ただ愛のみゆえに


7/21 21:36

「先輩っ。助けてくださいっ!」
 西都大学ミステリ研究会部長瀬川一佐(せがわ・かずさ)に、その後輩の萌黄和奈(もえぎ・かずな)が電話で泣き付いてきた。
 解剖実習が終わって帰ろうとしていた一佐は、携帯電話片手にため息をついた。和奈の「助けてください」ときたら、酔っ払って終電逃したとか、レポートの提出期限を忘れていたとか、英語の予習をやっていなかったとか、財布を落としたとか、とにかくろくなことがないのだ。
「今度はどうしたんだい?」
「と、とにかく、これから言う住所に来てください。大変なんです。助けてください」
 和奈の言葉は、まったく要領を得ない。
「何が言いたいんだね、君は」
「誘拐事件なんです! 助けてくださいぃ」
 

7/21 22:03

 指定された家は、郊外の一軒家だった。大きくも新しくもないが、落ち着きのある和式の平屋だ。木製の門の内側には、狭いながらも庭がある。外から立派な松の樹が見えたので期待していたが、内側の庭はあまり手入れされていなくて、一佐はがっかりした。
「先輩ぃ」
 一佐の姿を見つけた和奈が、涙声でしがみついてくる。眼も涙ぐんでおり、今にも泣きそうだ。
「どうしたんだい」
「誘拐なんです。雫ちゃんがあ」
「……誰?」
 さっぱり要領を得ない。和奈に案内されるままに、家の中に通される。すると居間に見知った顔がいた。
「藤倉彩美(ふじくら・あやみ)巡査部長。こんなところで何しているんですか」
「仕事だ。貴様こそどうした」
「いや、呼び出されたんだけど、呼び出した人間が要領得なくて……」
 見ると、周囲に何人か警察風の人間がいる。居間のテーブルの上には電話があり、何かごつい機械が取り付けられていた。電話の前には若い女性が座り込んでおり、その後ろに50歳ほどであろう男女がいる。
「先輩ぃ。雫ちゃんを助けてください」
「だからさ……落ち着いて、きちんと説明してよ」
 動転しながら、和奈が説明するには、この家には北村夫婦が住んでいるらしい。この二人は和奈の高校時代の同級生で、子どもが一人いる。その子どもの名前が雫(しずく)、というらしい。
「君と同級ということは、今年19歳? それで結婚して、子どもまでいるんだ……」
「先輩っ。そりゃあ昔色々ありましたけど、でも二人はきちんと愛し合って、両親の許可を得て結婚したんです。そんな言い方……ひどいです」
「あ……いや、そういうつもりじゃ」
 一佐は助けを求めるように彩美を見たが、彩美は無視した。
 とにかく、今日夕方18:30頃、夫の北村真一(きたむら・しんいち)が子どもの雫を連れて実家に遊びに行ったまま、消息を絶った。そして夜21:30頃にボイスチェンジャーで声を変えた脅迫電話が、この家にかかってくる。夫と娘を誘拐した。無事に帰して欲しくば、500万円現金で用意しろ。警察に連絡すれば、人質を殺す。一時間後にまた連絡するから、金を用意しておけ、と。
 

7/21 22:15

「500万、ねえ」
 一佐は説明するうちに泣き出してしまった和奈を抱きかかえて頭をなでてやりながら、彩美に視線を向ける。
「営利誘拐事件としては、額が一桁少ないね」
「そちらの、北村真一のご両親が近くで町工場を経営していてな。500万ぐらいはすぐに用意できた。恐らくは、そのあたりを十分調査しての犯行だろう」
「スピード勝負、ってわけ?」
「なんにせよ、人質に生後一歳に満たない子どもがいるのは厄介だな」
「誰にとっても、ね。彩美さん、犯人はオムツやミルクなどの必要な用品を手に入れる必要があるはずだ。この付近で、この時間でも空いているそれらを売っている店を押さえて」
「もう既にやっているが、不審者は発見できていない。誘拐現場と見られる、この家と実家との間の道でもな」
 一佐はうなづいた。その後和奈をそっと、部屋の隅に座らせる。
「あたし、時々遊びに来ていて……雫ちゃん、あんなに可愛かったのに……ひどい」
 泣き崩れる和奈を、一佐は懸命になだめる。
「とにかく、ここにいてもしょうがないだろう。君は家に帰ったほうがいい。家まで送るよ。これはもう、警察に任せておけばいい。日本では営利誘拐の成功率はほとんどゼロに近いんだ。大丈夫だ」
「嫌です。わたしにも何かできるかもしれないし」
「なにもないよ」
「それに、わたし聞こえるんです。雫ちゃんの泣き声が。ずっとずっと聞こえるんです。助けを求めてるんです、きっと」
 一佐は困ってしまう。和奈は時々このような電波なことを口走ることがあり、しかもそのときには決まって何か実際に起こっているのだ。もっとも今回は既に事件は起こってしまっているが。
 そして、こうなると和奈はてこでも動かない。一佐は和奈を家に返すことをあきらめた。
「一時間後に連絡ということは、後15分か……セオリーだと、金の確認と受け渡し方法の指定だな。とりあえず、お茶でも飲んで落ち着かないか? こういうのは、冷静なほうが勝つんだ」
「じゃあ、わたしが」
 一佐の言葉に、ソファから腰を上げかけた妻の茂美(しげみ)を、彩美が手で制する。
「奥さんは、電話の前に」
「じゃあ、わたしたちが」
 そう言って、茂美の後ろにいた男女が動いた。真一の両親だという。
 人数を確認して、炊事場に向かう。勝手知ったるなんとやらで、真一の両親は手早くやかんに水をいれてガスコンロにかけ、お茶の缶と急須を取り出す。
「お茶請けに、お漬物なかったかしら?」
 真一の母親の言葉に、一佐は冷蔵庫を空けてみる。中はごちゃごちゃとしており、よくわからない。色々な色のタッパを取り出しては、開けたり閉めたりしてみる。そのうちに奈良漬を発見した。
 しばらく、沈黙。
「どうして、こんなことになってしまったんだろうねえ」
 母親がぽつりとつぶやいた。答えるものはいない。
 やかんの沸く音が、沈黙を破った。
「若い人は、冷たいほうが好きかしら?」
「そうですね」
「氷とってください」
 言われて、一佐は冷凍庫を開いてのぞきこんだ。ちょっと変な臭いがするが、さっきと違って、きれいにすっきりしている。製氷皿を取り出し、氷をばりばりと取り出す。ふと、あることを思いついてもう一度冷蔵庫を開いてみる。冷凍庫がすいている理由がわかった。
「……頭悪い」
 冷蔵庫に、生肉や冷凍食品まで入れてある。
「あらあら」
 後ろで母親も呆れかえっている。
 とりあえず気になるので、一佐は生肉や冷凍食品を冷凍庫に詰め込むことにした。
 そのとき、電話が鳴る音が響いた。真一の両親は、その音を聞くなりはじかれたように居間に走る。
「……」
 一佐は、その場に立ち尽くしていた。冷凍庫の奥で、薄い栗色の髪の毛が数本張りついていたのを見つけたのだ。
 

7/21 22:30

「金は用意できたか」
 電話から、ボイスチェンジャーで変えられた声が響く。
「お金は準備できました。それで、夫と雫の声を聞かせ……」
「23:00にひとりで金を持って、春日公園までこい。警察に知らせれば、人質は殺す」
 茂美が引き伸ばす間もなく、電話は速攻で切れた。彩美は近くの警官に尋ねるが、否定的な返事が返ってくる。
「携帯電話のようです。逆探知はできませんでした」
「……春日公園、ね」
 警官たちがすばやく動き出す。
「待ってください。警察が動いたら、夫と雫の命が」
「あの手の営利誘拐犯は、人質の必要性のなくなった時点で殺します。先手を打たないと」
 茂美の言葉に、彩美は冷たく答えると、警察無線ですばやく連絡を取り合う。
「あの……ちょっと」
 ようやく戻ってきた一佐に、彩美はきつく言いつける。
「あなたはその子と一緒に、ここにいなさい」
 そのまま、警官たちはあわただしく動いていった。
 

7/21 23:00

「そろそろ、か。……雫ちゃん、大丈夫かな」
 和奈は座り込んだまま、つぶやいた。手の中にあるお茶には口をつけていない。一佐は落ち着きなく、あちこちうろうろしている。
「先輩も、落ち着きません?」
 庭をうろうろしていた一佐に、和奈が呼びかける。一佐はうなづいて、家の中に戻った。
「そういえば、萌黄はこの家にはよく来ていたのか?」
「まあ、時々来ていましたが。そういえば、旦那さんのご両親もよくこられていたようで」
 和奈の言葉に、真一の両親がうなづく。
「ええ、まあ。時間を作っては毎日のように来ていましたが」
 ふむ、と一佐は考え込む。
「奥さんのほうのご両親は?」
 真一の母親が、首を振る。
「さすがに高校卒業後すぐ結婚、すぐ出産という状況で、絶縁状態らしいです」
「ご両親がこの家にくるのは、夕方以降ですか?」
「ええ。昼間は仕事がありますから。それでも、さすがに二人とも若いので、子どものことも心配ですし」
「……」
 一佐は黙り込んだ。そのまま、しばらく沈黙。
 不意に、電話が鳴った。真一の父親が、慌てて取る。
「もしもし」
「警察に知らせたな。取引は終わりだ。人質は殺す」
 ボイスチェンジャーで変えられた声が宣告する。一佐はそっと受話器を奪い取った。
「おまえの正体も、事件の背景も全てわかった。自首したほうがいい。それから、死体遺棄は止めておけ。人の心があるならば」
 一佐の言葉に、電話の相手は息を飲み、しばらく沈黙した後に電話を切った。


続く
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