月夜のお茶会


 月光がガラス戸越しに差し込んでくる。
 優は、明かりもつけずに居間にいた。
 足元まで銀色の光が伸びる。床に放置されたリモコンの上に、ガラス戸のフレームの影が横切っている。
 優はソファーに身を沈め、深くため息をついた。
 今日は静かだ。
 誰もいやしない。
 父親が、“一なる海”の海底遺跡調査に行っているのでうちには優ただ一人。
 このあいだ、怪我をして記憶喪失になったらしいので実感はないが、本来、こんな感じで毎日暮らしていたのだろうと思う。
 家の中にただ一人。  静かで、キッチンの向こうから冷蔵庫のモーター音が聞こえてくる。
 月光に凍りついたかのように、動きはなかった。
 隣は暗い。
 幼馴染の香澄の家だ。香澄は今日、天文部の合宿でうちにはいない。両親は仕事でと会社にときどき泊り込む。たまたま二人とも重なったのだろう。
 メイドの聖さんも今日はお休み。報告も兼ねて実家である赤石のお屋敷に帰っている。優の祖母の家だ。
 一人でいると妙に寂しい。
 この家、香澄の話によると三年前に建て直したそうだが。無駄に広い。親子二人で暮らすには広すぎる。大体、なんで風呂は10人ぐらいいっぺんに入れるように作ってあるんだ。
「そもそも帰ってこないし……」
 居間はぼんやりと明るい。月光が床で反射して天井を照らしている。
 秋の月光は冷たい。
 夜遅くまで香澄が残って宿題をしていたり、聖さんが皿洗いをしたあともちらちらお茶を持ってきてくれたりするので。
「だめだな。……ちょっと贅沢になっちゃったみたいだ」
 優は首を振った。
 急に明るくなった。
 まぶしさに目を細める。
 手を上げて蛍光灯からの光をさえぎる。廊下に通じる扉が開いていて、女の子が立っていた。
 赤毛のショートカットで、黒いコートの下にに白いセーターが覗く。聖さんだ。今日はいつものメイド服ではない。足にはスリッパ。
 聖さんはいつものように笑っていた。
 いままでは寒かったのに、聖さんが来たとたん、部屋が急に暖かくなった。
 聖さんは壁のスイッチから手を離すと、深々と頭を下げた。赤い髪が揺れる。
「ただいま戻りました」
 脇に、布にくるまれた何かを挟んでいる。ちっちゃなお弁当箱ぐらいの大きさだ。
「おかえりなさい」
 優も笑顔で答えた。
「お茶を用意いたしますか? 母から、お菓子をいただいております。優様へと」
 聖さんは居間を横切ってキッチンに向かう。
 優は立ち上がり、あわてて聖さんを止めた。
「ああ、ぼくがやるよ。疲れているだろう?」
 聖さんは首を振った。
「私にやらせてください。昼間、優のために何もできなかったのですから」
 うれしそうに笑う聖さん。
 自分のために奉仕してもらえるなんて。優は好意に甘えることにした。
 聖さんは包まれたものをキッチンのテーブルの上においた。中から、箱に入った手作りのクッキーが出てきた。
 それから、黒いコートを脱いだ。
 上半身は白いセーターになった。ぴったりとしたサイズなので、胸の形がくっきり出ている。
 つい目を取られていると、聖さんは言った。
「これ、母から頂戴したのです。ちょっと小さいけど……似合ってますか?」
 優は首を縦に勢い良く振った。
「ありがとうございます。優様にそう言っていただけで」
 聖さんは恥ずかしがっていた。
「サイズ合ってないので……変に思われたらと」
「そんなことないよ。聖さんはなにを着ても綺麗だよ」
 聖さんはうれしそうにうなずいだ。
 聖さんはガラス戸に目をやった。
「カーテンを閉めないと寒いですよ、ね」
 聖さんは自分が言ったとおりにした。
 そして、キッチンの上の戸棚からやかんを出して、火にかけた。
 いつものメイド服もいいけど、細いスカートの今日の聖さんもいいな。
 メイド服を着ていると仕事中という感じで、びしっとしている。でも、白いセーターにくるまれた上体がまるっこくて、かわいらしい。
 それにからだにぴっちり張り付いているので、聖さんのおっきな胸が強調されてすごく……
 あわわ。いったいなにを考えているんだ。ごめん聖さん。
「どうしました?」  気が付くと、聖さんが振り向いて首をかしげていた。
「優様。見ていたってなにも出てきませんわよ」
 聖さんに気づかれて、優は赤くなった。
「あ、あの……ごめん、かわいいな、って」
「かわいい……」
 聖さんはうつむいた。
 ちょっと遠いので、表情がわかりづらい。
 なんか、悪いこといったのかな? 「着替えてまいりますので」
「待って」
 優はあわてて手を振った。
「せっかくだから、そのままでいるのはどうかな?」
「え?」
 聖さんはきょとんとした。
「私服のままで。聖さん、いつもメイド服だから、たまにはいいよね。そういうのも」
「はい。優様の仰せのままに」
 聖さんはでうなずくと、やかんの蓋をちょこんと開けて中を覗き込んだ。
「まだならこっちおいでよ」
 優は聖さんを手招きした。
「あ、はいっ」
 聖さんは優の前で背筋を伸ばした。メイドらしく、次の命令を待っている。
 優はぽん、と自分のソファーの横を叩いた。
 隣に座れ、ということだ。
「いえ、しかし……」
 聖さんは口ごもった。
 メイドの本分はご主人様に仕えることで、並んで座るなんてもってのほか。
 などと教育されたのだろう。朝ごはんのときも、優が言わない限りちょこんと壁の脇に立っている。毎日、「いっしょに食べよう」といっても自分からは座ろうとはしない。
 優はにっこり笑い、もう一度ソファーを叩いた。
「お願いされるのと、命令とどっちがいい?」
 聖さんは額にしわを寄せた。
「で、ですが。ご主人様と並んで座るのは」
「じゃぁ命令。隣に座って」
 聖さんはごくり、とつばを飲んだ。わかりました、と言ってしずしずと優の隣に座った。
 なにやら落ち着かない様子だ。顔を赤くして、ソファーの端ぎりぎりに寄っている。
「今日は寒かったよね」
 優はそういいながら、聖さんの手を取った。
「あっ」
「ちょっとかさかさしてる」
 優は聖さんの乾燥した手の甲と、ちょっと指先が冷たい手のひらを、両手で挟んでゆっくりとさすった。
 手荒れは今日の寒さのせいだけではない。いつも聖さんがメイドとして炊事や洗濯をしてくれるおかげだ。
 いつもすまないねー、と謝るよりも。いつもありがとう、と感謝するべきだろう。
 そんな気持ちを込めて手を撫でさすった。
 聖さんは恥ずかしいのか、優を見ないでキッチンに目を向けていた。
「手袋、ある? なかったらプレゼントするよ」
「いえ、あの。優様。恥ずかしいですよ」
「そう? ちょっと早いクリスマスプレゼントだと思えば」
「そうじゃありません。手が」
 引っ込めようとした聖さんの手を、優はやさしく捕まえて離さない。
「いつもありがとう」
 え? と聖さんが声を上げて振り向いた。
「聖さんがいてくれるおかげで、僕は助かる」
「あ、ありがとうございます」
「仕事でだけじゃなかったら、もっとうれしいんだけどね」
「えっ、あの、それはっ」
 固まっている聖さんの手を離すと、反対側の手をぱっと取った。
 ちょっと遠いので、腰に手を回してぐいっと引き寄せた。
 聖さんが復旧して目をぱちくりしたときには、既に手を揉み揉みしていた。遠いほうの腕をつかんでいるので、聖さんは優のほうを向く姿勢になる。
「えっ、つまり、それは」
 優は聖さんの疑問をしれっと無視した。
「気持ちいい?」
「はい。えっと、仕事以外ってことは?」
「どういう意味だと思う?」
 疑問で返すと、聖さんはうつむいて黙ってしまった。
 照れてかわいい。
 優は笑いながら指先まで丁寧になでた。指の中に一本アイスキャンディが入っているかのように冷たい。
 優の手のひらの体温が聖にうつるまで、手をさすった。
「あったまった?」
「は、はい」
 聖さんは赤い顔で答えた。
 やかんがぴーっと蒸気で鳴った。
「あとは、僕がやるね」
「ああ、いえ。私が」
「いーからいーから」
 すかさず立ち上がろうとした聖さんの手を引っ張った。ちょっと強すぎたのか、くらっとバランスを崩して優に覆いかぶさってきた。
 聖さんの丸い胸の間に、優の顔が挟まる。
 セーターでかおがちくちくする。
 あまいミルクの香りがする(ようなきがした)。 「ああっ。申し訳ありません」
 聖さんはあわてて離れようとするけど、体重が一点、むぎゅーっと優の顔にかかっている。
 優は呼吸も満足にできず、もごもご叫びながら聖さんを抱え込んだ。
「だ、だ、駄目です優様。離して、離してください」
 優は反動をつけて上体を起こした。聖さんを正面から抱え、胸に顔をうずめながらぜーぜー言っている。
「はぁ、はぁ、死ぬかと」
「あ、あの……優様……」
 ぷにーっと聖さんの双丘にほっぺたを当てて、聖さんの顔を見上げた。真っ赤だった。顔も髪も。ぷにーっとした肌触りのセーターとは対称的に。
 ぷに?
「あの……離して……ください……」
 かすれた声だ。
 優はばっと手を離した。そのまま下がろうとしてソファーにけつまずいて転倒。背もたれの天辺に後頭部を強打した。スポンジがあるのでたいしたことはないが。
「優様っ!」
「ご、ご、ごめん。聖さん。わざとじゃないんだよ、本当に」
 聖さんは胸をかばうように、両腕を組んだ。うつむきながらちらちらと優を盗み見る。
「申し訳ありません」
 聖さんは顔を背けてキッチンへ行ってしまった。
 すごく気まずい。不可抗力とはいえ無理やり襲ったみたいだ、僕が。
 うう。
 むぎゅーっとして気持ちよかったな。
 ってはっ、ごめんなさい聖さん。
 優が反省だか反すうだかをしていると、聖さんがお茶を持ってきた。お母様からいただいたクッキーも一緒だ。
 聖さんを直視できないよ。
 優が気まずくて脇を見ていると、聖さんはソファーの前のテーブルに置いた。
 そして深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
 優はぎょっとなった。何も聖さんはわるいことしてないのに何で謝らなきゃいけないんだ。
「あ、あのっ。待って。聖さんそんな……」
 ある意味、メイドにあるまじきことに、優の話をさえぎって、聖は話を続けた。
「あんなはしたないことをしてしまって……」
「いや、僕全然気にしてないよ。むしろ役得だし。それよりごめん、僕のほうこそ引っ張って転ばせちゃって」
 優はあわてて立ち上がってぺこぺこ頭を下げた。
「いいえ、私のミスです。私が優様に気を取られてなければこんなことに」
「あー、もう、わかった」
 優は手を二回叩いた。
「えーと、その。聖さんがしたことは、僕はなんとも思ってないんだけどね。許すよ」
 聖さんがぺこりと頭を下げた。
「それとは別に、僕が手をひっぱったこととか、その、胸とか……許してくれるとありがたいです。ごめんなさい」
 聖さんは胸、とか聞いたら赤くなった。
「あの、もちろん許しますけど、ひとつお願いが」
 聖さんは真剣な表情で優を見た。 「なんだい?」
 聖さんは一瞬、言いよどんだ。でも、奥歯をぎゅっとかみ締め、目をつぶりながら告げた。
「お願いです。忘れてください。あのこと」
 そういうと聖さんは恥ずかしそうにぷいっと横を向いた。
 優は腹から湧き出してきた笑いを抑えきれなくなった。
「笑わないでください! こんなこと知られたらお嫁にいけません」
「ごめんごめん。確かに。忘れた」
 優は腹を抱えながらソファーに座った。
「さて、紅茶を頂戴してもいいかな。お母様のご自慢のクッキーと一緒に」
 聖さんははい、と返事をした。


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