見える選択肢の連続が、目に見えない選択肢を探すのが、それらのメリット・デメリットを判断して決定するのが、かつストーリー的に盛り上げる為の 「個人の最適と全体の最適のジレンマ」 が、実に面白いと考えております。
 この辺りについて特殊な事をやっているつもりはございませんので、一般論的、あるいは馬場氏の講座的に捉えて下さればよろしいかと。もう、ほぼそれで片付くぐらい、ゲーム的な部分について特異性はない、と自己判断しております。(多くの方法でテキスト化されているのですから、それとの比較で十分に分かります。演技などとは違って)
 
 前の段落で、「ルールレスは6〜7年前の時点で食傷気味」 とありますが。
 一方、「現在の我々の基本スタイル」 は確立して4〜5年は経っておりますものの、未だに全く飽きません。これについて、「飽きないのは多分、RPGそのものだからだろ」 と言った人間がおります。そうかも知れません。私もそう考えておりました。
 しかし、「そうでないかも知れない」。
 それが、我々の今の疑問なのです。

  ■【おわりに】■
 
 以上、あくまでゲーム性を基盤に置きながら、演技やストーリー性を強調する形で上乗せしたスタイル……まさしく、妹が 「舌足らずでした」 (プレイング研究室LOG014) 中に述べております通り、これが 「現在の我々の基本スタイル」 であります。
 「結局、大回りして王道に戻っただけでは」 と誰もが苦笑しておりました。
 一連通して戴く限り、演技を重視している以外、別に特殊な事はしていないと考えますが如何でしょう。
 
 これでもなお、妹が他の方々とRPGをできない可能性があるほど、決定的に深刻な相違点がありますでしょうか? 私の考えが至らぬのでしょうか? 無知無学とお笑い下さい、その点が皆目見当が付かないのです。
 そして、その点がおそろしく不安なのです。
 
 寺田大典様は、「グループで遊ばれている遊び方が特殊だとしてもそのグループ (まこさん含め) が楽しくやれていればいいわけですよね。そこに 『世間一般のTRPG』 とか 『良いTRPG』 ってのは必要無いと思うのです」 (プレイング研究室LOG014) と仰って下さいました。
 
 GMN様は、「自分達のプレイスタイルが異端かどうかって確認する必要があるんですかね? GM、プレイヤーとも満足してるのなら別に何だろうが構わんと思うのですが」、「自分のスタイルはどうなんだろうと不安になるのは解りますけど、付いて来てくれるプレイヤーがいるのならそれでOKだと思いますよ」 (マスタリング研究室LOG012) と仰って下さいました。
 
 しかし、我々は……特に私は、そこまで割り切る事ができません。
 鏡氏のお言葉に対し、過剰に反応しているつもりはございません。その点については冷静であります。考える機会を与えて下さった事に、感謝しているぐらいですので。
 もはや、これは 「自己確認」 の欲求……言うならば、「人が“鏡”を見たがる」 のと同じ欲求なのです。我々にとって、まさしくあまりにも象徴的な出来事なのです。
 自らの姿を正しく認識する事もない内から割り切れる筈がないのです。
 
 ……我々は、「RPGは“遊戯”である」 というスケールで考えます。
 馬場氏の講座で、「ゲームとしてのRPG」 に対する 「否定されるべき幼稚な“遊戯”としてのRPG」 という言い回しが何処かにあったと思いますが、意味的には違います。
 もっと大きなスケールでの 「遊戯」、それこそ文化人類学的な意味でのグローバルな幅の中に、特化された 「ゲーム」 としての位置付けがあり、RPGはそこに属するものでしょう。である以上、RPGもまた広い意味では 「遊戯」 だと考える事ができる筈です。
 「RPGをやる原動力は、意志決定の達成感、挑戦意欲である」 という事自体には確かに頷けます。しかし、より前提的な意味 (拡散した広い意味) では、「人間の遊び心」 をその原動力の源泉としていると思うのです。
 それこそ、子供が単に石を蹴って遊ぶ……そんなレベルと、より巨視的に俯瞰すれば大差がないのだと。
 そして、仮想現実のシミュレートという形態を取る以上、RPGのキャパシティーは巨大極まるものです。そこに 「正統たるゲームとしての遊び方」 以外の遊び方が生まれたとしても全く不思議ではないし、事実、生まれているでしょう。
 「RPGとはこういうものだ」 という定義付けは、本来的に不可能だと考えるのです。「馬場式“意志決定”重視型RPGとはこういうものだ」、あるいは 「正統派RPGとはこういうものだ」 という定義付けなら可能でしょうが。
 それゆえに様々なやり方があり、それがプレイスタイルの差につながる……それ自体は、RPGの特質上、自然の成り行きだとは思うのです。
 そのカオスは、あるいはRPGシーンを衰退させる歓迎されざるモノかも知れませんが、同時に何か新しいモノを生み出す切っ掛けになるかも知れない……我々はそう考えるからこそ、可能な限り様々なやり方に手を出そうとするのです。頭ごなしに否定するのではなく。
 
 が、ただ我々は、「正統たるゲームとしての遊び方」 という根本的な部分は、しっかりと掴んでおきたいのです。
 
 今までは掴んでおりました。そして、今でも手放してはおりません。
 我々は、その上で新たなモノを付け加えているだけです。
 演技派でありながらその姿勢だったからこそ、馬場氏のテキストを見てもヒステリックな反応もなく、あっさり受け入れる事ができたのですから。 
 
 しかし、付け加えた結果としての形態が、あまりにも異形だったなら?
 我々が気付いていないだけで、それはもはや全く別の 「何か」 なのかも知れない……その恐怖です。
 何が普通かも完全に把握していない我々が、自分達のスタイルをどれだけ分かっていると言うのか……その恐怖です。
 
 これを想像すれば、正直、妹を我々のRPGに参加させたくはありません。過失ならまだしも、確信犯たる事は避けたいのです。
 妹はこれに反対しておりますが、疑念が解消されていない段階では保留するしかありません。(最近は吹っ切れたように、やたらとあっけらかんとしてはおりますが……)
 
 度々、繰り返している通り、我々は 「サークル間交流皆無のガラパゴス」 と自称している通り、一般的なプレイの実像をよく把握しておりませんし、メンバー各自の都合上、その具体的な解決も今ここで私が行っている事でしか望めないのです。
 最も外に出入りしているのは (それでも頻度は数年に一度ですが)、「ルーンクエストに人生を捧げる」 と言いきったこれまた極端な人間ですので、広汎的な実像は伝わりません。
 「一般と違う特殊だからよい」 と誇る在り方より、「一般と違うのが不安」 と考える俗な小心者の集まりでしかありません。
 
 皆様方のご意見・ご教授を戴ければ幸いであります。
 文章でいくら書いても空々しいものがありますが、深く頭を下げているものとお思い下さい。我々にとっては、深刻な問題なのです。
 何とぞよろしくお願い致します。
 分かりにくい点への質問などありましたら、お応えさせて戴きます。
98年07月02日:21時19分58秒
続々“鏡氏、そして皆様方へ”、「複数のスタイル」、「演技」 / T・K代表
 前中後編の、中編であります。
 予定していた文章を書き直していましたら、もはや暴力的なまでに長くなってしまいました。申し訳ございません。
 
■【複数のスタイルを楽しむ事になった訳】■
 
 1990年から1991年に掛けての時期になりますか。
 当時を振り返ってみるならば、例の 「シナリオなし、システムなし、唯一のルールは“総意絶対”、テーマはシリアスな戦闘、菊地秀行・荒俣宏的なイメージソースの世界観、際立った個性のPC・NPC、完全にキャラに成りきった演技と、ルール的な用語を取り除いた描写、その他の発言は可能な限りしない、感動はいいがチャチャやギャグはだめ」 というスタイルは、様々なスタイルの中の一つとして実験的に追求していたに過ぎません。
 それこそ同じ時期に旧態依然としてダンジョンなどにも潜っておりましたし、おそらくは一般的なプレイ光景と同じく、雑談やバカ話を交えながらもシステムに則り、マスターが用意したシナリオを楽しんでおりました。
 
 シナリオは、状況設定型あり、ストーリー的な一本道あり、ストーリーを用意しながらもアドリブで変更していく事をためらわないタイプあり、フローチャートやシナリオウェヴのようなタイプあり、様々です。マスター各自の傾向は厳然としてあるものの、他人の方法を試してみる事、新たな方法を模索してみる事は必須とされておりました。
 あるいは、マスターを設けない、プレイごとの交代制マスター、30分ごとの交代制マスター、一度に2人がマスタリングする、全員がマスター権限を持っていてそれを統括するグランドマスターを設ける、全く別のシナリオを一度に2人がマスタリングする、Aの持ちキャラをBに演じて貰った上でAがマスタリングする……などなどの変則的なマスター制も行っておりました。
 はたまた、いつだったかのRPGマガジンにも記事がありましたが、プレイヤー各自が知っていて周りには公開されない 「目的」 を設け、これを達成できれば 「勝ち」 であり、他のPCを騙そうが殺そうが 「反則」 ではない……という、極めて競合性に偏ったスタイルも行っておりました。
 とにかく、若いに任せた試行錯誤の時期でした。
 例のスタイルは、それらの一つに過ぎないのです。
 
 前の前の段落に 「バカ話」 という言葉が出ましたが。
 公共の場であり、また多くの論客に尊敬の念を抱いております私ですので、こういう書き慣れもしない文体で長々ダラダラと迷惑を掛けておりますし、心底から恐縮しております。
 しかし、実際は俗な性格で、普段は 「カッコ笑い」 を多用した文章の方が自然体であります。それこそテレビのバラエティーなどを観ている方が性に合う人間です。
 私に限らず我々一同、バカ話は大いに好むところです。
 例えば、「ギャグがテーマの 〈ルーンクエスト〉」 という、それこそ外道以外の何物でもないキャンペーンを我々はやっておりまして、これなど毎回確実に全員でマグロ化します。笑い過ぎて。
 
 が、我々一同、とことんシリアスに酔うのも好むのです。
 勿論、「シリアスと正統がテーマの 〈RQ〉」 というキャンペーンも3つあるのです。(ただし、その内の2つはヒーロークエスター・レベルであり、しかも1つは 「クィム」 の母体すら余裕で倒せるパワーインフレを起こしており、この2つが正統か否かは……ちとアレですが)
 
 ギャグもシリアスも、ゲーム的でも演劇的でも、何でもかんでも節操なく好む……要はミーハーでしょう。我々の殆どが、そういう普通の人間に過ぎないのです。
 YAN/矢野聡一郎様を初めとして、何やらやたらとお褒め戴いて恐縮しておりますが、私は無論の事ながら我々全員がとてもそんな資格はない、低俗極まる集団と自覚しております。
 能力にしろ、経験にしろ、知識にしろ、意欲にしろ、心掛けにしろ、この掲示板に溢れておられる論客の方々とは比べるべくもありません。私が元来的にROM主義なのは、そういう点から 「気恥ずかしい」 為です。
 
 現在、一般よりも優れているのではないか……と考えているのは、せいぜい、「重要性を否定されがちな演技」 についてだけであります。
 これもまた、ただ単に演劇関係者に縁があり、かつ、別名 「方法論化の鬼」 と言われているSが徐々にRPGに適した形で吸収し、自然に全員が楽しむようになっただけであります。(なお、誤解のないよう付け加えますと、私自身は劇団関係者ではありません。約10人の内、劇団関係者は4人おりますが、同時に 「RPGに魂を捧げている、“覚悟完了”している中心メンバー」 である両条件を満たすのは、サークル代表Hを含めた2人だけです)
 
 ですから、別に 「演技第一」 などとは考えておりません。我々は、単に様々なスタイルを偏見なく (と言うよりは節操なく) 楽しみたいだけでありますし、それが趣旨であります。
 確かに、「演技が一切ないスタイル」 は嗜好性に合わない向きがありますが、妹が 「ボクなりに結論が出たので報告します」(プレイング研究室LOG014) で記しているように、システム自体を多角的に分析する必要のあるテストプレイなどでは、非常に重宝するスタイルとして活用しております。
 ただ、我々の場合はそれ自体を目的としないだけであり、言うまでもなくそれ自体を目的としたスタイルを否定するつもりなど一切ございません。
 
 「複数のスタイルを楽しむ事になった訳」、それは端的に言って、「節操がない」 という理由に他なりません。
 単に 「面白そうだ」 と思ったなら手を出し、「面白い」 と思えば定着するのです。ただ、それだけの事に過ぎないのです。
 そして、普段の 「現在の我々の基本スタイル」 は、それらの全ての影響を受けております。言い換えれば、だからこそ、「プレイスタイルの違いを意識した上で、“統合する=全部食べちゃう”やり方があったっていいじゃん」 との言い回しになる訳です。

■【演技】■
 
 また、妹が引用している、
 
「プレイヤーとキャラの両発言の声・口調・抑揚・言い回し・込める感情の種類など、これらの差をはっきりさせて、『他人に対し、“それはプレイヤーの発言なのか、キャラの発言なのか、素の態度か、演じているのか”を確実に把握させるようにする』 というを第一義にするやり方。 一人二役なら 『三重人格演技』、 一人三役なら 『四重人格演技』。
 要は、マスターがたくさんのNPCを演じ分けるのと同じような感じ。でも、ゲームにもよるケド、せいぜい四重〜五重人格演技が演じ分けの限界らしいです。マスターとプレイヤーでは、キャラ一人につき表現する情報量の差が激しいとかで……」
 
 という文章と、それに対するNoBu様の、
 
「余談ですが、俺がマスターをする時には、そこまではしません。個性を出す時には、セリフや感情よりも、そのキャラクターの言動や行動で個性を出す事を優先します。どうもそちらの方が、プレイヤーのイメージにも残るようなので」
 
 という文章の流れですが、これも誤解があるかも知れません。
 確かに 「仮想人格」 の確立という点で、演技に偏っている自覚はありますが、もっと上へ引いたスパンでの演技が行われない訳ではありません。
 
 「人質を無視して敵を銃撃するか否か」 という2つの選択肢しかないとします。如何なる工夫も奇策も通用しない、という状況です (まずないですが)。
 この時、「どちらを選んだか」 という結果論だけでもそのキャラクターの 「個性表現」 でしょう。
 更には、「躊躇せずに撃つ」、「葛藤した結果、撃つ」、「葛藤した結果、撃たない」、「撃たないと即断する」 という余地もある訳ですし、それはより深い 「個性表現」 でしょう。
 
 つまり、NoBu様の仰られる通り、結果論 (あるいはそれに極めて近い簡単な演技) でも 「個性表現」 は可能ですし、我々にしてもプレイ中の演技には緩急を付けます。演劇などと異なり、RPGに於ける演技は 「ポイントを踏まえて際立たせるべきだ」 と考えております。どろどろに実際の演技をする一方で、コマンドを押すようにあっさり片付けてしまう事もあり、それが我々の基本です。
 ゲーム上の、あるいはシナリオの流れというものがある訳ですから、その 「波に乗る」 事が重視されております。
 実際、そうでなければ疲れます。演劇が概ね2時間を目安にした体力配分なのに対し、RPGでは何時間も続くのですから。(ちなみに、マスターにもよりますが、我々の間では途中休憩を除いて4〜20時間ぐらいの幅です。例えば、Sのシナリオはやたら面白いのですが、やたら長くて泣かせます。……こんな暴力的長文をアップした私が言っていい事ではないですが)
 
 実際の演技について述べる前に踏まえておきますが。
 キャラクターの人格・人となり・価値観、その言動・行動・選択傾向、声や喋り方、あるいは外見、はたまたその人物が何かをしている情景……漠然としたイメージから 「役作り」 をし、「個性の本質」 を把握する、という必要があります。
 本質と言っても大仰なモノではなく、「あいつって何々だよな」 程度の把握でも構わない訳です。無論、もっと深みはありますし、実際はそこからが重要視されておりますが……ある面をディフォルメしたメディア的な性格ならまだしも、リアリティーがある人格を確立する為には、心理学的な知識 (と言うより感覚)、あるいは卓越したコミュニケーション能力を必要とするからです。(私はどちらも劣っているので、他の者よりちと下手なのですが)
 
 が、それほど難しい事をやっているつもりはありません。実際、作業的には 「マスターがシナリオを作る際、イメージを広げていく」 というようなやり方と、そう大差はないからです。別の方法もあるでしょう。経験則でも何とかなるレベルでしかありません。
 比較的新しい我々の仲間に、趣味で小説を書いている人間がおりまして、曰く、「演劇っつーても、小説上のキャラ作りと根本的には同じなんか」 との事で、「修得」 する以前に既に 「実践」 しておりました。
 
 「本質を掴んで演じるか、演じて本質を掴むか」。
 この順序については、過去、我々の間で大論争がありました。結局、結論は 「最初に決めるのは雛型、実際のプレイで掴んでいくのが最もよい」 という安直なものに過ぎませんでした。
 ですので、本質の把握を先に説明した意味はありません。「山のような設定を最初に作る」 という訳ではありませんし、設定を作るだけでは決して本質は掴めません。
 
 いざ演じる段の、ゲーム的な側面ですが。
 「このキャラクターだったら、こういう時、こうするよな」 という、設定と状況に対する分析を行い、その上でよりキャラクターのイメージを尊重し得る行動、あるいは 「膨らませる」 行動を取り、かつゲーム的に最も適した行動、あるいは敢えて適さない不利な行動を取る……概ねRPGではそういった形が基本とされているように考えます。
 それ自体に対しては、我々も同じであります。
 馬場氏の講座のように多次元化するまでの自覚は持っておりませんでしたが、プレイヤーとしての目的とキャラクターとしての目的を明確に分離し、その両方の次元で 「個人の最適と全体の最適」 を天秤に掛ける、というやり方が大体の基本であります。
 
 つまり、常に周囲との折り合いを考える訳です。
 
 いわゆる 「キャラクタープレイに走り過ぎた破綻」 というのは……まず、起きません。少なくとも、ここ数年来起きておりません。
 起きたとしても、周囲がそれを巻き込む形でフォローする、という方向に流れるのが概ねのパターンであります。キャラクターサイドとしても、プレイヤーサイドとしても。
 また、「だから大丈夫さ」 的な舐め切った態度で、例えば格好付けて一人だけ爆弾解体に残ったキャラクターがいたとして、それが 「個性表現」 の段階までしか考えず、その先の 「責任」 を周囲のフォロー (この場合、マスターのフォロー) に頼ったようなものだと……制裁されます。その点、甘いマスターもいますが、厳しいマスターのやり方の方がより長期的なスパンを踏まえて支持されております。(あくまでその場の理想論として。誰だって、いざ自分の立場なら助けて貰いたいものです)
 
 また、演じる段の、キャラクター心理についてですが。
 我々の間では、「キャラクターの独り歩き」 が起こる段階が奨励されています。
 つまり、キャラクターを掘り下げ、とにかく掘り下げ、その個性を徹底的に確立し、その心理を完全に把握する……という段階まで至るのは最低限水準とされており、かつ、その 「ペルソナ」 のコントロールをしなければならない、と考える訳です。
 
 ……抽象論になるのは避けたいのですが、「プレイヤーがコントロールしている“成りきり”」 と言えばニュアンスが伝わるでしょうか。「素で演じている」 段階の事です。
 でありながら、同時にプレイヤーの心理が存在しなければならない訳です。
 
 どうもよく表現できないのですが、例えば演劇に於いては、「完全にキャラクターに成りきってしまう役者は大根」 と考えるそうです。映画やドラマはいざ知らず、少なくとも演劇に於いてはそうらしいのです。
 何故なら、周囲が 「世界=セット」 を表現し、かつやり直しが利く映画やドラマと異なり、演劇はあくまで剥き出しの舞台です。スポットライト、スモーク、音響などは、全て役者と連動した 「連続するコンビネーション」 として段取りが決められています。
 役者が 「あくまでこれは演劇である」 という意識を忘れ、キャラクターに完全に没入して勝手に動いてしまうと、まさしく 「話にならない」 訳です。
 つまり、「同時にプレイヤーの心理が存在しなくてはならない」 のと同じく、「同時に役者の心理が存在しなくてはならない」、従って、それが果たせない役者は 「大根」 と言われるという事です。
 
 我々がRPGに於いて行うやり方は、この演劇の考え方から 「勝手に動いても話にはなる、即興演劇だから」 という考え方を以って、キャラクターに対する手綱を緩めたようなものです。
 キャラクターが独り歩きしている方が生き生きとして来ますし、だからといって完全にプレイヤーの意識がシャットアウトされても 「ゲームにならない」 という事です。
 いわゆる破綻しがちな 「成りきり陶酔型」 のキャラクタープレイが手綱を持たずに馬に乗っているようなものとすれば、逆にあまりにゲーム性重視でキャラクターが生き生きとしていないやり方は手綱で過剰に拘束しており、私が言っているのはその中間に位置する……そう喩えれば伝わり易いでしょうか。
 
 そして、心理以外の演技についてですが。
 口だけで真似ていても、他人には 「情景」 が浮かびません。少なくとも、浮かびにくい、と言えます。プレイヤーとキャラクターの区別が完全に付くほどの演技であっても、です。
 電話口の演技なら別でしょうが、ある程度の身振り手振りは必要でしょう。でなければ、「無言の演技」 などは非常にやりにくい筈です。
 
 「成りきりプレイヤーはオーバーアクションだ」 という通説がありますが、逆説的に身振り手振りが 「一切合切」 不可能だと、感情移入の度合いも制限されるようです。
 反対に、キャラクターの体が麻痺し、眼前で怪物が口を開けている……というような状況下では、身振り手振りをやらないからこそ緊張感が高まりますので、要は 「プレイヤーとキャラクターの感覚的一致」 の問題でしょう。(「没頭する=成りきる」、「客観的に見る=感情移入」、この差を明確にして、冷静に思慮を持ってゲームに参加せよ……というような主旨の事が馬場氏の講座でも触れられていましたが、いくら客観的に見ているつもりでも、この差を 「完全に」 分け隔てる事はできない筈です。RPGの形態上の特質からして)
 
 だからと言って、身振り手振りは付随的にしか行うべきではない、とは考えます。オーバーアクションは迷惑ですし、「情景が浮かび易いから」 という理由でSTFやストラングルホールドやコブラツイストを仕掛けてくる相手とはプレイしたくありません。
 あるいは、キャラクターが渋くハードボイルド然として煙草を吸う時に、プレイヤーも同じく煙草を吸う……情景は浮かびますが、公共の場や嫌煙者がいる場合ではやはり迷惑です。
 
 しかし、「情景が浮かび易い」 という事、それ自体は重要だと我々は考えるのです。
 演技が目的なのではなく、「情景を全員で共有し易くする」 事を重視するのです。そういう意味では、マスターが小道具などを工夫するのと本質的に変わりません。
 例えば、苛々している心理描写として、「ネクタイを緩める」 という演技があるとします。しかし、緩める真似ができたからと言って、それだけでは価値がありません。その情景を描写できて、相手に伝えて、かつ 「苛々している演技だな」 と把握させ、「じゃあ、オレのキャラは 『落ち着け』 とヤツの肩を叩こうか……」 と考えさせて、そして初めて意味があるのです。
 
 その為にも、「プレイヤーとキャラクターの客体的乖離」 が必要になるのです。(誤解された表現を再び使うのは恐縮ですが、既に説明はしておりますので)
 この言葉は、内面心理的な 「分別」 だけではなく、外面的な 「区別」 をも意味しております。
 勿論、「実際に外見まで変える」 という意味ではありません。でなければ、ひとたび女性キャラを演じたら、(複数の意味で) 元に戻るのは不可能でしょう。
 
 従って、「区別」 を補完する為に、「言葉」 が強く要求されます。
 
● 「僕のキャラは、最終奥義で敵を攻撃するよ」 ではなく、
● 「(身振り手振りだけで) でやぁああッ!!!」 ではなく、
● 「(キャラクターを演じている声・口調で) 貴様とオレの呪われた因縁など……この一撃で終わりにしてやるッ!!!」 ではなく、
● 「(プレイヤー自身として) ゆっくりと剣を正眼に構えながら、一拍……二拍の呼吸……そして、弾かれたようにギッと睨み付け、(キャラクターを演じている声・口調で) 『貴様とオレの呪われた因縁など……この一撃で終わりにしてやるッ!!!』、 (再びプレイヤー自身として) 裂帛の気勢で叫ぶと同時に発動させて貰いましょうか。最終奥義をマックスレベルで」
 
 という、キャラクターの 「台詞」 とは別の、「描写」 的な言葉の事です。(注:あくまで例は例です。我々がいつも熱血ノリでプレイしている訳ではありません。問題なのは、「台詞」 と 「描写」 です)
 プレイ後に脚色していると聞きますが、リプレイでは客観的に読者に伝える為に、プレイヤー自らそういう発言をしているケースが多々あります。あれを 「実際に」 やる訳です。
 ……リプレイの弊害でしょうか? 我々はこれ自体を特殊と考えてはおらず、それこそ一般的なやり方と考えていた向きさえありますが……特殊でしょうか?
 仮に特殊だとしても、こういった描写を難しいとは考えていないのです。それこそ、マスターをやるならば留意しなければならない事ではありませんか? マスターにできるなら、プレイヤーにもできる筈で、我々は 「みんなでマスタリングするつもりでやろう」 と考えています。
 
 つまり、小説などの 「台詞」 と 「地の文」 の関係でしょうが、分かり易い文章的表現で他人にイメージをトランスするのは大切な筈です。
 それは、「読者に対して」 に限らず、「同じ卓を囲んでいる他の人間に対して」 も言える事ではないでしょうか。
 その文章的表現に、例えばファンタジーならではの叙情性、サイバーパンクならではのブッ飛んだフレーバーがあれば、より世界観への認識は高まる筈です。
 
 世界観もルールに含むと前提するなら、「描写や演技はルールを補完する、少なくとも補完し得る」 のです。
 
 これに対して、「所詮、描写や演技は雰囲気作りにしかならない」 というご指摘があれば、まさしくそうでしょう。要は、すしのわさびのようなモノなのかも知れません。あってもなくてもすしは食べられるが、あるなら違った味になる……というだけの。
 描写や演技それ自体は、RPGの本質ではないと考えております。「『ゲームの本質である意志決定+A』 がRPGの本質」 という論議が 「TRPG総合研究室LOG008」 辺りで行われていますが、その 「A」 に含まれるものとして理解しております。
 
 しかしながら、です。
 例えば、「成りきり陶酔型」 しかできないプレイヤーは、「小説的に語る」 事の必要性を説いてもあかほりさとる的な 「擬音による描写」 に頼る傾向があるようですが。
 内面世界でどれだけビジュアリティーが高くても、他人に分からなければ意味はない……これは同意して戴けると思います。
 ならばそれは、全くキャラクターとしての発言をしてくれないプレイヤーにしても同じ事です。
 本人の内面世界では生き生き発言しているのかも知れませんが、周りにとって無口ならイメージの齟齬が生じてしまうでしょう。
 
 そして、イメージの齟齬が生まれてしまえば、やり取りや掛け合いにも食い違いが生まれます。極端な話、シナリオに影響してしまうのです。
 選択やその結果に影響するという事は、RPGの、延いてはゲームの本質に影響するという事ではないでしょうか。
 勿論、「だから、描写や演技はRPGの本質だ」 などと力付くの三段論法で論点をすり返るつもりはありません。たた単に、「影響するのではないか、と我々は考えている」 と言いたいだけであります。
 
 それゆえに我々は、ゲーム的である事と演劇的である事を両立させようとするのです。
 
 イメージの共有は、参加者の頭をサイバー技術か何かでつなげでもしない限り、完全には不可能です。仮にサイバー技術の確立によってそれが可能になったらなったで、せっかくの 「生身の技術」 は無意味になります。
 が、「だからやっても無意味だよ」 と考えてはならない、というのが 「現在の我々の基本スタイル」 であります。
 そして、「やるならやるで、より上達したい」 ではありませんか。そう考えただけなのです。
 
 以上のファクターに特に優先順位がある訳ではありませんし、順位を考える必要は感じません。
 強いて言うなら、「現在の我々の基本スタイル」 のポリシー、「全部やれ」 なのです。
 
 とは言え、「全部やる」 ようなやり方は難しいのかも知れません。全体のバランスに対する感覚もそうですが、特に演技そのものが難しいのかも知れません。
 実例を出して恐縮ですが、〈トーキョーN◎VA〜ACT.1 BRAIN HUNTER〜〉 というCDに実際のプレイがダイジェストで収録されておりまして、「イメージ重視の 〈N◎VA〉 のプロでさえこうなのか」 と、我々一同で愕然とした覚えがあります。「演技をしているコンベンションに行った事がないのではなく、あれが普通なのか」 と。
 未だに全てが全てそうだと確信している訳ではありませんし、また納得もしたくないのですが、「個性」(プレイング研究室LOG014) で匿名希望2号様が抱いておられる疑問、「近くのコンベンションでキャラクタープレイされてる方見てると、どう見てもPL自身の欲求満たすためだけやろうとしか、見えない人を良く見てしまいます」 というのは、理解できます。
 一般的に、RPGの演技は、「演技」 と言うよりは 「成りきり」、それがひどくなると 「陶酔」 と言うべきなのかも知れません。
 
 ところが、です。
 演劇のレベルであっても、口による (感情を除いた、声・口調のみに頼った) 演技はひどく個人差があります。これだけに頼っていても、表現の幅からはすぐに限界に突き当たります。
 例えば、我々の中では演技が苦手な方の私ですが、「おとなしい少女」 の声や口調は表現できますし、電話で相手を騙す事ぐらいならできます (無論、犯罪行為ではなく仲間内の話です)。ですが、「明るい少女」 は無理です。第一、激しく照れます。
 所詮、有限の中での組み合わせであり、身振り手振り、描写と説明、キャラクター性としてのアイデア、性格や心理、言動や選択の独創性などが何処までカバーできるか、という事でしょう。
 
 例えば、我々が特にこだわったプレイを行う場合、「どっかで見たぞ、そのキャラクター」 と言われ、それこそイメージに残る残らない以前に作り直しを要求されます。
 ですが、我々も類型やパロディーを楽しむ事はありますし、類型やパロディーながら愛されているキャラクターこそ多いのです。何せミーハーです。とことんミーハーです。ひたすらミーハーです。開き直っているキャラ萌えなオタクもおります。
 また、「その方が気が楽だ」 というのが大多数の意見です。オリジナルにこだわる創作型の人間もおりますが、互いに認め合っていますし、その上で相手のスタイルを会得しようと心掛け、進歩がモットーであります。
 
 妹も 「舌足らずでした」(プレイング研究室LOG014) で書いておりますが、我々は互いに極端な差異があります。考え方も、趣味も、得意分野も、人生経験も、失ったものの重さも、シャレにならない度合いも全く違います。当たり障りのない辺りで、「オタクとジゴロが同じ卓を囲んでいる」 というぐらいですが、これとてそうはない光景でしょう。
 
 そんな中から、「プレイスタイルの違いを意識した上で、“統合する=全部食べちゃう”やり方があったっていいじゃん」 という考え方が出て来た訳です。
 
 それは、「相手を認め、自分を主張する」 という利他と利己のバランスを追求する事に他なりませんでした。受け入れる器と、精神上のパワー、この 「くっつく波紋と弾く波紋を同時に扱う」 的なバランスの問題だと考えた次第です。
 出た結論が、「人間性を磨こう=努力しよう」 であります。
 ひとたびそう考えて、倫理や哲学、あるいは外の世界に目を向けますと、如何に未熟かを痛感したのです。以後、一歩ずつ向上して来たつもりではありますが、我々全員が未だにわがまま三昧であります。
 楽しむ為に行う努力・進歩は、それ自体もまた楽しい……理想論かも知れませんが、我々はその点で固く一致しております。もっとも、それだけに新規勧誘は苦労する訳ですが。
 おかげで 「努力マゾ」 しかおりません。
 
 次は、「多重人格演技」、「ゲームとして」、「おわりに」 をアップロードさせて戴くつもりであります。
 全3編の中で特に強調したい点、言うならば主旨が含まれているのがこれであります。誤解など生じないように致したいので、あるいは早まるかも知れません。(ちなみに、最も短いのでご勘弁下さい)
 最後ですので、どうかわがままをお許し下さい。
98年07月01日:19時12分11秒
鍼原様がお考えの“上位ルールと下位ルール”とは? / T・K代表
◆鍼原様曰く
「アタシが、こちらの掲示板で、あれこれ書込みながら考えていることと、部分的とはいえ、同様のことをお考えのかたが、まったく別個にいらしたことは、心強い限りです」
 
 鍼原様も、上位ルールと下位ルールの、絶対性・非絶対性の峻別についてお考えだったのでしょうか?
 いやはや、何と言いますか。
 私は、独創的な、あるいは改良的な発想の類いは割と苦手でありまして、Sに対しては同年代ながら畏敬の念さえ抱いているのですが、同じ念を貴方に抱かざるを得ません。
 こちらこそ、心強いばかりです。
 是非、貴方様のお考えをお聞かせ下さい。

◆同じく、鍼原様曰く
「こちらの掲示板では、『内容の推測がつく、見出し的なタイトル記入』が強く推奨されてるのですね」
 
 無頓着でありました。申し訳ございません。そして、ご指摘に感謝致します。
 おそらく、「利用マニュアル」 に記してある事だと思うのですが、見落としていたか、理解していなかったようです。
 
 そして、私は思うのです。
 もし、この掲示板に 「利用マニュアル」 や、「強い絶対性を持つルール」 が存在していなかったら?
 心ある方々は、自らの良心とモラルに沿って、互いを尊重し合えるでしょう。
 しかし、そうでない人も存在し得る訳ですから……それと同じ事が、RPGでも容易く起こるのだ、と考えております。
98年07月01日:16時59分22秒
お礼:「上位ルールと下位ルール」の件 / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>T・K代表様へ
 
 迅速なResを二度も、ありがとぉございます(嬉)。
 
>だからといって既存のシステムを否定する意図は全くありません。
 
 もちろんですわね。そちら様のスタンスは心得ました。
 アタシが、こちらの掲示板で、あれこれ書込みながら考えていることと、部分的とはいえ、同様のことをお考えのかたが、まったく別個にいらしたことは、心強い限りです。あらためて、お礼申しあげます。
 
 え〜と、お礼を言っておいて、アレなのですけれど(困)。こちらの掲示板では、「内容の推測がつく、見出し的なタイトル記入」が強く推奨されてるのですね。
 いぇ、アタシもちょっと前まで、その辺のことに無頓着で(苦笑)、お小言ちょうだいしたことがありまして(笑)。せんえつですけれど、次ぎに書き込まれるときには、何か工夫をされるとよろしいかと。
 とりあえず、いじょうです。
#まこさんにも、よろしくお伝えくださいね。 
98年07月01日:16時37分19秒
鍼原神無様へ / T・K代表
 申し訳ございません。度々、訂正させて戴きます。
 
 急いでいたもので、やや読解不足だったようです。
 鍼原様が仰る、
 
>「『上位ルール』と『下位ルール』の関係性」は、「『憲法』と『一般的な実定法の集積』」との関係性と同型、と、捉えてよいように思うのですけれど。←アタシのこの理解でよろしいのでしょうか?
 
>うえに書きました、アタシの理解でよい、となりますと、既存の「『上位ルール』を明文化しないTRPG諸システム」は、「『憲法』を定めず『慣習法』とその解釈によって『実定法』の運用の妥当性・公正性をチェックしてゆく『法運用のシステム』」と見なしうることになるかと思うのですけれど。←このような観点を必然的に導き出す、視点であると理解して良いのか?
 
 はい。その通りでしょう。
 しかし、だからといって既存のシステムを否定する意図は全くありません。
 システムに対する認識が我々の中で突出しているSに言わせるとどうかは分かりませんが、少なくとも我々全員が既存のシステムを愛しているのだ、という事だけはご理解下さい。
 
98年07月01日:14時30分18秒
訂正 / “T・N代表”改め、“T・K代表”
 えらく激しい勘違いをしておりました。
 私の名前を、“T・N代表”から“T・K代表”に改めさせて戴きます。
 混乱させてしまい、申し訳ございません。
98年07月01日:14時08分26秒
Howling様へ / T・N代表
 順序が逆になってしまい、申し訳ございません。
 Howling様、はじめまして。
 
 貴方の言葉はかなり参考になりまして、「暗黙の了解だが、明文化はしていない」 という一例だと捉えております。
 我々も、明文化する以前は貴方の仰られるような形だったのです。ですので、非常によく分かりました。
 他の方々はどうなのでしょうか?
 
 余談でありますが。
 私が初めて書き込んだ後の、貴方の書き込みですが、妹は泣いておりました。
 曰く、「Howlingさん、すごいいい人だよー」 との事です。伝えておきます。
98年07月01日:13時57分20秒
鍼原神無様へ / T・N代表
 鍼原神無様、はじめまして。
 見ている場所が場所ですので、簡単にはなりますが、お答えさせて戴きます。
 
 「上位ルールと下位ルールの関係性」≒「憲法と一般的な実定法の集積との関係性」 か否か?
 
 どうでしょうか? 微妙なニュアンスではありますが……。
 
 ただ、Sが最初に形にしたのは、単に 「三すくみ」 だけでありまして、この時点では 「上位ルール」 と 「下位ルール」 の差は存在していなかったのです。即ち、「全てのルールより、マスターの方が強い」 という形でありました。
 我々の中では、それで十分に機能していたのですが、あるプレイ中、突如としてSが 「うぎゃあ」 と叫びまして、「『この三すくみの構造そのものをマスターが引っ繰り返してはならない』 なんて何処にも明文化してないー、欠陥ルールだー」 と言い始めたのです。
 
 その為、Sは、通常はルールに暗示されている程度の 「絶対に覆すべきではないモラル、マナー」 などを抽出しまして、それを 「自然法」 的に扱うと同時に、その属性を持つ 「絶対不可侵」 のルールとして三すくみを定義したのです。
 
 確かに、こうしておかないと 「もしも“もしもボックス”が“もしもの世界”を実現してくれなかったら」 的な矛盾が起こります。(例はちとアレですが……)
 
 要は、それだけだと理解して戴ければよいのではないのでしょうか。
 
 比喩に対して実際的に言うのも何ですが、下位ルールに 「第891条:プレイヤーがマンガを読み出したら、マスターは実力行使に出ても良い」(笑) などと延々と事例を並べているルールブック……誰も読みたくはありませんでしょう?
 下位ルールは、あくまで従来の意味のルールの事です。
 
 なお、話は変わりますが。
 予定している全3編、及びここに至るまでの過程を全て通して読んで戴ければご理解戴けるとは思いますが、我々はどちらかと言うと、事態の収拾とか、言い訳がましい弁明とかを目的としている訳ではないのです。(まぁ、そう見えてしまう事は確かでしょうし、その意識がない訳でもありませんが……)
 
 鏡氏が仰られた、「妹が他の方々とRPGができない可能性」なるものを確実に把握しておきたいのです。
 ……即ち、我々のスタイルと一般的なそれとの相違点を。
 
 余談でありますが。
 可愛がって戴いているようでほっとしておりますが、妹はいつもは前向きに見えますが、時としてやたらと後ろ向きでありまして、えらく情緒不安定な感があります。
 私も多分に漏れず、「その年代の自分」 というのを忘れがちでありまして、ほとほと手を焼いております。
 鍼原様のような、的確な時に的確な助言をして戴ける方とこうした掲示板で交流する事が、彼女にとって大きなプラスになるであろうと期待もしております。
 深く、お礼を申し上げます。
98年07月01日:10時51分21秒
re:続“鏡氏、そして皆様方へ” / 鍼原神無〔はりはら・かんな〕
>T.N.代表様
 はじめまして。
 勝手かとは思うのですが、簡単な質問をさせていただけませか?
 
 T.N.代表さんの書かれた「『上位ルール』と『下位ルール』の関係性」は、「『憲法』と『一般的な実定法の集積』」との関係性と同型、と、捉えてよいように思うのですけれど。←アタシのこの理解でよろしいのでしょうか?
 
 うえに書きました、アタシの理解でよい、となりますと、既存の「『上位ルール』を明文化しないTRPG諸システム」は、「『憲法』を定めず『慣習法』とその解釈によって『実定法』の運用の妥当性・公正性をチェックしてゆく『法運用のシステム』」と見なしうることになるかと思うのですけれど。←このような観点を必然的に導き出す、視点であると理解して良いのか? との含みも併せまして、もし、お応えいただければ、ありがたく存じます。
 
 T.N.代表様のお立場にしてみれば、今回なされた書込みは、「予期せぬできごとのもたらした波及効果の収拾」ということになろうかと思いますし。本来、このような場での発言を避けてらしたポリシーでいらっしゃると、理解しております。
 ですので、アタシの好奇心から出たこの質問への応答を期待することはできないと心得ております。
 たんじゅんな好奇心ですので、いかような形でも応答をいただければ、大変嬉しく思います。
 
 #余談なのですけれど、妹さんは、楽しいかたですね。アタシは妹さんのような、前向きな若いかたとお話しするのがとても好きなのです。妹さんの書込み読ませていただくのを楽しみにしちゃっております。
98年07月01日:09時48分21秒
下位ルール=法律 / Howling
ルール=法律という考え方は私もしてますね。その場合、マスターは国王、プレイヤーは民衆かな。ゆえに、マスターを行う際に、韓非子などの「君主論」は非常に参考にできると思ってました。
ちなみに、横暴なマスターは暴君、横暴なプレイヤーは国王をないがしろに悪事を働く悪徳大臣といったところですね。

ルール=その世界の法則の一部、プレイヤーはその世界の住民、マスターはプレイヤーキャラクター以外の全ての世界という考え方もしますけどね。
どっちにしてもルールが全ての状況をカバーしてくれてるわけではないので、マスターには「判定の道具として、ルールを使いこなす」という事は必要になりますけど。

なお、三権分立みたいな考え方はした事はないけど、適正なルールの適用がされない時はルールを盾にマスターに再考を促すという事は仲間内で当然のように行われてます。

でも、これらの事は全然、明文化してないので、その点では“T・N代表”さんのところの様に徹底はしてないです。

とにもかくにも、Sさんを中心に作成されているルールの公表、楽しみにしております。(いや、本当に言いたかったのはこれだけなんです。(^^;)

(sf:重複削除しました)


98年07月01日:02時33分53秒
続“鏡氏、そして皆様方へ” / “まこの兄”改め、“T・N代表”
■【はじめに】■
 
 「鏡氏、そして皆様方へ」(98年06月25日、プレイング研究室LOG014) 中に申し上げておりました弁明をさせて戴きたく、再びお目汚しに参りました。
 
 掲示板の私物化であるとのお叱りを免れない、冗長なこと甚だしい文章にはなりますが、「ゴミの山にも全く無価値な物だけある訳ではない」 と、いっそ酔狂なお気持ちで読んで戴ければ光栄であります。一つ二つは、役に立つ物があるかも知れません。
 ただし、原則的に私は一般論を語ってはおらず、あるいは一般論に対して 「これが正しい」 と錯誤している訳ではなく、あくまで 「我々がやって来た事」、あるいは 「現在の我々の基本スタイル」 について述べているとお断りしておきます。
 最終的にその目的は、「一般的なスタイルと我々のそれとの相違の確認」 と、「妹と我々の関係を見直す為の思案材料集め」 であります。つまり、極めて私的な理由であり、建設的な提案を主眼に置いてはおりません。
 それ以前に、自分達のプレイスタイルに疑念の余地がある現在、建設的な提案などできよう筈がないのです。
 従って、「一つ二つは、役に立つ物があるかも知れません」 というのは、根っこがぐらついた言葉でしかないのですが。
 
 なお、この 「プレイング研究室」 にアップロードしたのは、「ここで発生した話である為、ここで片付けるのがよい」 という私的で身勝手な理由もありますが、中心となるのが特に演技についてですので、現行の流れからも構わないであろうと判断した為であります。
 
 ちなみに、
 
 ● 「はじめに」、「基本的形態」
 ● 「複数のスタイルを楽しむ事になった訳」、「演技」
 ● 「多重人格演技」、「ゲームとして」、「おわりに」
 
 という構成になっており、1日1回、3日3回に分けてアップロードさせて戴くつもりであります。あるいは、私的な都合により、間に1〜2日入るかも知れませんが、おそらく予定通りアップロードできると考えております。
 それぞれの文章量は、大雑把ではありますがなるべく均一にしております。
 
 そして、これらの文章を書くにあたって、6月28日の日曜日の時点で我々の間で話し合いが行われてはおりますが、無理やり集まった都合上、その時点では草案程度でしかありません。従って、全ての文責・責任は私にあります。無論、私に端を発しておりますので、私が自らその役目を買って出たに過ぎません。
 何らかの不快な表現がございましたら、ご指摘下さい。この私が代表として謝罪致します。ですので、その点はご了承下さい。

■【基本的形態】■
 
 まず、妹が引用している 「シナリオなし、システムなし、唯一のルールは“総意絶対”、テーマはシリアスな戦闘、菊地秀行・荒俣宏的なイメージソースの世界観、際立った個性のPC・NPC、完全にキャラに成りきった演技と、ルール的な用語を取り除いた描写、その他の発言は可能な限りしない、感動はいいがチャチャやギャグはだめ」 というスタイルですが、ここで大きな誤解をされている方がおられるやも知れません。
 注意して戴きたいのは、あくまでこれは 「当時、追及していたスタイルの一つ」 であり、「現在の我々の基本スタイル」 の間接的な肥料にはなっているでしょうが、そのものではありません。
 
 「現在の我々の基本スタイル」 では、シナリオを用意しますし、システムも使います。
 シナリオの可塑性は 「奨励されている」、システムの可塑性は 「認められている」 という形であります。
 要は、前者は 「シナリオのアドリブによる補正・拡大」 の事で、後者は 「“原則として”ルールは絶対」 という意味でしかありません。
 さして一般的なスタイルと変わらない、と考えております。
 
 また、引用中で 「マスターとプレイヤーを含めた意味での総意」 が絶対とされていました。これは、ルールレスで戦闘描写やドラマ性を追求する以上、何処かでゲーム性が霧散してしまいますから、マスターとプレイヤーの間の利害関係が異質のモノに転じた為だと考えております。
これに対して 「現在の我々の基本スタイル」 では、別の 「絶対」 が設けられております。「マスターは神ではないし、数の暴力が正しい訳でもない」 と強く断言されているのです。
 
 その 「絶対」 というのは、「ルールの中のルール」 と言われています。
 
 いわゆるシステムやルールという言葉からは、数値やデータや世界観上の取り決めやそれらの処理法など、「“そのRPG”を遊ぶ為のルール」 を連想するのが普通かと思われますが、これらより更に前提的な 「“RPG”を遊ぶ為のルール」 の事です。
 極端な話、「全員で楽しむ事を心掛けましょう」 とか、「参加者同士でいがみ合ってはいけません」 とか、「プレイヤーとキャラクターの分別を付け、仮に死んでもそれだけを理由に“楽しめない”と言うのはいけません」 などの、ルール以前のマナーやモラル論も含みます。
 
 一般的にマスターは時としてルールをねじ曲げる事ができますし、別にそれ自体は特殊と見なされていないと思われます。 が、この 「ルールの中のルール」 はマスターにもプレイヤーにも決して覆される事のできない 「不可侵の絶対」 で、ルールと言うよりは 「原理」 のようなものとして扱われます。
 いわゆる普通の意味でのルールと区別する為、我々の間ではこの原理的なルールを 「上位ルール」、 普通の意味でのルールを 「下位ルール」 としておりますので、ここからそう言い換えましょう。(追加ルールや上級ルールなどと混同されると余計に分かりにくくなりますが……)
 
 そして、上位ルールに於いて 「ある意味で最も重要」 とされているものの一つに、
 
 ● 最終的には下位ルールよりもマスターが強く、
 ● 最終的にはマスターよりもプレイヤーが強く、
 ● 最終的にはプレイヤーよりも下位ルールが強い。
 
 という、ジャンケンのような三すくみの関係があります。繰り返しますが、これ自体は上位ルールに属しておりますので、「絶対不可侵」 であります。
 もう少しこれを噛み砕きますと、
 
 ● 下位ルールをねじ曲げたり、無視したり、その適用を自由に判断する審判としての権利がマスターにあり、
 ● マスターからの承服しかねる横暴を、プレイヤーが断る権利を持ち、
 ● プレイヤーからの認可しかねる横暴を、マスターは 「自分でねじ曲げたものを含まない、総意として確立済みの下位ルール」 を盾に断る事ができる。
 
 という、流れになります。勿論、何処を起点にしてもいい訳ですが。
 要は、ある意味の 「三権分立」 です。
 あるいは、上位ルールを 「自然法」、下位ルールを 「法律」、プレイヤーを 「民衆」、マスターを 「為政者」 に喩えても分かり易いでしょうか。
 
 当然ながら 「下位ルールに欠陥がない」、「プレイ前に、ルール、スタイル、テーマなどに対するコンセンサスが取れている」 事などを前提に置きます。でなければ、旨く機能しません。
 ルール解釈などでは下手をすると無限連鎖に陥りますし、誤植に従うのも何でしょう。ルール、スタイル、テーマなどへのコンセンサスが取れていないと、マスターは 「ルールブックの範囲」 内から一切出る事ができません。
 ですから、いくつかの問題はありますが……しかし、「最終的には」 と冠している通り、「通常は、参加者の“姿勢”を信じてファジィに扱っていれば何とかなる」 と考えていますし、事実、我々の間ではそうであります。
 問題が解決できないケースでは、「〜の条件を満たす場合、マスターの判断が絶対となる」 と上位ルールで保証されます。逆に言えば、その時しか 「神である事」 が認められていないのです。
 お分かりでしょうが、これは主に 「“プレイ環境の悪化”に対する安全弁」 としての機能を主眼に置いた構造です。
 
 ● マスターの権力を強くすれば……いざ悪辣なマスターがいた時、プレイヤーに被害が及ぶ
 ● マスターの権力を弱くすれば……いざ悪辣なプレイヤーがいた時、マスターに被害が及ぶ
 
 この相反する問題の解決が目的な訳です。
 全員の総意が尊重される構造ながら、多数決的な数の暴力の欠点 (所詮、プレイヤーの方が多いのですから)、少数意見が生かされない欠点もほぼ解消しております。
 形にできた当時は我々も盲目的でしたので (今以てそうですが)、一同で小躍りしましたが、いざ冷静に考えると発想自体は何処にでもありそうなモノです。我々が何処かで発表されているのを無学にも知らないだけか、暗黙の了解を今更語っているだけでしょう。
 前回の言葉の繰り返しにはなりますが、我々は何分、「自分達が普通であるのか異端であるのか」 さえ完全に把握しておりませんし、私も含めて2人しかネット環境がありませんし、いずれも未だネット歴は浅く、更に難儀な事にそう頻繁にネットを見ている訳でもございませんので……。
 
 仮に我々が普通であり、上位ルールと下位ルールの差、三すくみの考え方もまた普通だとして、です。
 「大前提として明文化されているか否か」 で随分と変わって来ると思うのです。ルールブックに明文化されてさえいれば、発生せずに済んだ問題もある筈です。勿論、完璧とは言えない考え方ですが、ないよりはマシでしょう。
 システムを悪用したりモラルを無視して自己満足に走るプレイヤー、ルールを不正に適用してプレイヤーを苦しめるマスターなど、この掲示板をざっと流し読みしただけで、そういった話をいくつも見つけましたが、痛々しくてなりません。
 それらの問題全てが、たったこれだけのルールで解消できるとは到底思えませんが、いくらか緩和・抑制する効果はあるとは判断しております。
 
 だからこそ、です。
 何故、「全てのRPG」 が明文化しないのか?
 何故、「暗黙の了解」 で片付けてしまうのか?
 これについては常々疑問を持っておりました。(まぁ、「それは異端だ」 と言われてしまえば空回りした疑問なのですが……どうなのでしょう? 実際は……)
 
 例えば、我々は 「ジャンル汎用型であると同時に、プレイスタイル汎用型」 という趣旨のオリジナルシステムを作成しております。〈ベーシックRPG〉、〈ガープス・ベーシック〉 などに相当する根本的なシステムは、〈プレーンフレーム〉 という名称です。(いつか公に発表したいのですが……)
 ちなみに、「上位・下位ルール」 の概念、「権力の三すくみ」 の概念を発明したのは、(他ではともあれ、我々の中では) Sという人間でありまして、これがメインデザイナーとして担当しております。
 Sは 「これはみんなで作ってるものだからね〜」 などとあっけらかんと言い切っておりますが、あくまで作り始めたのはSであり、しかも私を含めた全員がSと比較して、システムを作成する才能・技術・発想力・数学的なセンスなどに於いて圧倒的に劣っており、もっぱらサポートやディヴェロップに回っている為、「我々が作成している」 などと表現するのは個人的に心苦しいのですが……それはともあれ。
 この 〈プレーンフレーム〉 は、
 
「価値観の相違、相手を受容できない態度、相手に迷惑を掛けている事への無自覚、コミュニケーションの不手際、意欲・積極性の強弱、プレイング能力の上手・下手の差異……これらから相関的に生ずるストレス、ルサンチマン的感情などの、『セッションに於ける歪み=プレイ環境の悪化』 要因に対し、陰からルールが自動的に補正 (あるいは補正を支援) し、セッションの破綻率を可能な限り消失させるべきである。
 そして、それは邪魔なルールであってはならないし、“良いプレイヤー”にとっての“良いルール”でなければならない。
 つまり、キャリアが浅い人間には、実理的なノウハウがなくとも、心から楽しめる時間を過ごし易くする。キャリアが深い人間には、ノウハウの邪魔をする事なく逆に手助けして、より心から楽しめる時間をより過ごし易くする。
 特に前者だが、ノンキャリアにとってRPGははっきり言って難しい。それこそ、DOS時代に独学でパソコンを始めるぐらい難しい。
 極め付けは、『それをサポートする為のノウハウやモラルも含めてRPG』 なのに、ルールブックと分離していて 『実効力』 がない事が大きな一因となって、ブラインド然として無法状態に陥ってしまう点である。そこに、現行の (特に日本の) RPGの問題があると言わざるを得ない」
 
 という、Sのシステム理念から、実に圧倒されるほど様々なアイデアを取りこみ、それらが全体として構造的・機構的に働くようになっております。
 それら複数のアイデアの一つとして、先の 「上位・下位ルールの差」、「三すくみ」 の考え方が具体的・有機的に導入されています。更に発展させて構造化する形で取り込み、かと言ってシステムの裏に隠れ切っている訳ではなく、目に見えるように提示されているのです。言うならば、「システムの根本」 として、参加者全員の絶対的前提として。
 「分かり易く明文化される事に意味がある」 と考えたからです。
 
 不慣れなプレイヤーはRPG界に常に存在しますし、我々でもそれぐらいは分かります。また、自己満足型の迷惑なマスター、プレイヤーはどうも我々の想像以上に多いのではないか、との危惧も抱きました。
 あるいは、我々にしろ自己満足で他人に迷惑を掛けている場合がある、という自戒を込めての事です。実際、今、私が皆様に迷惑を掛けているぐらいですから……。
 
 この上位・下位ルール、三すくみの関係は、何も 〈プレーンフレーム〉 を用いる場合だけ意識している訳ではありません。
 我々は他のRPGを遊ぶ時も、(特別な理由がない限りは) 半ば暗黙の了解として導入しております。我々にとって、最も納得がいく形に 「体系化された考え方」 ですので。
 これを成立させる為か、あるいは逆かは 「鶏と卵」 のようなものですが、ルールレスやマスター不要論に対しては 「面白い事は確かだが特殊な技術を要するし、一つのスタイルとしてならともかく、一般的な王道足り得ないだろう」 という見解が支配的になり、やがて 「現在の我々の基本スタイル」 が生まれました。
 
 次は、「複数のスタイルを楽しむ事になった訳」、「演技」 をアップロードさせて戴くつもりであります。
 連続させると迷惑を通り越してしまいますので、一日の時間を空けます。まことに申し訳ございません。
98年06月26日:09時26分51秒
Re:キャラクターの個性 / 匿名希望二号
御指摘の通り、名称を変更いたしました。
私がネガティブな例として、提示したのはMARSさんがおっしゃられたようなこととお思いいただければ、幸いです。
習慣と言っていいか疑問ですが、常日頃このようなものばかり見ていると、どうしても先入観が出来てしまい、ひとくくりでものごとを見てしまいます。何に置いても玉石混合であるのに、玉の例をみることができず、偏見を持たざるを得ませんでした。
自分としては、それを他山の石としてまねしないように行っていますが、やっぱり実際に見てみないと実感がわきません。
言い訳がましくなりましたことを、お許し下さい。
98年06月26日:02時50分37秒
LOG 014 / sf
 プレイング研究室 LOG 0141998年06月19日から1998年06月26日までのログです。

プレイング研究室ログ / TRPG論考掲示板ログ / TRPG論考
TRPG.NETホームページ / Web管理者連絡先