第二章
| 「ふ、ふ、ふっふ、ふ〜ん」 蛟美樹は、洗面所の縁に片手をついて、歯を磨きながら気分良く鼻歌を歌っていた。中学の紺の制服に身を包んで、元気いっぱいというオーラを全身から発散させながら、セミロングの髪を濡れないように顔を傾け肩の後ろにやり、鏡で髪の毛の枝毛をチェックしたり、どこか顔に変なところが無いかと朝から入念なチェックも一緒にする。 中学生ぐらいであれば、年配の女性が羨ましがり、あまつさえ殺意すら覚えてしまう程の肌の張りと健康さを持っているので、そうそう肌荒れなどを起こさないのだが、そうは言っても気になるものは気になるものなのである。 そうしていると少し離れた母屋の方から美樹の姉の亜里沙の呼ぶ声が聞こえた。 「美樹〜、ごはんよ。早くいらっしゃい」 「は〜い」 口をゆすぎ、洗面所から鞄を持って出て、塀に囲まれた庭を横目に長い板張りの縁側の廊下を歩いて行くと、だんだんと朝食の香りが漂ってくる。いつもの通り、味噌汁とと焼き魚の毎日食べても飽きの来ない蛟家の朝食の香りだ。 襖を開けて居間に入ると、そこには朝から豪勢な食事が膝丈の食卓に並んでいる。 葱の浮かんだ味噌汁に香ばしい匂いの焼き魚。横に添えられた茹で卵と海苔に漬物。卵焼きとサラダも二人分の食事の間に置いてあった。 美樹が食卓の前に座ると、奥の台所から亜里沙がおひつを持ってやってくる。今年で22歳になる亜里沙は、長く艶のある黒髪を持ち、しっとりとした雰囲気を思わせる美人で美樹の目から見ても羨ましく思う程だ。身長はそれほど高く無いが細身なので、実際の身長よりかは高く見える。性格は、明るく活発な美樹とは対照的に物静かであったが、道場を開いて剣道を教えている蛟家において、剣術指南役として門生に教える程の剣の腕前であり、彼女に教えて貰う為に道場に通いつめる男は数多い。 また、姉妹が幼い頃に亡くなった母の代わりに家事全般を全てこなしていた。美樹も物心ついた時から姉の家事を手伝っていたが、食事などは殆ど姉任せであった。 「姉さん。まだ父さんの具合は良くならないの?」 「ええ。お医者様の話では、安静になっていれば入院する程の事ではないようよ」 亜里沙が、ふっくらと炊き上がった白米をおひつから美樹の御飯茶碗に移しながら答える。一週間ほど前に倒れた父、蛟明人は、切迫した容態というわけではなかったが、病床に伏せる毎日で、仕事も出来ないありさまであった。しかし、仕事と言っても、稼業は、剣道の道場の指南をする程度で、その剣道も殆どの門下生は、亜里沙を目当てにやってくるという状態であったから、生活に関しては特に変わりはしなかった。いつも、明人は、その事に関しては時代の趨勢を嘆いていたが。 美樹は、目の前の朝食を頬張りながら、物静かに端を口に運ぶ亜里沙の横顔を見て、自分の家のこれから事をぼんやりと考えた。父もまだ若いと口では言うが、五十路も過ぎた状態で、倒れては道場を営むのもままならない。自分は、とりあえずやりたい事があるわけではないが、高校ぐらいは行きたいと思っていた。 そう考えていると、ふと、姉が将来どうするつもりかというのを聞いた事が無かった。浮いた話一つ聞かないし、凛とした剣術指南という自分の姉の存在がまるでいつまでも続くように日々思っていた。 「姉さん、ずっと道場の先生続けるの?」 それは、素朴な疑問だった。 すると、亜里沙の箸が止まり、しばし、目の前の茶碗を見つめていた。 「ええ。別に他の仕事をしたいと思っているわけじゃないしね。学校の事とかは心配しないで。今の道場だけで、全然家計には問題無いんだから」 美樹の方に顔を向けると、亜里沙は心配要らないと言わんばかりに微笑んだ。その笑顔をいると、何も出来なく、いつも姉に頼りきりで居る自分が少し恥ずかしくなった美樹は、その後は無言で食事を続けた。 「ごちそうさま」 そう言うと、手元の鞄を持って、玄関に向かう。 廊下を曲がる時に、振り返ると姉が父が寝ている部屋の方を見つめていた。姉にも様々な思うところがあるのだろうという事は、まだ年若い美樹にも理解できた。 玄関から外に出ると、門の周りには赤く染まった落ち葉や銀杏の葉が積もり、秋の匂いを思わせた。静かな住宅地だが、学校へと向かう人間の多いこの時間は、周囲は学生の通学の声がいたる所から聞こえてくる。 学校に向かおうと門をくぐった時、ふと、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。友人が通りかかったのかと通りを見てみたが、特に知っている人間の姿は見えなかった。 「まっ、いいか」 そう言うと、美樹は、鞄を持ち直して元気良く門から学校に向かって駆け出していった。 |