おちた鬼 ========  血を含んだ風が吹きすさぶ平原。  そこには、一人の男のみが二の足で以って立っていた。  その鎧兜、手に持つ一本の大脇差しは血に濡れ、真紅に染まっている。 「う……く……」  おびただしい死体の中から、一人の男が立ちあがった。  うちもらしではない。肩口から左腕を失い、脇腹も半ば切られ、内臓が見え 隠れしている。  男が立ちあがったのは、武士としての誇りと、気迫と、そして使命感であっ た。  この鬼は、一個小隊で不意打ちをしてでも闇に葬らねばならない。幕府の安 泰の為に、忠義を誓った将軍の為にも。  全身血濡れの男は動こうとはしない。立ち上がった男はゆっくりと歩み寄っ た。  一個小隊を相手に、まだ立っていられるのは脅威だが、既に力尽きているの だろう。  弁慶の大往生が頭によぎる。死んでいれば……よし、生きていても、我が刀 で引導を……。  よろよろと近づき、男は刀を持ち直す。利き腕のみの斬撃。その斬撃は灯篭 の炎の消える一瞬、一際明るく揺らめくかのごとく、男の生涯最高の一撃であっ た。  鈍い衝撃が、自らの手に伝わって来る。痛みなどとうに封印した。しかし、 男は自覚していた。血塗られた大脇差しは、宙へ跳ねあげられている。自らの 刃は、届かなかった。視界の端に、将軍より賜った銘刀を手にした腕が飛んで 行くのが見えた。そして、大脇差しが振り下ろされる。男は、自分の眼前に振 り下ろされる刃を、最後まで凝視していた。  琴の今日の役目は、山菜拾い。七草粥を作る為である。  近くの山は、琴の昔からの遊び場であった。年頃になり、男友達が兵役で村 を出ていき、琴も弟の世話や家の仕事で遊ばなくなってしまったが、まだ道を 忘れた訳ではない。  小川を飛び越え、山の裏側まで向かう。  七草は、一つ所に生えている訳ではない。最後の一つは、山の裏側でしか生 えていないのだ。  そこは、かつて戦場となった平原に面しており、すこし前は兵士の死体があ ちこちに転がっていたものだが、今は全て土の下だ。 「血の……におい?」  平原から山に向かって吹いて来る風に、血の匂いを感じた。このあたりが戦 場になる事は、余りない。  今の幕府が出来てからは、戦場にはなり得ぬ、藩の中心近くにある平原だか らだ。  少し気にしつつも、歩を進める。しばらく行けば、目的のものは手に入る。 「あっ」  木々をかき分けて進んで行く琴の前に、一人の男が現れた。正確には、大脇 差しを抱えて座り込んでいる男を琴が見つけただけだが。  足を止め、男を見る。鎧は血に染まり、たれた髪で表情は伺えない。ぴくり とも動かないところを見ると、死んでいるようにも見える。 「あの……」  琴は、恐る恐る声を掛けた。  ここは、藩の中心部。このような場所にいる侍ならば、敵である可能性は低 い。現に、鎧は琴も出兵の折に見た事のあるものであった。  声に反応し、男が顔を上げる。どこか憔悴したような顔。目鼻だちはくっき りとた美形である。その瞳は、何も映していないかのように虚ろであった。 「大丈夫……ですか?」  男は、こくりとうなずく。唇がわずかに動くが、声になっていない。しかし、 琴にはそれで大体の意図を察した。 「みず……ですか? 今もってきます」  そう言って、近くの泉を思い出し、そちらへ向かおうとする。小走りに走っ ていると、後を追う足音。  振り向くと、男がついてきていた。 「えと……」  男は、そのままついて来る。足取りはしっかりしている。何処にも怪我があ るような動きではない。 「じゃあ、ご案内します」  そう言って、先導した。  それほど遠くない場所に、琴の記憶通り泉があった。男は、ゆっくりと近づ くと泉の水を口に含む。  それから、琴に向き直ると、ぺこりとお辞儀をした。まだ端正な顔は薄汚れ ていたが、瞳は生気を取り戻したようだ。表情は笑みが浮かんでいる。 「いえ……」  そう言って、目を伏せてしまう。  幼い頃、男友達はいたが、男を意識するという感情が芽生える前に、兵役が 課せられて村を出てしまった。今の琴の周囲に、同年代の男はいない。  男の年齢は、20代半ばといったところ、琴は今年で18になる。  男は、目を伏せた琴を見てから、泉の方に振り向いて鎧を外しだす。  鎧を外し、着物を脱ぎ始めた。手ぬぐいを取り出し、体についたどす黒い血 のりを拭き取り始める。 「う……わ……」  男の裸など、幼い頃失った父親のもの以来である。  男は、琴の目を全く気にせずに下帯も外し、泉の中へ足を踏み入れる。  正月の冷たい季節。泉の水は、明け方なら氷が張る。昼過ぎとはいえ、とて も人の入れる温度ではない。気温も、山肌に吹きつける風で一層寒く感じる。 「あの……大丈夫ですか?」  その問いに、男は振り向いた。泉の水は膝の少し上程度までしかなく一糸纏 わぬ男の正面があらわになる。  琴は、目のやりどころに困ってまたも目を伏せた。伏せた先は、男が脱ぎ捨 てた衣服と鎧。  手持ちぶさたも手伝い、琴は鎧の血を洗い流そうと自らの手ぬぐいでもって 洗い始めた。  しばらく、男の水浴びの音、琴の鎧を洗う音のみがあたりを支配した。  琴は、目を上げる事は出来ず、ひたすら鎧を洗い続けている。手の先は、と うに感覚が無くなっている。  男が、泉から上がる音が聞こえ、事のすぐ横を通って着物の上にあった手ぬ ぐいを取った。  泉のほとりでひざまづいて鎧を洗う事の真横で、自らの体を拭いている。  琴は、どうしても視界に入る男の下半身を見ないように、強く目を閉じねば ならなかった。  目を閉じれば、音だけが聞こえる。衣ずれの音、腰帯を閉める音。不意に、 琴は肩をつかまれた。 「きゃっ」  その声に、つかんだ手は驚いて琴から離れる。  目をむけると、水浴びをした男がいる。汚れた顔も奇麗になり、血のりも拭 い去られていた。まだ乾いていない塗れた髪が、一層色っぽさを増させる。 「あ、ごめんなさい」  男は、優しく微笑んで首を2、3度振ると、手を差し出した。鎧を渡せとい う事だろう。 「あ、はい」  鎧を受け取り、それを着けて行く。 「戦場に、戻られるのですか?」  鎧には多数の刀傷が見えたが、男の体には、傷は全く無かった。刀もあり、 鎧もある。  男は、首を振る。 「じゃあ、何処に行くんですか?」  男は、少し考えるようにしてから、またも首を振った。 「行くところが無いのですか? だったら、私の村にいらっしゃいませんか?」  自分でも、なぜこのような言葉が出るのか理解できなかった。若者を兵役に 取られ、更に通年通りの年貢を要求される琴の村は、徐々に飢餓で苦しむもの が出始めている。  来年の冬は、おそらく人死にが出るだろう。  しかし、言わずにはいられなかった。  男は、その言葉に激しくかぶりを振る。途端に、厳しい瞳になる。  数歩下がり、刀を手に取った。 「っ……」  琴は、息を呑む。武士が農民を斬り捨てるところは、琴も見た事がある。そ の時の情景が思い起こされた。  男は、あごで来た道を指す。帰れ、という事だ。 「……」  琴は、まだ迷っていた。この男は、自分達巻き込まない為に、村へは向かわ ないという事なのだろう。  動かない琴を見て、男は大脇差しを抜いた。片手で琴の眼前に突き出す。そ の刃は人を斬った事の無い様に血くもり一つ無く、刃こぼれも無かった。だが、 特筆すべきは、その刃。峰の部分も鋼鉄で覆われ、刃がついている。つまり、 両刃なのだ。  男は、真っ直ぐ来た道を刀で刺し示す。表情は厳しかった。 「……分かりました。さようなら」  そう言うと、琴は来た道を引き返していった。  男の瞳の奥に悲しみがあったように、琴には感じられた。  山から帰ってきた琴を待っていたのは、郡代の使いであった。 「三日後、郡代殿のところへ、まいれ」  この村を管轄にする郡代は、女好きで有名であった。この達しは、愛妾にな れ……そう言う命令である。  しかし、郡代には異常な性癖がある事も知られていた。おそらく、前の愛妾 が潰れたか、飽きたりしたのであろう。  家には、既に前金としての米が置かれていた。母親は、受け取ったのだ。 「琴……」  役人が帰った後、母親は辛そうな表情で琴に呼びかけた。  琴には分かっていた。この米があれば、弟も母も生きて行ける。また、逆らっ たらこの村ごと郡代の怒りを買う。選択の余地はない。 「大丈夫。さ、七草粥作るからね」  その日の粥は、白い米が使われ、珍しく弟も喜んでいた。  琴はその夜、閨で一人で声を殺して泣いた。  二日後、琴は仕事がまるで手についていなかった。  もともと、母親がいる為に、している事といえば家事と弟の世話だけ。  確かに、動いていなくても生活が出来てしまう。  明日の朝には、郡代からの迎えが来る。  昨夜は、母親に少しだけ男と女の事を聞かされた。そして、今日一日、自由 に使う事を許されたのだ。  琴は、何処行く当ても無く、山に入っていた。山の中には、思い出が色々残っ ていた。郡代の愛妾となれば、もうこの山を歩く事も出来ないだろう。  ふらふらと歩いていた琴の目に、大きな獣の鳴き声と、大木につけられた爪 痕を見つけた。 「いけない……冬眠しそこなった熊……」  振り返り、急いで山を下りようとした琴の目の前に、黒い大きな影が現れた。 「!っ……」  熊は琴よりも一回り大きく、口からよだれを垂らし瞳をぎらつかせている。 明らかに、琴を久しぶりのご馳走としか認識していない。  徐々に、間合いが詰まる。ここは山。琴は山頂側にいる。前足の短い熊は、 くだりだと人が逃げられる可能性もあるのだが、上りは滅法早い。逃げ切る事 は難しい。琴は、一歩も動けなかった。 「グォォッ!」  仁王立ちになり、右腕を振りかぶる。かすっただけで肉をえぐられるであろ う一撃は、琴の身体が急に後ろに引かれたため、空を切った。 「あ!」  琴を抱き寄せたのは、数日前の男であった。すばやく琴の前に歩み出て、刀 を抜く。 「グッ……」  熊は瞬時に男の実力を悟り、油断無く身構える。  男は、それを見ると無造作に刀を持って近づいた。あっという間に熊の間合 いに入る。 「あぶないっ!」  琴の声に熊がはじかれたように動く。仁王立ち、そして左右の爪の連撃。  木漏れ日の光を受けた刃が美しい逆Vの二等辺三角形を描く。頂点は熊の頭 上。その辺は、熊の両肩を同時に切断する。 「グアァァッ」  前のめりに倒れて行く熊を、既に刀を鞘に収めた男は後ろに飛んで避けた。 「……え?」  男は琴の方に振り向いて、優しい瞳を向けた。最後に別れたときの厳しさは ない。 「あ……」  今更ながら、涙が出て来る。もし自分が死ねば、郡代に目をつけられている ところであった。そうすれば、村の未来はない。同じ死ぬなら、郡代の元に赴 いてからでなければならないのだ。  男は、泣いている琴を見下ろし、傍で黙ってたたずんでいた。  夜。最後の夕食を、琴は家族と過ごした。熊から琴を助けた男は、村の手前 まで送ってくれたが、また山に戻っていった。  弟は、明日から姉がいなくなる事を理解し、泣き喚いた。そして、つかれて 既に寝入っている。  母親は毎日の仕事がある。今は泥のように眠っていた。  琴は、眠れなかった。明日になれば、郡代の使者が残りの米を持って迎えに 来る。今日一日、今まで世話になったものにすべて礼を言ってまわった。  男達は琴の母を羨ましがり、女達は琴の未来に表情を沈ませた。  思いも寄らなかった年下の少年から、想いを聞かされもした。その少年には、 一度だけ抱きしめて「ごめんね」といって去った。  この身をささげる事は、既にあきらめていた。しかし、純潔を一度も会った 事の無い男にささげるのは、未だ抵抗があった。  だが、もう時間が無い。全ての知り合いと、別れは済ませてしまったから。  いや、まだ一人いた。たった3日前に遭った、命の恩人。 「お母さん、必ず帰るから……」  そう言って、琴は家を抜け出した。満月が山の端にかかっている。琴は、山 に向かった。目指すは、山の裏側の泉。  月の光を映す泉の中に、一人の人影がたたずんでいた。  その影だけで、琴には誰であるか分かった。  泉のほとりについた所で、向こうも琴に気づく。  琴は、意を決して衣を脱ぎ捨てた。一糸纏わぬ姿となり、泉に踏み入れよう とする。 「っ……!」  指すような冷たさ。空気も冷たい。胸まで浸かれば、数秒で心の臓は動きを 止めるだろう。  その様子を見ていた男は、ゆっくりと近づいてきた。 「明日、郡代の館に入らねばなりません」  寒さに身を震えさせながらも、琴は男を見上げる。 「せめて、その前に私を一度だけ……」  そう言って泉の中に踏み出すのを、男は押し止め、抱きしめた。それが、男 の琴に対する答えだった。  洞穴の入り口から射す光で、琴は目を覚ました。  昨夜、男が寝床にするこの洞穴で、琴は男と一夜を共にしたのだ。  気づくと、全裸の男の胸の上で眠っていたらしい。顔を上げると、男は起き て琴を見ているのが分かった。 「あ……おはよう」  男は、こくり……とうなづく。 「あの、お名前を、聞いても良いですか?」  そう、琴は、未だこの男の名前すら知らなかった。  男は、悲しそうに首を振る。 「そう……私は、琴……といいます。覚えてくださらなくても良いです。私、 昨晩の事は忘れません」  男は、にこりと微笑むと、琴の頭を優しくなでて、琴の衣服を渡した。 「あ、そうだ、朝に迎えに来ると言っていました。もう行かなくちゃ」  男は、こくりとうなずき、手早く着物を着て、刀を腰に差した。 「では、失礼いたします」  ぺこりとお辞儀をし、洞を出ると、男がついてきているのが分かる。  熊から助けられたときも、同じような状態だった。 「ありがとうございます」  男は笑みで返した。  村の異変に気づいたのは、琴の方が先だった。村が見えて来ると言う所で、 黒煙が上がっているのが分かった。 「ああっ」  琴は、村へと急いだ。嫌な予感が芽生え、大きさを増す。  使者は、「朝迎えに」とだけ言っていた。  普段なら、今ごろ置き出して朝食の時刻である。まだ十分間に合うと思って いた。  もし、琴が逃げたと勘違いされていたら……。その償いは誰が受けるか……。  黒煙を出していたのは、琴の家だった。村人の冷たい視線が刺さる。 「琴ちゃん!」  隣に住む夫婦が近づいてきた。彼らにも、殴られた跡が見える。 「ごめんなさいっ。お母さん達は?」 「まだ……なかに……」 「ええっ?!」  家は、屋根まで日が廻っている。今にも崩れてしまうだろう。 「帰ってきたか! 良い心掛けだ!」  声を掛けたのは、郡代の使者。 「では、約束通り、消火救出作業を始めて良いぞ! 琴、お前はこっちだ!」  二人の男に両脇から捕まれ、旅篭に載せられる。同時に、縄でもって括りつ けられた。 「いやっ。家族が!」 「お前の責任じゃ、自業自得であろう!」  使者が行ったのは、それだけであった。旅篭は走り出す。 「おい! 火を消せ! 燃え広がるのはふせがにゃならん!」  村では、消火作業が始まっていた。だが、救出は誰もが無理だと思った。  消火をする村の男達の脇を抜け、人影が一つ燃え盛る家の中へ突進していっ た。 「おい、よせ! 死ぬ気か!」  炎に突っ込んだ男の姿は、すぐに見えなくなってしまった。 「駄目だ……崩れるぞっ。さがれっ!」  火消し守の声と同時に、家が崩れ落ちる。火の粉が舞った。 「他の家への燃え移りに気をつけろ!」  火消し守が、中の人物の冥福を祈る。その時、大きな音がして、中から人影 が飛び出してきた。  女性と少年を抱えた男は、そっと二人を下ろす。 「こいつは……」  二人とも、首筋を掻き切られているのが分かった。女性、琴の母親の方は、 暴行を受けた後も見える。 「ひでぇ……最初から、助ける気なんて無かったんだ……」 『こいつらを弔ってやれ』  火消し守の頭の中に声が響く。 「ひっ……は……はい」 『ついでに、郡代とやらの館は何処にある?』 「は……この村からの道は一つです。そこを行けばすぐで……」 『二人を弔ったあと、お前はこの事を忘れる。いいな』 「はい……」  火消し守は、何かに操られるように弔いの準備を始めた。  男は、腰の刀を確かめた後、郡代の館へと疾走した。  郡代の館についたときは、既に琴は静かになっていた。  母親と弟の生死は分からない。これも、自分の身勝手が招いた結果だ。  一夜を共になどせず、抱かれてすぐに戻れば、こんな事にはならなかったの だ。 「おい、下りろ!」  使者が、手の戒めを解いていう。琴は、素直に従う。ここまで来て、抗う理 由はない。  目の前には、ヒキガエルのようにでっぷりと太った男がいた。 「お前が琴だな? うむうむ、旨そうな身体をしておる……」  嫌らしい目、口元の笑みも下品極まりない。 「さ、早速、お前の部屋に案内しよう」  そう言って、脂ぎった手で琴の手をつかむと、館の奥に引っ張っていった。  部屋に向かう途中で、館の外が騒がしくなる。 「郡代っ!」  一人の兵が、廊下を進む郡代を呼び止めた。 「なにごとだぁ? わしはこれから忙しいのだぞ」 「お……鬼です。鬼が襲ってきました!」 「鬼だと? そのようなものがこの世に……! まさか、奴か!」  藩の上の方から、抹殺指令が出たその翌日に、捜索の令が出ていた男。これ は、一個小隊を使った抹殺が失敗に終わった事を意味していた。 「ぬうっ。殺せっ。手加減はいらん。総出で相手をしろっ」 「はっ」 「それから、あの方にも用意しておいてもらえよっ」 「はっ」  そう言うと、兵士は去って行く。 「くくく……一個小隊から逃れた鬼と、百人斬りの浪人か、面白いのう。よし、 見物と行くぞ」  そういうと、郡代は琴の手を引き、中庭が見通せる場所に行った。  中庭は、戦場となっていた。数十人男が取り巻くのは、大脇差しを無造作に 下げもつ男。 「あっ!」  琴は、その顔を見て小さく声を上げる。  紛れも無く、昨夜共に過ごした男であった。その瞳は静かで、感情を読み取 る事は出来ない。 「おおおっ」 「てやああぁっ」  二人同時に斬りかかるが、一人の胴を薙がれ、返しもせずに跳ね上がった刃 に首筋を切られる。 「あの速さ……やはりか……。4人以上でかかれっ」  郡代が声を張り上げる。その横に、のそりと巨体が姿をあらわした。 「無駄だなぁ……あいつは鬼だぞ。人の身では勝てぬ」 「これはこれは、なら、おぬしでも勝てんのか?」 「いや、俺は鬼を狩る修羅だからな。この程度の鬼、訳も無い」 「鬼?」 「ふ……娘、新入りか? あいつは、戦いの為に鬼神を降ろしたと言われてい るのよ。この藩が今の領土となる為にな。だが、治世に鬼など必要ない」  確かに、動きを見れば明らかに違っていた。力任せに振るわれる刃は、肉を 切り、骨を断ち、命を奪う。一振り毎に確実に一人が倒れて行く。  じきに、中庭が静かになった。そこに立つものは、鬼だけとなったからだ。 「ふ……穏やかな顔をして、その手は血に塗れている……か」 「頼むぞ、このために高い金を払っているのだからな」 「当然だ」  そういうと、用心棒は中庭に下りて来た。 「鬼、我が名は羅新。修羅をこの身に宿すものよ。お前の名は何と言う?」  鬼は、それには答えない。ゆっくりと周囲を見渡し、立っているものは中庭 に下りている二人と、郡代、琴だけと確認する。その際、琴と目が合い、微笑 を返した。 「ふ……声と引き換えに鬼神を降ろしたとは、本当のようだな。だが、我が修 羅の技と、鬼斬丸。この二つの前に、鬼の力だけで対抗できるかな?」  そういって、刀を引き抜く。その輝きは、確かに鋭く、銘刀だという事を証 明する。鬼を斬ったという伝説の名刀、鬼斬丸。本物かどうかは不明だが、そ の切れ味は紛い物でないように見えた。 「ゆくぞっ」  羅新が間合いを詰める。鬼は、それをしのぐ早さで刀を振り下ろす。羅新は それをいなして横に薙ぐ。瞬時に後退し切っ先を躱した後に刃を跳ね上げなが ら踏み込んで来た。  それを身をのけぞらせて躱す羅新。後退すると同時に更に横薙ぎをし、鬼の 前進を阻んで間合いを取った。 「たいしたものだな……だが、技術が足らぬ」  そういうと、羅新は刀を鞘に納め、前傾姿勢を取る。 「鬼の速度に追いつく我が剣、居合いなら、鬼を超える」  今度は、じりじりと間合いを詰める羅新。 『鬼に技術が無い……と、何処で聞いた?』 「なっ……」  頭の中で響く声に狼狽する羅新。 『俺が、鬼に支配されていると思ったか?』  そういうと、鬼もまた刀を鞘に納め、居合いの構えを取る。 「ぬ……」 『我が名を知りたがっていたな。我が名は……』  間合いが詰まった。双方同時に抜く。刃がうち合わさり、互いの軌跡を止め る。  羅新は打ち付けられた反動ですばやく鞘に収め、瞬時に2段目を抜こうとし ていた。  相手はやっと鞘に収めたところ。早さでは完全に勝っている。これで抜けば、相手の首を跳ねる事はたやすい。  羅新は、右腕を振り上げた。しかし、その手は手首から先が無い。手首は、 鞘に収まった柄を握ったまま。  羅新は手首を切られた理由も分からず、鬼の二撃目で以って首を飛ばされ、 噴水のように血をほとばらせた。  地面に落ちる首だけで、羅新はようやく理解した。両刃の刀。打ち合った後、 鞘に収めるときに右手首を持っていったのだ。斬る事すら気づかぬ鋭き刃。そ してそれを扱う技術。羅新の意識は闇に沈んだ。 「ひいいいっ」  頭から用心棒の血を浴び、悪鬼のごとき容貌となった男が、全ての壁を打ち 壊してゆっくりと向かって来る。 「なっ……許してくれ……命だけは……っ」  男が縁側に上る頃には、完全に腰を抜かし、失禁までしている。  男は、郡代を一瞥してから琴の方に目をむけた。  その瞳は、昨夜のもののように優しい。とても、たった今人を数十人斬って 捨てたようには見えなかった。 「もう、人を死ぬのを見るのは……」  琴は、そうつぶやいた。  男は、少し驚いた顔をした後、優しい瞳を向けて微笑んだ。 『この娘の慈悲だ。命だけは助けてやる』 「ひ……」 『お前はこの事を全て忘れる。だがこの時の恐怖は、忘れない。あの村と女を見ると、お前は恐怖を思い出す』 「ふ……」  郡代は、そのまま気絶した。  鬼の伝心通、つまりテレパシーは、強力な意志を植え付ける。それは精神の 強いものなら対等に会話が可能だが、弱いものには暗示と同様の効果を出す。  郡代が気絶したのを見て、琴はほっと息をつく。  男は、それを見て微笑むと、琴の手を取った。 「あ、はい。行きます……でも……」  そういうと、琴は男の手を放し、奥の部屋から旅装束と手ぬぐいをぬらして 持ってきた。 「これに着替えましょう」  男は疑問の表情を浮かべる。 「母と弟は? ……やはり死んだんですね」  男の一瞬だけ変わった表情を読み取った。 「貴方について行きたい。もう、あの村には帰る家はありません」  そのための、旅装束ということだ。確かに、女物の事の分もある。なかなか ちゃっかりしている。  困ったような、戸惑いの表情を向ける。 「平気です。鬼の力を持っていても、人で居られるのでしょう? それに、私 は熊に襲われるか、郡代に陵辱されて殺されていた身。貴方の手で殺されるな らかまいません」  男は、静かに微笑み、手ぬぐいを受け取った。頭からかぶった血を拭き取る。 「今はお風呂使えませんけど、途中の宿で奇麗にしましょう。それまでは、傘 をかぶっていれば分かりませんから」  そういって、男の着替えを手伝う。  男は、されるがままになっていた。なんとなく、琴の中で何かが変わったよ うな気がした。  男子は3日で見違えるが、女は一晩で変わる。  昔、藩主に酒の席で聞かされた言葉を思い出し、苦笑した。 「もう……私、変わる事にしたんです。だから……」  そういって見上げる琴を、男はゆっくりと抱き寄せた。  日本の各地に、鬼の伝説は残っている。しかし、鬼をその身に降ろした両刃 の刀を持つ男の名は、伝わっていない。                 了