出来レースの罪、オープンダイスの罰
「TRPGは自由なゲームだ」と言われる事がある。確かに、ボードゲーム(カタン、モノポリィ、将棋、etc)やカードゲーム(ボナンザ、ニムト、トランプゲーム、etc)と比較すると、自由度は大きいかもしれない。しかし、――常識的なゲーマなら周知の事だとは思うが――TRPGは完全に自由なゲームでは無い。と言うよりも、制限の存在しないゲームというのは「ゲーム」では無いだろう。
TRPGには、セッション/キャンペーンというある種の独特な、時間の単位がある。TRPG自体にはストーリィは存在しないが、セッション/キャンペーンと呼ばれる物の中にはストーリィが存在する。それは、一般にマスタと呼ばれる人物によって雛形(即ち、シナリオ)が用意され、プレイヤとの邂逅を経てストーリィへと昇華する。TRPGに於けるストーリィにとってプレイヤの存在は不可欠な物だ。これを無視して、ストーリィは存在し得ない。
しかしながら、世のマスタの中には「吟遊詩人マスタ」と呼ばれる人々がいる。つまり、ストーリィへのプレイヤの介入を拒否し、自分が紡ぎだしたストーリィ――そう思っているのは本人だけだが――を無理矢理押しつける人々の事だ。彼らは時折プレイヤがする、ストーリィが破綻するような行動を、明文化されていないルールを使って不可能にしたり、マスタスクリーンの後ろで、ダイスロールの結果を都合の良いように変え、そんな行動をねじ伏せる。
当然、この様なマスタリングは推奨される物ではないし、寧ろ無くなった方が良い物である。
吟遊詩人マスタほど酷くないにしろ、多かれ少なかれこういった行為や思想は存在する。
キャラクタが全滅しそうになった時、ダイス目を誤魔化してそれを回避しようとするマスタ。プレイヤに爽快感を味あわせる為、キャラクタが普通なら勝てないような敵に、勝たせてしまうマスタ。私は、これらのマスタによって導かれるシナリオを「出来レース」と呼んでいる。これらは、本質的に吟遊詩人マスタとなんら変わりは無いし、TRPGの自由度は大きく減少している。こんなプレイングが、果たして魅力的だろうか?
TRPGのセッションで、真に達成感や爽快感を得たい(得て欲しい)ならば、マスタはダイス目を誤魔化すべきでは無い。戦闘に於いて言うならば、手加減の存在しない本気のぶつかり合いに勝ってこそ達成感や爽快感が得られるのである。果たして、手加減している敵に勝って嬉しいだろうか? もし、それで嬉しいとしても、それは偽りの感情である。
キャラクタが全滅しそうになったとき、手心を加えて生き長らえさせようとする気持ちは分からないでも無い。また、マスタスクリーンが有れば、そう言った気持ちが助長されるのも確かである。逆に言えば、マスタスクリーンが無くオープンダイスでプレイしているならば、そう言った「手心」を加えるのは困難だし、気持ち自体も発生し難い。
私は、マスタのオープンダイスを推奨する。
その場合のプレイングで得られる達成感は、非オープンダイス(クローズダイスとでも呼ぼうか)の比では無い。
詰まるところ、ダイスロールの結果もストーリィである。例え、極端なダイスロール結果、シナリオとは違う物になっても、プレイングの結果に現れる物こそがストーリィなのである。マスタによる誤魔化しや強制が働いたプレイングの結果に現れる物など、ただのシナリオである。ストーリィに昇華されているとは言い難い。何故なら、プレイヤが介入する意義が無いし、結局マスタが用意した小説を読んでいるのと同じなのだから。
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