軍神の旗を掲げるために -川中島決戦-



1.忠臣と忍


「動いたか」
 妻女山の中腹。山下を見下ろしながら、直江兼続は報告を受けていた。
「武田軍、茶臼山を出て、海津城に入りました」
 傍らで忍装束の女性が、頷いてそう付け加える。二人とも年齢は20に届くか届かないかといったところ。
「包囲は必ず欠く、か?」
「稲刈りが近づいています。長期化する戦争に、兵の士気が耐えられないのでは」
「それは、こちらも同様だな」
 兼続は、ちらりと女忍者に視線を向ける。
「常備軍が欲しいな。紅葉達のような」
「私達『軒猿』も、平時は農作業をしていますよ。それに、常備軍を維持するためには、莫大な財力が必要です。戦国の世とはいえ、それだけの投資が必要ですかね?」
 紅葉と呼ばれた女忍者の言葉に、兼続は少し考える。年齢が近いこともあり、越後の武将である兼続と忍者集団『軒猿』の紅葉は、仲が良く、気を置かずに話すことができた。まあ、それ以外でも「兼続様には悪い友達が多い」というのが、紅葉の評だが。
「しかし、攻めて、勝っても、軍を引き上げた後にまた敵が復活して、元の木阿弥になる繰り返しは辛い。――まあいい。それは今論じてもしょうがないことだし。俺は御館様に報告してくる。いずれにせよ、決戦は近い、か」
「ええ。甲斐の虎は、近いうちに仕掛けてくるでしょう。それでは、私達は情報収集を継続します」
「頼む。越後に帰ったら、秘蔵の酒を空けようか」
「ふふっ。ご相伴に預かりましょう」

 天正22年(1553年)、武田晴信の信州侵攻により所領を奪われた信濃の国人、村上義清・小笠原長時らが、越後の守護代、長尾景虎に助けを求めた。
 守護代就任間もない景虎は、これを受けて北信濃川中島に進軍。一気に川中島の北に流れる犀川と南に流れる千曲川を渡り、川中島のすぐ南に位置する妻女山に陣取って、川中島東にある海津城を睨みつけた。
 これに対して、武田軍は川中島西方の茶臼山に陣取って上杉軍を牽制。これにより、戦局は互いに退路を塞ぐ形になり、そのまま膠着状態に陥っていた。

「景虎、武田が動いた」
 兼続が本陣に報告に赴いたとき、彼の主君は琴を奏でていた。
「茶臼山を出て、海津城に入った。恐らく晴信は、決戦を急いでいる。近いうちに仕掛けてくるぞ」
 兼続の言葉が聞こえているのかいないのか、景虎は琴を奏でる手を止めようとしない。その白くしなやかな指は巧みに琴線を弾き、その美しい容貌はいかなる表情も浮かべていない。
「景虎」
「聞こえているわ。騒々しいわよ、兼続」
 ぴたり、と琴の音を止めると、景虎は視線を上げて兼続に向けた。
「権謀術数に秀でた武田晴信と小競り合いをいくら繰り返しても、時間と兵力の無駄。一大決戦にてこれを打ち破り、信州に武田の敗北を知らしめること。これ以外に、信濃から武田の勢力を放逐して、平和をもたらす方法はない、と。最初から、そう言っていたでしょう」
「……ああ」
「全ては予定通り。うろたえる要素は、どこにもないわ」
 表情を変えることなく、それだけ告げると、景虎は再び琴へと手を伸ばした。
 白い装束を身に纏い、白い肌に整った造形。全てを見通すような鋭い眼。絹糸のような背中までの黒髪を束ねて、琴を弾く。
 彼女こそが、直江兼続の1歳年下の主君、越後守護代、従四位下、毘沙門天の化身、越後の龍、軍神、長尾景虎だった。

 その夜、兼続は景虎の天幕に呼ばれて訪れてた。
「兼続。応仁の乱以来、天下大いに乱れ、まさに戦国時代といった風を為す。この世相、如何とする?」
 景虎は自分の顔より大きな杯になみなみと酒を注ぎ、それを傾けながら既に出来上がっていた。
 酔っ払った挙句、部下を呼び出してそれに付き合わせるとは、なんてたちの悪い上司だろうと思いながら、兼続はほのかに白い肌を赤くしている景虎の側に座る。
「いや、如何とするとか言われてもな。……そうだな。今年、上洛しただろう」
「ええ。天皇陛下と将軍閣下に拝謁して、従四位下に叙せられ、越後守護代として任命された。それにより、私も越後で支配権を認められた」
 ほのかに微笑する景虎に、兼続は首を振る。
「表向きだけだ。朝廷や幕府の権威は地に落ち、その支配力はなきに等しい。いくら官位があろうとも、ここだけの話、越後国内でも長尾政景、北条高広、大熊朝秀らは機会さえあればいつでも裏切るだろう。奴らは信用できない」
「私が信用するのは、兼続だけよ」
 ストレートな景虎の言葉に、兼続は面食らい、少し顔を赤くする。
「どうしたの?」
「酒が回った」
「まだ飲んでないでしょう」
 言うと、景虎は兼続に酒を勧める。兼続は小さな杯でそれを受けた。
「古き権威は、既に失われつつある。人々が一見それに敬意を払うのは、その権威を尊重しているというより、その権威によりもたらされる「秩序」を尊重しているからだと思う。戦国の世で、人々は「秩序」を求めている。しかし、古き権威には既に「秩序」をもたらす力はない」
「新しい秩序が必要だということ?」
「そうだ。人々のいのちとくらしを守る秩序。それを維持するためには、この国を制する力を必要とするのだろう」
「ふうん」
 景虎は大杯を一気に乾すと、一息ついた。
「つまり、ひとりを救うために、万人を制する力が必要だと」
「そうだ。そこへと至る回廊は、武田晴信の覇道か、景虎の王道か、あるいは未だ見ぬ他の道か、それは分からないがな」

「兼続様は、御館様とは仲が良いのですね」
 数日後、ひとりで妻女山山中から海津城を睨んでいた兼続の側に、紅葉が忽然と現れた。
「うん?」
「軍神として恐れられている御館様のことです。正直、私達には同じ人間とも思えない」
「そうか?」
「御館様は人の心が分からない。御館様にはついていけない。そういう言葉はよく聞きますし、私もそう思います」
 兼続の瞳が、鋭く紅葉を睨みつける。紅葉は微笑して、両手を上げてみせる。
「ご心配なく。私は兼続様に仕える忍です。いわば陪臣。陪臣は己が主君に仕えるのみ。主君の主君がどうだとか、そういうことは申しません」
「……」
「睨まないでください。私の仕事は情報収集。このような情報があると、ご報告申し上げただけです。――それとも、今後は兼続様の耳に心地よい情報だけを報告しましょうか?」
 紅葉の言葉に、兼続は嘆息して、頭を振った。
「紅葉はこれまで良き忍であったし、これからもそうであって欲しいと思う」
「微力を尽くします」
 ぴし、と微笑して敬礼してみせる紅葉。その姿に、兼続も微笑して、口を開いた。
「虎千代――景虎とは、幼馴染なんだよ。林泉寺で机を並べて、共に宇佐美駿河守定行から越後流軍学を学んだ。景虎は昔から人とはどこか違ったところがあったよ。誰も、あいつには関わろうとはしなかった」
「兼続様を除いて、でしょう?」
「逆だよ。あっちから関わってきた。虎千代には誰も関わろうとせず、虎千代自身も誰とも関わろうとしなかった。ただまあ、当時林泉寺で最悪の不良である俺だけは見過ごせなかったらしく、しょっちゅう叩きのめされたものだよ。拳や木刀で叩きのめされたことも多かったし、同じくらい問答を吹っかけられて、叩きのめされた」
 紅葉はその言葉を聞いて、くすくすと笑い出してしまう。
「それで、更正された訳ですか」
「未だに不良だけどな。まあ、人並みにはなった。それ以来、なにかとつるむことになったんだが。……まあ、あいつがいなければ、今日の俺はいなかったと思う」
「昨今ではかぶきもの、と言うらしいですよ」
「知らんよ。そんな悪童な俺たちにも、元服の日はくる。虎千代――景虎は越後国内の内乱を鎮めて、兄である長尾晴景から禅譲を受けて守護代に就任した。誰もが景虎を褒め称え、もてはやし、迎え入れ、頼りきり……そして裏切った。誰も彼も、だ」
「ええ。そう聞いています」
「追い詰められた景虎は、比叡山に入って出家するとまで言い出した。俺は必死になって止めたよ。なんとか引き止めて、その間に反乱を鎮圧したり、家臣団の間を駆けずり回って、忠誠の誓約書をとりつけたり、色々やったものさ」
「あの出家騒動は、芝居という噂もありましたけど」
「ま、詳しいことはいずれ教えてやる。ま、そのときに景虎が言ったのさ。例え全ての家臣が背こうとも、兼続ひとりがいるなら、己が道を貫こう、と」
「――」
「あいつだって、人間だ。辛いときも、泣き言を言いたいときも、逃げ出したくなるときも、誰かに頼りたくなるときも、ある。俺はあいつには及びも付かない人間だが、それでも――そんなとき、あいつを支えられたらと、そう思う」
「ああ――訂正します。私は、時々兼続様もよく分かりません」
 紅葉はやれやれ、と呆れるポーズをしてみせた。憮然とする兼続に、にやりと笑って見せる。
「そういえば、こんなお話をするためにきたのではありませんでした。武田軍、動きます」

2.軍神

「動いたわね」
 妻女山の中腹。山下を見下ろしながら、長尾景虎は報告を受けていた。
「武田軍は軍をふたつに分け、別働隊1万2千にて妻女山を攻撃し、長尾軍1万余が妻女山から降りてきたところを、八幡原で布陣している武田本隊8千と合わせて包囲殲滅する。さながら――」
「啄木鳥が、樹の中の虫を誘き出すが如く、かしら?」
 直江兼続の説明を聞く間も、景虎の瞳は眼下の海津城にて上がる炊煙を見つめている。
「どうする? 敵の数がこちらの2倍。このままでは、包囲殲滅されてしまう」
「いいえ。兼続。敵の包囲網は未完成。武田軍は2万ではなく、8千と1万2千の2部隊に過ぎないわ。ならば――是を各個に撃破するのみ」
 しゅる、と音を立てて景虎は白い布でその絹糸のような黒髪を束ね、覆う。
「速やかに、密やかに、妻女山を下山し、八幡原、武田本隊へ強襲をかける。――目指すは、武田晴信の首ひとつ!」
 9月9日。戦いの火蓋は切って落とされた。

 翌日。9月10日。未明。
 早朝より発生した霧に包まれて、長尾軍は妻女山を密かに下山し、千曲川を渡河。八幡原への渡河を完了する。濃霧の中のこの行軍は、景虎の芸術的な統率により成し遂げられた。
 同日。7時半頃。
 八幡原一帯に立ち込めていた濃霧が、晴れた。そのヴェールが外されたとき、長尾軍1万と、武田軍8千は、まさに目と鼻の先に対峙していた。武田軍は驚愕し、長尾軍が猛る。その瞬間、
「それでは――車掛りを始めなさい」
 景虎の命が下り、突撃が始まった。
 長尾軍先鋒は柿崎和泉守景家。これに村上義清と小笠原長時が続く。
 同日。8時頃。
 奇襲を受けた武田軍は統率を取り戻し、鶴翼の陣を展開する。その姿は鶴が翼を広げた姿に似た、防御に秀でた包囲陣形。これを敷いて長尾軍を包囲しようとする。しかし、
「第2陣、車掛かれ」
 景虎の命により、本庄繁長、色部勝長が突撃する。この援護を受けて、柿崎和泉守景家らは包囲を逃れ、一時的に退却した。
 車状に部隊を展開し、部隊を交代させながら絶えることなく次々と新手を繰り出すことにより、味方には一時的に休息を与え、敵に休む暇を与えず攻め立てる。言葉で言うのは容易い。しかし、刻一刻と変化する戦場で、それを現実のものとするためには、戦況の情報を把握する頭脳と、命令を下すタイミングを計る勘と、部下に対するカリスマと、天才的な統率力とを必要とする。
 同日。9時頃。
「第3陣――鶴の翼を食い破れ」
 軍師宇佐美駿河守定行、猛将"鬼"小島弥太郎、謀将直江兼続の長尾最強部隊に、休息を済ませた第1陣柿崎和泉守景家、村上義清、小笠原長時が加わり、疲れ果てた武田本陣に突撃を開始した。
 ここに、後世『武田悪夢の半刻』と呼ばれる、最悪の突撃が敢行された。

 同日。時刻、場所、詳細不明。
 ひゅんひゅんと風を切り、紅葉の手の中の細鎖が虚空に円を描く。細鎖の先端には鋭利な苦無が光り、細鎖の根元は長さ50センチ程の木製の棒へと繋がっている。左手にその棒を握り締めたまま、右手で細鎖をしならせ、牽制する。
 紅葉に対峙するのは、隻眼の老人。刀を構え、間合いを計る。その足運びはややぎこちなく、老齢以外にも要因を窺わせる。
「問おう」
 老人は、悲壮な表情を隠そうともせず、眼前の若い忍に問う。
「人の世を統べるべきは、人の覇道か、神の王道か」
「笑止。自明の理。我らは影。論ずること、あたわず」
 紅葉は、凄惨な笑みを浮かべて、じりじりと老人へと間合いを詰めて行く。
「ならば問おう。天下に秩序をもたらすものは、如何にあるべきか」
「笑止。自明の理。仁を仁とし、義を義とし、礼を礼とし、智を智とし、信を信とする。即ち、我が主也」
「若いな」
 老人は微笑して、刀を振り上げる。
「最後に問おう。若き影よ。御主にとって、忠義とは如何?」
「笑止。自明の理。命ある限り、唯々主に尽くすことのみ。――死して責より逃れようなどと、私は絶対にしない」
 老人は呵呵大笑した。
「佳き哉。汝が主は、果報者よ」
 老人は咆哮し、駆ける。一直線に、刀を閃光として振り下ろす。
「笑止」
 その閃光が、細鎖に絡め取られ、空中で停止した。紅葉は右手で細鎖を操ると同時に、左手で手元の木の棒の鞘を抜き、その下の抜き身を露にする。刹那の瞬間。右手の細鎖で老人の刀を拘束したまま、仕込んだ短刀を老人の喉に突き立てていた。
「それこそ、自明の理。――武田家上忍、山本勘介、討ち取った」

 同日。10時頃。
 武田本陣で、武田晴信は追い詰められていた。
 このわずか半刻で、次々と配下の武将の死亡の報告が飛び込んでくる。
 諸角虎定、山県昌景、穴山信君、内藤昌豊。名だたる武田の名将たちが、長尾の車掛りの波に飲み込まれ、消えていく。
「御館様」
 本陣で臍を噛んでいる晴信のところを、信濃豪族にして軍師の真田幸隆が現れた。
「弟君――武田左馬介信繁様、戦死なさいました」
「っ!!」
「それと、おそらく山本勘介殿も、敵の軒猿の手にかかったとのこと」
「馬鹿者が」
 ぎり、と晴信は奥歯を噛み締める。自ら提案した啄木鳥作戦を長尾景虎に見破られたと知った途端、勘介は晴信の元から姿を消していた。
「いかがします? 長尾軍は、晴信討ち取ったりと大騒ぎ。我が軍は統率を失いつつあります」
 晴信の弟の信繁は、晴信の影武者として前線で指揮を取っていた。唯の影武者ではない。文武に秀で、利発な弟は、晴信にとっても家臣にとっても、晴信の分身といってよかった。
「半身を奪われたようなものか」
「もはや――」
 ここまで、と言いかけた幸隆を、晴信は軍配で制する。
「ここで、退くわけにはいかん」
「しかし」
「逃げるわけにはいかない。そうなれば――」
 武田は終わりだ、という言葉を晴信は飲み込んだ。
 ここで本国の甲斐に逃げ帰れば、信濃は長尾の手に落ち、晴信の声望も地に落ちるだろう。そうなれば、信濃の豪族たちも一気に長尾になびき、今隣にいる真田幸隆とて、どう動くか分からない。真田一族は知勇兼備の名将ぞろいだが、だからこそ油断できない。
 そして、平野部が少なく貧しい山奥の甲斐に押し込められ、滅亡を待つか、少なくとも二度と天下を狙うこともできなくなってしまう。
「妻女山へ向かった別働隊が必ず戻ってくるはずだ。そうなれば、戦局は一気にこちらに傾く。それまで、耐えろ」
「兵たちの混乱はどうします?」
「わしが、前線に出る。本陣を、前に」
 英雄だな、と幸隆は立ち上がる晴信の後姿を見ながら、口の中で呟いた。そのまま、前線に己の姿を見せ付けるように進んでいく晴信を見送る。
「さてはて、どうなることか。……勝敗の鍵を握るのは、おそらく我が孫娘――と見るのは、いささか贔屓目が過ぎるかね」

 同日。10時半頃。
 広げた翼をぼろぼろに食い荒らされた武田本隊に止めを刺すべく、長尾景虎本隊が突撃を開始した。

3.日本一の兵

 妻女山、長尾軍「旧」本陣。
 高坂弾正昌信、馬場民部少輔信房が率いる武田別働隊がそこを強襲したときには、長尾本隊は影も形もなかった。
「これはつまり、裏をかかれたってことだよね」
 別働隊に随従していた真田幸隆の孫娘、幸姫は白馬の馬上にて首を傾げた。
「まあ、そうなるわな。勘介の旦那も、たまにはこういうこともあるもんだ」
 そう言っておどけて見せるのは、幸姫のお付の猿飛佐助。未だに髪上げも済んでいない13歳の幸姫は、その細い指をしばし額に当てて思考する。
「長尾景虎はどこに行ったのかな? 会ってみたかったのに」
「さあ。逃げたんじゃないのか?」
「そういう人じゃないよ。……おそらく、各個撃破。こっちの動きの裏をかいて、武田本陣へ向かったってところじゃないかな」
「うん? それって、ヤバくないか?」
「うん。ものすごくヤバイ。……真田隊、行くよっ!」
 一声かけると、真田隊200余名は、一気に山道を駆け下りた。
 この時、時刻は既に8時半頃。八幡原では既に、血みどろの戦闘が始まっていた。

 同日。9時半頃。
 武田軍別働隊に対する備えとして、千曲川の十二ケ瀬に布陣していた甘糟近江守景持隊1000余名は、突如強襲を受けた。
 武田別働隊の来襲は予測していた。そのために備えていた。
 しかし、
「北条氏康軍、武田の援軍として後方に現れました!」
「今川義元軍、武田の援軍として前方に現れました!」
「長尾本隊苦戦! 速やかに陣を引き払い、援軍に駆けつけるようにとのこと!」
「長尾政景、北条高広殿、裏切り! 本隊の後方より、攻撃を仕掛けてきます!」
 次々と、真とも偽ともつかぬ情報が、飛び込んでくる。
 今現在の敵の方角も、南とも西とも北とも東ともつかず、敵の数も多くは1万、少ない場合には200名と、全くばらばらの情報が飛び交い、錯綜し、混乱する。
「馬鹿な。何が、何が起こっている!」
 混乱する兵たちの中で、為す術もなく叫ぶ景持の前に、小柄な伝令将校が白馬に乗って駆けてくる。
「報告します」
「今度は何だ!」
「武田軍の真田幸姫、千曲川の渡河を終了し、甘糟近江守景持を討ち取りました。すぐに、長尾本隊への攻撃へと移ります!」
「っ!?」
 次の瞬間、槍が一閃し、景持の喉を掻き切った。
「敵将、討ち取った!」
 長尾の伝令将校の装束を投げ捨てると、幸姫は手の中の槍を一振りして、先端の鮮血を振り落とした。
 駆ける幸姫の白馬の周囲に、追走するように真田の精鋭が続く。
「姫。高坂隊、馬場隊、追いつけていない」
「気にしない!」
 追いついて併走する佐助の言葉に、幸姫は断言する。断言しながら、駆ける。駆けながら、考える。考えながら、指示する。
「佐助。長尾本隊に流言を流して。武田別働隊1万2千、既に八幡原に到着した、と。こっちは派手に動いて、信憑性を出すから」
「下手をすると、姫が危険にさらされるぜ」
「このままだと、武田全軍が危ないの!」
「やれやれ……じゃあ、行くぜ」

 同日。11時頃。
 武田本陣。
 三尺の太刀「小豆長光」が煌く。その必殺の軌跡は、軍配により弾かれた。
 名馬「放生月毛」に跨った長尾景虎は、素早く体勢を立て直すと、再び「小豆長光」を振るう。武田晴信は再びこれを軍配で受け止める。
 ぎり、と太刀を受け止めた軍配が軋んだ。
 突撃と乱戦の混乱の中、奇跡のような確率で生じた一騎打ち。
 晴信が問う。景虎が答える。
 景虎が問う。晴信が答える。
 互いの声は、互いにしか聞こえない。それは、軍神と英雄との間にのみ許された、刹那の邂逅だった。

 同日。同時刻。
 武田別働隊、八幡原に到着。
 その報告を受けた直江兼続は、武田左馬介信繁隊の掃討を行っているときだった。
 主君、長尾景虎は武田晴信本陣に突撃を敢行中。目下行方不明。
 軍師、宇佐美駿河守定行は最後の抵抗を続ける武田家長男武田義信と殴り合いの真っ最中。現在連絡不通。
「――っ!」
 決断しなければ、ならない。自分が。今すぐに。
 前進して、武田晴信の首を狙うか。
 後退し、別働隊と対峙するか。
 逃走し、撤退するか。
 速やかに決断し、決定し、それを全軍に通達しなければならない。
「あなたが、決めて」
 景虎はこの事態を予測して、そう言っていた。
 状況により、選ぶべき選択肢は変わる。景虎も、定行も判断できる状況にないときは、兼続が決めろと。
「そのときは、私はあなたの指示に従うわ。だから、ひとつだけ約束して。その事態になったら、必ず決めること。決して、決めることから、逃げないで」
 からからに渇いた口の中を舐め、畜生と呟く。おまえが決めろと、自身を叱咤する。
 謀将、名参謀などと呼ばれつつ、この程度なのかと、自身を罵る。
「そんな事態になったときは、おそらく判断に十分な情報はないかもしれない。必要な手段がないかもしれない。それでも、決めて。あなたが最善だと思う方法を。総て任せる――景虎の任せるは、唯の任せるではないわ」
 紅葉はいないのか、と怒鳴ってみる。返事はない。今このとき、紅葉は真田忍軍猿飛佐助と斬りあっていることなど、兼続に知りようのないことだった。
 ぎり、と歯を噛み締め、強く目を見開く。
「景虎と宇佐美定行に退却命令を。残りの部隊は武田別働隊に対峙して退却を援護。雁行の陣を取れ!」
 こうして、長尾軍は真田幸姫の策に落ちた。

 同日。12時前頃。
 歩兵に持たせた大量の風林火山の旗。その前では、騎兵が駆け回り、砂埃を立てている。
 僅か200余の寡兵が、その全貌を悟らせることなく、長尾軍1万余の半数以上を、半刻以上引き付けることに成功していた。
「姫」
 真田幸姫の元に、長尾軍に対して工作を行っていた猿飛佐助が戻ってきた。
「長尾軍の誘導、完了した。しかし、長尾軍に忍び込ませた乱破の多くが討ち取られ、これ以上は無理だ」
「ふうん。敵にも、優秀な乱破がいるんだ」
「軒猿の紅葉。春日山城に住む妖の類と言われている。個人名なのか、役職名なのか、集団名なのか、なにかの異名なのかは、分からん。しかし、腕は確かだ」
「優秀な人間は、世に多いね。敵にも頭は付いている。侮ることなかれ。御爺様によく言われたよ。――うん。戦果はこれで十分。高坂弾正や馬場民部少輔も追いついてきたしね」
「では」
「ここからは正攻法。さあ――反撃の時間だ」
 武田軍別働1万2千は、当初の予定よりはるかに遅れて、ようやく八幡原に到着した。
 この大兵力が、肩透かしを食らわされた怒りと共に、疲れ果てた長尾軍に殺到する。
 ここに形勢は、逆転した。

 同日。夕刻。
 戦闘は既に、乱戦へと移行しつつあった。
 不利を悟った長尾軍は、武田軍を包囲網を突破して犀川を渡河し、善光寺方面に撤退する。
 長尾軍の撤退自体は、組織的に行われたものの、重い手柄首を腰に下げて逃げ遅れた兵士の多くが、武田軍の復讐の刃にかかった。
 宇佐美定行、小島弥太郎、直江兼続の3将は何度も何度も犀川を南北に往復し、逃げ遅れた兵卒を武田軍の包囲より救い出し、善光寺へと撤退させることを繰り返した。
「やあ、見事見事。負け戦でこそ、将はその真価を問われるというけど、キミはさぞかし名のある名将なんだろうね」
 太陽が翳り始めた頃、敗残兵を救出して撤退する直江兼続の小部隊のもとに、小部隊が接近してきた。その小部隊を率いる六文銭をあしらった鉢巻を締めた年端もいかない少女は、そう言って兼続を賞賛する。
「何者?」
 疲労の色が濃い馬上の兼続に、白馬に乗った少女は笑ってみせる。
「僕がキミの名前を聞いているんだよ。まあいいや。僕は真田幸姫。後の世に、日の本一の兵として知られることになる予定だ」
「――、直江兼続。長尾景虎に仕える士だ」
 兼続が備前兼光3尺2寸を抜く。引き抜くその一連の動作のまま、その刃が疾風の如き速度で幸姫の頚動脈を切断しようとする寸前、幸姫の真紅の槍が閃光となって兼続の肩を貫いた。
「!?」
 自分に何が起きたのか理解する暇もなく、兼続は落馬する。
「お見事。僕が死を覚悟した相手は、キミでふたり目だ。ひとり目は御爺様なんだけどね」
 幸姫は左手で自分の首筋を押さえながら楽しげに笑うと、白馬から降りて、兼続に槍を突きつける。
「キミの首は、長尾景虎に送り届けてあげるよ。何か伝えておくべき言葉はあるかい?」

「――いや、その男は生きたまま私に返してもらうわ」

 すぐ近くで、戦場に似つかわしくない、鈴のような声が響いた。
「!?」
 名馬「放生月毛」に跨り、その白い肌と白装束を人血で真紅に染めた長尾景虎が、そこにいた。その手の中の「小豆長光」の抜き身は、未だ血を吸い足りないとばかりに禍々しく光る。
「……長尾景虎!?」
 驚いて呟く幸姫に、軍神は頷く。
「いかにも。私が景虎。その男の主人。真田幸姫。それは、私のものよ。大人しく、返して頂戴。そうすれば、長尾景虎に貸しをひとつ、作ったと思っていいわ」
 僅かの沈黙。幸姫は憧れる様に見惚れる様に景虎の姿を瞳に映すと、頷いて槍を引いた。
「いいよ。長尾景虎に貸しを作れるなんて、めったにないことだもの。大将首ひとつより、価値がある」
「物分りが早くてたすかるわ。景虎は、決して信義を破らない」
「信じるよ」
 景虎が馬を下りて、その髪をまとめている白布を解き、兼続の傷口に巻く。手当てが終わると、兼続を「放生月毛」に乗せて、自らもその後ろに跨る。
「それでは。日の本一の兵よ、また会いましょう」
「それじゃあね。軍神。その日まで、壮健でね」
 景虎は「放生月毛」に合図すると、速やかにその場を後にした。

 同日。日没。
 戦闘はようやく終結し、長尾軍は越後に、武田軍は甲斐へと退却を開始した。
 長尾軍戦死者3千強。武田軍戦死者4千強。
 軍神と英雄の戦いは、両者に多大な損害を出し、手痛い教訓を叩き込んで終わった。
 勝ち鬨の声は、どちらの陣営からも聞こえることはなかったという。
 

4.戦後処理

 直接の戦闘が終わっても、戦いそのものが終わったわけではなかった。
 戦闘終了に前後して、越後では長尾政景の反乱が起こり、甲斐では金山で暴動が起こった。
 長尾政景の反乱は、春日山城で留守を守っていた兼続の父、直江景綱が鎮圧し、甲斐金山の暴動も程なくして甲斐に帰還した武田晴信により鎮圧された。
 この後にも、越後の軒猿と甲斐の乱破との間で、表沙汰にならない熾烈な抗争が続けられることになるが、それは別の話になる。

 少なくとも表向き、長尾と武田の両陣営とも講和に積極的だった。
 川中島の決戦の直後、晴信から景虎へと講和会談の申し入れがあった。このとき、越後本国では景虎の従兄弟の長尾政景が反乱を起こしていたが、景虎は政景を無視して、本拠地の春日山城にも戻らずに会談場所の善光寺へと赴いた。
 これには、武田の大使として赴いた高坂弾正昌信は愕然とした。越後守護代自ら会談の場所に現れたのだ。実質的に昌信に帰れと言っているようなものだった。
 昌信が甲斐に帰還して、晴信に報告している間に、長尾政景の反乱は直江景綱により鎮圧されてしまう。
 昌信の報告を受けた晴信は、甲斐金山の反乱鎮圧に苦慮している真っ最中だった。不利を悟った晴信は、盟友今川義元にたすけを求めた。義元は軍師にして外交僧太原雪斎を仲介役として派遣し、自らも善光寺へと急いだ。

 和平交渉の場にて雪斎が提案した和平案は、
・武田と長尾は相互不可侵条約を締結する。
・信濃一国は武田領とする。
・村上義清、小笠原長時らは武田家に従うことを条件に、旧領の一部を回復する。
・信濃の豪族のうち、長尾派は武田家に、武田派は長尾家に人質を差し出す。
 以上の4項目だった。
 全体として武田に有利な内容ではあるが、長尾は村上義清、小笠原長時らの旧領回復という大義名分を果たすことができる。
 何度かの折衝の後、大枠では雪斎の提案どおりに講和が結ばれることになった。
 長尾は結局信濃に侵出することはできなかったが、村上義清、小笠原長時らの旧領回復は成し遂げることはできた。また、講和により、信濃からの侵攻の圧力も軽減した。
 武田は村上義清、小笠原長時らに旧領を回復させたため、信濃を征服したといっても、直轄地はかなり減ってしまった。また、今後信濃の豪族たちの動向に心を配る必要があり、統治に手間がかかることになりそうだった。しかし、とりあえず信濃侵出という目的は果たされ、越後長尾からの圧力が軽減したのは、とりあえずの成果とすることができた。
 両軍共に不満を持ちながらもスムーズに講和に応じたのは、稲刈りの時期が間近であること、雪の季節が近づいてきたことなどがあるが、最大の理由は川中島での戦いの損害が大きすぎて、双方共に厭戦気分が蔓延していたことがあった。
 こうして、川中島の戦いは、双方に多大なる損害と、手痛い教訓と、苦労に見合わない成果を残して、終了したのだった。

 稲刈りが終われば、年の終わりも近い。
 すっかり早くなった日暮れ時。越後春日山の直江屋敷で、ようやく傷の癒えた兼続が秋風を感じながら、領地から献上された新酒の瓶を前に、さて、どうしようかと考えていると、すとん、と目の前に紅葉が天井裏から飛び降りてくるように現れた。
「おや、久しぶりだな」
 兼続の言葉に、紅葉は頷いて、歯切れ悪く答える。
「ええ、まあ。――川中島で兼続様を守りきれなかったことで、色々ありまして。釈明させていただくと、あの時私は真田忍軍の相手で手一杯でして……」
「紅葉が気に病むことではない」
「言い訳位させてください。あやうく、それすらできなくなるところでした。しかし、責任逃れをするつもりはありません。この身、兼続様のお気の召すままに」
 ぺたん、と紅葉は兼続の側に正座して、深く頭を下げる。その様子に、兼続は困ったように視線をずらして、窓から夕日をちらりと見た。
「俺も川中島では、真田の小娘に完全にやられて、失態を晒した。川中島の功臣には血染めの感状が与えられたが、その中には俺は入っていない。――でも、景虎はこうも言った。人は勝利よりも、敗北から多くを学ぶ。景虎は兼続を信じている。景虎の信じるは、唯の信じるではない、と」
「兼続様って、御館様のことばっかりですね」
 今の話題はそうじゃないだろう、と非難するような眼で、頭を上げた紅葉は兼続を睨む。
「うん? 俺も紅葉を信じている、と。そういったつもりだが」
 兼続の言葉に、紅葉は嘆息する。
「もういいです。私も、ちょっと誠意っぽいものを見せようかなと思っただけですから……そういえば、報告がありました。その真田のお姫様が来ていますよ」

「真田家の幸姫、善光寺の盟約に従い、人質として参った。兼続には、長尾景虎殿への取次ぎと身元の引き受けを願いたい」
 傲岸不遜、といった態度で、幸姫は直江屋敷の兼続の部屋でそう宣言した。男装の礼装で、胡坐に座り、両手を拳にして畳に突く。その姿は凛々しく、彼女もまた英雄のひとりであることが感じられる。
「供の者は、既に全員帰らせた。否なら、この身は越後に居場所はない。良い返事をいただきたい」
 人質に出された、という困難な状況に怯むことのない、幸姫の堂々とした態度に、兼続は羨ましそうに苦笑する。
「なぜ、おまえが来る?」
「僕が自分から御爺様に頼んだんだよ。僕は長尾景虎に貸しがあるから、僕が行こう、と」
「貸しがあるから、そう無碍には扱われないだろう、と?」
「否」
 幸姫は微笑して答える。
「貸しがあるから、例え真田が長尾と敵対しても、殺されはしないだろう、と」
「まだ、やるつもりなのか?」
 呆れたような兼続の言葉に、幸姫は笑う。
「それともうひとつ。真田が危機に瀕したときには、長尾に援けを求める場合もあるかもしれない。そのための貸し、だよ」
「真田は長尾と武田を、両天秤にかけるのか?」
「それが真田というものだよ。それから、兼続のやっかいになるのは、御爺様のアイデア。訳は教えてくれなかったけど。御爺様は、百手先まで読む人だから」
 軍師真田幸隆の意図を計ることが全くできずに、兼続は嘆息した。天下には、己では太刀打ちできない英雄が多すぎる。
 考えるのを諦めて、手元の酒瓶を玩んだ。
「来るなら、あらかじめ言え。準備もある」
「生憎と、この身を狙う輩もいる故に。夜討ち朝駆け奇襲は真田の常として、諦めていただきたい」
 悪びれた風のない幸姫に、兼続は嘆息するしかない。
「とりあえず風呂に入って、飯でも食え。その間に、おまえの寝る部屋を都合つける」
「どうぞおかまいなく。兼続と同じ部屋でも良いよ。……ああ、でもえっちなことをするのは、髪上げが済んでからじゃないと駄目だよ。無理矢理迫ってきたら――今度こそ殺すからね」
「……」
 言葉をなくす兼続。そこへ、不意に、
「ご心配なく。その時は、私があなたを殺しましょう」
 気配を消して兼続の側に控えていた紅葉が、殺気を放って言い放つ。
「おや、キミが佐助の言っていた、春日山城の妖?」
「推測はご自由に」
「まあいいや。じゃあ、ちょっと風呂にでも行ってくるよ。――ふふっ。ボクが不審に死んだとしたら、川中島で多大な犠牲を払って長尾景虎が天下に示した信義が、地に落ちるだろうね」
 幸姫はすっと立ち上がると、そう言って意地悪く笑う。部屋を出ようとして、ふと足を止める。
「御爺様が言っていた。天下に信じるに値するのは、長尾景虎ただひとり、って。真田のような、表裏比興の者にそこまで言わせるなんて、ありえないことだよ。ひょっとして、天下を創るのは、ああいった神なのかもしれない」
「天下を創るのは、無数の声なき声だ。景虎は、そこに道をつくり、導を示すのみ」
「難しいことを言うね。湯につかりながら考えてみるよ。のぼせたらたすけにきて。でも、どさくさに紛れて――」
「いいから、さっさと行け」
 笑って部屋を後にする幸姫。紅葉は不機嫌な顔で、兼続の手の中の酒瓶を掠め取り、封を開けてそのまま口をつける。
「おい」
「私は、面白くありません」
 紅葉は酒をあおりながら、じと眼で兼続を咎めるようにそう言う。
「俺が面白いとでも思っているのか」
「面白くないこと、意にならないこと、手の届かないこと、全て含めて、楽しんでらっしゃるでしょう?」
 紅葉が苦笑交じりにそういうと、手の中の酒瓶を兼続に返す。兼続は紅葉の言葉にやや戸惑った後に、酒瓶を受け取って口をつけた。
「まあ、な」

 天正22年は、こうして暮れていった。
 長尾景虎、18歳。
 直江兼続 19歳。
 真田幸姫 13歳。
 武田晴信 32歳。
 織田信長 19歳。
 羽柴秀吉 17歳。
 徳川家康 10歳。
 誰一人として、戦国の行く末の絵すら描けずにいた。



クリエーターズネットワークのテーマ『逃げる』『姫』についての作品。
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