第32章4節:ダナエ、笑う


「これはこれは。私の邪魔をするのは、リザードマンかな?それにしては
尻尾がないようですが」
男が言った。
もはや日は落ち、水平線の先にうっすらと茜色の雲がたなびくだけで
あとは光と言えば星が瞬くだけ。月はまだ出ない。
ダナエの後ろにはいつの間にか黒いマントを羽織った男が立っていた。
男はさらに言った。
「こざかしい生意気なペットめ。飼い主のところにお戻りなさい」
ゆっくりと振り返り、男を見ると、彼女は口を開いた。
「人間は嫌いだ。口の聞き方を知らないからね」
ダナエは男に艶然と微笑みかけた。
彼女が人間だったら、この微笑みで何人もの男をとりこにしたかもしれない。
そんな微笑みだった。
もちろんミケロに通用するはずもない。

ミケロは黙って、こぶしをぬっと突き出した。
手を開くと、そこから黒い風が渦を巻いて飛び出した。
ダナエめがけて風が直撃した。ダナエは眉を曇らせた。
勢いよく左手で風を切り裂く。
黒い渦は上下にざっくりと分かれ、そのまま霧散した。
しかし、そこにいたはずの男は消えていた。
ダナエの目は闇の中でもものが見える。それなのにミケロの姿が捉えられない。
「ははーん、魔法だね?」
「ふふふ、自分の知らないことや理解できないことは、全て魔法だと決めつける。
それでは、頭がよいとは言えませんね。」
ミケロの声はくぐもって響いた。
「あたしの頭がいいなんて、誰が思うんだい?」
ダナエは用心深く、辺りをぐるっと見回しながら答える。
しかし、攻撃は思わぬ方角から来た。
ダナエの足元から黒い手が四、五本ぬうっと伸びて、彼女の足首辺りを掴んだ。
さすがにダナエは驚いた。
思ったよりも黒い手は力強く、ダナエの足は大地に根付いてしまったかのように
動かない。黒い手は彼女を固定するだけで満足したようだった。それ以上、彼女に
危害を加えようとはしなかったが、危険な状況であることに変わりはなかった。
「いい的になっちまったね」
「その通り」
その言葉が終わらないうちに、暗闇から青く燃える流星が幾つも
ダナエに向かって飛んできた。
3つはかすりもせずに飛んでいったが、ひとつはまともに彼女の腹に直撃した。
残りは特に動けない足にダメージを与えた。
光なしで彼女の位置が分かるところから見ると、ミケロもまた夜目が効くらしい。

間髪おかず、次は冷気が彼女を襲った。
「寒さには弱いのだろう?命ごいでもすれば私の僕として命だけは助けてやる」
ダナエの目の前で空気中の水分が凍っていった。季節外れのダイヤモンド・ダスト。
前髪から小さなつららが下がってきた。
ダナエは凍ったまつげの上下が目を閉じた拍子にくっつかないように苦労して
まばたいた。
寒さで皮膚の感覚が徐々になくなっていく。
そんな中でも発見はあった。さっきまで彼女の足をきつく縛り付けていたあの
黒い手だが、今は力が弱くなっていているようなのだ。つまり、彼女を襲った冷気は
彼女以外のものも凍らせてしまったという事だ。わずかながら足が動くように
なったのを確かめて、ダナエは時を待った。

急に気温が上がってきた。
ミケロが冷気の放出をとめたのだ。
ダナエの体にはすっかり霜が降りて、まるで冬場の朽ち木のようだ。
霜の合間から所々、緑の体の一部が覗いていた。顔も一部が覗いていた。
死人のように目を閉じていた。
ミケロはダナエがもはや動けないだろうと思ったが、それでも用心深く、
相変わらず闇の中に身をひそめていた。
「……非常に興味深い生き物だよ、君は。しかし、今は君にかかわり合っておる
ヒマなどないのだ」
ミケロは闇の中を、とどめを刺すために静かに近付いた。
ダナエが行動を起こしたのはその時だった。金色の目をかっと見開き、全身に
気合いを入れると、こびりついた霜が氷の弾丸となって周囲に飛び散った。
ミケロはあまりにも近付きすぎていた。姿を隠しているため、直接危害を加え
られる心配がないとはいえ、無数の氷が彼を傷つけた。とっさに彼はマントで
体をかばったが、勢いのついた鋭い破片のいくつかはマントを貫通してミケロの
からだを傷つけた。
ダナエは自由になった足がちゃんと動くか、確かめた。
「くっ……味な真似を」
思わぬ攻撃にミケロは歯ぎしりした。
だがそれだけではなかった。
ミケロの足元にはいつの間にか魔法陣が描かれていた。
既にミケロは魔法陣の中に足を踏み入れ、取り込まれてしまっていた。
魔法陣はオーロラのような光を吹き出した。

ミケロは見た。
魔法陣の線が交わるところ、線が始まるところには緑色の小さな破片が
置かれていた。そこから光の線が延びて魔法陣を形づくっていた。
破片は、さっきダナエが捨てた鱗だった。
ダナエが、このような事態を予測していたのかはミケロの知るところではなかった。
魔法陣はミケロの魔力、体力を奪って一層光輝いた。
ミケロはとうとう片ひざをついた。
頭も体も重く、このまま眠りたいという衝動が彼の中で抑えがたい。
けれど魔法戦で負けを喫するのは、いやだった。
そしてロート、哀れな妹。彼女は波月の塔の水槽の中で兄が解放してくれるのを
待っている。
負けたくない。負けられない。
負けるわけにいかない。
ミケロはこん身の力を振り絞って立ち上がった。
魔法陣は狂喜乱舞する幽鬼のように光を踊らせている。
ミケロの頭の中で、感情が渦巻き、そして穏やかになった。
彼は魔法陣に「砕けよ」と命じた。
そして、彼は暗闇の中に立っていた。
まだマントの「姿隠し」の効力が続いているか、確認した。
伸ばした手の先は見えなかった。大丈夫だ。

ミケロはダナエを見た。
ダナエは唇に笑みを浮かべ、
「あんた、魔法の才能あるねえ」と言った。
「じゃあ、こっちもこっちの得意でいった方がいいね」
そういうと、飛び上がり、宙返りをしてすとんと降り立った。
ぽたり、と音がした。
ダナエの金色の爪から、液体が滴る。
ぽたり……ぽたり。
「う、う、う、」
男はうめいた。
額からこめかみにかけて、ぱっくりと傷口が開いていた。どくどくと流れる血は、
男の肩まで濡らす。
「なぜ……私の位置が」
黒いカーテンの影から出てきたように、男の姿が現れる。二、三歩進んで、よろけた。
「あら、ごめんよ。傷つけるつもりはなかったんだけどね。ずれちゃった」
ダナエは不敵に笑って見せた。
「最近、爪を研いでいないもんだから、すぱっとは切れなくてねえ。きれいに切れるとあまり痛みは感じないもんだけど……痛いんだろう?」
男は顔の傷を震える手で押さえていた。押さえる指の間から血が絶え間なく流れる。
「このミケロ様に、血を流させるとは……」
息をするのもやっと、と言うありさまだった。
「どうして……私の位置が分かった?」
「見えないからあんたの位置が分からない。それは普通の人間の話だ。人間でない
奴なら、あんたの居場所は誰にでも分かるさ。……あんた、魚臭いんだよ。」
「……さかな……くさい……?」
「たとえていうなら人魚のにおいだね。あんた、人魚にあったことはあるかい?
あの連中は女ばっかりだから、あんたが人魚とは思えないけど、まあそんなような
においさ」
ミケロは血の気のない顔を強ばらせた。
「私は人魚ではない、人間だ」
「どうかな?あんたも人間とはちょっと違うもんらしいけどね。あんたの方こそ、
小汚い人間の真似事なんかしないでとっととふるさとに帰りゃいいじゃないか。
それとも、人間の泥臭さになれて、今さら帰れないって?」
「……私にはしなければならないことがあるのだ」
男は傷口から手を離した。頬の辺りをだらだらとなま暖かい血が流れ落ちるのが
感じられた。ミケロはそれに構わず、両手で魔法の動作をする。
「私の仕事の邪魔はさせんぞ」
痛みをこらえた低い声。
「無理しなさんな」
ダナエは明るく言ってやる。
ミケロは呪文を唱え始めた。体力も魔力も限界に達した今、彼に残った唯一の
攻撃魔法。成功すれば必ず相手を殺せるが、自分の命も保証できない。
彼が殺し屋として最初に働いたときに、いざというときのために学んだものだ。
幸い、一度も使う羽目にはならなかったが、それを今になって使うことになるとは。
しかし、自分が死んだら妹はどうなるのだろう。老人はロートを水槽から出して、
ごみ捨て場に捨ててしまうかも知れない。
ミケロは頭を振った。
いや、死ぬものか。自分は絶対に生き残ってみせる。
彼は呪文を唱え続けた。
ダナエはおや、と思った。それに聞き覚えがあったのだ。
「クーイッヒに教わった呪文だね?」試しに言ってみる。
ミケロの動きが止まった。目の前に立つトカゲ女の口から自分の知っている
名前が出たのが意外だった。
「奴を知っているのか?」
「まあね」
集中が途切れた。クーイッヒはこの呪文をミケロに授けるときに、えらく
もったいを付けていた。この呪文は2〜3人しか知らないのだ、
そんなことを言っていた。
普通の自爆呪文ならまず自分も死んでしまうのだぞ。だがこの魔法は
殺人能力を落とすことなく、自分の命を落とさない率を高めた。
わしの永年の研究のたまものじゃ。それをわしがお主に教えて進ぜるのは、
お主に見どころがあってのことじゃ。忘れるなよ……。
そんな風にクーイッヒが念を押したこの呪文のことを、こいつは知っているのか?
こいつは一体何者なのだ?
ミケロの目の前が急にぼやけた。呪文を唱える舌がもつれた。
慌てて気をしっかり持とうとする。
傷の痛みのせいもあっただろう、それに出血もだいぶひどいようだ。それとも、
二人の依頼者の板挟みになったこの数日が彼を疲れさせていたのかも知れない。
もう、彼は一度詠唱を失敗した呪文を再び試みられそうになかった。
ミケロは呪文を諦めて両手を降ろした。
「ならば、ならば何故私の邪魔をしようとするのだ!」
男は怒りに満ちた目で船を見た。
いや、違った。
船のあった場所を見た。
男は怒りから驚きへと表情を変えた。
「……うそだ。そんな」
ミケロがどんなに目を凝らしても、そこに船はなかった。
「ついさっきまではそこに「あった」のにねえ。今はあそこに「いる」よ」
くすくす笑いながらダナエは遠くを指さした。
あの船かどうかは判別し難かったが、確かに船影が見えた。
ミケロの目だから見えこそすれ、今からでは魔法以外では追いつけない距離まで
船は行ってしまっていた。
「まさか、そんな……いつの間に?」
ミケロはもう傷を押さえることも忘れていた。潮風が傷口に少ししみた。
「ついさっきだよ。もうあの船はあんたのもんじゃない。自由になったんだ。
もやいを解いてやるだけで、自分の好きなところにいける船になったんだ。
他の船は奴のことをうらやましがるだろうねえ」
ダナエは愉快そうに言った。
ミケロは飛行呪文を詠唱し始めた。
「無駄だ、よしときな。つかれるだけさ。どのみち、あたしが船に結界を張っと
いた。船が走りやめるまで、誰も邪魔が出来ないんだよ」
ミケロは聞こうともせず、詠唱を続ける。
ダナエは目を閉じたままのミケロを殴りつけた。
ミケロは吹っ飛んで、海に落ちそうになった。
あわててダナエは彼をひっつかむ。まさか、彼が無防備だとは思わなかったのだ。
ミケロほどの魔導師なら、大抵は瞑想状態を守るためのバリアをまず張っておく
ものだ。しかし今のミケロはそれすらしないで、溺れた蟻のように、もがいている。
ダナエはミケロの襟首をつかみあげた。
「馬鹿だねえ、お前……泣いているのかい?」
ミケロは血と涙にまみれた顔で哀願した。
「頼む、行かせてくれ。クーイッヒに逆らえば、ロートが……俺の妹が……」
「仕方のない奴だね。クーイッヒはあたしの知り合いだ。何とかしてやるから
静かにおし」
ダナエがそう言うとミケロはがっくりと首を垂れた。ダナエは慌ててミケロを
揺すりおこした。
「おい、くたばるのはまだ早いよ。あたしはクーイッヒがいまどこにいるか、
知らないんだからね!」

К А Я М А

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