『賢者の贈り物』



 雨が降っていた。
 冷たい雨だった。
 俺は雨が嫌いになれそうだった。
 こんな路地裏で、のたれ死にしかかっているときの天気ってのは
誰だって嫌いになれる。
「ねぇ」
 あぁ。幻聴まで聞こえてくる。女神の声がこんな所で聞こえるわ
けはないのに。
「ねぇ、おじさん、風邪引くよ? こんな所で死んでたらさ」
 死人は風邪を引かない。そう反論したかった。しかし、声は出せ
なかった。代わりに口から少しなま暖かい液体がこぼれた。
「あれ、おじさん、これ、血じゃない?! ちょっとっ、おじさん、
生きてる? 大丈夫?」
 おじさん、はないんじゃないかな。まだ、29歳なんだから。あ
と、思いっきり揺さぶるのも、結構傷口に響くんだが。
 だんだんと身体の感触が無くなる。
 なるほど。女神じゃなくて死に神だったか。
 そんな事を考えて。納得して。
 俺は死んだ。

     ***

 甘ったるい。
 ひたすら甘ったるい匂いで俺は目を醒ました。
「ふんふんふふ〜〜ん〜」
 そして鼻歌。女性の物だ。
 俺はうめき声で自分の生存を主張した。
「あ、おめざめー?」
 女神でも死に神でもなかったらしい。
 普通のエプロン姿の女性が俺を真上から見下ろしていた。
「ここは、天国じゃないみたいだ」
 俺は声を出してみた。ちゃんと出る。
「そうね。でも、もしかして地獄かも」
 女はくすくすと笑う。女の年はわからんが、きっと俺よりは年下
だ。でも、俺をおじさんと呼ぶほど若くもないだろう。
「地獄にしては………快適に過ぎるかもな」
 そういって、俺は四肢に力を入れてみた。まるで動かない。
「快適、かしら? もう熱くない?」
 もう?
 そういえば、さっきから気になっていたこの甘い匂いには心当た
りがある。
「熱くもなく寒くもなく、快適だが………そのなんだ。身体が動か
ないようだ」
 身体が動かない。力が入らない、というよりむしろ何かに押さえ
つけられているという感じで。
「あー、動いたらダメだよ。折角固まったチョコが壊れちゃうから」
 チョコレート。確かにこの匂いはチョコレート以外のなにもので
もない。俺は、眼球の運動だけで下を見るのがこんなに困難だとい
う事を初めて知った。
「なぁ。一つ聞いていいだろうか」
 俺は咳払いした。
「怪我人をチョコレート漬けにするって言うのはどこの民間療法な
んだ?」

     ***

「すまんが、帰らせてもらっていいか?」
 断固として帰る。そういう意味を濃厚に含ませて、俺は尋ねた。
「だめ」
 女性はきっぱりと言った。俺が着ていた筈のコートも衣服も今は
ない。
 俺は、自分の身体を見下ろした。
 チョコレート。
 程良く鍛えてはいたが鬱陶しいほど筋肉質でもなく、あちこちに
弾傷切り傷はあったもののそれなりに機能的だった俺の身体。
 でも、ちょこれーと。今は。
「わかった。んじゃ、シャワーを貸してもらえないだろうか」
 思考がひらがなになりそうなのを必死でくい止めながら次の頼み
をしてみる。
「シャワーなんて浴びたら溶けちゃうわよ」
 意図が通じていないようだった。
「俺は、このチョコまみれの身体を何とかしたいんだが」
 人間と会話しているんだろうか。
「溶けちゃったら首から下全部、また作り直しじゃない」
 女性は、ぷん、と胸を反らす。
「結構、その形ちゃんと作るの面倒なのよ。判ってる?」
 ……つまりは、洗い流したらまたチョコでコーティーングしてく
れると言うことだろうか。
「だいたい、まだ聞いてないわよ」
 ……何をだ? 俺の怪訝な表情に向かって女性はエプロンの腰に
手を当てて、睨み上げた。
「ありがとう、の一言ぐらい言えないのかしら? せっかく生き返
らせてあげたっていうのに」
 生き返らせた? ってまぁ疑問はさておき。確かに礼の一つもま
だ告げていなかった。
「あぁ。それは謝罪しよう。そのなんだ。動転していたわけだ。済
まない。それから、助けて手当てしてくれてありがとう。感謝して
いる」
 頭を下げる。
「うん、よろしい」
 女性はにっこりと笑った。
「沢山感謝してねっ。ここまで死体運んで、改造して生き返らせる
のってすっごく大変だったんだから」
 死体? 改造?
「それにね」
 疑問符で脳味噌が一杯になっている俺に、彼女はにっこり微笑ん
だ。
「今日はバレンタインデーなんだから」

     ***

 バレンタインデー。俺は、チョコレート製の不死身の肉体をプレ
ゼントされてしまった。
「取りあえず、後は仮面をかぶれば完璧よねっ。がんばれ正義の味
方っ。きゃは」
 正義の。味方。
「やっぱり。あんたは、女神でも死に神でもないよな」
 そう、疫病神だ。それも最高級の。
「もっちろん。さぁっ、出動よ! 頭以外はいくらでもチョコさえ
あれば直せるんだから、しっかり働くのよ!」

『甘い身体が正義の印! チョコレート仮面、ここに見参!』

Fin.


mailto:不観樹 露生
不観樹露生的