注文の多い……



 静かな夜。
 ただ、帰りを待つ。
 やるべきことは既に終わっており、後は待つしかない。
 静かに、そのときを。
 もうじき、全てが終わるのだから。



 くだらない理由での、くだらない残業。
 仕事を途中で投げ出して、帰宅する。
 職場から歩いて25分のマンション。ロックされているエントランスの脇で、カードをリーダーに通し、パスワードを入力。ロックが外れ、中に入る。快適とは言えないが、プライヴァシを守ることはできる1Rマンション。三階の角部屋。二つの鍵を使って鍵を開ける。部屋に入り、三つの鍵をかける。
「おかえり」
 彼女がダイニングキッチンから声をかける。生返事をして、そちらに足を運んだ。
 俺のワイシャツを着た彼女が、ひとつしかない椅子に座って、純白のテーブルクロスを敷いたテーブルに肘をついている。
 見慣れない、テーブルクロス。
「疲れてる? 顔色悪いわよ」
「おまえもな」
 売り言葉に買い言葉、ではなく、彼女は本当に細く、白い。生気を感じさせない表情で、笑ってみせる。
 慣習的にテレビのスイッチを入れる。国営放送が、面白みに欠ける番組を流していた。
「お風呂沸いてるから、入ってきたら。それから、ご飯にしましょう」
 彼女はぴっと指差して、風呂を指示する。逆らう気力もないので、大人しく従う。
 服を脱ぎ散らして、風呂場に入る。中でざぶざぶやってると、彼女がやってきて服を畳む。
「ねえ、ワイシャツの襟元が汚れてるわよ」
 脱衣所から、彼女の声が聞こえてくる。
「首、ちゃんと洗ってよね。綺麗に洗ってよ。きちんと洗いなさい」
 はいはい。
 言われるままに、丹念に首筋を洗う。
 それでも、鴉の行水で、ラフな恰好のままキッチンに戻る。
「これ、飲んでみて」
 彼女が差し出したグラスには、黒い変な液体。舐めてみると、変な味。
「なんだこれは」
「身体に良いんだって。血が綺麗になるのよ」
「本当かよ」
 しぶしぶ飲む。不味い。
 テレビでは、面白みに欠ける構成のニュース番組が流れている。
 交通事故で一万人死亡。自殺で三万人死亡。
 老齢で動けなくなった妻を、夫が撲殺。
 望まれて生まれてこなかった子どもを、母親が扼殺。
「ねえ、籍入れてくれる気、ない?」
 唐突な申し出。危うく変な液体を吹き出すところだった。
「そんなことに、なんの意味がある?」
「選択的に同族になる、ということよ。もちろんあなた、婿養子ね」
「まじかよ」
「深く考えることはないんじゃない?」
 軽く言う彼女に呆れつつ、考え込む。
 まあ、いつかはそうなるだろうとは、昔から思っていた。しかし、頭のどこかで違和感が引っかかる。
 実家を出て以来、厭世的な生活態度を続けてきた。かつての故郷との接点は、かろうじて彼女との付き合いぐらいだった。しかし籍を入れるとなれば様々な人間関係の問題が出てくる。なにせ彼女の実家は、郷里の古い名家なのだから。
「――」
 口を開きかけたとき、電話が鳴った。
 ナンバーディスプレイで番号を確認。市外局番は郷里のものだ。
 半瞬戸惑って、電話を取る。
「もしもし」
 電話口から聞こえてきたのは、古い記憶にある声。しかしその声は、昔ほど元気がない。
「ごめんなさいね。突然電話して」
 年老いた声。昔は近寄ることすら恐ろしくてできなかった、田舎に住む魑魅魍魎の声。
「あの娘が逝ってしまって、もう十年になります。その後を追うように、あなたが姿をくらまして十年」
 あやふやな、遠い記憶。
「あの娘は、勝手にいなくなったのです。それをあなたに当り散らして、申し訳ありませんでしたね。もしよければ、一度郷里に帰ってきて、あなたもあの娘に線香ひとつ、花ひとつ添えてくれませんでしょうか。あの娘と一番仲の良かったのですから」
「……ええ。時間が取れたら」
 適当な返事をして、電話をきる。なぜか心臓が警鐘を鳴らすように早鐘を打つ。

 血。
 一面の血の海。
 それは過去の記憶。逃げ出した過去の出来事。

 新興宗教の退魔士。その信者。依頼した地元の人間。その仲間。
 全てばらばらになり、血の海を作る。
 その海の中心で、彼女はたたずんでいた。

 だらだらと流れる冷たい汗を拭いて、彼女に目を向ける。
 ああ。
 鍵をかけていたのに。
 あれほど用心していたのに。

 それでも。

「また逢えて、嬉しいよ」
「ありがとう。とっても、逢いたかった」

 瞬きする間もなく、彼女は俺の背後に回り、腕をねじり上げ、真新しい純白のテーブルクロスの上に押し倒す。握れば折れそうな彼女の腕は、まるで万力のように強固に俺を締め付ける。
「十年、我慢した。何かの間違いだと思った。でも、やっぱり」
 彼女の唇が俺の首筋に近づき、その冷たい息遣いが首筋をなでる。
「ドウシテモ、アナタヲ、タベタイ」



 ナプキンで口元を拭く。満腹感に包まれて、ゆっくりとソファに腰掛けた。
 あっけないほど、簡単だった。彼は抵抗さえしなかった。
 生気を取り戻した自分の肌を軽くなでると、薄く笑う。
 後はただ、彼が目覚めるのを待つだけ。
 わたしは世界から呪われた存在ではあるけれど、ひとりではない。
 だから、不幸ではないし、寂しくもない。

 ましてや罪悪感など、欠片もない。

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