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Date: Fri, 23 May 2008 00:34:26 +0900
From: Subject: [KATARIBE 31659] [HA06N] 小説『山のあなた』
To: kataribe-ml@trpg.net
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小説『山のあなた』
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登場人物
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高瀬夕樹（たかせ・ゆうき）：http://kataribe.com/HA/06/C/0581/
大学生で歌よみ。詩歌を読むと、怪異がおこる。
本編
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山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人の言う
「……あなた、って彼方のことだったんだ」
夕樹は呟いた。
二限が終わった昼休み。学食は人が一杯で、そこに入っていく気にもなら
ず、どうせ三限目は空いているからとぶらぶらと図書館に向かっている途中
だった。
夕樹は高校の教科書でこのカール・ブッセの詩の見てから今まで「あなた」
を二人称である「貴方」だと思っていた。勿論、見たのはドイツ語の原詩では
なくて上田敏の訳詩である。
七五調なので口になじみやすく、時々歌うように口ずさんだりしていたが
「山のあなた」の意味がどうしても分からないままだった。
五月も半ばを過ぎて、今日みたいな天気のいい日は少し汗ばむくらいになっ
てきた。葉が青々と茂った桜の木が作る影の下を歩いていく。
大学生になってから一ヶ月と少しが過ぎた。四月はサークルの新歓などで騒
がしいくらいだったが、五月の連休を過ぎた辺りから段々と落ち着いてきて、
行動のサイクルも固まってきた。
夕樹はどのサークルにも入っていない。創作部が大学にもあるらしいのだ
が、どうせ入ったところで今までと同じようなんだったら入らなくても同じか
と思い見学にすら行っていない。その代わりに暇なときは図書館に入り浸って
いる。
この大学は文系、理系の学部があらかた揃っているため、図書館にも様々な
分野の蔵書が収められている。あまりにも高すぎて手が出せなかった専門書の
類もここで見つかることが多く、工学部の学生でありながら専門分野の書籍よ
りも文学関係の書籍ばかりを読み、そして借りているという状況であった。
「でもなあ……」
詩の続きを思い出して苦笑する。
ああ、われ人と尋めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ
「見つからなかったから泣いて帰ってくるって、子供みたいだよねえ」
二限目はドイツ語の講義だった。そこで先生がこの原詩を黒板に書いたの
だった。最初の一行目を見たとき、夕樹は「あれ？」と思った。
黒板には「Ueber den Bergen, weit zu wandern」とある。
「山のあなた」の「あなた」が二人称なら「deiner」か、「山のあなたが遠
くにいる」という意味だったら「du」が来るはずだと思っていた。ところが、
そのような二人称はない。独和辞典で「ueber」を調べると「彼方に」と書か
れていた。
そこでやっと夕樹は納得した。確かに「向こう」のことを「あなた」とも言
う。今までずっと勘違いしていたのだった。
それにしても、と彼は思う。
一度出会った詩と、時間も場所も状況も全く異なったところで偶然遭遇する
ことになるとは、なんて面白いのだろう。
そして次に出会うときはどういう状況なのか。そのときにはきっと今日のこ
とを思い出すだろう。
そのことを想像して、夕樹は下を向いて小さく笑った。
やがて図書館が見えてきて、彼は足を速めた。
山のあなたのなお遠く
幸い住むと人の言う
時系列と舞台
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2008年５月。大学にて。
解説
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「山のあなた」は上田敏の「海潮音」に収録されている。
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