「……服従?」
そう呟きながら、少し、後ずさる。再充填が、あまりにも遅い。自分と祀穂
理との関係に狂いが生じているから?
春香は、祀穂理の顔に笑みを浮かばせる。
「力がまだ戻ってないんでしょ。当然ね。あたしの方が、この身体を使ってた
小娘よりずっと力が上だもの。存在のバランスがあたしの方に傾いちゃってる
のよ」
春香がご丁寧にも解説してくれるが……ということは、御堂姉弟相手に力抜
きで戦わなければならないってこと。絶望的だ。クソッ、一体、今日は何回絶
望すりゃいいんだろう。
「姉上」
御堂がしゃがみ込んで、祀穂理に、いや春香に何かを耳打ちする。
「そう……あの女、いると邪魔なのね」
祀穂理……いや、春香が小さな右手をまだ起き上がろうとするそぶりすら見
せない友絵の方に向ける。春香が、力を軽々と集中させるのが判る。友絵を攻
撃しようとしている?
「やめろ、祀穂理っ」
春香が右手から無造作に力の塊を放出する。
友絵の前に結界を張ろうとする。力が足りない。再充填はまだかよ!
クソ、間に合わねぇっ!
盛大に泥水のしぶきと水蒸気が舞い上がる。
「友絵っ!」
しぶきの中にかき消える。いくら友絵でも結界の防護なしにあれだけの攻撃
を受けたら……死ぬ。間違いなく死ぬ。
「あたしは春香よ。呼び間違えないで」
春香が冷ややかに告げる。
水蒸気のもやが薄れていく。中から現れる立ち姿の人影。
「宇治! 貴様、なんのつもりですか」
御堂の声。
「……宇治?」
倒れたままの友絵を庇うように、宇治があの笑みを浮かべたまま、ポケット
に両手を突っ込んだまま、ゆらりと立ちはだかっている。宇治が、結界を張っ
ている。何を……しているんだ?
宇治は御堂の仲間ではなかったのか?
「わたしは職務には忠実な男でしてね」
宇治が、軽く息を漏らす。笑っている。
「何を言っているんです? あなたの職務は私のサポートでしょうが」
戸惑っている御堂。
「そうですねぇ。BH連絡員、御堂真理の副官、宇治正道という方の職務はそう
ですねぇ」
宇治の、例によって例の如くの言語明瞭、意味不明瞭の話し方。なるほど、
御堂のような奴がこの話し方に苛ついているのを見るのは、とても楽しい。
何となく、宇治がこういう話し方をする理由の一端が判るような気がした。
要するに、楽しいのだ。
「宇治っ! 組織に逆らうというんですか?」
そういや、この連中、BHとか言う組織の人間だったのか。群れるのが嫌いな
一匹狼な退魔師たちの互助団体。
「いえいえ。わたしは組織にはとっても忠実な人間ですからして。逆らうなん
て滅相もありませんよ」
何かよく判らないが、宇治と御堂が仲間割れをしている間に、少しでも体力
を回復しなくては。
「なら退きなさい!」
御堂が切れる。御堂の攻撃が宇治へと飛ぶ。
「ストラーイクっ」
傍目にも、ウェルバーの全力攻撃ぐらいの威力があったその攻撃を、宇治は
正面からズボンのポケットに両手を突っ込んだままの姿勢で、顔色一つ変えず
に受け止めた。いや、無力化したのか?
どっちにしろ、化け物だ。
「宇治。貴様、何者です?」
御堂が訊ねる。
「だから、言ってるじゃないですか。組織の忠実なしもべですって」
宇治はそう言って、右手をポケットから出す。人差し指を立てる。
「御堂殿、まだわかんないんですか?」
にこにことした笑い。
「とっとと正体を現せ!」
御堂の口調から丁寧語が消えている。
「わたしはお馬鹿な人が嫌いでしてねぇ。仕方ありませんからヒントをあげま
しょう」
そう言って、宇治は両手を頭の後ろに回す。
「こうすれば判りますかねぇ。お馬鹿な御堂真理さん」
宇治が、後ろで纏めていた髪をほどく。丸眼鏡を外す。少し猫背気味だった
背筋がすっと伸びる。
雰囲気が、変わる。
春風を連想させる穏やかな雰囲気が、消える。その底から現れたのは、怜悧
な水に濡れた日本刀のような男。
「……み、南?」
御堂が一歩後ずさる。
南? 南正一なのか? 友絵のファイルの中にあった、一八年前のWellbred
事件の担当者。友絵の上司。
「御堂真理。私の部下に手を出して、ただで済むと思ったのか? そういう愚
かさは昔と変わっていないな」
力が、集まっていく。
「部下思いって奴か?」
御堂が辛うじてという感じで口を挟む。
「スタッフ一名死亡。これ以上の損害を私は許容しない」
損害……幸田さんの父親のこと。
完全に雰囲気が、御堂を圧倒している。
「それに、十八年前。私の妻を殺した男に対する復讐は済んでいないからな」
友絵の女神モードもかなりキているが、こっちはもっとすごい。これがあの
宇治と同一人物とは。
もしかして、WHってのはこの手の二重人格者の巣窟なんじゃねぇだろうな。
「復讐ですか。では、返り討ちにして差し上げましょう。私もあなたには一方
ならず手こずらされましたからねぇ」
驚きから、御堂が立ち直っている。御堂の元にも気が集まり出す。予想はし
ていたが、こっちも尋常の力じゃない。
因縁の対決ってわけか。
ちょっと待てよ。こいつら、十八年前、何歳だったんだ? 年齢不詳の南に、
どう見ても三十代には見えない御堂。
……考えないようにしよう。祀穂理だって一〇〇才は軽く越えてる筈だし。
「正面から、私と戦って勝てると考えているところが愚かだな」
どっちも化け物だが……。
南の言葉には一理あった。その差はさほどでもないが、単純に南の方が強い。
「なんちゅう……」
呟いている。
宇治と名乗っていた時の穏やかな仮面をはぎ取った南は、恐怖さえ感じさせ
る端正な顔を御堂に向けていた。
「関口亮。この男は私が担当する。君は御堂春香の相手をしたまえ」
そう言って、南はこちらに何かを投げて寄こす。受け止める。
水晶? つかんだ途端に、それは真っ二つに割れて。何かが流れ込んでくる。
力が回復しているのが判る。その手の使い捨て回復グッズってわけか。
春香が、こちらを見る。いつでも動けるように力を練り上げる。
「姉上……」
南と対峙したまま、御堂が、春香に何かを言おうとする。
祀穂理、いや、春香が両手を組んでこちらへと向ける。
「判ってるわよ、真理。あの坊やを傀儡にしちゃえば、あたしの力は使い放題
ってわけでしょ」
契約がまだ残っているから……要するに、そういう事か。関口亮としての存
在を吸収してしまえば、人間一人分の存在が自由に使えるようになり……
戦後最強の反魂師、御堂春香がMaxwellの悪魔のオプション付きで完全に復活
する。
そうなったら、おそらくは南でも抑えきるのは無理だ。
だから、やられるわけにはいかない。
「亮ちゃん。大人しくなさい。痛くしないから……ねっ」
春香から、力が放出される。自分の結界では正面からは受け止められない。
斜めに滑らすようにして、かわす。
対ウェルバー戦で身に付いた、格上の相手の攻撃への対処。
しかし、攻撃するわけにはいかない。
昨日の宇治の……南の話では、一旦乗っ取ってから安定化するまでは丸一日
かかるらしいから、逆に言えば、今ならあの身体に祀穂理の情報が残っている
という事。
「祀穂理! 祀穂理! 目を醒ましてくれ!」
かわしながら、叫ぶ。
祀穂理は乗っ取られているだけ。あの身体には、まだ祀穂理の情報が残って
いる。だから、攻撃できない。傷つけられない。
「無駄よ。あたしの弟の術はそう簡単には破れないわ」
泥濘の上を、水しぶきをあげながら走る。少し、結界の収束が甘い分、ウェ
ルバーとやったときほどの実力差はない。まだ、春香は祀穂理の身体を操るの
になれていないのだ。
いや、そうじゃない。これは、祀穂理の結界だ。まだ、春香は祀穂理の身体
に無理に命令しているに過ぎない。
二連続で来た攻撃を続けてかわす。一歩も立ち止まれない。春香に肉薄され
たら最期だって事は、ウェルバーの時でよく判っている。
どうすればいい?
ちらりと、南と御堂の戦闘の方に視線をやる。いつの間にか、二人とも力で
空中へと浮かび上がって、頭上で空恐ろしい攻防を繰り返している。そして、
あちらの決着も、一向につきそうな気配がない。
どうすればいい?
何とかして祀穂理を目覚めさせることが出来れば……
「えーい、ちょこまかと。大人しくなさいっ!」
急ターンと弾きを繰り返して。
さすがに息が切れ始めている。しかし、こんな時ほど持久走で鍛えていてよ
かったと思ったことはない。
「祀穂理っ!」
叫ぶ。効果がありそうな気はしないが、それっ位しか出来ることを思い付か
ない。
「無駄だって言ってるでしょうが!」
何発目かもう判らない攻撃。何回目か判らない防御。
「ちっ」
結界で弾いた跳弾が、友絵の顔の脇に着弾する。泥水しぶき。
「友絵っ!」
走りながら叫び、叫んでから友絵の安全を確認する。
大量の泥水で泥まみれにはなっているものの、損傷は見受けられない。
「ん……亮君!」
友絵の声。振り向いている余裕がない。気がついたのか?
「何をしているっ!? 祀穂理っ!」
この声は、女神モード。
友絵が何をしようとしているか気がつく。
「やめろ! 友絵!」
叫んでいる。
「なっ!」
春香が叫んでいる。
「亮!」
なにかが、友絵の方から飛ぶ。祀穂理の死角から。
意識もせずに跳んでいる。祀穂理の身体を庇うように。
「クゥ!」
左腕に何かが当たる。当たった部分の感覚がなくなる。
そのまま身体の左側を下にして着水する。そのまま転がって。
「なんで? 亮君!」
友絵の声を聞きながら起き上がる。髪から泥水がしたたって、目にしみる。
「し、知るかよ……」
左腕は自分のものじゃないかのようにブランと肩から下がっているばかり。
左腕を押さえる。
「ツゥ」
肘が、揺れる。骨、完全に折れてやがる……骨が折れるとこうなるのか。痺
れたように感覚がない。これでショックがなくなると激痛になるんだろう。
「ふふ。大事な祀穂理ちゃんの身体ですもんねぇ。傷は付けられないわよね」
おまえを護ったわけじゃない。祀穂理を。傷つけるわけにはいかないから。
「亮君……?」
何が起こったのかまだよく判っていないような友絵の声。
「そっちの泥んこ姫もようやくお目覚め?」
春香が友絵に声をかける。その間に息を整える。
「友絵。手を出さないでくれ。ここにいるのは、祀穂理だけど、乗っ取られて
いる。だけど、まだ元に戻るかもしれないんだ」
言い訳だ。祀穂理の身体が攻撃されることにはどうしても耐えられない。
そしてもちろん自分が攻撃することにも。
「でもっ!」
「いいから攻撃するなっ」
左腕を押さえる。今度はきちんと痛みが走る。思いっきり痛む。
こんな状態で、あとどれだけかわし切れるだろうか?
「ふふ。ありがとう。坊や。お礼にいい夢を見せてあげるよ。永遠にね」
春香の結界パターンが変わる。突き刺すすような結界から、包み込むような
結界へ。
春香はこの身体を封印しようとしている。祀穂理が半分封印されていたあの
時、ウェルバーに匹敵する力を出せたという事は、逆にこちらが封印されてい
れば春香の力は一気に膨れ上がるという事なのだろう。
「……」
祀穂理の目を見る。春香のものとなっているその瞳を。そして、身体が動け
なくなる。呪縛?
嫌だ。俺は嫌だ。
俺は俺自身を憎んでいる。だが、世界を愛してもいるのだ。
世界との関わりを失ったとき。俺は憎むべき自分自身をも失う。
世界を失いたくはない。
春香がゆっくりと両腕を広げる。圧倒的な力を感じる。彼女はそのままこの
身体を封じ込めてしまうのだろう。あらがう術がもうない。
「ゴメン」
祀穂理に言う。春香が乗っ取っていても、その身体は祀穂理だ。
「また護ってやれなかった……済まない……」
感じているのは、後悔ではなく、悲しみ。
生きている右腕を前に突っ張る。残っているのは、ほんのかけらほどの結界。
右の掌と、背中に一つづつ、そのかけらほどの結界を貼り付けて。
ゆっくりと、春香の中からわき出てくる全く隙間のない結界。その緻密さは、
見るだけで判る。あの結界の中に封じられたら……二度と出てこれはしないだ
ろう。
いつまで、耐えきれるか。それが、時間稼ぎにしかならないことは判ってい
たが、それでも。
抵抗せずにはいられない。
俺が俺であるために。自分を憎み、祀穂理を愛し、世界が好きな関口亮とし
て。俺は、自分を憎んではいたが……決して嫌ってはいなかった。そんなこと
に今さら気が付く。
自分を愛することができないから……自分を許すことができないから……だ
から憎んだ。
右腕に、力が加わる。自分の結界が、春香の封印にゆっくりと押しつぶされ
ていく。
「祀穂理」
口にしているのは名前。結局最期に呼ぶものは名前しかない。それ以上の言
葉では伝えられない。叫び声では伝えられない。魂からゆっくりとにじみ出す
言葉。
「祀穂理」
護ってやれなかった。冬空から降ってきた。俺の天使。
祀穂理の力。腕の先に貼り付けた結界の相互作用を通して、ゆっくりとこち
らの体力を奪い去っていく。
「祀穂理」
何もしてやれなかった。泣くなよと言ってやれなかった。
何もかもが許されなかった。
なんて悲しいこと。なんて寂しいこと。
「祀穂理」
なにかが頬をゆっくりと伝って落ちるのが判る。熱い。涙?
泣いているのか? 俺は。
春香の、祀穂理の、顔がゆがんで見える。そうか、俺は泣いているのか。
「祀穂理」
呼びかける。心の中で。
祀穂理の声が聞こえる。
「りょーちゃん」
祀穂理の声が聞こえる。
「りょーちゃん」
祀穂理の声が……
「祀穂……理………」
俺はおまえを護ることが出来なかった。護らなきゃいけなかったのに。
世界が暗転する。
祀……穂…………理………………
もう……声も……でな…………………………
***
小学校の図書室。赤い夕陽の差し込む図書室。窓枠に腰掛けている。
目の前に、まだ小さい俺がいる。
これは、過去の記憶?
『大丈夫? 結構、血ぃ出てるよ。保険室に行った方が』
小学三年生の俺の声。ちょっと見下ろすと、自分の右手の人差し指の真ん中
から、血がぷっくりと丸いビーズのように膨らんでいる。写真が落ちている。
俺と琴が写った最後の写真。近場の山の上の展望広場。あの頃は、父親に抱き
上げてもらえなければ市街を見晴らすことは出来なかった。二人でお揃いのリ
ュックを背負って、Vサインなんかしていたりする。余白が、血で汚れている。
確かこれは……琴の血の筈。
『いいってば』
琴の声が答える。自分の口からでる、琴の声。
琴が少し腕を引く。琴の記憶なのか? なぜ?
『でも……ねぇ、ちょっと見せてみてよ』
俺が心配そうに腕をつかんでくる。
『やめってってば、りょーちゃん』
あたしは腕を引っ張り返す。手首をつかんでいるりょーちゃんの身体がその
まま付いて来る。もう、離してってば。そう思って、もう少し強く引っ張った
ところであたしの体のバランスが崩れた。
視界がぐるりと回転する。あたしは何が起こったのか判らずに、悲鳴を上げ
ている。
ザラザラの壁に思いっきりぶつかって、まわるのが止まる。
見上げる。あたしの手首をつかんでいる、りょーちゃんの左腕。
りょーちゃんが、あたしより小さい身体を窓の外まで乗り出して、あたしの
身体を支えてくれている。
りょーちゃん……
あたしはもう一度悲鳴を上げる。りょーちゃんがあたしを支えるために持っ
ている窓が、外れる。
はなしてっ! そう叫びたかった。はなしてくんなかったら、りょーちゃん
まで落ちちゃう。
でも、口からでたのは、意味にならない叫びだけだった。
りょーちゃんは、あたしの手をしっかりと握ってはなさなかった。そのまま、
いっしょに落ちる。
あたしは、目の前にある杉の木さんに向かって壁を思いっきり蹴っていた。
杉の木さんにつかまれれば。
落ちた窓がりょーちゃんに当たる。窓ガラスが割れて窓枠から外れる。
りょーちゃんの手が離れる。
りょーちゃんは、あたしに、一生懸命手を伸ばしてくる。りょーちゃんの左
腕から、真っ赤な血が吹き出してる。
いやぁ! りょーちゃんが死んじゃう。
杉の木さん、お願い。あたしはいいから、りょーちゃんだけでも助けて!
そのお願いが届いたのか、杉の木さんの枝に、りょーちゃんが引っかかる。
あたしは、枝と枝の間。下の方に地面が見えてる。
落っこちる。あたしは目をつぶれないでいる。
指先を、何かがつかもうとしている。りょーちゃんの手。ダメ。杉の木さん
の枝はそんなに強くない。それに、りょーちゃんも、杉の木さんにしっかりつ
かまってないと、また落っこちちゃう。
りょーちゃんは、あたしが守ったげるんだから。
あたしは、りょーちゃんの掌の中から、指を引いた。
『琴! 琴ォ!』
りょーちゃんが叫んでいる。先生が叫んでいるのも聞こえる。
だいじょーぶ。これなら、りょーちゃん、助かるわ。
地面がすぐそばまでやってくるのがわかった。
あたし、りょーちゃんを守ったよ。
ねぇ、りょーちゃん。
りょーちゃん、うんめーって信じる?
あたしは信じてるよ。だからほら、りょーちゃんを守れたもの。
フラッシング。光りの中で何も見えなくなる。
琴は……俺を、守ったのか? 俺を守るために、指をわざと離したのか?
『たぶんね。あたしはこう思うんだ。関口くん、自分を嫌いになることないよ。
関口くんは関口くんなんだから。だからさ……』
確かこれは幸田さんの台詞。
『先輩っ! あたしじゃ力になれませんか? 先輩が困ってるの、見てたくな
いんです。先輩、とっても辛そうだし。お願いですから話してくれませんか?
それとも……あたしじゃ駄目ですか?』
これは、相良さんの台詞。
『涙、拭いたげるわよ』
そして、友絵。
護らなければいけないもの。そして俺は、彼女らに護られてもいたのに。
後悔。なぜもっと、受け入れられなかったのだろう。
『りょーちゃんはあたしがまもったげるから』
琴? 祀穂理?
どっちの声?
『あたしはあたしだよ』
目を開ける。琴? 祀穂理?
どちらか区別がつかない、裸の少女。
瞳の色は……右目は黒く、左目が淡いブルー。
『あたしは琴。そして、祀穂理でもあるの』
どうして……
『おっきくなったよね。りょーちゃん。会いたかったよ……』
琴……
『にげちゃって、ごめんね。あの時は、あれがお父さんだってかんちがいしち
ゃったから……ありがとう』
祀穂理……
『いつもあたしを守ろうって、必死なりょーちゃん。あたしは、そんなりょー
ちゃんが大好きだよ……』
彼女は、ゆっくりと近づいてきて、俺の頭を、そっと胸の中に抱え込む。
静かにまぶたを下ろす。
暖かい……
『だから……守ったげるよ。あたしも、りょーちゃんを』
暗闇。そして。
***
目の前に、祀穂理が立っている。これは、現実。
「なぜ? なんで? 何でこうなるの?」
叫んでいるのは、祀穂理。いや、これは、春香。
回りを包んでいる封印の結界が、ゆっくりと広がっていく。
「おかしいわ、何で結界が……」
「祀穂……理?」
思わず声をかけている。
何かが起こっている。
「関口……亮。貴様、何を……」
封印結界の、真後ろに当たる部分にぽっかりと穴が開くのを感じる。
外の風が入ってくる。
俺は何もしていない。ただ立ちすくんでいるだけだ。
「亮君!」
友絵の声が聞こえる。
「ぐ……」
春香は、なにかに苦しんでいる。
くるりと封印結界が反転する。
祀穂理の身体を包み込むように。
「何が起こっている! あたしは、御堂春香よ。もう一度世界を狙う女よ。そ
れがこんな所で……真理、何とかなさい、まさみ……」
「りょーちゃん」
不意に、声音が変わる。祀穂理の話し方。
「これは、祀穂理が……?」
半ば呆然と訊ねている。
「あたし、ちゃんと起きれたよ」
笑み。自然な、笑み。望んでいた、笑み。
そして、結界の後ろ側が閉じる。祀穂理の声が聞こえなくなる。
結界が、縮む。見る間に縮んで。祀穂理の右目へと収束する。
光る。力が、吸い込まれる。
祀穂理の淡いブルーの右目に。
「祀穂理ちゃん!」
友絵の声。
祀穂理の右目が、視界の全てを占領する。
そして。白光の中に全てが包まれる。
瞬きをする。
目の前に見たことのない裸の女性が立っている。俺と同年代ぐらいの女性。
ここは、公園だ。さっきから、場所は変わっていない。
向こうに南と御堂が二人して倒れている。
ヴィジョンじゃない。
女性が、ゆっくりと瞳を開く。
右目は黒。左目は、淡いブルー。そして。
「りょーちゃん」
少し大人びた声。
「祀穂理……なのか?」
おそるおそる、聞いてみる。
「……うん」
祀穂理……
「本当に、祀穂理なんだよな?」
「そーだよ……」
なら、これは一体……
「りょーちゃんっ」
祀穂理が、しがみついてくる。泥だらけの学らんの胸に、顔をうずめている。
「やっと、やっと、かえってこれたよ。ずっと、ずっと、会いたかったんだか
ら。ほんとうに、ほんとうに……」
「祀穂理……」
そっと、手を肩に回す。ささやく。
「おかえり」
学生服についていた泥が移った顔を上げる。祀穂理が見上げている。色が違
う両目が、少し紅く腫れている。
「ただいま」
口を耳元に付けて、ささやき返してくる。
そして……
「あれ? りょーちゃん、立ってるよね?」
急に大きな声。それで、我に返る。
「ちょっと待てっ! 祀穂理っ、おまえっ、何で裸なんだ?」
ちょっと待ったちょっと待ったちょっと待った!
「え、うそ、やだ、何で?」
こいつも、今まで気がついてなかったのか?
「とにかく、これでも」
着てろ。そう言おうとして学らんを脱ごうとして。
激痛にうずくまる。
忘れていた。左腕、折れてるんだった。
「りょーちゃん!」
「亮君!」
祀穂理と、友絵。
友絵が駆け寄ってくるのが判る。
「いっつーぅ」
顔をしかめて上を向いて笑ってみせる。
泥水に引きずる程まで髪が伸びきった友絵と、祀穂理に向けて。
「ごめんなさい……あたしが軽率だったせいで……」
友絵が力を出そうとする。
それを祀穂理が止める。
「友絵。りょーちゃんはあたしが癒す」
「でも……」
まだ何か言いたそうな友絵に、祀穂理が繰り返す。
「あたしが癒すから」
「……ええ。判ったわ」
友絵が、同意する。
祀穂理が、折れた左腕にそっと右手をかざす。折れた骨が正しい形に繋がり、
組織の損傷が回復していくのがわかる。
友絵が、自分の着ていた泥を被ってしまったGジャンを、祀穂理の肩にそっ
と掛ける。
気持ちよく痛みが引いていく。と、同時に色々と忘れていたことを思い出す。
「友絵、御堂は?」
何はともあれ、今回の元凶。さっきはぶっ倒れていたが。
「逃げられたよ。残念なことにな」
南の声。カジュアルスーツと長髪に付いた泥を不快そうに小さい術で払って
いる。
「祀穂理・Maxwellだな。そのままでいいから話がしたい」
「うん」
味方だってわかっているせいか、いつになく素直。
「まず、君の家族についての話だ。君たちは、いつから日本にいたんだ?」
「あたしが生まれる一年前からって聞いてます。あたしの生まれたのが、一八
七〇年だから、一八六九年って事になるとおもうんですけど」
ということは、祀穂理は今、ざっと百……
そう考えそうになったのを読まれたのか、足をつねられる。
「つっ」
「君の母親は?」
「あたしがものごころつく前にしんじゃったんですけど、人間の……日本人の
退魔師です。名前は、薫。薫・Maxwellといいました」
薫。Wellbredの記憶の中の和服女性。
「失礼だが、ご実家は?」
祀穂理が少し眉をひそめる。
「確か……あ……あ……あま……そう、雨宮でした」
「なるほど……そういうわけか……」
南が一人で納得している。
「雨宮家と言えば、代々有力な退魔師を排出してる京都の名家なのよ」
友絵が横から解説を加えてくれる。
「質問ばかりして悪いですな。これで質問は最後にしましょう。私の知識内に
はない術だと思うのですが、どうやって、大人になったんです?」
それは、俺も聞きたい。
「え?」
祀穂理は、驚いたように南を見て、俺を見て、友絵を見る。
「大人?」
気がついていなかったらしい。友絵のGジャンの前を開けて、よく発育して
しまった自分の胸をじっと見ている。
「あぁーっ。ホントだぁ!」
急に立ち上がる。こら、まだ治りきってない左腕をつかむんじゃない。
「っ」
上着しか着ていない状態で、目の前で立ち上がるんじゃないっ!
あわてて、右手で両目を塞ぐ。
「……あのね」
友絵が呆れているのがわかる。
「要するに、どうやったかは、判らないんですね。いいです。データは残って
ますから、あとで解析しますし」
南も……呆れているんだろうか?
「とにかく、前のボタン、きっちりしろ」
目を塞いだまま、言う。
「あ、うん。りょーちゃん、もう目、開けてもいいよ」
やれやれ。危険なものが見えないことを確認して、目を開ける。
「で、このあとの話だが……」
南が言うのを聞いて、立ち上がる。左腕も、もうあまり痛まない。
「WH入りの話か? 約束だからね……」
祀穂理を無事助け出せたらの約束。
「りょーちゃん、そんな約束したんだ」
祀穂理の方に向かってうなずく。
「で、待遇の話だが……」
南が本題に入ろうとしたとき、祀穂理が急に右腕をつかんでくる。
「りょーちゃん、ちょっと、支えてくんない?」
「え?」
そのまま体重がかかる。
「祀穂理、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
脇に手を入れて支えてやる。
「う、ううん……。ちょっと疲れちゃっただけ」
疲れがどっと来た、という奴か?
「お、おい」
そのまま、抱きしめる形になって、静かに下ろす。
「ほんとうにちょっと疲れちゃっただけだから。しんぱいないって」
一瞬、祀穂理の身体が透けて見える。
「ちょっと待て、今、透けて見えたぞ。ほんとうに大丈夫なのか?」
腕の中にはまだ確かに学らん越しに感触を感じる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
心なしか、瞳の焦点が合わなくなってきているような……
「おいっ!」
祀穂理の頬に唇を押し当てている。唇に、産毛の感触。
大丈夫、まだここにいる。
唇を離して、じっと顔を見つめる。
また、一瞬透ける。どうなってるんだ?
「祀穂理っ!」
強く、抱きしめる。
「だいじょーぶだよ。あたし、いつだってりょーちゃんと一緒にいるから」
祀穂理の姿が透ける頻度がどんどん増していく。
腕の中に感じる重量感が、ゆっくりと薄れていく。
「また消えちまうのか?」
祀穂理の唇が動く。
「大好きだよ、りょーちゃん……」
腕の中の感触がなくなる。学らんごと、消える。
「これ、おかーさんの形見なの。こんどはりょーちゃんがもってて……」
声だけが残って……すり抜ける。さっきまで感じていた祀穂理の感触はもう
どこにも残っていない。
「祀穂理ーっ!」
叫んでいる。そんな莫迦な話があるかよ……
涙が、流れている。
涙をぬぐおうとして、右の掌の中に柔らかい感触に気付く。
一本の細長い布きれ。見覚えのあるリボン。祀穂理の母親の形見。Wellbred
から、薫。薫から、祀穂理へとプレゼントされたリボン。今度は俺にもてって
いうのか?
声が、でない。ただ涙が流れる。景色なんて見えない。
「仕事は終わった。行くぞ、友絵」
南の声が聞こえる。
「え? でも、先生っ」
「祀穂理・Maxwellが消滅したら、彼は一般人だ。組織に入れる必要はない」
南の気配が遠ざかる。
友絵が近づいてくる。
「さようなら。亮君」
小走りに去っていく音が聞こえる。
公園から、人の気配がなくなる。一人になる。
いつの間にか、唇を噛みしめていたらしい。唇の粘膜を、犬歯が噛み破り、
血が滲む。鉄臭い、味。
世界が急に紅く染まる。顔を上げる。
どれだけ泣いていたんだろう。顔中が、乾いた涙の跡でこそばゆい。
涙をワイシャツの袖口でぬぐって、立ち上がる。
西の空の雲に隙間が出来ている。力を失った、冬の夕暮の太陽。その少し上
に、雲のかけらにまぎれてしまいそうな白い三日月。
春はまだ遠く、ここにいるのは自分一人。この季節には珍しい夕焼けが、公
園を、俺を、朱く染める。
また、失ってしまったのか? 護らなくちゃならないものを。
そして、護ってくれるものを。
無意識に、唇の傷跡を舌で舐めている。
舌に、傷を感じない。粘膜のつるりとした感触だけ。
………もう傷が、治っている? あの治癒力が残っているのか?
夕陽の方を見つめる。
もしかして……
右の掌を上向けて、前にかざす。
世界線を見る。世界線が見える。意志の力で短く折り畳んでゆく。
掌の上に、ちっぽけな結界。
結界を通して、夕陽が陽炎のように揺らめく。
「祀穂理……」
祀穂理の力が、まだ残っている……俺を護っている?
「今度はいつ帰って来るんだ?」
夕陽に向かって訊ねている。
俺は、祀穂理のリボンをしっかりと握り締めた。