[KATARIBE 29053] [HA14N] 小説『茨猫・第八章』

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Date: Sun, 14 Aug 2005 23:30:25 +0900 (JST)
From: いー・あーる  <furutani@mahoroba.ne.jp>
Subject: [KATARIBE 29053] [HA14N] 小説『茨猫・第八章』
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2005年08月14日:23時30分24秒
Sub:[HA14N]小説『茨猫・第八章』:
From:いー・あーる


ども、いー・あーるです。
ちこちこ流してます。
……ああ肩が凝ったなあ<気分的に逃避

*********************************
第八章:響界拡大
================

 この大莫迦者、というのが、胡蝶の最初の言葉だった。

「ああもうっ!」
 たあんと響く勢いで、黒い髪が翻る。
「ちょっと待ってよっ!」
 伸ばされた友久の手を、押し戻すように。
「夢を……過去を変える積り?」
「……過去は」
 空間操作の能力を秘めた青の瞳が、微光を含んで見える。
「変わるさ」
「はっ」
 異形故に示すことの出来る、最大限の侮蔑を含めて。
 胡蝶が吐き捨てる……呪詛。
「……現在さえ変えられない人間が、よくも言う!」
 
 それでも。
 夢の中とは言え、過去を歪めてしまっている少女が目の前に居て。
 泣きながら、手を伸ばしていて。

 消えてしまうな、と。
 どこ  へも行くな、と。

 ……泣きながら。

 手を伸ばすことすらしないならば、それは野枝実だけの問題であるだろうけ
れども。

「なら、現在もまとめて」
 泣きながら差し出された手を、見捨てるくらいならば。
「変えてやるさ」

 少女は泣き続ける。
 胸の痛むような、細い声で。

「野枝実!」
「…………っ」
 気おされたように、胡蝶が一瞬黙る。
 それでも……友久の手は、やはり少女を突き抜けた。

「でも……でも、夢にはそう簡単には関われないんだってば!」
 唇を歪めながら、胡蝶が必死に言い募る。
「あんたになんか余計無理なんだからっ!」
 ぜったい、ぜったい、と、唇を震わせて。

「あんたみたいな方法で、夢は変わらないんだからねっ!」

 夢を操り、夢を変える異形の者。その言葉。
 八つ当りにしても……重い。
 
「だからって」
 そう、それでも。
「あの不完全のまんま独り、今にもぶっこわれそうなガキのまんまでいろって
か」
「だって……だけど、だから!」
 地団太を踏んで、胡蝶が叫ぶ。
「……だから、あれが野枝実の、本当の、過去なんだってば!」

 どれほど胡蝶が叫んでも、少女の耳には届いた気配も無い。
 ただ、両手で顔をこすりながらぼろぼろと泣くばかりである。

「そりゃ、見ている方はきついわよ」
 身長から言えば、胡蝶は友久の肩までも無い。その小柄な少女が、細い顎を
ぐっと上げるようにして、彼を睨みつけている。
「あたしだって、見てたくは無い、あんな野枝実」
 一瞬、胡蝶の視線が、少女のほうに向かった。辛そうに歪めた口は、けれど
もすぐに細く引き絞られた。
「でもね、それでも。ああやって野枝実は、ああ人間一人だなって、悟ってき
たの!そんで今まで来てるのよ!」
 右の手を、小さな拳に握って、振り下ろす。その辛さの代わりのように。
「その過去変えて、どうする気よ!」

 少女の姿が、また消えた。

「そして、一人と悟ってまた戻れというのか」
「そうやってひとは、一人で立つってもんでしょうが」
「ああ、立ってはいるだろうな。一歩足で」

 夢は幾度も巻き戻る。
 多分野枝実に、諦めざるを得ない事実を突きつけた、その時に向かって。
 幾度も、幾度も。

「……とにかく!」
 夢の風景は、それでも奇妙に明るく、奇妙に白茶けている。薄く粉を吹いた
ような世界の中で、胡蝶の声はぴりぴりと響いた。
「野枝実が諦めるまで、待ちなさいっての!諦めて、一人だって覚悟したら、
この夢終わるから!」
「……それこそ、100年経っても終わらねえだろ」
「現実、今の野枝実は一度で諦めてるじゃないの」
 
 恐らくは……伸ばそうとした手を、肘から切り落とされるほどの痛みごと。 

「諦めなければね、野枝実はまた、今に戻って悲鳴あげるの。痛い目見るの。
……あたしにはそっちのほうがむごく思えるわよ」
「痛い目ねえ」

 例えば異能の故に、他人から突き飛ばされること。人の目に異常と思われる
こと。
 ばけもの、といわれること。

「でもなあ」
「……何よ」
「それが怖くて生きていけるかよ…」

 勿論、辛いことでは、ある。でもそのことには、慣れることが出来る。諦め
る事も出来る。
 けれども。

「野枝実!」

 慣れることの出来ない痛みと。
 慣れるにはあまりに辛い痛みと。
 
「……莫っ迦、この男……」
 汚泥を吐き捨てる勢いで、胡蝶が言い放つ。

「あんた、自分が何をやってるかわかってんの?!」

 返事を、友久はしなかった。


 幾度も幾度も夢は繰り返す。
 その度に、手を伸ばす。そしてその手は何の手応えも無いままするりと落ち
る。
 何度繰り返しても、馴れることの出来ない頼り無さ。
 泣き声は、止むことが無い。
「…………」
 半ば諦め顔でそれを見ていた胡蝶が、ふと顔を上げた。

「?」
 ほぼ同時に、友久もそれに気がついた。
 強いて言うならば、皮膚に触れる何かが変じる……否、鋭く泡立つ感覚。
 ざわり、と。

「胡蝶」
「……これは」
 少女の両の手から、細い糸が湧き出すように流れる。その糸を手繰る動きが、
痙攣するように止まった。
「まずい」
「何が」
「夢が……」
 言いながら少女はふわりと手を大きく舞わせる。金糸は細かい網の目を作り
ながら四方へと散った。
「崩れかけてる」
「……夢から、醒めかけてるってことか?」
「違う」

 金の網が、空を覆う。
 それは雲の中で光る稲妻にも似ていた。

「夢は、醒めない、わよ。でも」
「崩れる?」
「ええ」
 細い光は、良く見ると胡蝶の指先から放たれている。
「この夢が、もうあたし達に耐えられなくなっている。だからこのままいけば、
この夢は崩れる」

 大きな目が、鋭く細められた。

「あたし達は異物だからね。多分、そのまま夢から弾き出されるだけよ。でも
野枝実は」
「崩れるのか」
「この夢を見ている意識は、ね」
「……どういうことだ」
「だから」
 苛々と、少女は言葉を繋いだ。
「眠り続ける」

 壊れた夢ごと、その夢を見ている意識は沈んでゆく。その意識が次の夢を捉
まえることが出来れば、またその中で夢を紡ぐことは出来るかもしれないが。
「難しいのか」
「……だからあたしの夢から、皆、出れなかったんでしょっ!」
 夢を見る本人以外の手による、夢の改変。
 それはある意味で、夢が崩れる、とも言える。
 故に……確かにその故に、胡蝶の操った夢の主達は、眠り続け、ゆっくりと
朽ちてゆきそうになったのである。

「今、空間に網を張ったわ。まだ、すぐには壊れない」
「あとどれくらいもつ」
「あと少しなら、あたしが支えられる……だから」
 両手を細い顎で示しながら、どこか悔しそうに胡蝶は言い放った。
「……何とかしなさいよ、あんたが!」

 少女の、栗色の髪が微かに揺らぐ。
 鮮やかな黄色のスコップの色が、奇妙な残像を残す。

 夢の空間が歪む、その証拠のように。

 …………夢の・空間・が……


 砕けるように散ってゆく影の破片。
 一瞬浮かび上がる、二人の少女。

 青い瞳が微かに光を帯びた。 

「……野枝実!」

 空間を見つめ、イメージを頭に描き、集中する。
 異なる空間にいるのでは、なく。
 言わばこの空間の歪みの中に自分たちが居る、と。

 そしてその歪みを切り裂き、彼我の距離を強引に収縮する。

「野枝実!」

 びく、と。
 目に押し当てていた手が、揺れた。

「…………!」
 胡蝶が小さく息を呑んだ。

「野枝実!」

 泣きはらした目が、何かを探すように動いた。


 
  ……声。
  しらない声。
  でもしっている声。


 少女の唇が、小さく動いた。
 だれ、と、問うように見えた。
 

「野枝実!」

 三度、呼びかけた声に、今度は確かに反応があった。
 少女は顔を覆っていた手を下ろすと、真っ直ぐに視線を向けた。



  ゆらゆらと、水の中で遠くを見るような頼りなさ。
  それでも、青い光だけがはっきりと見える。
  
  見間違いかな、と思った。
  幽霊みたいだな、とも思った。
  間違いだったら、かなしいなと思った。
  だから……見るのを止めようかと思った。

  でも。


  ……でも。

  
「……だあれ」
 息の使い方がまだ不確かな、幼い声が。
 それでもはっきりとそう言った。

「だあれ……?」


 答えよう、として。
 声を発しよう、として。

 ふと、友久の動きが、止まった。


 まだ五歳の筈の少女は、奇妙に透き通った目をこちらに向けていた。
 見たことの無い、表情だった。

 会った時からほぼ常に、どこか野良猫のような目をしていた。だから、そう
いう油断の無さや視線の鋭さには、もうとうに慣れてしまっていたけれども。

 疑問を発しながら、その視線はひどく……穏やかに見えた。
 穏やかに……そして、虚ろに。
 だからこそ、何時崩れるか判らないほどに不安定なのだ、と。
 
 今は、見事にその均衡が取れており、だからこそこれだけ穏やかに透明な眼
差しでこちらを見ているのだ。
 もし、ここで声をかければ。

 かけて、しまえば


「ちょっと何ぐずぐずしてんのよっ」
 声と同時にどしっと音がした。
 そして鈍痛。
「おいっ!」
「とろいのをとろいって言って何が悪いっ!」
 蹴りとばした足を、まだ宙に浮かせたまま、異形の少女はやたら堂々と言い
放った。
「えらっそうに言っといてっ」
 怒鳴りつける胡蝶の両手を、金糸の放つ光が霞ませている。この空間を支え
る為に放つ力も、並大抵ではあるまい。
 ……の、割に、胡蝶の口調は、疲れだの遠慮だのを微塵も匂わせないもので
はあったのだが。
「あたしが、何とかするっつって言ったのよね、最初は」
 おかっぱの下の、細い顔に、それはそれは険悪な色を浮かべて。
「言ったわよねえ、現在もまとめて変えるだとか何だとか!」
「うるせえ!」
 売り言葉に買い言葉。
 そして実際……そう怒鳴りながらも、胡蝶の顔色と、額から流れる汗が、悠
長に悩んでいる時間が無いことを如実に示している。

 もし、ここで声をかければ、野枝実の天秤は確実に片方に傾くだろう。

 それでも、もしここで声をかけなければ。
 野枝実の天秤は、崩れ、跡形も無くなるだろう。
 だから。

 手を、伸ばして。
 引き寄せた空間へと、その手をねじ込むようにして。
「こっちへ………こっちへこいっ!」

 丸い目を、確かに少女はこちらに向けた。
 
「野枝実!」

 とことこと、少女は近づいてくる。
 早くも無く遅くも無く。
 見開いた目が、丹念に磨かれた硝子の球を思わせた。
 その色が、奇妙に明るい茶の色……否、琥珀の色に見えて。
 こいつは本当に色素が薄いんだな、と、妙なことを頭の隅で確認する。
 どこかうろ覚えの記憶を辿るように。

「こっちへ、こいっ!!」

 指の先に、柔らかなものが触れる。と同時に友久はその手を引き込んだ。手、
肘、そしてそこから連なる全てを。
 崩れる夢から、こちらの側に。
 両手に一瞬、意外な程の力が掛かった。

 ぴしん、と、音にならぬ音が弾けた。 
「……っ!」
 小さな舌打ちと一緒に、胡蝶が顔を歪めた。
 
 そして。
 ふっと両手が軽くなった。
「……っと」

 弾みで小さな身体が腕の中に飛び込んでくる。
 
「……おにいちゃん……?」

 やはりどこか虚ろな目をしたまま。
 五歳のままの野枝実が、そう、問うた。



「……野枝実」

 掴まえたままの両手は、如何にも小さくて、そして子供っぽくて。
 それが彼の良く知るところの野枝実の印象と、どこかちぐはくでもあって。
 それに少し戸惑いながら、それでも友久は少女をちゃんと立たせた。
 ありがとう、と、少女は頭を下げた。
 でも、と、顔を上げながら、少し躊躇うように言葉を続けた。

「おにいちゃんは、だあれ?」
 少し意表を突かれて、友久は胡蝶を振り仰ぐ。
 胡蝶は少し肩を竦める。
「……知らない筈よ」
「五歳の頃の記憶しかないのか」
「今は、ね」

 少女はやはりきょとんとしたまま、相手を見ている。
 どう説明しようか、と、友久が躊躇っている間に。
 
「あのね」
 不意に、少女のほうから口を開いた。
「あのね、おにいちゃん」
 少女の声は、どこかしらまだ息の使い方がわかっていないような響きを含ん
でいる。頼りない、呼吸の音にかすれてしまうような。
「みんなね、いっちゃうの。どこにもいなくなるの」
 その声は、ひどく頼りなかった。

 勝気で、負けず嫌いで。
 餌も無くてへろへろになった野良猫が、それでも不用意に手を差し出すと、
その手を引っ掻くように、絶対に弱味を見せようとはしなくて。
 だから、そういう奴なのだ、と、思っていた。
 最初から、人に懐くことの無い野良猫のような奴なのだ、と。
 でも。

「のえみはね、ばけもの、って」

 琥珀玉のような瞳を瞠って、そう言う少女のどこにも、野良の持つ気負いや
鋭さや油断の無さは無く。

「だから、だれもいなくなるの」

 捨てられた猫が、入れられたダンボールの箱の中をかりかりと引っ掻きなが
ら心細い声で鳴くような声で。
 
「……だれも、いなくなっちゃうんだよ」
 小さな顔が歪む。泣き出すのを堪えるように。
「…………」
 手首を握ったままの手の中で、くてん、と、小さな手の力が抜けた。
 
 それは、ひどく頼り無い声で。
 決して野良猫のそれではなく、むしろ泣きながらでも誰かを探す声で。
 無論、その誰かを見つけたとしても、そこにぺったりと甘えるような性分では
無いことは、流石にこれだけ一緒に暮らしていると判断はつくのだが。

 それでも。

 ここに、いる。
 言うことは容易い。そして大概の場合それを裏切ることもあるまい。
 それでも。

 ここに居る。
 どこにも行かない。

 約定としては……充分に重い言葉である。


 ばこっと、友久の後頭部あたりで音がした。
 音に一瞬だけ遅れて、かなり深刻な痛みが知覚の層へと達した。
「……おい!」
「あんたが悪い!」
 
 やり取りをしながら、ふと、不安になる。この異形の少女は、自分の内心を
全て見取っているのではなかろうか、と。
 視線の先で、胡蝶はふん、と、勢い良くそっぽを向いた。
 

「野枝実」

 手を離し、小さな肩に手をかける。
 大きな目が、こちらを真っ直ぐに見る。
 胡蝶の声は、少女には届いてはいないらしい。

「俺が……見えないのか」

 つう、と、視線は手から肘のあたりへ、そして友久の目へと動く。
 ビー玉に似た、懐かしいような透明さと。
 そしてビー玉に似た…………過去との隔絶感と。

「……おにいちゃんも」
 瞬きもせずに、少女は目を合わせる。
 不思議な程、その視線は揺るがない。

「おにいちゃんも、いっちゃうよね」
 

 例えば。
 とても否定的な、そして不安定な状態であっても。
 その瞬間、もしくはある一定の間だけでも、それが安定しているものである
ならば。
 観測者によっては、それを『安定した状態』と見做しはしないだろうか。

 ……例え一瞬の間だけでも。


「おにいちゃんも、いっちゃうんだよ」

 ふわ、と、その口元に笑みが浮かんだ。
 とても静かな確信ごと、少女は繰り返した。
 五歳の少女の表情では、既にそれは無かった。

「だから、だれもいなくなるんだよ」


 ……そうか。

 不意に思い出す。あれは確か、恭也との件の前。
 『…もう、帰れないかもしれない』
 その言葉に、一度だけ、何故、と、野枝実は尋ねた。
 訳は言えない、と言った。
 野枝実はそれ以上、問い質してはこなかった。

 ……何時かは必ず居なくなる、と、確信しているが故に。
 知ってしまっていたが故に。


「おにいちゃんも、いっちゃうね」

 少女の……否、これは今に至るまでの全ての。
 野枝実の、声。

 手の中の小さな肩が、ふっと手応えを喪いかけた。

「…………いくわけが」
 半ば反射的に、その肩を抑えて。
「ないだろうがっ!」

 抑えた手に、まるで綿のような頼りない感触があった。
 まるでそのまま、溶けてしまいそうな…………

「野枝実!」

 ふと。
 手の中で、何かが実体化したような手応えがあった。

「……いかないの?」

 視線の先で、まだ少女の輪郭は少しぼやけているように見えた。けれども、
その姿は刻一刻と、確かなものになっていく。
 ひどく驚いたような……そして同時に、微かに眉をひそめるようにして、少
女は友久を見据えていた。

「どこにも、いかないの?」
「……訊きなおすな」

 硝子の質感だった瞳が、今ははっきりとした色を浮かべている。
 それは少しだけ、怒りに近かったかもしれない。

「いかないの?」
「だから……」
 訊きなおすな、と、唸るような声で友久は呟いた。
 
 小さな、少女である。
 言葉に裏など無いことは判る。大体、本当の年齢に戻ったとしても、言葉の
裏を探るだの言質を取るだのということを、するような相手では無いことも知っ
ている。
 それでも。
 否……それだからこそ。

「……いかないのね、お兄ちゃん」
 はっきりと、逸らされる事無く向けられる視線が……ある意味では、とても
怖いものになる。
 嘘はつけない。
 嘘をつく積りも、無い。
 けれども。

「そういうことだ」

 過去から現在までまとめて変えるということの。
 (変るものは野枝実だけではないというその事実も含めて)
 その、重さ。
 それでも…………
 

 ……と。
 するん、と。
 彼の手の下から、手応えが無くなった。
 と同時に、ぽふ、と、軽いもののぶつかる感触。
 首の周りに廻る手。
 左肩に、やはり微かな重み。

 ……全ての重みを、吹き飛ばすように。

「おにいちゃん、どこにもいかないね……」
「………………ああ」

 のえみが、ばけものでも、と。
 小さな声が耳元で呟いた。
 だから、小さな頭に、手を置いた。
 卵の殻のように、薄い感触と、そこから発する熱。
 ひどく、頼りないような。

「…………ああ」


 喉の奥から押し出した声が、一体どのような作用をしたものか。
 手の下の頭が、一瞬溶けるようにその輪郭を喪った。
 そして……幾度か触れたことのあるものへと、形を変えた。
 
 首の周りに伸ばされた腕。
 掌の上に流れる髪。
 それらが一瞬にして、今の時間軸へと移動した。


「…………ありがとう」
 小さな声。
 けれども、5歳児のそれとは異なる声。
 ふわ、と、首の周りの腕が外される。そして肩の上の重みがふっと取り去ら
れる。
 そして、声。
 確かに、聞き覚えのある。

「ありがとう、友久」

 言葉と一緒に、深く頭を下げる。
 そして、そのまま、手を滑り落とすように外すと、野枝実はすらりと顔を上
げた。
 やはり、淡い色合いの瞳が、不思議な程澄んだまま、友久を見据えた。
 一瞬。

 そしてその視線は、すらりと動いた。
「胡蝶」
「何」
「透耶、だよね」
「そう」
 一瞬の遅滞も無いまま、会話が進んでゆく。
「紗耶は、透耶が戻ってくることを願っている?」
「そらもう。毎日眠れないで胃をぶっ壊して酒呑むくらいには」

 了解、と、小さく野枝実は呟いた。

「何をするのか、わかってるのね?」
「これでも一応は」
「……なら、任せた」

 くすん、と、少女は笑った。

「で……友久は」
「ああ、大丈夫。あたしがちゃんと送るから」
「あたしは、そしたら」
「ああ、起きればいいだけよ」
 ひらひらと、細い腕を動かして、胡蝶は笑った。
「透耶ちゃんが起きれば、自然に起きるから、大丈夫」
 そうか、と、呟いて、野枝実は笑った。
 そしてもう一度、その視線は友久のほうを向いた。
 
「ようやく、答えがわかった」
 静かな声。
「ああ」
「だから、もう戻れる。……先に、戻っていて」

 ああでも、晃一が心配しているだろうな、と、野枝実は苦笑した。

「すぐ、戻るから」
「……ああ」

 そしてそのまま。
 野枝実の姿は、薄淡い蒼の色の中に。
 するり、と。
 溶け込んだ。


**************************
てなもんで。
 明日はちと居ないので、次に流すのは多分明後日です。

 ほんではほんでは。



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