[KATARIBE 32326] [HA06N]小説『山猫温泉業務日誌』

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Date: Thu, 11 Feb 2010 22:45:38 +0900
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どうも、Euphoこと、ゆーふぉです。

羽湯雅仁のキャラメイク中、自分でキャラを掴むために書いてみました。
IRC投稿時より加筆修正してみました。黙ってるとひたすら直しそうなので
思い切って投稿してみます。

**********************************************************************
小説『山猫温泉業務日誌』
========================

登場人物
--------

 羽湯雅仁(うとう・まさひと)
   :山猫温泉の主人。猫耳。小雪の下僕。
 香坂小雪(こうさか・こゆき)
   :山猫温泉の女将。般若。
 斎藤さん(さいとうさん)
   :事務員。主に日誌に登場。
 佐藤守安(さとう・もりやす)
   :スカイラインに乗る走り屋。
 老人ズ
   :吹利師範学校同期会六八回生。

本編
----

山猫温泉業務日誌より抜粋。

平成22年2月1日(月) 天気 曇り 最高気温5.8度 最低気温-0.5度
源泉温度 58.3度 湧出量・色・臭い 問題なし(目視による)
浴槽内温度 40.5度 残留塩素濃度0.4mg/L pH6.2

早番:羽湯雅仁

 4:30 宿直の香坂より引き継ぎ完了。宿泊客2名。宿泊所特段の異常なし。
 5:15 浴槽清掃終わり。男湯2番の蛇口の調子が悪いので使用禁止です。
    とりあえずガムテープ貼っておいてます。
 5:50 早朝見回り完了。
 6:00 営業開始。
    入浴客3名。60代以降の方ばかり。前日の忘れ物タオルを取りに来た
    方が漬け物置いていきました。断ったんですが断り切れず。
    ※奈良漬だった! 車運転する人は食べないで!
11:00 早番業務終了。

 ※斎藤さんへ、蛇口の件、業者への発注お願いします。吹利市の業者が部品
  を持っているので、名刺はさんでおきます。よろしく。
 ※社用車ちょっと借ります。そのまま送迎して遅番入ります。

予約客
 16:00 吹利駅前 吹利師範学校同期会様 11名 送迎担当:羽湯

序 生駒温泉郷の死闘
--------------------

 奈良県生駒郡、某旅館。そのロビーの片隅に置かれた卓球台は、異様な熱気
に包まれていた。
 ギャラリーが取り囲んでいるわけでもない。ただ、スーツに法被姿をした二
人の漢が向かい合い。その横で一人の浴衣を着た女性が淡々とスコアを付けて
いるだけである。隣では子どもたちが走り回り親に注意され、爺さんと婆さん
が二十人ほど相撲中継に見入っている。
 その牧歌的な雰囲気を粉砕しながら、卓球台のネット越しに彼らは殺気すら
込めた目でお互いを見合っている。
 窓際の男がラケットのグリップを握り直した。指先が白くなる。
 男は、決して頑強という訳ではないが、強靱な発条の様な、均整の取れた筋
肉がスーツの上からでも感じられる。
 男の喉奥から、乾いた声が絞り出された。
「……冗談じゃねえ」
 スコアボードに寄りかかっていた浴衣姿の審判が、早くやれとでも言いたげ
な目をその男に向ける。
 最終ゲーム、3−10。窓際の男が圧倒的に不利であった。
 男に、ネットの向こう側から声が投げつけられた。
「……客を吹利で乗せて、帰らなけりゃならん」
 大浴場入り口を背負うように立つもう一方の男が、静かにボールを持ち上げ
た。法被が暖房の風にゆらめく。
「これで決めてやる」
 ふわりと浮いたセルロイド製のボールが、ラケットによりそのベクトルと回
転を変化させ、相手コートへと突撃していく。
 それは、凡庸なサーブからはじまった。
 窓際の男は、決して下手では無かった。むしろ、その腕前は社会人選手級と
言って良いほどである。的確に相手のコートの隅を、相手の身体とは逆を狙い
打ち込んでくる。
 だが、いくら打ち込んでも、いくらラリーを重ねようとも、相手のラケット
はボールに吸い寄せられてくる。それをこのゲームの間、嫌と言うほど思い知
らされていた。
 だからこそ、この局面において彼は最後の賭に出た。オーバーミス(ネット
や相手コートにボールが触れないこと)のリスクを覚悟し、渾身のスマッシュ
を放ったのだ。
 周囲の音が消えていく。脳が余計な情報を遮断し始めた。視界の色彩すら消
滅していく。
 彼の全身がバネに変わる。筋力を上乗せした体重が、足腰から上半身、そし
て右肩、右腕、その先端のラケットへと急速に移動した。
 ラケットに激突したボールは、古典的な物理法則に従いそのベクトルを変る。
さらにラケットに押し出される僅か一秒未満で急激な加速を受け、秒速30メ
ートルを超えた。
 白色の球体は、全長2.74mの卓球台を0.1秒で駆け抜けた。
 そして、コートの縁に着弾、イレギュラーな動きを付加されながら、大浴場
男湯の暖簾へと突進する――かに見えた。
 次の0.1秒後には、目の前でネットを掠った音が聞こえ、さらに0.2秒
後には駐車場に面した窓ガラスに、軽い何かが当たる音がした。
 ロビーのざわめきが戻ってくる。
 安っぽいビニールのスコアがめくられた。それ以上興味がないという風に、
審判は、浴衣を直すとさっさと立ち去っていった。
 事態を全て悟った男は、まるでスローモーションの様に膝から崩れ落ちた。
何事かと子どもが一瞬振り返るが、すぐに親の後を追って宿泊棟へと走り去っ
ていく。
「……馬鹿な」
 その言葉とは裏腹に、彼には最後の瞬間が焼き付いていた。そして、自分が
絶対に相手を超えられない理由も理解していた。
 見てしまったのだ。
 それは、この競技を続けていればわかる、ある種のオーラ、気の流れ、そう
言ったオカルト的な説明しかされていない、あの力。全くの噂と信じていたも
の。
 表に止められていたバンの扉が閉まる音がした。
 先ほどの対戦相手の車だった。
 その様子を呆然と見つめながら、男はうわごとの様につぶやく。
「これが……み………お…温泉……卓球……」
 彼は、彼が放ったスマッシュが打ち返される刹那、対戦相手の足下に光を見
た。
 それは、一瞬で全身に駆け上がり、そして両眼を不気味に輝かせたのだった。
 間違いなかった。
「あいつが……あんな……猫耳野郎が……」
 相撲は丁度幕内の対戦が始まるところであった。
 図太いエンジン音が、昭和の香り漂う窓ガラスを振るわせ、やがて遠ざかっ
ていった。


ハイエースがD
--------------

1.山猫温泉案内
----------------

バスに積んでいた送迎ノートより。
15:00 社用車給油。ガソリンが値上がりしそうです。安いスタンドの情報あっ
    たら斎藤さんか羽湯まで教えて下さい。
15:30 吹利駅前到着。駅前駐車場に駐車。領収書はいつもの所に。
16:00 お客様乗車。吹利師範学校同期会六八回生様 11名。
16:10 吹利駅前発。
    ※車内のマナーについて一考の余地あり。お客様に不快に思われないよ
     うに対応する必要はありますが。

 その日、羽湯雅仁(うとう・まさひと)は、送迎のトヨタハイエースをかれ
これ二時間近くも乗り回していた。吹利県西生駒郡滝川町から出発し、生駒山
の奈良県側、生駒市へと移動し私用を済ませ、信貴・生駒スカイラインを経由
し吹利市へと移動。吹利駅でお客の吹利師範学校同期会六八回生――つまりは
ご老体の方々――を乗せ、今度はまた滝川町の職場へと戻ろうとしていた。
 既に夕刻である。陽は大阪方面の山々を朱に染め、辺りは徐々に暗くなり始
めていた。
 車体正面と両側面には“山猫温泉”と見事な草書体が入っているが、そのロ
ゴよりも何よりも、車体全体のシルエットの方が近隣住民には有名だった。
 猫耳。
 フロントガラス上部にトップに突き出した二つの構造物、山猫温泉のその名
の通り、後方へと絞り込まれる二対の三角錐の形状が、そのハイエースのシル
エットを際だたせていた。
 もっとも、温泉の名前とマッチしているおかげで、市街地を走るだけでちび
っ子からご老人まで一発で宣伝できるというメリットの方が先に立ち、オーナ
ーである羽湯の私物利用は事務や女将から咎められたことは殆ど無かった。
 もっとも、私物利用の条件として、外出中の自分自身の猫耳着用を強要され
ることになり、彼は一種の羞恥プレイではないかと考え始めていた。
 その猫耳ハイエースが乗客と猫耳乗員を合わせて12名を乗せ、滝川町の住
宅地を駆け抜けて生駒山地西側を目指していた。近年のベッドタウン化が著し
い滝川町であるが、東滝川駅付近を過ぎ、山麓部へと入ると田舎町の雰囲気が
まだまだ残っていた。
 刈り取り後の田んぼと、冬野菜の露地栽培やハウスが斜面に沿って並んでい
る。1.5車線あるかどうかの町道が、夕闇の中ほぼ真っ直ぐに生駒山へと向か
っていた。
 既に日没は近い。
 ヘッドライトが点灯し、その直線を照らし出した。
 車内では、既に老人方が一杯始めている。麦酒と焼酎と日本酒とを車内で酌
み交わし、ソフトさきいかだのゴルゴンゾーラチーズだの魚介類と発酵物の臭
いが充満していた。
(くっそ……良い酒飲みやがって! ああ、そのチーズ輸入物だろ畜生!)
 たまらないのは羽湯である。仕事の後(できればヱビスビール)の一杯をそ
れなりに楽しみにしている彼にとって、殆ど拷問であった。
 それに、車を汚されるのを恐れていた。車体が安定しているおかげで彼らは
今のところこぼしていない。だがバックミラーから覗く震える手は……不安す
ぎた。ジェントルな荷重移動を心がけているものの、コップの液体が宙を舞う
姿を想像してしまう。
 既に無駄とは思うが一応声をかける。
「お客様……車内での飲食はできれば……」
 二列目に座っていた白髪をオールバックにした老人がすぐさま言い返す。
「若いの、そう堅いこと、言うたらあかん!」
 隣の禿頭の老人が賛同する。
「せや! 細かいこと気にせんと」
 それにさらに何人かが続いた。
「せやせや! にーちゃん気にしすぎやで!」
 羽湯は、安全運転を心に誓った。
(畜生! 最近は面倒が多いのに! これ以上仕事を増やされてたまるか!)
 そうこうしているうちに、巨大な看板を通り過ぎる。間伐材を利用して、安
上がりながら雰囲気良く仕立て上げられた山猫温泉の看板である。大書された
山猫温泉の文字の隣には、大きな矢印が生駒山地を指している。
 エンジンが回転数を上げた。山道に入り始めたのだ。ようやく、温泉街への
本格的な登りが始まろうとしていた。
 生駒山西側、つまり吹利県側は、奈良県側に比べて傾斜がきつい。山猫温泉
は生駒山脈の標高400mほど、ほぼ山地の頂上付近に存在する宿である。山麓
の看板からは比高300m強、直線距離にして僅か2km程である。
 だが、看板の距離は残り5kmを伝えていた。町名の由来となった滝川を始
め、大小様々な河川が削り取った急峻な地形を登るために、九十九折りがひた
すら続いていた。明治〜昭和初期の森林鉄道を改良したこともあり、車が登る
にしては傾斜が緩やかな道路である。杉の人工林の間を、車はゆっくりと進ん
でいた。
 この辺りからはようやく車線が広がり、2車線が確保されていた。追い越し
禁止のオレンジのラインが、蛇のようにのたうつ車線と共に山頂へと向かって
いた。
 ここから先は、温泉へと用事があるもの以外は殆ど立ち入らない。時折山菜
採りの軽トラや森林作業員が来る程度である。暗闇の中、見通しが悪いものの、
2車線であることも手伝ってそう大して怖い道ではなかった。
(頼むぞぉ……)
 慣れた道であることも手伝って、羽湯はバックミラー越しに老人を何度も見
ていた。
 シートは防汚加工をしているものの、掃除するのは羽湯自身である。それを
考えると、ことさらアクセルワークとブレーキング、さらにハンドル操作は慎
重にならざるを得なかった。
 運転席の男は、何事もないことを心から祈っていた。
 だが彼は知っていた。こういうときに限って、碌でもないことが起きること
を。

2.山猫温泉遙か
----------------

同じく、送迎ノートより。
17:30 滝山沢駐車場にて小休止。

 それは、少し前から予感していたことである。
 もう既に車内の厄介だけで一杯一杯だった羽湯の耳が拒否していたのだ。先
ほどから遠くに聞こえていた、悲鳴や咆吼とも取れる音を、その事実を認識す
るのを。
 だが、此処まで近づいてしまえば、最早耳も脳も拒否できなかった。
 山間に響くのは、タイヤが上げる悲鳴、すなわちスキール音と、其れを発生
させるだけの馬力を引き出すエンジン音。
 警察に言わせれば、違法競走型暴走族。彼ら自身に言わせれば、走り屋。
 名称などはこの際どうでも良かった。
 滝川沢展望台駐車場を起点に、山猫温泉まで続くこの道路を占拠し、高そう
なスポーツカーが何台も山道を異常なスピードで上り下りしていた。ヘッドラ
イトが異様な速度で山道を上り下りしていた。
(勘弁してくれ……本当に……本当に勘弁してくれ!)
 出来ることなら此処で頭を抱えたかった。
 だが今の彼の仕事は、お客様を無事に温泉に送り届けること。仕方なしに駐
車場に車を止めると、たむろしている若い男たちに声をかける。
「失礼いたします、山猫温泉の羽湯と申しますが……」
「あん?」
 チンピラ臭あふれる視線と返答が帰ってきた。
 どれがどれと憶えようとしたが、どれも個性的にしようとして没個性に陥っ
ている面々のため、見分けが付かない。
「ああ……この山の上の温泉やな。ワリいなおっさん。俺らレースやってるんや」
(レース!? コレが?)
「ほうや、見りゃ分かるだろ? 邪魔せんでくれや」
(お前らの性根なんぞ見ても分からん!)
「温泉なら、そこの林道から抜けれたやろ?」
(あの酷道ぶりを知ってて言ってるのか!?)
 確かにそちらにある林道からも抜けられる。だがそれは、藪を車で押し倒し、
なおかつさらに数キロの道のりを無駄に長く走ることになる。
「……この辺りの人じゃないでしょう?」
 彼は、努めて慇懃に接しながらも、既に言葉の端々は怪しかった。脳内は既
にこのチンピラ共の罵詈雑言で充ち満ちている。だが、先日までは暴走族は居
なかった。それがなぜ、という疑問もあった。
「サツの奴らが厳しくてのー、ブバフ!」
「あいつらみーんな取り締まりやがった、ぶっ!」
「そしたらここに良いコースが在るじゃねえか。うひょ!」
 何が楽しいのかチンピラ共が爆笑する。当然ながら羽湯の猫耳なわけである
が。
 大体の予想通りだった。その間にもRX-8やらランサーエボリューションや
らシビックType Rやらが次々と峠を行き来する。その間にも暴音が山間を暴
れ回っていた。
(……ゴッドファーザーのテーマかよ!)
 ラッパを仕込んでる車の騒音で、羽湯はこのチンピラ共との関わりを止めた
くなった。恐らく、根城にしていた峠道を警察の取り締まりや封鎖、カーブに
ポールを立てられるなど、警察と地域住民のあらゆる手を使った追い出し工作
により行き場を失い、この狭い山道を見つけてしまったのだろう。
 それが分かったところで羽湯自身に利点は全く無い。彼らを無視する決定を
脳内政府閣議で決定。脳内国会に緊急上程され、衆議脳・参議脳とも賛成多数
で法案を可決したのであった。後で警察に追い払って貰えば良い。関わるだけ
時間の無駄だ。
 ハイエースへと戻ろうとし、羽湯は異変に気づき足を止めた。
 駐車場内のナトリウムランプの下に並ぶ人影に、嫌な予感がさらに募る。
 チンピラだったらまだ良かった。
 並んでいたのは、先ほどまでの宴会で良い感じにできあがっている“お客様”
だった。
「おい、若いの」
 声と気の主は、先ほどのオールバックの老人である。
「このまましっぽ撒いて逃げるつもりやな?」
「仕方ありません。申し訳ありませんが、林道経由で少々時間は掛かりますが、
きちんと送り届けます。どうかご容赦の……」
 禿頭の老人が遮った。
「違うんや! 小僧、お前はなーんもわかっとらん!」
「はい?」
 その言葉を白髪オールバックの老人が続ける。
「ワシは、帝国海軍、重巡洋艦愛宕に乗っておった」
 老人の目が遙か彼方を見据える。その先には、太平洋の島々が広がっていく。
(なんだこれは!?)
 羽湯の脳内にも要らぬイメージが浮かぶ。
 講談調の爺様の演説は暫く続いた……羽湯にとっては暴走族と同等の悪夢で
あった。
 南海での海軍の激闘が、しばし滝川沢駐車場の一角で再現される。
「――レイテへ向かう幾千もの敵艦隊。彼らを壊滅せんと儂らは向かっていた」
 常夏の海面で繰り広げられる、戦争という名の人類至高にして最悪の行為の
数々。
 そこで紙コップの酒を飲み干す。
 老人たちの脳内で重巡洋艦愛宕は、ゆっくりと沈んでいった。
「それが……あの……栗田長官は……ううっ……」
 するめを囓りながら、その目尻には涙が浮かんでいる。
「沈んだ愛宕から助け出されて、聞いたときは……ホンマ、アホかと思ったで」
 唐突に回想モードが終了し、意識が現実世界に降りてくる。
 老人の目は真っ直ぐに羽湯を見据えた。
「お前は、逃げるような男ではないやろ?」
 ハイエースの下回りを眺めていた禿頭の老人が続けた。
「せやな……運転席も見せてもろたが、この車、300馬力は楽に出るやろ?」
 皺の多い手をバンバンと車体側面に叩きつける。
「エンジンは載せ替えてるんやな。ついでに言えば足回りも相当無理してはる
な?」
 羽湯は観念していた。
「……おわかりで?」
「皇国の猛者たちにごまかしは効かん。おまえさん、相当上手な運転やったし
な」
(皇国つったよ……じーさん……)
 もう面倒くさくなっていた。
 皺だらけの顔が一斉に羽湯を見つめた。
 最早逃げ場など無かった。羽湯が覚悟を決めるしかない。
「……条件があります」
 羽藤雅仁は、リーダーらしいオールバックの老人に向き直った。
「車内の飲食は厳禁にさせて頂きます。それと、絶対にシートベルトを付けて
下さい!」
 一瞬の沈黙があった。古老たちは一度顔を見合わせると、肯き合った。
 老人たちの顔が変わる。背筋が伸び、素早い動作で整列する。
「条件は飲もう。儂らの戦争でもある。頼むで」
 色気のある敬礼が羽湯に向けられた。
 此処は戦場じゃないとかいやそれ以前の問題だと言おうとした羽湯は、老人
たちの背後にZ旗を見た。
 その意味するところはただ一つ。
 ――山猫温泉顧客ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。職員一層ノ奮励努力セヨ!
 じーさんばーさんの噂力(うわさちから:今作った)を舐めてはいけない。
 そういうことだった。羽湯は観念した。
「……微力を尽くします」
 そこまで言ってから、この場違いな雰囲気に押されて、隅に押しやっていた
事実に気づいて愕然とした。
(待て、俺がチンピラ共と話を付けるのか!?)
 三秒考えて、考えるのをやめた。車内のダッシュボードからサングラスを取
り出すと手慣れた様子で掛ける。
 羽湯は正直な気持ちを自身に問いかけて、爆笑しそうになっていた。
 ――この状況を喜んでいる自分にである。
 警察をとっとと呼んで林道を迂回するのがもっともクレバーである。社会人
としてどころか世間の常識程度の判断力があればそうしている。
 普通、たとえ爺さん方の世迷い言があったとしても、この状況を自身で作り
出すなど馬鹿の日本記録程度は楽に更新できる。
 要はムカツク奴らをグーで殴るのと大差ない。子どもの感情と一緒だった。
 それを大喜びで、理由付けを客に押しつけて、今一線を越えようとしている
自分に、侮蔑を感じずには居られず、かつ満足すらしていた。
 表情が凶暴になるのは止められそうになかった。がっしりした体格とサング
ラスでヤクザだの極道だの散々に言われたことがあるが、その原因の大半はこ
ういったときに見せてしまう此の笑みであろう事に本人は気づいていた。
 猫耳が全てを台無しにしていたのが非常に残念である。
 つかつかと先ほどのチンピラに詰め寄る。
「ンだよ?」
 チンピラ男に合わせるかのように、遠慮は大阪湾にコンクリ詰めにして捨て
てきていた。
「邪魔だ。ガキの遊び場じゃねえぞ?」
 チンピラの顔色が変わる。思い出したように睨み付けるが、サングラスの先
の表情が読めなかったためか、途端に鍍金がはげて目がクロールを開始する。
「てめぇ……」
 泳いだ不良の目が、横のハイエースに移る。そこには、やはり異様な眼光の
老人が睨んでいる。あえて目を合わせないようにすると、ようやく声を出すこ
とが出来た。
「あ……あの猫型弁当箱で勝負するつもりか?」
 羽湯はサングラス越しに一瞥すると、鼻で笑ってやった。
「弁当箱とはよく言ったが、お前ら程度じゃ勝負にもならねえよ」
「あンだと? この猫耳野郎!」
「てめぇ!」
 羽湯の啖呵に続々とチンピラが集まってくるが、当の本人は眉一つ動かさな
い。
「馬鹿でも分かるさ、お前らのオモチャじゃ俺の車にさえ勝てない!」
 それだけ言い放つと、チンピラの罵詈雑言を無視して、老人たちをハイエー
スに乗せてやった。スライドドアを丁寧に閉めると、運転席に回り込み、自身
もまた運転席へと乗り込んだ。
 エンジン起動。各警告灯確認。問題なし。パドルシフト(ハンドルに取り付
けられたシフトチェンジレバー)の動作確認。
 そして車体中央に据え付けられたエンジンに回転を掛けてやる。
 それは、明らかにトヨタの純正エンジンではなかった。
「おい……まさか……」
 周囲のギャラリーがざわめき出す。
「……久々の高回転だが」
 羽湯は増設されたメーター類の動きを一瞥してチェックし終えると、ハンド
ルを握り直した。身を乗り出すと、その辺のチンピラに向かって大音声を上げ
た。
「下手糞共! 勝負してやる!」
 脳の沸点も理解度も低い奴らに、回りくどい皮肉を言っても通じるはずがな
かった。
 案の定、何人かが嘲笑すると大声で叫びだした。
「おもしれえ! 佐藤さんや! 佐藤さん呼んで来い!」
 駐車場の一角がざわざわし、誰かが携帯でまくし立てている。羽湯にもその
様子が聞こえてきたが、相手の語彙の無さに先ほどの自分の言動が間違ってい
なかったと妙な安心感を抱いていた。
 いずれにせよ、こいつらを一発で黙らせないと、週末の度に集まられたので
はたまったものではない。
 しばらくして峠から一台の車が戻ってくる。派手なドリフトターンで一気に
方向転換すると、マフラーから騒音をまき散らしながらハイエースにほぼ正対
し、運転席が触れると思うほど幅寄せをしながら横に停車、ここまで一切の微
調整無しである。その運転技術は派手だけではない技術の裏付けがあった。
 多少車を知っていた羽湯は、その車種に見覚えがある。
 日産BNR34スカイラインGT-R、峠で馬鹿が乗るには惜しいほど出来た車で
ある。
「おいおい、俺のGTRに勝てるってか?」
 だが、顔を出した佐藤とか言う男を見るなり、余裕すら浮かべていた羽湯の
顔色は一気に青くなっていた。
 彼が職場に帰り着く道は遙か遠く――。

3.風水身勝手論
----------------

送迎ノートより。
17:30 追記
    ※若者がたむろして居ました。詳細は報告書にまとめて回覧します。
    必ず目を通して下さい。

 ここで、余談であるが、“気”というものに触れなければならない。
 風水に“龍脈”という言葉がある。風水の言う“気”の流れる場所、生命力
やら運気やらそういった諸々の力、西洋のマナやエーテルでも良い、万物を構
成する不可視のエネルギーを想像すればいい。
 稀にこの“気”を感じることができる生物がいる。龍や獏、麒麟や玄武とい
った、神獣や幻獣と呼ばれ、伝承で語られる生物たちである。火を吐き天を駆
ける彼らの“異形”“異能”こそ、まさに気が生み出したものであろう。
 さて、生物である以上、人間にもこの“気”を操る“異形”“異能”が出て
くる。
 有名どころで言えば、古くは安倍晴明に繋がる陰陽師、弘法大師空海などの
霊力著しい僧侶など枚挙にいとまがない。
 此処、吹利県は古代王朝から神社仏閣まで、およそ奈良京都と比肩しうる霊
的地理条件がそろいすぎている。
 かくて怪異が、“気”を感じ操るものたちが、多い。
 が、誰でも式神をもち、天変地異を自在に操るわけではない。それは、知らぬ
ものが期待するような強力無比なことは、きわめて少ない。
 羽湯もまたそういった面倒な能力をもつ。否、もってしまった。
 彼は視覚から“気”を感じる。
 とはいえ、常日頃見えるわけではない。
 理由はともあれ、今、彼の視覚には、龍脈の気の流れが感じられた。うすぼ
んやりとした光の粒子とも、風呂の湯気とも、そうしたものに似た、しかしそ
れとは全く違う“気”であると感じられる何か。彼の目にはそう映っていた。
 此処で話を滝川沢展望台駐車場に戻す。
 羽湯には見えていたのだ、スカイラインのドライバーが放つ“気”が。
 落ち着いた雰囲気をもつ、やせ気味の男であった。
 気は、男の奥底から発せられ、手足の指先までゆっくりと流れ、燐光を放ち
ながら青黒い車体を包む。その光は、周囲へと拡散し、居並ぶ車たちを撫でる
ように過ぎると、森の闇に、あるいは街灯の光に呑まれていった。
 なんとも幻想的と表したい光景であるが、羽湯はそんな気分にはなれなかっ
た。
 ひたすら面倒ごとが増えていくことだけは分かった。
 だが羽湯自身、自分の歪んだ性格を認めざるを得ない。面倒ごとは大嫌いで
あるが、それに向かうことはさほど嫌ではなかった。チンピラ共に話しかける
ときから、諧謔癖と言う名の悪魔が、頭の中で喚いていた。同時に、自身が何
をすべきかを、どうしたら馬鹿を蹴散らせるかを冷たく見下ろす自我も感じて
いた。
(良いじゃないか)
 その一言で諸々の感情を抑え込んだ。
 佐藤という男に向き直ると口を開いた。
「話の早い奴で助かるよ。出てってくれ」
 佐藤は少しばかり妙な表情を浮かべると、それを笑みに変え、野太い声を上
げた。
「吠えるなよ、この一勝負で決めようってのか」
 落ち着いた声である。好感すら抱く話し方であった。普段の仕事ぶりすら推
し量れる。
「そっちが勝ったら好きにして良い。ただし」
「……負けたら出て行けってことだな。面白いじゃないか」
 窓越しの握手が、双方同意の合図であった。
 佐藤が何事かチンピラ共に声をかけると、わらわらとチンピラ共が散ってい
く。携帯でのコース監視からカウントダウンまで、それなりに公道に気は遣っ
ているようである。
 ハイエースもゆっくりと駐車場出口付近まで誘導される。
 羽湯は、帰ってからの女将への言い訳を考え始めていた。

4.かくて号砲は鳴り
--------------------

送迎ノートへの走り書き。
17:35 旅館に現状を電話連絡。
17:40 駐車場発。

「……はい……ええ……そうですか。源泉は……はい……すみませんが……は
い…はい……そうです。では、よろしくお願いします。失礼します」
 電話の向こうの相手にやたらと恐縮した羽湯が携帯電話をしまうと、バック
ミラー越しに老人たちを確認した。
 全員、きちんとシートベルトを締め、酒も止めていた。するめの足が何人か
の口から見えていたが、もう見なかったことにした。
 凄まじいエンジンの咆吼が聞こえる。
 ハイエースのエンジンも低く唸っていた。その外見からまるで肉食獣が獲物
を待つかのように……見える……のは流石に無理があった。
 機械の振動が徐々に意味のある声として聞こえてくる。彼はハイエースと一
体になりつつあった。
『……くすくす』
 まるで自分が笑われているようにも感じる。
 実際笑われていた。
『久しぶりに私を起こすのぉん?』
(黙って使われてろ! 後で呼ぶ!)
 外部どころか車内でも羽湯しか関与できない車との会話が続いていた。

 その頃、駐車場の外では、いよいよ通行車両の安全確認が終わり。二台の車
が車道へと誘導されていった。
 横にスカイラインが並ぶ。
 両車の間にスターターが立った。ヘッドライトの眩しさに目を細めながらも、
右手を大きく頭上へと突き上げた。
「――いくで!」
 返事代わりに両車がエンジンを絶叫させた。
「5!」
 ヘッドライトが夕闇を切り裂き、山頂へとその光の目を向けていた。
「4!」
 シフトノブ横に付いているTwin Clutch-SSC Control Modeのスイッチを確認。
S−スポーツモードに変更。ハンドルに取り付けられたパドルシフトに制御を
移行。
「3!」
 エンジンの反応確認。アクセルを踏み込むとハイエースらしくない雄叫びが
上がった。
 獅子の眷属たる猫科の咆吼であった。
「2!」
 高回転エンジンの叫びに、ギャラリーは凍り付いた。先ほど一度だけ聞いた
ときの予感が確信に変わりつつあった。
「1!」
 ハンドルとアクセルペダルへの意識が徐々に研ぎ澄まされていく。だが、羽
湯が欲する自身の“気”はまだ弱々しい。
「GO!」
 二台の車は、背中を蹴飛ばされたかのように飛び出していった。
 もはや夜と言って良い生駒の、その森の中へと、二つの鉄の塊が突入してい
った。
 最初のカーブを曲がっていくと、駐車場には奇妙な静けさだけが残った。
「……おい……あの」
「……ああ…猫耳バスの……エンジン」
 車のエンジンという物は、排気系を含めて独特の音を出す。
 彼らは一様にそこに止めてあったある一台の車を見ていた。
 三菱ランサーエボリューションX。その心臓たる4B11ターボエンジン。
 乗っていたドライバーも気づいたのだろう、彼らの疑問に答えるべく、アイ
ドリング状態から一気に空ぶかしをする。
 まさにその音である。
「あいつ……ありゃ……化け物かよ……」
 彼らの佐藤さんが予想外の苦戦を強いられることを予感し、彼らは爆音が駆
け上がる生駒山を見上げた。

 二台の車が冬枯れの木々の間を、ヘッドライトとテールライトで空間を切り
裂き、激走を続けていた。どちらも譲る気配など無い。
 飛び出しはスカイラインだったが、ハイエースはその尻にしっかりと食いつ
いていた。
 それだけでも異常事態である。
 細かいモデルナンバーなどの話は抜きに、佐藤が乗るスカイラインのエンジ
ンはチューニング次第で優に400馬力以上を叩き出す。かたや羽湯のハイエー
スといえば、300馬力前後がそこそこのエンジンである。双方とも公道では無
敵を通り越して無駄と言って良い馬力であるが、問題はその化け物同士の比較
の話である。
 これに車両の重量を引っ張って貰わなければならないのだが、当然ながらハ
イエースの方が重い。ついでに乗客も居れば更に重くなる。加減速性能は著し
い悪化が必然であった。
「畜生! やっぱり追いつけないか!」
 羽湯自身は運転についてある程度の自負がある。とはいえ、アマチュア趣味
レベルであった。相手も同程度の様ではあるが、ならば、車の性能差が物を言
う。その通り、相手がコーナーへ突入していく度に離されていく。
『……我慢しないで使っちゃいな?』
(……俺だって少しは自身あったんだぜ?)
 ブレーキングと同時にシフトダウン。加速はオートマに任せて無理矢理ハイ
エースを突進させる。高回転のエンジンが悲鳴を上げる。カーブのGが、予算
的な無理をして揃えたサスペンションを限界寸前までたわませる。
 羽湯の頭に、相変わらず響く声がある。
『相手も使ってるみたいじゃない?』
(まーそうなんだが。だろうなあ)
 無理なコーナーリングで車体がいくらか枝葉を擦った。
『あなた、なんで最初だけやせがまんするの?』
(へーへー。じゃーよろしく)
 聞こえてしまえば、脳内お花畑との会話にも見られかねない会話を済ますと、
羽湯は正面を向き直った。

5.佐藤の不安、女将の不安
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羽湯の事務机に貼り付けられていたメモ。
 ※取り調べはそっちで対応して下さい! 所用があるので帰ります!
  あと、奈良漬美味しかった! 香坂

 スカイラインのパケットシートに身を沈めながら、佐藤守安(さとう・もり
やす)は現状の“レース”と呼ぶにはあまりにも陳腐なこの競争を楽しんでい
た。少なくとも、スタート直前までの舐めた雰囲気は吹き飛んでいた。
 相手の車種で実力をはかろうとした自分の浅はかさを恥じると同時に、相手
が少なくとも基本は知っている“馬鹿”だということはよく分かった。
 ハイエースであれほど飛ばしてくる。飛ばせるマシンを作り上げるのは、恐
らく仕事だけではあるまい。執念とも言うべき趣味の力であろう。その点に関
しては全くの同類ではないか。親近感すら憶える。
 彼の乗るスカイラインにしろ、有名どころではランエボにしろ“スポーツカ
ー”と名の付く物のうち、いくつかは市販車でありながら市販車ではない。
 いわば、“市販車でのレース”のために作られたレースカーである。市販さ
れていなければいけないというレギュレーションのみがその車を縛る。
 では、いわゆ“町を走ること”を目的にした市販車はどうだろうか。
 速く走ることよりも、経済的に、快適に走行させることを目標とする。
 ハイエースならばスピードよりも多人数を、出来るだけ多くの荷物を、無理
なく快適に運ぶことを目的とした車である。元々のエンジンでもある程度の馬
力はあるが、それは低、中速域での快適性のためである。
 まるで家猫と豹を比べるような物である(大きさはこの場合正反対である
が)。
 その猫が、豹たるスカイラインに食いつこうとしている。
 だが、佐藤には分かりつつあった。彼の“特技”がそれを後押ししていた。
 小さい頃から車が好きで、気がつけば自動車整備の仕事の傍ら、こうした危
険なレースに手を染めているが、彼は誰にも理解されない特技があった。
 車の声が聞こえるのだ。
 正確に言えば、その車の機構から不調箇所まで、ミクロン単位での作動限界
まで、それらが手に取るように感じられる。ハンドルを握れば、まるで手足の
ように車と一体になれた。
 彼が物心ついたときから、それが当然とばかりに車は彼に訴えかけた。
 整備の知識は、いわば彼に車との共通言語を学ぶことに等しかった。
 だからこそ、整備工として優秀であり、今この場でどころか、公道のような
非公式な場ではない、正規のレースでもそれなりの成績を残していた。
 佐藤は、スタート前からあの猫耳魔改造の真意を見抜いていた。けったいな
場所に取り付けてはあるが、恐らく空気取り入れのダクトである。側面からの
吸気だけでは間に合わない冷却系が、支柱の間を絶妙に通されている。エンジ
ン音だけで判別できるあの化け物の様なエンジンを作動させるには、車体にそ
れほどの無理を掛けているのだ。
 それだけではない。
 足回りにも変速機構も……排気系どころかエンジンそのものも手を……。数
え上げればきりがないハイエースの改造の数々を、佐藤は把握していた。
 だからこそ、スタートの時に余裕の笑みすら浮かべられた。
 彼は全てを知っていたのだ。
 否、そのつもりだった。
 彼の予測のはるか上を行くスピードで、ハイエースは肉薄してくる。
「!! くそったれ!」
 考えすぎた。ヘアピンで外に大きくふくらみかける。
 だが、そこから彼の愛車はもちこたえた。タイヤが地面を咬み、サスペンシ
ョンが横Gを少しでも受け流そうとたわむ。愛車がこの程度ではスピンなどし
ないと彼に語りかける。
 佐藤はアクセルを微妙に調節しながら、ハンドルを勢いよく切る。
 約1.6tの巨体は、ある種の余裕すらもって車体がカーブを薙いでいく。
 カーブを抜けた直後にアクセルを床まで踏み込む。
 負けるはずがないのだ。
 だが、彼の感覚は、あの猫耳ハイエースの奥底を探れなかった。
 おかしい。機械なら、まして車なら裸同然で見通せる自分の力を疑うほど、
あのハイエースの中にいる“何か”が見えない。
 あの中には車だけではない。何かがいる。

 山猫温泉、事務室。
 なじみの客が置いていった奈良漬の香りがほのかに漂っている。フロントか
ら壁一枚隔てたこの小汚い事務室では、女将が憤怒の表情でモニターを睨み付
けていた。
 長く、手入れの行き届いた黒髪をきっちりと頭の後ろで結い、落ち着いた浅
黄色の和服にたすき掛け……までは女将らしい姿だが、問題は片手に持った薙
刀である。石突きを下にして、時折神経質そうに床板をこつこつと叩く。床に
当たるその音は、重々しく響いた。その辺の女性が軽々しく振り回せるような
重さの音ではない。
 “遠州猛虎流薙刀術”師範代、香坂小雪(こうさか・こゆき)は、殺気すら
もった目でモニターを凝視し続けている。映し出されている物に、問題があり
すぎた。
 ちなみに、先端にはぎらぎらと光る刀身がきちんと付いている。
 無論、普段からこんな格好はしていない。普段より若干の異常事態になれば
真剣を持ち出すことに躊躇はなかった。
 先ほど、温泉駐車場に立ち入ってきた暴走族を、薙刀一本で敷地外へ放りだ
してきたのだ。直後には、羽湯からの電話があり、事務室でも大体の事態を把
握していた。
 警察へ通報はしたものの、警察が押っ取り刀で駆けつける頃には全てが終わ
っているか、手が付けられないほどに状況が拡大しているかのどちらかである。
後者になる危険を冒しても果断な(!)決定をしたのは彼女ともう一人の経営
者の性格ゆえであろう。だが、それを解決するだけの自信を、彼女の表情は物
語っていた。
 さらに、温泉客には暴走族がいることを客に説明し、下山したい客には待っ
て貰うように頼むなど(もっとも、午後は湯治客しか居なかったことを喜ぶべ
きか、悲しむべきか)羽湯の滝川沢駐車場からの連絡を受けた後は、ほとんど
戦争だった。
 温泉駐車場をたたき出された暴走族は、今まさに激突している二台の存在を
知っており(彼らが下へと連絡したから当然ではある)今下山するわけにもい
かなかった。結局、山猫温泉から少し登った場所にある旧森林鉄道の駅跡地に
車を止め、ゴールの見届けをしようと、温泉側でたむろしている。
 それがまた香坂の逆鱗をワイヤーブラシで刺激していた。
 隣では、線の細い男性事務員が触らぬ神に祟りなしとばかりに、自分のノー
トパソコンに向かっている。
 小雪が忌々しげに呟いた。
「あんの馬鹿共……!」
 既に女将の機嫌が最悪を通り越していた。静かに怒るタイプではなく、客が
居ないところでは般若そのものであった。
「あいつら調子に乗るのは分かっていたけど!」
 般若が不機嫌を隠す風もなく吠えていた。その後に事務員が聞き取り可能だ
っただけで数十種類の怨嗟と罵倒の単語が彼女の口から吐き出されていた。
 モニターは、温泉の監視カメラ群である。ふたつの10インチブラウン管モ
ニターには、荒い映像ながら、温泉入り口から車道の一部が映っていた。片方
は敷地内を次々と映し出している。
 そこには街灯に照らされた静かな森の道……のはずが、チンピラ共が数人見
える。
「羽湯め……いつも白露を貸してやってるんだ……失敗したら……」
 こつこつと石突きを床板に叩く音が暫く続いた。
「斬る!」
 床板も抜けんばかりに石突きを突いて、その反動で切っ先を事務所にある送
迎バスの写真へと突きつけた。写真の猫耳ハイエースが僅かにたじろいだ様に
見えた。
 事務員は知っていた。羽湯が帰ってくれば勝敗にかかわらず成敗されること
を。彼女が何もかも解決した後の、無駄に背負わされた苦労の八つ当たり先と
して、まず間違いなく羽湯を選ぶことを。
 酒粕の香りの中、事務員は心から祈った。願わくば羽湯が勝利し、女将の怒
りが少しでも和らぎ、流血の惨劇だけは避けてほしいと。
 なにしろ、掃除が面倒だ。

6.勝利への条件
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温泉成分について、夕方のチェックでの異常報告に対応する早番へのメモ。
 ※今日の温泉成分、湧出量の変動ですが、明日の朝まで低下が続くようなら保
  健所に連絡をお願いします。

 自分にとっての有利な状況を脳内で列挙してみる。
 羽湯にしてみれば、通い慣れた道である。道路のひび割れや陥没一つまで真
っ暗な状態でも把握できる。
 相手は、ハイエースがこれほどの無茶な速度で食らいついてくることを想定
していない、はずである。それだけで心理的な奇襲は、ある程度成功している。
 だがその奇襲効果は既に消滅したはずだ。少なくとも二つ目のカーブまでの
挙動と今の挙動は全く違う。だが、稼げた時間と距離を感謝すべきだ。
 そして、相手のエンジン出力を殺せるだけのカーブが大量にあること。
 ついでに言うと、そのカーブでこちらは後れを取っている。
(ネガティブなのが混ざってないか……?)
 脳内に脳内でツッコミをかましつつ、彼は切り札を切るべきタイミングを計
ろうとしていた。
『いいから早くしなさいよ馬鹿!』
(うるっせぇな! お前がすーぐにガス欠なるからこんだけ思案してるんだ
よ!)
 もう一方の感覚に強引に割り込む声に、反射的に返すが、更に向こうの反撃
が来る。
『ンなこと言ってるウチに離されてるわよハゲ!』
(誰がハゲだ!)
 ちなみに、羽湯本人はふさふさである。
 だが声は攻撃の手をゆるめない。
『なら今すぐ……ムシるわよ?』
(冗談は止めろ!)
 羽湯の心の声は真剣そのものであった。
 しかし、山猫温泉までは既に1kmを切っている。頃合いであった。
(……阿呆なこと言ってたらそろそろだ。とっととやるぞ!)
『おっけい! ……小雪に斬られたくは無いでしょ』
(全くだ! それだけは勘弁願いたいな)
「大丈夫ですか!?」
 後ろの老人たちを久しぶりに気にする。
 直ぐに返答が帰ってきた。
「ワシらは大丈夫や! お主なかなか面白い物を使ってるんやな!」
 羽湯の耳には後半の声は入っていなかった。“力”を使役すとは面倒が多す
ぎる。
(かしこみかしこみ……なんだっけ?)
『祝詞から入るんじゃないわよ! いいから』
 そこまで言って、先ほど老人が妙なことを口走った気がした。
「はい……?」
 老人と脳内の声、同時に別々の対応をかましながら、さらにハンドルとアク
セルを必死で操る。
「若いの……式鬼(しき)が使えるんか!? その頭の――」
 ようやく老人たちの言葉が言語野を刺激した。だが、驚愕を内心で押さえつ
け、老人たちの言葉の後半を意識の外に追いやると、彼は“力”に語りかけた。
(――式神白露に命じる)
 そう命じてから頭上の異変のことを失念していたことに気づく。だが、既に
戻ることもできない。
(手伝え!)
『おおざっぱも良いところね。あなたも“力”使いなさいよ!』
(アバウトな指示で仕事してくれるから助かるよ! こっちはもう“見てる”
 源泉を感じた!)
 地脈の湧出点である温泉を起点に、気の流れが羽湯に押し寄せる。
 マグマの、岩石そのものが持つ熱、地球の中心からわき出る力が、清らかな
地下水と交わり、熱水へと変わる。その温泉となった力は吹き出すと共に羽湯
の心とリンクし、静かに流れ込んでいく。純粋な力となって羽湯の視神経を一
時的な暴走状態にもっていく。
 彼の力は単純であった。
 驚異的な視力の異常な増大。一度数値ではかったときには13.0を超えた。
当然、夜間視力も、果ては動体視力も人間の限界を楽勝で飛び越える。
 視力13.0とは、乱暴に言ってしまえば、約30m以上離れた所から、視力検
査で使うCの文字(ランドルト環)の2.0の部分を見分けることが出来る程度。
ちなみに、羽湯の視力がその数字なのは、それ以上は温泉の駐車場が広くなか
っただけである。数字は概算に過ぎない。
 それほどのエネルギーが今、羽湯の眼球から脳の視覚野を含む領域になだれ
込んできた。
 脳がその膨大すぎる情報量に悲鳴を上げ始めた。酷い頭痛を羽湯は無視する。
 だが、これだけでは足りない。
 彼は見えるだけである。それで縮められるのはまさにコンマ一秒の世界。追
いつくきっかけにはなり得る。が、それだけである。
 もう一つの“力”が必要だった。
『いやー……よーやくおっしごと♪』
 問題は、その“力”の源が軽いノリで仕事が遂行されていくことに、多大な
不安が無いわけでも無いが、彼女(?)の協力がなければ厳しいのには変わり
がなかった。
(いいか、一瞬、一発の仕事だ。絶対決めろよ!)
『何いってんの! そのための、あ・た・し☆』
(……小雪の趣味について問いただしたい。主にお前の言動。なんかムカツク)
『そのまま伝えておくわ』
(冗談デス勘弁シテクダサイ)
 スカイラインとの距離は既に1コーナー近く離れている。無理矢理食らいつ
くのには限界が見え始めていた。
 羽湯はある一点を待っていた。
 この先の地形を熟知しているからこその一点をである。
(確認だ。何秒もつ?)
『そーね、ダッシュなら20秒。なんならアレなら5秒ってとこかしら?』
 直ぐに羽湯がタイムを計算し始める。ダッシュし、ぎりぎりの運転を続けた
ところで見えるのは相手の背中でしかない。だが、切り札を切る準備は整った。
 そこでようやく、後方の爺様の言葉が意味をもって認識される。
「…や……聞いてるんか? ……ていうか頭や! その頭! 耳!」
「そっちですか! この非常事態に!」
 羽湯は反射的に怒鳴り返していたが、話題が一瞬で別方向に吹き飛んだ気が
する。
 そもそも頭の猫耳ならば、既に吹利駅前で激しいツッコミを喰らっていた。
 そういえば先ほども何か衝撃的な一言を聞いた気がする。何だったか。
「あたりまえや! その猫娘や! まさかミ……!」
 舌を噛みそうなほどの急激な方向転換により中断させられたが、老人たちの
再びのツッコミは、無理もなかった。羽湯の頭上に鎮座していた猫耳は、今や
全く別の、だかしかし確かに猫耳と類似の物体になっていた。
 無理を承知で表現すれば、たれ猫耳少女。
 少女が一人羽湯の頭でGに抗いならもがいていた。後ろの視線に気づくと、
一瞬驚愕の表情を浮かべ、曖昧な笑みを浮かべた。
『あ……どーも』
 老人たちの数人が気づいた。ああ、とかどうもとか要領の得ない返事と表情
をする者、にこやかにゲソを口からはみ出させながら親指を立てる者。だが確
実にその数人は羽湯の頭上の猫娘を視認していた。
 一人と一匹はほぼ同時に現実を認識した。
 先に羽湯が喚いた。
(どうして写身(うつしみ)が見えてるんだよ!)
 白露と呼ばれた少女(?)も喚き始めた。
『あたしだって、だってだって……』
 だが現状はその喚きすら許さない。無理矢理立ち直ったのも羽湯であった。
(ぐだぐだ言っても仕方ないな。ダッシュじゃ間に合わない。アレもやるぞ)
『え!?』
「どこか適当な谷をショートカットします! 森林鉄道跡の吊り橋です!」
 羽湯が老人たちへも一応の確認のつもりで声を上げる。乗る前に無茶は確認
済みである。当然ながら同意の歓声が上がり、羽湯はこの老人たちへの自身の
考えを一層強固なものにした。
 頭上ではそのルートへの抗議よりも、自身の姿を見られた衝撃が抜けきらな
い白露が叫んでいた。
『さっきからもー! あの即身仏みたいな連中に姿が見えるなんて!』
(理由を考えてる暇はない。行くぞ)
 既に無駄話の中、ポイントは近づいてきた。羽湯は決断を既に下していた。
 スカイラインがカーブに消えた直後、羽湯もまたカーブへと突入した。スカ
イラインが突入したカーブよりひとつ手前の脇道へと。
 ヘッドライトが照らす先に森林鉄道の残したコンクリートの主塔が見える。
 その先には、苔むした吊り橋が先の見えぬ闇に沈んでいた。
 余談であるが、自動車の運転経験があるとしても、街灯が無い、というのは、
想像以上に運転に困難をおぼえる。
 平成22年2月現在、日本における保安基準では、ヘッドライトの照射距離は
ライトを上向きにした状態で約100m、下向きでは僅か40mである。ここで問題と
なるのが100mの照射距離とは、運転者から見ればあまりにも短い距離なのだ。
 何故か。
 障害物を発見してからの制動距離が、つまり、運転者が障害物に気づき、ブ
レーキを思い切り踏んで停止できる距離が問題となる。車種によって異なると
はいえ、ライトが上向きの状態で、路面その他が条件が良いときですら、時速
100km前後から、安全な距離での急制動による衝突回避は、ほぼ不可能となる。
 結果、ドライバーは、意識するにせよ無意識にせよ、夜間走行では街灯に頼
ることが多くなる。街灯無しの区間を走行するときの恐怖は(ましてそれが先
に何があるか分からない廃線を高速走行するのであれば)相当なものである。
 よしんば、その恐怖を振り切ってアクセルを踏み込み運転を誤れば、涸れ谷
の下へ、車ごとヒモ無しバンジーを敢行することになる。
 だが、だからこそ、羽湯には勝算があった。彼ならばそのルートが昼間のよ
うに見える。事実、躊躇無く踏み込んだ羽湯の両眼には、橋へのルートがはっ
きりと見えていた。
 路盤の状況もそれほど悪くない。どころか廃止されてから10年以上の年月
を感じさせないしっかりとした物だった。
 車内は老人たちの絶叫と歓声で満たされている。
 羽湯は既に前方200mほどを一気に確認していた。車内について感想を漏ら
す時間は無い。
 順調にいけば、勝てるかも知れない。車内の全員がそう思えるほど順調に時
間は過ぎた。――少なくとも橋の中程までは皆がそう思った。
 だが、羽湯の視力により(当然、異常である)合流予定のポイントが捕らえ
られ、さらに周辺のスカイラインの動きまで見えたとき、羽湯は一つの結論に
達した。
 勝てないかも知れない。
 道路改変のあおりで城壁のようなコンクリートの擁壁があり、まさにそこを
スカイラインが派手なスキール音と共に通過しようとしていた。
 思った以上に相手のペースが速い。
 旧道との合流地点の改変が著しすぎる。少なくとも羽湯の予想していた高さ
より高い。
「白露! 少し早いが……なんとかしろ!」
『だから、たまにはもう少し具体的な命令がほしいわね!』
 ハイエースはヘッドライトを吊り橋の振動と共に上下させ、タイヤを苔と腐
りかけた木に噛ませながら、冗談のような加速を開始し――
 ――飛んだ。

7.彼女の思考
--------------

送迎ノートより。やはり走り書き。
18:00 山猫温泉着。

 その擁壁の高さは優に5m以上。乗員乗客合わせた状態で3t以上もの車体
を無理矢理飛翔させるのだ。白露は必死に自身の“力”について考える。羽湯
の視覚情報を彼女(疑問符をつけるのも面倒なので女性と仮定する)のそれと
重ね合わせる。
 相変わらず気持ち悪くなるほどはっきりと周囲が見えた。だが、“力”をど
うすべきかについては有益すぎる情報である。
 “力”を具体的な“形”に合わせ置き換えていく。
 今必要なのは、この車を擁壁の上まで持ち上げること。
 それも数秒で。
 思いに雑音が混じり始める。
 最初から馬鹿馬鹿しいと思っていた。
 こんな所で写身を見られたのも大きな誤算である。見えたということは、そ
して式鬼といったあの老人は――彼女が未だ“身体”を持っていた頃の記憶が
朧に思い出され――だから吹利市は苦手だ。
 そもそも、私が羽湯につけられた理由から大きく外れている気がする。
 小雪の言葉がなければ、こんなことはしてない。
 結局の所、おっさんと爺様方の意地としか思えない。
 私は――
 そこで考えることを止めた。白露が思い至った事実は、白露自身すら気づか
ずに思考の片隅に追い出された。あの馬鹿をなんとしても温泉まで無事に帰ら
せること、そして事の顛末を小雪に告げ口してやれば良い。
 自身への“言霊”をそうねじまげて解釈すると、白露は自身の力を解放した。

 以降、まったく常軌を逸した光景が山猫温泉直下で繰り広げられた“はず”
である。
 断定できないのは理由がある。
 当時の関係者からは、陳腐で馬鹿馬鹿しい表現しか伝わってこないのだ。
 曰く。「ありゃすごかった」「アホみたいや」「飛んだ」「羽が生えた様やっ
た」「ミケじゃ! ミケがいたんや!」。
 乗車していた連中がこの調子であったため、この時の車内の状態を正確に語
ることは難しい。白露が羽湯以外に説明も無しにその力を使ったためであるが、
彼女は老人たちに丁寧に説明するつもりなど微塵もなかった。
 肝心の羽湯自身も犯罪まがい(道路交通法には派手に違反している)の行為
を喧伝したいわけではなく、この件に関しては口を開きたがらない。

 この時、白露だけが事態を正確に把握していた。
 久々に“身体”を手に入れた彼女は、一瞬、その開放感に酔いしれる。まと
うべき毛皮すらない肌が感じる、痛覚さえ伴う冬の空気も、足下の湿った感触
も、苔の青臭い匂いも、それが実体として感じられるだけで、彼女にとっては
喜びであった。
 だが、白露にはそれに浸りきる趣味はない。
 彼女の存在意義が、小雪によって縛られた“言霊”がある。
 羽湯の視力を借りると、すぐさま現道までのルートを確認、擁壁の高さを一
瞥する。
『鼻で笑うほどの距離ね』
 それだけ言うと、羽湯がハンドルを放したことを確認する。アクセルもブレ
ーキも。
 白露は全てを掌握した。
 肉体としての自由を感じると、彼女は本来の――肉食獣としての輝きをヘッ
ドライトに宿らせ、苔と腐った木部を重心から巧みに外しながら、タイヤをし
なやかなバネのある足先としてすう、と伸ばし――彼女にとって助走とも言え
ない助走をし――
 ――跳んだ。
『私の仕事は、コレでおしまい……』

 着地の衝撃が羽湯を現実に立ち返らせた。サスペンションでは当然吸収しき
れない重力と加速から来る激動が全員の脳髄を揺らした。ご老体が幾人か、三
途の川向こうの連れを見たような見ないような。この時、白露が起こした奇妙
な現象も、良い感じで彼らの記憶野の奥底に適当な感じで収納されてしまった。
 羽湯がハンドルを左手で握り直したとき、同時に彼の右手は増設されたスイ
ッチを押し込んでいた。さらに右足は蹴りつけるようにアクセルを踏み込んで
いた。
 ハイエースはガソリンと空気に加えて亜酸化窒素をエンジンの燃焼室に叩き
込み、更に凶暴な加速を始めた。いわゆる、NOS、通称ニトロというやつであ
る。
 スカイラインのテールランプは既に手で掴めそうなほど近くにある。丸い特
徴的なそれが毒々しく赤い尾を引いて迫る。否、羽湯たちが追いついたのだ。
 だが、ハイエースは許容範囲を超えた大馬力のエンジンに、身もだえし、暴
れ始める。
 勝つかどうか、という考えをする暇すらない。羽湯はハンドルを押さえつけ
ず、暴れる方向を制御するだけの力を与える。アクセルは絶対に緩めない。
 彼の視力すらも既に役に立たない。温泉の明かりは既に見えていた。
 スカイラインが並びかける。後部座席が見えた。
 速度はハイエースが上だが、問題は追い越せるかどうか、温泉入り口の門が
街灯に浮かぶ。何人かギャラリーが見える。
 嗚咽のようなスキール音が生駒山地に響き渡った。

業務日誌への羽湯の追記。
18:10 警察に暴走族の件と、既に説得に応じて解散して貰ったことを説明。
    滝川署の方がパトロールのコースに加えてくれるそうなので、パトカ
    ー見てもみなさんびっくりしないように。
    送迎ノートにも書きましたが、後で報告書を回覧します。

8.馬鹿は休めないから馬鹿
--------------------------

2月8日(月)早朝、事務の斎藤さんの机の上に上がっていたメモ。
 ※羽湯が来たら、会議室で待ってると伝えて下さい。 香坂

 あれから一週間。
 今日の山猫温泉は静かであった。
 何しろ宿泊客どころか、日帰りの客すら居ない。
 ここ数年、不況のあおりをモロにくらった弱小温泉は、閑古鳥の大量繁殖を
招いていた。
「で、勝負には勝ったみたいだけど?」
「ハイ……」
 羽湯はその日、社長にもかかわらず小雪に会議室に呼び出され。閑古鳥の駆
除対策を理由に、その他諸々の日々のストレスを、先日の勝負をダシにしてぶ
つけられていた。
「暴走族共を追い払ったわよね? で?」
「ハイ……」
 ねちねちねちねちとした小雪の詰問は、一時間以上続いていた。
「ウチの旅館……楽じゃないのよね?」
「ハイ……」
 が、羽湯は忍耐を続けていた。これほど経営能力と実務能力の高い女将は得
難いことを知っている。
 それに薙刀で突きかかられた日には、羽湯は勝てない。無理。死ぬ。
「さっきからハイしか言って無いじゃない!」
 小雪の無造作な動きと共に、石突きが羽湯の頭上に降りかかる。
 彼にとってまことに不幸なことに、石突きは鉄製であった。
「……イッテ!」
 理不尽に過ぎる仕打ち、だが羽湯には理解できる。
 なにしろその原因は、車と共に二時間前に届けられた一通の書類にある。そ
の書類の宛名は羽湯であった。
「アレはあなたのオモチャじゃないのよ!?」
 薙刀の切っ先の向こう、駐車場にぽつねんと駐まっている猫耳ハイエースは
新品同然に磨き上げられていた。
 それこそが、まさに問題であった。
 吊り橋からの跳躍、そして着地の瞬間。ハイエースのサスペンションは限界
を超え、油圧とバネが衝撃を吸収することを止めた。さらに、その後のニトロ
発動、強引なゴール後のブレーキが、ハイエースの足回りにどころかフレーム
にも少なからぬ被害を与えた。
 請求書には、従業員の給料約三ヶ月分ほどの金額が並んでいる。相場から言
えば、これでも激安である。もっとも、それを安いと思えるのは車好きだけで
あろう。
 その値段だけでも小雪にしてみれば万死に値するのだが、納車の際に、封筒
を渡しながらディーラーが言い放った『婚約指輪が買えますね』という一言が
小雪の要らぬ部分をブチ切れさせてしまった。
 羽湯は小雪に気づかれないよう、徐々に……徐々に腰を浮かすべく努力する。
「ゴメンナサゐ……」
 達人、と言って差し支えない武道の腕をもつ小雪にとって、その動きは子供
だましに過ぎなかった。
「誠意が感じられなぁい!」
 小雪が振り上げた薙刀に、羽湯はダッシュで逃げ出した。

 一時間後、今日初めての客によって、駐車場に倒れていた羽湯が発見された。
 幸い発見が早く、命には別状がなかったそうである。命には。

この日、事務室の週予定表に書き込まれた内容。
8(月) 有休:羽湯(通院)

了

時系列
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2010年2月1日、8日

解説
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以上、山猫温泉の紹介なんかも兼ねています(?)。
爺さん方が何でアレが見えたとか、その辺の理由も何となく分かるように
追加してみました。
感想頂けると大変喜びます。
それでは、末筆ですが、お読みいただきありがとうございました。

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