想い忘れた少年  竹林を、一つの影が走り抜ける。しかも、直線距離ではなく、縫うように竹 林をかいくぐって走る。  その速度は、野の獣かと見まごうばかり。  ザッ  影がとまった。動きやすい旅装束の少年であった。年の頃は10代半ば、あ れほどの動きをした後だが、呼吸の乱れはなく、汗もかいていない。  それもそのはず、この少年、見た目通りの年齢ではない。  6つを超えたときから仙道の修行にはいって、既に10余年が過ぎている。  天地の気ををからだのうちに蓄え、操るすべを覚えた彼ら仙道を志す道士達 は、修行してすぐに自らの肉体を操るすべを得る。その恩恵として、肉体の成 長をも止める事ができるのだ。  にあぁ……  彼が立ち止まった理由が、弱々しく鳴いた。美しき虎に抱かれた、その子供 らしき虎児。 「虎児……。母親は既に事切れてる……」  まだ声変わりをしていないのか、女と見まごう声を出す。その瞳に意志の光 は薄く、その声に感情は感じられない。  にぃ……  冷たくなった母親を離れ、彼の足元にとてとてと歩いて来る虎児。その足取 りは、それほど危なげはない。既に独りで歩けるようにはっているのだ。 「これから一人で生きていくのか……」  纏わりつく虎児を適当にあしらう。虎児も、すぐにじゃれ付いてきた。猫と 違い、その牙、爪は必殺の威力を持った虎種である。しかし、巧みに絡め、い なし、特に傷付く事はない。 「楽しそうだな……虎は木行……お前には喜びが分かるのか……」  この世界の法則の一つ、五行では、木行は喜びを司り、獣類を生んだとされ ている。そして、獣類の長が虎種なのだ。最も、この虎は知恵の無い下級の虎 なのであるが……。 「……」  ふ……と、じゃれていた足が止まる。虎児も、何かを感じたのかじゃれるの を止め、少年道士を見上げた。  グ……ウウゥゥ……  竹林の奥から、むき出しの殺気を感じる。 「……狼か……この場所では珍しいな……」  現れたのは、虎ほどではないが、明らかに虎児より大きい狼。その目は怒り に燃えている。明らかに少年道士を敵と認めたようだ。 「……逃げる事は無理……か。やるしかないな……」  そういうと、狼を伺いながらそばの竹の一本による。 「ふっ!」  呼吸を鋭くはき、すばやく二度足を降る。一度は顔より高く、2度目は足元 を払うように。  コンッ  竹が、背丈ほどの大きさに折れる。当然抜いた上の部分は横倒しに倒れて行 く。  ザザザザ……ザシャッ  その音を合図に、狼が向かって来る。その牙は鋭い。  切り出した竹棒を手に、迎え撃つ少年道士。空振りの一振りで狼の前進を止 める。  切り込もうとするが、相手の動きの方が圧倒的に速く、鋭い。攻撃はあたら ない。防御するのも、やっとの状態だ。 「術を……」  そういって、竹棒を振るっている間に懐に手をやる。 「符は持ってきていない……か」  術者は、みずからの気を物に時間をかけて込める事で、自分の実力以上の術 を操れるようになる。  彼の実力では、敵に効果的な打撃を与えるような仙術を遣う事が出来ないの だ。  ガッ!  空振りをしたところを回り込まれ、逆腕から教われる。間一髪、喉笛に噛み つかれるのは防いだが代わりに腕に噛み付かれた。血がしぶき、激痛が走る。  倒れこんでいては、 「痛っ……」  ガリッ……バギィッ  狼は食いついたまま顔を捻る。ありえない方向に捻られた腕は、割とあっけ なく悲鳴を上げ、折れる。  明らかに、体格不足であった。自覚していないが、数年前から成長が止まっ ている少年道士の身体は、まだ成熟してはいない。  そこそこの修行を積んだ道士であるなら、肉体の脆弱さなど体内の気の調節 でどうにでもなるのだが、十数年の修行でそこまで体得するには、さすがに無 理があった。  使い物になら無くなった腕は、狼の首振りに合わせて振り回される。さすが に、引き千切られてはいないが、動かされるたびに激痛が走る。  その間、全く何もしなかったわけではない。開いている右腕で跳ね除けよう とするが、いった加えた顎を開かせるまでには至っていない。 「……死ぬのか?」  妙に客観的に自己分析をする。確かに、状況の打開策は見えない。 「……あきらめるな……か」  師の言葉を不意に思い出した。来るかもしれない好機を逃さぬために、ひた すら気を溜めて待つ。  ビチッ……ギシギシッ……ブチィッ  徐々に腕がちぎれて行く。前肢で状態を抑えられているため、ちぎれないよ うな動きもままならない。  ヒュンッ 「ガァッ」  突然、狼は腕を放し、後ろに飛びずさる。空を切って上空からなげられたの は、一振りの木剣。  バッ……ザザッ  すばやく跳ね起き、地面に突き立っている木剣を握る。握ったとたんに刃を 風が取り巻くようにながれる。相手は既に体制を整えている。構え直す時間は ない。 「ふっ!」  すばやく呼気をはき、地面から引き抜くのを切り上げの剣閃へと変える。  ドンッ  間合いが届くぎりぎりで踏みとどまった狼の肩口が、異常なほどへこむ。木 剣に纏った風が、武器の殺傷範囲を広げているのだ。  数歩たたらを踏み、こらえる狼。しかし、その隙を逃すほど道士も甘くない。  ドンッ……ドドドッ  すばやく間合いを詰めての4連撃。あの一呼吸で、都合5回の斬撃を放った 事になる。しかも片腕はちぎりかけている状態でだ。  狼は、その5撃に耐え切るほどの力は持っていなかった。もともと餓えてい たのである。体力は万全とは言い難い。その場で崩れ、動かなくなる。 「勝った……か」  細く息を吐くだけで、呼吸が整う。左腕は、気の操作で痛覚を遮断してある。 痛みは感じないが、重傷には間違い無い。 「危ないところだったな、烈円」  上空から呼びかけられる声。 「師匠……」  上空には、身の丈6尺(約180cm)はあろうかという巨漢。烈円と呼ば れた少年道士とは明らかに各の違う仙人である。 「どうだ? 狼と相対した感想は」 「……いえ、別に……」 「ふむ……戦いの中にも、何も得るものはなかったか……」 「……いえ、私の修行が足りないのでしょう。未熟な証拠です」 「ふふっ……一人であそこまで出来れば、まずまずであろう。その木剣はくれ てやる。風を纏い、風を斬る剣だ……そうだな、「斬風剣」とでもつけようか。 大切に使え」 「ありがとうございます。では、修行に戻ります」 「うむ。あと数里(1里=約3km)で竹林を抜ける。そうしたらその腕も治 してやろう。さっさとこい」 「かしこまりました」  そういうと、仙人は鳥ほどの速度で去っていってしまう。  にぁ  足元に、再び虎児が纏わりつく。 「お前も、一人で生きていけ、天命があれば、また会える」  そういうと、再び走り出した。  虎児にも、何の感情も抱かない。纏ってくれる嬉しさも無ければ、捨てて行 く罪悪感も無い。  そう言った感情は、母親の胎内に忘れてきたと聞いている。実際、生まれて このかた、泣いた事も無ければ笑った事も無いのだ。  自分の故郷の邑(むら)が滅びたとき、自分に覆い被さる様にして徐々に冷 たくなっていった母親を感じていても、涙一つ、鳴咽一つもれなかった。 「それが、戦いの中で、殺刧で芽生えるものか……」  彼はまだ知らない。争いという物は、想いから生まれる事を。  互いの想いがずれたとき、そこに争いが起き、殺刧が生じる。  彼はまだ、それを見つけるには至っていなかった。自らの想いを探し当てる 事すら、できていないのだから。