きりんと清子の話
きりんがやってきたのは、その日の午後だった。
「どうした」
中林清子は、まぶたにかかった前髪をうっとうしげに払い、振り
返った。
「仕事」
きりんは、やたらと高い視点から彼女を見下ろして答えた。清子
とて女性としてはそれなりに背の高い部類にはいるのだが、きりん
との身長差はそれでも40センチ以上もある。
「またか……わかった」
清子は、少し躊躇った後にパイプ椅子から腰を上げた。腰を上げ
ても、きりんの顔との距離はさほど変わらない。
「おたくが仕事以外の時にお前がこんなところに来るはずはないか
らな」
きりんはその言葉に、なんらの反応を見せなかった。ただ、ぬぅ
っと立っているだけ。それもまた、いつものことだ。
清子は口の端から軽くため息を漏らして、この長身の男の無表情
な顔を観察した。
「で、急ぐのか」
これは愚問であった。きりんとて、ことさら目立ちたいわけでは
ないのだから。
清子が下校する時刻まで待つ事もせずに、彼女の通う女子高校の
生徒会室にまでやって来た。
急ぎの用だからに決まっていた。
「いいか?」
緊急事態の一種であることを清子が理解していることを前提とし
たきりんの返答。軽くもう一つため息をついて、清子が尋ねる。
「少し待てるか」
きりんは眉をひそめる。わずかに考えてからの答え。
「5分」
清子は軽く鼻を鳴らす。
「ふん。充分だ」
そう言い残すと、部屋の扉を開けっぱなして走り去る。
きりんは、それを見送って扉を閉じ、部屋の中央に鎮座する安っ
ぽい組立式の机に寄り掛かった。
体重を受けて微かに軋む机。
個人的な体臭が染み着いている部屋。わずかに、清子の髪の通過
した空間に残る洗髪料の残り香。金属製のケースの中には無駄とし
か思えない黄色く変色した書類。紙が悪いせいなのか長期に渡って
保存しすぎているせいか。
きりんは顔をわずかに傾ける。つり下げ式の蛍光灯にぶつからな
いように。そうやって立ち上がると、あたかも立てかけられた一本
の棒のように扉の蝶番の付いた柱に身を付ける。
5分も待つまでもなく、じきに床に対して恨みでも感じているか
のような足音を立てて清子は帰ってきた。
「用は済んだ。仕事ならとっととしよう」
きりんは軽く頷き、無言のまま清子の手を取り、かがむ。
「跳ぶ」
呟きなのか、通告なのか、いつもながらよく判らない短い一言だ
けを残して。生徒会室は無人になった。
★
きりんの首は細長い。体格に似合わぬなで肩の上についているの
で、余計にひょろりとした印象を与える。その頚をひょいと動かし
て低い扉の鴨居を避ける仕草が、清子にとってのきりんである。
その首は跳ぶときにつかまるためにある。見かけよりも筋肉質で
丈夫なので、折れる心配はないらしい。さすがに絞めてしまわない
ように気を使ってはいるが。
跳躍は、傍目にはそうは見えないだろうが、意外に時間がかかる
ものだ。
最初に跳んだとき、清子はそういう感想を持った。体感時間にし
ておよそ20分。一緒に跳んでいる腕時計もその感想を支持していた。
「内容は?」
現時につくまで、きりんは仕事の内容について話しだそうとはし
ない。そのことを百も承知の上で尋ねている。
跳んで、仕事をこなして、帰る。仕事にかかった時間に関係なく、
きりんの首につかまってもと居た場所へと帰ると、必ず清子の腕時
計は40分強進んでいる。
「もう少しで着く」
きりんの答えはいつもそうだ。
生徒会の連中が見たら、どう思うだろうか。この男との会話をい
ささか持て余している自分を。
★
そもそもこの男の本名すら清子は知らない。きりんという呼び名
は、初めて出会ったときに清子がつけた。
その時は、まだ清子は高校受験生だった。今は既に大学受験生に
なっているので、3年間過ぎ去ったという事になる。清子がきりん
を拾ったのは、ちょうど今と同じ、商店街にクリスマスソングが流
れ出すころだった。
学校帰りの商店街路地裏で倒れている男。そういうシチュエーシ
ョンだった。
……面倒臭いな。
清子が最初に考えたことはそれだった。身の丈2メートル以上も
あるひょろ長い大男。当時、身長が155もなかった清子が彼を運
ぶのは、確かに一苦労だった。どうしても足を路面に引きずってし
まうのだ。
しばらく考えた末、清子は男の右腕からかつぎ上げた。そうまで
しても男が起きる気配はなかった。
しばらく、人通りのない裏道を行く。この辺りはまだ、平坦だか
らよかった。清子の家は町外れの高台にある。坂道を上るとなると、
明らかにこの男の長身をひきずるのは邪魔だった。それに、高台の
団地へと続く道は、一本しかない。人目にもついた。しかし、誰も
手を貸そうとするものはなかった。
人目は、気にするのをやめた。
清子は男の足が大地に擦れるまま、歩き続けた。歩き続けるうち
に自分の家に辿り着く。
父母は、どうせその日も留守だった。
「で、おたく達は?」
玄関先で、振り返る。告げる。
尾行られていたのは。判っていた。
「最後まで、気がつかないふりをしていれば。そのまま平凡な人生
を歩めたはずだったんだがね」
気がついていた。気がつかないふりなんて、面倒だった。
「誰かって聞いているんだけどね」
もう一度。尋ねる。
強がりかも、知れなかった。それは恐怖という物ではないような
気がした。それだけだったのだ。
本当に。ただそれだけだった。
★
「着く」
きりんが短くそう告げる。あるいは呟く。
そう告げられたら瞼を閉じる。
それが、決まりであり、約束だ。
着くときには、瞼を開けない。いつも。
きりんの足が、地を捉える。
なじみのあるその土の感触に、瞼を開く。腕を、放す。
上履きのままの脚が、堅い地面を踏む。大地に生い茂っている夏
草が、ふくらはぎを軽くくすぐる。
仕事の始まりはいつも。こうだった。
(続くかもしれない)
mailto:不観樹 露生
不観樹露生的