第32章1節:港の名はバランス


レクェサ。

大陸の最北に位置する、フォルニア王国の首都。

冬の訪れもいち早く、既に山には雪がたっぷりと積もっている。
東に広がるエーレの海も、しょっぱい冷たい風が吹きさらしていた。
よく、レクェサの形は「馬蹄型」と呼びならわされるが、実際にはむしろ
三日月型に近い。というのは、かつては確かに馬のひづめの形をしていたのだが、
この頃は市街地が発展し、弓形の丁度中央に当たる部分だけが
どんどんと後退していったのだ。
南北になだらかな山を持つこの街にして、当然の発展形態であっただろう。
湾には、南から2本、北から一本の川が流れ込んでいる。
その川も冬は水が凍り、ここまで届かなくなるので水無し川となる。
あるいは、表面が固く凍って氷の川になる。
今はまだ、どの川も流れている。とても豊かな水量とはいえないが、
それでも、時折馬が渡れなくなるほどの量に達することもある。
春になればもうそれどころではなく、雪解け水による洪水の対策を
人々は立てなければならない。
しかし、それはまだまだ先のことである。

湾には、船の係留所は3つある。
逆に言えば3つしかないとも言える。
理由はあとで述べよう。
一番大きいのは、ロアニール。次に大きいのはジョルジュ。
そして一番小さい、少しあやしげなのがバランス。
ジョルジュには王侯・貴族の船が主に停泊している。
女王、エーベル=ハルツシュット=フォン=エーデルガルトも
「湖上の詩人」号、「虹の踊り子」号、「花摘む歌姫」号の三隻を
ここに泊めている。いずれも劣らず美しい、機能的な船である。
時折、これらの船は貴賓の接待にも使われる。
また、エーベル女王を支えるよき伴侶たるナトルーン公も、
ご自分のヨットや帆船をここにおいていた。
しかしナトルーン公は運動好きな女王と違ってあまりこれらの船に乗ることは
なかった。
ジョルジュには常に見張りが立ち、海側は3重の開け閉めできる堤防で
囲われていた。場合によっては、ここは王宮以上に安全な場所だった。

これに対してロアニールは、どちらかといえば普通の人々が利用する
場所だった。例えば商人たちは、必ずここに船を繋ぎ、近くの
高名なレストランで商談するのが常だった。
そして漁師たち。密漁者のようなけしからぬ輩はともかくとして、
普通の漁船はロアニールの南端にたくさん泊まっている。
そのすぐ近くには少々柄の悪い場所も、少なからず、ある。
もちろん、漁師たちはここが住まいなのではない。
漁師たちは、売るためにここに来る。
それには捕った魚を直接ここに持ってきた方がいい。
冬は、魚を凍り付けにして、さらに各地へ売りさばく。
氷が溶けてしまうような遠い場所には、杉の葉も詰めていく。
そうすると、何故か魚が腐らないのだ。
幸い、ここには杉ばかりでなくたくさんの木があった。
その杉の葉にちなんで(そして、「我らが女王陛下」の住居、孔雀城にちなんで)
ロアニールの丸く囲む堤防は緑色に塗られていた。

さて、ジョルジュにも、ロアニールにも船を繋がない人々がいる。
そういう人達が、バランスに船を持ってくる。
バランスには堤防がない。
もともと内海であるエーレ海は、それほど波がないので堤防などはいらないが、
それでも時に、ひどく波の荒れることがある。冬は特にそういうことが多い。
そのための堤防でもあるが、もう一つ、堤防のある理由がある。
堤防があるのは、湾内が遠浅になっていて、深い場所を堤防が示しているからだ。
浅い場所だと船が立ち往生してしまうので、その目安にするために随分昔に
堤防が作られた。今でもときどき大がかりな修理が行われることがある。
立ち往生するだけならまだしも、船底に穴が開いて船が沈んでしまうこともある。
船の係留所が3つしかないのも、遠浅の海が原因だ。
泊められる場所がほとんどないのである。
遠浅の海にも利点があって、例えば小船を使う分には浅かろうと問題はない。
それから小魚や海草を養殖するのにはおあつらえ向きだ。
でも、それだけではレクェサの民は生きていけない。
だから人々は海に繋ぐために海の一部を深く掘り、堤防を作った。

その堤防がないバランスに、普通の人が来ないのは道理とも言える。
北側のバランスはあまり日が当たらない。
魚や海草の養殖もできない。
ここにくるのは、だからやましいものばかりだ。
先に述べたような密漁者たち。
どこかから逃げてきた、盗賊。
そして、海賊たち。
そんなものが堤防の道しるべを必要ともせずに入ってくる。
これを見て、ある物好きな商人が自分も堤防を使わずにバランスに入ろうと
試みたことがある。結果、船は沈んだ。乗り上げて立ち往生した船は、
スラムの住民に分解され、持ち去られてしまった。商人は失意の底で、
あの連中には生きるか死ぬかの気概があり、自分にはそこまでのものがなかった、
だから失敗したのだ、そう知人に告げたという。

バランスから陸にはいると、そこはスラム街である。
冬は飢えと寒さで死人も出る。
ここにすむ子供達は粗末な身なりだし、時には服とも呼べないぼろをかぶって
生活している子もいる。
おとなは病気持ちだったり、仕事もせずに遊んでばかりいたり、
ろくな人間がいない。
文化的な市民たちは誰もここに立ち入らない。
文化を華やかに歌うレクェサの、唯一の汚点ともいうべき場所である。
だから悪い奴がどんどんここに来る。
しかし、だからといって殺しや盗みがここで特に多いという
わけでもない。
ジェリクル……この街を裏で仕切る一派のアジトだという話もある。
そのせいだろうか?



そのバランスに。


今、一艘の、小さな古びた船が泊まっている。
塗装は剥げかかり、マストには虫食いの穴があって、今にも沈みそうだ。
曇り空の下、灰色の海面の上で、しょっぱい風に揺られている。

その船の中で、波の音を聞きながら、エリネは待っていた。
何を待っているのかはよく分からなかったが……ともかく、何かおこると思った。
いま、ずっとエリネたちを見はっていたミケロはいない。
朝早くに、何か用事があるらしく、そわそわと船を出ていって、それからまだ
ここに帰ってこない。船室の丸窓から見える空は、ほのかに夕陽の色を映し出して
日が傾いていることを示していた。

К А Я М А


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