第三章
| 深い闇の中で足を折り曲げて座りこむ年若い女性の腕の中に、一人の青年が抱きかかえられている。 青年の年の頃は二十歳ぐらい。女性の年はそれよりか少し若く、少し幼めだが高校生ぐらいの顔立ちをしていた。お互いに美男美女といっても差し支えない組み合わせだったが、特に少女の長く艶のある黒髪、それに整った目鼻と薄い唇は、どんな男性であれ可憐という感想を抱かせずにはさせない程に際立っていた。 青年は、少女の膝の上で頭を抱きかかえられながら、仰向けに横たわり、注意深く耳を済ませないと聞こえないほど微かな息を繰り返していた。身につけているジャケットとズボンは、至る所が破れ、血に染まっていた。しかし、青年の息は、激しい傷を負っている人間とは思えないほど静かだった。 少女がしきりに青年に対して声を掛けるが、青年は虚ろな目をして細い息を漏らすだけで、反応を示さない。しばらく青年の姿を眉をしかめて心配そうに見つめていた少女は、何かを悟ったように目を見開いた。 「本当に魂が……そんな……」 少女は、そう呟くと青年の顔を撫でるようにして触れながら、ゆっくりと彼の頭を抱きかかえた。長く端が切り揃えられた彼女の黒髪が地面に広がっていく。 しばらくそのまま動かなかった少女は、男性をゆっくりと地面に横たわらせると、静かに立ち上がった。数歩、彼から退くと、彼の姿を見据えたまま、両手をゆっくりと持ち上げ、掌を彼の方に向ける。 彼女の瞳に写っている彼の姿が揺れてぼやける。それは、彼女が泣いているから。しかし、彼女は、涙を拭わず、掌を正面の青年に向け続ける。次第に、ただ開いて向けていた掌を様々に交差させ、指を絡め始めた。 「貴方は、私に幸せをくれた。私だって、貴方に幸せをあげたい。幸せになって欲しい」 彼の姿を見つめながら彼女の脳裏に浮かび上がってくる情景があった。 初めて彼と会った時に、彼が伸ばしてくれた大きな掌と血を流しながらも意に返さぬように微笑んだ笑顔。周囲の奇異と恐怖に満ちた顔の中にただ一つの光であった笑顔。喜びと幸せに溢れた街を二人で歩き続けた日々。 様々な彼との思い出が心から溢れ、それに呼応するかのように瞳から涙が溢れ出た。 正面の青年は、今や、彼女の瞳の中だけではなく、現実のその姿を揺らし、そして薄れ始めていた。それは、彼女が知る最も力ある術であった。今から千年も遡った古き日本にて多くの特別な力を持つ者を輩出していた五十嵐家でさえ、その術を使う事ができる者は少なかった程の。 その代償を彼女は知っていた。 自分の命を失う事が、どれほど怖い事だろうか。自分は、この人がいなければ既にこの世から自ら姿を消していたのだから。彼女はそう思った。 目の前の青年の姿が揺れ、完全に姿を消すと、彼女はそのまま手首を交差させて掌を自分へと向けて更に複雑な動作を繰り返す。全ての指が絡み合いながら作り出す軌跡は、その空間にある種の紋様を作り出す。 得体の知れない絵文字のような紋様は、少女が指を絡めるに従って次第に具体的な姿を取りながら宙を舞い始めた。一つ舞うと、彼女の指が再び空をなぞる。 一つ、二つ……いや、一匹、二匹、三匹。それらは、いずれも獣の姿をしていた。鼠、牛、虎、兎、龍……合わせて十二匹。俗に『十二支』と呼ばれ、時を司る命を天から受けた獣達が、宙を舞いながら次第に輝いていく。十二の光は周囲の空間を覆うと、鼠から次々と自分の生まれた場所……彼女の掌へ戻っていく。最後の猪が戻った時、光は、全て彼女の掌に集まり、目も眩む鮮烈な輝きと化していた。 そのまま、勢い良く両の掌を合わせると、閃光が瞬時に弾けて消える。その途端、彼女は崩れるようにしてその場にしゃがみこんだ。極度の緊張と疲労から激しい息が小さな唇から勢い良く吐き出されるが、そのまま自分自身を確かめるように、彼女は自らの両肩や腕を触った。 「成功した……」 五十嵐深雪は、自分の術の成功を確かめると、襟元から首から下げているペンダントを取り出した。そのペンダントには、大き目の水晶に似た透明の石が填め込まれている。秘晶石と呼ばれるこの石は、日本の術者の家系である五十嵐家に代々伝わる物だ。 石の中を覗き込むと、『男』の姿が石の中に映った。それは、彼女の力で死に至る時間を止められた彼の姿。 五十嵐流創界術秘奥義『十二楔神』。この己の望むままに時間を止めるという究極の秘技を為し得た術者は、結界に関する術を得意とした五十嵐家の中でも殆どいない。しかも、五十嵐家の歴史上でもそれは死という大きな代償を払って初めて為し得るはずの禁忌の術であった。 深雪は、洋服から延びる自分の腕を再び見た。腕は、先程までの桃色の血色の良い色を失い、不自然な色白さとなっていた。それは、彼女が死んだという証でもあった。彼女は、自らが死へ至る時間すらも止めたのだ。 それは、彼の魂を救う為であった。 彼の魂を奪った存在を追う為に。 魔獣。 深雪をかばった彼は、そう呼んだ。どのような存在であるかをもう二度と彼からは聞けないだろうが、時間を止めた彼女にはそれを調べる時間は幾らでもあるのだから気にならなかった。 深雪が時間を取り戻すのは、彼の魂を取り戻し、そして彼の時間が動き出した時だろう。その時、彼の生への時間が再び動き出し、彼女の死への時間が再び動き出す。二度と彼には会えない。その事実を思うと、深雪の胸の奥に深い悲しみが広がっていく。しかし、彼女に後悔は無かった。 「貴方の魂、どんな事があっても取り戻します……必ず」 両の掌の中の秘晶石に向けて深雪は誓った。 また、夢を見た。 |