『鬼の霍乱』
僕はカルテをもう一回ざっと読み直した。
新しい検査結果のプリントアウトが張り付けてある。
やっぱりなぁ。
僕は、一つ嘆息したあとで、背筋を伸ばして。
マウスで彼の名前をクリックした。
「後藤さん、後藤修造さん、お入り下さい」
アナウンスが呼んだ。
カルテの前の診察の末尾に今日の日付のハンコと自分の名前のハ
ンコを押す。
扉が開いて、帽子をかぶった後藤さんが入っていらっしゃった。
「こんにちは。お荷物とコートはそちらの籠に入れて、座って下さ
いね」
後藤さんは、あまりお話好きの方ではないようだ。
「あと、お帽子も脱いでくださいね。悪いところを診ないとなりま
せんので」
こちらの職業的な笑みにも反応されず、後藤さんは黙々と帽子を
取り、席に座られた。歩き方もきっちりしておられる。
後藤さんは再診。この病院にかかるのは二回目だ。だけど、初診
は部長がやっているから僕と後藤さんは初対面、と言うことになる。
「はじめまして、鬼療内科の医師の中瀬と申します。後藤、修造さ
んですね?」
名前の確認。実はこれが結構重要だったりするのだが。これだけ
大きな病院だと、診察室を間違って入ってくる患者さんなんてざら
だったりするから。
「はい、そうです」
やっと口をきいてくれた。
「それでは診察を始めさせていただきますね」
僕は、後藤さんの額の角に張られた大きなガーゼを外した。
後藤さんは、この11月に399歳になられる。鬼としてはまだ
まだ働き盛りの中年の男性だ。
今年の正月も充分にお仕事をなされて、そのあと、角の付け根に
微妙にこぶが出来ているのをご自分で自覚されたという。それで一
週間前に当科外来受診、ということで。
「先週、こちらにいらしてから、お変わりはありませんか?」
問診。
「いえ、やっぱり痛みとかはなにもないんですが、ただ、こぶがや
っぱりちょっと大きくなっているような気がします」
腫瘤が増大している感覚、と。
「他にお体の具合などはいかがですか?」
全身状態は全く悪い感じはしない。
「うーん、特にはこれといった事はないです。この日曜日の節分も
普通に仕事をしてましたし」
節分は仕事、と。
「それでは、少しお体を診させていただきますね」
目。貧血・黄疸無し。
口。異常なし。
顎の下、首の回り。リンパ節が………ひとふたみい。
確かに、前額部第一角の根部腫瘤は部長が記録したよりも微妙に
大きくなっている気がする。
「服を脱いで、胸の音を聞かせていただけますか?」
後藤さんはワイシャツをまくり上げる。
「すいません、もう少し上まで」
指示に従ってくれてから、肺の音をざっと検索する。取り立てて
異常は無し。心音。正常。
「はい、結構です。服はもう戻してくださって結構ですから」
後藤さんがワイシャツを下ろして服装を整えている間に、僕はMRI
のフィルムをシャーカステンに挟み込む。
「後藤さん」
こういうのは緊張する。
「角の付け根のもこっとした盛り上がりですが、先週MRIで撮った後
藤さんの頭が、これです」
MRI画像を示す。
角の付け根の盛り上がり。角髄の中まで浸潤している。
「外から見えている盛り上がりがこれです。お判りになりますか?」
後藤さんがうなずく。
「で、見てお判りになると思いますが、このこぶは、普通の頭をぶ
つけたときに出来るこぶではありません。ここを見ていただくと判
るんですが、角の骨と額の骨がこれなんです」
「で、普通の方ですと、この線がまっすぐになっていないといけな
いんですが、このこぶの中身のこれが、骨の中に食い込んでいます」
「普通のこぶですと、骨がこういう風に消えるという事はあり得ま
せん。こぶというのは、骨の外にあるものなんです」
説明。判ってもらえているのか。
「ということは、もしかして、癌、とかいうものですか」
そこにやっぱり、普通はたどり着く。
「癌、と決まったわけではありません。切って取ってしまえば簡単
に治るものから、切らなくてほっておいても全然問題ないものから、
放っておくと命に関わるものまで、こういう風なできものは、特に
角の付け根には出来やすいんです。ただ」
カルテをめくる。検査結果をまとめて貼り付けてあるページを出
してみせる。
「この、ONEeという所を見ていただきたいのですが、これは、普通
の方ですとまず1か2ぐらいの値なんですね。でも、後藤さんの場
合、この値が467と大変高くなっています。これは、腫瘍マーカ
ーと言いまして、鬼に特有の癌ではよく高くなってくる値なんです」
かなり、こういうのを笑顔を崩さないままで告げるのは、辛い。
「だとすると……」
「あぁ、癌とまだ決まったわけではありません。こういう風に増え
てくる、まったく健康な方もいらっしゃるので」
気休めっぽいんだが、言わないよりましな科学的事実。
「あと、癌であった場合でも、昔と違いましてちゃんと治療すれば
癌は治る事が期待できる病気ですから」
このあたりも、癌=不治の病、と直結しないようにと伝える。
特に、鬼特有の角癌は、Onmyo-Radio治療のよい適応になるから、
まだ全身転移がなければ、これだけ大きな腫瘍でも、5年生存率は
80%が期待できる。
浸潤傾向・増大傾向・そして腫瘍マーカーの増強・頸部リンパ節
の腫脹。あらゆるデータが癌を示唆しているから。
「わたしとしましては、癌であることを心配されるのでしたら、一
度入院なさってちゃんと調べてみられるのが一番よいのではないか
と思います」
角根部を生検して病理医が見れば確定診断が付く。
「うーん……曾孫娘の結婚式が来週なんで、その後で入院というわ
けには行かないですか?」
入院には同意、と。
「そうですね。ただ、少しずつ大きくなっていると後藤さんもお感
じになっていらっしゃるんでしょう? もし、悪いものであった場
合、早めに治療をはじめればはじめるほど、ちゃんと治る可能性は
大きくなります」
後藤さんは目を伏せる。
「少し、娘と電話で相談してからでもいいですか?」
カルテの家族歴を見る。奥さんとは……死別されているのか。
「はい、結構ですよ。もし、なんでしたら、娘さんのご都合のいい
ときに一緒に見えられてもいいですが」
家族の同意というのはなかなか難しい。これもまぁ、いつものこ
と。
「んー、それでは、外の公衆電話でちょっと娘に電話してみます」
ご本人だけではなかなか決められることでもない。
「それでは、戻っていらしたら、看護婦に伝えてくださいね。少し
お待たせするかもしれませんが、看護婦が案内してくれますから」
後藤さんは、立って荷物を手に抱える。
「はい、判りました。それでは」
ぺこり。にこやかな笑みを浮かべたまま、頭を下げる。
後藤さんの気配が去る。一つ、息を吐く。
前髪を掻き上げて、自分の角に少し触れる。
なかなか、医者も楽じゃない。
後藤さんが娘さんに電話している間に、簡単そうな次の患者さん
を診ておくとしよう。
次は、100年来の糖尿病の1043歳のおばあちゃんの鬼だ。
カルテを引っ張り出してから、僕は、マウスで山口さんの名前を
クリックした。
fin.
mailto:不観樹 露生
不観樹露生的