彼のヒーロー
心に浮かぶのは、いつも底なし沼。
ずぶずぶと生暖かい泥に包まれて、さかしまに堕ちていく。
闇の中、不可視の泥は身体を包み込み、肺を満たす。
力が入らない。身体は頼りなげに、流れ、揺らぎ、ごくまれに浮き、落ちていく。
それは煉獄。
地獄に堕ちる前の、通過点。
眼を覚ます。
戻ってこれた、という安堵感。その一連の感覚にも、厭きた。
身体を起こして、周囲を見回す。もう見慣れた保健室のベッド。
ああ、また倒れたのか、と漠然と思う。
次に、今は何時だろうか、と思いをめぐらした。
そのとき、扉が開く音が聞こえた。続いて、聞きなれた足音。そして、しゃっと、無遠慮にベッドのカーテンが開かれる。
「なんだ、起きてたのか」
「まあ、ね」
様子を見に来たクラスメイトに、曖昧に答える。無愛想だとは、よく言われるが、愛想を振りまく気力も体力もない。
切るのがめんどくさいという理由だけで伸ばしている髪が顔にかかり、視界が悪い。かまわない。こちらの視界が悪い分、相手からもよく見えないはずだ。そのまま、疑問を口にする。
「今何時ぐらい?」
「4時。学校終わったよ」
「そう。わたし、いつ倒れた?」
「昼休み。薬を飲んだ後に、ばたっと」
「迷惑かけたわね」
「ん」
肯定するでも、否定するでもなく、クラスメイトはうなづく。
「薬の分量を間違えたかと思った」
「さあ?」
彼の失礼な推定に、同じような曖昧な言葉で返す。
その態度が気に障ったのか、むっとして鞄をベッドの上に乱暴な仕草で置く。
「気をつけろよ」
「分量を間違えたって、決めつけないで」
その態度が気に食わないから、こちらも不機嫌になる。
「全般的に、だよ」
「あなたに言われる筋合い、ないわ」
強い口調で、1歳年下の同級生に冷たく言う。しかし、この男は、
「筋合いなんて、どうでもいい」
なんて、平然と答えやがった。
ああ、さよけ、と答えて、起き上がる。ベッドから降りて、鞄を持って、歩く。
「帰るのか」
「帰るわよ」
この男は、なんで自分なんかに構うのだろうか。それが不思議でしょうがない。
昔から病弱で、他人と接触を嫌い、団体行動を避ける。こんな人間に絡んだところで、苦労するだけでいいところなんてないだろうに。
いやまあ、最近は薬さえきちんと飲んでいれば、そうそう倒れることもなくなってきていたのだが。そうすると、言われたとおり分量を間違えたのか。
「ねえ」
2歩ほど離れて後ろからついてきている彼に、振り返らずに声をかける。
「なんで、わたしなんかに構うの?」
「さあ?」
はぐらかされる。
「おひ」
少し呆れる。まあ、こういう奴だ。
「ほっとけばいいのに」
「それだと、困るだろう」
「別段困らないわ」
「じゃあ、構われるのは迷惑?」
「……別段、迷惑じゃないわ」
沈黙。黙って歩く。
(瑠香ちゃんは、可哀想ね)
昔から、そう言われるのが嫌いだった。
おまえに、なにがわかる。なにが、可哀想なんだ。
憐憫の裏に侮蔑と自己愛を見て取って、不愉快だった。
自分だって人間だ。人から優しくされたいとか、構って欲しいとか、愛して欲しいとか、認めてもらいたいとか、そういう感情は、ある。
逆に、蔑まれたり、見下されたり、莫迦にされたりするのは、嫌いだ。それくらいなら、無視されたほうがまし。
なにごとにも無関心と見られがちだが、実のところそういった感情は、人一倍強いほうだ。
心の中で、得体の知れない感情が渦巻く。言葉にするならば、それは猜疑と期待と自己嫌悪。
「じゃあ、ここで」
いつもどおり、彼は交差点でそれだけ言って、離れていく。いつも、そう。黙って一緒に歩いて、ここで分かれる。それだけ。
「待って」
今日に限ってそんな声をかけたのは、どんな気まぐれか。
「少し、話さない?」
言って後悔。なんとも、気の利かない台詞だ。
その証拠に、彼は少しびっくりした顔をしている。
「嫌なら、いいけど」
そう言って、視線を彷徨わせる。
「いいけど、なにを?」
彼の言葉に、え? と考え込む。そういえば、なにを話せばいいのか。
「なんで、わたしなんかに構うの?」
結局、その疑問に行き着く。これが解消されなければ、一歩も先に進めないから。
「君が好きだから、という風に言われたら、きゅんとくる?」
「こない。むしろ、殺意を抱く」
その瞳は、本気。
「わたし、人から憐れまれたり、同情されたりするのって、我慢ならないの」
「なんでそうとるかなあ」
彼は、少し考えて、近くの自販機に近寄る。
「やっぱり、カフェオレとか好き?」
「カフェイン駄目なの。あと、炭酸も駄目だから。それから、甘いのは嫌い」
「どーしろと」
「別に、なにも頼んじゃいないわ」
しばらく迷ったあと、高原の水とやらを買って、投げてよこす。こんなもの、売ってたのか。
「あれはいつだったかな。雨が降ってたことだけは覚えているんだが」
缶コーヒーを手に、彼は少し考えこむ。
「覚えてない?」
「それだけの情報で、どーしろと?」
憮然とする。
「川が増水していた。強風が吹いていた。人が集まってなにか言っていたから。なにごとかと思えば、子どもが川に落ちて流されていた。大人は、川岸で騒ぐだけだった。ふざけて川に突き落とした子どもは、とうにいなくなっていた」
「ふう、ん」
けったくそ悪い話ね、とつぶやく。
「俺は思ったね。こいつは死ぬな、と。誰もたすけない。誰もがたすかることを望みながら、しかし、誰もたすけない、と。当時の俺は運命論者で、世の中そんなものだと思っていた。
こんなときにたすけに入るヒーローなんて、フィクションの中にしかいないと、思っていたよ」
「ああ」
顔を抑えて、手を振る。
「思い出した。もう言うな」
「そのとき、俺の目の前に現れたんだよ。ヒーローって奴が」
「やめろ。殺すぞ」
「ひとり、川の中に飛び込んでいった奴がいた。しかも、そいつは、身体が弱くて、到底そんなことする奴に見えなかった」
「やめろって」
ぐ、とそいつの喉を掴む。握りつぶしてやろうか、と本気で思う。
「おい、しゃれになってない」
「黙れ」
指に力を入れる。男は、両手を上げて、降参の意を示した。
「まったく。殺されるかと思った」
「殺そうとしたからな」
冷たく、そう言い放つ。
「褒めたのに。あと惚れた」
「莫迦いわないで。考えなしに飛び込んで、結局別の人間にたすけられただけ。思い出すだけで恥ずかしい」
「それは――」
「もうこの話題には触れないで」
きっと睨む。こいつは不満そうに黙った。
「まあ、あなたの言いたいことは、大体分かったわ。それじゃあ、わたしの返答だけど、
――ごめんなさい。あなたとは、お友達でいましょう」
がくっと倒れ伏す莫迦者。orzって感じ。こいつ、どこまで本気なんだ。
「用件はそれだけ。じゃあ、ね」
それだけ言い残して、逃げるように立ち去った。
「もったいないこと、したかな」
そう思わないでもない。
しかし、今はこれしか選択肢がなかった。
顔が熱い。口元がにやけている。
ああ、それは認めないといけない。
いつか、自分が、彼と対等に向き直れる日がきたら。
その日までに、自分を認めることができるようになっていたら。
そのときは、自分のほうから言おう。
おまけ
「こらー、圭。おまえ、また浮気しただろう!」
それから3年後。浮気性の莫迦者を、包丁を振り回してキッチンの隅に追い詰めていた。
「眼が、眼が怖いっ。眼が本気だっ」
「ええ、本気よ」
ああ、もう。まったく。
「話せばわかるっ」
「問答無用」
ネタの不謹慎なやり取りをして、包丁の刃を上にして構える。
「誤解だ。彼女はただの、学校の後輩で……」
「ふうん。わたしが問題にしているのは、あの保育所の先生なんだけど」
「薮蛇キター」
「キター、じゃない!」
わたしに生きる道を示した魔術師は、とんでもなくいい加減で、浮気性で、だらしない人間だった。
「まったく、もう」
それでも嫌いになれないのは、たぶん、
思い出があるから。
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