憂鬱

 今日も学校を休んだ。これで三日連続になる。
 都立の高専に5年生として在学している私は、ついこの間に成人式を迎えたばかりである。高専の5年―つまり最終学年―というのは非常に奇妙な1年間で、1月以降卒業までの3ヶ月は授業は一切無く、月曜日から金曜日まで全てが卒業研究に当てられる。私が所属する研究室では、主にニューラルネットワークに関する研究を行っている。担当教官は非常に厳しい人だ。
 最近、自分のやりたい事と学校で行う事の乖離が大きくなってきて、モチベーションが下がってきている。全くと言っていい程やる気が出ない。あと3ヶ月間これが続くかと思うと、泣きたい位憂鬱になる。
 それで、今日も学校を休んだ。私の母親は、休んでいる事を知らない。ちなみに、私が4歳の時に両親は離婚しているので、父親については15年以上も会ったことが無い。祖父母とも一緒に暮らしているが、当然無断で欠席していることは関知していないだろう。そもそも、普段私が何をしているか知っている人間なんて家中には居ない。普通はそういうものだ。

 京浜急行線の赤い電車に揺られて品川まで出る。成人式で久しぶりに会った友人が、品川駅構内のサンディーヌ・エクスプレスでバイトをしているというので、もしかすると、と思って其処で朝食兼昼食に親子丼を食べた。不味い。珍しく、オーガニックの珈琲を扱っていたので、飲んでみようかと考えたが、親子丼の味から導き出されるこの店の味のレベルを考えてやめた。
 自分が何故こんな事をしているのか分からない、いや違う。これでもかと言うくらいに理解しているのかもしれない。つまり、逃避だ。学校を辞めようかとも考える。しかし、20年間我が儘に暮らしてきた事考えると、せめて卒業証書は祖父母に見せたい。親孝行なんてした事は無いが、切にそう思う。たぶん、退学しても母親は何も言わないだろう。彼女はそう言う人だ。

 まだ11時半だからだろうか、山手線も空いている。座って本を読むことが出来た、ありがたい。何もしないで居ると学校の事を考えてしまうが、読書をしていればそんなことも無い。今読んでいるのは、『ホログラム街の女』というサイバーパンク・ハードボイルド小説。知り合いの女性に勧められて買ってみたのだ。
 集中して読んでいると、あっという間に新宿に到着する。この街も不思議な所だ。駅の東西南北でそれぞれ違った貌が見える。特に何か目的が有って此処に来たわけでは無い。強いて言うならば映画を見ようかと思っていた。南口から出て、そのまま東口へ直行する。東口に直接出ればよいのかもしれないが、私はこのアプローチの仕方が好きだ。理由は無い。こんな時間でも、此処には人が沢山いる。何故かその事実に心休まる気がした。
 私は、新宿の地理に詳しいわけでは無い。タイムズスクウェア近辺と、西口のイエローサブマリン近辺しか分からないのだ。南口とも東口とも判然としない、境界条件の曖昧な道を方向だけ頼りに歩く。適当に歩いて目に付いた店で暇を潰せれば、それで良いのだ。紀伊国屋本店の前に着いた時に、いつだか先輩―この言い方は適当では無いが、7歳年上の友人をなんと呼べば良いのか私は未だに困っている―と3人で、紀伊国屋の上にある名店街を散策したのを思い出した。そのまま中に入ってみる。紀伊国屋書店自体には余り興味が無い。既に見尽くしたのでどんな本が置いてあるかは先刻承知だ。
 1階にある、嗜好品店でウィンドウショッピングをしてみた。此処は煙草(パイプから葉巻まで)関係と刃物が多い。私は煙草はやらない。寧ろ嫌いだ。だが嗜好品というのは、いろいろ凝った物が多く見ていて楽しい。ジッポが最たる例だろう。前に来たときは気が付かなかったが、直ぐ隣に革製品の店があった。鞄やらカーボーイハットが置いてあるのが見える。現在、私が愛用している大型のリュックは既に4年目に突入していてボロボロだ。新しいバックを購入しようと常々思っていた。店員さんに可愛い女性が居たので、そのまま入ってみると、以外に店内は狭かったが、気に入ったデザインの鞄が見つかったので、今度懐に余裕の時にもう一度来て買うこと決める。残念ながら、今は手持ちが5000円しか無いのだ。水曜日に2万5000円するコーヒーミルを買ったので今月は貧乏生活。

 ビルを出て、コマ劇場に向う途中、チラシを配っている女性が居た。22歳前後だろうか。立ち止まって軽くチラシの内容を聞いてみる。訛があることから、上京してきた人だと想像した。なかなか気さくな女性だ。ふと思った事口にしてみる。
 「お暇ですか? 宜しければ一緒に映画を観に行きませんか」
 「えっ? あっと、チラシは今差し上げた物が最後なのでノルマは達成しましたけど……」
 「じゃあ、行きましょう」
 何故、こうなったのか自分でも理解できない。彼女は明らかにバイト中であったし、ノルマを達成したからといって、報告もせずに帰って良いわけでもないだろう。だが、提案は受け入れられた。
 さて、何を観ようか。バーティカル・リミット、ダイナソー、レッド・プラント、追跡者、バトルロワイヤル、etc。映画には詳しくないので、よく分からない。そこで、映画好きの親友に電話して聞くことにした。彼とは十年以上のつき合いになる。お勧めは、バーティカル・リミット、追跡者、レッド・プラントか。ふむ、そう言えば別の友人が、ダンサー・イン・ザ・ダークが面白いと言っていた記憶がある。何となく、派手なSFXやらアクションがある映画は避けたかったので、それを観ることにした。感動系の映画らしいので。しかし、コマ劇場付近では看板が見あたらない。近くのサンクスで東京ウォーカーを立ち読みして調べる。新宿ピカデリー1で上映しているようだ。さっき立ち寄った紀伊国屋本店の裏。上演は13:30〜16:05。あと30分で始まる。直ぐに向かった。
 学生証はいつだか無くしてしまったので、学生料金では観る事が出来ない。300円損した。まあいい。チラシ配りの女性の年齢は分からなかったので―まだ、名前も聞いていないが―私と同じ物を買った。私がお金を払ったことに驚いているようだったが、誘ったのは私だし、当然の事だろう。少なくとも私は、はじめからそのつもりだった。女性の方からは話しかけてこない。私も特に話すべき事も思いつかないので無言だった。シアタは、500席(誤差10%以内)程で、入場者は100名弱。ほぼ中央の席に二人で座る。
 ほどなくして、ダンサー・イン・ザ・ダークが始まった。2時間30分の長い映画である。なかなか面白かったし、今の自分の感情に適合していて滑らかに観ることが出来た。チラシの女性は時折泣いていたので、ティッシュを渡しておいた。そのティッシュも新宿のどこかで配っていた物である。映画が終わり、シアタを出た。まだ16時10分、時間は余っていたし、西口に向かうことにした。女性もついてくる。伊勢丹の前を過ぎ、無印良品のビルがあったので、此処でもウィンドウショッピングをする。私の部屋は今、小説とルールブックで溢れ返っている、新しい棚を見繕う必要がある。だが購入は、来月以降になるだろう。自動車免許も取らなければいけない。
 西口のイエローサブマリンの目の前にあるゲームセンタで、ニンジャ・アサルトをプレイした。銃が重くて疲れる。黄色い潜水艦にも目新しい物は無かったし、腹も減ったので、南口へ向かった。これで新宿駅の周りを一周したことになる。ルミネの中にある、サンジェルマンでチラシの女性と一緒に、軽く食事をした。私は、小食なのでこれで十分なのだ。ルミネの中にある無印良品の店で、ダイス袋代わりのポーチを買おうと思ったが、何となくやめた。理由は無い。隣の女性もウィンドウショッピングをするだけである。
 最後に、タイムズスクウェアにある紀伊国屋を見て、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会2』を買おうと思ったが、矢張りやめた。今日は、ウィンドウショッピングの日なのだきっと。
 そのまま、新南口の改札で切符を買って、帰ることにした。チラシの女性は方向が逆だったので、ホームでお別れ。私は「では」と一言いって、電車に乗り込んだ。これで、なんとか明日も生きていけるかもしれない。

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