過去よりの使者


 大きなガラスの窓辺で、赤い髪をした神官服の女性が外を見下ろしていた。いつものエプロンは身に着けていない。
 青く染めたロングスカートのワンピース。
 赤い前髪は長く、目元まで隠していて表情は伺えない。
 女性の名をリルリィーアという。こう見えても捜査局の支部長だ。
 館の庭には、焚き火が複数あり、その脇に紺色の制服を着て長い棍棒を持った捜査官が、屋敷に背を向けて見張りに立っていた。
「何か気になることでも?」
 男の声にリルリィーアは振り向いた。
 そこにはこの館の主がいた。アインツベルクというなの亡命貴族だ。男は剣を帯びている。
 その脇には、娘のローゼが父のズボンの裾にすがり付いていた。
「こら。ローザは甘えん坊だな」
 アインツベルクは娘の頭をくしゃくしゃとなでた。梳られた長い金髪が崩れるが、ローゼは目を細めて頬を父親の胸に当てていた。
 リルリィーアはそんな二人を見て口元を緩めた。
「いえ。念のため、外の様子を見ていただけです」
「大丈夫よね。リルリィーアさん」
 ローザは言った。
「こんなにたくさんの人でパパを守ってくださるし。それに、リルリィーアさんがここにいるもん」
 ローザの笑顔が、ランタンのせいか赤っぽく見える。
 少女の背後で、少女の影がちらちら揺れている。影は彼女の背後の扉を半分ぐらい覆っている。
 と、その扉が音もなく開いた。
 廊下にもランタンが置いてある。そのせいで廊下はちょっとだけ明るい。
「ん? どうしたの?」
 ローザは扉にゆっくりと近寄った。
「待て」
 リルリィーアはそれを止めた。  ローザは止まり、リルリィーアを振り向いて首をかしげた。
 リルリィーアは扉をしばらく見ていたが、だれも入ってこなかった。
 そして誰の気配もしなかった。
「何だ? 勝手に開いただけか?」
「部下の方では?」
 アインツベルクは言った。
「いいえ。用があるなら既に言っているでしょう。普通。おーい。オルト、ベルダ? いないの?」
 リルリィーアは廊下に立っているはずの部下の名を呼んだ。
 返事がない。
 気配までない。
 リルリィーアは壁越しでも「人がどこにいるか」は大体わかる。目が見えなくて戦闘できないと死ねる環境だったので。
 訓練すれば気配はある程度消せるが、見張りの二人は消せない(そもそも見張りなので消す意味はないが)。
「どこ行ったんだ?」
「ちょっとこう、生理現象では?」
「そうだったらあとでひっぱたいてやる、いや失礼。やさしく教育して差し上げますわ」
 軽口を叩いてはいるが実はそれどころではない。
 リルリィーアはこめかみのあたりがちくちくするのを感じていた。
 誰かから見られている。
 しかしどこからかわからない。
 そもそもそんな視線は存在しないのではないか。そんな気もする。
「アインツベルク卿、ローザ様。どうか私のそばを離れないように」
 すごく嫌な気分だ。
 廊下にいた二人の部下の返事がない。
 常識的に考えて、二人いっぺんにしゃべれない状態になるということは考えられない(サボりだったらあとで殴る)。
 ということは外部的要因、つまり侵入者によって二人いっぺんに無力化されたと考えるべきで。
 音ひとつないのが不気味だ。
 誰も動かない。
 ランタンの炎だけが揺れていて、それにあわせて影が揺れる。
 壁で巨人が踊っているみたいだ。
 リルリィーアの体を、何かが通り過ぎた。
 主観的にそう感じたということではあるが。それは光であり、かつ闇そのものだった。人間の持つ意識。殺気と呼ばれるものだ。
 気配が急に現れた。呼吸のリズム。それがアインツベルクのすぐ脇に。
 リルリィーアの視界の隅で影が動いた。
 黒い影が蛇のように伸び、宙に舞い、その持ち上げた鎌首をアインツベルクの首めがけて伸ばした。
 細い紙が首を切断。ころんと頭が外れ、回転しながらながら落下を始める。
 飛び散った血が薄く延びた影に触れる。それはあっさりと通過して地面に点を穿った。
 頭が頭頂部を床に当てて、弾みながら転がっていく。赤い染料を塗りたくりながら。
 胴体が倒れた。首から湧き出る血が次第に増えてゆく。
 寒気がした。
 目の前の首、にではない。
 心臓がどくん、と跳ねた。体が勝手に戦闘態勢を取ろうと熱くなる。
 体の中は嫌に熱いのに、背を冷たい汗が流れ落ちる。
 リルリィーアは視線を向けた。
 物理法則を無視して、いまだに宙にその薄っぺらい姿をさらしている影の根元を。

 そこには一人のメイド服を着た女性が立っていた。彼女の足元から、影が伸び上がっていた。
 不思議なことに、彼女の背後には影がなかった。
 彼女はリルリィーアと同じ赤い髪をしていた。ランタンのせいで燃えるような色だ。
 そして、長い前髪。目元まで隠れて表情が良く見えない。仮面みたいだ。
 服装以外はリルリィーアそっくりだ。もっともリルリィーアもこのメイドも、肌が露出しているのは両手首から先と顔の下半分、首ぐらいなものである。
「はじめまして。お姉さま」
 メイドはそう告げた。
「そしておやすみなさい。永遠に」
 メイドの足元で、様子を伺っていた影の蛇が、ローザめがけて伸びた。
 リルリィーアはスカートを捲り上げて中に手を突っ込んだ。
 一振りの剣を抜き(例によってこのサイズではスカートに入りきらないが本来は)、そのまま振り上げた。
 刀身には溝があり、リルリィーアの魔力を受けて青く光っている。
 薄く延びる影を下から無理やり切り飛ばした。致命傷を与えないために刃をつぶしてあるので、殴り飛ばすというのが適切かもしれない。影が砕けて、破片になって宙に散った。それは床に一度跳ねた後空気に掻き消えるように消えた。
 リルリィーアは目の前のメイドをにらみつけた。
 メイドは笑っている。
「ちと覚えがないが……誰だ」
 メイドは答えずに、再び影を操って薄い刃にした。
 一気に六本。
 上、右上、右、下、左下、正面。
 視界が闇に染まる。
 自分とローザに迫りくるそれを、リルリィーアはまとめて殴りつけた。
 一本、外した。それは左下からすくいあげるようにリルリィーアの胸を狙った。
 神官服を胸の下から肩まで切り飛ばした。神官服は祝福をこめた糸で編まれているので、斧でも斬れないぐらい頑丈(中の人間は知らんが)ではあるが、それを斬ってしまっている。
 負傷自体は軽いが。一呼吸遅れて、めくれた神官服から覗く乳房から赤い線が見える。
「私は、あなたですよ。お姉さま」
 砕け散った闇の向こうから声がした。
 闇が晴れると、そこには誰もいなかった。気配も消えている。
「なんだっていうのよ……」
 首と胴体が泣き別れのアインツベルクを見た。
 当然即死である。
 ローザを見ると、表情がなかった。呆然と突っ立っている。
 かける言葉が見つからない。
 リルリィーアがローザに手を伸ばすと。
「触らないで人殺し!」
 ローザは、さっきのメイドとリルリィーアを勘違いしているのか、リルリィーアを睨んで叫び続けた。
「やめてよ。パパが何をしたって言うのよ!」


 ティナは、箒を動かす手を止めて大きくあくびをした。
 息が白い。
 朝日がティナの髪を金色に輝かせている。
 今日もいつもと同じ、紺色のエプロンドレスを着ている。背中から見ると紺の布地に白い帯が交差していて、その上にふわふわウェーブのかかった金髪が肩から腰まで流れている。
 まだ十歳であるティナに、庭を掃く箒はちと大きく見える。箒の柄の真ん中あたりを右腕で抱えて、空を見上げていた。
「晴れた日の朝は寒いんだよねぇ。困ったことに」
 神殿の裏庭から空を見上げると真っ青。庭の向かい側に、捜査局の二階建ての建物が白く光っていた。
 朝っぱらだというのに、人が頻繁に出入りしている。
「あふっ」
 昨日は夜にたたき起こされてあまり寝ていない。
 あふぅ。こんなみっともないことをしているとリルリィーアお姉ちゃんにひっぱたかれるよ、とあわてて手で口元を隠した。
 捜査局から裏庭へ、誰か来た。
 捜査局と神殿は柵で一応区切られて入るが、扉も付いている。そこから一人のおそらく男性と思われるひとがやってきた。
 どのへんが男性かというと白髪の混じったひげのあるあたり。背も高いし。
 たしか、リルリィーアお姉ちゃんの部下の一人で、オルクリスさん、と言ったはずだ。
 剣を帯びていた。頭の右側が一房、刷毛で白ペンキでこすったように白髪がある。
 顔に刻まれたしわが年齢を感じさせる。左頬に、縦に刀傷がかすかに見える。
 オルクリスは左脇にファイルを挟んでいる。
「おはようございます。神殿長」
 男は礼儀正しく挨拶をした。
 ティナ。十歳にして“聖女”と呼ばれるミトフェム神殿長である。
 このぽわんとした容貌からはそーは全然見えないとよく言われるが。
「あっ。あの。お姉ちゃんなら捜査局かと、まだ」
 男は首を振った。
「用事があるのは、あなたさまです。もっとも、聖女さまにでも神殿長にでもなく、一応、第一種捜査官の資格を持っているティナさま、になのですが」
 ティナがきょとんと大きな目をぱちくりさせた。
 どーいうことだろう?
 ティナは、リルリィーアが現場に引っ張り出している関係で、捜査官の資格を持っている。十歳の捜査官はきわめて稀だが。第一種は高い戦闘力を持つこと、つまり魔法が一人前に使えることが条件なので子供は普通いない。大人の魔術師と戦って互角以上に戦えることが事実上の条件になるためである。
 オルクリスはティナに抱えていたファイルを渡した。
 ラベルはない。
「……というわけで、この事件の調査をお願いしたいのです」
 ティナは、はぁ、と頷いた。
 箒を脇に抱えたファイルをままぱらぱらとめくる。
 ティナの頭より、柄の先が頭一個分突き出ている。
「これ、昨晩の事件ですよね」
「はい、その通りです」
「だったらね、お姉ちゃんが直接、捜査の指揮執っているんじゃないの、かな?」
 捜査官は頭をかいた。
「それがですね。少々、困ったことになっておりまして」
 捜査官はティナが持っているファイルをめくり、一枚の供述調書を指差した。


 シチューのいいにおいが調理場から漂ってくる。
 話が長くなりそうだ、ということで。ティナはオルクリスを先導するように神殿に入った。
 箒は裏の玄関に立てかけておいた。
 二人は広間にいた。食事時には食堂になり、それ以外のときは子供たちが遊んでいる。
 既に掃除は終わって、テーブルが組んである。白いテーブルクロスが敷いてある。
 調理場からは料理当番の子供たちがわいわいいいながら金属のボールを戸棚の上をからぶちまけたような音がしたり。
「……大丈夫かな。今日はお姉ちゃんんいないからねぇ」
 ああもぅ、おちついてやりなさいよ。とか聞こえる。
 ティナはそっちはさておきて目の前の話に集中しようとした。
「どうぞ、おかけになってください」
 ティナはそういうと自分も座った。
「今お茶を」
「いや、結構です……早めに戻らないと拳で説教されてしまいます」
「……そちらさまもですか……」
 奇妙な共同感ができた。
 しかし、自分の父親ぐらいの年齢の人を殴るのはどうかと思いますお姉ちゃん。
 どこでもやっていることは一緒らしい、困ったことに。
「話を続けますと。そこに書いてある通り、『そこの赤毛のおばさんが殺したのよ。私みたんだから』と、証言がありまして。被害者の娘さん。……ローザさまでしたかな」
「あ、はい。そうです……いまは寝ているはずです」
 ティナはちらり、と奥へのドアを見た。
 昨晩は大変だった。
 捜査官に連れてこられたローザが泣き喚いて(そりゃ父親が目の前で惨殺されたというのは同情を禁じえませんが)、夜中だというのに散々怒鳴りまくった挙句に自分だけ眠って。
 ……寝てないよぅ。
「ああ、『おばさん』と表現したのはローザさまでありまして私ではありませんのでくれぐれもよろしく願いします」
「……」
「それでですね。仮にも、目撃証言があって状況的に支部長しかありえない、となると……さすがに放免ってわけにはいかないわけであります」
「……あう」
 客観的に状況をまとめると、こうなる。
 昨晩。
 捜査官が庭とか一階二階に詰めている状態。通常の手段では人間なんか隠れて進入する隙はない。
 (魔法使えばいくらでもなるけど)
 屋敷の二階。
 書斎の中に、リルリィーア、被害者のアインツベルク卿、その娘ローザ。
 廊下に捜査官二人。こっちは気絶。どうやら薬を食らったらしい。薬品の内容および、どうやって捜査官の体内にぶち込んだかは調査中。
 ちなみに階段の下にも捜査官が二人。こっちはまったく気づいていない。
 屋敷の二階はいわゆる密室状態。動けたのが二人。
 そして、証言は次のようになる。
 リルリィーア:「壁から人間が現れて、影を操ってアインツベルクを殺害して消えた」
 ローザ:「リルリィーアさんがお父様を殺した」
 どっちが信憑性があるかは一目瞭然だろう。
「でもおねーちゃん、人殺しはしないよぅ」
「それは存じ上げております。捜査官一同。リルリィーア支部長は徹底してどんな犯罪者でも生かして捕まえますから」
 本件のように殺人がらみでも、殺さないで捕らえるのがリルリィーアという捜査官であった。
「だからっていって、支部長はやってるわけがない。というわけにもいきませんからね。というわけでお願いします。ティナ」
「うっ。ところで、何でわたしなの?」
「ひとつ。直接は本件にかかわってない。暗殺阻止のために局内で指示飛び交っていたんで、そのへん、先入観なしで捜査できる外部の人が望ましいのであります。
 さすがに、ほかの支部から呼んでくるわけにもいきませんからね。
 ふたつ、外部に対する影響を考慮いたしまして。
 『支部長が圧力かけた』などと余計なことをいわれないように、同格以上の人が望ましいのです。
 捜査局支部長と神殿長は同格。リルリィーア支部長の直属上司のセイエリス本部長代理は例によって例のごとくどこにいるかわからない。
 それから、我らが“聖女”の言うことならみんな信じるでしょう」
「ひごろのじんとくだね」
 自分で言ってどうする。
「ティナは嘘つくとすぐばれる、と支部長が語っておられましたが……自覚はございませんか?」
「うみゅっ」
「というわけでよろしくお願いします……必要があれば俺とか支部長とかこき使ってくださいませ」
 オルクリスは立ち上がった。
「あっ、せっかくだからご飯食べていけば」
 オルクリスは笑って一礼した。
「お心遣いありがとうございます。聖女様。残念ながら仕事がありますので。われらが支部長を解放して帰ってご飯食べてもいいよ、と告げる仕事が」
「……ああっ。待った」
「はい?」
「消えたお姉ちゃんそっくりな人の行方は?」
「現在調査中です。もっとも支部長の供述通りだとすると逃走するところを目撃された可能性は非常に少ないかと」
「わたしは、とりあえずお姉ちゃんが犯人か、それとも別にいるかを調べればいいのね?」
「はい、その通りです。赤毛メイドの行方は捜査局のほうで別に追っています」
「わかりました。こちらは任せてくださいね」
「よろしくお願いします」


 掃除を終えた子供たちが朝ごはんを食べようと食堂に集まってきた。
「ティナお姉ちゃん。お腹すいたよぅ」
 ティナよりもさらにちっちゃな男の子が、ティナを見上げた。
「はいはい。もうちょっとだから、手を洗って待っているのよ」
 お姉さんぶっているティナである。
 そういえば箒、外に置きっぱなしだった。
 あわてて立ち上がろうとしたところで。
「聞きましたわよ」
 いきなり背後から声がした。
「うわっ」
 あわてて振り向こうとして、椅子にけつまずいてぽてっとこけた。
「うぅ」
 おでこをさすりながら立ち上がりつつ振り向くと、一人の女の子がいた。
 ティナと同じくらいの年頃で背も同じぐらい。黒い髪を背中に伸ばし、腕をぺったんこな胸の前で組んでいる。
 黒を基調としたワンピースだが、白い襟が少々よれている。
「あの、ご飯まだだから。もうちょい」
「違いますわ!」
 少女はティナを見下ろすと偉そうに宣言した。
「私が犯人を証明してあげますわ」
 肘をぎゅっと握り締めて。
「お父様を殺したあの女を」
 昨晩、捜査官に連れてこられた被害者の娘、ローザがそこにいた。

 ローザは椅子を引いて腰掛けた。四本足の木の椅子で、ちっちゃな背もたれが付いている。
「お座りになったら?」
 ひとんちに来て偉そうな娘である。
「あ、はぁ」
 流される聖女様。もういちど椅子に腰掛けてローザに向かい合った。
 ローザの目は赤い。
 やはり、唯一の家族がなくなった悲しみは耐えがたいものがあるのだろうなぁ。とか考えていると。
「いやぁ。ベッド硬くて、あんまり寝付けなくて、ね」
「……わたしはやわらかいとだめなんだよぅ」
 大物なのか大馬鹿なのか良くわからない。たぶん後者だろう。申し訳ないけど。
 食事担当の子供たちが一列になって、盆に並べた朝食を調理場から運び始めている。
 「あ、私にもひとつ」
ローザはその子に向かって手を振って、あつかましくも食事を要求した。
 もちろん差し上げるつもりではありましたが、もう少しこう礼儀というものがあるのではないかとティナは思った。
 ちなみにリルリィーアがいたらそろそろ拳が飛んでいるころだ。朝っぱらからの会心の一撃が飛ぶとぽーんと身長の倍ばかり吹っ飛んでそのまま放物線を描いて落ちる。
「だいたい、捜査官のかたにも申し上げましたが。私は見たんです。あの女がパパを……」
「誰が殺したって?」
 ひょいっと振り向くと、広間の入り口にリルリィーアお姉ちゃんが立っていた。

「で、出た。人殺し!」
 ローザは叫んだ。
「人聞きの悪いことをいうものではない」
 リルリィーアは神官服にエプロンなし。髪が少々乱れていた。例によって表情が良く見えない。
 捜査局で夜通し絞られていたようだから着替えている暇がないのだろう。
 いつも同じ服なので、既に着替えているのかもしれないが。それならばエプロンが標準装備されているはずである。
「だって、私の目の前で、もう一人のあなたが壁から現れて……」
「ちょっと待って」
 ティナが突っ込んだ。
「影で私のパパを真っ二つにして首からどばっと赤い血が」
 しかし効果はなかった。
「えっ、あの。待って」
「パパは床を転がったあと私を見て笑ったのよ。笑うはずなんかないのに」
 ティナは捜査資料の入ったファイルを閉じてそれでローザの頭に突っ込んだ。
 すぱーんといい音がした。
「いたっ。なにすんのよ」
 ローザは手を上げた。そしてそれをティナの頭に振り下ろす。手のひらで頭頂部を叩いた。ぐぃんと脳が揺れ、歯と歯が衝撃でがちりと鳴った。
「ううぅ。落ち着いてよぅ。『もう一人のあなた』っていったよね。つまり、リルリィーアお姉ちゃんが別にいたんですか?」
「そうよ」
 即答されてしまった。
「おかしいですよ。お姉ちゃんはスライムじゃないんだから分裂して……」
 途中で押し黙って、そーっとリルリィーアの表情をうかがう。
 目元まで例によって赤い前髪で隠れていて良く見えない。
「……増えないよね?」
「人を何だと思っているんだか」
 目が直接見えなくてアレだが、前髪の影では目が糸のように細くなってじとーっと睨まれているような気がする。
「えー。でもメイベレッタさんとか細胞分裂で増えているっぽいよ。そっくりだし」
「ほっとけ」
「それはさておき、ローザさん、リルリィーアお姉ちゃんを良く見てください」
「……胸が無駄にでかい」
「そこじゃないです。お姉ちゃんは上から下までぴっちり着込んでいて、挙句の果てに前髪が長いから、肌が露出しているのは両手首から先と、顔の下半分、そして首ぐらいなものです」
 ティナはびっちり、と表現したが。そう着込んでいるわけではない。神官服は手首まである長袖で、スカートも長い。すそからは革靴と靴下に覆われた足首がかろうじてちらちら見えるぐらいである。
 長い前髪のせいで露出が少なく見える。目の辺りを覆う仮面を常に身につけているようなものである。
「極端な話。お姉ちゃんと同程度の身長の人だったら、前髪が長い真っ赤なかつらかぶって服を着て、必要ならブラつければあー見えます」
「……つけても大きくなるわけじゃないんだが……」
 リルリィーアはぼそりといった。
「え、そーなの?」
「詰め物は別だ」
「待ってよ。でも、リルリィーア本人ではない、という理由にはないらないじゃないの」
 ローザは机を叩いた。ぐっと顔をティナに近づける。
「なりませんよ」
 ティナは答えた。
「それじゃぁ」
「でも、お姉ちゃんを積極的に疑う理由にはなりませんよ。それに、お姉ちゃんが犯人ではない理由があります」
「え。そんなのがあるの?」
「はい。お姉ちゃんは捜査局の支部長さんで、今回の指揮を執っていたはずですよね?」
 リルリィーアは頷いた。
「支部長だからって犯人ではないということにはならないですわよ」
「いいえ。今回においては、支部長は合理的に考えると犯人じゃないんです」
「何でよ」
「犯人だとしたら、わざわざ周りを捜査官で固めて、わざわざ閉鎖空間で、あげくに被害者の娘に目撃されて、そして口封じもせずにいるということになります。いくらなんでも不自然すぎます」」
「えーと、あの、その……だって見たんだもん」
 こんこんこん。
 サラダが入っていたボールと、金属のお玉がぶつかり合っている音が響く。
 音のするほうを見ると。エプロンを身に着けた一人の男の子が立ってティナたちを見ている。
「そろそろお祈りを始めてもいいですかね。そこで裁判始めている皆さん」  孤児院の子供たちみんなが座って、ご飯を目の前においてじーっと全員ティナたちを見つめていた。


 朝食は焼きたてのパンと鶏肉の入ったシチューとサラダ、それにカップにそそいだ牛乳だった。
 ティナはちっちゃくパンをちぎって食べていた。パンの中に含まれていた蒸気とともに立ち上る香ばしい香りが食欲をそそる。
 ティナがパンを半分ぐらい食べたところで。
「ふぅ。ごちそうさま」
 ローザは既に食べ終わっていた。口元を白いハンカチでぬぐっている。
「なかなかのもんじゃない」
「みんながんばって作っているもん」
 ティナはシチューをスプーンですくって口に入れた。この間みんなで収穫したジャガイモが入っている。ちょっと煮えすぎていて口の中に入るととろりと溶ける。
「さて、これからどうするの?」
「早いよぅ。もうちょっと、待ってよ。あ、とりあえず食べたあとは食器洗わないとね」
「えー」
 ローザは嫌そうな顔をした。
 お嬢様育ちだったのできっと、メイドが全部やってくれたりするんだろう。
「おうちではどうやってたの?」
 ローザはきょとんとした。
「……」
 なんか根本的に価値観が違うっぽい。
「働かざるもの食うべからず、だよ」
「そんな。私にはやらなければいけない使命があるのに」
「あー。ローザ」
 リルリィーアは、例によってよく表情がわからない顔を向けた。
「なによ?」
「手伝わないなら、これから食事なしだと思え。自分で何とかするんだな」
「……しょうがないわね。手伝ってあげるわよ」
「何でこんなに偉そうなんだかなぁ」
「まったくだ」
 しばらく食事を続けていた。
 べらべらしゃべり続けるローザを半分無視しながらはむはむと口を動かしてパンをかんだ。甘い。
 食事を終えた子供たちがしゃべる喧騒の中、かちゃり、とノブが動く音がかすかにした。
 ティナはちらりとそっちを見た。
 広間の扉が開いて、一人のメイドが現れた。
 紺のロングスカートのメイド服に、リルリィーアがいつも身に着けているような膝ぐらいまである白いフリルのエプロン。頭にはフリルの付いた髪留めがある。
「あーっ」
 ティナのとなりのローザが悲鳴を上げた。
 メイドの髪は赤くて、リルリィーア同様に前髪が長く目元まで隠れている。
 胸が、窮屈そうにエプロンを押し上げている。
 身長も体格もリルリィーアとほぼ同じ。傍目からではリルリィーアがメイドに変装しているようにも見える。
 そっくりさんなメイドは口を開いた。
「聞いたわよ。妹。大変そうね」
 気楽そうにそう告げた。
「妹と呼ぶな」
 リルリィーアはあきれたようにため息をついてた。


「あー、昨日の人殺し!」
 ローザはメイドを指差してわめいた。
「あんた、なんでいったいのこのことっ!」
 ティナは無言でパンをちぎると、かたまりをローザの口に叩き込んだ。
「うぐうぐ」
「ちょっと、落ち着いてくださいね」
 ローザは苦しそうにしながら、わたわたテーブルを叩いて何かを探している。
 喉に詰まったらしい。
 そっちはさておき、赤毛の二人は話を続けていた。
「何の用かしら? わざわざ姫様の護衛ほっといてこっちまで来るなんて」
 リルリィーアはじとーっとメイドを見た(と思う。目なんか隠れているから)。
「聞いたわよ。リィーアそっくりなメイドが現れたって」
 むしろあなた自身とそっくりだと思う。服装からして。
「心当たりないの?」
「んー。ないって言えばないわね。あったらこんなところまで来ないし。私も妹たち全員の行動把握しているわけじゃないからね、さすがに」
「あるっていえば?」
「わかっているでしょう。リィーアにも」
 リルリィーアは黙った。
 重い表情である。
「んぱっ。はぅっ。なにするのよっ!」
 ローザはカップをテーブルに叩きつけて叫んだ。口の周りに付いていた紅茶をハンカチでぬぐった。
「落ち着いた?」
 ティナは天使の笑みを見せた。
 天子の翼のかげに、こうもりの翼がちらりと見えるような気もするが。
「笑っても騙されないんだから。なんでこんなところに犯人がのこのこいるのよっ」
「えーっ、さっきまで犯人はリルリィーアおねえちゃんだといっていたんじゃないの?」
「うっ」
「おーい、ティナや」
 メイド服を着た赤毛の女性が尋ねた。
「この人を指差して絶叫している失礼な奴は誰だ?」
「ひ、人に名前を聞くときは自分から名乗るものではないの?」
 ローザはびっくりしたのか少々詰まりながら言った。
「すまんな。私はエルミリア王女付きメイド、メイベレッタ。で、だ。あなたの名は?」
「……あ、“アイリスの魔女”」
 ローザは驚きの声を上げると椅子から立ち上がり、メイベレッタの前にひざまずいた。
「し、失礼をいたしました……王女殿下をお救いいただいた英雄になんて失礼なことを」
 声が震えている。
 この場合の王女は、いまメイベレッタが仕えているエルミリア王女ではなく、数年前滅んだガルディア王国の最後の王女、フェリシア王女を指す。
「顔を上げて。メイドとして当然のことをしただけだ」
「いえ、しかし」
「それよりも周りの人に礼を尽くすことを気にしたほうがいい。ティナちゃんはあなたのメイドではないんだから」
「あ、はい。以後気をつけさせていただきます」
 ティナは目をぱちくりさせながらリルリィーアにささやいた。
「なんかすごい反応だね。もはや別人みたい」
「貴族なんて、多かれ少なかれそんなもんよ」
 実も蓋もない言い草である。
「メイベレッタさんってそんなにすごかったの?」
「んー。聞いた話によると、ガルディア城での決戦のとき、王女に成り代わって後の皇帝と一騎打ちして、仮面の半分を割った。ということだが。ねぇ」
 リルリィーアはメイベレッタの横顔を胡散臭そうに見た。
「信用してないの?」
「そんなわけではないが」
 メイベレッタは二人の視線に気が付かないのか、気が付いて無視しているのかはわからないがローザを無理やり立たせて椅子に座らせた。
「リィーア。話があります。ちょっと」
「ん? ああ。これ置いてきてから」
 リルリィーアが盆をもって立ち上がろうとしたら、ティナが声をかけた。
「お姉ちゃん、わたしがやっておくよ」
「ああ、ありがとう。よろしく頼む」
 リルリィーアとメイベレッタは広間から出て行った。
 背中側から並んで歩くのを見ると、双子みたいだ。
「じゃぁ、片付けよっか」
 ティナも立ち上がってローザに言うと。
「えー。やったことない」
「教えるから」
 ティナはリルリィーアとローザの器を自分のに重ねた。盆を片手で持って、空いている手でローザを引っ張った。
「あう、離して、痛い」
「わがままを言うものではありません。ほら、学校に行く前の子供でもちゃんと片付けますよ」
 ね。と座っている男の子に微笑みかけると、うん、と頷いた。
「ちゃんとしないとお姉ちゃんに怒られるよ」
 そんなことまで付け加えられた」
 小さい体のどこにそんな力があるのか。調理室までローザを引っ張り込んだ。


 リルリィーアとメイベレッタは並んで神殿の廊下を歩いていた。
「ずいぶん綺麗よね。プロ並ね。良くここまで仕込んだというかここまでさせるというか」
 廊下はぴかぴかに磨かれていた。毎日子供たちが掃除をしている。あと、暇を見てリルリィーアが徹底的に綺麗にしている。汚れていると我慢ができないたちなのである。自分の机の上以外は。
「掃除はすべての基本でしょ。ベレッタもそー言っていたじゃない」
「まったくもってその通りよ」
 メイベレッタは背伸びをして窓枠の上を指でこすった。
「……メイドの仕事探すなら喜んで紹介状書いてあげるわよ。全員まとめてでも喜んで引き取ってもらえそうよ」
「いらんわ」
「オークビン卿のところに孤児院から来たメイドがいるて、掃除の腕が神業級って噂を聞くけど、リィーアのとこの子。やっぱり」
「ああ、ユーファね。元気かなぁ。挨拶に戻ってくるって言っていたけどいまだに来ないよ。あの子」
「そんなもんよ。うちだって妹が一人前のメイドになるようにきっちり指導したら帰ってこなかったり帰ってきたと思ったら増幅具で殺そうとしてくるし」
「あー、それ当てつけ? そんなこというなら訓練中に三回ばかり死に掛けたこと今でも忘れてないわよ」
 二人は顔を見合わせると笑った。
「変よ。なんで私たちはこんなことわざわざ話しているのかしらね」
「あんまりまっとうな姉妹じゃないからな。お互い知り尽くしているがゆえにいらんところまで知ってしまう」
「妹と呼ぶなとゆーに」
 二人はリルリィーアの部屋に入った。
 ベッドが二つある。本来二人部屋なところをリルリィーアが独り占めして使っている。
 部屋の隅っこに机がある。そこには書類がごちゃごちゃ積んである。ほかには何もなく、きっちり布団が折りたたまれたベッドとは対照的な印象を受ける。
「一応、機密だから机の上は見ないで」
「わかってる」
 メイベレッタはからのベッドに座った。
 リルリィーアは自分のベッドに転がった。
「あーねむ」
「寝るなー。せめて後にしてくれ」
「徹夜だったんだよぅ。ベレッタが姫様のところでくーくー寝てるというのに一晩中尋問されて。よっぽど日ごろから恨まれているのかとか思ったわよ」
「いやそれはなんというか」
 リルリィーアの前髪が重力に引かれて、頭の後方に流れた。
 隠されていた目があらわになる。
 右目と左目は色が違った。左目が黒いのに対し、右目は赤かった。
「過去がやってきた、ってところね」
 リルリィーアは寝転がったまま呟いた。
「過去の罪に、私、は耐えられるのかしら」
 他人事のように、そう告げた。
 メイベレッタはしばらく黙っていた。
 石畳の上を馬車が通る音が聞こえる。
「私は」
「あなたの答えじゃなくて、私の答えだから」
 リルリィーアはメイベレッタの声をさえぎった。


「うう、なんで私がこんなことを」
「しゃべる暇があったら手を動かすの」
 ティナはぴしゃりと言った。
 ティナとローザは、調理室で食事に使った器を洗っていた。
 調理に使った鍋は、すでに朝食担当の子供たちが洗ってある。台の上にひっくり返して乾かしているところだ。
 正面にある大きな窓から裏庭が見える。
 ローザは半泣きになりながら、滑るシチューの皿をたわしでこすっている。
「ねー。ところでさ。“アイリスの魔女”ってなんなの?」
「え?」
 ぶくぶくと泡がでる石鹸水の中を、ローザの手が動いている。
「お姉ちゃんとかメイベレッタさんとか、“アイリスの魔女”って言われるときがあるのね。でも、お姉ちゃんに聞いてもはぐらかされるの」
 ティナは慣れた手つきでたわしを動かしながらローザを見た。
 黒のワンピースの上に、白い子供用のちっちゃなエプロンをつけている。
 ローザの鼻先に、泡が付いていて虹色に光っている。
「あはっ」
「な、なによ?」
 ローザは突然笑い出したティナに眉をひそめた。
「泡が飛んでるよ」
 ティナは自分のエプロンドレスのすそで、つんととがったローザの鼻先をそっと撫でた。
「んなっ」
「はい、これで取れたよ」
 ティナは笑った。
 ローザは憮然としながら皿を持ち上げた。つるっと手から滑り落ちて、洗い桶の中にぽちゃんと落ちた。
「ああっ。大切にやってよ。割れたら危ないよぅ」
「なんか滑るし、これ」
「石鹸だもん。普通だよ」
「そんなもんなのかしらね」
 ローザは洗い桶の中から皿を取り出し、今度は慎重に脇に置いた。
「そう。“アイリスの魔女”ってのはね。ガルディア国王に仕えるメイドたちの事を指すのよ」
「メイドさん……」
 ティナはリルリィーアを思い浮かべた。
 神官服の上に白いエプロンを身に付け、掃除とか洗濯とかをしている。
「……似合っているとか言うと怒るんだろうな。また」
「全員が完璧な訓練を受けたメイドで、もちろん戦闘訓練も受けていて。陛下を守る最後の盾よね。全員赤毛で“魔眼”持ち」
「前髪長いの? やっぱり」
「そうよ。赤く不吉に輝く“魔眼”を隠すために常に前髪を長く保っているという……」
「どうしたの?」
「いや、なんで気が付かなかったんだろう……」
「そりゃ、前髪長くて赤毛だったら必ずメイドさんってわけじゃないから」
 “魔眼”は先天的に得る魔法能力の一種である。南のガルディアと北のサリシア王国の王族に良く発現する能力だ。
 具体的な効果はさまざまだが、目の機能や視線に関わる効果がある。
 たとえば。
 視線を合わせると石になるとか。
 視界内に本があるとその位置と題名、著者名がわかるとか。
 役に立つものからあまり立たないものまでさまざまである。といわれている。
「こんにちは、ティナ」
 窓の外に、帽子を取った男の人が立っていた。窓は高いので、肩口までしか見えない。
「あ。アクラーサさん。お久しぶりです。最近全然お顔見ないからどうしたのかなぁ、って思ってたよ」
「おかげさまで」
 男の人は勝手口に回った。
「だれ? いまのひと」
「郵便やさんだよ」
 ティナが手を洗って勝手口を開けると、郵便屋と呼ばれた男が入ってきた。
 長いマントの下に、肩からバッグを提げているのが見える。
「いままでどこいってたの?」
「うーん。仕事だからね。ちょっとそれはいえないなぁ」
 アクラーサは鞄をあさった。
「おみやげ?」
「残念ながら。こっちにアインツベルクさんの娘さんがいると聞いてきたけど。どこにいるのかな?」
「私です」
 ローザが答えた。
「はい、これお父さん宛だから」
 一通の手紙を手渡した。
「それから、これはリルリィーアさんに」
 鞄から紐でくくった、書類が丸ごと入るぐらいのかい封筒、の束が出てきた。ティナが両腕を差し出した上にそれが三セット積み重なった。
「うわっ。いつもより多いよ」
「すみませんね。少々出国に手間取ってしまいまして。それではこれで。手紙、よろしくね願いします」
「うん。わかったよ」
 ティナは封筒の束を抱えてうなづいた。
 アクラーサは一礼して帰っていった。
 ちらりとローザを見ると、父親宛の手紙をまじめな顔つきで読んでいた。
 なんかこう、大切なことでも書いてあったのだろうか。
 それはともかく、ティナはリルリィーアを探しに調理場を出た。


 ローザは手紙を読んでいた。
 ぴんと来た。
「これだったのね。お父様が殺された理由は」
 体が熱くなる。
 昨晩のことが思い起こされる。首をはねられた父の死体、影を操る赤毛のメイド。
 気が付いたら封筒を握りつぶしていた。封ろうが剥がれて手にくっついた。
「知ってしまいましたか」
 背後からいきなり声がした。
 背筋に寒気が走る。
 振り向くと、決定的に何かが壊れてしまう。そんな気がした。
「どうしました? 急にだんまりして」
 後ろからの重圧に耐え切れずに、後ろを見た。
 そこには、赤毛のメイドがいた。
 リルリィーアそっくりなメイドは、ローザの首を掴むと気道を握りつぶした。
 細い腕からは想像できない握力だ。メイド服に隠れてはっきりとはわからないが、男性の剣士みたいに丸太のようにぶっとい腕なわけではない。
 息ができない。首が苦しい。
 メイド服の袖に手を伸ばすが、十歳の女の子程度の力では剥がすことなんかできない。
「できれば殺したくはなかったけど……父親の元に送ってやるのが情けね」
「……」
 声が出ない。
 くやしくてくやしくてたまらない。
 自分に力があったら、この腕を引っぺがして顔を一発ひっぱたいてやることができるのに。
 メイドの影がくいっと持ち上がり、薄い紙状の先端がぴたり、と当てられた。
「おやすみなさい。永遠に」
 手首に爪を立てても、手の甲をつねっても反応しない。
 もう駄目だ、と思った。ごめん。
 ぴゅっと風邪を切る音がした。
 ぐいっと急に持ち上げられた。
 あたまにごいん、と何かが当たった。痛いはずだが首がもっと痛いのでよくわかんない。
「ひとんちで何おいたしているのよ。馬鹿メイド」
 声が聞こえる。
 何とか首をひねってそっちを見ると。リルリィーアが手に雑巾を持って立っていた。


 時間は少々さかのぼる。
 リルリィーアがエプロンを身に付けていると、ティナが手紙の束を持って入ってきた。
 メイベレッタは既に帰った。
 手紙を受け取ってぱらぱら見ていると、急にちりちりとこめかみがうずいた。
 リルリィーアは手紙を投げ捨てて廊下へ走った。
 紙がばらばらに飛び散る。
「なにしたのっ?」
「まずった。真昼間からくるのは予想外だ」
 廊下にいた子供を突き飛ばし(すまん)、広間に入って部屋の真ん中にある机を飛び越えて、調理場に飛び込んだ。
 中には昨晩の赤毛のメイドがいて、ローザを吊り上げていた。影が変化して首下に刃物のように突きつけられていた。  なんかいいものはないか?
 足元に、雑巾の入った木製のバケツが置いてあった。それを蹴り上げるとちょっと細工をしてから、メイドめがけて投げた。
 メイドはローザを盾にした。バケツはローザの頭にぶちあたってから、二人の脇に転がった。
「ひとんちで何おいたしているのよ。馬鹿メイド」
「何の冗談だ?」
 メイドはあきれたように言った。
「何しているのよお姉ちゃん。遊んでる場合じゃないよぅ」
「いやまぁ、当たればラッキー、ぐらいで」
「はぁ」
 メイドはため息を付いた。
「これがアイリス最強と呼ばれたリルリィーアですか。当時十歳の女の子に与えられた称号がいかほどのものかと思いましたが、噂は所詮噂でしたよう」
「黙れ。その子を離せ。でないと……」
「どうするんですか? 護衛対象も守れない無能メイドが」
「……法廷に引きずり出して全部しゃべってもらうことになるぞ」
「バケツで遊んでいるようじゃ無理だと思いますよ」
 首元に当てられている影が動いた。
 そのとき、リルリィーアは前髪をかきあげた。
 リルリィーアの赤い瞳があらわになる。
 いままさにローザの首をかききろうとしていた影の刃が、破片になって飛び散った。
「なっ」
 メイドの顔に驚きの表情が浮かんだ。
「本当だったのか。すべての投射系魔法を封じてしまう“魔眼”というのは」
「あんまり使いたくないんだよねぇ。疲れるから」
「でも、封じることができるのは距離を置いて発動する魔法とその類似能力のみ。肉体強化や自分自身にかかる魔法は封じられない不完全な能力ね」
「それで十分だろう?」
 今の発言で見当が付いた。
 リルリィーアが“魔眼”持ちだということは知っている人は多い。たとえば孤児院の子供たちとか神殿の神官連中、大抵の捜査官は知っている。
 しかし、能力はめったに見せてない。
 知っているのは直接見た人と……かつての姉妹のみ。あの髪型からして関係者確定だろう。
 捜査官リルリィーア・アークフィードに似せたのではなく、おそらく、リルリィーア・アイリス・ケイファートに。
 いかんな、“魔眼”使うとテンションがあがりすぎる。
 こんなこと考えている場合じゃないだろう。
「その子は返してもらうぞ」
「はっ。なにをいいます。私がこの子の首をひねるよりも早くどうにかできるとでも?」
「あんたには無理だ」
「試してみます?」
 挑発的にメイドは告げたが、リルリィーアは軽く受け流した。髪から手を下ろして“魔眼”を隠した。
「すまん、もうはじめてるよ」
 リルリィーアが言ったタイミングで、バケツがなぜか爆発した。

 爆発と同時に、爆風でメイドの体が横に押された。調理室にでん、と置かれたでっかい机が跳ね上がる。真下で爆発した。でっかい天板は爆風を受けるのにちょうど良すぎる。
「[遅延]をかけた[火球]だよ。ちょっと長すぎたけどね」
 リルリィーアはスカートの裾を捲くった。
 裾から、一振りの剣が現れた。刀身に刻まれた複雑な溝は青く輝いていて既に戦闘体制。
 刀身をさらに炎が包んだ。
 魔力と[火炎付与]により強化された増幅具は、威力を上げ当たったものを何でもぶっ飛ばす。
 調理室は、剣を振り回すにはちと狭い。
 料理の邪魔にならないように、中央のテーブル(今爆風で飛んでる)と棚は二人並んで物を持って交差できるぐらい広いが、剣を降ると棚や天井に当たる。
 さらに、メイドの前にはローザが吊り上げられている。普通に切るとローザごと真っ二つ。
 リルリィーアはとりあえず、宙を待っている邪魔な机を真っ二つにした。
 机が一瞬で燃え上がる。
 机の形をした灰の中をリルリィーアは回り込む。リルリィーアの動きで風が起き、灰が拡散していく。
 たったいま開いたスペースを使って、ローザの脇から横に剣を振ってメイドの腹を狙った。
「その程度ですか?」
 メイドはぐい、と吊り上げたローザを動かした。盾にするように。
 このままだとローザが真っ二つ。
「このくらいでまけといてくださいな」
 リルリィーアは剣を離した。
 すっぽ抜けた剣がローザの脇を通って戸棚を突き刺した。
 さっきの爆風と今の衝撃で、皿が崩れて床で砕ける。
 戸棚のガラスは既に破片になって散らばっている。
 リルリィーアのぴんと伸びきった腕の先端、手のひらに炎が集まった。[火球]だ。
 赤いエネルギーのかたまりが、リルリィーアの手の中で渦を巻いている。
 腕がローザの脇腹に当たった。
 ローザとメイドの間に手をちょうど置いて、そのまま[火球]を爆裂させた。

 さすがに爆発の圧力を握力だけで耐えることはできなく、ローザの首から手が外れた。
 首に手形がくっきり付いている。
 リルリィーアは自分のほうに飛んできたローザを抱き止めると、そのまま体をひねってぽいっと投げた。
 ティナのほうへ。
 リルリィーア自身はそのまま一回転すると、床に手を突いて態勢を立て直して距離をとった。
 すぐ背中に流し台がある。
 メイドは背中を戸棚に預けていた。
 爆風や増幅具が突き刺さったのや、メイドが当たったときの衝撃で、木枠が砕けた。
 中の皿はもうほとんどない。戸棚を押して立とうとすると。
 上から皿が落ちてきて頭にぶつかって割れた。
「ああっ。あれ高いのにぃ!」
 お宝だったらしい。
 メイドは頭を振った。白いフリルの髪留めの上に、ガラスの小さい破片がいくつも乗っかっている。
 たいしたダメージはないようだ。
 ローザはティナの前で尻から落ちた。
 ティナはローザを抱えると、背中に光の翼を展開。手形が真っ赤に付いた喉を重点的に治癒魔法をかける。“聖女”のもつ癒しの力だ。
「ティナ。何があってもローザを離すなよ」
 リルリィーアはそっちを見ないで告げる。 「面白い手品ね」
 メイドはスカートを捲くった。ガーターベルトが見える。ロングソックスの上にホルダーが在り、ナイフが二本、左右にあった。それを取り出し両手に構えた。
「十分だろう?」
 リルリィーアは構えも取らず、肩の力を抜いてメイドに正対していた。
 彼女の剣は壁に棚を串刺しにしたままだ。
 メイドはリルリィーアの首を狙ってナイフを振った。
 リルリィーアは横によけた。
 かすったのか、首元に赤い線ができ、たらりと血が流れた。
 メイドはナイフを付いてきた。
 リルリィーアは左拳を握り、ナイフを掴んでいる手を下から殴り上げた。
 一歩踏み込む。
 右拳を握る。拳が炎に包まれる。
 拳を顔面に向けて叩き込む。
 メイドはナイフで拳を受けようとする。このままだと自分のパンチ力で手がずたずたになる。
 ナイフの直前で、拳が止まった。
 フェイントだ。
 リルリィーアはくるりと回った。
 青い神官服のスカートが大きく広がる。
 右足が高く上がり、ナイフを失ったほうの左肩を狙って踵が落ちる。
 メイドの姿が急に色を失った。黒い影になり、すうっと足元の流し台の影に溶けていった。
 リルリィーアの足が空振りした。
「これで終わりね」
 そして背後から声。いつ回り込まれたのか。
 よける暇がない。
 リルリィーアは手を振った。
 [火球]を唱えると即座に開放。自分の腹の前で爆発した。
 爆風で体が吹っ飛ばされる。背後に立っているメイドめがけて。
 脇腹に激痛が走った。持っていたナイフが突き刺さった。だが急所を狙われるよりマシ。
 メイドに体を預けて、二人揃って後ろに倒れる。
「面白いことなさいますね。でもね」
 リルリィーアの腹が、焼けた火箸を突っ込んだように熱くなった。
 腹が内側から破られて、神官服を突き破り、エプロンを内側から持ち上げるようにして黒い影が姿を現した。
 一瞬遅れて、血が湧き出す。
「二人重なれば、影はできるんですよ。それも、あなたの視界外で」
 リルリィーアはなんとか体をひねってメイドに向き合う。
 気が遠くなる。すうっと水中に沈んでいくような。
 なんとかメイドの頭を掴んで床に叩きつけようと。
 頭に手が触れたが、するりと外れた。


「おねえちゃーん」
 ティナは叫んだ。
 突然の爆発のあと、二人が倒れた。リルリィーアは背と腹から血がとくとくと流れ出している。
 メイドは体を起こした。エプロンの下部とスカートは血で赤くなっていた。


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