クリスの体中を痛みが走っている。  筋肉の筋をぐいぐい押しのけながら虫が全身を這い回っているみたいだ。  それが腰に全部集まって、一気に焼けた。 「ぐぉっ」  痛みで意識がむりやり現世に引き戻された。  クリスがゆっくり目を見開くと、赤い髪の少女が顔を覗き込んでいた。水晶みたいに澄んだ瞳を向け、しげしげと見つめてくる。  猫が猫じゃらしでも見つけたみたいに、だ。 「どうじゃ?」  記憶が繋がらない。  誰?  見たことがない娘だ。  少女は真っ赤な槍を持っている。  少女の背より、立てた槍のほうが長い。穂先はぴんと天井を向いている。  誰だっけこの娘。  思い出そうとしたら腰が痛んだ。 「うぐっ」  顔をしかめる。 「大丈夫か。無理をするでないぞ」  腰だけではない。ほかにも腕や肩や足首が痛み、熱を持っているのを感じる。  左腕を見ると肉が貼り付けてあった。って、肉っ? 「これ、何だ?」 「なんだ? そんなことも知らぬのか。熊の肉には打撲を治す効果があるのじゃ」  本当かよ。  疑いの目を向けてみるが、少女は平然としていた。  まぁ、それはさておき。 「えーと、何で俺はここに?」  クリスは辺りを見回した。  良く見るとここはテントの中らしい。中央に柱がでんと一本立っており、そこから梁が放射状に伸びている。  真ん丸い。  囲炉裏があって、そこで薪が燃えてテントの中を照らしている。  寝台に寝かされていたらしい。毛皮が敷いてある。クリスはそれを手のひらでなでた。  おもしろいものである。 「知らぬ。崖の下に落っこちていたから、拾ってきたまでじゃ」  俺は物扱いかよ。 「で。ポチや。なにがあったのか話してみよ」 「ぽち?」  クリスは鸚鵡返した。それは普通動物、犬の名前だ。 「動物を飼うときは、ちゃんと名前をつけてやれとオババは言っておったのじゃ」  少女は胸を張った。平らだ。  あんまり栄養分は足りてない模様だ。かすかなふくらみが、まぁ女の子なんだということをあらわしている。むしろ、引き締まった身体と言えるのかもしれない。のけぞった拍子に、火のように赤い髪がさらりと流れた。  一応念のため、自分の体を確かめてみる。  以前、朝に目が覚めたら犬になっていて鍋で煮られたという物語を聞いたことがある。  怪我しているけど人間だよな。犬じゃないよな、俺。  体をひねったときに腰が痛んだ。気になるが気にしている暇もない。  クリスは少女に聞いてみることにした。ほかに誰もいないし。 「念のため聞くが、お嬢ちゃんの目には俺が犬とか猫とかに見えているわけじゃないよな?」 「うむ、北斗の二連星もばっちり見えるぞ」  目はいいと主張しているらしい。 「何で動物扱いなんだよ」 「ほら、あれだ。奴隷扱いよりはかわええのぅ。そう思わんか」  娘は無垢な笑顔を見せた。  本気でそう思っているのかよ。心の中で悪態を付く。 「思わん。大体俺には、クリス、という名がちゃんとある」 「……かわいくない」  娘はむくれた。 「何じゃ、それ?」  人の名前に、かわええもかわいくないもないだろう。失礼な奴め。 「くりす、よりも、ぽち、のほうがかわええ」 「無茶苦茶言うなーっ」  クリスは腹のそこから叫んだ。  その拍子に、腰がずきんと痛む。 「あ、あいてててて」 「無理するでないぞ」  眠い。  手当てはされているものの、ダメージは抜けきってはないみたいだ。崖の上から落ちて打ち身になっている。  傷も塞がっているので治療術でもかけられたのだろう。  だからといって負傷と同時に抜けた魔力は戻ってこない。回復させるために体が眠りを欲している。無駄に抵抗しないで寝た。  夢の中でたゆっていると肉の匂いがした。  いい感じで焼きたてだ。 「んっ……メイリア?」  一つ年上の幼なじみの名を呼ぶ。  そうかもう朝ごはんか。彼女が作る食事はとても旨いんだ。 「なにを寝ぼけておる」  白い法衣を着た幼馴染の姿がまぶたに浮かんでいたが、眼を薄く開けるとそれは蜃気楼のようにかすれて赤毛の少女の姿になった。  ついでに胸も半額セールになった。  少女が半分呆れ顔だった。 「大丈夫か? 疲れておるのではないか?」  少女がクリスの額を指先でつんつんと突っついた。 「うう、たぶん大丈夫だ」  あんまり自信はないが。 「さぁ、ポチ。エサだぞ」 「エサ呼ばわりかよっ」  クリスは叫んだ。  すげー、やな予感がしてならない。  皿に生肉乗ってたらどうしよう、と思いびくびくしながらおきるとまともな食事だった。  ちゃんと火が通っている肉だ。  あとスープ。ぎとぎととした油が表面に浮き上がっていた。 「これは何だ?」 「肉じゃ」  少女は即答した。 「何の肉だ?」 「鹿じゃ。わらわが今日手に入れた二つの獲物のひとつなのじゃ」 「もうひとつは?」 「ポチじゃ」 「俺は獲物扱いかよ」  ちょっとランクダウン。  少女は笑ってクリスの頭をなでた。 「早く元気になってもらわないとな」  クリスは抵抗せずに小さい手でなでられていた。  そういえば。昔もこんな扱いだったな。 「なにをさせようというんだ」 「オババに聞いた話によると、南方のほうでは、なんでも狩りのときに犬を先導させて獲物を追いかけさせる、というではないか」 「俺は犬かよ。そんなに足は速くないぞ」 「うむ、まぁオトリぐらいにはなるだろう」  ちょっとその、オババとやらに一度会ってきつく文句を言いたいものだ。へんな知識を教えるんじゃない。と。 「そう不安そうな顔をするでない。大丈夫だ。ポチはちゃんと飼い主たるわらわが守ってやるから」  少女は薄い胸をぽんと手のひらで叩いた。 「うれしかねぇ」  クリスはぼやいた。  続けて、少女の名を呼ぼうとしてふと気が付いた。この娘の名前を知らないことに。 「そういやさ」 「なんじゃ?」 「名前、聞いてなかったな」 「ない」 「ないたん、と」 「……たん、というのは何じゃ」 「気にするな」 「気になるがまぁよい。『ナイ』という名前ではなく、名前は神に捧げたのじゃ。それが族長たるわらわの義務なのじゃ」 「ふむ、面白い風習だな」  クリスのいた、一般に中央と呼ばれる地域では兄妹神が信仰されている。兄が法の神で、妹が太陽の神である。これが世界における普遍的な宗教で、聖地フェニーラにある神殿が総括している。  フェニーラ神殿の影響下にない辺境では、土着の神が祭られてる。  きっとこう、名前を捨てることによって神の力(とされる魔力)を得る魔術儀式の一種なのだろう。  まぁそれはどうでもいいが、問題は名前がないと呼びづらいということである。 「じゃぁ、なんと呼べばいいんだ?」 「ご主人様」  きっぱり。胸を張ってきっとクリスを見下ろす目はさすが族長たんの貫禄、といったところである。 「勝手に付けるぞそういうこと言うと。とりあえずナイチチな」  ナイチチ(仮名)は槍の柄でクリスを殴った。 「ぐわっ」  痛い。 「ポチの言うナイチチなるものが何かはわらわはわからぬ、だが、とりあえずポチが非常に非常にひじょーに失礼なことを考えているというのは想像がつくぞ」 「うう。……じゃぁ、ガーネット」 「なんであるか? それは」 「宝石の名前だよ。赤い奴」 「なるほど。わらわはそのようなものには興味を持たぬのじゃ」 「……まぁ使わんよなここじゃ」  中央だと貴族どもはヒマなんで、女性陣は宝石とか布とか銀細工とかが大好き。もっともこれが例外って気もするが。 「つーわけで、異論がないならガーネットたんだ」 「好きに呼ぶがいい」 「じゃぁナイチチたん」  もう一度槍で殴られた。 「いてぇ」 「わらわが本気になったら、そなた今頃真っ二つで燃え尽きておるぞ」 「無抵抗の人間を斬らない良心を信じたいものです」 「へんな奴だな。ポチは」  ガーネットはあきれた顔でクリスを見つめた。  ガーネットの、ある種の献身的な看病によってクリスの体は癒えた。  生まれて初めてペットを飼ったらこんなもんかもしれない。 「ようやく元気になったのじゃな」  クリスの頭をぽんぽんと叩く。 「これでようやく散歩ができるな」  ガーネットはにっこり笑って皮の首輪(人間サイズ)を差し出してくれた。  ばっちり、ひも付きだ。 「とりあえず、オババなる人に文句言っていいか?」 「うわっ。よくぞオババが教えてくれたとわかったのじゃ」 「下手に引っ張られると、首がきゅっといい感じに絞まって死ぬんだが」 「大丈夫、死ぬことはわらわが許さん」  ガーネットは本気の顔でそう言った。  あんた死神かよ。死ぬなって言えばそれで済むのか。 「大体こんなもん誰が作ったんだか」 「メイアからもらった。ほれ、いつもポチがたべているえさを作ってくれている人だ。感謝するがよい」  メイアさんとやら、いったいこれ何に使ってたんですか。 「それに、だ。ここは族長のテントで立ち入り禁止でな」 「む? 初めて聞くが」 「聞かれてないからな。言ってはおらぬ。で、だ。入った奴は処刑、と決まっておる」 「斬られるのかっ。俺! なんでそんなところにわざわざ俺を入れたんだ?」 「喜べ。当然、ペットは例外じゃ」  ガーネットは勝ち誇って笑った。 「……せめてひもは危険だから勘弁してください」 「えー」  ガーネットは目を細めてクリスを睨んだ。 「えー、じゃねぇよ」  ひもは外したものの。自分の手で首輪をつけるとなんかやるせない気持ちになった。 「落ちるところまで落ちたもんだなぁ」 「崖から転落人生とか言うやつであるな。あまり気にするでない。もう手遅れじゃからな」 「うう」  クリスは肩を落とした。 「さぁ、わらわについてくるがよい」 「逃げようかなぁ……」 「ポチは猫か?」 「うにゃ?」  意味がわからず、クリスはボケつつ首をひねった。 「やかましい。犬は一度受けた恩は忘れないというが。ポチは犬以下であるか?」 「うぐっ。それもオババの入れ知恵か?」  さすがにそういわれるとちと弱い。 「さあ。ポチの頭で考えてみるがよい」  ガーネットは振り返らずにテントから出た。  当然、付いてくるものだといわんばかりだ。  まぁ、確かに看病してくれた恩ぐらい返さないといかんかな。とは思う。 「うう、生まれてこのかた、まさかペットになることがあるとは思わなかったよ」  クリスはぼやいて、おとなしく出入り口の布をくぐった。  テントの外は丸い広場になっていた。  毛皮でできた服に身を包み、手に手を武器を持った男たちがごちゃっと座っている。  円形の広場の周りにはテントが放射状に並んでいる。  結構でかいな。  久々に浴びた陽光は弱かった。フェニーラの真上から照りつける太陽とはまるで違った。  北に来たんだなといまさらながら思う。 「ポチ。これを持ってくるがよい」  ガーネットは視線で足元の木箱を指した。  釘で止められた頑丈な箱だ。中央では普通に使われている。  商人が箱に商品を入れて持ってきたんだろうか? 「ふむ、こっちも多少は中央と交流があるのか」 「なにをしておる?」  ガーネットがクリスを睨んでいる。 「へいへい」  クリスは木箱を抱えるとガーネットの後に続いた。  広場に集まった男たちがクリスをじろじろ見ている。  俺がいったい何をした。と叫びたいものではあるが。まぁ、おそらく異邦人が珍しいのであろう。 「ここに置くがよい」  指示通りにクリスが木箱を置いた。ガーネットはちょこんとその上に乗った。  ようやく、クリスと背が並ぶ。  ガーネットは、集まった男たちを箱の上から一瞥すると口を開いた。 「さて、皆のもの。今日は私の忠実なるペットをお披露目したいと思う」  ガーネットは脇のクリスをちらりと見る。 「我がペットは幸いにも言葉を操ることができる高い知能を持っている。さぁ、自ら我が同胞たちに挨拶することを許すぞ」  どこまで本気なんだろうかと思うが。  こんな小娘に男たちがちょこんと座って黙って聞いているところを見ると、ここでついうっかり。 『お嬢ちゃんおいたはいけませんぜ』  とか言って、手ですぱこんと頭に突っ込んでみたら、次の瞬間、男たちの剣とか槍とか斧で三十六分割ぐらいされそうな勢いである。 「えー。ポチです。皆様よろしくお願いします」  クリスはへこへこと頭を下げた。  野郎どもは無言でクリスを睨んでいる。 「……こういう洒落のわからん連中は苦手だ……」  クリスはぼやいた。  もしかして本気に動物に見られているのか? 俺。  一人の男が立ち上がった。  右ほほに傷のあるひげ面の男だ。 「族長に申し上げます」 「なんじゃ。言うてみろ。ガルフォード」 「はっ。その男は正直信用できません」  しなくていいからそのまま帰してほしいものだ…… 「理由を聞こう?」 「この、ノードアルスと小競り合いを続けているときに南方人ですと。信じろというほうが無理がありましょう」 「そうか。ならば却下である」  族長殿はあっさり言った。 「なぜですかっ」  ガルフォードと呼ばれた男の声がでかくなる。 「犬は一度受けた恩を忘れぬものじゃ」  ガルフォードは口をぱくぱくさせた。  論理飛びすぎてます。ガーネット。  男たち誰も突っ込めず広場はしーんと静まり返った。  鳥の声が聞こえる。 「な、納得がいきません」  ようやく、かろうじて搾り出すようにガルフォードが言った。 「まぁ、仕方ないな。だが私の許しなくポチに手を出すのは許さんぞ」 「御意」  そうは言ったものの。ガルフォードはクリスを睨み続けている。  やる気満々らしい。  ……とっとと逃げるか? 「今日の話は以上じゃ。じゃぁ、これより狩りを始める。準備をして集合。というわけで解散じゃ」  男たちが立ち上がってばらける。  ガルフォードはクリスたちのそばを通って、ガンを飛ばして去っていった。  クリスは視線を外した。  空は綺麗だ。  ガーネットはクリスの背中を叩いた。 「わらわのそばを離れるでないぞ。ポチはわらわがちゃんと守ってやるからのぅ」  そう言って笑う。 「さいですか」 「あ、ちゃんと木箱は片付けておくんじゃぞ。また使うからな」 「はいはい」  クリスはテントに戻った。 「はよ行くぞ」  ガーネットが垂れ幕から首を突っ込んで覗いている。 「ん。俺の持ってた剣とかあるか?」 「うむ、そこにあるぞよ」  ガーネットはテントに入ってきて机の上を指差した。  そこにぼろぼろになった服が置いてあった。その脇には鞘に入った剣が立てかけてある。 「持っててっていいか?」 「構わぬ。ペットの持ち物を奪うほどわらわは困窮してはおらぬ」 「いや、俺に武器もたせていいのか? ってことなんだが」 「何か問題があるのか?」  ガーネットは首をかしげた。 「……なければいいんだが」  信用されているのか、はたまたクリス程度には負けないと思っているのか。  いまいち判断が付かない。  クリスはベルトを手に、腰紐を外してかわりにベルトを身につけた。  白い包帯のような布を左手首にくるくる巻く。 「それは何じゃ? まじないか?」 「そんなもんだ」 「ふむ」  ガーネットは槍を置いてクリスの剣を手に取った。  抜いてみる。  刀身がなく、柄だけだ。 「折れたのか? なら代わりの剣をくれてやろう」 「いや、それでいい」  クリスは剣を受け取ると腰に帯びた。 「変な奴だな。それでは人は斬れぬぞ」 「人間を斬る気はないから問題あるまい」 「む? ……殴るのか?」 「は?」  いや、どこをどうやったら殴るなんて話が出てくるんだ? 「南方では、柄だけで相手を撲殺する新手の剣術でもあるというのか。理解不能だ」 「理解不能なのはガーネットたんの頭の中身だと思います先生」 「むー」  ガーネットは頬を膨らませた。  珍しく、年相応に見えた。 「まぁ、お守りみたいなものだ」 「ふむ。よくわからんがわかった」  解ってねぇだろう。お前。 「ところで、『たん』というのは何だ? 『ガーネットたん』とかポチはよく言うが」 「はい。私の出身地において美しい女性に対する尊称でありますわがご主人様」  しれっとしてすらすら答える。  ガーネットは黙ってじとーっとクリスを見る。 「何か?」 「なぜ急に早口になる」  ガーネットは不審げに目を細めた。 「わはははははははは。気のせいでございますよ」  ガーネットはあきれたように首を振った。 「しかしあれであるな。わらわにそんな口をきくのはポチぐらいじゃな」 「そうなのか?」 「うむ、族長だからな、あまり皆は近寄らぬのじゃ」 「こんなおもしろいキャラなのに……」 「やかましいのである。ポチのくせに。準備ができたらとっとと行くのである」  馬に乗って森の中を駆ける。  木々の根や石大地がでこぼこしていて走りにくい。  中央の舗装された街道とは大違いだ。  積み重なった落ち葉の上を馬はすいすいと蹴って進む。 「どうだ? 気持ちが良かろう!」  軽い声で隣を走るガーネットを振り向く暇もなく、クリスは手綱をきつくつかんでいた。  というか気を抜いたら馬ごと転んで下敷きだ。 『馬は乗りなれてないんだよぅ』  と叫び返したいところだが、馬の背に上下に激しくゆられているので口を開いたら舌を噛む。 「先に行くぞっ!」  ガーネットが前に出た。  白馬を軽快に操り、右手に槍を持って片手だけで手綱を操ってぐいぐい引き離していく。  目的忘れてないか? お前。  というか離されたら道わかんねぇんだけど。いやまじで。 「んんんっ!」  あわてて手綱を緩める。  馬の足が上がる。  同時に上下振動がひどくなる。尻が跳ね上げられて、再び落下しきる前にまた跳ね上げられる。  もう地面なんかみえねぇ。  ……無理。  ガーネットの小さな背中が緑のカーテンの最奥に消えた。クリスは追いかけるのをあきらめた。 「はふぅ。そのうち戻って……くるよな? というか戻ってきてごしゅじんさまぁ」  まぁこなかったら逃げてしまおう。飢えたくないし。  そのうち人か馬か見かけるか、少なくても音は聞こえるだろうとゆっくりと馬を進める。  栗毛の馬だ。族長から借りた。肉の締まった旨そうな馬だ。  馬がいなないた。  食うな、といっているわけでもあるまい。  頭にちりちりと焼けるかすかな痛みが走った。  捜査官時代に鍛え上げられた勘が危険を示している。  視界の左隅から、銀弧が走る。  クリスは鐙から足を抜いて右に転がり落ちた。  馬の悲鳴が葉を揺らす。  クリスは肩から落ちた。受身を取ってくるりと一回転。即座に体を起こす。  馬がふらりとして、倒れた。腹には矢が刺さって血が出ている。  毒か? 「だれだ……あぁっ」  誰何の声を上げる暇もなく次の矢が飛んでくる。横っ飛びして近くの樹を盾にする。  矢が二本突き刺さった。 「人の話ぐらい聞けよ」 「ふむ。やはりそれなりに訓練は積んでいるようだな」  奥から頬傷の男が出てきた。 「ガルフォード、だっけ?」  半身だけ樹からずらして様子を伺う。 「いかにも」  男は肯定した。 「貴様が密偵だろうが、ただの不幸な旅人だろうが、そんなことは知らぬ。知る気もない。村のためにここで死ね」 「直球ストレートな奴だな。そんなんじゃ長生きできんぞ」 「構わぬ」  ガルフォードは背中から剣を抜いた。  身長より長い刃を持つ大剣である。  常人では両手で抱え込むのがやっとなそれを、片手で振り回して正面に構えた。 「族長に害なす輩はここで滅ぶべし」 「俺怪我人で丸腰なんだけど、根っからの戦士がそーいうのっていいの?」 「その腰の剣は何だ?」 「飾りだってば」  ガルフォードは剣に力をこめた。 「女神よ力を」  刀身が一瞬で炎に包まれた。  燃え上がる大剣を肩にかつぐと、そのままクリスが隠れている樹ごと叩き切らんとばかりに横に振るった。 「戦士たる資格のないものはここで死ぬが良い」  クリスは後ろに飛んだ。  クリスの胴体の十倍以上の太さの樹があっさりと真っ二つに斬られた。  そして、次の瞬間に樹は一瞬で燃え上がる。  一呼吸かからず灰になって散らばった。 「派手やな〜」 「女神の加護を受けた俺の一撃をくらった奴は燃えて死ぬ」 「俺は萌えて死にたいよ」 「ならばこの一撃受けるがいい」 「断るっ! 俺には美人な嫁さんと仲良く隠居して昼はまったりと暮らすという野望があるんだ。だからまだ死ぬわけにはいかん」 「そうか、だが死ねっ!」 「夜はどうするんだと突っ込めよぅ。この筋肉脳みそ」  クリスは背中を向けてとっとと逃げ出した。 「待て。貴様は戦う気というものはないのか」  後ろから罵声を受ける。 「ないっ」  クリスは後ろも見ずに全力疾走。 「そんな重い鉄の塊持って追いつけると思ったら追いついてみろっ!」 「この根性なしがっ!」  とっとと無視。  ベルトの背中に当たる部分に手を伸ばす。  そこからロープを引き出す。洗濯用ロープが簡単に格納できる魔法のベルトだ。 「さて、馬をなんとか無力化しないと逃げ切れんよな」  するするとロープを手繰りながら辺りを見回す。  いいトラップポイントを探さねば。 「そこにするか」  クリスは樹と樹の間、ちょうど馬のひざの高さの辺りに一本のロープを張った。  それから枝の上にロープを投げる。降りてきた先端を持ち、手近な岩に十字に掛けてぎゅっと縛り外れないように重石にした。 「さて、何とかなるかなぁ」  クリスはロープを手繰った。するすると重石が持ち上がっていく。  時間をおかず、再び蹄の音が聞こえてきた。そのときにはクリスはすでに罠の設置を終えていた。  慣れというものは恐ろしい。捜査官として犯罪者を生きたまま捕まえる必要があった。そのための罠を仕掛ける時間はほとんどないときも多い。繰り返すうちに目をつぶってもできるぐらい習熟してしまった。  ロープを張った樹の間から、十歩ぐらい下がってガルフォードを待つ。  ここで無力化できないかぎり逃げれない。 「ようやく勝負する気になったか」  ガルフォードが馬上から声を掛けた。 「馬から下りて、正々堂々と一騎打ちしない?」 「貴様の口車には乗らん」  馬の腹を蹴って、疾走してくる。 「それにポチ、貴様のような奴が正々堂々などと抜かすなっ!」  クリスは肩の力を抜いて軽くひざを曲げて正対する。  左手で、腰の鞘を軽くなでる。  ガルフォードがロープの前に差し掛かる。 「このような小細工に頼る奴がっ」  手綱を引くのにあわせて、馬が飛び跳ねた。  足元のロープの上を綺麗に抜ける。乗馬の教科書みたいなさばきかただ。  だが、実はロープはそれ一本ではない。 「こんなものに気が付かぬと思ったかっ」  ガルフォードは肩から大剣を抜いてそのまま振り下ろす。  少し離して張られていたロープが、ちょうど飛び上がったガルフォードの胸に迫る。  それを剣で斬った。  ぴんと張り詰めたロープが左右に飛ぶ。  腐葉土の上に馬は着地した。 「うーん。二本しか見えなかったら俺の勝ちだと思う」  いきなり、ガルフォードの眼前の大地が盛り上がる。  それに合わせて、重石をがするすると落ちてくる。  ロープを複数のばして、それに水をかけて落ち葉を貼り付けている。  馬の目の前にいきなり壁が現れて視界を塞いだだ。止まりきれずに顔にひっつく。  ロープが切れると、連動してこの罠が発動するようにしてあった。 「ぬおっ」  馬が竿立ちになった。 「ふんっ」  背後に転がり落ちそうになったが、手綱につかまって何とかこらえる。  腕が筋肉で盛り上がる。  クリスは脇に回り込んだ。 「えいやー」  馬の制御に完全に気を取られる一瞬をねらって、容赦なく跳び蹴りを入れる。 「ぐごっ」  ガルフォードもさすがにこらえきれずに転がり落ちた。  一回転して背中から落ち葉の上に落ちる。 「はい、俺の勝ち」  背中を打って呼吸が狂っているガルフォードを、クリスは慣れた手つきで縛り上げた。  足までがっちり。  首から上しかもう動けません。 「き、貴様。この程度で勝ったと思うな」 「勝敗なんかどうでもいいと思うぞ。口はそのままにしておいてやるから助けでも呼ぶがいい」  クリスは笑って、背を向けた。 「この屈辱は忘れんぞー」  怒鳴り声が聞こえる。 「すまんな、痛い目にあわせて」  馬の縄を解き、ロープを回収して再びベルトに戻すとクリスは歩きはじめた。 「さて、ガーネットたんはどこまで行ったのかねぇ」  とりあえず自分の借りた馬のところまで戻った。  馬は寝ていた。動かないところを見ると麻痺かもしれないが。  矢を抜いてやる。  馬の治療はどうやればいいかわからんのでとりあえずほっといた。  しばらく待っていると、赤い槍を肩に担いだガーネットが戻ってきた。 「愚か者が。いくら待っても来ないではないか」 「追いつけませんよ、そんなの」 「む、どうしたという」  ガーネットは寝込んでいる馬を見つけて聞いてきた。 「流れ矢に当たった、のかねぇ」  とりあえず波立てるのも面倒なのでごまかす。 「むぅ。まぁよい。ようやく獲物を追い込んだのじゃ。ポチも付いてまいれ」 「って、動けそうにないぞこいつ」 「そのままにしておいてやれ。矢尻の傷なら眠り薬じゃ。じきに目を覚ます」 「じゃぁ、どうしろと」 「特別に乗せてやろう。我が後ろに座るがよい」 「二人乗り?」 「他のものを待たせておるのでな。早くするがよい」  反論不能っぽいのでとりあえず後ろに座った。 「でわ行くぞっ」  ガーネットは馬を走らせる。一気に飛ばす。 「早いぞ」 「黙っておれ。舌を噛むぞ」  容赦なくでこぼこしている森の中を駆ける。鐙もないのでぐらぐら揺すられ落っこちそうになる。  ずり落ちないようにガーネットに後ろから捕まる。  細くて抱きしめると折れてしまいそうだ。 「どこを触っておるっ!」 「んー。胴体? 腹のあたり?」  胴体にしては微妙に骨張っているような気もしなくもないが。 「愚か者め。無礼であろうっ」  槍で頭を殴られる。  真後ろに向かって器用な奴だ。  つーかこれ以上変なことされると本当に落ちるんだってば無茶言うなよ。  ぎゅぎゅーっと抱きつくと、態度の割に骨格はちっこいんだよな、確かに。と悟った。 「馬鹿者。手を離せといっておる」  微妙に泣いてないか? 何で?  森から抜けたら崖の下に付いた。 「ここか?」  馬の歩みがようやく遅くなる。 「ふぃー」 「いい加減に離せっ」  ひじがこめかみに飛んできた。 「ポチよ。せめてつかまるのは腰とかにするがよい」  いや腰だってば。まっ平らだったし。  そういえば微妙に硬かったような気が。見た目より腹筋強いのかな?  ガーネットたんが怒りにか顔を赤くしてクリスを睨んでいた。 「……もうよい」 「さいですか」 「ポチはやっぱり動物じゃな。このけだものがっ!」 「俺が何をしたって言うんだよ」  ガーネットはぷいっと前を向いた。  周囲には森から出たところに騎乗した男たちが並んでいた。  彼らの視線の置くには鹿がいた。 「あれ?」  クリスは目をこすった。  微妙に遠近感が合わない。 「なんかでかくないか?」 「あんなものじゃ。この森を守る精霊のようなものじゃからな」  いまなんつった? 「年に一度、ガモーウェルドの肉を食べて森と大地の力を得るのじゃが、今年は少々足りなくなってな」 「なんかしたのかよ」 「うむ、どっかの崖から落ちたポチにくれてやってな」 「……そーだったのか」  鹿なんてくったことないからあんなもんとばかり思っていた。 「貸しを作ったとは思わん。ペットを大切にするのは飼い主の務めじゃからな」 「売る気満々の口調やな」 「まぁそれはよい。というわけでもういちどあやつを狩るのを手伝うがよい」 「何で俺まで」 「掟であやつを狩るのは族長ただ一人、と決まっておる」 「じゃぁ、がんばれ」  馬から降りようとしたらあっさりつかまった。 「馬はありじゃ。たぶんペットもありじゃ。というわけで手伝え」  ガーネットは赤槍を高く掲げると男たちに宣言した。 「見るがよい。わらわが森の精霊たるガモーウェルドからその血と肉を頂くところを!」  男たちから歓声が上がった。 「……ついていけんノリだ」 「行くぞっ!」  ガーネットは馬を走らせた。  ぐんぐん鹿が近くなる。  それはでかかった。馬に乗ったクリスやガーネットよりも、まだ頭が上にある。  ガモーウェルドはゆったりと草を食んでいたが、それをやめ、ガーネットにでかい角を向けた。 「質問その一。こんな奴に勝てるんか?」 「がんばった」  ガーネットは即答した。  あんまり答えになってないような気がする。 「この程度の試練に耐えられぬようでは族長たる資格はないとされている」 「じゃぁ、以前にもだめだった族長が?」 「そのような話は聞いたことないが、単になかったことにされているだけかも知れぬのぅ」  ガーネットは右手で槍を構え、左手で手綱を持つ。 「あやつは強い。落ちるなよ……特別にわらわにつかまっても構わぬ」 「わかった。ちゃんと腰につかまる」 「腰だぞ、間違えるでないぞ……わらわが守るから安心しているがよい」 「えーと、質問その二、だ。俺はなにをすればよい?」 「見ておれ」 「だから、仕事」 「わらわの後ろで、ただ見ておるだけでいい。ポチはわらわのペットじゃ。ペットというものはそういうものじゃ」  単に見せたかった。と解釈するのは好意的すぎるんだろうかやっぱり。 「行くぞよ」  馬が走り出し一気に加速する。  クリスはしがみつく。 「だ、だからそこではないと言うておるのにっ」  ガーネットが悲鳴を上げているうちに、全速力になった。  ガモーウェルドは逃げない。奴もこっちに走ってきた。 「女神の一撃、受けるがよい」  ガーネットの叫びとともに、穂先が炎に包まれた。 「ここの面々は全員火を使うのかよっ」 「そうじゃ。なんていっても我が女神は火の神であるからな」  炎の槍と、枝分かれしたぶっとい角が交錯。  火の粉が舞う。光が散る。 「……硬い角だ。いかれてる」 「精霊だからそんなものなのだ」  その体がすでに魔法みたいなものだから、魔力による攻撃にも耐えられるらしい。  ガーネットはすばやく馬を転回させる。  そしてもう一度、ガモーウェルドとぶつかりある。  槍はリーチがあるが、角に引っかかって鹿の頭まで届かない。むしろ鹿が角で引っ掛けるように頭を跳ね上げてガードしている。 「さすがじゃな。やりおるの」 「う、来るぞっ」  ガモーウェルドが突っ込んできた。  ガーネットたちの左側面からきた。そっちは槍と反対側で守りにくい。ガーネットは左に槍を差し入れて止めるが、押される。  乗ってる馬は駿馬だろうがただの馬だ。  衝撃でぐらりと揺れる。  ガモーウェルドはターンしてもう一度突っ込んでくる。 「あわてるな。ポチはそこにいるがよい」  ガーネットは馬から飛び降りた。  跳躍の勢いをそのままに火槍を振り下ろす。  ガモーウェルドの動きが止まる。  巨大な曲がりくねった角と、炎を吹き上げる槍が互いに押し合って力がつりあっている。  クリスは手綱を引いて、馬の背をずりずり動いてバランスを取る。鐙がないので制御しにくいったらありゃしない。  紐が短いので、ひざが曲がって窮屈だが。 「ガーネットっ」  クリスは馬を回して少女の下に寄る。 「来るな! そこで見ておれ。わらわは大丈夫じゃ」  ガモーウェルドは角を下に突っ込み、そのまま上へと跳ね上げた。  ガーネットの小さな体がぽーんと吹っ飛んだ。  攻撃力は対等だとしても、質量と元の筋力が違いすぎる。  ガーネットは野草の上に落っこちた。 「この程度で、わらわを倒せると思うなよ」  起き上がったがふらついている。  止めとばかりにガモーウェルドが突っ込んでくる。加速をつけて全身をバネのようにしてガーネットに向かう。 「来るがよい」  ガーネットは血が出ている口元をゆがめて笑った。  もう見てられん。  クリスは馬から飛び降りると腰から剣を抜いた。  刀身はなく柄だけのを前に構える。 「馬鹿者、下がっておれ」 「一度だけ止めるから一撃で決めてくれよ……さすがに二回は死ぬ」  ガモーウェルドが来た。  衝撃がずん、と馬車で跳ねられたぐらいに一気に来る。  刃がない剣の、刀身に相当する部分が淡く光っている。  そこに剣があるかのように、ガモーウェルドの角はクリスの眼前で止まっていた。 「頼みますぜ」 「余計なことを」  ガーネットが飛んで槍を一閃した。胴体がずるりとずれてあっさりと両断された。  割とあっけない結末だった。  男たちの喝采の声が聞こえる。  なんかこう腹が立った。お前ら手伝え。こんな小娘一人で戦わせて何も思わないのかと。  まぁ異邦人が言っても仕方がないことか。クリスは柄を鞘に戻した。  ガーネットの槍が炎を失う。振り向いたガーネットは頬を膨らませていた。 「礼ぐらいは言ってやる。感謝するがよい」 「……感謝するのは俺かよ」 「うむ、ポチの助けがなくても何とでもなった」  ガーネットは馬へと目を向けた。 「さて、帰るぞポチ」 「へいへい」  帰ったら宴会だった。  ガモーウェルドを広場の中央で丸焼きにしている。  でかい。  男も女も子供も集まって火を囲んでいる状態だ。  クリスは当然のごとくガーネットの隣に座らされていた。  女たちが酒を配り、当然のごとく族長の前にも置かれた。  ガーネットが手を伸ばす前にクリスが奪い取った。 「没収」 「何でじゃっ。ポチのくせに」 「子供が酒飲んじゃいけません。体に悪い」 「何を言う。わらわは女神の加護を受けているのだから酔わないのだ。問題ないのじゃ」 「酔わないなら飲む意味なかろう」 「酒の一杯や二杯飲めてこその族長なのじゃ」 「……本当に大丈夫なんだな」 「当然なのじゃ。飼い主に間違いはないのじゃ」  そう告げてごくごく飲んだ。  お肉が焼きあがったころ、クリスのひざに頭を乗っけて、ガーネットが横になりとろんとした目で星を見上げていた。 「……信じた俺が馬鹿だった」 「何を言う、わらわはよっとないぞ」  もうだめぽい。  すぐ脇には半分飲みかけの酒の入った器がある。 「一杯すらもたねぇのかよ……」  一人の男が来て、ガーネットをゆすった。 「族長。族長殿おきてくだされ」 「うー、もう食べられないよう」 「……べただ」 「……族長、客人がいらしまして。南の商人が例のように」 「ん? とりあえず任せた」  ころんと寝返りをうって男に背を向けてしまった。  すがりつくような視線をクリスに向けてきたがどうしろと。 「どうしましょう」 「俺に聞くなよ。ただのペットだぞ」 「そーですよね。じゃぁとりあえずお通ししておきますね」  そう言って去っていった。ペットの部分は否定してほしかったんだが。  俺は気になって近くの女性に聞いてみた。 「なんで、飲めないのに酒なんか置いたんだ?」 「飲ませないと暴れるんですよ。素面なのに」  そりゃ困るというか人としてなんかダメだろう。 「最近はポチどののおかげでおとなしくしておりまして。実は一同、陰ながら感謝しているのですよ」 「感謝しているならポチと呼ばないでほしいのだが」 「あら。だって私たちはポチどののお名前を存じ上げないのですわよ」  女はからからと笑った。 「族長の父上……先代ですが、族長が幼い頃にドラゴンに殺されてしまいましてひとりなのです。ポチさまを父親のように思っているのかもしれませんね」  ここでは父親に首輪を付けるのが流儀なんだろうか?  しばらくして、懐かしい服装の男たちがやってきた。  布製の服を着た男たちだ。さっき行っていた商人たちなんだろう。 「お久しぶりでございます。本日もいろいろと持ってまいりましたので……あっ!」 「あ?」  男はクリスの顔を見て奇声を上げた。 「俺が何か?」  クリスのひざではガーネットが一心不乱に寝ている。 「あ、いえ。何でもありません……族長はどうかされたのですか?」 「本日いろいろとあって疲れているみたいだ。……起こすか?」 「いえ、それには及びません。では後ほど改めて挨拶いたします」  男たちは逃げるように戻っていった。 「……失礼なやつらだなぁ」  彼らに見覚えはない。  出身がこっちだからといって、顔がそんなに広く知られているわけでもないはずだが。 「へんなの」  こっそりつけてみようにも、クリスの膝で族長がぐっすり寝ている。 「ま、気にしてもしょうがないか」  数日後、ノードアルス北端のアインツヴァイの町に商人たちが帰ってきた。  彼らは着替えもせずあわてて神殿に向かった。  神殿の前には立て札があった。 『このものを見つけたら神殿方メイリアまで 捜査局』  そう書いてある上には北の森でポチと呼ばれている男の顔が在った。  クリス。名前までばっちり。  男たちが神殿に駆け込むと、法衣を身にまとった女性が祭壇の前で祈りを捧げていた。  聖女のみに着ることが許されている純白の法衣だ。 「す、すみません聖女様。私は大変なものを見つけてしまったのです」  聖女はゆっくりと振り返り、商人たちに微笑を見せた。  金色の髪がふわーっと広がる。 「ごきげんよう。そんな騒々しいことではいけません。神様の前ですよ。もっと落ち着きなさい。誰も逃げたりはしませんわ」 「で、ですが。見てしまったのです」 「なにをですか」 「あの手配書の男です。捜査官殺しで全世界に手配されている」 「なんですってっ!!」  いままでのまったり具合はどこ行った? という感じでいきなり聖女様は叫んだ。  そして、拳を手のひらに打ち付けてにっこり笑った。慈愛ってより修羅という感じだが。 「ようやく見つけたわ手がかりを……必ず捕まえてフェニーラまでふんじばって連れ帰るんだから」 「あ、あの……」 「よくやったわ。さあ、案内なさい。今すぐっ」 「あの、疲れたんで、できれば一晩やすませていただきたいのですが」 「ダメよ。また逃げるから。あの子は」  商人は顔を見合わせてため息をついた。 「見てなさいよ。もう二度と逃がさないんだから」  クリスは川で洗濯をしていた。  水は澄んでいるが、長く手を突っ込んでいると冷たいを通り越して痛くなってくる。  寒くなってきた。 「くっ。石鹸ないと落ちないんだよ……」  愚痴りながらかわのなかでごしごしごしごしこすっていると、なんか騒がしい。  金属音まで聞こえる。 「なんか尋常じゃないなぁ」  そういいながら再び手を動かす。 「事件が起こったからって駆けつけなくてよくなったのは、それはそれで幸せなのかね?」  首輪がかちゃりと音を立てた。 「これ、ポチや」  主たる族長ガーネットたん、が近寄ってきた。  例によって槍を持っている。 「はいはい。もうすぐ洗濯は終わりますからね」 「そうではない。この騒ぎが聞こえぬか?」 「そりゃもうばっちり」  親指を立てる。  そして洗濯に戻ったら槍の柄で殴られた。 「ぐおっ」 「様子を見に行くから付いてまいれ」  そう告げると赤い髪を揺らしながら一人先に行ってしまった。  しょうがないので洗濯途中の布を桶に戻して川岸に置いておく。  小走りに追いかける。 「遅いぞ」 「はいはい」  テントのあいだを抜けて南側に出ると、そこが騒ぎの中心だった。  白い法衣を着た女性が、素手で武器を持った男たちをぶちのめしていた。  踏み込みが早く、一瞬で距離を消してしまっている。  拳が届く距離ならあとは先に当てたほうの勝ち。剣を振り回すより拳のほうが早い。  あれからさらに技量を上げたらしい。  金の髪に白い法衣。ついでに格闘までする変わり者、といえばこの世界に一人だけだ。 「……なんでメイリアがこんなとこまで」  そこにいるのはクリスの幼馴染で婚約者だった。  ぼやいて、見つかるとやばいということにいまさらながら気が付いて隠れようとしたら襟をつかまれた。 「待つがよい。そこで見ておれ」 「い、いや。……洗濯しないと」 「わらわと洗濯、どっちが大切だっ!」 「も、もちろん決まっている」 「そうであろう、そうであろう」  ガーネットは頷いた。 「もちろん洗た、あうっ」  殴られた。 「そこでお座りしてみておるがよい。命令じゃぞ」  そういうとガーネットは小走りに騒ぎのど真ん中に入っていった。 「うう……隠れてよ」  とりあえずクリスはテントの陰に隠れて様子を見る。 「これ、そこの女。いきなりずいぶんな挨拶じゃの」 「誰? お嬢ちゃん。危ないから下がってなさい」 「わらわがこの村で一番強い。話があるなら聞こうか?」 「そう。あなたが“炎の娘”ってわけね。話はひとつよ。ここにクリス、という男がいるはずよ。とっとと連れてきなさい」 「そういう男は知らんがな。犬を一匹拾ったぐらいでな。ところで、そいつが何かしたというのか?」 「反逆罪よ。王を殺そうとした一味、ってことになってるわ」  遠巻きに囲んでいた男たちがざわめいた。 「そうか。じゃぁそのような男はいないし、いたとしても渡す義理はないし、そもそも貴様らの王が殺されてもこちらには関係がないことではないか」 「そう。そういう返事なのね。じゃぁ、正義の名において全員ぶちのめしてから聞くことにするわ」  メイリア、最近すさんじまったらしい。一応聖女だろう。お前。  ガーネットが火槍を構えた。  メイリアは正対したまま動かない。クリスたちが習った格闘技に構えは存在しない。普段の状態からでも反応して対処するために基本的に構えは取らない。 「来なさい」 「女神の一撃、受けるがよい」  ガーネットの槍が炎に包まれた。  槍を突く。  メイリアは下がって避けた。  素手と槍。リーチの差が槍一本分。素手では普通間合いに入ることすら許されない。達人級の域まで魔力を集中させた拳でないと魔力を帯びた武器になんか対応できない。斬られる。  問題は聖女の魔力は桁外れってことだが。  メイリアは槍を避け続けている。とはいっても間合いをはずしてくるくる回りながら下がっているだけだ。 「聖女とやらは口ばかりかえ?」 「その程度で思い上がってはいけませんよ?」  メイリアは拳で燃え上がる穂先を横に打ち抜いた。 「なっ!」  普通の人間なら触れただけで黒焦げになる火力である。  槍がぶれる。開いた空間にメイリアは飛び込んだ。  だがまだ遠い。 「舐めるなっ」  ガーネットは槍に力をこめて、横なぎにした。  側面から当たっても燃え尽きることには変わりない。  メイリアの背に光が走った。  それは広がり、白い双翼になった。翼は聖女を守るように広がり、槍にぶつかった。  羽が槍に削られていく。光でできたものでありながら炎に包まれ、消えていく。  止められたのはただの一瞬。聖女の翼であっても、異教とはいえ神の加護を受けた魔術儀式を完全に打ち消すことはできない。  しかし、一瞬あれば十分。  メイリアはありったけの魔力を拳にこめてガーネットの顔を打ち抜いた。  ガーネットの体が宙に舞った。それも一瞬のことですぐに地面に叩きつけられる。 「ガーネットっ!」  クリスはついふらふらとテントの陰から出てしまった。  その声を聞いて、メイリアが振り返った。 「クリスっ」  一瞬で間合いをつめるその足でクリスの眼前に近寄り。 「わー。生きてたんだよかったぁ」  抱きついた。  クリスはついくせで抱き返そうとして、指先にざらざらしたものを感じた。  右脇腹の法衣がこげて穴が開いている。傷口も火傷になっているが白く光っている。治癒魔法が自動発動しているようだ。 「痛くないのか?」 「うん、大丈夫……心配したんだよ。馬鹿ぁ。一度ぐらい顔見せろ」 「すまない」  さすがにメイリア巻きこむ気もなかったし、反逆罪で手配されているのにフェニーラに一度戻るわけにも行かず逃げていたのだった。 「で、さっきの娘、誰?」  急に声のトーンが冷たくなる。 「それに私いたのに隠れてたよね。それなのにあの娘ぶん殴ったとたん出てきて」 「え? ええっ」 「返答しだいでは聖地に連れ帰る前にここで殉教してもらうけど」 「それ殉教と違うと思う」 「こらーっ。ポチから離れろっ!」  ガーネットが上体を起こして叫んだ。  よくあのパンチ食らって意識が飛んでないものである。俺は昔ダメだった。  カウンターで槍が一応入っていたのでその分打ち抜ききれなかったのかもしれない。  メイリアの性格から言って「子供だから手加減した」ということはあるまい。 「ポチ?」  メイリアは冷たい視線をクリスに向ける。 「いや、そのなんかそういうことに」 「この首輪どうしたのかしら」  ぐいぐい引っ張られる。痛い。 「いたたたた」 「ポチはわらわが拾ったからわらわの物じゃ。返せ」 「いや。私のよ」  即答かよ。というか物か俺は。 「これは私の婚約者なんだから」 「だめである。夜、ポチを抱いて寝ると、あったかくて気持ちでいいのである。返すのじゃ」  広場の空気が一瞬で冬になった。  俺帰りたい。帰るとこないけど。一応腹筋締めておこう。んっ 「この性犯罪者がっ」  予想通りばっちりメイリアの拳がみぞおちにクリーンヒット。  意識は飛ばずに済んだが。呼吸が、ぐふっ。咳もでねぇ。  クリスが悶絶しているのをほっといて、メイリアはガーネットに向き直った。 「さて。まだやる気?」 「同じ手は二度と食らわないのじゃ」  ガーネットは再び火槍を構えて突っ込んできた。  二人の戦いは正面からのどつき合いになった。  ガーネットは槍を振るい、光翼ごと叩き斬らんとする。  メイリアは光翼で防ぎ、それを切り裂いてきたのを拳で止めた。  白い光と赤い炎がぶつかり合う。  二人は一歩も譲らない。今度はメイリアもうかつに懐に飛び込めず。払うのがやっとだ。  クリスは腹をさすりながらずりずりと歩いた。  こいつらどっちか死ぬまでやめそうにないな。  手近なテントにこっそり入ると、床に敷いていた大きな毛布を引っ張って持ち出した。  家族全員が座れるほど広い。  真っ向からどつき合っている二人に近寄ると、ぽいっと捕縛用の網をかける要領で二人まとめて布をかぶせた。 「うのっ」 「きゃっ」 「みんな手伝って。押さえつけて」  そういうなりクリスは盛り上がってもぞもぞ動いているところに飛び乗り押さえつけた。 「ど、どっちを抑えるんですか?」  男の一人が聞いてきた。 「まぁじきにわかる」  毛布がずばっと切れ、そっから族長が顔を出した。  泥が鼻先についている。 「愚か者め。一瞬布ごと焼いてやろうかと思ったぞ」  つまり、残った、クリスの下で布をかぶせられてもごもごしているのがメイリアである。 「さーて簀巻き簀巻き」  クリスはメイリアを布ごとくるくる巻いて、その上にロープをかけた。 「少々不本意ではあるが。ペットの勝ちはわらわの勝利じゃ」  なかなか豪快な論理構成でガーネットは薄い胸を張った。 「動くなよ。下手すると切れる」  クリスは短剣で毛布を切り裂いて、メイリアの顔を露出させた。 「くっ。卑怯な。一対一だと思ってたのにぃ」  メイリアは顔をゆがめてクリスを恨みがましく睨んだ。 「すまない。止める方法がほかになかったんだ」 「……さっきのパンチ絶対恨んでるでしょう」 「なんのことやら」 「そう。魂までそのつるぺた女に売っちゃったのね。こんな手まで使って」 「誰がつるぺたじゃ。わらわにはまだ未来がいっぱいあるのだ」 「多少の恩があるだけだ。ちょっと死に掛けてな」 「じゃぁ、あなたは別に、この蛮族と手を組んでノードアルスに攻め込もう、とか考えているわけじゃないのね?」 「俺、そこまで信用されてないのか……」 「しょうがないじゃない。わざわざきな臭いところにいるあんたのせいよ。だいたい、なんでこんなド辺境にいるのよっ!」 「中央だと追われるんだよ!」 「ねぇ、私といっしょにフェニーラまで来ない? 私がちゃんと『クリスには反乱の意志はまったくありません』って巫女姫様を必ず説得してあげるから」  巫女とはフェニーラ神殿の最高位の神官を指す。フェニーラの国家元首で事実上の世界の王である。  神に変わって地上を統べ法を定める役割を持っている。ということになっている。一般に中央と呼ばれる文明化された地域で一番偉いのは間違いない。 「よくそんなみっともない格好で言えるのであるな」  ガーネットが簀巻きメイリアを見下ろした。 「うるさいつるぺた」  ガーネットは槍の柄でクリスを殴った。 「何で俺を……」 「うるさいのだ」 「……中央に帰る気はないし、これ以上俺にかまうな」 「……そんなにその娘のほうがいいの?」 「いや、そんなこと一言も言った覚えはねぇよ」 「ふっ。ポチはわらわの元で暮らすのが一番幸せなのじゃ」 「って煽らんでくださいよ。メイリアも俺なんかとっとと忘れて結婚しろよ。嫁き遅れるぞ。捜査官なんてやってるとなかなか結婚で気ないんだから」 「そう。よくわかったわ。あんたを信じてた私が馬鹿だったってことがね」 「な? なんか勘違いしてないか?」 「覚えてなさいっ」  メイリアの叫びとともに、簀巻きの毛布を貫通して光翼が現れた。  羽ばたきひとつして飛び上がる。 「次は軍隊でもつれてきて無理矢理フェニーラまで送還してやるんだからっ」 「まてこら、これ以上俺にかまうなと」 「クリスの馬鹿ーっ」  メイリアは叫びながら飛んでいった。蝶みたいに。 「うー。なんか虫みたいじゃな」 「羽の生えた芋虫……」  あんまり形容がきれいじゃない二人がいた。 「ポチや、お前昔なにしでかしたんだ? な」  ガーネットはクリスの脇腹をつんつん突っついた。 「さぁ、わらわのもとに来ることを許すぞよ」  日も暮れて寝る時間だ。ガーネットが寝所の上で告げた。  テントの中は二人しかいない。明かりになるのはかまどにくべた薪だけ。  本来なら煮炊き用ではあるがここでは使わない。隣のテントに住んでいる女性から二人分もらっている。  ガーネットは料理できないのだ。 「へいへい」  クリスはやる気なさそうにガーネットの隣にころんとねっころがった。 「腕」  クリスが右腕を差し出すとガーネットはその上に頭を乗っけた。  ここ数日こんなんだ。  族長のテントには寝所は一箇所しかない。  離れて寝る、と宣言はしたものの結局飼い主に押し切られる形になってしまった。  娘と添い寝する父親はこんな気分なのかもしれない。  ガーネットは割とかわいいと言える。だが、まだまだ幼いのでべつに意識することもない。女性である以前に子供なのだ。 「ポチはタバコなるものをたしなむか?」 「いや、煙いし……やめなさい体に悪い」 「むぅ、それは毒なのか?」 「タバコやめたら倍以上走れるようになったという話は聞いたことがある」 「そうか。オババの話では男がベッドでタバコをすって遠くを見るようになったら良くない。ということじゃからの」  そのうちオババとやらに説教したいと強く思うクリスだった。ところでオババって誰?  いまだにわからん。 「あまり気にするな。そういうのは大人になってから考えなさい」 「子供扱いするでない」  いや子供だし。胸とか。 「また失礼なこと考えてるな。まぁよい。わらわは状況が許せばもう結婚できるのじゃ。 「……そんな犯罪な!」 「よくわからんが。わらわより強い男が現れたときにはその男と結婚することになっておるのだ。もっとも、女神から力をうけたわらわより強い男がいるとは思えんが」 「メイリアとか強かったよなぁ」 「あれで男だったら三色昼寝つきでお招きしたいものじゃ。もっともわらわのほうが強いのじゃがな」 「じゃぁ、一生結婚できんな」 「十五になったときに、氏族で一番強い男と結婚することになっておる。次の族長を産むためにな」  強すぎて子供が作れなかったら本末転倒だから、とりあえず妥協して最強の男と子供作っておきましょう。という話らしい。 「というわけで旦那が決まったらポチは地面な。テントの隅でじっと見ているが良い」 「はいはい」  とりあえず流しておく。  そもそも、旦那となにをするかわかってんのかと思わなくもない。特に胸のあたり見るとたぶんわかってねぇだろう。でも、突っ込んだら確実に聞き返される。  やっぱり流そう。 「どうした? ……最近、よくぼんやりしておるの?」 「そうか?」 「ペットの健康状態を見るのも大変なのじゃ。……あの白いぼよんの女のせいか?」  白い法衣仕様のメイリア、らしい。  あいつ胸でっかいからな。 「いや、そんなことはない」  と思う。  ただ、これからどうしたものかと考えることはある。特にこれから行くところもない。  でも、クリスがここにいることによって別の捜査官が来て、戦いになってお互いに怪我人や死人が出たら。  そろそろここを去るべきなのかもしれない。 「これ」  ガーネットはつん、とクリスの頬を指先で突く。 「ポチはわらわのことだけを見ておればよいのじゃ」 「へいへい」 「……なにか思うことでもあるのかの?」  ガーネットが、クリスの腕に頭を預けたまま心配そうに顔を見る。  腕の重みがなんか心地よい。 「何かあるのならわらわに言うてみよ。なにか助言をくれてやれるかもしれない。そうでなくても気休めぐらいにはなろう」  彼女はそういうが、言ってどうにかなることではない。  クリスは笑って首を振った。 「そうか。別に遠慮せずによいぞ。わらわはペットには甘いからな。それに」  ガーネットの顔に、彼女の真っ赤な前髪がかかっている、それを左手で軽く避けてやる。  族長は黙ってされるがままになっていた。 「ポチには恩があるからな」 「ポチっ」  空が青い。南の空には太陽が昇っている。  ずいぶんと低い。 「ぽーちっ」  川の流れはゆったりとしている。向こう岸の森から白い鳥が三羽、宙に飛び上がった。 「聞こえておるか愚か者っ」  頭を殴られた。 「いてっ……ガーネットたんか」  振り向くと族長が頬を膨らませていた。 「さっきから呼んでおる。首輪に紐を付けるぞ」 「それはご勘弁くださいご主人様」  クリスがぺこぺこと頭を下げると、付いて参れ、と彼女は告げた。  出たのは広場だった。テントの中心にある円形の空間で、そこでは男の子たちが木の棒で剣の練習をしていた。  というか棒で殴りあい。 「えーと、ここで何かするんですかね」  クリスは首輪を親指ではじいた。  いきなり後ろから蹴られた。  背中を押されるように前かがみになり、三歩進んでようやくバランスを戻した。 「うー。なにをするん」 「抜くが良い」  肩に担いでいる槍の穂先ががいつのまにか燃えている。  マジだ。 「……すみませんわたしなにかお気に触ることしましたでしょうかご主人様?」 「ポチの本気、見せてみよ」 「なんか、話通じてないし」 「ポチはいつも私に隠しているだろう。ポチが昔なにをやったかは知らぬ。聞いても教えてくれぬ。だったら」  ガーネットは自分の槍を構えた。 「体に聞くしかあるまい」 「いや、ちょっと論理飛びすぎてますがな」 「わらわは戦士でな。お互いを理解するのはこれが一番だろう」 「……拒否権なし?」 「却下である。わらわに本気を見せるまでもないと見くびるならここで斬り捨てる」  なんかこう、俺悪いことしたんだろうか…… 「構えよ。構えぬならそれえもかまわぬ。さんにーいち」 「早いよ!」  無視。横なぎの一撃がクリスを襲う。  クリスはしゃがんでかわした。  火の粉が舞う。 「死ぬならせめてわらわの手で供養してやろう」  槍が軌跡を変えて上から降り注ぐ。 「いらんわっ」  クリスは転がり、立ち上がったあと背中を見せてとっとと逃げた。 「逃げるな馬鹿者」 「逃げるわっ」  クリスの後ろでぶんぶん槍を振るう音が聞こえる。  テントが切れて崩れる。  つんであった桶が蹴り飛ばされる。  テントの陰から出てきた女性を突き飛ばす。 「ぐおっ。なんじゃい」 「ごめん俺死にたくないんだ」 「待て、正々堂々と戦えっ!」 「嫌だ。疲れる」  干してあった洗濯物に突っ込んで、顔に濡れたシャツが張り付いた。  引っぺがしてぽいと捨てる。  ああ、また洗い直さないと。  川が見えた。  いつもクリスが洗濯をしている広い川だ。  クリスは躊躇せずに川へとジャンプした。 『水よ我を支えよ』  そう告げると、クリスは水の上に立った。  堅い地面の上に立っているかのように、水上にいた。  疑似精霊を通して、水の精霊の力を借りてのことだ。  疑似精霊というのは初代の巫女が、戦士たちに与えたもので、これを介することによって人間でも間接的に精霊を操れるようになるのだ。 「ほう、クリスは水を操るのじゃな」  ガーネットは感心したように告げた。 「武器なしで精霊を操るとは」 「こっちでは直接操る方が一般的なんだが」 「そうなのか。父上と同じだな」  ガーネットは火槍を振りおろした。 「だが、逃がさないのじゃ」  槍はクリスに届かない。足下を打っただけだ。  しかし、クリスの身体が急に沈んだ。 「ぬおっ」  浮力を失いちゃぽんと自然法則通りに水底におっこちた。 「ぷふぁっ」  慌てて顔を水上に出す。 「どうじゃ?」  槍で魔力そのものが断ち切られたみたいだ。  とんでもない槍だ。 「いい加減、腹を切ってみたらどうだ?」 「いや、それ死んでるってば」  クリスは川底に足を取られないように慎重に、でも急いで対岸へと逃げる。  川の中央では、腰まで来る。  水を吸った毛皮が太股にへばりつく。 「いい加減覚悟するがよい」  ガーネットは川に片足を突っ込んで。 「むっ」  元に戻した。  嫌そうに顔をしかめる。 「冷たいなら無理してこなくても」 「うるしゃい」  えいやっと飛び込むようにガーネットが川に入る。 「というか槍って火属性だから、水につけたら折れるんじゃ」 「折れるかっ。そんなボロではない。ちょっと威力が落ちる程度じゃ」  ガーネットがやってくるが、身長差のせいで胸元まで水が来ている。  槍を水につけないようにしながら歩いてくる。 「のわっ」  滑りかけたらしい。水圧も結構強い。  水の上を走って逃げたいが、また槍で切られたらわりと致命的な隙だ。 「ここでなら何とかなると思うなら、それは浅知恵だといっておくぞよ」 「かもな」  クリスは逃げようとして足を滑らした。  水中にじゃぼんと上半身が落ちた。  あわてて顔だけ水面に出したが、ガーネットが喜色を浮かべてこっちに歩いてくる。  じゃぼじゃぼ水を掻き分けて。 「愚か者め。策士策におぼれるとはまさにこのことわうぁっ」  ガーネットも転びかけた。  クリスはあらかじめ水底に杭を打ってロープを張り巡らせていたのだ。本来はノードアルスの騎兵や歩兵が渡河をして攻め込んでくるのを想定した防御である。  で、見事にガーネットはそれにけつまずいたのである。  ガーネットは何とか転ぶ寸前で耐えた。 「な、何でこんなのがぁっ」  ガーネットの手首に白い線が飛んだ。クリスの左腕に巻いてある布だ。布を巻きつけて、引っ張った。  足はロープに引っかかったままだ。  ガーネットは槍を持ったまま転んだ。 「もごもごもご」  叫んでいるが全部気泡になっている。  クリスは上にのしかかるようにすると、脇腹に手を伸ばした。  ガーネットは槍を振るう。  でたらめに動かしているが、クリスの肩に何度かぶつかる。焼け焦げるが水中では完全には効果を発揮しない。  火槍は当然、火属性。水中は水属性の支配下だ。  触れただけで灰にしてしまう、女神の加護を受けた武器とはいえ、ほかの精霊力の元では火傷を起こすのが精一杯だ。  水中はクリスの支配領域。  クリスは一心不乱にガーネットの脇腹をなでた。 (もごっ。もごごごご)  ひときわ大きな泡を吐いたあとガーネットは痙攣して動かなくなった。  槍から手が離れる。  クリスはあわてて彼女を担いで水面に顔を出した。 「ぷはっ」  クリスが体を起こすと、川の周辺には氏族のひとたちが集まっていた。  クリスは全力で川を渡った。両手が使えないのできつい。  ガーネットは動かない。  息もしてない。  川辺に出るとガーネットを寝かせて薄い胸を押そうとした。  そこで気が付いた。  左腕が動かない。  上着の肩の部分がなくなっていて、火傷を通り越して黒くなっていた。  右手だけで押すと、ガーネットは口から水を吐いた。  肋骨越しに心臓の鼓動は感じる。 「メイリアがいれば楽なんだよなぁ。ちっ。応急手当なんてもう覚えてないぞ」  鼻をつまんで口を開けると、そこに息を吹き込んだ。  二十回ぐらい繰り返したら、うめき声が聞こえてきた。 「うー。生きてたか」  さすがにあれで溺死させたら目覚めが悪すぎる。  ほっとしたらくらりと世界が歪んで。  気が付いたら族長のテントだった。  脇にガーネットがいた。 「……ここはどこわたしはだれ?」 「そういうネタはやめよ。ちと火傷がひどすぎてな。よく生きていたものじゃ」  割とそれどころじゃなかったような気がするが。  というか殺す気だった奴の台詞ではあるまいご主人様。 「わが氏族にはやけどを治す薬があるのじゃ。女神の加護でな。もう安心じゃ。傷までは消しきれないのじゃがな」  肩は布が巻かれていた。左腕を動かそうとしたら痛みが走った。 「あまり無理をするでない。さて、クリスは元気か? もう大丈夫か?」 「ん。……なんで俺の名を」  ポチ呼ばわりじゃないようだ。そういえばなんか変だなガーネットたんは。 「もう、これはいらぬな」  ガーネットは俺の首に手を伸ばすと首輪を取った。  中に指を入れてくるくる回す。 「不本意ではあるが。汝はあのような手段ではあるがわらわに勝った。納得はいかんが汝がいまから族長だ」 「は?」 「先日言ったよな。氏族で一番強い男と結婚する、と。こんなのありか? といいたいがまぁ掟ゆえいたしかたがない」 「なんかすごく嫌そうですな」 「当たり前だっ! ……まぁたしかに、かような知恵も力のうちかも知れぬ。しかしじゃっ」 「ガーネットたんは物理的に強い奴が好み、と」 「その通りじゃ」 「まぁ、じゃあそうしろと」 「は?」 「俺じゃなくて別の強い奴にしろよ」 「だ、だめじゃっ。汝ではなくてはだめだっ。だめなのじゃ」 「いやめんどいし。部外者だし。よわっちぃし」 「だめじゃっだめといったらだめなのじゃ。おきてだから仕方がないのじゃっ。わらわもあきらめるゆえ汝もずっぱりきっぱりあきらめるがよい」 「……かなり納得がいかんが。嫌だといったら?」 「前例はないが、部族の男でバトルロイヤルなるものをするのが妥当ではないか? 無論、汝が最も狙われると思うが」 「なんでそんな言葉だけ知ってるんだよ。まったく、死ねってことかよ。……まぁ、それについては別の手を考えることにしよう」 「そうか。じゃぁ、これはもういらんな」  ガーネットは指先でまわしていた首輪をぽいっと投げた。  ガーネットはクリスの横に寝ると、かちんこちんに体を硬くした。 「さあっ」  これから剣術の練習でも始めるのかというぐらい気合の入った声をあげる。 「……どうした? 寝るのか? そんなに気合入れて」 「……馬鹿者ーっ! わ、わ、わらわに皆まで言わせる気か。しゅ、しゅ羞恥プレイとか言うやつか。これがオババの言う」  何を言っているかさっぱりわからない。  いつもだったら腕枕を要求してとっとと寝るがきんちょが。 「せ、せっかく初めての夜だというのに。気の効かぬ男め」 「なにがどうはじめ……ああ」  腕が動かないので、クリスは頭の中で手を叩いた。 「俺そっちの趣味ないし」 「趣味とは何じゃ? 羞恥ぷれーとか放置ぷれーとかいうやつか?」 「だからなんで偏っているんだよ。子供に手を出す趣味ないし。俺の出身地方で犯罪なんだよ、それ」  クリスは目をつぶった。 「なんか魔力削れて眠いし。おやすみ」 「……まて」 「ほら、腕貸してやるから」  ガーネットの頭の重みが例によって右腕に感じられる。 「汝の生まれたところでは初夜なるものはこのようなものなのか?」 「……」  違うと突っ込みも入れるのもめんどくて眠い。おやすみ。  夢の中でまどろんでいると、焦げくささが鼻を突いた。  妙にリアルな夢である。  匂いはどんどん強くなってきた。というか煙? 「うわー。またやってしまったのじゃ」  ガーネットの声までしている。五感を抑えた響く贅沢な夢である。これであと味覚までそろったら完璧だ。  メイリアの手料理食いたいなぁ。 「うう、さっぱりわからんのじゃ。えーい」  うるさいガーネット。  クリスが目を薄く開けると、いきなり痛みが走った。 「ぐぉっ」  涙が出てくる。  なんかやばい。目をぱちぱちさせながら無理矢理開いた。テントの中はに霧がかかったみたいにぼんやりとしていた。煙のせいで。 「火事かよっ」  クリスはあわてて体を起こした。体の上からかけていた毛布代わりの毛皮がずり落ちた。  煙の発生源は囲炉裏だった。ガーネットがそこでしゃがんで何かを焼いていた。もくもくと煙が出ている。  囲炉裏の火は異常に強かった。煌々と鍛冶屋の炉のごとく燃え上がり、ガーネットの髪を赤く染めている。  クリスはとりあえず入り口まで這うようにして進み、布の隙間から顔を出した。  外は清浄だった。  こんなに空気が旨いとは知らなかった。  顔を切るような寒さだが、それがいまは心地よかった。  クリスの首のすぐ上から煙がテント外に逃げていく。  とりあえず、入り口の布を思いっきり捲り上げて空気口を作ると、クリスは囲炉裏で炎と格闘している自称嫁に尋ねた。 「げほ。なにしてるんだ?」 「朝ごはん」  ガーネットは振り向きもせずに答えた。  手には串。それに刺さっているのはかつて肉だったもの。でかい。それを直接火にかけてはいるが。 「焦げてるぞ、どう見ても」  どうもても真っ黒である。 「ああっ。話しかけるでない気が散る失敗してしまう」 「もう焦げてるってば」 「あー。なんで上手くいかぬのじゃ」  皿の上には串刺しにされた炭の塊が並んでいた。無駄にでかい。  だいぶ煙が晴れてマシになった。  クリスは手で煙を払いながらガーネットの後ろにしゃがみこんだ。 「もったいないなぁ。鹿さん、無念だって化けてでるぞそのうち」 「うるさい黙れ痴れ者がっ」 「まぁがんばれ。自分で食事作れるようになるのもいい訓練だ」  クリスはガーネットの頭をなでた。 「うう、子供扱いするでない」  ガーネットは頭を振った。 「実際子供じゃん」 「失礼なっ」  クリスはガーネットを抱きかかえてなでなでした。  猫みたいにやわらかくて暖かかった。  最初は暴れていたが、しばらくするとクリスの腕の中にすっぽりと入っておとなしくなった。  ひとしきり遊んだところで聞いてみる。 「で、残りはまだあるのか?」 「これが最後の一切れじゃ」  ガーネットはうなだれた。 「そうか」  クリスは皿の上の肉? に串を刺して眼前に持ってきた。 「うう、せっかく汝のために用意したのに。すまないのじゃ」  そう言われると、自分がなんか悪いことをしたみたいではないか。 「すまない。今日もカナンからもらってくる事にするのじゃ。はぁ」  クリスはナイフを取ると、丸こげ肉の炭化した部分を豪快にがりがり削った。  皿の上に炭が落ちる。  白い部分には焦げ臭い匂いがついているだろうから、一緒にそぎ落とす。  そこから、ほんの一切ればかりだが赤く綺麗に焼きあがったお肉が出てきた。 「あむっ」  肉を贅沢にも丸々潰して作ったごちそうだ。肉汁が中からあふれてきて熱々で旨い。 「……結構いいな」 「本当か?」  ガーネットは目を大きく開けて笑顔でクリスを見た。 「どうじゃ。すごいであろう」 「いちいち削るのめんどいけどな」 「うう、そういうことは言うでない」  クリスはもうひとつ手にとってがりがり削った。露出したうまく焼けた肉を、今度はガーネットに向けた。 「ほれ」 「ん。……わらわに食えと?」  ガーネットはなぜか赤くなった。 「朝食だろう? 二人の分なんだろう?」 「うむ、その通りだが。ありがたく頂くことにする。あ、あーん」  首まで赤く染めて口を開く。クリスの差し出した肉をぱくっと食べた。  ゆっくりかんで飲み込んだ。 「むぅ。話には聞いていたが、結構恥ずかしいものであるな」 「? 何のことだ?」  なんかまたオババに変なことでも吹き込まれたのか。 「新婚夫婦というものはそういうものではないのか? なんでも『あーん』すると相手が食べさせてくれるという伝統があるとか」 「いや、知識偏りすぎだよそれは」  クリスはがっくりと肩を落とした。 「わらわもやるのじゃ。ほれ。あーん」 「せめて炭落とせよっ! 腹壊すわっ」  クリスがいつものように川で洗濯をしているとガーネットが寄ってきた。 「おーい。旦那」 「……それ微妙に間違ってるぞ」 「むぅ。そうか。では。なんと呼べば」 「旦那様とかご主人様とかマスターとか」 「……それはメイドとかというものじゃないのか?」 「気にするな。ところでなんかしたのか?」  危険なので話題を変えてみる。 「商人が来た」 「そうか」  外からの客は珍しい。クリスが来てから、村人以外の人間で会ったのはメイリアぐらいだ。  離れたところにいるのであんまり交流がないのか。 「族長たる汝が挨拶してこないといかんぞ」 「お前行ってこいよ」  クリスはだるそうに傍らのガーネットに答えた。 「仕事であるぞ」 「……あんまりノードアルスの連中に知らせたくないんだよ。俺が族長扱いされているとか言うと変な妄想抱くし」 「むっ。……よなよな別の女を連れ込んでしゅちにくりんのあびきょーかんをしてるとか?」 「俺を何だと。大体意味わかって言ってるのか?」 「じつはあんまりよくわからん」  クリスはため息をついた。 「つーわけで、ガーネット、頼む」 「わかった。いたしかたあるまい」  ガーネットはうなずき、広場へと走っていった。  クリスは手元のシャツを絞りながら考える。  そういえば最近の情勢とか知らないな。  それとなく探ってくるか。 「さて、目立ちたくはないんだよなぁ」  こっそり行くか。  広場は人が集まってごちゃごちゃしていた。  外からの珍しい客人である。商人がやってきたときはいつもこんなもんだが微妙に様子が違っていた。  遠巻きにして中央を眺めている。  クリスがひょいっ、と人をかき分けて中に入った。中央では二人の女性が対峙していた。  赤い槍を持った赤毛の女の子と、白い法衣に身を包んだ女性である。 「メイリアまた来たのか……」  クリスは自分の幼馴染で婚約者の名前をつぶやいた。  いいかげん簀巻きにされたので懲りて二度とこないかと思ったのだが。 「とっとと帰るが良いのじゃ」  ガーネットはメイリアの正面に立っていた。  左手でメイリアを指差すと、薄い胸を張ってそう告げた。 「あんたなんかに命令される筋合いはないわよっ。それより、なんならここでこのあいだの決着付ける?」 「クリスの勝ちはわらわの勝ちじゃ」 「うるさいっ。この臆病者がっ」  あんまり聖女らしからぬ物言いである。  メイリアの背後で商人たちが青くなっていた。そりゃまぁ、村人を敵に回したら、最悪メイリアともども袋たたきだからな。  ほっとくと危険なのでクリスはのこのこと輪の中に歩み出た。 「まぁ落ち着けよ」 「おおっ、クリスや、昔の女が来たぞ」  そう言われるとクリスがなんかひどい男みたいに聞こえる。 「誰が昔の女よっ」 「クリスはわらわと結婚したのじゃ」 「は?」  メイリアはぽかんと口を開けた。 「わらわとクリスは『もえもえのしんこんせいかつ』なのじゃ。邪魔をするやつは犬に食われて死んでしまうのだ」  ガーネット、それぜんぜん違う。  メイリアはクリスを見るときっとにらみ付けた。 「いっしょに寝てるだけじゃなくついに手まで出してっ!」  一瞬で間合いをつめ、顔めがけて殴りかかった。 「待てっ、そんなでたらめ信じるなって言ってるだろういつもっ」  クリスは半歩下がりながら手で拳を払った。 「この浮気もんがぁ」 「話聞けよ〜」  メイリアの連打をクリスは必死に払った。  右のハイキックを両腕でガード。  腕が痺れ、衝撃が肩の後方へ抜ける。  足首まである純白のロングスカートがまくれ上がり、太股まで覆うハイソックスが吊り紐で固定されているのまであらわになった。  白づくしだ。 「……こっち側の人にはばっちり見えてるぞ」 「ばかぁ」  足を戻して逆の左ローを受けれずにクリスは転んだ。  蹴りというより足を引っ掛けて転がされたという感じだ。 「見るな見せるなばかぁ」 「……じゃぁハイキックやめるかズボンにしろと」 「法衣はスカートしかないわよっ」  クリスは尻を払いながら起き上がった。 「むー」 「なによ。文句ある?」 「毎回思うんだななんで冤罪で毎回毎回殴られて蹴られなきゃあかんのかとちょっと世の不公平さに恨みつらみを述べてみたいものです」 「やめなさい。神様が見ていらっしゃいますわよ」 「自分に都合がいいときだけ神官ぶるのやめれ」  クリスは肩を落として頭を前に垂れた。 「あー、もー、めんどくせぇ」  クリスは顔を上げてガーネットをキッと見つめた。 「夫婦生活ってことは、当然子供を作るよな」 「……犯罪よあんなまだ未成年じゃない」  メイリアは怒った。 「ちょっと黙ってくれ。とりあえず最後まで」 「ぶぅ」 「でまぁ、作るよな」 「当然である。わらわとクリスはらぶらぶなのじゃ」  ガーネットは平然と答えた。 「じゃぁ、子供ってどうやって作る」  メイリアに殴られた。痛い。 「このセクハラ成年がぁ」 「……最後まで聞けと。あと普通平手だろう」  いきなり拳は女性としてというか人間としてどうかと思う。 「そ、それはじゃ。愛があれば子供はできるのじゃ」  急に、ガーネットの声のトーンが下がる。 「できねぇよ」  クリスは即座に突っ込んだ。 「うー。そうじゃ。抱き合うとできるのじゃっ」 「こう、立ったままぎゅぎゅーっと」  クリスは腕で自分自身を抱きしめた。 「そうじゃ。そうやってほんわかしているとできるのじゃ」 「だ、そうだ」  クリスは傍らのメイリアに視線を移した。 「よくわかったわ」  メイリアはガーネットに指を突きつけた。 「抱き合っただけで子供ができるわけがないじゃないっ!」  ガーネットは目を大きく見開いた。 「そ、そうなのであるか?」  そしてクリスを睨む。 「だまされたのじゃ」  クリスはメイリアをひじで突っついた。 「ほれ見たことか」 「うう、今回ばかりは不明を恥じるものよ」  メイリアはしゅんとなった。 「もっと信頼しろよ」 「だってぇ」  クリスがメイリアの肩をぽんぽんと叩いていると、ガーネットが口を開いた。 「クリスが毎晩『こうしていれば子供ができるよ』とわらわを抱いているのはでたらめだったのか?」  クリスの腕がかちこんと固まった。  メイリアの肩がぷるぷる震えている。 「……で、誰をどう信じろと?」 「まぁおちつけ、ほらおちつけ。しょうがないんだよガーネットが子供子供って言って納得しねぇから」 「神様。とりあえず先に懺悔しておきます」  メイリアの拳がクリスのみぞおちを綺麗に打ち抜いた。  クリスは呼吸もできずにうずくまっていた。  しばらくしてようやく横隔膜が仮営業を再開した。 「毎回食らうたびに思うんだが腹筋って紙の鎧だよな」  呼吸を乱しまくりながらクリスは言った。  額から冷たい汗がぽたぽた落ちる。 「大丈夫かクリス。暴力女のいうことはあまり気にするでないぞ」 「言葉じゃなくて拳が飛んでくるのが困りもんなんだよ」 「神の罰です」  メイリアが冷たく言った。 「いや、思いっきり殴ったのは人だろう」  クリスは身体を起こした。  腹筋がまだ痛い。 「で、何しに来たんだ」  クリスはメイリアに尋ねた。 「クリスを連れて帰りによ!」 「帰ったってつかまるだけだぞ。冤罪で」 「それは私が何とかしてあげるから。巫女姫様に掛け合って真相を調べてもらうから」 「それで、駄目だったらどうするつもりだ」 「うー。……そんときはいっしょに逃げよう」 「却下だ却下。だいたい何しに戻るかさっぱりわからんぞ、それ」 「私はクリスに元の生活に戻って欲しいのよっ!」  メイリアのまっすぐな視線を、クリスは受け止めれなかった。  目をはずす。  広場では商人たちを囲んで人々がものを見ていた。毛皮と布を物々交換しているのが見えた。ところどころでは銀貨が使われている。村の中では使えなくとも、商人たちとのあいだでは使えるのでとりあえず腐る食料や毛皮を銀貨に換えるのも合理的なのだろう。 「聞いてるの?」  メイリアの耳をつっつく声がクリスに届く。 「俺はもう中央に戻るつもりはないよ」  クリスは誰にともなくつぶやいた。 「なんで?」 「クリスはわらわといっしょにいるのがいいのじゃ」  ガーネットがうれしそうに語った。 「いいから黙ってなさい。ほれ、せっかく客が来たんだからなんか見てこいよ」 「いやじゃ。暴力女を置いてクリスを一人にしては置けぬのじゃ」 「じゃぁ、黙ってなさい。お願いだから」 「むぅ」  ガーネットは不服そうだったがとりあえず口を閉じた。  クリスはまだぴくぴくしている腹をなでさすった。  回復しねぇなぁ。 「クリス、変わったね」  メイリアは不満げに眉をゆがめていた。 「そうか?」 「そーよ。変よ。昔だったら『俺の無実は自分で晴らす』とかいってむちゃやって何とかしたじゃない」 「むぅ、きっと大人になったんだよ」 「それは大人とは言わない」  メイリアはきっぱり言った。 「なんかあったの? 西のほうで」 「いや、別に」  クリスは首を振った。  アーヴィスを斬ったことも、国王殺しの汚名をかぶせられたこともきっかけに過ぎないんだろう。  正義を声高に主張することに耐えられなくなった。ただそれだけのことだろう。 「……まぁいいわ」  クリスの予想に反してメイリアはあっさり追及をやめた。これがいつもなら三日三晩徹底的に追求を食らっている。  で、あることないこと吐かされているのだった。 「じゃぁ、わたししばらくこっちにいるから。よろしくね」  さらりと発せられたその言葉に、クリスはうなずいた。 「な、なにをいうかこの暴力女がっ」  ガーネットがあわてて叫んだ。  そして気が付く。 「いま、なんて?」 「だから、わたしがここにいてクリスの面倒を見てあげる、ってことよ」  クリスは思った。メイリアまで巻き込む気はないと。 「帰れ」 「いやーよ。帰れって言っても近くにテント張ってまた来るから」 「なんでこーメイリアはいっつも無茶するんだよっ!」  クリスはつい怒鳴った。 「だいたい仕事はどうした。神殿長だろう。そっちほっとくわけにもいかんだろう」 「ああ。やめてきた」  メイリアは夕飯の献立でも告げるぐらいにあっさり言った。 「むちゃくちゃだこいつ」 「聖女聖女ってうるさいけどね。まず幼馴染一人助けられないとね。というわけで辞表出してきた上でこっちに来たから」  メイリアは一枚の書類を取り出した。 『ノードアルス北の森における布教および神殿建築のための事前調査を命じる』  辞令だった。巫女のサインまで入った公文書だ。 「いーのかそれで。だいたい、聖女を頼って困っている人が何人もいるんじゃないのか?」 「うん。それはしょうがないよ。そもそも聖女と言ってもあくまでも直接であった人にしか助けることはできないから。治癒とかね」  メイリアは笑った。  それは聖女の微笑というよりも、おてんば娘が親にいたずらを見つかったときの表情だった。 「だから、まず、クリスを助けたいんだよ」  そういわれてしまうと反論できなくなってしまう。 「うん。じゃぁ、いていいぞ」 「反対なのじゃ〜」  ガーネットが声を張り上げた。 「何でだ?」 「う。その、あの。うー、どうしてもなのじゃ!」 「理由になってねぇよ。村の外は危険だろうが」  まぁ、メイリアなら大丈夫だろう気もしなくもないが。そのへんのモンスターが襲ってきても殴り返されるのがオチだ。  外見相応にわがままに暴れるガーネットを抱き寄せ。頭を軽くなでた。 「だいたい考えてみろ。アレだぞ。アレ。目を話したらなにするかわかったもんじゃないぞ」 「むぅ、たしかにいろいろ問題を起こしそうであるのだ」  二人でメイリアをじとーっと見た。 「……あなたたち人の目の前で悪口ですか」  メイリアがむくれた。 「まぁ仕方がなかろう。族長が決めたことじゃ。反対すまい」 「いや、さっきまで反対しまくってただろうが」  さてこれからどうなることやら。クリスはため息をつかずにはいられなかった。  夜になった。  テントの中はクリスのほかにはガーネットとメイリアしかいない。  一人増えてしまった。  二人が正面からにらみ合っているので非常に居心地が悪い。  非常に心臓に来て良くない。たとえると藪の中に短剣持った犯罪者がいて隙を狙われているような。 「外の空気吸ってくる」  クリスが立ち上がろうとしたら両側からバシッと手をつかまれた。  お前ら示し合わせてないか? 「もうちょっと落ち着くがよかろう。汝がここの主であるからしてな」 「逃げる気?」  逃げたいです。  いったい俺が何をしたというんだ二人とも。なんで俺が挟まれなきゃいかんのだ。  しぶしぶクリスは座った。 「さて、そろそろ眠ることにするかのぅ。いずこのどなたかのおかげですっかり疲れてしまったのじゃ」 「そういえば、どこで寝てるの?」  メイリアが尋ねた。  やばい。  非常にやばい。  答えた瞬間に拳が飛んできそうなぐらい危険な質問である。狙ったわけではなかろう。  クリスが目をぱちくりさせていると、不思議そうにメイリアはクリスを見た。 「そういえば最近なんか中央で流行っているもの、ある?」  クリスが露骨に話題を変えようとしたが。 「ほら、汝も一緒に寝るであろう。早く来るがよい」  ガーネットがベッドの上に転がって手招きをした。  クリスの背筋に寒気が走った。  クリスの命が大ピンチ。 「……ほう、人が見てないうちにずいぶん手が早くなったものね」  メイリアさん声が怖いです。 「いや、あれだ。彼女は妹みたいなものだから……」  クリスは引きつった笑いをメイリアに見せたが。 「めおとが一緒に眠るのは当然である。もうすぐ子供もできようぞ」 「って話を被せるなっ。だいたい子供の作り方知らんだろうお前はっ!」  あわててガーネットに突っ込む。 「……ちょっと話聞かせてもらおうかしら? 拳で」  メイリアは指をぼきぼき鳴らした。それ聖女のすることと違うだろう。 「やめてー。まぁ落ち着け。頼むから落ち着け。いやマジで落ち着いてくれ頼むから。作り方わかってたらあんなあっけらかんとするか? 普通」 「むー」  なんとか拳は止まった。セーフ。メイリアは眉をひそめてクリスをじと目で見ていた。 「人相悪くなるぞ。聖女様が」 「ほっといてよ。誰のせいだと思っているのよ」 「ほれ、クリスも早く」  ガーネットが手招きをした。 「じゃぁ、私はどこで寝ればいいのかな?」  メイリアは言った。 「そのへんの地べたで寝るがよい」 「おい」  メイリアの声が冷たくなる。拳を構えたのを、クリスは何とか押しとどめる。 「夫婦の仲を邪魔するものは犬に蹴られて死んでしまえと言うではないか」 「それ微妙にぜんぜん違う」 「くっ。やっぱり、あんたとはここで決着をつけないといけないようね」 「なるほど。わらわもそれには同感だ」 「ああもう、ガーネットまで煽るなよ」  クリスはいきなりメイリアを担ぎ上げると、彼女を胸に抱いて歩いた。 「あっ」  メイリアが赤くなった。  メイリアの体は軽かった。あんな暴力的な打撃力なのにうそみたいだ。こういうところはちゃんと女の子している。  お姫様のように、そっとベッドに横たわらせる。ガーネットの横に。 「じゃぁ、二人で寝ろよ。俺がこっちで寝るから」  クリスは二人に告げた。 「は?」 「なんですと?」  なんか毛布の変わりになるのを探して、テントの中を探す。 「いや待て。わらわな夫にそんなことをさせるわけには行かぬ」 「そうよ、なんでこんなつるぺたと一緒に寝ないといけないのよ」 「やかましい。もうじき貴様程度は超えてみせる。まだわらわには未来があるからな」 「将来性だけね」 「もうちょっと仲良くできんのかお前らは」  クリスはため息をついた。  とりあえず防寒具のコートを二つ見つけた。これでもかぶってかまどの前にでも転がってよう。  ベッドの上では二人がひそひそ話をしていた。  何を話しているのやら。  クリスが火の前に座り込むと、ガーネットが声をかけた。 「わが夫よ、ちと来るがよい」 「んぁ? なんかしたのか?」 「そうよ」  メイリアが肯定した。  どうしたんだか。女というのはよくわからんものである。  クリスは首をかしげながらベッドに近づいた。  突然、二人に引っ張り込まれた。  クリスはベッドの上に倒れこんだ。あっさりと仰向けにされて、ベッド中央に寝かされた。 「な、何のまねだ?」  起き上がろうにも左右からがっしり押さえつけられて逃げられない。 「夫を床に寝せるわけにはいかぬのでな。そこで寝るがよい」 「不本意ながら折衷案ってわけよ」 「何だよそれ」 「やむを得ぬ。少々狭いが三人でもぎりぎり何とかはなるであろう」 「というわけで真ん中で寝るの。決定」 「そ、そんな無茶なっ」 「いままでガーネットを抱いて寝ていまさら何を言うのよっ!」 「……で、お前はいいのか?」 「……昔はいっしょに寝たじゃない。何をいまさら」 「拒否権なし?」  一応無駄だとは思うが、二人の顔色をうかがってみる。 「ないわ」 「だめじゃ」  即答だった。 「というわけで寝るのだ」  ガーネットが毛布をかけた。 「ごふっ」  顔の上にかぶさった。  クリスは首を振って顔を出す。 「腕を貸すがよい」  ガーネットはいつものようにクリスの腕の上に頭をちょこんと乗っけた。 「ふわぁ。眠いのじゃ」  頭をなでてやるとくすぐったそうに腕に頬ずりをする。 「くーりーす」  反対側からメイリアに引っ張られた。 「こっちも見なさいよ。やけるじゃない」  メイリアはクリスの腕を勝手に取って枕にした。 「お、おい」  両側から腕をぴーんと引っ張られる形になってちょっと苦しい。 「へへ。何年ぶりかしらね」 「おいおい。法衣がしわになるぞ」 「まぁたまにはいいわ。予備あるし」  メイリアはいたずらっ娘みたいに笑った。  数年ぶりかもしれない。 「でもよかった。クリスが幸せそうで」 「そうか?」  そんなことを言われるとは意外だった。 「ん。ちょっと悔しいかな」 「何が」 「秘密」  そういうとメイリアも黙ってしまった。  クリスは身動き取れない状態で、天井を見ていた。  両腕に二人の女の子の体重を感じながら、木のはせる音を聞いていた。  寝返りが打てねぇ。  クリスは目を覚ました。  囲炉裏の火はまだ燃えていて、ぱちぱち音を立てている。  両腕に頭の重みを感じる。  痺れてる。  右側からガーネットがいつものように抱きついてる。 「うにゃ……とうさま……」  左を見るとメイリアがすやすやと寝息を立てている。  胸の脇がクリスのわき腹に当たっている。  動く隙なし。 「うう」  クリスはうめいた。  甲高い笛の音がかすかに聞こえた。 「んにゃ?」  ガーネットがそれに反応して起き上がり、目をぱちくりさせた。 「敵か?」  もう一度笛が鳴った。 「ん? どうしたの?」  メイリアがもぞもぞと起き上がった。  両腕が自由になったクリスは状態を起こすと腕を振った。  結構痺れる。  寝返りが打てない分腰が痛い。 「先に行くぞっ」  ガーネットは傍らに置いておいた槍を手に取ると、テントから飛び出した。 「どうしたの?」  寝ぼけているらしい。  目をとろんとさせてクリスを見ていた。 「敵襲、ってな」 「敵? なにそれ」 「モンスターだよ。ここどこだと思ってるんだ。辺境だぞ」  クリスは靴を履くと鞘を腰に帯びた。  刀身のない剣でも、りっぱなお守りだ。 「ああ、待って。わたしも行くってば」  クリスはメイリアを待ってテントを飛び出した。  たいまつの明かりが北に向かって流れている。  戦士たちがたいまつを左手に掲げて走っているのだ。  それに沿うようにクリスたちは村の北端目指して走った。  テントの間を縫うように進む。  そこを抜けて村の外へ出る。  森まで多少の距離がある。  その開けたところに、ガーネットを先頭に戦士たちが剣を振るっていた。  地面に投げ捨てられたたいまつと、戦士たちの剣や槍に宿る炎だけが明かりだ。  戦っているのは銀色の狼の群れ。 「銀狼ギルトヴァーンっ。何でこんな人がいるところに?」  メイリアが驚きの声を上げた。 「レアなのか?」  クリスは声で尋ねながら、視線は周囲を見回していた。 「……じゅぎょーでやってでしょうが。精霊種。山奥にいて人里には出てこない。領域を侵すものにはわりと容赦しないいっぴきおおかみ。って習ったでしょうが」 「群れてるぞ」 「言葉のあやよっ。でも、何でここにいるのよ」 「狼さんにでも聞いてくれよ」  聞いたところで何の解決にもならないと思うが。  影が飛んできた。  銀狼が跳躍してクリスめがけて口をあけた。  クリスは動かない。  銀狼がクリスをぱくりと噛み付こうとしたそのとき、メイリアが動いた。  空中で銀狼を殴り飛ばした。横から。 「邪魔っ」  地面をころころ転がって動かなくなった。気絶したっぽい。 「お見事」 「あんたも邪魔っ。少しはよけなさい」  みたところこっち優勢っぽい。  ガーネットの火槍に貫かれて狼が一匹火の粉になった。 「苦戦しているところから一匹ずつ潰すぞ」 「了解」  膠着状態のところをメイリアが後ろから狼を蹴る殴る蹴る蹴る蹴る。 「うー。なんか動物虐待している気分」 「まぁ虐待なのは間違いないんだが」 「ってあんたも仕事しなさいよ」  メイリアの後ろからクリスはロープを狼の首めがけて投げた。  銀狼に引っかかった。  銀狼は首を引っ張られてクリスを青い目で見た。 「……」  銀狼が飛び掛ってきた。  ロープが緩んで地面に落ちる。  よける暇なし。  とがった牙の奥に赤い喉元が見えた。  クリスは一か八か口のかなに手を突っ込んでつかんだ。  銀狼の舌を。 『来たれ、水よっ』  クリスの手に水が生成される。  瞬間的にあふれたそれは銀狼の口内を埋めて口からあふれ出した。  銀狼の口が水圧でぽっかり空いた。  そして、水を入れたバケツを振り回して「落ちないぞ〜水」と遊ぶ要領で狼をぶん回した。  そのまま投げ飛ばす。 「無茶するわね。腰の剣はなによ」 「割と飾りだ」  クリスは答えながらせっせと口を縛った。  ついでに足も。 「大丈夫ですか?」  メイリアは営業スマイルでかまれて怪我をした人の腕に触れた。  光翼を展開する。  メイリアの手に集まった光が傷口に溶け込むように流れていく。それにあわせて傷が見る見るうちにふさがっていった。 「これで大丈夫ですよ」 「フェニーラ神殿もよろしく」  クリスはぼそりと言った。 「今入信するともれなく治療費がただになります」 「そこ、茶々入れない」  振り向いてメイリアがマジ怒りしていた。 「なんとかなったようだなぁ」  向こうを見るとガーネットが逃げる銀狼を追いかけていた。そりゃ逃げたくもなるな。  銀狼は森へと逃げていく。  追いかけるガーネットの足が止まった。 「ん?」  風向きが変わった。  北から吹き付けるような冷気がやってきた。  巨大な影が現れた。  黒き森の奥から、銀狼が現れた。馬に乗った人間の背よりも高い位置に頭がある。  またでっかいのかよ。 「なんで辺境の生物はみんなでかいんだよ。人間以外」 「辺境だからじゃないの? 街中で猫がでかかったら困るし」  そういう問題ではない。 「猫だったらかわいいじゃないか」 「うーん。じゃれつかれて城とかぽろりと折れそうだよねぇ。見張り塔とか」  すごいファンシーでシュールな光景を思い浮かべてしまい、クリスは首を振った。  とりあえず目の前に意識を戻す。  ガーネットが銀狼の前に立った。  ガーネットがちっこく見えた。 「おぬしがなにを考えておられるのかはわからん。だか、この先通すわけにはいかんのじゃ」  銀狼は声も上げずに少女を見下ろす。  大木のように静かにそこにいた。  銀狼は森の精霊。そこにあるのが自然なごとく森と調和していた。  風に合わせて銀の毛皮が波打つ。 「高く売れそうよね」 「いやそこ問題じゃねぇよ」  銀狼の姿が消えた。 「なっ」  銀矢のごとき踏み込みで、一瞬にしてガーネットの眼前に現れた。  口を大きく開けて丸ごとぱくりとせんと。 「のわっ」  ガーネットは気合いとともに槍を振るった。  銀狼の牙とぶつかり合って火の粉が散る。  跳ねとばされた。  体重差がありすぎる。  銀狼が襲いかかる。  ガーネットは身体をひねったが、裂けきれない。  腕に牙が食い込んだ。 「ぐっ」  引きちぎるように腕を引っ張ると、肉が裂けた。  腕から血が流れる。  赤く染まる左手をだらりと垂れ下がらして、ガーネットは銀狼を見上げた。 「この程度っ」  ガーネットは唸った。 「村はわらわが守るのじゃ。父様のように。ここで逃げるわけにはいかぬのじゃ」  銀狼が、手負いになった獲物を食べようと近づいてくる。  指先から血がぽたぽた垂れる。  銀狼の口が迫る。  クリスは抜刀してガーネットの前に立った。  刀身は根本から折れていた。しかし、光が集まってかわりの刀身を作っていた。 「フェニスの神殿長さまに聖別してもらったんだよ。切れ味は零だけど、その分並の剣より堅いよ」  牙が光剣に食い込んで止まる。  しかし、押される。クリスの力では銀狼の質量を止めきれない。 「前ばっかり見ているとけがするぞっ」  その顔の横に、飛び込んできたメイリアの拳が飛んだ。  白い拳。聖女の無駄にでかい魔力がこめられた一撃だ。本来なら怪我人の治療のために神から与えられた力を容赦なく打撃力に代えて銀狼の頬を殴った。  ずん、と重い音が響いた。  銀狼の巨体が横にずれた。 「ふん。そんなつるぺた食ってもうまくないわよ」 「よけいなことを」 「まぁ、ひとりでやることもないだろう」  クリスは優しく告げた。 「もうちょっと頼ってもいいぞ」  そう言いながらも視線は銀狼に向けている。 「うむ、すまない」  クリスたちは銀狼の動きを見ていた。  派手な音のわりにはあまり効いていないようである。  銀狼には隙がない。もともとの体格差の上に妙にどっしり感がある。  崩す手が見つからない。  にらみ合いになった。  しばらく、風の音だけがした。  沈黙を破ったのは銀狼だった。  銀狼は首を上げて天を見た。  そして吼えた。 「あおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーん」  風が鳴いた。吹き付ける北風がクリスたちを打った。  葉が風にあおられて森がざわめいた。  声そのものが、心臓を圧迫してくる。  声がやんだ。  銀狼はクリスたちに背を向けると森へと帰っていった。  銀色の影が森の奥へ消えるのを見やってクリスはつぶやいた。 「勝った気はしないな」 「なにをいう。村を守ったのじゃ。立派な勝利……じゃ……」  ガーネットふらりと倒れた。  クリスが慌てて支える。 「頼む。メイリア」  ガーネットをゆっくりと大地に横たえる。  かまれて腕がぼろぼろに裂けている。 「こりゃ、残念ながらもう駄目だ。腐る前にってしまわないと……」  その傍らで見下ろしていた男が暗い表情で斧を構えた。人間ぐらいならまるまる頭から尻まで両断できそうだ。 「まぁ、待ってくれ」  クリスは男を止めた。 「必要ないわ。下がっていなさい」  メイリアはそう告げて、ガーネットの前に跪いた。 「大丈夫だからね」  ほほえんで元気づけると、祈りはじめた。  メイリアの背から光翼が展開される。それにつれて身体が白く光る。 『天におられる神よ。どうかこのものに神の癒しを』  メイリアはずたぼろになった腕に触れた。  光が、腕を通して注ぎ込まれる。  光が収まったとき、腕は完全に再生していた。ずたずたになった袖から白い腕がのぞいて見えた。傷一つない。 「ほら、もう大丈夫よ」  ガーネットは目を開いた。  腕を掲げてじろじろ見てみる。傷一つなく再生している。  男たちのあいだからどよめきの声が上がった。 「すごい。聖女様」 「信じられん」 「むむむ。すごい力であるな……」  ガーネットが唸った。 「こうしているとふつうの神官にしか見えないんだがなぁ」 「外野うるさい」  怒られた。 「ほかにいる?」  何名か「俺も」「僕も」とぞろぞろとメイリアの前に集まってきた。  クリスはそれを見ながらため息をつく。 「また来るんだろうなぁ。はぁ」  銀狼の死体が何体か転がっているが、まだいっぱいいる。 「しかし、なぜこんな麓まで降りてきているのだあやつは」  クリスは座ったままのガーネットを見下ろした。  彼女までそう言うか。クリスはさっきメイリアと交わした話を思い返す。 『……じゅぎょーでやってでしょうが。精霊種。山奥にいて人里には出てこない。領域を侵すものにはわりと容赦しないいっぴきおおかみ。って習ったでしょうが』  こっちまで降りてくるはずもない。 「レア?」 「少なくとも今までに聞いたことはないのじゃ」  となると、ひとつ疑問が残る。 「どうして銀狼ギルトヴァーン……だっけ? はこっちに来たんだ?」 「わらわにはわからぬ」  原因がわかれば、何か手が打てるかもしれない。  それを解決すれば銀狼は帰っていってくれるかもしれない。  とはいえ。 「調べたいんだが。どうやって調べるんだ?」 「直接行くしかあるまい。だがな。行ったところで何かわかるかどうかはわからぬぞよ」  そーなんだよなぁ。  とりあえず、狼の襲撃に備えて策でも練るべし。  死人が出なくて良かった。クリスは思った。  ガーネットの頭をなでなで。 「のわ。なにをする」 「いーからいいから」  工事は次の日から即座に始まった。  クリスが男たちといっしょに溝を掘っていると、ガーネットがやってきた。  上から見下ろしてくる。  細く締まった太股が見えた。 「なにをやっているのじゃ?」 「堀だよ、堀。溝を掘って水を流すんだよ」  シャベルで土を脇にすくい上げる。 「銀狼が来ないようにであるか?」 「うん。渡ってくるところを弓で撃つのだ」 「むぅ。なかなか卑怯な作戦であるのじゃ。敵にはまわしとうないものだ」 「戦術といえ」  クリスはちょっとむかついた。 「暴力女が待ってるぞ」 「ん? ああ、もう準備できたか」 「まったく。なぜわらわがでか乳のために伝言役をやらねばならぬのだ」 「ああ、すまん、あとよろしくたのむ。任せたぞ」  クリスは男たちに挨拶するとひょいと飛び上がって溝から出た。  ガーネットと並んで歩く。 「まったく、せっかくの新婚生活じゃというのに。なにが悲しくて別の女を連れ込まれねばならぬのじゃ」 「そんなに怒るなよ」 「うう、納得がいかないのである」 「ガーネットもこー、結婚にロマンを感じてたりするのか?」 「うっ。それは当たり前のじゃ。女であるならな」  どっちかというと半ズボンはいて野山を駆けずり回っているのがあっている少女と「女」という言葉はちょっと親和性が低いと思う。 「何か、例によって変なことでも考えておるか?」  クリスはあわてて首を振った。 「まったく。平和なときはぽわんとしている男であるな」 「ほっといてくれよ」  なんで自分より年下の女の子にそんなことを言われねばならんのだ。 「怒ったであるか? 別に責めているわけではない。いざというときには頼りになるゆえ、日ごろ少々役に立たなくともわらわが面倒を見てやるのじゃ」 「飯をつくったり洗濯するのは俺だけどな」 「じきに覚えるのじゃっ。楽しみに待つが良いぞ」 「へいへい」 「クリスは……あの女が好きなのか?」 「うん」  即答した。 「そうか」  ガーネットはむくれた。 「昔の女にまだ未練を残しておるのか」 「そんなんじゃないよ」  クリスは笑った。 「幼馴染みでね。家庭の事情で師匠んところに引き取られたときに、その娘がメイリアでね。姉弟同然に育ったんだよ」 「それはこう、いろいろ複雑であるな」 「で、だ。師匠が『お前ら仲いいから結婚してしまえ』と。子供のころのたわいもない約束だよ」 「なんじゃ。そうであるか。わらわはてっきり……」  言いかけてガーネットは途中で口を閉じた。 「どうかしたか?」 「いや。なんでもないぞ」  ガーネットは微笑んだ。 「クリスがなんとも思ってないのならば別にわらわは構わぬ」  広場に着いた。  テントによって円形に囲まれているその中央に、白い法衣を身にまとったメイリアがいた。  子供たちに囲まれていた。  男の子がメイリアの背中によじ登っていた。それをメイリアは落ちないように手で降ろそうとするが、男の子の手に邪魔されてうまくいかない。 「あー。助けてよクリス」 「どうした?」 「みんな離してくれなくて」 「遊んでやれよ」 「誰が呼んだと思ってるのよ。そもそも!」  怒られた。  そうでした。 「みんな、ちょっとあっちで遊んでなさい」 「ねぇぽち様。このひともぽち様のお嫁さんなの?」  子供たちのうちの一人が聞いてきた。 「『も』ってなによっ!」 「なにを愚かなことを。クリスの妻はわらわ一人で十分じゃ」  女性陣の声を無視してクリスは子供たちを追い払った。 「ほらほら、お母さんのところに帰った帰った」  メイリアの背中から男の子を引っぺがして地面に降ろす。 「結構重いな。育ってやがる」 「あはは。メイリアお姉ちゃん、またね」  子供たちは笑いながら走っていった。 「さてと。行くか」  クリスは二人を見やって告げた。 「何処へであるか?」 「どこいくのよ」 「北へ偵察に。何かわかるかもしれないだろう?」 「うー。反対であるのだ。いないうちにまた狼が来るかもしれぬのじゃ」 「狼だろう。夜行性じゃなかったっけ?」 「でも犬は夜寝るわよ」  メイリアが突っ込んだ。 「いや、それは人が真っ昼間に散歩させたり遊んだりしつけたりするから昼間起きてるんだよ」 「しかしであるな。銀狼が一般に夜に動くものではあるが、かといって昼にやって来ぬとは限らないのではないのか?」  ガーネットが尋ねた。 「むぅ。そりゃたしかに」 「であるからは不用意に村を放置するわけにはいくまいぞ」 「むぅ。そういわれれば否定できん」  となると、村に対抗できる人を残しておかねばなるまい。 「じゃぁ、俺一人で行くから。あとのことはよろしくお願いできるかな?」 「ま、まて。それはどうかとわらわは思うぞ」 「わたしも付いていくわ。心配だもの」 「そ、それはずるいのじゃ。わらわもいっしょに行くのじゃ」  クリスはため息をついた。ガーネット。前言をあっさり翻すようなことを言うんじゃない。 「ここに誰か残さなきゃいけないんだろう。だから俺一人で行くから、二人はここに残って村を守ってくれ」 「うう、しかしクリス一人では心配なのじゃ」 「不本意ながらそれには同意ね。クリス一人にするとなにしでかすかわかんないし」 「みんな俺を何だと」  クリスが不本意だとばかりに頬を膨らませているが、それに構わず二人は話し続ける。 「初めて出会ったときは行き倒れておったの」 「かわいそうなクリス。こんなど辺境で一人寂しく。お姉さんがいるからもう大丈夫よ」 「人の話を聞けよみんな」  何で俺の周りには、こんなに人の話を聞かない人ばっかり集まるんだ。 「困るんだろう? ここに誰も残らなかったら」 「うっ」  ガーネットは言葉に詰まった。 「だから二人が残ってくれたほうがいいんだよ」 「いやよ。何が何でもクリスに付いていくんだから」 「んなむちゃな」 「何が無茶よ。クリスを一人にするほうがよっぽど無茶よ」  むちゃくちゃ言ってる。  ガーネットは押し黙ってクリスを見ていた。 「もう一人になんかさせないんだから」 「落ち着いてくれよ。ああもうどうしたもんか」 「わかった。凶暴女といっしょに行くがよい」  意外にも先に引いたのはガーネットだった。 「……珍しい」 「何がじゃ。混ぜ返すでない。村のものを置き去りにするわけにはいかぬ」  メイリアははっきりと告げた。戦場で銀狼を前にしたときのように凛々しい顔つきだった。 「じゃぁ決まりね。クリス。何かあってもわたしが守ってあげるからね」 「子供扱いはやめてくれよ」 「クリス。信じておるからな」  ガーネットはクリスの手をとってがっちりと握り締めた。  なにを信じているのかは深く突っ込まないでおこう。妙に手が痛いし。 「じゃぁ、行きましょうか」  メイリアはクリスの腕を取ると、脇に引っ張った。  やわらかい胸が腕に当たる。  相変わらずでかい。 「……クリス、信じていいのか?」  ガーネットがじとーっと目を細めてクリスを睨んだ。 「心配するなって。後を頼むぞ」  クリスはガーネットの赤毛を軽くなでた。 「えへへ」 「行くわよっ」  メイリアに引っ張られてクリスは転びそうになった。  クリスが引っ張られながら後ろをちらちら見ると、ガーネットが心配そうにクリスを見ていた。  クリスとメイリアは馬で北に向かった。 「あんまり胸押し付けるなよ」 「馬は不安定で嫌いなのよ」 「だったら村に残ればいいのに」  人選間違ったかなとクリスは思った。  クリスが手綱を握り、メイリアがその後ろにしがみついていた。  北に行くと紅葉が始まっていた  赤や黄色のまだら模様の中を駆け抜ける。 「そろそろ冬ね」 「そうだな」 「寒くなる前に帰らない?」 「駄目」 「どうせなら二人で南に逃げようよ。あー。泳ぎたいなぁ」 「川あるじゃないか」 「寒くて死ぬわ」  すーっと。身体から熱が逃げていく。  メイリアがぎゅっと抱きついてきた。 「なんか寒くない?」  クリスは馬を止めた。 「急に冷たくなってないか?」  北から冷気が来る。  北風というわけではない。どちらかというと冬に暖房の効いた部屋の扉を開けると、廊下から寒さがじわじわと入ってくる。そんな感じだ。 「雪でも降る。ってわけじゃないわよねぇ」  メイリアの声に空を見てみると曇り空だ。 「まだ早いだろう」 「でも北の森だし。北の分だけ初雪も早いよ」  メイリアは馬から飛び降りた。  法衣の白いロングスカートをたくし上げて、スカートの中に手を突っ込む。  ずるずると黒いコートが出てきた。  女性のスカートは何が隠されているかさっぱりわからないものである。  どう考えても、そんなもん隠してたらそもそも歩けないんじゃないかと思うが。 「寒いからこれを着るのよ」 「準備いいな。俺にも貸してよ」 「一着しかないわよ」  きっぱり言った。 「そうですか。早く乗ってくれ。とっとと帰ろう」  メイリアはコートに袖を通した。胸のボタンは締めずに、そのままクリスの後ろに飛び乗った。 「行くぞっ」  メイリアが後ろから抱き着いてきた。  コートのすそを持ち、手を前に回してきた。 「これなら二人ともあったかいよね?」 「……ありがとう」  クリスは礼を言って馬を走らせた。  しかし。  馬が足を速めるにつれ、風がコートの前から入り込んでくる。  二人羽織で、前でコートを閉じるにはコートはいくらなんでも小さすぎる。  メイリアがわき腹をびしっと押さえても、肩口から寒風がするする入り込む。 「……寒くねぇか?」 「うん、大丈夫だよ。クリスといっしょだから」 「いや、メイリアだけでも着ろよ。無駄だから」 「いーから」  ほとんど意味ないよなこれ。とは思いながらクリスは馬を走らせた。  背中にメイリアの体温とふくらみを感じながら。  前方が妙にきらきらしている。  クリスは馬の足を緩めた。  陽光がガラスに反射しているみたいだ。 「なんだ? 山の中にガラスの城でもあるまいし」 「滝でも凍っているとか」 「そんなばかな。まだ早いって。いくらなんでも」  しばらく進むと、輝きが強くなってきた。  そこは氷漬けの世界だった。  クリスの心臓が、跳ねた。  ある一線を境に、そこから向こうは氷に覆われきらめいている。  紅葉が始まった木々も、落ち葉が積もった地面も。  すべての動きが止まっている。  生命の動きがない、寂しい世界だ。  クリスの心臓がどくん、どくんと強く動いているのが自分でもわかる。  異常事態にびびっているのか?  それは違う。  手の甲にざざざっと寒気が走った。  理由はよくわからないが、ここにいてはいけない。  クリスは首を振って妄想を振り払う。  メイリアは黙って、クリスにしがみついている。  メイリアの心臓の拍が、背中越しに伝わってくる。  一人じゃない。  クリスは深呼吸した。何も恐れることはない。 「これが原因なのか?」  視界の果てまで、白く輝いている。  これ自体の原因はさっぱりわからないが、森の一部が凍りついたことによって銀狼たちが追い出される形で南下してきたのか。 「帰ろう。クリス」  メイリアがつぶやいた。 「おいおい。なんでだよ。せっかく調べに来て、ようやく異常が見つかったというのに」 「いいから。ここにいちゃだめよ」  妙にメイリアがカリカリしている。  いつもだったら、『ふん。何か出てきてもわたしがクリスを守ってあげるから』といって拳を握るのに。  ……女性としては正直どうかと思う。 「なんかへんだぞ、今日のメイリア」  クリスは馬から下りた。  振り返ってクリスは気が付いた。メイリアの顔が青い。 「む。大丈夫か?」 「わたしは大丈夫よ。それよりもクリス、あんたは」  クリスは答えずに振り返って歩いた。  足が妙に重い。  痺れてる。  慣れない馬に乗った疲労か。  クリスは氷結の境界線前にしゃがみこみ、氷に指を伸ばした。  冷たい。 「凍ってる」  見たとおりのことを告げる。  手を離そうとしたら、指先がくっついてた。  かちんとクリスは固まった。 「なんかしたの?」  メイリアが聞いてきた。 「……剥がれない」 「はぁ?」  人差し指と中指の腹が、氷にぴったりくっついて剥がれない。 「なに遊んでるのよこんなときにっ」  肩をつかまれてぐいっと引っ張られた。指先が焼け付くように痛む。 「ぐわっ」 「ほらとれた」 「痛いってば。馬鹿ぁ」 「男の子なんだから我慢しなさい。ほら」  メイリアはひざまずき、クリスの手をとると、指先を舌でなめた。  赤い唇に指二本をくわえ込まれる。  舌先で指がくすぐったい。時々しみて痛む。 「ほら、大丈夫よ。それとも魔法かけて治す?」 「いい」  クリスは恥ずかしくなってぶっきらぼうに答えた。 「それより先に進まないと。この村でなにが起こっているか調べないと」  クリスは馬を近くの木に留めた。  氷結の範囲内に入り、歩いてみる。凍っているので滑りやすいかと思ったが、意外にも固いタイル張りの床みたいにがっしりしていた。  クリスは凍りついた赤い木の葉に手を伸ばした。  手に付かないように、布を手のひらに載せてそれ越しにつかみとる。  引っ張ったら葉が割れて砕け散った。  粉々になってつるつるの地面に落ちていく。 「うう」  ちらりと後ろを見るとメイリアの視線が痛い。 「なにをしているのよ」 「何事も実験だよ」  クリスはこんどこそ丁寧に葉っぱを取ると、メイリアの前に差し出した。 「これが何か?」 「見てごらん。葉っぱ一枚丸ごと凍りついてるよ」  葉を丸ごと氷付けにして、彫刻家が丁寧に削りだしたように薄く氷が張っていた。 「どうやったらこんなに綺麗にできるんだ?」 「自然現象ではないことはたしかね」  普通に考えると魔法だろう。  つまり誰かが意図的に、もしくは事故でこんな広範囲を凍らせていると考えるべきか。 「北の森だとこれがふつーだったり」 「そんなわきゃねぇだろう」  とりあえず突っ込んでおく。というか前言即座に翻すなと。  メイリアは凍った葉っぱをつっついた。砕けた。 「もろいね」  クリスたちは歩いていった。  しばらく進むと氷付けの村が見つかった。ガーネットたちとおなじ丸いテントが放射状に並んでいる。 「全滅って感じね」  メイリアはつぶやいた。 「生き残り。っていうのか? 誰か残ってるのかな」  すぐに見つかった。  ひざまずいて子供を抱きしめている女性。が子供ごと凍り付いていた。 「ひどい。誰がこんなことを」 クリスは拳を握り締めた。 「メイリア。何とかできる? 奇跡とか」  メイリアは首を振った。 「魔法的に固定されてるから無理。これをやったやつに解かせるか、ぶちのめして気絶させるかしない限り、例え誰でも解除は無理ね」 「むぅ」  クリスはうなった。 「お湯かけてもだめかなぁ」 「それで何とかなるならとっくにとけてるわよ。まだ水が凍りつくほど寒くないんだから」 「むぅ。何とかする方法を早く見つけねば」  どうしようもないのでとりあえず先に進む。  村を回りながらクリスは思った。  あれ、いまのなんかおかしくないか?  妙に引っかかる。メイリアの発言が。  息子の手を引いたまま凍りついた母親や、肩を寄せ合って逃げている老夫婦の氷像がところどころに見えた。  なんで見ただけでわかるんだ? 魔法的に固定されているって。試したわけでもないのに。  テントの間を抜けた。  北のひらけた広場では、男たちが手に武器をもって掲げている状態で凍り付いていた。  全員がある一点を見上げて。男たちの顔はみな恐怖におびえていた。 「ここが戦場だったみたいね」  メイリアがつぶやいた。 「たぶん、一発でみんな凍りついてしまって」  彼らの視線の先に、何かがいたんだろう。 「何でみんな上を見てるんだよ」 「上から来たんでしょう? もしくはでかいのとか」 「こんなに大きいのってドラゴンかよ」  クリスは笑ったがメイリアは黙ったままだった。 「突っ込めよ」  メイリアは露骨にため息をついた。 「そんなおばかなことを言っている場合じゃないわよ」 「人生に笑いは大切なんだよ。たぶん」  クリスたちはさらに北に行ってみた。しばらく歩くと氷漬けの世界は終わり、赤と黄色の紅葉の世界に戻った。 「位置的に、やっぱりさっきの村が中心かな?」 「みたいね」  メイリアはうなずいた。  引き返す。  生存者はいないかと村の中をくまなく探してみる。テントの布をずらそうとしてそのままパリンと砕いてしまったりもしたが、ほかに手はないので最後にはばんばん割っていった。 「なんか楽しんでない?」 「そんなことはないぞ。たぶん」  テントの中には誰もいなかった。  外には子供をつれて逃げる母親がいっぱい凍りついていた。  クリスはふと気がついた。 「女の子がいない。どこへ消えたんだ?」  メイリアは答えなかった。 「もともといないのか、別に逃げたのか、連れ去られたのか、実は全員男装しているとか」 「最後のはどうよさすがに」 「あ、やっぱり?」  クリスは頭をかいた。 「美少女だといけないひとに誘拐されちゃうからみんな男装してるんだよ」 「で、どうやって確かめるの、それ?」 「そんなはしたないことぼくの口からはいえません」 「黙れ」  クリスは黙った。 「あとでガーネットにでも聞いてみましょう。そっちのほうでなんか変な風習とかあるとか」  クリスはうなづいた。  クリスたちは自分の村まで戻った。  馬を柵の中に入れて、テントまで戻る。 「やめよ。離せ無礼な。子供扱いするでない」  ガーネットの叫び声が聞こえてきた。 「なんなんだ?」 「またへんなことになって」  とりあえずクリスは走った。  中央の広場にガーネットはいた。  彼女を後ろから抱きしめて、すりすりしている女性がいた。  シルバーブロンドが背中まで伸びている。  透き通るような真っ白い肌をして、黒いノースリーブの上着とミニスカートをしていた。  そして太股まであるニーソックス。 「寒そう」  クリスはつぶやいた。  突然メイリアがクリスをかばうように前に出た。 「なんであなたがここにいるのよっ!」  いきなり叫ぶ。  メイリアの背中でぜんぜん見えないのでクリスはちょっと横にずれた。  黒ずくめの女性はいきなり怒鳴られても平然と笑っていた。 「のわっ。暴力女よ。このものと知り合いであるか?」  ガーネットがたずねた。そのあいだも女性はがっちりとすりすりして離さない。 「何とかするがよい。これではわらわは何処へも行けぬ」  黒ずくめの女性はメイリアに言った。 「あらあら。お嬢ちゃん。お久しぶりね」 「お久しぶりじゃないわよっ。エー」 「はいストップ。その先言っちゃっていいのかな? ここで始める気?」 「くっ」  メイリアは苦しそうにうなった。 「大丈夫よ。まだなんかするわけじゃないから。それにもうあなたには興味ないし」 「……昔の女ってやつだな、うん」  クリスはひとり頷いた。 「わたしのことはあそびだったのね」 「ちょっと黙れ」  メイリア、まじ怖いです。声。 「べつにこう、俺がいないうちに恋人作っても気にしないから。女性ってのはちょっとびっくりかな。あとで紹介してよ」 「黙れといっているの。あとでちゃんと殴ってあげるから」 「ごめんなさい」  ちょっと触れちゃいけない過ちだったらしい。 「痛くしないでね」  メイリアは無視した。 「あはっ。相変わらず面白いひとね」  女性は笑った。  緩んだ腕からガーネットが必死に逃げ出した。 「あらあら」  ガーネットは女性から離れてにらんだ。 「あらら。怒ったところもかわいい」 「クリスー。助けるのじゃ」 「いやどうしろと」  すがりつくようなガーネットのレアな視線を受けてクリスは頭をかいた。 「ふふ。また遊びに来るわね」  女性は微笑を浮かべたまま去っていった。 「頼りにならんやつだな」 「うう、ひどいことを言う」 「わらわが必死でどんな思いをしていたかわからぬのかっ」  ガーネットは顔を赤くしてわめいた。  正直さっぱりわからん。 「うー。察しろ」 「むりむり。これにそーいうの求めるほうが間違ってるんだから」  メイリアが冷たく言った。 「むぅ。それはさておき。さっきの寒そうなねーちゃんはなんだったんだ?」  まだ冬じゃないからって袖なしは見ているこっちが寒そうだ。 「知らぬ、北から逃げてきたとか言っておったのじゃが」 「で、なんで抱きしめられていたのだ?」 「さっぱりわからん」  ガーネットは言い切った。 「かっ、かっ『可愛い』などといってわらわをいきなり抱きしめおって。なにを考えているのかさっぱりわからん」 「かわいいじゃん」 「まぁ、言わんとすることはなんとなくわかる」  メイリアとクリスはそれぞれうなづいた。 「馬鹿者、これでも人妻なのじゃ。大人のレディにはもっと適切な表現があるのではないのか」 「自分で『これでも』って言っている時点でわりと自覚症状ありね」 「うっ」  ガーネットは言葉に詰まった。 「まぁ、悪いやつではあるまい。子供たちと遊んでおったからな」 「いや、その基準はどうかと」 「そうであるのか?」 「ある日気がついたら狼さんにぱっくり。とかやられないように気をつけるのよ」  メイリアが口を大きく開けて、がおー。と言った。 「大丈夫である。その辺の狼には負けぬのじゃ」 「まぁ気をつけとけ。ところでガーネット、聞きたいことがあるんだ?」 「なんじゃ?」  クリスたちはテントに戻った。  メイリアが持ってきた紅茶を入れようとしている。  クリスは座り込み、正面のガーネットに尋ねた。 「北に行ってきたんだが。村を見つけた。そこは全部凍りついていた」  先ほど見たことをすべてガーネットに告げた。  ガーネットの顔が曇る。 「あやつか」 「知っているのか?」 「うむ、北の山に邪悪なドラゴン、氷龍エーベクルーズなるものがいて、人を氷漬けにするという伝説があるのじゃ」  ガーネットはカーペット代わりの毛布をぎゅっと握り締めた。 「十年ほど前にも襲ってきたのじゃ」 「そのときはどうしたんだ?」 「わらわの父上が何とか追い返したのじゃ。そのとき」  ガーネットは黙った。 「よしよし」  クリスは頭をなでた。 「次に出会ったときがあやつの最後なのじゃ。必ず倒すのじゃ」 「ほら、紅茶」  メイリアが二人のあいだにカップを二つ置いた。 「わざわざ持ってきたのか」 「当然」  メイリアは胸を張った。  エプロンの下から胸の部分がが押し上げられている。  白い法衣の上に白いエプロンなのであんまり目立たない。  エプロンの端に、ひらひらとしたフリルが付いている。 「のわ。旨いのである」  ガーネットが驚きの声を上げた。 「むぅ。お茶がこんなにおいしいものとは知らなかった。恐るべし。暴力女のくせに」 「一言余計よ」 「さて、なんとか原因はわかったが」  クリスは紅茶を飲んだ。 「やっぱりメイリアのお茶はうまいな」 「ありがと」  メイリアは嬉しそうにしいた。 「原因はわかったが、対処法はさっぱりだ」  クリスはため息をついた。 「銀狼が逃げてきたってことは、あれよりドラゴンのほうが強いんだよな」 「大丈夫である。わらわが氷龍エーベクルーズなぞ必ず倒してみせる」 「クリスはわたしが守ってあげるから」  女性二人ははっきりとクリスに告げた。  クリスは、銀髪の彼女の様子を見に行くことにした。  最初に会ったときのメイリアの反応が異常だったからである。  メイリアに説明を求めてもごまかされてしまう以上、直接本人に聞くしかあるまい。  村にとって危険だったら。 「族長として、なんとかしないわけにもいかんよなぁ。はぁ」  てとてと北へと歩く。いつも子供たちはこっちで遊んでいる。  北の草原が子供たちの遊び場ではあるが、危険なので堀の内側にいるようにときつく念は押してある。  丸テントのあいだを抜けた。  そこに彼女はいた。  子供たちの話の中心にいて、水晶のように澄んだ声で歌っていた。  それはいにしえの物語。  一匹の龍が、ひとりの人間の王女と出会い、仲良くなり、そして王女の死とともに再び追われるという話だ。  クリスは立ちつくしていた。  気がついたら歌は止まっていた。 「ねぇ、先生。えーちゃんかわいそう」  たぶんドラゴンを指しているのだろう。 「うーん。そうでもないんじゃないかな。たぶん彼女は王女様と出会えて幸せだったのよ」  そう言うと少女の頭を優しくなでた。 「ありがとう。龍が聞いたら、きっとそう言うでしょうね。モイラちゃんに」  愛おしそうに娘を見る目をみて、クリスはこの人は信用できる。そう思った。 「こんにちは」 「あ、ポチさまだ」 「ポチさまー」 「ポチー」  せめて様を付けましょう。子供たち。 「あら、あなたが族長だったのですか」  銀髪の女性はそう聞いてきた。 「一応、そういうことに」 「それは失礼いたしました。私はエルス、と申します。村がドラゴンに襲われてしまい、やむなくこちらの皆様にお世話になっています」 「それで子供たちの面倒を」 「はい、子供は大好きですから」  それからしばらく、銀狼は姿を現さなかった。  クリスが朝目覚めると、メイリアがすでに起きて朝食を作っていた。 「むにゃ。もう食べられぬのじゃ」  クリスの脇ではガーネットがぐっすり寝ていた。 「ほら、起きろ」  クリスはゆさゆさゆすった。 「うにゃ」 「ほれ、朝ごはんだぞ」 「もうおなかいっぱいなのである」 「ねぼけてるな」  くー、とかわいらしくガーネットのお腹が鳴った。 「おかしい。さっきまでお腹いっぱいに食べたはずなのに」  問題は食事中に起こった。 「うう、うまいのじゃ。悔しいのじゃ」 「まぁ、慣れだ慣れ。ガーネットも練習すればじきにうまくなるぞ。きっと」  メイリアお手製の鹿の丸焼きと澄んだスープを飲みながら仲良く話していたが、途中からちょっと風向きが変わった。 「やっぱり、女の子は料理の一つや二つはできないとね」 「うっ」 「結婚したときに何も作れません。じゃ困るよね」 「ううっ」 「挙句の果てに旦那様に作らせるなんて」 「うーっ。暴力女め。わらわに喧嘩売っておるのか?」  ガーネットは眉をひそめてメイリアをにらんだ。 「べつにそんなつもりはないけど」  メイリアは笑ってクリスを見た。 「クリスは、料理のできる娘と、できない娘。どっちが好みかな?」 「うーん、それはもちろん料理のできる」  そこまで言って、ガーネットが泣きそうな顔でクリスを見ているのに気が付いた。  ちょっと良心が痛む。 「……ほうがいいかもしれないけど、人間の価値はそれだけでは決まんないよ。たぶん」 「逃げたわね」  クリスは視線をはずし、黙ってスープを飲んだ。 「それはそれとして、料理だけ比べたら上手なほうがいいよね?」  メイリアがさらに詰め寄る。 「そりゃまぁ、そうかもしれないけど」 「どうよ」  メイリアは胸を張った。 「大人気ないぞ」  クリスはぼそっと突っ込んだ。 「ほっといてよ。というわけで、料理の一つもできないというのはちょっと心配だなお姉さんは」  ガーネットは毛皮の敷物をどんと叩いた。 「黙っていればいい気になりおって。わらわが本気になればきっとおいしい料理が、作れる、といいなぁ」  語尾がどんどん弱くなり、最後はかすれてしまった。 「ふぅん、じゃぁ、試してみる?」 「うっ。望むところじゃぁ」  はたから見ても空元気でガーネットは答えた。 「さて、散歩兼偵察に行ってくるか」  クリスはとっとと逃げようとした。  しかし後ろからつかまれた。二人に。  クリスはいやいや後ろを見た。 「審判よろしく」 「クリス、ちゃんと見ておるがよいぞ」  みんな暇じゃないだろうお前ら。  料理対決が始まった。  わざわざ調理台を隣から借りてきて並べ、そこにガーネットとメイリアが並んだ。  まずは下ごしらえからだ。 「るんる〜」  メイリアはエプロンを身に着け、歌交じりに料理を始めた。  包丁を軽く当てるだけで、肋骨があっさり外れていく。 「むぅ、さすが本職といったところか」 「まぁね。今回は本気だから」  容赦のない女である。  対してガーネット、メイリアからエプロンを借りたものの長すぎてロングスカートみたいになっている。 「うのっ。このっ」 「落ち着け。危ないから」  包丁を持って文字通り素材と格闘している。  自分の手ごと切りそうでもう見ていられない。 「あうっ」  ガーネットは顔をしかめた。  クリスは見ていられなくてガーネットのもとに駆け寄った。 「まったく。槍は普通以上に扱えるのに、なんで包丁はだめなんだよ」 「あう。小さすぎて難しいのじゃ」 「ほら、大丈夫か?」  ガーネットの左人差し指が切れていた。  クリスは手をとると指をなめた。 「気をつけろと」 「うう、ごめんなのじゃ」 「ほれ、手伝ってやるから」 「あー。ずるいわクリス」  メイリアが叫んだ。  そう言いながらも手は止まらない。骨をばらばらに外したうえで肉を刻んでミンチ状にしていた。 「やかましい」  料理のプロと、調理の基本も知らない子供が戦っているのである。  クリスはガーネットの後ろから腕を回して、手を取った。  ちょうど背後から抱きしめている形になる。 「あっ」 「ほら、こうやってここに刃を当てるんだ」  クリスの指示にあわせて、ガーネットが包丁を引くと、するりと肉が切れた。 「うわっ。すごい」 「なにを言っている。ガーネットがちゃんとやったんだよ」 「う、うん。わかっておる。次はどうしたらよいのじゃ?」 「ほれ、こうやって」  見る見るうちに肉が綺麗に切り分けられる。 「うう、包丁と言うものはこんなに便利だったのであるか。知らなかった」 「なんかあれだ。力に頼りすぎ」  クリスは頭をなでようとしたが、指先に脂が付いているのに思い当たった。  代わりに腕だけでぎゅーっと抱きしめてあげる。 「く、クリス。あまり引っ付くでない」 「クリス! あんたいったい何やってるのよ!」  隣から怒鳴り声が聞こえた。 「ほらほら、集中しないとまた手を切るぞ」 「うう。が、がんばるのじゃ」  とかなんとかで完成した。 「結局、ほとんどクリスが作ってなかった?」 「気にするな」 「ぶー」  とりあえずメイリアは無視。  三人で食べることにする。  メイリアのはスープと肉団子。 「うう、どうやってもスープがくどくなっちまうんだよなぁ。どうやってるんだ?」 「あとで教えてあげるわよ」  メイリアは微笑んだ。  さすが家事のプロ。文句のない味だった。 「うぐ」  一口くわえ込んでガーネットが沈んでいた。 「さて、つぎはガーネットのと」  鹿肉をスライスして焼いただけの単純な料理である。 「はむっ」  ちょうどよく焼けていて良い。 「上手くなったな。ガーネット」  頭をなでてやる。 「うむ。がんばったのじゃ」 「……いや、全部クリスの指示じゃないの、それ」 「最初はそれでいいんじゃないか? 俺たちだって最初から師匠に何も言われずにできたわけでもないんだから」 「むぅ」  メイリアは頬を膨らませた。 「というわけで食べようよ。冷めないうちに」 「そうなのじゃ」  ガーネットはうれしそうだった。  生まれて初めて料理が上手くいったからだろう。 「で、どっちが旨いの?」 「両方」  クリスはきっぱり答えた。 「どうしても白黒はっきりつけろと言うんだった、努力点を強めに加算するけど」 「もういい」  メイリアはため息をついた。 「クリスってばガーネットに甘くない?」 「そうか? 俺は子供には優しいぞ」 「うー。子供扱いするものではないのじゃ」  ガーネットはむくれた。 「くりーす」  メイリアが寄ってきた。 「お風呂入りたい」 「わがままだな。郷に入っては何とやらと言うではないか」  ちなみにここでは、布をお湯につけて絞って身体を拭いている。  クリスは洗濯ついでに川で泳いだりもするが。非常に寒い。 「たまには広いお風呂に入りたい」 「人の話聞けよ」 「作ろう」 「……どうやってよ」 「でっかい桶でも作って、焼いた石でも放り込んで沸かすのー」  妙に現実的なアイディアである。 「……考慮してみるか」  とか話しているとガーネットがテントに戻ってきた。 「なぁ、ガーネット。お風呂って知っているか?」 「人間が作った温泉のことじゃな。オババから聞いておる」  話が早い。 「しかしクリス。そう言う趣味があったのか」  そう言うとガーネットは顔を赤らめる。 「は?」 「裸の女性が自分の身体を使って洗……ええいっ。これ以上わらわに言わせるつもりか、しゅ、しゅ、羞恥」 「やかましい」  頭にチョップ。 「あう。ひどいぞ」  相変わらず微妙にポンコツなオババ辞書である。責任者出てこい。 「ふつうの風呂だ。肩まで熱湯につかるだけの奴」 「そうか。それがどうしたのじゃ?」 「作んない? あれば便利でしょ?」  メイリアが口を挟む。 「むむむ……そこまでしなくてもいいのではないか?」」 「えー。精神を綺麗にするにはまず身体からよ。そう聖典にも書いているわ」  記憶にある限りそんな文章は絶対にねぇよ。  間違ったことは言っていないが。 「まぁ、そこまでせぬとも、温泉があるからそこにでも行ってきたらどうじゃ?」 「は? それ初耳だぞ」  もっと先に教えろよ……川は寒いんだぞ。 「教えてないからな」 「ひでぇよ。そういやガーネットはいかんのか? 温泉」  温泉に行ってきたという話自体聞いたことないぞ。 「うう、遠くて面倒なのじゃ。それに村を開けるわけにもいかなかったのじゃ」 「じゃぁ、行こうね」  メイリアが嬉々として言った。  馬を走らせること二時間、森を抜けると蒸気の白い幕が見えた。  蒸気が大量に吹き出している。 「うわー。間欠泉か」  白い柱を天にまで吹き上げて、非常に派手である。 「あれ、かかんない?」  メイリアが心配そうに聞いた。 「離れていれば大丈夫じゃ、と聞いておるが。まぁあまり気にするでない」  馬を留め、ガーネットの先導でずりずりと進む。 「確かこっちじゃ。以前父上と来たことがあるのじゃ」  小川のそばに湯壺があり、水が流れ込んでいる。  下流側からざぶざぶ流れているが。 「ほかのところだと少々熱いので初心者には勧められないのじゃ」  メイリアが縁でしゃがみ込んで手を突っ込んだ。 「あちっ」 「水をいっぱい誘導してさますのじゃ」  よっこらせーと石を並べて川から水を引き込んだ。  しばし待つ。 「……なんかかき回すのがほしいね」  メイリアはガーネットの槍を露骨に見た。 「なっ。駄目じゃぞこれは」 「ちぇ」 「そろそろいいんじゃないか?」  クリスが手を突っ込むと、まぁやけどしない程度には下がった。と思う。  しかしこう、女性陣が入るからと言って……クリスにはすることがない。 「じゃぁ、俺見張りがてら離れているから」  クリスがとっとと逃げだそうとすると両側から捕まれた。 「せっかくだからクリスも入るのだ」 「なにを今更恥ずかしがっているのかしらね。全部見ちゃったのに」 「いつのはなしだーっ」  抗議する暇もなくあっさり二人がかりで脱がされてしまった。  残るはパンツ一枚。  ぴんち。 「……せめてタオルで勘弁してください」  必死の交渉のかいがあって幸いにも許された。  腰をタオルでくるんでから最後の一枚を脱ぐと、とっとと湯壺に飛び込んだ。 「あちさむっ」  混ざり方が不十分で、左が冷たくて右があつあつだ。  とりあえず腕を回してかき回して均一に。 「といやーっ」  とぽーんといい音がしてクリスにお湯が被さった。 「ぶはっ」  ガーネットがあっさり全部脱ぎ捨てて飛び込んできたのだった。 「はしたないわよ」  そしていつのまに脱いだのか。バスタオル完全装備でメイリアがそっと入ってきた。 「ぐえ」  とりあえずクリスは女性陣からそっぽを向いた。見ているとなにを言われるか分かったもんでは。 「くーりす。なにを見ているのじゃ?」 「うわっ、ひっつくな馬鹿っ!!!」  温泉から戻ったあと、クリスは村の周囲を見回っていた。日課である。  村人たちのがんばりで、思ったより早かった。  穴掘りは終わり、きっちり堀が完成していた。あまった土は村側に盛り上げ、その上に新しい柵を築いた。  盛り土の上に立って、柵の前から森を見るとなんか変わって見えるかと思ったけどあまり変わらない。 逆に、村の中を見ても、テントの屋根を見下ろす、というわけにもいかない。  夕日でテントが赤く染まっている。  子供たちが遊んでいるのが遠くから見えた。  で、黒いノースリーブも見えた。  近寄ると、エルスだった。 「あら、ごきげんよう。族長さん」 「子供たち好きなの?」 「ええ、大好き」  即答だった。 「かわいい」 「さいですか」 「なんというか、けがれてないところがいいよね」  そんなもん同意もとめられても困る。 「そう思わない?」 「もうちょっと言葉に気をつけたほうがいいんじゃないかと」 「なんでー。子供が可愛いのは万国共通じゃない」 「絶対、『可愛い』の意味が違うぞ、それ」  別の子供たちがクリスのほうにやってきた。  子供たちは肩で息をしていた。 「あっ。ポチさま。エルスお姉ちゃん。大変なんだよ」 「ポチ様?」  エルスがクリスを見る。 「ほっといてください」  クリスはむくれた。 「で、何があったんだい?」 「コリンたちがいなくなっちゃったの。森に行ったら」 「はぁ」  クリスは頭を抱えた。 「危ないから森に入るなと言ったのに」 「えー。だってパパとか村の周りにいて外にでる隙なかったんだもん。ようやく遊びに出れると思ったのに」  クリスはかくんと頭を下げた。 「……あとで説教な」 「うう」 「とりあえずどのへんだ? 探してやるから案内しろ」 「わたしも手伝うわ」  エルスは言った。 「ありがとう」 「子供たちのためだもの」 「ぼくたちも行くよっ!」  子供たちが元気よく言った。目が本気だ。 「だめ。残っていなさい」  クリスはあっさり却下した。 「えー、じゃない。暗くなったら危ないだろう」 「心配だよぅ」 「俺に任せろ」  クリスは言った。  とりあえず子供たちは納得したようだった。  森の中はごちゃごちゃして視線が通りづらい。  クリスとエルス、二人が並んで歩いている。  そろそろ二手に分かれよう、とエルスが提案した。 「何かあったら必ず呼んでくださいね。危険ですから」 「はいはい」  エルスは手をひらひらさせた。  クリスは一人で歩いていた。 「コルツ。カリン〜」  後方からごそごそ音がする。  クリスが振り返ると、音がぴたりと止まった。 「……残ってろと言っただろう?」 「えへっ」  子供たちが笑いながら木陰から出てきた。 「よくわかったねぇ。ポチさま」 「お前ら大人なめすぎ」  クリスはため息をついた。 「しょうがない。危ないから、みんな離れるなよ」 「はーい」  残った子供たちは答えた。 「こるつー」 「かりんー」  みんなで名前を呼びながら、緑の空間を進む。 「いつもここで遊んでいるのか?」  クリスは傍らの男の子に尋ねた。 「うん。あっ、いつもじゃないよ」  あわてて否定した。 「銀狼がでなくなるまではとりあえず村の中で遊べよ」 「うん」  素直にうなづいた。  遠くで風がざわめいた。  鳥たちの羽ばたきの音が強く聞こえた。 「あっちでなんかあったのか?」 「あれって秘密基地の方角じゃ」 「ばかっ」  別の子が叱った。 「そっちに行ったと思うか?」 「んー。そういえば基地に忘れ物して取りに戻れなくなったって言ってたよ」 「行ってみるか」  クリスは駆け出した。  が、子供たちが付いてこれない。 「あー。まってよぅポチさま」 「……すまん」  置いていくわけにも行くまい。これでぱくりと食べられたらごめんなさいではすみません。 「適度にゆっくり走るぞ!」 「おおっ」  子供たちの声が森に消えた。  日が暮れてきた。  クリスたちが森をかき分け、走って進むと、銀色の毛皮が見えた。  木の下に子供が二人いて、その前にエルスが涼しい表情で立っていた。  銀狼たちに囲まれている。  クリスはベルトからロープを引き出した。  銀狼が飛び掛った。  遠すぎる。  間に合わないとはわかってはいたが、クリスは先を輪にしたロープを投げた。 「邪魔よ」  エルスの声にあわせて、氷の槍が何本も現れた。  飛び掛る銀狼に、氷槍が打ち落とす。  でかいつららを三本身体に受け、銀狼は犬みたいに鳴いて大地に転がった。  クリスのロープがへろへろとおっこちた。 「大丈夫だから。心配しなくていいわよ」  エルスは振り返ると、子供たち二人を抱きしめた。  クリスは駆け寄った。 「むぅ。見つかったようですな」 「よかった。怪我はないみたいね」  クリスは転がった人狼を見下ろした。  三体いっぺんにあっさり返り討ちか。強いんだなぁ。  背筋に寒気が走った。 「何はともあれ無事でよかった。があとで説教な」 「えー」  子供たちが不満げな声を上げたのを、クリスは視線で叱った。  クリスは地図を見ていた。村周囲の地形を自分で調査したお手製の地形図だ。 「クリス。ちょっと話があるの」  メイリアは告げた。 「ん?」  クリスは地図を折たたんた。 「なんだ?」 「ちょっと来て」 「むぅ」  メイリアに引きずられてテントを出た。  きょろきょろ辺りを見回す。外は月明かりだけだった。  暗いテント周辺をきょろきょろ見渡す。 「ガーネットはどこ行った?」 「いいからっ」  あんまりよくない。  クリスは一度テントに戻ると、たいまつに火を移して囲炉裏の火に灰をかけて消した。  テントから出る。  メイリアに先導されて西へ向かった。 「どこまで行くんだよ」  返事は来なかった。  川までたどり着いた。  夜の川は暗くどこまでも深い。  向かい岸の森は暗くてよく見えない。  風が木々をざわめかしている。 「座って」  促されて、メイリアの隣に座った。  たいまつは乾いた石の上に投げた。 「クリスは、ガーネットのことどう思うの?」  メイリアが聞いてきた。 「ん? どう、と聞かれても難しいなぁ。うーん」  クリスはしばらくうなった。 「そうだな。大事な家族だと思っている」 「それはこう、妹みたいなもの? それとも。恋人?」  クリスは笑った。 「笑わないでよっ」 「ごめんごめん。そうか。メイリアにはもしかしてへんに見えてた?」 「そうじゃないけど、やっぱり自称妻がいるなんて変よ。もっときっちりしないと。人として」  メイリアは早口にまくしたてた。 「そりゃ、クリスがガーネットが好きだ、っていうなら別にいいとは思うわよ。もうちょっと待ったほうがいいとは思うけど。でもね」  メイリアの目から、一筋の涙がこぼれた。  それはたいまつのかすかなあかりを受けてうす赤く輝いた。 「もしクリスにそんな気がないならいけないとは思うの」  クリスはメイリアの肩に触れ、そっと抱き寄せようとしたが拒絶された。 「クリスは本当にガーネットと結婚する気があるの?」 「むむ」  クリスはうなった。 「そう改めて聞かれると非常に困るけど、妹みたいなもん、かな?」 「本当?」 「……疑うなら最初から聞くなと」 「ほんとにほんとにほんとにほんとにほんと?」 「うん。ほっとけないんだよ。助けてもらった恩もあるし」 「そう、じゃぁ。クリス。私のこと愛してる?」 「うぐっ」  言葉に詰まる。 「そーいうこと聞くかなぁ。酔ってねぇか?」  ほれ。クリスはメイリアのほっぺたに触れた。  熱が手のひらに伝わってくる。 「熱あるぞ」 「くぅっ。酔ってないわよ。男だったらはっきりしなさいよ」 「むぅ。メイリアはぼくの大切な幼馴染だよ」 「その先よ、先」  そういうことを言うのは非常に照れくさいんだが。  なんか昔のことを思い出す。 「そういえば、愛してるって言わないと殴られたことあったなぁ」 「そんなこと思い出すんじゃないわよこんなときに」  声が冷たい。 「ガーネットのほうが大切だっていうの?」 「そういうわけじゃない、と思う」  メイリアはため息をついた。 「まぁ、しょうがないわね……よく言えば紳士的ってとこね」 「悪く言えば?」 「優柔不断」  メイリアはクリスを抱き寄せた。  肩に手を回す。  メイリアの胸のふくらみが、クリスに当たる。 「そーいうのも含んでクリスだしねぇ。はぁ」 「どっちかというと妹みたいなもんだと思うんだよ」 「義理の?」 「そんな感じかなぁ」 「はぁ。ガーネットも大変ね」 「なにがだよ」  クリスは何となくむくれた。  急にメイリアの顔が寄ってきて、クリスと軽く唇を触れあった。  動きが止まる。  クリスに不意打ちでキスして、メイリアはほほえんだ。 「私は、クリスが好きだから」  次の日。  昼間ガーネットに呼ばれた。  メイリアは昼食を作っている最中だ。 「なぁクリス。昨日暴力女と何をやっていた?」  直球だった。  河原にスコップで穴掘って埋まりたいです。  水もれてきそうだが。 「……見てた?」 「クリスは、あの女と結婚しているのか? 本当は?」 「は?」  クリスはぽかーんと口を開けた。  いや、どう考えるとそう言う論理展開になるんでしょう? ガーネットたん。 「ふつうは結婚している二人でしか口づけはするまい」 「……そーなん?」  ガーネットは真剣な表情で頷いた。  というか睨んでる。 「いや、あの、その。そうだっ、俺たちのいたほうではアレは挨拶代わりなんだよっ!」 「そうだ?」 「いやほんとほんと。外国暮らしが長くてすっかり忘れてた」  前提条件で『メイリアとの二人のあいだでだけだ』とか『基本的にメイリアが一方的にしてくる』とかいうのがあるがそれは些細なことだ。  たぶんここで返答間違えると即座に槍で刺される。 「やはりクリスはわらわのような身体より、あの暴力女のようなこー、大きいほうがいいのかのぅ?」  そういうことを聞かれても困る。 「とりあえずその手つきは誤解招くからやめろ」  胸の前に手を当ててもみもみするのは別の意味に見える。 「クリスや。わらわにも口付けをせよ」 「ぐふっ」  せきこんでしまった。  いきなり何を言い出すかこいつは。 「わらわにも、メイリアと同じようにしてはくれぬのか?」 「キスというのは、大事な人とするもんだよ」 「わらわはクリスが一番大事じゃ。クリスは違うのか?」  悲しそうな瞳でクリスを見る。 「おいで」  クリスはガーネットを抱き寄せた。  細い身体をそっと抱きしめ、赤い前髪をすくい上げて額に軽く口づけをした。 「ほら」 「な、な、なんでじゃ。扱いが違うぞ。不公平なのじゃ」  じたじた暴れるガーネットの赤毛をなでなでしてクリスは告げた。 「子供はここまで」 「わらわはもう大人であるぞ」 「子供と大人の違いって解るかい?」 「むむ。ひどいのじゃ。ちょっとばかり暴力女よりも胸がいささか経済的だからといって」 「いや、それ関係ないし」 「むむむっ。じゃぁ、こっちか?」  ガーネットはお腹を手のひらでなでた。  それは大人になってすることをしたあとの話だ。まだ早い。途中飛ばしすぎだ。 「ちがう。自分の年を多く言うのが子供で、少なく言うのが大人だ」 「ふむ」 「大人は自分のことをあえて『大人だ』などとは言わないのだ。覚えておけ」 「ぐぐぐぐぐ」  クリスはガーネットの前に跪くと、少女を抱き寄せてキスをした。  唇の端ぎりぎりに。 「ガーネットが大人になって、それでも俺のことを一番大事だと思っているなら、そのときにここにしてあげる」  クリスは人差し指でリンゴのように赤い唇に触れた。  ガーネットはぽかんとしていた。 「な、な、なにをっ」 「ごめん、嫌だったかい?」 「そんなことはない! だがいきなりで。もう少し心の準備というものがああもうっ」  ガーネットはクリスにびしっと指を突きつけた。 「本来ならこの程度でごまかされれるわらわではないが、今回はこれで許しておくのじゃ」 「うむ。許されよう」 「約束じゃぞ、確かにわらわが大人になったら、その、接吻するのじゃな」 「うむ」  ガーネットはぱっと花が咲いたようにほほえんだ。 「確かに聞いたぞ。見ておるがよい。じきに暴力女よりも立派になってみせるのじゃ」  ガーネットは元気に走っていった。 「やっぱり気になるもんかねぇ……」  胸とか。  夜。例によって例のごとく三人で寝ていたら、遠くから見張りの笛の音が聞こえた。 「来たのじゃっ」  ガーネットはクリスの腕から身体を起こすとすばやく槍を手に取った。 「んっ」  ぼんやりした頭で起きようとしたら、メイリアが抱きついて離してくれない。  白い法衣越しに、胸がわき腹に当たっている。 「ほれ、起きろ。敵襲だ」 「うんっ。あれ? おはようクリス」  クリスはガーネットの頭のしたから腕を引っこ抜いた。  頭がことんと落ちる。 「うぐっ。ひどいよぅ」 「寝てるなら置いてくぞ」  クリスは起き上がって、鞘を腰につけてテントを飛び出した。  再び笛の音が鳴った。  いまの星空のように澄んだ音色で物寂しい。  音を頼りにそっちへ向かう。 「遅いぞクリス」  先にガーネットが到着していた。  少女は盛り上げた土の上、柵の手前に立ち、凛とした視線を外側に向けている。  火槍をたいまつ代わりにしてあたりを照らしている。  クリスはガーネットの隣に駆け上った。  柵の前に男たちが並んで、弓をぽんぽん撃っている。  下を見た。  水掘りの中を、銀狼がいぬかきで泳いでいた。 「空堀にしておいたほうが良かったのか?」 「そんなことを言っている場合ではなかろうが!」  ガーネットに突っ込まれた。  狼たちはさすがに水中では地上のようには動けない。銀色の毛皮に矢が何本も刺さる。  泳ぎぎったあとには急な坂だ。  前足で這い上がり、そのまま坂を上るあいだにも矢は降り注ぐ。  眉間に矢を受け、銀狼一匹が再び堀の中へ落っこちた。  とっぽーんと水しぶきが上がった。 「準備のかいはあったようだな」 「そうであるの。む、来るぞクリス」  北から銀色の突風が吹いた。  巨大な銀狼ギルトヴァーンをすべる王が、堀を一気に跳躍し、人の身長を超える高さの盛り土を越え、体当たりで柵と兵士三人を跳ね飛ばした。  銀狼王はそのまま村の中へと着地した。 「化けもんだ」 「むちゃくちゃだ」  男たちのあいだに動揺が走る。 「そのままっ。全員、村に銀狼を入れるなっ! こっちは俺たちに任せろ」  クリスは指示を出すと盛り土から飛び降りようとしたガーネットの襟首をつかんだ。 「ちょっと待て」 「のわっ。何をする。それどころではあるまい」 「ガーネット、あれの前に立つな」  クリスは耳元でささやいた。 「何でじゃ?」  銀狼はクリスたちを見ていた。盛り土の上からだと、ようやく目の高さが一致する。 「銀狼がやってることはたぶんメイリアとか師匠といっしょなんだよ。気配を世界といっしょにして溶け込ませることによって認知できなくする」 「……さっぱりわからぬぞ」 「メイリアも使うだろう? 気が付いたら間合いつめられて懐に入られるだろう? アレといっしょだ」 「むぅ」  メイリアは額にしわを寄せた。 「で、だ。消せるのは一瞬だけだから、正面には立つな。銀狼と言ってもしょせん犬だ。人間みたいに横にも動けるわけじゃない」 「わかったのじゃ。クリスは大丈夫なのか?」 「狙うならガーネットのそれだからな」  クリスは火槍に視線を移した。 「俺じゃぁ打撃入れてもダメージにならん。あちらさんもわかっているだろうし。もし俺にきたらその隙に一撃くれてやれ」 「うむ。死ぬでないぞクリス」  ガーネットは飛び降りた。  クリスもあとに続く。  腰の剣を抜く。ぽっきり折れているが、刀身部分が淡く光が集まっている。  それを構える。  クリスとガーネットはちょっと離れて、銀狼王との間合いをじりじりつめる。  銀狼王はガーネットのほうを向く。  それに合わせてガーネットが右へ回る。  クリスも離れないように付き添う。  二人はくるくる回りながら、次第に間合いが狭まっていく。  勝負そのものはきわめて簡単である。  銀狼王の口が先にガーネットをぱっくり食べてしまうか。  その前にガーネットの槍がぶすっと突き刺さるか。  クリスはまぁ、脇から突っつくことはできてもぶん殴ることはできない。  この折れた剣では何も切ることはできない。  まぁ、やれることをやるだけだ。  銀狼の姿が消えた。  来たっ。  クリスは即座にガーネットの前に横跳びした。  構えた剣に、衝撃が走る。  銀狼の歯が光剣に当たり、火花が飛び散る。  たとえその姿が見えなくても、存在しないわけではない。  行動さえ読めればあとは先読みで止められる。  一撃を止めればこっちの勝ちだ。  あとはガーネットの火槍が決めてくれる。  クリスの目の前で予想外のことが起きた。  光剣が、銀狼王の牙に砕け散った。 「ぬわっ」  聖別が弱かったようだ。  わるいこといわないから靴と洗濯紐と武器だけは高くていいのにしておきなさい。あ。武器は使わないか。という師匠の言葉が浮かんでくる。  ……せめて対処法にしてくれ。師匠。  こうなったら身体ででも止めて。せめて。  このガーネットだけでも守らないと。  右側に熱を感じる。  槍を構えたのか。  クリスは左拳に力をこめた。  全身の魔力をそこに集める。  一撃でいい。  せめて一瞬でも銀狼王の動きが止まれば。  クリスごとガーネットを食べようとする銀狼王に向かって、クリスはせめて一撃入れんと拳を振りかぶり。 「男だったら殺す気で殴りなさいよっ。それが相手に対する礼儀ってもんでしょう」  幼馴染みのむちゃくちゃな声が聞こえた。 「聖女メイリアの名において願う。世界をつかさどる七つの精霊よ。どうかかの武器に聖なる祝福を。って他人の素手にかけたことないから副作用あったらごめんね」  クリスの左拳が輝きで包まれる。 「そんなんでいいのか〜」  クリスは叫びながら拳を振るった。  拳は銀狼王の牙に当たり、それをぶち折った。 「がるるるるるるるぅ」  銀狼王がひるんだ。 「今よガーネット、正義の一撃をさくっと」 「いままでどこにいたのじゃ。この暴力女め」  ガーネットの槍が銀狼王の腹に当たった。  銀狼王は牙ひとつを失い、腹部に大きな穴を食らって大きく吼えた。  そして逃げ出した。  テントを引き倒しながら走る。 「なっ。逃げるであるか」  こまったことに村の中心方面だ。そっちには子供たちが逃げている。 「頼む、抑えろメイリア」 「まかせてっ」  ガーネットは銀狼王の前に立ちふさがった。  跳ね飛ばされた。 「まて、洒落ならんって」  メイリアは光翼を展開して空中で制止した。  そのまま飛び、銀狼王を上から殴るが止まらない。 「このっ」  目玉に拳を打ち込む。悲鳴を上げて首を振ったが足は止まらない。  メイリアは弾かれてぽてっと落ちた。 「勘弁してくれよ」 「やばいのじゃ。子供たちがやばいのじゃ」  うずくまっているメイリアの脇をクリスたちは駆け抜けた。  メイリアも顔と法衣を泥まみれにしてあとに続く。 「みんな逃げろー。狼が来たぞ〜」  クリスは叫んだ。  中央広場では子供たちと母親、老人が集まっていた。  銀狼王の巨体を見てみな悲鳴を上げた。大部分の子供や親は逃げ出したが、数名、腰を抜かしたのかその場で動かなかった。 「はやく、はやく」  子供を引きずり、がくがくに震える腰に鞭打って逃げ出す女性もいた。 「大丈夫。あなたたちに手は出させないわ。お願いだから、目をつぶっていてね」  エルスが残っていた。彼女はへたりこんだ子供たちの頭を一人ひとりなでると微笑んだ。 「今まで楽しかったわ」  エルスは前に出、ノースリーブで何にも覆われていない両手を広げた。 「ギルトヴァーンよ。わたしにも責任の一端があるから強くはいえないんだけど。子供たちを襲うことは許せないわ」  ギルトヴァーンとは、銀狼の種族名であるとともに、それをすべる王の名前でもある。 「エルスさん、だめだー」  左目と犬歯を失い、腹に大穴を空けている銀狼王は彼女の声を気もせずぱくりと食った。  そのまま子供たちめがけて蹂躙せんとした。  異変が起こった。  銀狼王は不自然なほど口を大きく開けた。  めみょ。と変な音がして口角が裂けた。  銀狼王の大口を破壊しながら何かが出てくる。  それは水晶の身体を持った巨大なトカゲだった。 「なんで、なんでじゃ?」  ガーネットが驚きの声を上げた。 「なんでわらわの父上を殺したあやつがいきなりこんなところへ?」 「氷龍エーベクルーズ」  エーベクルーズと呼ばれた龍は透き通った前足で銀狼王の口をつかみ、そのまま真っ二つに裂いてしまった。 「我はもうしばらく様子を見るつもりだったのだがな。そうもいってられんようだ。改めて。久しぶりだなクリス、メイリア。大きくなったな」 「いや、久しぶりって……初めて見るでかさだ」 「我と貴様は以前に出会っている。仮の姿でもこの姿でもな」 『以前出合っている』。なんのとこだ? 「貴様には覚えがないようだがな。だが、たしかに我と貴様は出会っている。隣の聖女にでも聞いてみるんだな」  クリスはメイリアを見た。  メイリアはドラゴンを睨んでいた。  クリスの視線には答えない。 「まぁよい。些細なことだ。それよりももっと重要なことがある。我の提案を受け入れるのなら貴様らの身の安全は保障しよう」 「何を言う。父、父上の敵がーっ」 「ちょっと落ち着け。気持ちはわかるから話だけは最後まで聞け」  クリスはガーネットを抑えた。 「そこのガーネット嬢を我に献上せよ。しからば他のものには手を出さぬと誓おう」 「……献上って、何するんだよこんなのもらって」 「こんなのとは何じゃっ!」  ガーネットが怒った。 「あの馬鹿ドラゴンは、年端の行かない少女を氷漬けにして巣に飾って鑑賞するのが趣味なのよ!」 「うわー」  クリスはうめいた。 「なんて非生産的な」 「……そこか、そこなのか突っ込みどころは」  メイリアがじとーっとクリスを見る。 「ちがう?」 「普通は、『そんな邪悪なことは許せません』とかいいなさいよ捜査官」  いやだってさ。 「飾って楽しいのか?」 「振るな、こっちに」  首を逆にひねってガーネットを見る。 「そのような戯れ言聞く耳持たぬ」  正面に戻す。 「何故理解できぬのか?」  ドラゴンに表情があるとしたら、アレが真顔ってものなんだろう。とクリスは思った。 「……まぁいいや」  クリスはため息をついた。  とりあえず氷龍の提案は、族長としては考慮に値するが人間としてとても飲めない。 「とにかく、貴様はわらわが倒すのじゃ」  ガーネットが叫んだ。そして、メイリアをみて言葉を続ける。 「あやつはわらわ一人で十分じゃ。そこで見ているがよい」 「お、おいっ」  クリスは叫んだ。それはいくら何でも無茶だ。 「父の敵。わらわの槍、その身体で受けるがよい」  ガーネットは槍を掲げて高らかに宣言した。穂先が燃え上がる。  ガーネットは走り出した。 「くっ。行くぞメイリア」 「うん」  クリスとメイリアは並んでガーネットの背を追いかけた。 「なんであんな無茶なことを」 「誰かさんが鈍感だからみんな苦労するのよねぇ」 「誰が?」  メイリアは答えなかった。 「愚かな。氷漬けになって頭を冷やすがよい」 「凍ってるときって意識あるのかな?」  メイリアが走りながら疑問を口にする。 「知らん」  クリスは会話を切って意識を前に向けた。  氷龍はブレスを吐いた。  ガーネットはそれを火槍で切り裂く。  氷が直接蒸発していく。  左右から鉤爪が来る。 「メイリア、頼む」 「聖女メイリアの名において願う。世界をつかさどる七つの精霊よ。かの武器に聖なる祝福を」  祈りながらメイリアは光翼を展開。  左の鉤爪を受け止める。羽が衝撃で飛ぶ。光に変化して消えていく。 「よ、よけいなことをっ」  ガーネットが叫んだ。 「いいから。敵に集中するっ!」  クリスは剣を抜いた。  ガーネットの前に出る。  煌々と輝く白い光の刀身で右の鉤爪を受けた。  胴体ががら空きだ。 「いけーっ」  ガーネットは氷龍の腹めがけて槍を伸ばす。  槍が龍の腹に当たる。  ドン、と大きな音がし、脇腹に機械でくりぬいたような綺麗な大穴が貫通した。 「この程度か?」  ドラゴンの喉から声が漏れる。  クリスの眼前を、白い帯が覆い隠した。  それは氷でできた尻尾だった。  尻尾がガーネットを側面から質量で叩き飛ばした。 「のわわーっ」  攻撃直後、死角からの一撃によけられもせずにまともに食らった。  槍がガーネットの手から離れる。 「愚かな人間よ。これが我の奥の手じゃ」 「それ手じゃなくて尻尾うわっ」  戻る尻尾がクリスを襲う。  クリスは鉤爪を押して、その反動で下がった。  鼻先を尻尾が掠めた。 「まったくもーっ!」  メイリアは拳を構えた。右手が白く光っている。  魔力を込め、踏み込んで龍の腹を一発殴った。  聖女の、本来は治癒力に使うはずの魔力を拳一点に込めた一撃だ。  白い光が吸い込まれる。  ぼぐっ、と重い音がして龍の身体が一部にひびが入った。  だがそれだけだ。 「効かぬぞ、聖女」  ドラゴンの鉤爪に殴られてメイリアは吹き飛んだ。  メイリアはころころ転がったが、すぐに起き上がる。 「メイリア。大丈夫か?」 「大丈夫よっ」  ガーネットを横目で見る。  立ち上がろうとしているが丸腰だ。  氷龍はブレスを吐いた。  ガーネットは転んでおり、冷気を切り裂く槍も手元にはない。  クリスがかばうには遠すぎる。  ガーネットは膝を突いた状態で凍り付いた。 「ふむ。もうちょっと美しい姿勢で永久保存してやろうかと思ってはいたが……これはこれで萌えるか」  クリスとメイリアは並んで構えた。  龍の脇腹の大穴。腰の部分が半分ほどえぐれている。  あそこに何とか一撃当てれば何とか倒せるかもしれない。ガーネットの槍ぐらいの威力が必要だが。  打つ手がなくて二人は動けない。  氷龍は口を開いた。 「これで解ったであろう。汝らでは我には勝てぬ」  鉤爪で凍ったガーネットを器用に引っかけ持ち上げる。 「一週間後、再び来る。そのときまでに子供たちを差し出すか、村一つ全滅するか選ぶがよい」 「待て、ガーネットをどうするつもりだ」  クリスが叫んだ。 「我が巣で永遠に飾っておいてやろう。この姿のままな」  氷龍は翼で羽ばたくと飛び上がった。  ドラゴンが飛び去るのをクリスは黙って見送った。  氷龍と氷漬けのガーネットが見えなくなったところで、クリスは村人たちを呼び寄せた。  戦闘でテントが倒れて踏みつけられ、ぼろぼろになっている。  村人たちが集まってきた。  年老いたおばあさまがクリスに尋ねる。 「ポチさま。これからどうなさるおつもりで?」 「ん? ガーネットを助けに行くに決まってるじゃないか」  クリスは即答した。 「というわけで、みんな力を貸して欲しい。だめかな?」 「どうするんですかい?」  男たちの一人が尋ねた。 「正面から戦っても負け、さらに奥様まで攫われて」 「うん、まぁ、それは何とかする算段はある」  クリスはしれっと言った。 「とりあえずテント立て直して。眠って休んでくれ。見張り以外」 「いや、それで流さないでくださいポチさま」  つっこまれた。 「もうちょっと具体的に話してもらわないと」 「弱点を突けばいい。千年前に生まれたドラゴンと言うことは、千年分だけ歴史に残っているってことだよ。長所も短所も全部覚えられている。こっちが主導権を取れば決定的に有利になるんだよ」  クリスは手を叩いた。 「みんな。休んでくれ。体力を回復させるのも作戦のうちだからね」  クリスがそう告げるとみんな散っていった。 「……策、本当にあるの?」  メイリアが不安げにクリスを見た。 「半分は」  クリスは声を小さくして答えた。 「問題はなぁ。二つあるんだ。一つはガーネットがいないと作戦が成り立たないと言うこと」 「うう、ダメージはいるのってあの火槍ぐらいじゃない」  対属性という概念がある。  光と闇、火と氷、風と土はそれぞれ互いを打ち消しあう、という性質がある。  氷の精霊そのものである氷龍エーベクルーズに、対属性である火槍をたたき込めればふつうの攻撃よりも高い威力になる。  逆に、メイリアの聖属性はどうも無効化されているようだ。 「あの唯一の友たる王女メイベルって聖女様だろ? もしかしれそれで加護でも受けてたりするのか?」 「……そう言えば方正剣エルブランドの石化効果が発動しないって記述があったけど、あれって抵抗したんじゃなくてもともと無効?」 「じゃぁ、先にメイベルが奇跡で属性防御を与えてたとか?」 「かなぁ。だってメイベル奪回の最大の障害が方正剣エルブランドじゃない。命中即石化ってある意味継承剣よりひどいわよ」  まとめると、聖属性無効らしいが根拠は確定できない。少なくてもメイリアの拳は無効。 「……って、よく考えたら殴って効いてないんだから、理由なんて関係ないよな、そもそも」  これでガーネットが戻らないという状況なら、無理矢理にでも属性防御(があるなら)破って一撃加えないといけないが。 「それより別の問題があるんだよなぁ。先に」 「なにが?」 「二つめの問題は、ガーネットを救ったとしても氷漬けから元に戻す手段がさっぱり思いつかないと言うことが」 「駄目じゃない」 「うう。メイリア、何とかできない? 一応聖女さまだろう?」 「一応って。前も言ったけど無理よ。魔力ががっちり食い込んでるからそっちをまず解除しないと」  傷口に釘が刺さったままの状態だと考えるといい。  手当をしても、それを抜かない限り治りようがない。  まず釘を抜いてから、治さないと行けない。今のガーネットはそんな状態なのだ。 「うーむ。氷属性だろう。逆の火属性で……火あぶりするとか」 「並の炎じゃ駄目よ。四方をたき火で囲んで一週間たってもびくともしなかったもの。以前の時は」 「……火口に放り込むとか」 「溶けた後骨まで溶けるわよ」  当然、溶けなきゃ氷漬けのまま地の底まで沈むだけだが。 「……溶けるのか? 火属性って熱の影響受けないはずだろう」 「うっ。でも溶岩で溺れそうよ」 「やだなぁ。シュールで」  溶岩の海の中で、底なし沼のようにずぶずぶ沈んでいくガーネットをイメージしてクリスはため息をついた。  残ったのは右手首から先と槍だけ。 「もうちょっとマイルドなのがいいなぁ。温泉とか?」 「お湯程度じゃ無理よ。たぶん」 「……いや、いいアイディアだ。要はガーネットの魔力が一瞬でも氷漬けの魔力に押し勝てばあとは火槍の魔力のほうが強いから……いけるぞ!」  クリスとメイリアは馬を駆って北へと向かった。  こっちはすっかり雪深くなっている。  馬が足を勧めるたびに雪を蹴って進む。 「本当にこっちで合ってるの?」 「ん? こっち飛んでってじゃん」  メイリアの問いにクリスはあっさり答える。 「もしかして偽装かもよ」 「それはたぶんないね。人間を下に見ている龍がわざわざ人間のために偽装なんかしないよ」 「むぅ、なんかそういわれると確かにそうかも」 「だいたいの場所は予測付いてるしね」 「そうなの?」 「北の部族で聖地と呼ばれているフォーレ山、たぶんそこだ」 「なんだ、じゃぁもう場所は解ったも同然じゃない」 「問題は地図がないから位置が正確かどうかがさっぱりで」  幸いにも迷わずにそれらしき洞窟にたどり着いた。 「でかいな」  山の裾野に、巨大な穴が開いていた。 「うーん。ひとりなんとか通れそうな大きさね」  この場合のひとりとはドラゴン一体のことであるが。 「じゃぁ、行ってくるから留守番よろしく」  クリスはそういうと馬を下りた。 「なんでよ。私も行くわ」 「駄目。偵察だから人が多い方が見つかる確率が上がる」  クリスは言った。 「見つかったらちゃんと逃げてくるからさ。待っててよ」  メイリアが寄ってきて、クリスを抱きしめる。 「本当に無茶するんじゃないわよ」  クリスはメイリアの背中をぽんぽん叩いた。 「うん。大丈夫だよ。メイリアほど無茶じゃないから、俺は」  メイリアは本気で腰を締めた。 「ぐえっ。背中が、背中が折れるぅ」  クリスはゆっくりと洞窟内を進む。  天井が高い。  ほぼ同じ太さを保ったまま洞窟は奥へとまっすぐ続いている。 「……本当に掘ったんじゃないのか? ここ」  つい呟く。  洞窟の奥深いところだというのに、外の陽光が壁に反射して薄明るい。  凍り付いた足下が滑る。 「どこまで続くのやら」  足が速まる。  ガーネットはどこにいるのやら。  クリスは急ぎながらも、足音を立てないように進む。  忍び足は捜査官時代にいつも使っていた。こっそり容疑者の後を付けたり、潜入捜査の時にばれないように隠れるために。  しばらく進むと、再び明るくなってきた。  明かりは奥からだ。 「むむ?」  光源でもあるのか。  用心しながら先を伺う。  風の音がする。  どこかに開いているのか。  唐突に洞窟は終わった。  天井から陽光が降り注いでいる。上が開いているのだろう。  そこには氷でできた神殿があり、そこに龍が目をつぶって伏せていた。  龍の前には氷像があった。  氷漬けになった、膝を突いたガーネットだ。  クリスは少女を見つけて頭を押さえた。 「いかんなぁ」  こういうときに、「ガーネットを返せ!」とか言って無防備に飛び出せるのが男なのかもしれない。  クリスはそう思った。  こんなときにも先に取るべき手を考えてしまう自分に軽く自己嫌悪しながらクリスは辺りを見回した。  周囲には、いままでドラゴンがコレクションしたのであろう氷漬けの美少女たちがいっぱい飾られていた。  全員、胸がない。  ある意味見事かもしれない。 「全然解らん趣味だ……」  とりあえずクリスは引き返すことにした。  クリスは村人を呼び寄せて北へ向かった。  全員、付いてきた。  北の洞窟の近くまで来ると、クリスは馬を止めて振り向いた。 「じゃぁ、この辺でテント張りますか」 「ポチさま?」  村人のひとりが手を挙げた。 「ここで何をすればいいんで? 皆でドラゴンの巣に乗り込むんですか?」 「いや、しなくていい。というかしないでくれ。するな」  三重に否定した。 「ちょっとした作業を手伝ってほしいんだ。まぁ、以前やった穴掘りみたいなものかな……今回もシャベル使うし」  村人たちは首をひねった。 「雪を使って滑り台を作ってほしいんだよ」 「えー、あのですね。『滑り台』ってなんですか?」 「まずそっから説明しないと駄目か」  あたりに材料はそろっている。  木のスコップで雪をかき集めて、滑り台をを作る。  洞窟前からふもとの温泉まで、一本の長いやつを、だ。  とりあえず六つの班に分かれて場所を分担して作業を開始した。 「土掘るよりはマシだと思ったんだが、結構重いもんだな」  村人の一人は、額に汗をかきながらスコップを掲げて、雪を胸の高さにまで積み上げた。  ある程度形ができたところで、中央にくぼみを付ける。  そして上から水をかけた。  翌朝、凍ってかちんこちんになっていた。  メイリアはくぼみに手を触れた。 「なるほど、ここに氷像を滑らすってわけね」 「そういうこと」  下流方向から子供たちの笑い声が聞こえた。  木の板を尻に敷いてそり代わりにして滑っていた。 「こらっ。危ないからやめなさいっ」  注意している端から、カーブで曲がり損ねて空中にぶっ飛んだ。  背中から落ちたが幸いにも雪の上だ。 「うきゃっ。冷たい」  首元をぱしぱし叩いている。雪でも入ったのだろうか? 「もうちょっと傾き付けないと危険なようね」 「そーだね」  良いテストになったのかもしれない。 「で、これを何に使うんですか?」 「ここにガーネットを滑らせて温泉まで逃げてきてもらうんだよ。馬で運ぶより早いだろう? それに捕まっているのはガーネットだけじゃないし」  そんなこんなで滑り台は完成した。  クリスは洞窟の前でドラゴンを待っていた。いつ飛び立つかいつ飛び立つかと木陰に隠れて見張っているが、さっぱり動きがなかった。 「はい、ごはん」  メイリアがやってきた。手には湯気の立つスープがあった。 「気張りすぎよ。ずっと待ってたってしょうがないじゃない」 「……むかし、たぶん、ドラゴンとやり合ったんだな」 「うん、クリスが氷漬けにされて、戻ってからも恐怖から帰ってこなくて。それで記憶を」 「まだ子供だったからなぁ」  少年の頃、記憶がすっぽり欠けていると思ったらそのせいか。 「大丈夫。それよりなんかあったのかな、中」  クリスはスープを飲んだ。口の中が一気に焼ける。冷え切っていたからだが中から暖まる。 「ドラゴンに動きがないぞ」 「ガーネットで満足して冬眠しているとか、かな」 「やだな、それ」 「そうじゃないなら、思ったよりダメージが大きすぎてまだ回復しきれてないのかもね」 「俺たちにできることは待つことだけだからな。ん?」  でっかい氷穴の中から大きな輝きが姿を現した。  陽光を浴びて煌めく氷龍は、翼を広げて飛び立った。 「さすが精霊の中でもトップクラス。綺麗だよなぁ」 「……でも、誰かさんが泥棒にはいるの気がついてないんだよね。なんか間抜けだよね」 「なんでこーロマンのないこと言うかな」 「あれとどつきあうこと考えたらロマンなんかに浸ってる暇ないわよ」  メイリアはクリスの脇腹を肘で突っついた。 「うう」  ドラゴンの腹にガーネットが開けた腹の穴は、既にすっかりふさがっていた。 「ようやく治ったっぽいな」 「外見上だけなら良いんだけどね」  しばらく様子を見て、戻ってこないのを確かめてからクリスは胸元をごそごそした。  捜査官を表す隼の紋章だ。  隼の尾を咥え、息を吹き込んだ。ぴーっと澄んだ音が森に響いた。  滑り止め代わりにクリスはロープを靴に巻いた。  で、主のいなくなった洞窟にこっそり忍び込む。  クリスを先頭にメイリア、そして村の男たち十二人が続いた。  ドラゴンが通れる洞窟だ。天井はむちゃくちゃ高かった。 「これ、入れるようにアレが自分で掘ったのかな?」 「またそんなことを」  メイリアの発言は吟遊詩人を十人ぐらい敵に回しているのかもしれない。  しばらく進むとさらに広くなった空間にたどり着いた。 「うひー」  村人の一人が変な感嘆の声を上げた。  天井に穴が開いていて、陽光がそこから降り注いでいる。  巨大な神殿がそこにあった。  すべて氷でできており、綺麗に細工がされている。壁はなく柱と天井だけではあるが、それは前史時代の遺跡を彷彿とさせた。 「あれも自分で作ったのかな? つま先でかりかり柱に溝を付けたり」 「後で本人に聞けよ」  とりあえずクリスは聞き流した。  周りには美少女の氷像というか氷漬けになった美少女が並んでいる。  ひざまずき、手を組んで目を強く閉じている娘がいれば恐怖に顔をゆがめて腰を抜かしている娘がいた。  弱々しいすべてをあきらめたほほえみを浮かべた娘がいれば膝を突いてにらみ上げている娘も……これはガーネットだ。  無理矢理攫ったのもいれば、生け贄に捧げられたのもいたんだろうか?  クリスはガーネットのそばに行くと、氷漬けになった彼女を押した。  ずるずると氷漬けになった床を滑る。 「なんとか、なりそうだな」 「そうね。じゃぁ、持てるだけ持っていくってことで」 「うん……なんか盗賊みたいだなぁ」 「やってることはそのまんまだけどね。嫌なら救出作戦とでも考えなさいよ」  下り坂になると自重で滑り始めた。  クリスは勝手に流れていかないように手で押さえながら洞窟を進んだ。  外には見張り役の男が二人立っている。 「どう?」  クリスは尋ねた。 「異常はありません。ポチさま」  二人はドラゴンを見張るためだけに立ち番をしているのだ。  氷龍が来たら笛を吹いて皆に知らせるのだ。  クリスはガーネットを押して進んだ。  龍の巣の目の前ということで、さすがに手を入れることはできなかった。  とりあえず踏み固めさせるように指示は出していたが。  ようやく森の中に入った。 「これで、よし」  凍らせた道の上に、ガーネットを押しやった。  つつつっと滑り出す。  ガーネットを送り出して、クリスは洞窟前まで戻ってきた。 「あーっ。止めてーっ」  洞窟内から悲鳴がした。  直後、洞窟から氷像が飛び出してきた。上に誰かが乗っている。クリスは慌てて避けた。それは雪をかき分けながらずるずると滑って、森直前でようやく止まった。  メイリアの黄金色の髪が風に揺れた。彼女は氷像の上にまたがって滑ってきた、らしい。  もうちょっと勢いが付いていたら木にぶつかって粉々だったかもしれない。  クリスはこめかみに汗を感じた。  洒落にならん。 「いやー、ごめんごめん」  メイリアが笑いながら振り向いた。 「一応突っ込んでおくが、メイリアが乗ってたの人間だぞ」  いーのかそれ。 「んー。早いし」  クリスは頭を抱えた。 「まぁいいや。あんまりよくないけど。じゃぁ、見張り代わるぞ」  クリスは見張り役にそう告げた。二人はうなずくとメイリアの乗っていた氷像にとりついて運び出した。 「さてと、作戦確認するね。ドラゴンが来たら誘導しながらとっとと逃げる」 「そういうこと」 「大丈夫? 本当に」 「計算上は大丈夫のはずだけど……」  南の空に影が見えた。  それは次第に大きくなり、大きな翼を広げてクリスたちの目の前に急降下してきた。  クリスは慌てて笛を吹いた。  氷漬けの少女を運んでいた村人が、それを聞くなり少女をおいて走って逃げた。  ドラゴンが着地して、雪が舞った。  視界が白く覆われる。 「何をしている。貴様らは」 「悪いドラゴンから攫われた娘を助け出しているのよ」  メイリアが胸を張ってきっぱり答えた。 「この泥棒がっ!」 「私が泥棒ならあんたは強盗よ!」 「いや、みんなそういう問題じゃないだろう」  とりあえず、氷龍がメイリアに気を取られているうちに、クリスは走り出した。 「先行くよ」 「とっとと行きなさい」  メイリアは光翼を広げて飛び上がった。  あっさりクリスを追い抜いて森の上へと飛んでいく。  んで。 「返すがよい。八つ裂きにしてでも奪い返すぞ」  ドラゴンの声が聞こえた。  クリスはそれを無視して森に入る。  氷で作ったスロープの前に置いておいた木製のそりをひっつかむと、前に放り投げてそれに飛び乗った。  すすすーっとそりは滑っていく。 「これで何とか逃げ切れれば、ああっ」  後ろを見たら龍が迫っていた。  森の中に首を突っ込んでいる。雪で覆われた木々が龍の肩にあたって根本から折れる。  クリスめがけて木が倒れてくる。 「うひょー」  そりの尻をかすめて木が倒れる。氷が割れて破片が飛び散る。  ドラゴンが迫る。  口を大きく開けて、水晶の牙でクリスをかみ砕こうとする。  クリスは抜刀した。  物理的な実体は折れて存在しないが、薄く光の刃がある。  振り向きざま剣を掲げた。  光の刃と氷の牙がぶつかり合い、光が舞った。  衝撃でそりごと前に飛ばされる。 「うひっ。止まらない」  もう一度迫ってくる。  クリスはそりの上に器用に立った。  ふらつく。 「来いよーっ」  ドラゴンに合わせてクリスは飛んだ。  牙を越えて、鼻の上にぺたりとはりついた。 「なんのつもりだ?」  氷龍が首をぶんと振ると、空中に吹っ飛んだ。  どこまでも落ちて行くみたいだ。  このまま落ちたら死ねるなぁ。さすがに。  下を見ると木々をなぎ倒しながら雪崩のようにドラゴンが進んでいるのがよく見える。 「何遊んでるのよっ!」  声とともに、メイリアに空中で支えられた。  光翼をぴんと張り、バランスを取っている。 「いやー、すまん」 「まったく。クリスは私がいないと駄目なんだから。本当に」  メイリアは急降下した。  主がなくてもけなげに氷の上を滑っているそりの上にクリスを戻す。 「連れてってくれないの?」 「クリス乗せたまま空中戦なんって無理よ」  妙に強調して言われるものだ。  空中で振り向いて、メイリアはドラゴンに向き直った。 「こっから先は行かせないんだからっ!」  メイリアの拳に光が集まる。  本来は治癒に使われるべき聖女の莫大な魔力が拳一転に集まる。  羽ばたきとともに、ドラゴンに打ち込む。  光の奔流がメイリアと氷龍のあいだに吹き流れた。  それは唐突に終わった。  メイリアが弾かれて空中にぽよんと飛ばされた。  クリスは頭を抱えた。 「もしかして聖属性無効だったりするのか? 聖典には全く書いてないが……」  身も蓋もない話、それが聖なる力だったらどんなに威力があろうが一切ダメージを受けないのかもしれない。  さすがに聖女と殴り合うドラゴンというのは聞いたことがないからなぁ。  そんなことを考えているあいだにドラゴンがまたまた迫ってきた。 「ん? やばっ」  坂の傾きが緩くなっている。  つまり速度が落ちるわけで。  ドラゴンの口がすぐそばまで。  クリスは慌てて飛び降りた。  牙に引っかかって、今まで順調に滑っていたそりが氷のスロープをはずれた。雪の上を迷走する。  そして支えのなくなったクリス。 「いかんな」  クリスは腰の革袋を外すと、口紐を解いた。  無色の液体が流れ出す。  それをコントロールして、一枚の板状に。  そこに着地。  板の上に乗っかって、雪の上を器用に滑っている。 「まぁ、方向はだいたい合ってるから問題はないか……」  しかし問題はそっちじゃない。  ドラゴンが迫る。  クリスは木々を避けながらするするとそりに向かって曲がりながら滑り続ける。  だが、ドラゴンのほうが早い。 「ぐえ」  進行方向に倒木があった。  想定コース外なので避けさせてなかった。  ジャンプしないと。  クリスはこぶを利用して飛んだ。  空中で動きがとれないクリスに向かって、ドラゴンが一気に口を開けた。  背の翼で羽ばたく。  クリスに牙が迫る。 「そんなにほしいなら、くれてやる」  クリスは空中で板状にしていた液体を蹴った。  固定化が解除されて、ドラゴンの顔にかかった。  強いアルコールの香りがする。  それは水ではない。 「おまけだよっ」  クリスはマッチをするとそれを後ろ、ドラゴンへと投げた。  火が引火する。  火を近づけただけでも燃えてしまう、非常に強い酒だ。  ドラゴンが一瞬ひるんだ。ただの火では精霊たるドラゴンに効くわけではないが、弱点ではある。 「さすが、火龍フレイアリーナの名を冠した酒なだけのことはあるなっ」  精霊には精霊、といったところだ。  そのままクリスはそりの上に着地。  森の終わりが見えた。  森を抜けた。  蒸し暑い。ここだけ夏のようだ。  雪が綺麗になくなっている。地熱のせいだ。  そりが地面に引っかかり、急ブレーキがかかった。  クリスはつんのめってそりごと転がった。 「ぐえっ」  続けてドラゴンも飛び出してきた。  クリスは即座に立ち上がると木の板の上を走る。  周りが急に暖かくなり湿気を帯びてくる。 「こんなところでいったい何をしようというのだ?」  ドラゴンは立ち止まった辺りを見回した。 「熱いのは苦手かい?」 「たわけ、この程度でどうにかなる我ではない」 「温泉はある意味火属性と水属性の複合地域。そのお湯の中にいて、ドラゴンの魔力といえども影響を受けて弱まらずにいられるかな?」 「愚かな。その程度で破れるような魔力だと?」 「試してみた人はいるのかな? そんな愚かなことを」  クリスは大きな湯壺まで行った。底にガーネットが仰向けに沈んでいる。  そばに置いておいた赤い槍を掴む。  クリスは槍の主ではないので使いこなすことはできない。 「さぁ、ご主人様を助けておやり」  そう告げるとクリスは槍を湯気の立つ泉に放り込んだ。  槍は揺れながらガーネットの上に沈んだ。  変化はない。 「人間よ、貴様がやったことがなんの役にも立たなかったらどうするつもりだ?」  ドラゴンが尋ねた。 「そりゃ、別の手を考えるよ」  クリスはあっさり答えた。  湯の中から泡が立った。  一気に沸騰するように底から吹き出てて来る。  湯がはじけた。  中から槍を構えたガーネットが飛び出して、湯壺の前に立った。 「クリスよ。ありがとう」  ガーネットはクリスに背を向けたまま呟いた。 「ん。まぁ当然のことをしただけだ。あんまり気にするな」 「そうか。では気にせぬことにさせてもらおう」  ドラゴンを見上げるとガーネットは声を張り上げた。 「状況はさっぱり解らぬが、今度は負けぬぞ」  ガーネットは槍を掲げる。赤い槍が炎に包まれる。 「あ、ちょっと待て」  クリスが言うとガーネットがこけた。 「なんじゃ。後にするがよい」 「駄目。先じゃないと」  クリスは言い切った。 「さて、氷龍エーベクルーズよ。興味深いものをご覧に入れよう。こっちを見てみるがいい」  クリスはそう告げると手を挙げた。  岩の陰から子供たちが出てきて。 「おねーちゃーん」 「やめてー」 「せっかく仲良くなったのにぃ」  口々に声を上げる。 「ぬぁっ」  ドラゴンはその姿に似合わぬ声を上げた。 「な、な、何をさせるんだ人間!」 「ようやくびっくりしたな」  クリスは口元をゆがめた。 「クリス。それじゃぁただの悪人よ」 「うう」  しゅんとなる。 「人間。貴様、こんな危険なところに小僧どもを連れてくるなどと何を考えている」 「みんな協力してくれたんだよ。『お姉ちゃんを助けるため』ってね」 「我をか? いったいどういう?」 「一つ提案がある」  クリスは指を一本立てた。 「こっちが要求することは一つ、氷漬けにした娘たちを全員解放して、もう二度とおそわないこと」 「二つじゃん」  メイリアが突っ込んだ。 「うるさい。その代わり、こっちはエルスたんが一番欲しいものを最高の環境で提供しよう」 「もったいぶる奴だな、いったい我に何を差し出すというのだ」 「子供たち、いつでもなでぐりかわいがわり権」 「は?」 「別にこう、わざわざ氷柱漬けにすることもあるまい。生身はいいぞ。暖かいし」 「……クリスが言うと深く意味取っちゃうなぁ」 「なんでこっちをじとーっと見ているんだよ。後にしろ」  メイリアの視線を手で払う。 「そうじゃ。クリスに抱かれていると体中クリスと溶けているような気分になるのじゃ」 「不穏当な表現やめれ。解ってない言葉振り回すなっての」  ガーネットに突っ込んでクリスはドラゴンに向き直った。 「どうだ?」 「そのようなことを言っても、今更どうなるものでもない。第一小僧どもが承知するまい」 「ああ、それなら全員にもう確認取っている」  クリスが子供たちのほうに手を振ると、子供たちは両手で大きく手を振った。 「日頃の行いっていいなぁ。全員、了承してくれたし。エルスたんのためにみんな戦場近くまで来てくれている」  クリスは続ける。 「どう? 今なら特別セールでガーネットも付けるけど」 「勝手に付けるでない。わらわは汝のものじゃ」  ガーネットがわめく。 「まぁ、なでなでぐりぐりぐらいは許してくれるだろう。というわけでどうだ? こっちに付いたほうがお得だと思うんだが? な?」  ドラゴンはしばらく黙っていた。  蒸気が岩の隙間を抜ける音が遠くから聞こえてくる。 「駄目だ。人間は信用できん」  ドラゴンは回答した。 「どうしてもわらわを従わせたかったら、我に勝がよい。そうすれば貴様の支配を受けてやろう」  ドラゴンは翼を開き、鉤爪を構えた。 「うう、想定の範囲内ではあるが予想外だ」  クリスはぼやいた。 「どう読んでたのよ」  メイリアがちらりと視線を振ってきた。顔はドラゴンに向けている。 「だってさー、これエルスの希望はおそらく全部飲んでるぞ。あと何付け加えろって言うんだよ……」  そしてため息一つ。 「もう交渉云々じゃなくてたぶん人間そのものを信じる気がなさそうだな。うひー」 「奇声上げてるんじゃないわよ」 「うう。言葉って無力」  ガーネットが突撃した。  火の粉と氷の輝きをまき散らしながら、二人はぶつかり合う。 「うう。メイリア、頼む。予定通りに例の場所に誘導してくれ」 「了解」  メイリアは光翼を広げて前に出た。ガーネットの援護だ。 「無駄な戦いだよなぁ」  クリスはため息をつきながら走り始める。 「おーい、みんな隠れててくれ」  子供たちに声を飛ばす。 「ポチさまー。先生をお願い」 「わかった。前向きに善処するから伏せてろっ!」  叫び返す。 「それからガーネット、広いからこっちにとっとと来い。ひとりで勝手にやられたらあとでおしおきするぞっ!」 「でもさ、ばればれじゃない?」  小声でメイリアが言う。  光翼で鉤爪を止めながらガーネットを援護。一撃くれてやるだけの隙を作るために防御に専念している。  メイリアの拳では氷龍にダメージが入らないためだ。 「私のパンチが効くなら何発でも打ち込んでやるって言うのにっ」 「たまには聖女らしく戦えよっ」 「聖女らしくって何よっ!」  少なくても目の前のアレではないことは確かだろう。 「ガーネット、こっちに」  クリスを一瞥して頷く。  何か仕掛けがあると一発で理解したようだ。  さすがガーネット。身体で覚えると忘れない。 「聞こえておるぞっ! わらわは動物かっ」 「俺だって動物じゃなかったぞ。わりと」  ずりずり後退しながらようやく目印代わりの岩にたどり着いた。  地熱を受けて熱く、水蒸気が飽和して凝結してべっとり濡れている。  ドラゴンが来た。  飛び上がって、様子をうかがっている。  ちょうど岩の真上だ。 「いまだっ。メイリア!」  メイリアは蓋代わりにしていた岩をぶん殴った。  岩が割れる。  それを下から跳ねとばしながら、白い柱が地中から吹き上がる。  それは氷龍めがけて一直線に伸びていく。 「その程度か。気がつかぬとでも思ったか!」  ドラゴンは羽ばたいて避けた。  吹き上がった蒸気で、周囲が白く曇っている。  それを突き破ってメイリアが飛んだ。  背にガーネットを乗せ、光翼を大きく開いてドラゴンに迫る。  濃い湯気がブラインドになった。  ガーネットはメイリアの背から飛び上がると、燃える槍を龍に突き込む。  間欠泉に気を取られたドラゴンは防御が遅れた。  ガーネットの槍が、ドラゴンの脇腹に丸く大きな穴を開ける。  脇腹を貫通した。  龍の右の翼を引き裂いてガーネットが龍の脇をすり抜けた。 「甘いかっ」  ドラゴンの身体が一瞬落ちかける。 「まだだ。この程度ではまだ我は死ねぬ!」  ドラゴンは身体を半分失いながらもまだ空中に静止していた。 「ごめんメイリア」  クリスの声が響いた。  空中でドラゴンの様子をうかがっていたメイリアを踏み台にして、クリスが氷龍の元に飛び上がった。 「貴様か。貴様の力で我に通じるのが何かあるとでも言うのか。クリス」 「試してみる価値はあるだろう」  クリスは右拳を掲げた。 「集え水よ。我が元に」  クリスの拳に、上空から水滴が集まってくる。  それがクリスに触れるたびに大きくなっていく。  いまだ熱気を持った、間欠泉から吹き出てきた熱湯だ。 「俺の力は効かないとしてもだ、この大地と水の生命力がこもった水ならどうかな?」  クリスは龍に拳を触れた。  同時に、集めた湯を解放する。  ぱしゅん、と軽い音がした。  圧縮されていた熱湯が一気に解放され、ドラゴンの身体を包む。 「ぐおおおおおおっ」  片翼を失ったドラゴンはそれに押しやられるように落下して湯壺の中に沈んだ。 「くっ。このような手でやられるとは我の千年の生の中でも初めてだ……」  ドラゴンは首だけ湯の上に出して喋っている。ちょうど首のところが湯壺の端に当たった。岩が割れている。そこから湯がだらだらと流れ出してる。 「かなり納得はいかんが我の負けだ。貴様の好きにするがよい、クリス」 「人生投げるのはあんまりよくないぞ、いくら生き返るからって」 「ふんっ。しかしだな。我が再び生を受けたそのときには真っ先に貴様に挨拶に行ってやろう」 「いらん」  クリスはげんなりと肩を落とした。 「ふ。ふふふ。ははははは」  そして高らかに笑うガーネット。 「ようやく父の敵が討てる。大地のそこで眠っている父上。いまこそこの邪悪なるドラゴンに裁きを」 「あー、ちょっと待て。というか永遠に待ってくれ。すまん。頼むメイリア」  クリスはそんなガーネットを抱きかかえて後ろに下がる。 「ぬわっ。離せクリス。そういうことはあとでゆっくりするからちょっと待つがよい」 「……いいの本当に? もう一戦はさすがに無理よ」  メイリアが心配そうにクリスを伺う。  クリスは黙ってうなずいた。 「はいはい」  メイリアはドラゴンの頭のそばに跪くと、そっと氷龍の頭に触れた。 「何をするつもりだ?」  メイリアはそれに答えずに祈る。光翼を展開して、体中が光り輝く。 『天におられる神よ。どうかこのものに神の癒しを』  メイリアの光が、手を通してドラゴンに吸い込まれていく。 「クリスっ。汝は何を愚かなことをっ!」  クリスの胸の中でガーネットが叫んだ。  湯壺が白く光った。 「なんのつもりだ、人間っ」  ドラゴンはいきなり叫んだ。  湯船から飛び出る。腹の傷も、粉砕された片翼もすっかり元通りになっている。 「はう。さすがに精霊たるドラゴンなだけのことはあって。そもそもの魔力の容量が違いすぎるわ。疲れた」  メイリアは膝を突いたまま状態を倒してへたり込んだ。 「うう、全部持っていかれた気分」  さすがの聖女とはいえ魔力まるまるつっこまないと癒せなかったようだ。 「答えよ人間。いったい何のつもりだ。人の身で我に情けをかけるつもりかっ!」 「そうじゃ。こんな奴に情けをかけてどうするというのじゃ。せっかく父の敵が討てるというのに」 「なぁ、ガーネット。一つ疑問だったんだが。パパはドラゴンを殺したかったのか?」 「む? それはどういう意味じゃ?」 「パパはドラゴンが村の子供を襲うって攫うから戦ったんだよな?」 「その通りじゃ」 「で、いまの氷龍には子供を攫う能力がない。俺たちのほうが強いからね」 「うむ。わらわとクリスと……メイリアがいれば問題ないのじゃ」 「で、だ。実害がないドラゴンをパパだったら殺したかね?」 「む、むむむ」  ガーネットはうなった。 「いや、しかし。また再び襲うかもしれぬではないか」 「まぁちょっとだけでいいから黙ってな。本当に襲う気があるか見てみようじゃないか」  クリスはガーネットを抱いた腕を放すと、赤毛をなでなでした。  そして、改めてドラゴンを見据えた。 「何のつもりといわれてもな。『好きにするがよい』といわれたので、喜んで好きにさせてもらっただけだが。駄目か?」  クリスは平然と答えた。 「……何が望みじゃ」 「ん、まぁ最初に言ったとおり、娘さんたち解放してもう二度とおそわないって約束してくれれば。あとおまけに子供たちの面倒でも見てもらえると助かる」 「本気か?」 「最初に言ったとおりだ。ここで倒してまた復活されて襲われるほうがデメリットが大きいという判断だ」 「信じられぬ」 「嘘付いてもしょうがないんだが。……じゃぁ、信じなくてもかまわん。俺が勝った以上、俺と契約を結んで従ってもらおう。嘘だと思ったら好きに掛かってくるといい」  ドラゴンはクリスを正面から睨み付けた。 「……よかろう、今回だけは貴様の口車に乗ってやろう」  ドラゴンの姿が、砕け散った。  反射光の中からエルスが姿を見せた。 「信じて、いいのね?」 「交渉で嘘をつくほど愚かじゃないぞ」  クリスは答えた。 「えー。デートの約束すっぽかしたのって指だけじゃ数え切れないわよ」 「って茶々入れるなってぇのまじめな話にっ」  クリスはメイリアをジト目で睨んだ。  テントが整然と並んで陽光を受けている。  クリスは目を細めた。 「うーむ、ようやく帰ってきたんだなぁと」  帰ってきた。俺の帰るところはここなんだなぁ、と妙に感傷にふけってしまう。 「なに真っ昼間から黄昏れているのよ」  メイリアに突っ込まれた。 「終わった?」 「うん、一応、一通りリストにしたし。とりあえずそれぞれの村に送り返すのは捜査局の仕事だしね」  氷龍エーベクルーズの宝、こと氷漬け美少女たちも約束通り解放された。  中央側から攫われてきた娘はメイリアが先導して連れ帰らせることにした。  俺は指名手配中で帰れないし。 「というわけで、予定通り今から行って参ります。族長」 「よろしう」 「ついでに母さんに伝言あれば伝えとくけど」 「……不承の弟子でごめんなさい」 「了解っ」  メイリアは笑って去っていった。 「さてと」  一応、様子でも見に行くか……そういやガーネットどこ行った?  ガーネットを探しがてら、子供たちの様子を見に行くことにした。  北の堀を越えて草原に出ると、子供たちが遊んでいた。ボールを蹴っているのが見える。  そして草むらに座りひとりの女性を囲んでいる子供たちもいた。  ノースリーブの寒そうな服を着た彼女は、クリスを見るとほほえんだ。 「あらご主人様」  そして危険な台詞を吐いた。 「ご主人様って」 「ポチさま、奥様だけじゃなくて」 「あげくに聖女さまもおまけに付いてきてもまだ足りないんですか」  子供たちがじとーっとクリスを見ている。 「エルスさん、いったい何を教えているんですか」 「わたし、何も教えてないわよ……」 「うちの母さんがポチさまにだけは気をつけろ」  ……あとで文句の一つでも付けていいですか奥さん。 「えー。まぁ、調子はどうですか?」 「はい、ちゃんと仕事はこなしておりますよ、ご主人様」 「……そのご主人様というのやめれ」  エルスは薄くほほえんでごまかした。 「ガーネットが荒れるからさぁ」 「ふふ。私の本命はガネちゃんですから」 「やかましい」  クリスは頭をかいた。 「……まぁ、お変わりはないようで」 「ポチさまは、先生もお嫁さんにするの?」  子供が聞いてきた。 「絶対にしねぇよ」  森の中にガーネットはいた。 「どうかしたのじゃ?」 「うむ、一緒に祈ろうかと」 「そうか、感謝するぞ」  そこはガーネットのパパの墓だった。  墓標らしいものはない。ただの大木が目印なだけだ。  二人は静かに祈った。 「クリスや。ありがとう」  ガーネットは樹に視線を向けたまま、呟いた。 「ん? ドラゴン倒したのはガーネットだろう? 俺はちょっと一押ししてとどめ刺しただけで」 「そうではない」  ガーネットは遮った。 「クリスと出会えて、わらわは幸せじゃ」 「そうまじまじと言われると照れるぞ、ちょっと」 「さぁ」  ガーネットは手をさしのべた。 「戻ってお昼にするぞ。今日はメイリアがいないからわらわが作るのだ」 「そうか、楽しみにするぞ」 「ふふふ。わらわの修行の過程、ばっちり見るがよい」 「できれば成果のほうが見たいんだがねぇ」  クリスはガーネットに引っ張られるようにして森をあとにした。  木漏れ日の中、二匹のリスが口いっぱいにどんぐりを含んで落ち葉の上を駆けていった。