小説「愚者」  乾静は、森の中を散策していた。大方の獣と相対しても、逃げられる身のこ なしは心得ていた。  もっとも、老人達は「森は危ない」と口々に言っているが、一旬に一度くら いは足を運んでいる乾静も、危ない目になどあった事が無い。せいぜい、小動 物を捕らえる猛禽類がいる程度だ。  道無き森の中を歩くだけあって、さすがによそ行きの服を着る訳にはいかな い。麻で出来た服は、丈夫で、良く汗を吸収した。 「(ん?……あかるくなってる……)」  既に四半刻は歩いている。未だ足を踏み入れた事の無い場所であった。  立ち木は、わずかに木漏れ日がさす程度まで生い茂っており、陽の光を防い でいる。  明るくなった場所。それは、森の中にある泉であった。  ちょうど、対岸まで10丈くらいの泉、水は済み、陽の光を反射させてきら きらと輝いている。その光を受けている周囲の木々は、緑の壁となって、泉を 森の中に閉じ込めていた。  陽の届かない木の下とは、明らかに違った世界。閉ざされた中にあるからこ そ維持できる神秘性が、そこにあった。 「……」  乾静は、しばし立ち止まり、その世界へ足を踏み入る事無しに眺めていた。  一歩ずつ、そろそろと泉に近づいて行く。  泉は、何の抵抗無しに乾静を受け入れた。光の雨。陽の光は暖かく、泉から の反射もあいまって眩しいくらいであった。  泉の傍によって、覗き込んでみる。澄んだ泉、中ほどは深そうだが、岸辺で なら水遊びも出来そうだ。 「(もう水遊びをする年ではないんだよね……)」  水をひとすくい。口に含んでみる。森を歩いて疲れた体に染み入るような冷 たさ。邑で取れる井戸水よりも旨い。 「旨い!」  思わず口に出す。単純である。そのまま泉のほとりに腰を下ろし、疲れた体 を休める。  体力はこの体格にしてはある方だが、つかれる事は疲れる。 「(……この景色……嶺(れい)にも見せてやりたいな……)」  嶺とは、明日祝言をあげる相手である。同い年で、常にそばにいた。自分よ りも聡明で、何より美しい。  双方ともに望んだ婚姻であった。しかし、乾静は只の邑の若者で、嶺はこの 邑の王の娘であった事で、大人達が祝言に余計な感情を持って来る。  それがわずらわしく、最近よく邑を抜け出していたのである。  陽の光は、仰向けになった乾静には眩しかった。これが月の光であったなら、 また違った顔をこの泉は見せるのだろう。  嶺は、物静かな娘であった。陽の明るい光より、月の光の方が彼女には似合っ ていると乾静は常日頃から思っていた。 「(そうだな。嶺を連れてここにこよう。彼女も、きっと気に入るに違いない)」  祝言の前の日だというのに、大人達の話は二人が夫婦になる事で変わって来 る権力の事ばかりであった。  数十の世帯しかない小さな邑である。それほど大した貧富の差があるわけで はない。乾静は、自分の親の浅ましさに辟易していた。 「……俺、ちょっと出て来る」 「お、どこいくんだ? お前は明日大事な儀式があるんだ、あまり出歩くんじゃ ないぞ」 「分かってる。ちょっと散歩するだけさ」 「そうか。明日お前が祝言を上げさえすれば、我が家は王族だからな」 「……いって来る!」  親達の考えの貧相さに、いつも愛想を尽かすのは乾静であった。もともと気 の長い性質ではない。「考えるより動け」が心情の男だ。 「……そうか……明日は満月か……明日の夜には見に行けないだろうなぁ……」  邑の中を歩きながら、ふと上を見上げると、赤い、真円に限りなく近い、し かし完全な円ではない月が、天頂に来ようとしていた。あと1刻ほどで中天で あろう。 「嶺……」 「あら、乾静」 「おあっ!」  答える筈の無い呟きに答えが返り、思わず妙な声を上げる乾静。気がつくと、 目の前に黒い美しい髪を腰まで伸ばした娘が立っていた。その顔はいつもの笑 みが浮かび、月の光の下でも乾静には眩しいほどであった。 「どうしたの? 上ばかり見て。ちゃんと前を見ながら歩かないと危ないわよ」 「あ……ああ。月がね……奇麗だなって」 「あ……ほんとねぇ」  そういって、前髪を掻き揚げるように手を添えて、月を見上げる嶺。 「あ……」  君の方が奇麗だ。とは、口に出せない乾静であった。 「いよいよ、明日なんだね」  月を見ながら、ぽつりとそういう。婚姻前の女性の気持ちは、乾静には理解 できなかった。しかし、その声に不安の色は感じられない。 「……なあ、これから、ちょっと歩かないか?」  突然切り出す乾静。急に、あの景色に嶺が伴ったらどうなるかを知りたくなっ た。知りたくなったら、そのために動くのが乾静である。 「え? 何処かいくの?」 「明日から、色々と忙しくなっちゃうだろ? 今日は満月じゃないけど、月が 奇麗だし、良いところを見つけたんだ」 「また森にいってたの? 駄目よ、森は妖怪が出るってじい様達はいってるわ」 「そんなの迷信だよ、第一、俺は一度もあった事無いぜ」 「もう……そんなに長い事散歩に行けないもの。駄目よ」 「……わかったよ。じゃあいいさ。俺独りでいくから」  そういって、くるりと後ろを向いて歩き出す。そのしぐさで、嶺が仕方なく ついて来る事を知っていた。幼い頃からそうなのだ。 「もう……分かったわよ。一緒にいくわ」  そういって、仕方無しに乾静の後ろをついて行く嶺。乾静は嶺の手を取って 先導した。 「森のなか、暗くなってると思うからね」 「うん……」  握った嶺の手は、柔らかく、暖かかった。 「うわぁ……」  どちらとも無く、感嘆の声を上げる。先ほどの泉。そこは、仙界かとも思え るような雰囲気。  月の光は泉を照らし、緑の木々を照らす。泉で反射した月光は水面に揺られ てたえまなく揺らぎひとときも留まらずに踊っている。 「きれい……」 「だろ?」  自分の驚きを隠しながら、自慢したような口振りをする。  どちらからとも無く、二人は泉のほとりまで歩いていった。  月の光が音を吸い込むのか、それとも覆い繁る木々のせいなのか、辺りに物 音はしない。  夜の森。物音がしない事に、二人はもっと気にするべきであった。 「?」  先に気づいたのは嶺であった背後に気配を感じ、振り向く。目に映ったもの に恐怖し、言葉を無くす。 「あぶないっ」  とっさに反応できたのは、たいした物であろう。乾静を跳ね飛ばし、飛びか かって来る獣の前に立ちふさがる。 「え?」  突き飛ばされてようやく気づいた乾静が見たものは、首筋を掻き切られた婚 約者。後ろ足だけで立ち上がった狼に似た獣は、1丈(3m)ほどはあろう。  その巨大な鋭い爪は、嶺の細く白い首を切り裂き、血しぶきをあげさせた。 「うわっ……うわああぁぁっ」  獣がわずかに距離を取る。血しぶきを浴びる事によって嗅覚を妨げられるの を避ける為だ。  嶺は、ゆっくりと乾静の腕の中に倒れていった。喉から息が漏れ、しゃべる 事は出来ないが、唇の動きで何を言っているのか分かった。 『ニゲテ……』  乾静は、彼女を抱きかかえたまま首を振る。彼女を担いで逃げ切る事は出来 ない。しかし、彼女を置いて行けば、彼女は獣の餌になってしまうだろう。  獣に食いちぎられている彼女を想像し、首を振った。 「俺は……逃げない」  嶺の死体を地面に横たえ、獣に向かう。 「おおおあぁぁぁぁっ!」  雄たけびを上げて、獣に向かって拳を突き出す。獣の敏捷さは、村一番の乾 静を遥かにしのいでいた。拳は空を切る。  その巨体は、乾静では受けきる事は出来なかった。かろうじて首筋に食いつ かれるのは免れたが、飛びつかれ、地面に押し倒される。  うなり声と共に口から漏れる獣の唾液が、ぽたぽたと鋭い牙を伝い、乾静の 顔に落ちて来る。 「(あ……だめ……だ……おれは……むりょくだ……)」  彼女の忠告を再三無視し、死に間際の望みすら理解せずに獣に立ち向かった 自分の愚かさに、今始めて気がついた。  顎を抑えていた腕がしびれ始めている。もうさほど保ちはしない。 「放してもらえないかな?」  自分の頭上から声がする。静かな男の声。声だけで、力ある特別な存在だと 分かる。姿は見えないが、圧倒的な存在感はぬぐえない。  獣は、その声だけで恐れおののき、乾静から飛びのくと、すばやく茂みの向 こうへ去っていってしまった。 「たすかった……のか……」 「そのとおりだな」 「そうだ……嶺っ」  すばやくおきあがり、嶺の元へ走る。その傍らに立っている男に、初めて気 がついた。  赤で裏打ちされている高級そうな紫の絹を身に纏い、腰に差している剣は薄 く光を放っている。どう見ても、山歩きをしているようには見えない。 「あなた……は?」 「乾坤真人。と、人は私の事を呼ぶ」 「仙人様ですか?」 「そうだ」  仙人……修行を積み、大道から離れ、無限の寿命を手に入れた人であった存 在。その力は、山を砕き、冥府から死者を呼び戻す事すら出来るらしい。 「なら! 嶺を……婚約者をお助けください!」 「この娘は、既に天寿を全うした」 「そんな馬鹿な! まだ16なのですよ!」 「今日、お前の為に死ぬ事が、大道によって定められた道だったのだ」 「大道……そんな……」 「そして、お前は道士としての道が開かれた。この娘の開いた道だ」 「道士……?」 「仙人として修行し、仙人を目指すものを、そう呼ぶ。お前は、仙人となる事 が出来るのだ」 「……仙人になれば、嶺を生き返らせる事が出来るのですか?」 「……学んで行けば、いずれ分かる」  この時の言葉に、乾静は光明を見た。まだ、大道の事も、この世界の法則す ら知らぬものの浅はかな考えであった。 「なります! 道士に。そして、仙人を目指します」 「そうか、では参ろう」 「あ、待ってください」  乾静は、そう言うと彼女を抱きかかえ、冷たくなった唇に口付けをしてから、 泉へと沈めた。 「……行くぞ」 「はい」  乾静は、この時の乾坤真人の想いを後に知る事になる。  ものを禁じ、効果を出す禁呪の達人でも、大道を禁じる事は出来ない事を。