断章1:2007 LosAngels




1


 2007年。ロサンゼルス。
 十年前には考えられなかったような澄んだ夜空の元、傾いた高層ビルの屋上に二人の人影があった。
「やれやれ。アルマロス。あなたもいささかしつこすぎやしませんか?」
「シャルギエル。貴様の方こそいい加減にしろ」
 両者はお互いに言いたいことだけ言うと、もはやそれ以上会話を成立させようとするそぶりも見せない。
 アルマロスが手に持っている剣を振りかぶり、翔ぶ。高く、高く。夜空に剣の煌きの光が星の如く輝く。百メートルは上空であろうか。アルマロスが剣を振り下ろす。
 瞬間、ビルが崩壊する。続いて衝撃波がビルを襲い、更にその後に轟音が響く。
「やったか?」
「いい加減希望的観測はやめて、事実のみを見つめたらどうなのです?」
 いつのまにかアルマロスより更に上空にいたシャルギエルは、冷たく言い放つとそのままアルマロスに蹴りを入れる。アルマロスは未だ倒壊途中のビルに激突。コンクリートを破壊しながら一直線に地上を目指す。
「そこで頭を冷やしなさい」
 シャルギエルがそう言ったとたん、ビルは凍結し、崩壊が止まる。巨大なビルが氷山の如き氷に包まれ、氷に封鎖される。シャルギエルは静かに氷山の頂上に降り立つ。
「永久凍土です。二度と出てくるんじゃありませんよ……しまっ……」
 瞬間、氷を割って炎に包まれた剣がシャルギエルにのび、わき腹を刺す。アルマロスがひねりを入れるより早く、背後に翔ぶ。素早く、遠く、遠く。
 その姿はすぐに夜の闇の中へ消えていった。

2


 月明かりの元、ソフィアはあちこちアスファルトがはがれ、崩落した道を逃走していた。背後から追いかける男たちの足音が響く。手に持っている紙袋をぎゅっと握り締め、ビルの隙間の裏道に逃げ込んだ。

 ロスはもとより治安の良い街ではなかった。
 しかし、天使戦争の後から見れば、それでもまだ古い良き時代だといえる。
 ある日突然襲来した「天使」という存在。天使に近代兵器も軍隊もまったく通用しなかった。天使は一方的に人間に裁きの時が着たことを告げ、殺戮を開始した。その圧倒的な強さにもかかわらず、天使の進軍スピードはさして速くはなかった。ただ人々は圧倒的な天使の力の前に無力感に囚われ、滅びを直前にして恐慌状態に陥り、暴徒と化した。政府と軍隊は真っ先に天使によって消滅させられ、秩序とモラルは崩壊した。

 轟音。
 大気がびりびりと震え、ソフィアは一瞬遅れて地に伏せた。ぱらぱらと何かが落ちてくる音を聞き、それが収まると顔を上げる。
「!!」
 老朽化していたビルの一部が崩壊したのか、前方に複数のコンクリートの塊が落ちて道を封鎖していた。背後から追っての足音が響く。慌てて逃げ道を探すも、もとよりビルの隙間の裏道。あるはずもない。
「いたたたた……」
 ふと、どこからともなく男の声がするのを聞いて、ソフィアはきょろきょろと周囲を見まわした。
「あの。どこのどなたかは存じませぬが、たすけていただけませんでしょうか?」
 どことなく間抜けな響きの声の出所を探す。目の前の崩壊したコンクリート群の隙間から聞こえてくるような気がして、そちらに駆け寄る。背後から危機が迫っている時に、そういうことをしている場合ではないとわかっているつもりだが、それでもたすけを求められるとそちらに行ってしまう性格だ。
 コンクリート片の狭間から声が聞こえてくる。とすると、誰か挟まれて閉じ込められてしまったのだろうか?
 ふと、背後からの足音が大きくなる。
 (誰か中にいるってことは……)
 中には入れる可能性もある、と極めて例外の多い事態を思いつく。迷ってる暇はない。急いでコンクリート片の隙間に身を押し入れる。
「あうっ。ここはもう定員オーバーです」
「静かにしてください。わたしが良いって言うまで音を出さないでっ」
 短いやり取り。
 すぐに野獣のような男たちが現れた。
「いねえぞ?」
「どこいった?」
「行き止まりだぞ」
「そこら辺にいねえか?」
 ごそごそごそごそ。
 時間にして数分もないであろう。男たちがやり取りの後、去っていくまでソフィアは必死になってコンクリート片の隙間で息を潜めていた。
 やがて、男たちが去っていったのを確認すると、ソフィアは隠れていた場所から出ると、再びコンクリート片の隙間を覗きこむ。
「もういいですよ」
「……きゅう。散々踏まれて痛かったです」
「悪かったですよ。非常事態でしたから……手、伸ばしてください」
 コンクリートの隙間から細い腕が伸びてくる。ソフィアはその腕をつかんで引っ張った。
「よい……しょっと」
 ずりずりずりずり。
 引っ張ると修道服を着た男が出てきた。
「ふう。たすかりました」
「どういたしまして。神父様ですか?」
「ええ。修行の旅の途中の身ですが」
「旅の途中ですか。よろしければわたしたちの集落にこられませんか?この辺は治安も良くないですよ」
「治安が良くないと突然コンクリートが降ってきたりするものなのですか」
「違いますよ。さっきの連中です。出自はわかりませんが、恐ろしい人たちです」
「はあ、そうですか。これも何かの思し召し。集落があるならそちらにおじゃましましょう」
 そうですかと言いながらぜんぜんわかってなさそうな様子の神父に、ソフィアは苦笑する。それから紙袋の中身をチェックして、中身が壊れていないことを確認すると、ソフィアは神父に視線を向けた。
「それでは行きましょ……ちょっと神父様、怪我をしているんじゃないですか?」
「ほえ?」
 見ると神父の修道服のわき腹の部分が真っ赤に血で染まっている。
「ああ、気がつきませんでした」
「気がついてください!」
「大丈夫ですよ。もう出血も止まってますし」
 緊迫感のかけらもなくのほほんと言う神父に、ソフィアははあ、とだけ答える。
「じゃ、じゃあわたしたちの集落に案内しますね」

3


「驚きました?こんなところに集落があるなんて」
 ソフィアの問いに、神父はうなずく。
「知りませんでしたよ。人間がこんなところに集まって住んでいたなんて。都市にはもうほとんど人は組織的に住んでいないのかと思っていました」
 ロスの下町。まるで隠れ里のようにその集落はあった。
「数年前と、すっかり様子が変わってしまいましたものね。でも確かに水道はありませんが、川の水や湧水は塩素の入った水道水よりずっと綺麗なんですよ。遠隔地から食糧の供給もありませんが、こんな都市の真中なのに、食べられる植物や動物の数も多いんです」
 確かに街の様子は数年前とは全く違っていた。電気の供給が途絶えたため、街は暗い。そして木々が街にひしめき、動物たちの声が聞こえてくる。そしてそれらに包まれるかのように人間の建造物が覗いている。
「もちろん自然が文明を補ってくれたわけではありませんから、いろいろ不便はありますけど」
 それはそうでしょうね、と神父はうなづく。
「寝る場所も余裕あるんですよ。でもその前に、ちょっと寄りたい所があるので良いですか?」
「ご随意に。でもこんな時間にですか?」
 ソフィアが訪れたのは集落の中でもはずれにある建物だった。
「”ドクトル”起きていますか?」
 ソフィアの声に、ドアの向こうからああ、ともうう、ともつかない声が聞こえてくる。
 ドアを開けると、暗い部屋の中でソファの上に横になっている男がいた。この男は全身を包帯で包み、その隙間から眼だけが覗いていた。部屋にはソファのほかに製図用の机や本棚やその他良くわからない器具が散乱している。
「ソフィアか。こんな時間にどうした?それから後ろの男は?」
「街でであった神父様。それより”ドクトル”、病院跡から薬を見つけてきたんです!」
「素性の知れぬものを集落に入れるなと言っただろう。それから、この呪いには薬など効かん」
「いいえ。あなたの症状はハンセン病と言って、このスルフォン薬さえあれば治るんです!」
「これは呪いだ。俺の罪に対する神からの罰だ。気持ちだけいただいておく」
「”ドクトル”! らしくないですよ。非科学的です」
「非科学的だと? じゃああの襲来してきた天使たちについて科学的に説明して見せろ!」
「論旨をずらさないでください!」
「まあまあお二人とも、夜も遅いことですし、あまり大声を出すのはやめましょう」
 言い合う二人に、神父が割って入る。
「ええと、”ドクトル”? 部屋から察するにあなたは科学者ですか?」
「そうだ」
「ソフィアは?」
「いえ……専門家ではありませんが、でも勉強はしました」
「まあまあ」
 にこにこした表情で、神父はソフィアにそっと耳打ちする。
「専門家というものは、専門分野でそうでない人間に意見されるのを嫌うものです。ここは薬を置いて後は彼自身の判断に任せると良いでしょう」
「でも」
「彼がばかではないのなら、それで十分です。後はわたしに任せてください」
 神父の言葉に、しぶしぶソフィアはテーブルの上に持ってきた紙袋を置く。
「とりあえずこれはここに置いておきますから」
 ソフィアはそう言い残すと、ずんずんと部屋から出て行き、ばたんと扉を閉じた。
「さて」
 と神父は肩をすくめた。
「迷惑をかけたな」
 ”ドクトル”のその言葉に、神父はくすりと笑う。
「その薬で俺が治らなかったら、彼女は又新しい薬を探して危険な街に出かけるんだろうな。いっそ愛想を尽かしてくれたほうが楽なのだが」
「本当のことを話せば、楽になりますよ」
 笑みを崩さない神父の言葉に、”ドクトル”は冷笑した。神父を刺すような視線でじっと見る。しばらくそのまま何か物思いにふけっている様子だったが、ふと口を開く。
「懺悔しろ、と?」
「あなたが黙っていることに苦痛を感じているなら。衝立でも用意しましょうか?」
 ”ドクトル”の表情は包帯に包まれて見えない。彼は自分の感情を伝えるためかのように、嘲笑して見せた。
「そのままで良いさ……そう、あれは3年前のことだった。俺は国防省のB兵器開発の秘密プロジェクトのメンバーだった。なあ、効果的な兵器とはどんな兵器だと思う?」
「効率よく敵を殺す兵器ですか?」
「60点。ぎりぎり可ってところだな。考えてみろよ。死体は生きてねえ。物も食わないし、世話する必要もねえ、文句も言わなきゃ反乱もおこさん。戦場において最も厄介なのは、足手まといの味方だ。負傷兵とかな。飯は食う、医薬品はいる、そのくせ一人前の戦闘力にならないばかりか、自分一人のこともできずに介助を必要とする。他の兵士にしたって明日はわが身だ。粗末にもできん。しかも死は消滅だが、生は存在だ。政治で死などいくらでも美化できる。当の本人は文句を言おうにも死んでるんだからな。声のでかい奴が代弁と称して好き勝手言えば良い。ただし生はリアルで醜い。その醜さは存在している限り美化できん。それが醜ければ醜いほど、士気を萎えさせる」
「なるほど」
「つまり効果的な兵器とは、敵の戦闘力を奪うものの、命までは奪わず、しかし生存のために多大な援助を必要とし、かつ醜悪で人間の心にショックを植え込むものだ」
「それがあなたが研究していたものですね」
「そうだ。当時の俺はそれが使用されたらどうなるか、十分に知っていた。その上で研究を進めていた。まあ、結局実戦投入されなかったのは不幸中の幸いか」
「天使が攻めてきたのですね」
「そうだ。たった一人の天使。氷を操る冷たい目をした天使だった。文字通り研究所が凍結した。力は圧倒的だったが、残念ながらミスキャストだったな。B兵器は焼却すべきだった。凍結が不充分で一部が漏れ」
「あなたが感染した、という訳ですか」
「思えばそれも天使の計画のうちだったかもしれんな」
 くっくっくっく、と”ドクトル”は笑った。
「結局俺は同じように感染した奴らを自分の手で皆殺しにし、焼却した。凍結した研究所も俺が焼却した。後は俺自身を焼却すれば終わりだ……なあ」
「はい?」
「それで本当に、俺の罪は償われると思うか?」

4


 ぼふ、と神父はソファの上に横になる。その上にソフィアは毛布をかけた。
「でも神父様、”ドクトル”に何をおっしゃったんですか?”ドクトル”のあんな安らいだ寝顔を見たのは初めてです」
「告白の内容は守秘義務がありますので」
 苦笑して答える神父の言葉に、ソフィアも微笑んでおやすみなさい、と言って部屋を出ていった。
 それを確認すると、神父は起きあがる。場所は廃棄されたアパートメントの一室。部屋の中はついさっき寝っころがったソファと古びたテーブル以外何も見当たらない。水道もガスもないキッチンが寂しげに放置してある。ベランダに出てみる。夜の空気が冷たい。そのまま上空を見上げ……
「神父様?」
 不意にドアが開いてソフィアの声がする。神父は慌てて部屋に戻る。
「ベランダがどうかなされました?神父様」
「いや、誰かの呼び声が聞こえたような気がしたので……」
「電波ですか?」
「いや、そんなものではありませんよ。あはは……」
 苦笑する神父に、ソフィアは肩をすくめる。
「そういえば神父様は旅の途中と仰っていましたが、しばらくここに滞在されてはいかがですか?」
「ええ……それはまあ、明日この集落の人々を見てから決めますよ」
「そうですか。明日集落の人に紹介しますね。みんな良い人ばかりですから。”ドクトル”も友達ができて嬉しいでしょうし」
「友達、ですか?」
「ええ……ものすごく頭が良いし、本当にみんなのためを思って知恵を出してくれる人なんです。公平で、誠実で。ただ、病気とあの性格のせいで……」
「彼のこと、好きなのですね?」
「なっ。突然何をっ」
 赤くなって焦るソフィア。ばたばたと手を振る。
「別に困ることでもないでしょう。彼は良い人間です」
「いや、それはわかっていますが……ご覧になったでしょう?わたしたち、あまり仲良くないんです」
「人間は他者を完全に理解することはできません。仮にできたとしても、完全に理解されたいとも思わないでしょう。皮肉なことですが、仲良くすることは距離のとり方を覚えるということでもありますね」
「はあ……でも」
「なにか?」
「彼はわたしたちにも話さないことを、神父様には話したのですね」
「嫉妬ですか?もうおやすみなさい」
「はい……」

5


 深夜。一人の天使が敵影を求めてロスの街を低空飛行する。
「アルマロス、あまり軽々しく人目につくところを飛ぶなと言っているでしょう」
「現れたかシャルギエル!」
「せめてわたしのように人間に偽装するぐらいしなさい」
「人類を滅ぼさんとする貴様らに説教されるいわれはない!」
「せっかくこちらから出向いてやったのに、なんという言い草です……」
「ふん。今度こそ一刀のもとに切り伏せてくれる」
「まあ、お互いの存在が邪魔なのはお互い様ですしね」

「天使を見ただと?」
 ロス都心部。ロスに住む無法者たちの会合。
「ああ。複数の人間が確認している。街中を天使が飛んでいた。何かを探すように」
 ざわざわ、と場が騒がしくなる。
 先の天使戦争で、天使が人類の敵対者であること、人類側のあらゆる攻撃が天使に効かなかったことは証明されていた。
「……俺たちを探しているんだ」
 言葉は人づてに次々と伝わる。
「逃げるか?」
「動いたら、なおさら見つかっちまう」
「戦うか?」
「奴らには核兵器すら通じなかったんだぞ!」
「もう終わりだ」
「終わりだ、みんな死ぬんだぁ!」
 みな口々に叫ぶ。
「終わりだ」
「死だ」
「死ぬんだ」
 無法者の一人が走り出して、バイクに乗る。
「どうせ死ぬなら、やりたいことやってから死んでやる……」
 そのまま走り出す。
「そうだ……」
「どうせ……」
「どうせ死ぬなら……」

 大気中の水分が氷結して結晶となる。空気すら凍る凍気の中、アルマロスが剣を振るうと炎が氷を蒸発させる。そのまま間合いを詰めて、シャルギエルに斬りかかろうとする。シャルギエルは天高く飛んでそれをかわし、距離をとる。
「全くしつこい……いい加減終わりなさい」
 シャルギエルが手を振ると、大量の雹がアルマロスを襲う。アルマロスの炎が雹を蒸発させ、周囲は水蒸気に包まれる。
「何度やっても無駄だ……!」
 水蒸気に隠れてアルマロスの背後を取ったシャルギエルが、両手の氷柱でアルマロスを串刺しにする。
「無駄なのはあなたの方です」
 そのまま加速。高層ビルの壁に激突。アルマロスは氷柱によりビルの壁に磔にされる。
「全く……ん?あれは……」
 深夜にエンジン音が響き、明かりの消えた街にいくつかライトが光っている。そして人の悲鳴とも雄叫びともつかぬ叫び声。
「無法者たちですか……あれはソフィアたちの集落に向かっているのですか?やれやれ、確認しなくても何をしに行くのかは決まっていそうですね。始末するとしますか」
「……やめろ。人間を殺すな」
 アルマロスのかすれ声に、シャルギエルは冷笑する。
「殺すに決まっているでしょう。あなたは引っ込んでいなさい」
「やめろぉ!」
 アルマロスが叫ぶと、磔にしていた氷柱が一瞬で蒸発する。
「人間を殺すことは、俺が許さん」
「別にあなたに許可を得ようとは思いませんよ……ええいうっとおしい!」

6


 ”ドクトル”の家に数人の人間があわただしく入ってくる。全員緊張した面持ちで、手に銃を持っている。
「”ドクトル”、無法者たちが大挙して押し寄せてきた。今までとは比べ物にならないほどの勢いだ……どうする?」
 彼らは一斉に”ドクトル”を見る。”ドクトル”は集落の形成運営計画から日々の生産と消費、更には無法者たちからの防衛まで集落の人々に助言を与えていし、彼の意見に従っていれば大概のことはうまくいっていた。
「”ドクトル”……”ドクトル”?」
 返事はない。全身を包帯で包んだ”ドクトル”は静かに穏やかにソファの上で横になっている。
「”ドクトル”……起きてください”ドクトル”!」
 返事はない。
「まさか……」
 震える声。しかし、誰も”ドクトル”の身体に触って確かめようとはしなかった。
 かちり。ぼっ。っと音がすると、”ドクトル”の身体が発火する。
「……」
 人々の目の前で、”ドクトル”は焼却されていった。

 集落の方々に火の手が上がる。
 統制を失った集落側は、次々と暴徒たちの手にかかっていった。
 殺人のための殺人。暴行のための暴行。略奪のための略奪。
「被害と加害の関係は一方的に見えて、実は因果の輪の中にあると言っていいでしょう。被害の恐怖と不安に苛まれる者は、他者に危害を加えて加害の側に立つことによってかろうじてその恐怖と不安を忘れようとする。人間の救いがたい防衛本能のひとつです。この因果を断ち切る方法はただひとつ……ええい! 邪魔だと言っているのです!」
「貴様の思うようにはさせん」
 シャルギエルとアルマロスは空中戦を続けていた。アルマロスの火炎応力はシャルギエルの氷結能力を悉く無効化する。逆もまた然り。時間だけが過ぎていく。
 不意に、シャルギエルの感覚に映像が飛びこんでくる。一室に追い詰められたソフィア。彼女ににじり寄る男たち。無音の世界の中で、男たちが次々とソフィアに襲いかかっていく……
「いけない! 今たすけます!」
 シャルギエルはアルマロスに背を向けると、集落に向かって飛ぶ。
「俺に背を向けるか!」
 アルマロスが剣を振り上げた瞬間、
 時が凍りつく。
 シャルギエルの右手の氷剣が縦に、左手の氷剣が横に線を書いた。
「わたしにはなすべきことがあるのです。あなたの相手をしている余裕はありません」
 シャルギエルが集落に向かって飛んでいく。その背後で十字に切断されたアルマロスは四つの破片となってばらばらと落ちていった。

 血液は凍結すればその体積を増す。内部から血管を破裂させた死体が転がる。地を霜が覆い、大気が凍てつく。空を暗雲が覆い、はらはらと雪が降り出す。冷気は分子活動を鈍らせ、生命活動を低下させ、覚めることのない眠りに誘う。集落から騒音が消え、明かりが消える。氷に包まれ、動くもののなくなった街。
「……アルマロスのせいでずいぶんと手間暇がかかってしまいましたね。間に合うかどうか」
 シャルギエルは疲れきった様子で、ソフィアの元へと歩を進めた。

7


「ソフィア、生きていますか?」
 シャルギエルは衣服を引き千切られ、血にまみれてぐったりとしているソフィアをそっと抱き上げる。体温は低いが、死には至っていない。
「……神父様?」
「申し訳ありません」
 シャルギエルはソフィアを抱きかかえたまま、頭を垂れる。
「どうして謝るのですか?」
「心に恥じるところがあるからです。失態を犯したからです。罪を犯したからです」
「……変な神父様」
 ソフィアが微笑する。
「わたし……死ぬんですね。でも、最後に神父様に見取られて良かったです」
「申し訳ありません」
「どうして謝るのですか? 感謝しているのに」
「あなたの御霊は神の御許に至ることが、今しばらく許されないのです」
「なぜですか?」
「あなた様にはまだなすべきことがあるからです」
「……様?」
 身体を支える力も失っているソフィアは、シャルギエルによりかかりながら尋ねる。
 シャルギエルは答える代わりに歌を歌う。ソフィアの知らない言葉で、異国の歌を。
 その言葉を聞くうちに、温度を失ったソフィアの身体が温かみを取り戻していく。いや、むしろ熱い。身体の芯が炎になったような感覚に襲われる。いや、本当に燃えている。
 背中が痛い。激痛に悲鳴を上げながら、シャルギエルにしがみつく。そうすると、かすかに楽になった。燃えている身体に、シャルギエルの冷気が心地よい。
 背中が割れ、四枚の翼が現れる。身体を形作る炎もシャルギエルの冷気に押さえられ、人の形に落ち着き、元の身体に戻る。
「……これは?」
 呆然と立ち尽くすソフィアに、シャルギエルが跪く。
「エデンの園の統治者。智天使(ケルビム)の支配者。玉座の左の守護者。天使第二位のガブリエル様。雪天使シャルギエルが天使長の命によりお迎えに参りました」
「……え?」
「未だ記憶の混乱もあるでしょうが、わたしが天使長の元へとご案内いたします」
「待ってください……あなたは、わたしを連れ去るために街を滅ぼしたのですか?」
「いえ……それは手違いです。しかしガブリエル様がわたしを罰せられると言うのなら、大人しく従いましょう」
「それはずるいでしょう……でもなぜこの街が滅びなければいけなかったのか……説明してもらえますね?」
「記憶が戻れば説明の必要もないでしょう……この戦争の真の意義を。もう行きましょう。反逆天使に見つかれば、戦いになります」
 シャルギエルが先導してガブリエルを空に導いた。

 かくして二人の天使はロサンゼルスを離れた。
 シャルギエルの凍気は朝には溶け、後には街だけが残った。

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