第34章:エトルリア号の不埒な女神


「あたし」は目を覚ました。

長いこと、いろんな奴を乗せて働いてきたけど、あたしに女が乗って
いるのは初めてだ。しかもたった二人。女がたった二人で、普通、船なんてものは
動かせるはずがないんだ。
でも。
こうやって実際にあたしは走っているし、その力も持っている。
女が二人どころか、誰も乗っていなくたって、どこまででも自分の
行きたいところに走っていける力。
力をくれた人の名前をあたしは知らないが、とても優しい目をしていた。
そして、その人があたしにこうささやいたのを覚えている。
「エリネを導いておくれ。エリネのために。アメリアのために。そして、
私の妹の……未来のために。」
あたしに力をくれた人は、あたしに名前も付けてくれた。
無論、あたしにだって、最初にこの海に滑り出したときにはちゃんとした
名前があった。けれど、持ち主が代わり、乗る奴が変わりしているうち、
あたしの名前は誰も覚えていなくなっちまった。……当のあたしでさえ。
今のあたしには「エトルリア号」と言うちゃんとした名前が付いている。
知ってるかい?エトルリアってえのは、はるか彼方にある「望みの地」とかいう
場所の名前さ。そこには人間が一人も居なくて、神様や妖精だけが暮らして
いるそうだよ。
あたしはそこにいってみたいし、たぶん、あの人もそれを望んでいるんだと思う。
だけど、名前しか分からない場所に行くなんて、いくらあたしでも無理だ。
自由に走る力があるのがうれしくて、あの小汚いバランスの港(あれは
港ってえより、係留所とでも言った方がいいね)を飛び出してきたのはいいけれど、
その先のことまでは深く考えてなかったねえ。いつもなら乗ってるやつらが
行き先を決めるから、あたしはなにも考えずに走ってりゃあいい。
でもこれからはそうもいかなくなるんだねえ。ま、しかたのないことさ。
とりあえず、今までいろいろ回ったうちの、自分の気に入った港を
めぐってみようかと思っているんだ。そうすりゃ、今の客もどこか
気に入りのところが見つかって、降りてくれるんじゃないかな。
……おや?
上の方が騒がしいね。
順調な旅立ちだったもんで安心して、だいぶ眠りすぎちまったようだね。
ちょっと見てくるよ。


エトルリア号の周りに集まっていたイルカ達は、話し相手がいなくなったので
船を離れた。イルカ達は口々に、こんな珍しい船は初めてだとお互いに言い合った。



船中では、ぐったりとした少女を女が揺すぶっていた。
「なにをしているの?」
急に声をかけられて女は振り向いた。
なんの変哲もない女だった。冒険者なのであろう、身軽な服装に飴色の
なめし革の軽鎧をつけていた。腰には剣でなく、女の肩幅ほどの細い
棒がベルトにはさんでぶらさげてあった。握りが見えたので乗馬用の鞭かと
も思えたが、そうではないらしい。ブロンドの髪は背中の中程まで真っ直ぐに
伸ばしてあった。女は緑色のヘアバンドをしていたが、その色は金色の髪には
とても映えた。

エトルリア号自身は、女が当然驚くものと予想していた。
だが、女は驚かなかった。そればかりか、振り向いた女はにっこりと笑
い返し、
「あら、こんにちは」
と、あいさつまでした。
びっくりしたのは、エトルリア号自身の方だった。
「……驚かないのね」
「あなただとすぐに分かりましたもの。この船のへさきについている女神像
を見ていましたし、ダナエ様ならきっとこうなさると思っていました。」
「そう。」
エトルリア号の女神は、務めて平静を装い、驚きを見せまいとした。
なんと言っても自分は女神なのだ。
この世で唯一、自分の意志と自分の力で走ることの出来る船なのだ。
ひきかえ、目の前でにこにこしているのはたかがどこにでもいる冒険者ふぜい。
そんじょそこらの小娘に引けを取るわけに行かない。
「それで、どうしたの?」
「あ、そうでした。エリネさんが、ぐったりとしてしまって、もう
話すこともできないんです。いったい、どうしたことでしょう。」
女神は、エリネを観察した。
顔色が悪いわけではない。呼吸が苦しそうなわけでもない。
だが四肢は力を失い、だらんと伸びきっている。
薄目を開けたままの無表情な顔。
その顔を見て、女神はあることを連想した。
むかし、あたしに乗った人間の中に、こんな顔の奴、いたっけ。
だったら、この子の体のどこかに。
女神は目でそれを探した。
そして、伸びたエリネの片腕に、探していた見覚えのある物を見つけた。
女神はエリネのそばに近寄り、片膝をつき、腕をそっとつかんだ。
じっと見る。
「これだ。これのせいだよ。」
エリネの腕を女神が持ち上げると、それは小さな摩擦音を立てた。
小指の太さほどの鎖の腕輪である。
赤い色の腕輪は少しゆるめに巻かれてあり、下に向けて手を振れば
すぐに落ちてしまいそうな印象を与える。
が、そうでないことを女神は知っていた。
かつて、この船が奴隷商人の持ち物だったことがある。
人さらいがさらってきた子供達をのせて、女神は走った。
故郷とは全く違う土地で子供達は降ろされ……。
きっとひどい目にあったのに違いなかった。
自分が悪事を手伝っているという事に女神はひどく心を痛めたが、
ただの「道具」である自分にはどうしようもなかった。
……あの時、今の力を持っていたら……。
「腕輪が、どうかしたのですか?」
女の問いに、女神は現実に戻った。
「これはね、エンダルネス・チェインって代物さ。あたしが奴隷船だったとき、
たまに奴隷商人が使っていたよ。これをつけると、逃げ出せなくなるんだ。
うとうとした気持ちになってね。でも、あんまり長くつけていると、
うとうとしたまんま、石みたいになっちまうのさ。」
「それでは、すぐにでも外さなければいけませんねえ」と女が言った。
すぐさま女神は、エリネの腕から鎖を抜き取ろうとした。
だが驚いたことに、女神の指は鎖に触れられなかった。
取ろうとしても、鎖がまるで幻でもあるかのようにすっと通り抜けてしまう。
女神は、この鎖が幻であることを一瞬疑った。それはすぐに否定した。
窓の明かりは3人の影と一緒に腕輪の影も床に落としている。
ましてや女神自身が幻なわけでもない。今、女神の片手は確かに
エリネの腕をつかみあげているのだから。

「な、なんだいこりゃ??」
女はしばらく口元に手をやって考え込んでいたが、
急にあっと声を上げた。
「これが、魔法の品だからではないですか?」
「えっ?」
「それで、あなたを形づくっている魔法の性質が、この魔法と似ているんですよ。
だから同じ魔法で出来た体のあなたには触ることが出来ないで、通り抜けて
しまうのでは?」
「そ、そうか……。じゃあ、あんたがやりなよ。」
「たぶん、私にも出来ないと思います。」
「どうして?……まさか、あんたも人間じゃないのかい?」
「はい。」
女は寂しそうな笑みを向けた。
「申し遅れましたが、私、コハクと申します。波月の塔の賢者、クーイッヒに
創り出され、今はダナエ・ドゥルッカー様にお仕えするジュエル・メイデンです。」
「ジュエル・メイデン?」
聞き慣れない言葉に、女神は首をひねった。
「はい。ストーン・サーバントという生き物を御存知ですか?」
「ああ、聞いたことはあるよ。冒険者が乗っていたこともあったからね。石作りの
召使いって奴だろう?」
「はい。それをもっと賢く、美しくしたのが私達、ジュエル・メイデンなんです。」

「……待ってよ……?」
女神は首をひねった。
「だったら、そりゃあたしなんかは魔法の体で、半分溶けてるようなもんだから
鎖にさわれなくてもしょうがないかも知れない。けど、あんたはちゃんとした
体を持ってるわけなんだろう?少なくとも、あたしみたいに鎖を通り抜けて
しまうのでない体をさ。なら、あんたなら、この子の鎖を外してやれるんじゃないの?」「ですから」
コハクはエリネの腕の鎖をつまみ上げた。
「触ることしかできません」
「どういうこった?」
コハクは鎖を、女神によく見えるように、手のひらの上に広げて見せた。
「ここに、ニワトリの絵が書いてあるんですが、ご覧になれますか?」
「どれ?どこだね」
女神は一生懸命にコハクの言う絵を探した。
「あの、とても小さいので分かりづらいのですけれど。」
「あっ、本当だ。あるねえ。細かい細工だよ。」
「これはお父様のお印なんです」
「……どういうことだい?もったいぶらないで教えておくれよ。」
コハクはこほんと咳払いをした。
「ですから、この鎖は、私の作り主、クーイッヒの作品です。つまり、私の家族の
ようなものです。それが自分の務めを果たしているのに、私がそれを邪魔することは
出来ません。私、そのようにお父様にくれぐれも言われておりますの」
エトルリア号の女神は、ただあんぐりと口を開けるばかりだった。



中村 かるま


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