「皐月」



 五月に産まれた子供だった。だから。紗月と名付けられた。のだそうだ。
「で?」
 私は尋ね返す。
 こんな五月の晴れた日に産まれたのなら。余計に。
「おかげで、さっちゃんさっちゃんってね。ずっと女の子扱いなのさ」
 そう言って、紗月は無精ひげの目立つ顔で。天を振り仰ぐ。
 大学のキャンパス。午前中の授業時間。本当は出ているはずの………講義。
 だから、人気はない。 「…………」
「…………」
 天使が通り過ぎる。
 私と紗月の間を。
「逃げるの?」
 柔らかく尋ねるつもりが。言葉が。紗月を突き刺してしまう。
「逃げる訳じゃ………ない」
 左の頬が、小刻みに震える。余裕のない、苦笑。
「ごめん。きつかった。今の言葉」
 謝る。
「今から、逃げる訳じゃない」
 私は、紗月の薄い頬から視線を離す。
 足元に、踏みしだかれている蒲公英の綿毛。
「今までが、逃げていたんだから……。これ以上は………これ以上は、逃げら
れない」
 唇を噛んでいるのが。見なくても判る。
「追われているの? それとも、追っているの?」
 余裕がない。紗月にも。それを追いつめてしまう自分にも。
「追っているつもりだったんだ……だけど。いつの間にか。追い付かれていた。
追われていたんだ」
 これ以上は。
「追っているつもりの自分に。追わせてくれている廻りに……甘えていたんだ
な。あぁ。多分」
 追いつめているのは……私? それとも、紗月自身?
 それとも。
「誰かが…………」
 そう言いかけて、言葉が詰まる。誰か……多分。私。
「なぁ。夢を追うことは……現実から逃げること。なのかな」
 その答えは。何度も話した……はず。
「何かをするということは……何かをしないということ。それだけの事。そう
言ってたのは、紗月じゃないか?」
 現実から逃げて、夢を追うのと。夢から逃げて、現実を追うのと。
 どちらも追い続けることが出来ないのなら。
「立ち止まっているのが、一番の……逃げかもしれない」
 何も追わないで。
「で、どうする?」
 帰るの? とは聞けなかった。
 やめるの? とも聞けなかった。
 でも、その選択肢は。紗月の中に確固として存在して。それを強制されかけ
ているのも。知っているから。
「もう少し……足掻いてみるさ」
 足掻く。その苦しみは…………知っている。
「足掻くことぐらいはまだ。出来なくもない、筈だから」
 でも、自分で口にしながらも、それを信じてはいない頬。
 足掻くことで。苦しみは増す事を知っている唇。
 だから……。そんな目をするのだろうか。
 追いつめられた、余裕のない瞳。
「判った……。足掻くんだね?」
 確かめるように。呟く。
 一歩だけ、遠ざかる。
 紗月が足掻くことに。直接手助けは、出来ない。どんなにそれを望んだとし
ても。
「……あぁ」  その応えの声には。わずかにだけ、張りが戻っていて。
「足掻いても、藻掻いても。それでもどうしようもなくて、水底に沈んだとし
ても。紗月は紗月なんだろ?」
 そう。そういられる紗月であると。
 嘘吐きで、怠惰な奴でも。それだけは。
「自分で、あり続ける………そんな所にさえ、俺は駄目な奴かもしれないが」
 意志の。色。
「自分であるために。足掻くんだから」
 壊れるかも。しれない。
 そんな予感だけがあった。
 紗月が。私が。
「止めない」
 止めるわけには……いかない。見ているしかできないのだから。
「………………」
 止めはしない。
「だけど。壊れるな」
 それだけは。言わなければならなかった。
 このままだと……自分を壊してしまう。多分。
「壊れることだけは。しない。二度と……」
 本当かどうか怪しい言葉。
 それはまるで出征兵士の生きて帰ってくるという言葉にも似て。
 風が吹く。
 ツツジの植え込みが、揺れる。
「…………莫迦が…………」
 私は紗月に聞こえないように…………空の中の点を。鳥だと見分けられるま
で。見つめていた。

mailto:不観樹 露生
不観樹露生的短詩