桜が散りかけている。まぁ、とにもかくにもそう言うシーズンだ。今年の桜
は少し遅いらしい。日帝、米帝が云々とかいう、いまいちピントのずれた主張
が書かれているどでかい看板を春の夕陽が照らしている。
結局、あの一週間で何が変わったかって……改めて考えてみると何も変わっ
ていないのだ、少なくとも、俺の心以外は。
俺は第一志望に合格して、ここ、京都の街で一人暮らしを始めた。
無事、医学生になったわけだが、あまり実感が湧かない。受験が終わって、
しばらくの俺は、ある意味で抜け殻めいている。
カード入れに入れてある、琴の写真。そして、祀穂理のリボン。理解はして
いても心は、納得しない。
新しい生活。新しい(というにはちとぼろいが)部屋。実家のあの部屋は、
いつまで俺の帰りを待っているんだろうか。祀穂理が来て、去り、友絵が来て、
去った部屋。
友絵からはあれ以来連絡がない。
こちらから連絡してみようという気にもならない。だいたい、携帯電話の番
号のメモも破いて捨ててしまった。
いつ壊れても不思議じゃないような門をくぐる。ふと左手の壁際の看板に視
線が止まる。
看板の前で立ち止まる。
青地に白のシンプルな看板。SFの文字が大きく、研の文字が脇にひっそり
と書かれている。ショルダーバッグの中になかったろうか。もらったビラの束
の中から、該当するビラを見つけだす。手にしているビラに視線を落とす。
大量のSF作家の名前の羅列をバックに筆文字で大きくSFと書かれている。
「SF研究会か……」
呟いてみる。悪い響きじゃない。
ビラの一番下に連絡先として三人の名前と電話番号が書いてある。新歓説明
会か……あぁ、なんだ、明日じゃないか。
このまま帰って、寝るだけか……
***
下宿に帰り着くと、共同玄関の脇の郵便受けに郵便物が溜まっていた。
古い地層の分は放っておいて、新しく着いた上層部だけをチェックする。
硬い感触。花の写真の絵はがき?
裏っ返す。上半分に、女の子らしい可愛らしい字でここの住所と俺の名前が
書かれている。誰だ? 少し眉をしかめる。差出人の名前がない。
本文を見る。
《先輩、お元気ですか?
そちらの暮らしにはもうなれましたでしょうか?
くれぐれも健康には気をつけてくださいね。
また、手紙します。
都子
P.S.電話番号が決まったら連絡下さい。待ってます。》
都子……あぁ、相良さんか。
下の名前を気にしたことがなかったから、一瞬判らなかった。
電話も入ったばかりだし、クラスの同窓会名簿の方には番号を一報しておい
たけど、放送部の連中にはまだだったか。
取りあえず、七時まわって電話料金が安くなったら電話しとくか。
他には特に自分宛の郵便物はなく、スニーカーを脱いで自室の鍵を開ける。
四畳半の狭い部屋だから、床には既にいろんな物が散乱している。
廊下の明かりを頼りに、室内に踏み込んで裸電球から吊り下がっているひも
を引っ張る。明るくなる。
ほぼ同時に電話の呼出音がなる。
「はい、関口」
「あ、関口くん? お久しぶり。幸田でーす」
……幸田さん?
「あ、ども。お久しぶりなことで。どしたの?」
卒業式の日に見かけて以来だから、一ヶ月半振りと言うところか。
「うん、あのね、今、実は、京都にいるんだけどね」
はぁ?
「……旅行?」
「ううん。予備校。ほら、あたし、国立一本とかいってて落っこっちゃったか
らさ。浪人生よ、浪人生。で、こっちに出てきたってわけ」
明るい。ま、親父さんが亡くなったショックもようやく癒えたって感じか。
「ふーん」
「そういうわけだからさ、取りあえず、今年一年は京都なのよね。だからさ、
しばらくの間、よろしく」
え? そうなるのか? 何でそうなるんだ?
「はぁ、まぁ、こちらこそ」
***
よく磨き上げられて滑りやすい廊下に、何枚も何枚もわら半紙やらコピー用
紙やらに刷られたビラが落ちている。危なくて仕方がない。
「A号館の二二六号室……って、ここか……」
引き戸の上の半分取れかかっている札を見る。
確か、英語がこの教室だったか。
取っ手に手をかける。立て付けのあまりよくない開き方。
黒板にでかでかとSとFの字が書かれている。十五人ほどの学生がたむろっ
ている。
「SF研究会でーす。もしかして、入会希望の方ですかぁ?」
その内の一人が声をかけてきた。
「えっと、見学に来たんですけど……」
何か馴れ馴れしいよな。
「そーですか、そーですか、ま、入って下さい。どーぞどーぞ」
な、な、な。
「取りあえず、よろしく」
何か、調子狂う人だな。
先輩はいきなり振り返ると、教室の中に向かって叫ぶ。
「おーい、新入生だーっ」
「おぉぉぉぉぉぉ!」
拍手喝采。何というか、このノリ。
「ま、座って座って。何か飲むかい? 烏竜茶とファンタときりりがあるけど」
「あ、きりりで」
そう答えると、先輩は紙コップ二つにきりりを注いで渡してくれて、俺の前
の席に、逆さまに座る。
「あ、そろそろ自己紹介まわるから、ちょっと待っちくりーや」
そう言って、振り返る。
「おーい、会長さん。三人ほど新入生も来たこったし、そろそろ自己紹介まわ
さなーい?」
上回生の自己紹介が、下の回生からまわっていく。
四回生が終わっても、まだ目の前の先輩は自己紹介に立とうとしない。この
人、そんな上の人なのか?
たぶん自分と同じ立場の新入生と思われる人間を除いて、ほぼ全員の自己紹
介が廻り終わった。とはいえ、名前など、そんな簡単に憶えられる物でもない。
やっと、目の前の先輩が立ち上がる。
「ほい。んじゃ、ラストはわたしとゆーことで。えー、いつの間にか最年長。
医学部六回生四年生の廣瀬です。好きなSFは佐藤大輔と神林長平、谷甲州な
んかですねぇ。趣味はDNA取りです。こんなもんでいいっスか?」
わぁぁぁぁ。ぱちぱちぱちぱち。
何かよく理由もない拍手。
い、医学部な訳ね、この先輩。な、なんだかなぁ。
「んじゃ、新入生も自己紹介してくれるかな。そっちの君から」
と言って、司会の先輩がこっちを指す。
「え?」
一瞬戸惑ってから立ち上がろうとしたときに、教室の戸が、がらりと開いた。
座りなおした先輩の頭の陰で、戸の方が良く見えない。
「ごっめーん、遅れちゃって。コップ、足りてる?」
女の声。女性会員もいたのか、ここ?
「長田さん、タイミング悪いよ。今ちょうど新入生の自己紹介始めようとして
た所でさ」
司会の人が文句を付ける。長田さん? どこかで……
「えーっ、そうなのーっ。じゃ、簡潔にやっちゃうね」
教壇へ移動してくる。
……え? あの顔は、見間違いでなければ……
「工学部電子工学科三回生、長田友絵です。会計なんかやってます。会費はち
ゃーんと払ってね。というわけで、よろしく!」
the end......